はてなキーワード: 意識的とは
積極的に加害するんじゃなくて「いやマジで気持ち悪いから話しかけないで」「マジでこっちに来ないで」って拒絶するタイプのいじめ
これはどう考えてもいじめられる方が悪い
単純に社会性がなくて皆から嫌われたってだけの話であってそもそもいじめとして認定するべきですらないと思うんだよね
それなりに場の空気を読むことができてそれなりに相手の気持ちを慮ることができていれば拒絶型のいじめになんて遭わないからね
要は空気の読めないことばかり言ったり人のことを不愉快にさせることばかりしたり、意識的にしろ無意識的にしろ人から嫌われるような振る舞いをしたから人から嫌われたってだけの話なんじゃないの
とにかく人との距離感が異様に近くて、迷惑かけていることにも気づかない
自分の話ばかりしたがって人の話を聞く姿勢がなく、空気も全く読めないクソ男子だった
男子グループから浮き始めたら、今度はクラス内の気弱なとある女子に目をつけてつきまとい行為をし始めた
本人はその女の子から好かれているとのぼせ上がっていたみたいだけど、いよいよその女の子が精神面で体調を崩したので、クラスの女子みんなでいい加減にしろと注意した
その男子は当然のようにクラスで孤立したけど、逆上したのかなんなのかいじめの被害に遭っていると周りに相談し始めてヘイトを稼ぎまくっていた
不思議なのは、割とこういうタイプのいじめであってもいじめられた方が被害者面して根に持っていることが多いってこと
でもその恨みは割とお門違いというか、ぶっちゃけそうやって自分を客観視できないでいるからいじめられたんじゃないのって思っちゃうよ
平たく言えば自業自得
最近、いじめに対する取り締まりが厳しくなってきているけど、「社会性が終わってるタイプの迷惑な人間が周りのヘイトを稼いで孤立した」ってケースについては区別してほしいと思うよ
拒絶型のいじめについてまで加害者側が100%悪いって話になるなら、極端な話いじめられっ子は人に迷惑をかけても暴力を振るってもストーカーをしても免罪されるべきだし周りは介護するかのようにヨシヨシ認めてあげなくちゃいけないってことになるじゃんね
夫と3泊4日で京都旅行に行くことに。
お互い予定をびっしり詰めるタイプではないが、予算の把握と大筋だけはと計画を練ったら
4日間で総額21万円になって驚愕した。
もう少し安く済みそうなものだが、軽いガイドツアーを予定しているのでこの価格に。
しかし1人当たりだと55000円で往復新幹線・ホテル込み、総額なら1人あたり10万5000円で3泊4日。
限界貧乏旅行でもなく、特に意識的に節約せず、かといって贅沢もせずというマインドで旅行するとまあこんなもんだよな。うんうん。と感じるが、
倍になった時の衝撃たるや。
今は外国人がこれでも安い安いと喜んで豪遊してくれる。
日本は本当に貧しくなったなー。
良い面も悪い面も色々あったと思っている。
前者の一つとして、現時点でも解決していないことをあれだけ意識的にストーリー上に盛り込み、明確に「問題」として示したのはあまり朝ドラの例に多くはないのではないか。解決していないために、ストーリー上「この人たちはこうした」程度のふわっとしたところにおさめてしまうことは、まぁ悪い面と言えば悪い面だと思うけど、現実的なところではという印象。
悪い面というか個人的に気になっていたことなのだが、制作側の個人アカウントで本編の補足をやるようになってたことが1番嫌だった。しかもそれを聞くとストーリー上の微妙な唐突さがなくなるという微妙な補足っぷりが嫌だった。
シナリオ集にあるとか演出の都合で削ったとかじゃなくて、あの枠で納めてほしかった。15分〜半年の中で描ける形にしてほしかった。
正直旧Twitterで補足するくらいなら唐突だなと感じたままの方がよかったくらいで、それに気付いてからアカウントを見るのを止めた。
考証担当とかが事件・裁判の解説とか時代背景の補足をしてくれる分には気にならなかったので、当然こちらの印象の問題も大きい。
題材やモデルになった方が悪かったとは思わないし、シナリオ集等が悪いとも思わない。それはそれとして、もう少しなんとかできなかったのだろうかと思う。
覚えたてのことばを使えてうれしいな?今度からチラシの裏に書いてくれよ
それと、老婆心ながらアドバイスをすると「寸鉄人を刺す」という美意識は立派なものだが、借り物の新語を根拠を示さずに見せるだけの行為というのは自閉症スペクトラムの端から社会へのSOSを送っているに等しく、何らかの福祉、ないし、医療機関へ相談をしてみると人生が前に進むぞ
分割の誤謬 (fallacy of division)
「全体が X だから、ある部分も X 」という議論を、分割の誤謬という。
たとえば、「日本人は一般に勤勉だから、日本人 A さんも勤勉なはずだ」とか、「言論の
自由は保証されている。だから人の誹謗中傷も保証されている」とかいった議論は、分割
の誤謬に当たる。
分割の誤謬 (fallacy of division)
A「○○国のGDPは高い。だから○○国民は経済的に豊かだ。」 これは「全体がXだから、ある部分もX」という議論で、分割の誤謬と呼ばれる。合成の誤謬とは逆のパターンの詭弁。Aの発言は「Bさんはカレーライスが大好物だ。だからニンジンやジャガイモや米やカレー粉をそのまま与えても喜んで食べるだろう」と論理構造が等しい。
https://www.weblio.jp/content/%E5%88%86%E5%89%B2%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%AC%AC
君は
①"「仕事論」なんてぶちだすのはみんな45歳かそこらのオッサン〜70歳のクソジジイです。"
②"そして、進歩し続ける資本主義国家としての大前提である「成長」は30年間サボられてます。"
という主張から
③"つまり、45歳以上の人間の「仕事」ってすべて間違っているんです。経済的には。"とか"日本においては「仕事論」はすべて間違ってますよ!w"
という主張を導き出しているね。
けれど、全体の傾向が①②だったとしても、だからといって"45歳以上の人間の「仕事」ってすべて間違っているんです。経済的には。""日本においては「仕事論」はすべて間違ってますよ!w"とはならない。
「仕事論」なんてぶちだすのはみんな45歳かそこらのオッサン〜70歳のクソジジイです。
そして、進歩し続ける資本主義国家としての大前提である「成長」は30年間サボられてます。
つまり、45歳以上の人間の「仕事」ってすべて間違っているんです。経済的には。そんな奴らの「論」なんか聞くなwバカすぎんだろ何が「失われた30年」だwwお前がサボった30年だろうがwwww
ほいで、もうそろそろ社会を動かすことになる30代の奴らは物価と賃金が上昇するものだという認識がない。となると「成長」しない。無い概念に意識的に向かって行くことはできない。もう、酔歩で総当たりで2026年における「成長」をどう成すのか探すしかない。2024年の日本の30代は、実質的な本邦最初の人類といえる。
みんな気を遣って言ってないから言うけども
「仕事論」なんてぶちだすのはみんな45歳かそこらのオッサン〜70歳のクソジジイです。
そして、進歩し続ける資本主義国家としての大前提である「成長」は30年間サボられてます。
つまり、45歳以上の人間の「仕事」ってすべて間違っているんです。経済的には。そんな奴らの「論」なんか聞くなwバカすぎんだろ何が「失われた30年」だwwお前がサボった30年だろうがwwww
ほいで、もうそろそろ社会を動かすことになる30代の奴らは物価と賃金が上昇するものだという認識がない。となると「成長」しない。無い概念に意識的に向かって行くことはできない。もう、酔歩で総当たりで2026年における「成長」をどう成すのか探すしかない。2024年の日本の30代は、実質的な本邦最初の人類といえる。
みんな気を遣って言ってないから言うけども
身長が167センチ(女性)なので、美容体重と言われるものになったと思う。
私は意志が弱く、飽きっぽい。
ついでに大酒飲みで大食いという、デブ牌でできた国士無双みたいな人間なので、10年近く小太りで、ダイエットもあまり続いたことがなかった。
しかし、アラサーにもなって私は出会ってしまった。アイドルだ。
ヨジャ、と界隈では呼ぶが、K-POP女性アイドルたちにハマったのだった。
彼女たちは輝いていた、スラっとした長い足、割れた腹筋、なによりそのファッションが素晴らしかった。
日本の某事務所の影響か、アイドル=揃いの服、という印象があったのだが、彼女らは全く別の色、系統の服を着て舞台に立つことも珍しくない。
彼女ら1人1人のスタイルを際立たせつつ、全体で見ると美しく調和する衣装に目を奪われた。
彼女たちのファンとして、恥ずかしくない格好をしたいと強く思った。
そんなまあよくあるつまらない動機ではあったが、この度一念発起してあらゆるダイエット法を試し、なんとか痩せることに成功したので、その方法をここで共有したいと思う。
前置きが長くなってしまったが、私と同じ、意志弱デブ役満(以下弱デブ)のみなさんにはぜひ読んでほしい。
まず、コレは劇的な結果の出る方法ではない。
弱デブには短期間で劇的に痩せる方法、キツいカロリー制限や無理な運動は向いてない、と自身の生体実験のもと断言できる。
しかし、弱デブは巷で流行る一発逆転みたいなダイエット法に走りがちだ。そんなもので痩せられるぐらいならみんな悩んでない。
弱デブはまず、「継続」と言う単語を刻みつけて欲しい。前腕に刺青で彫り込んでもいい。
前腕に彫り終わったら、ダイエットの大まかなポイントを以下に紹介するので覚えて帰って欲しい。
2.動く
3.一度のドカ食いで諦めない
4.腸内を健康に保つ
この4つだ。以下で詳しく解説していく。
※コミット値とは、含まれるカロリーと脂質に対しての満腹度とここで定義する。
コレが1番大切なポイントなので長く書く。
弱デブの傾向として「あまり味にこだわらないが腹一杯食いたい」と言うものがある。
この性質を逆手に取り、コミット値の低い飲食物を一切排除するのだ。
つまり、腹の膨れないカロリーを取るのをやめる、ということである。
清涼飲料水が、フラペチーノが、甘いカフェラテが腹に溜まったことがだろうか?
腹に溜まる奴は元から痩せている奴だ。
食事も歯応えのあるもの、玄米や五穀米、野菜などにさりげなく置き換えて、腹一杯になりつつ全体の摂取カロリーを抑えるとなおいい。
年齢と生活スタイルにもよるが、大体女性で1日1,500〜600カロリーぐらい、男性なら2,000〜2,100カロリーぐらいだろうか。
同時にコミット値の低い食べ物と、意外にコミット値の高い食べ物を認識する作業も重要だ。
魚も種類によっては脂質が多く、意外にコミット値が低い。例えば鯖だ。
また、某スープ専門店の米もオリーブ油を混ぜてるのでかなりカロリーが高い。
デブは大盛りしか食べないので大盛り基準で話すと、レギュラーのあのゴマの米と玄米とでは150カロリー以上差が出るはずだ。
逆に、ゴマドレッシングを諦め、青紫蘇ドレッシングを虚無で食べているタイプデブに朗報だが、ほぼ普通のものと変わらない濃厚さのノンオイルが最近は出ている。
逆に高カロリーだと思い込んで諦めていた食べ物も、一度代替品がないか調べてみよう。
まあこんな綺麗事を述べても弱デブは調べる手間もかけたくないと思うので、さらに楽をしたい場合は大◯屋の定食を食べて欲しい。
全て定食ごとのカロリーがサイトに書いてあるし、五穀米に変更もできて食べ応えがある。
魚の定食にすれば、五穀米を大盛りにしても700カロリー前後に抑える事ができる。
2.動く
とにかく動いてほしい。
いきなり10キロ走れと言うのではない、3キロ程度のジョギングから初めてほしい。
コレも継続が重要だ。一発逆転で痩せようと、激しい運動をした挙げ句、筋肉痛になってすぐ辞めてしまったり、そのあとドカ食いしていたのでは意味がない。
また、ダイエットに有効としてよく筋トレが挙げられるが、いきなりジムでウェイトにタックルするのも同じ理由でオススメできない。
みんな弱デブなのですぐ寝転がる習慣があると思う。(コレを書いている私も寝転んでいる)
横向きに寝転んで、片足を90度近くまで上げて開くいわゆる足パカ運動をやってほしい。
習慣になれば、ベットに寝転んでスマホをいじっている時自然にできるようになる。
そのほか寝転んだまま、スマホをいじったままできる筋トレは結構あるので、コレを意識的に寝転びに取り入れて欲しい。
こうした小さな運動習慣が身につくと、自然に姿勢が良くなって疲れにくくなるし、日常での消費カロリーも上がる。
なんとなく疲れやすい、みたいなのが解消するだけでかなりダイエットが楽になるので、1の食生活改善とともに継続的に行って欲しい。
3.一度のドカ食いで諦めない
先ほども述べたが、私は大酒飲みだ。
大体週に1〜2回、飲み会に参加してワインなら1〜2本、ハイボールなら15杯以上飲んでいると思う。
コレはダイエット中もほぼ変えていない。
継続するためには必ず息抜きが必要だし、飲み会や旅行で思いっきり楽しむことも必ずしてほしい。
無理に友達の誘いを断ったり、飲み会の時に往生際悪くヘルシーなものだけを食べるのはおすすめできない。
美味しかった、お腹いっぱいになった、と心底満足して、また美味しいもの食べるために1人の時はコミット値高めなもの食べとくか、という気持ちになれる方がずっといい。
もちろん、毎日コレをしていたら太る一方なので、メリハリが重要なことをお忘れなく。週1〜2回にとどめよう。
4.腸内を健やかに保つ
腸活、という言葉が結構前から流行っているが、私はダイエット中全然取り込んでいなかった。
ホットヨガにピラティス、腸活、アサイーなど、私は「しゃらくせえな」と思ってなんとなく嫌厭してしまう節があった。
しかし、なんとなく買ったヨーグルトを継続的に食べていたところ、ドカ食い後の体重増加がかなり緩やかになったのを実感した。
これはどちらかというと痩せる時よりも、痩せた後体重を維持するときに取り入れてほしい。
この時とても重要なのは、「何の菌が自分にあっているか確かめる」ことである。
闇雲にどんなヨーグルトでも良いのではない。
パッケージをよく読むと、アルファベットと数字の羅列が書いてあり、なんの乳酸菌の株を使っているか書いてある。
それをよく確かめて、実際に様々な種類を試して欲しい。
なお、乳酸菌は腸内に長くとどまれるものではないらしいので、毎日継続して取ることが重要である。
大体2〜3日で便通の改善など、具体的な効果を感じるはずなので、2〜3日ごとに種類を変えつつ、毎日食べて一番効果のあったものを継続して買い続けて欲しい。
ちなみに私は小岩◯とか今流行りの湯◯ヨーグルトとかで使われている菌があっていた。
以上、長くなってしまったが、これがあらゆるダイエット、キツい糖質制限、プロテインドカ飲み、脂質制限などを経てたどり着いた、最良の方法であると思う。
30代になるくらいまでずっとどこか浮いてる感じで生きてきた。
中学時代は基本的に仲の良い友達と呼べるのは一人しかいなかった。誰かと一緒にいるより一人の時のほうが楽しかった。
別にスポーツもできないし大人しかったのでイジメられても全然おかしくなかったと思うが不思議と標的にはされなかった。
中三くらいになると一人でずっと机につっぷして寝てる感じで過ごしてた。
高校時代になるといよいよ学校そのものになんの意味も感じなくなって授業中含めて寝てる事が多かった。
周りからはなんかよくわからんやつという感じで、仲良くもならないしイジられたりもしなかった。
どこか不気味な感じがあったのかもしれない。とにかく俺は一人ぼっちなのにめちゃくちゃ堂々としていた。
大学ではなんとなく仲間みたいなのができた。
別に自分が好きな人たちと仲良くなっていったとかじゃなくて、たまたまグループの中になんとなく属してたくらいの。
大学でも基本的に一人で好きに行動してた。ちなみに中高大と彼女はなぜかできてた。でも彼女についてもそこまで執着してなかった。
卒業した後はしばらくはフリーターでバイト先の人らと遊んだりしてた。
虚無ってわけではなくてやりたいことっていうのは常にあって、一人で色んな事して充実していた。
具体的には車を買ってあちこちドライブ行くとか、見たい映画が山ほどあったり、音楽作るのにハマったのもそのころだ。
音楽に関してはバンドをやりたくなったのでそこは仲間が必要になったんだが、別に誰でもよくて楽器できる人がいたら声かけて一緒に遊んだりしてた。
そんな青春時代で、俺は人からなぜか羨ましがられることが多かった。
「なんか自分を持ってる」「他人に振り回されない」「どこか謎めいてて気になる(女性から)」そんな感じのことを言われる事が多かった。
周りもみんな若いからまだまだ表面的なとこで人を見てしまうのだ。
実際の中身としては特になんにも考えてないだけだったし、人から嫌われるのもイヤだったし傷つくことも普通にたくさんあった。
だけど人の気持ちが分からないから結果的に自分のしたいようにしてしまってるだけだった。
付き合った彼女なんかは別れる時には「なに考えてるかわからない」「もっと心を開いてほしかった」とか言われる事も何回もあった。
他人を気にしない俺は優しく見えていたんだと思う。だけど付き合ってくうちに優しいっていうか私のことどうでもいい?って気づいたんだろう。
まあこっちとしてはちゃんと好きなつもりではいたんだけど、好きは好きだが心を開くってどうすればいいの・・って感じだったので泣かれて終わる事が多かった。
今振り返れば「自分の居場所」なんて概念自体まったく存在してなかった。
世界は常に自分とはあまり関係がないように思えて、精神的に居心地の良い場所なんて考えたことすらなかった。
そんな感じなので社会に出て当たり前に苦労した。
しばらくはメッキが剥がれてないので「こいつ不器用だな」って感じでけっこう可愛がられたとは思う。しかし自分自身が徐々にほころびを感じ始める。
「なんか俺やっぱなじめてないな」ようやくここで他者とのズレを認識しはじめる。会社組織というのはやはりそういう人間を浮き彫りにしてしまう。
それからの俺は他人を意識するようになった。その結果まったく魅力がなくなった。
今までの俺は中身がバカであれ、他人のことなどほとんど気にしてなかった。だからズバズバ鋭い意見も平気で言えたし、「自分の生き方」を持ってる人みたいな見られ方もしていたのだ。
しかし周りを気にするようになった途端、単なるポンコツと化していく。慣れないことなんかしないほうがいいのに、変に周りを意識しすぎてあらゆることがうまくいかなくなっていった。
その頃になると俺は「心地よい居場所が欲しい」と思うようになっていた。
仕事で自分が求められてると感じたい、人に愛されてると感じたい、そんな承認欲求がふつふつと湧いてきたのだ。
それから何年もの間周りに評価されよう、愛されようと努力していたがうまくいかなかった。こんなに求めてるのに認めてもらえない事で心は荒んでいった。
その頃学生時代の仲間と久しぶりに会うことがあった。
「増田君、来ないかもなって言ってたんだよ」「いっつもフラっといなくなってたし」
ついでに当時付き合ってた元カノとも会えた。
「そんなに自分の事話す人だっけ?」とおかしそうに笑っていた。
確かに自分の事なんてほとんど他人に話さなかったなと思い出す。
俺は今仕事でもプライベートでも、かつての自分を取り戻すべく意識的に心を閉ざすようにしている。
色んな人に言われて他人に心の扉を開くような努力もしてきたが、今はまったくそんな必要はないなと思っている。
仕事で成功するには仕事の出来だけじゃなく、それを正しく周りにアピールできる事が重要だと俺は思ってる。
「言い負かしてわからせてやろう」という気持ちが全くないので、炎上にもネットの議論にも加担出来ない。
ネットの痛い奴を「触らずに鑑賞して愛でる」という遊び方はもう失われたのかなあ。
「これはいい木に育ちそうだな」という若い芽を見つけても、みんなで寄って集って踏み荒らす(=炎上する)ので萎縮してそれ以上のやらかしが観測出来ずに歯痒いことが多い。
みんな早めに摘んであげて優しいなと思うけど、個人的にはどでかい大木になるまであたたかく見守りたい気持ちがある。
叩かれても意に介さず取り巻きを増やして増長するタイプの図太い奴もいるけど、見ててあんまり面白くないんだよな。侘び寂びが無いっていうのかな。
増長することに意識的になっちゃってるというか。パフォーマンスっぽい痛さというかさ。いちばん味が薄くて、個体として覚えられないことが多い。
ごちゃごちゃと書いてきましたがまとめると、魅力的な男性になるためのポイントは以下の通りです。
01 清潔感のある身だしなみを心がける
02 適度な筋肉質の体型を目指す
07 冷静で頼りがいのある行動を心がける
08 コミュニケーション能力を高める
09 自分に自信を持つ
酔っ払ったので色々吐き出そうと思う!
10年近く勤めた某SIerを辞めて、1年くらい一応無事に過ごしている。
自分の収入が安定していればいるほど、充実した仕事を持っていればいるほど、結婚したいという邪念がなければないほど、男性を見る目はいい言い方を すれば純粋なものになり、相手が結婚に不向きであっても気にせず恋に落ちて しまうことがある。
それは低収入であったり、社会的地位が安定しなかったり する男性を選ぶことがあると同時に、既婚者を選んでしまうこともあるということだ。意識的にではなく、無意識的に。そもそも結婚してくれるかどうかに 重きを置いて男性を眼差す癖がなければ、相手の薬指などよく見ていないもの だ。ここに、富裕不倫の特性がある。
ヒモ系男と既婚男が枠を競い合ってるわけね。
リベラル派と構造主義を慎重に区別し、自由意志の捉え方を整理することが必要です。
まず、リベラル派(進歩主義、社会的自由を重んじる立場)と構造主義(社会構造が人間の行動や思考に影響を与えるという理論)は、異なる哲学的背景を持っています。リベラル派は基本的に社会正義や個人の自由、平等を推進しますが、構造主義は社会や文化の背後にある深層構造が個人の意識や行動を形作ることに注目します。この二つは完全に相反するものではなく、リベラル派が構造的要因を考慮しつつも個人の自由や選択を重要視することは矛盾しません。
### 2. **構造主義は必ずしも自由意志を否定しない**
構造主義は人間の行動や思考が、無意識のうちに社会的・文化的構造に規定されていると考えますが、それが自由意志を完全に否定するものではありません。構造の影響を認めた上で、リベラル派はその構造を認識し、改善や変革を試みることによって、個人がより自由な選択をできるようにすることを目指しています。つまり、構造に制約されている部分を解放し、自由意志を実現することがリベラルの目標でもあります。
リベラル派は、社会的な不平等や抑圧を批判する中で、個人の自由意志を尊重し、その自由が公平な環境で行使されるべきだと主張します。構造主義的な視点から社会構造を分析し、そこに潜む権力関係や差別の構造を変革しようとすることが、自由意志を促進する手段と見なされます。自由意志が完全に構造から独立しているとはリベラル派も考えていませんが、構造を意識的に変えることで、個人の選択の幅を広げることを重視しています。
### 4. **自由意志は実現のための社会的条件を含む**
リベラル派が自由意志を認めるのは、ただ単に「個人が好きなことをする権利」を言うのではなく、それが実際に機能するための社会的・経済的条件を整えるという意味でもあります。たとえば、貧困や差別が存在する社会では、自由意志が制限されます。リベラル派は、これらの構造的な不平等を解消することで、すべての人がより実質的な自由を享受できると考えています。
### 結論
リベラル派が構造主義的な社会分析を採用しつつも自由意志を尊重するのは、構造を変革し、個人がより多くの選択肢を持てる社会を作ることを目的としているためであり、必ずしも矛盾ではありません。構造を認識し、そこに働きかけることで、自由意志の範囲を広げるという考え方に立っているのです。
現代社会において、私たちが直面する最大の憂いの一つは、日々の情報が馬鹿げた話題で溢れかえっているという現実である。このような状況は、私たちの精神を蝕み、深遠な思索を妨げるものとして、静かに、しかし確実に私たちの生活に影響を及ぼしている。
情報技術の発展により、私たちは膨大な情報にアクセスできるようになった。しかし、その多くは浅薄で一過性の話題に過ぎない。メディアは視聴率やクリック数を追求するあまり、センセーショナルで軽薄な内容を優先し、本質的な問題から目を逸らさせる。このような情報の洪水は、私たちの注意力を散漫にし、深い思考を阻害する。
このような環境下で育つと、知識や教養を追求する意欲が薄れ、知性が衰退していく危険性がある。私たちは、物事の表面的な部分だけを捉え、深く考えることを避けるようになってしまう。哲学や文学、科学といった深遠な分野に対する関心が薄れ、代わりに短絡的で即時的な満足感を求めるようになる。
この知性の衰退は、社会全体にも深刻な影響を及ぼす。複雑な問題に対する議論が浅くなり、短絡的な解決策が優先されるようになる。民主主義の根幹である熟慮と対話が失われ、極端な意見が台頭する危険性が高まる。
しかし、このような状況に対して私たちが無力であるわけではない。知性を尊び、深い思索を重んじることは、個人の選択に委ねられている。私たちは、意識的に質の高い情報を選び取り、深く考える習慣を身につけることができる。読書や対話を通じて、知識を広げ、視野を深めることが可能である。
馬鹿の話題ばかりが溢れるこの時代において、私たちが失ってはならないのは、知性と深遠な思索への渇望である。それは、私たち自身の内なる豊かさを育むだけでなく、社会全体の健全な発展にも寄与するものだ。私たちは、浅薄な情報の波に流されることなく、自らの知性を磨き続けることで、より良い未来を築くことができるのである。
俺も似たようなトコあるかも
必要以上に感情移入するというか、いろいろ自分と重ね合わせたりして鬱々とした気分になったり
知識を獲得することは傲慢さに比例する。この関係性は、人間の心理と社会的な側面から説明することができる。
知識を蓄えれば蓄えるほど、人は自分が他者よりも優れているという感覚を強めていく。これは直接的に傲慢さの増加につながる。
多くの社会において、知識は力と同義である。知識が増えるにつれて社会的地位が向上し、それに伴って傲慢さも増していく。
皮肉なことに、知識が増えるほど、自分の考えが絶対的に正しいという思い込みが強くなる。これにより、他者の意見を軽視したり、新しい考えを受け入れにくくなったりする。
知識が豊富になればなるほど、知識の少ない人々に対する寛容さが失われていく。これは傲慢さの一形態と言える。
知識の蓄積は自信につながるが、それが自己過信となり、傲慢な態度として表れる。
3年前にあすけんの女に食ってるもの伝えたら「毎日1000キロカロリー多く食ってますね。点数は10点です」と言われて「は?なんやコイツ?」と思ってたんだが、言われるままに食う量減らしても別に問題なかったからまあその通りだったっちゅーこっちゃな。
俺の中に漠然と「男は毎食ハンバーグ定食で丁度いいぐらいだし、運動してる人はそこからおやつにラーメン大盛り加えると丁度いい」みたいな感覚があって、それが「食いすぎ」を測る物差しになってた。
少なくとも学生時代はそれで問題なかったんだけど、30ぐらいからブクブク身体がデカくなっていって、健康診断でも呼びつけられるようになったんよね。
それで医者に「お前、食いすぎ。痩せろ」って言われてさ、じゃあフットサルやジム後のラーメンはプロテインバーにでもしとくかぐらいに考えてたの。
だってメシってはお腹を一杯にするためのものなんだって育て方されてたし、適切な摂取カロリーは俺の体が一番良く知ってるとオヤジや友人も言ってたから。
痩せやすい人、太りやすい人、ギャル曽根みたいな異次元の生き物、そういう個体差を考えたら自分の満腹中枢が一番信用できると。
俺は生物学とかよくしらんけど、生存競争的な奴の中で「中年以降の連中は生殖活動をするための身体から、産まれてきた子供を守るために肉盾になるための身体に変化した方が種として生き残りやすい」みたいなのがあったんだと思う。
遺伝子から「コイツもうジジイだから少ない食料でも生きていけるような身体にしようぜ。だってもう精子も腐ってるじゃん?新陳代謝下げてけ」と命じられるままに俺の体は食っても太らないスポーツ青年からデブの天才へと組み替えられていった。
それは俺だけの話じゃなくて、皆そうなんだよな。
体重あたりの基礎代謝係数みたいなのをググったら、成長期と中年で倍ぐらい違うんだわ。
子供が小さい体にバクバク詰め込んでどんどん筋肉つける横で、ジジイは筋肉作るのもサボってひたすら脂肪を溜め込んでいくように人類は最初から作られている。
それを科学はとっくに明らかにしてくれてたけど、俺は仕様通りにバグっていく自分の腹具合を信じ続けてみるみるうちに太鼓腹のデブオヤジだ。
1000キロカロリー減らすっていうのはハンバーグ定食1個分減らすってことだよ。
途方もなく聞こえる。
ご飯にして2合だ。
無理だろと思った。
でも調べていくと、なんか俺食いすぎてるなって漠然と分かってきた。
たとえば朝ご飯にしょっぱいパンと甘いパンを両方食ってたのを片方だけにするとか、半分は残しておいて明日食べるとか、そういうのを積み重ねていくと、確かに1000キロ減らせたんだよ。
なんでそんなに減らせたのかっていうと、最初からそんなに食う必要がなかったからとしか言えんね。
「大盛り無料なら大盛りにしないと損」
「特盛でも料金変わらないなら絶対特盛」
「箸を置くのは限界が来た時」
相撲部屋の台所にでも貼ってありそうなデブによるデブのためのデブの誓いを俺はずっと守っていた。
子供の頃に親から食いっぷりを褒められたときにでも産まれた「とにかく食わなければいけない」という謎の強迫観念、それに男社会の馬鹿な生き様を煽るスローガン、呪われていたと言ってもいい。
でも同時に「これだけしか食わなくてもいいんだ」という福音でもある。
「腹一杯まで食わなきゃいけない」っていう謎の焦りが俺の食生活にずっとつきまとっていた。
満腹になる前に食うことをやめたり、カロリーを気にして選択肢を変えたりするのは、ストレスで自分の体を破壊する自傷行為とさえ感じていた。
でも、逆だったんだわ。
俺は男社会で生きるうちにいつからか「腹いっぱい食うことは絶対に正しい」っていうハライッパイ教に入信させられていた。
俺の中にある無数のクソデブスローガンも、カルト教団ハライッパイ教によって刷り込まれたものだったんだろう。
俺は洗脳されていたんだよ。
でも、目の前に具体的な数字として「貴方の摂取カロリーはオーバーしてます。毎日1000キロオーバーしてます」と毎日見せられることで、正気に戻れた。
デブは食いすぎてるだけ、俺はこれをカルト教団デブハシネ教が唱える教義であり、奴らはKKKの如き凶暴さでデブを社会から排除したくてしょうがない異常者なんだと思っていた。
違うんだよ。
俺達デブが、狂っていただけなんだ。
世の中のデブが全員そうなのかは分からないけど、「食いすぎてるから少しは減らしたら?」と言われてキョトンとしたり怒り出すようなデブはさ、狂ってるんだよ。
俺は狂っていたんだ。
大抵のデブは、食いすぎてるだけだ。
食いすぎてるからデブなんだし、食いすぎるってのは別にそんなに幸せなことじゃなくて、ハライッパイにならなきゃ駄目だっていう強迫観念に突き動かされた不幸な生き方なんだ。
イカレた中年の満腹中枢を満たす目的で飯を食うなんてのは、スタミナを消化するために退屈しながらスマホゲームを遊ぶように無意味なんだ。
腹にスペースがあったら埋めなきゃいけないなんて考える必要はない。
必要なカロリーは科学的に把握していればいいことであって、ぶっ壊れた身体感覚なんぞを信じても地獄に落ちるだけだ。
デブという無限地獄、食えば食うほどに胃が膨らみ、消化機能を破壊しながら必死に満腹を求めていく自傷行為。
そんなのは辞めろ。
水を飲むんだよ。
「質問よろしいですか」と短文だけよこす輩がいる。
では「だめです」といったらおとなしく引き下がるのだろうか。
私にはどうしても、それが断られる可能性など毫も念頭においているように思えないのである。
その言葉は形骸的なものであり、挨拶であり、意味を持たないことになる。
相手の時間を拘束する口頭のコミュニケーションならいざ知らず、
任意のタイミングで任意に読み進めることができる文面のコミュニケーションで、
わざわざこのような手続きを踏む必要性が私にはいまいち感じられないのであった。
その短文をよこすなら、さっさと質問を投げてくればよくて、
わざわざ「よろしいですか」と聞いたところで、余計に手間がかかるだけではないか。
あるいは、これは一種のフット・イン・ザ・ドア手法なのかもしれないとさえ思う。
つまり、一度「どういった質問でしょうか」と応じてしまったが最後、
どんな内容であれ応える義務が生じたかのような錯覚をもたらすのである。
どれほど答えがたいセンシティブな内容でも、労力に見合わない内容でも、相手するだけ無駄な内容でも、である。
『影響力の武器』において、それは一貫性の原理と紹介されていたと記憶している。
この本を読んで以来、そういう物の見方をしてしまうようになった。
意識的にせよ無意識的にせよ、いかに世人が他人を操作しようとしているかが伺い知れてしまうのであった。
さらにもう一つ気になるのが、なぜそれを公の場で聞かず私的なDMで質問をよこすのか。
それが公益に帰する内容であるならば、天下万民に質疑応答の模様を公開し、その知識をひろく活用できるようにすべきではないのか。
星野智幸氏の『言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル』(ttps://digital.asahi.com/articles/ASS8V026WS8VUPQJ006M.html)が話題である。その主張の要点は、以下の通りである。
最初これを読んで思ったことは「何を今さら」である。欧米における近年のリベラル派の度を越した正義依存問題は、ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(Social justice warrior)やバラモン左翼といった批判や自省の中で、多かれ少なかれ言及されてきことである。それにも関わらず星野氏が、さも苦悩の末に新しい認識に至ったかのような筆致でリベラル派の正義依存を問題提起していることに、正直驚いた。
しかしさらに驚いたのは、リベラル派からの反応である。星野氏が何を問題視しているのか、全く分かっていないようなのだ。
ttps://x.com/kentarotakahash/status/1828424826039738677
ちなみに、貴方の言う「カルト的に「正義」に依存し個を捨てる」というのは、実際にはどういう行為を指しているんですか? まあ、個人の判断よりカルトの熱狂に飲み込まれるなんてことはよくありますが、それが「正義」と何の関係が?
ttps://x.com/hiranok/status/1828581602613666289
僕は星野さんは友人だと思っていますが、敢えて書きます。星野さん自身の言動はその通りだったとして、だからと言って、「リベラルな思想は疑う余地のない正しさを備えていて、そのような考え方をする自分には否定されない尊厳がある、とリベラル層は思いたいのだ」云々の雑な話をどうして出来るんですか? それがリベラルの大多数ですか? 自分だけは、例外的で思慮深い真のリベラルであるかのように話されていますが、内容は、昨今のリベラル批判の大波にスッポリ呑み込まれて、その尻馬に乗っているだけじゃないですか。リベラルの弱体化が歴史的にも危機的なこの時に。自分の政治的発言が「消費」されていると感じるなら、「消費」されない言葉を工夫すればいいじゃないですか。瀬戸内さんだって林京子さんだって大江さんだって、みんなやってきたことでしょう。自分は、小説があるから、もう政治的発言は止めた、でいいでしょうけど、他の人たちはどうなるんですか? しっかりしてください。
このリベラル派の反応を見て、「何を今さら」という認識を改めた。星野氏がリベラル界隈の空気にどっぷり浸かっている中で、リベラル派の正義依存問題を認識するに至るのは大変な知的苦痛を伴うことであり、それは意義深いことではないか、と。
星野氏の論考には具体例がほとんどないので、リベラル派は問題提起の要点を理解できないのかもしれない。そこで、あくまで自分の理解に基づくものであり星野氏の真意と完全には一致しない可能性はあるが、「リベラル派の正義依存」問題の具体例を補完してみたい。
ネット上の反応をざっと見ると、高橋、平野両氏の先の引用のように、リベラル派の批判は次の二点に集約されるように思われる。
2. 仮に正義依存問題の具体例があるとしてもそれはリベラル派の特定の個人又は集団の問題であり、広くリベラル派一般の問題としていいのか
リベラル派の正義依存問題の最も分かりやすい具体例は、草津町長性犯罪虚偽告発事件(ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B2%A9%E4%BF%A1%E5%BF%A0)において町長を糾弾したフェミニスト達であろう。この事件は、新井祥子町議(当時)が黒岩信忠町長から性犯罪を受けた、という虚偽の告発をした件である。以下、吉峯耕平氏のTogetterまとめを引用しつつ説明する。
ttps://togetter.com/li/1973629
新井氏は2015/1/8に町長室のソファーに座っている時に、黒岩氏に机との間に押し倒された、と証言した。しかし、実際の町長室を見ると机とソファーの間が狭すぎて押し倒すスペースが無い。これに対して新井氏は「当時は机とソファーの配置が全く違った。新井議員が記者会見をやった後、町長が証拠隠滅のために模様替えをやった」と反論したが、実際には模様替えは行われておらず、この反論も虚偽であった。
ttps://togetter.com/li/1973629?page=2
それにも関わらず、例えばフェミニストの北原みのり氏は新井氏の証言を信用した。当初は北原氏も信憑性を疑っていたようだが、三井マリ子氏の「現代の魔女狩りだ」という発言に感化されたようである。最終的に北原氏が証言を信用した理由は、被害者は沈黙せざるを得ず「ミソジニー社会」では女性の言葉は軽視されるという一般論と、新井氏が知的だったという印象論、この二つのみである。
ttps://togetter.com/li/2278947
北原氏の変遷はまさに、「『正義』に依存するために個人であることを捨てて」証言の信憑性を精査しなかった具体例であろう。
北原氏は「町長が性犯罪を実行した」と事実摘示してはいない点に留意する必要はあるが、恣意的な切り取りと印象操作をしている。例えば、2020年12月1日の町議会において、湯本議員は①模様替えが虚言であること、②新井が現場の録音の一部を公開したことを指摘し、新井氏の告発の信憑性が低いことを説明している。
ttps://x.com/kyoshimine/status/1737202101842059771
しかし、新井氏はこのことに触れず、以下のように印象操作を行った。
ttps://x.com/kyoshimine/status/1737210416521220255
ttps://dot.asahi.com/articles/-/13943?page=2
その様子はこのコラムでも記したが、傍聴席には高齢男性たちが並び、新井氏にむかって「うそつき」「(あんな女とは)犬でもしない」など激しい言葉で罵っていた。それは議会というより、新井氏が裁かれる現場のようだった。
その後、新井氏は名誉毀損と虚偽告訴の罪で在宅起訴されたが、この期に及んでも北原氏は次のように言う。
ttps://togetter.com/li/2278947?page=4
ttps://dot.asahi.com/articles/-/13943?page=3
SNSでは、支援者やこの件についての記事を書いた者への謝罪を求めるような声もあがっているが、支援者たちに謝罪を求めるのは間違いだ。支援者は被害者を選ばない。少なくとも私は、フラワーデモを通して、被害者は選ばないと決めた。
「リベラルな思想は疑う余地のない正しさを備えていて、そのような考え方をする自分には否定されない尊厳がある」という星野氏の指摘は、一連の言動をする北原氏の動機を上手く説明しているように思われる。
吉峯耕平氏のTogetterまとめを読むと、北原氏の他にも多くのリベラル派が上記の虚偽告発事件に際して正義依存問題というべき糾弾をしている(ttps://togetter.com/li/2283797)。しかし平野啓一郎氏が疑問視するように、正義依存問題はリベラルの大多数に当てはまるものなのだろうか。確かに上記糾弾に参加していないリベラル派も多い。
自分の理解ではやはり、正義依存問題はリベラル派一般に当てはまる事象だと思う。その根拠は、リベラル派の中で上記の町長糾弾者を批判した人が皆無に近いからである。
日本にリベラル派は何人存在するだろうか。立憲民主党の支持率が5%、有権者総数が1億人程度いるので、500万人が立憲民主党の支持者であり、少なく見積もってもその1割の50万人は意識的なリベラル派であろう。少なく見積もってもリベラル派は50万人もいるのに、件の草津糾弾問題を批判した人は何人いるのか。この内のさらに1割の5万人が糾弾に参加した人を批判していれば大きな話題になっているはずだが、実際にはそうはなっていない。
「『正義』に依存するために個人であることを捨てている」、要するにリベラル派は党派的な動機で、糾弾に加担した同じリベラル派への批判を避けたのではないか、このように疑われる状況なのである。
それでもなお正義依存問題はリベラル派一般には当てはまらないと反論したいのであれば、件の糾弾者達を批判したリベラル派を5万人挙げろとは言わないが、まずは5人程度は挙げる所から始めるべきだろう。