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はてなキーワード: 学説とは

2023-01-04

anond:20221231175412

リフレ派は敗北しました。

リフレ派と反リフレ派の相違:

(1) 日本経済デフレ関係

(2) 物価を決定する要因

https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=4042

リフレ派は、物価が下がると思えば、家計企業支出を先送りすることを強調して、デフレ不況の原因だと主張していたが、物価が上がり始めインフレ懸念顕在化した今も、支出が大きく盛り上がる様子はみられていないことから不況は原因ではなく結果であることがわかる。

またリフレ派の見解が正しいとすれば、大胆な金融緩和によってインフレ期待が高まれば (財政出動がなくても) デフレから脱却できたはずだが、周知のようにバラ色のシナリオが実現することはなかった。

 ↓

12/26 の黒田総裁の会見より:

日本銀行は、賃金の上昇を伴う形での「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現を目指しています

https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2022/ko221226a.htm

ということで、もはやクロトンもリフレ派の学説とは異なるスタンスを取っていることを表明している。

2022-12-19

言語学会では日韓祖語とか話題になってる中で嫌韓とか無いわw

ちなみに朝鮮語起源日本語であるという意味でなく、逆に日本語起源朝鮮語という意味でもない。
日本語朝鮮語は同祖の可能性があるという学説

更に言えば同じ民族だったということも意味しないので、未だに嫌韓こじらせていたり、日本叩きを続けてる連中は巣に帰って良いぞ。
そんなことで好悪感情を昂ぶらせても俺たちの祖先みんなアフリカ出身なので学問邪魔になる党派性は巣に持って帰ってくれ。

これで何がわかるかと言えば、古代朝鮮人古代倭人はかなり密接に交流していたってのがわかる。
まぁ言語学から見ると過去朝鮮半島多民族地域だったので古代朝鮮人と呼んで良いのか悩みはするが、ここはわかりやす古代朝鮮人として定義する。

お前らがいくら韓国へ好悪感情持ってても過去時代から影響されあっていた間柄なんだよ。
言語学日韓祖語を証明したとき、それをその瞬間の事実として受け入れ、より良い未来選択し、過去時代研究が進んだほうが世の中がほんの少しだけ楽しくなるはずだ。

少なくとも日本列島にある朝鮮人遺跡や、朝鮮半島倭人遺跡の発掘はスムーズに進むようになるとは思うぞ。

2022-12-17

また飛び交う「著作権違反」という謎の用語

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gigazine.net/news/20221216-copy-right-disney-nintendo-ai-image/

条文、定義趣旨学説、実務、判例っていう、議論大前提となる理解を全くしてないんだろうね。

一部は知的財産法以前の問題になる。

言葉定義意味理解しない上で勝手解釈論に飛んでるから、前提条件が違う上での議論になってて(議論になってないけど)、もうデタラメだらけ。

まあ大衆なんてこんなもんなんだろうけど、こういうのがネットで増幅されて、誤っている方が正しいと思い込まれるということはネットの明確な悪だ。

2022-12-12

騒いでいる人のどれだけが個人情報保護法の法文、趣旨学説、実務、判例を知っているんだろう

法律って、日本語が読めると雰囲気で分かった気になれちゃうから素人がイキっちゃうんだよね。

建前上は誰でも分かるふうに作っているということになっている(ならないといけない)けれど、専門的な知見が無いと「読めない」んだよね。

大学以上の自然科学になると多くの一般人理解すらできないから黙るんだけど。

もっとも、それはそれでエセ科学デマ蹂躙するということでもあるので難しい話だけど。

2022-12-02

観相学ってのを初めて知ったのだけれど

数年前に起きた「大雪りばぁねっと。」事件岡田という元代表をふと思い出した。当時岩手(内陸だが)に住んでいたので、あの悪人面がテレビ報道される度に「悪そうな奴だなあ…」と思っていた。知らない人は大雪りばぁねっとを調べてみてほしい。相当な悪人面だから

そんな事件をふと思いだし、「人は見た目によるのか?」という疑問を抱いて調べた。あった。観相学、あるいは人相学というらしい。

『顔だちや表情から、その人の性格気質、また才能を判定しようとする学問。』(コトバンクより)

一応、観相学自体は古くからヨーロッパ中国でも存在はしていたのだが、「こういう顔の人はこういう傾向だよね」というぼんやりとした情報集合体からなる、いわゆる「人相占い」の域を超えなかったようだ。

しかしこの観相学第一人者である20世紀ドイツ医師クレッチマーさんは、特に体型の方に着目し、人の体型を細長型、肥満型、筋骨型という3つのパターンに分けた。これが現代における観相学の基礎となっていると言われている。

その上で細長型は分裂気質、静か、控えめ、真面目であるとか、肥満型は躁鬱気質、社交的、親切、温厚であるとか、筋骨型は粘着気質几帳面、熱中しやすい、頑固、興奮しやすいであるとかのように、体型と気質を結びつけた。(ここらへん全部wiki受け売り)

と、ここまで観相学について述べてきたのだけれど、私は思った。「…これ、ルッキズムとか叫ばれてる現代においてアウトじゃね?」と。

もちろんこの観相学現在でも本が出版されたりと進化を続けてはいるのだけれど、正直マイナーである(自分無知なだけかもしれないが)。だから例えば友人と話していて「君の体型は筋骨型だよね、だから頑固なの?」とかいう会話をするような機会はほぼゼロと言ってもいい。会話のレベルとしては血液型性格を診断するのと同じようなものだ。

だが私が言いたいのは、心理学という学問を盾にすればなんでも許されるのだろうか、という点だ。

「君は太っているよね。太っている人は社交的な人が多い。だから君も社交的ではないだろうか?」と聞いたら昨今の社会では確実にアウトだ。

でもこの後にこの発言者がこう言い足す。「…と、ドイツクレッチマー心理学的な観点から提唱しているんだ。」と。

こう言われたら最後いくらムカついても「心理学的に提唱されている学説から」という言葉に守られた相手理論を崩すことは難しくなる。

昔、オードリー若林さんが心理学者に「あなたは後輩のネタを見下して見ている」と言われて激怒した話があったが、それと同じような気がする。若林さんは身に覚えがないことを言われてムカついたが、心理学を介して言われたためにキツかったらしい。

いくら失礼なことを言っても、「心理学的な視点から考察している」と言えば許されるのだろうか?そうではないだろう。心理学は万能な免罪符などではない。心理学あくま統計的ものであって100%の人に当てはまるものではないということを忘れないでほしい。そしてどうか、その心理学的な視点かいう凝り固まった印象を目の前の誰かに被せないであげてほしい。心理学的に見て99.9%の人は当てはまっても、今あなたの目の前の人は0.1%の当てはまらない人かもしれないのだから

2022-11-27

anond:20221126194629

ここでいう悪影響を受ける「青少年」は、集団としての青少年であり、増田のような青少年カテゴリーに入る個人(n=1)ということではない

増田や友人たちが悪影響を受けたと思っていなくても、集団に悪影響があると言っているのだ(その主張が合理的ものであるかは別の話)

ちなみに個々人の行動の単純な合計が、集団の行動と必ずしも一致しないことは、「合成の誤謬」をはじめとした学説により定説になっている

2022-11-23

検閲とか検閲じゃないとか

朝鮮人扱った映像作品東京都が上映認めず 制作者らが批判

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221122/k10013900691000.html

こいつが検閲になるんじゃないかということでニュースになっていたわけだけど、

最初自分検閲になるんじゃ、とは思っていたが考え直して検閲には当てはまらんような気がしてきた。

ただ自分記憶あいまいなので、識者の意見を聞きたいと思ってここにメモを残しておく。

 

まず第一に、検閲とは

検閲」とは「行政権主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止目的とし、対象とされる一定表現物につき網羅一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを特質として備えるもの

最大判昭和59年12月12日 民集38巻12号1308頁 札幌税関検査事件

https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52690

意味し、今回は東京都という行政権主体となって、発表前に内容を審査したうえで、不適当と認めるものの発表を禁止したといえるので、検閲なんじゃないかと思ったわけだ。

ただ、そこでない記憶を振り絞って思い出したのが家永訴訟で、探し出してみたら

「本件検定は、前記のとおり、一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲に当たらず、憲法一条二項前段の規定違反するものではない。」

最小判平成5年3月16日民集 第47巻5号3483頁教科書検定事件

https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=56358

となっていて、検閲でいう発表の禁止は今後一切の発表ができなくなるような性質に思えるな、というわけで

22日、都議会議会棟で、昭和初期に精神科病院入院していた朝鮮人を扱った映像作品の上映会が開かれ、制作したアーティスト飯山由貴さんらのグループ都議会議員7人らが参加しました。

 

飯山さんは、東京 港区の「東京都人権プラザ」で開かれている精神障害者理解促進を図る企画展で都に展示内容の委託を受け、イベントの1つとしてこの作品を上映しようとしましたが、認められませんでした。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221122/k10013900691000.html

すでに対象作品は上映で来ていて、今後も別の機会でも上映できるだろうから検閲ではないんじゃないかと思うんだが、どうだろう。

  

ついでに言えば、東京都作品内容について判断をして拒否をできるかについては、拒否ができる場合もあるとは思う。

例えば、ジェンダーについての作品を依頼してTERFバリバリ作品が出てきたら困るだろうし、

女性支援作品HPVワクチン薬害をもたらした、なんてやられたら問題しか言えないし。

https://news.yahoo.co.jp/articles/02b7817b866ffd531d0fd4c1125f2ec3413b6055

  

ただし、そういった上映の拒否権も完全に自由とはならず、ある程度の裁量権範囲にはなるかと思う。

教科書訴訟でも検定の正当性は認めつつも、裁量権を逸脱した部分については違法性認定しているわけで。

「生体実験をして多数の中国人等を殺害したとの大筋は、既に本件検定当時の学界において否定するものはないほどに定説化していたものというべきであり……文部大臣が、七三一部隊に関する事柄教科書記述することは時期尚早として、原稿記述を全部削除する必要がある旨の修正意見を付したことには、その判断過程に、検定当時の学説状況の認識及び旧検定基準違反するとの評価に看過し難い過誤があり、裁量権範囲を逸脱した違法がある」

行政庁に大幅な裁量権を認めたものではなく、裁判所行政庁判断が相当の根拠資料に基づいてなされた合理的ものであるか否かを審査すべき」

最小判平成9年8月29日民集 第51巻7号2921頁

https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52529

  

そういった意味

毎年行われる関東大震災朝鮮人犠牲者への追悼式典に小池知事が追悼文を送っていないことを挙げたうえで、「都知事がこうした立場を取っているにもかかわらず、朝鮮人虐殺を『事実』と発言する動画使用する事に懸念があります」と指摘しています

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221122/k10013900691000.html

知事歴史認識と異なるから拒否をするというのは裁量権範囲とは認められにくい、とは思うがいかがなものだろう。

そんなわけで、検閲ではないが違法性が認められる余地はある、という感想を抱いているんだが、どんなもんだろう。

 

あと東京都側の主張についてだけど

メールは、殺傷事件があったかどうかというより、殺害された人数など、内容にさまざまな見解があり、その部分を確認たかった。展示しないように求めたのは、事件事実と描かれているからではなく、障害者人権というテーマから作品がずれているからだ

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221122/k10013900691000.html

残念ながら私は作品を見ていないので、障碍者人権というテーマからずれているかまでは判断できないのでなんともいえない。

仮にそれが本当ならば、裁量範囲内の可能性が高まるかもね。

ただ、本当にそうなら最初からメール記載してなきゃおかしいとも思っているよ。

2022-11-13

anond:20221113205416

学説史の話は

経済学経済戦争兵器だよ レーニンマルクスなどの経済学者は、企業の設けすぎ批判が有名 マクロ経済学者たちは、それに対抗して増税保険料値上げで企業を守る論を展開した

から始まってるかも

anond:20221113201125

からさ、学説史の話してないんだ

五大誌挙げただけで、QJEでもエコノメトリカでもなんでもいいよ

anond:20221113195011

学説史より限界革命以後の近経の話をしよう、今を生きよう、AERを読もう

2022-11-02

図書館司書待遇問題解決する方法

図書館司書低賃金問題解決する王道図書館司書としてのリファレンススキルを高め、専門家として高い収入を得てゆくことである

このため図書館司書は高度に専門化した分野での資料照会に答えられるようにならねばならない

たとえばフェニミズムについて問い合わせがあった場合、フェニミ神の崇拝に関する教義学説や、教典記述したシュメール語に通暁している必要がある

こうした知識技能を得ることはひとえに図書館司書個人積極的自己研鑽が前提となっている

2022-10-28

anond:20221028201215

そのブコメを書いた者なんだけども、100字の制限があるから基本的には医者通報禁止というちょっと歯に物の詰まった書き方で誤魔化しているところがあって。そもそもあんなに星がつくと思ってなかったし。

覚醒剤無関係の疾患の治療中に覚醒剤使用が発覚した場合警察通報する行為については最高裁適法判断しています(最決H17.7.19刑集59-6-600)。

ただしこれには、そもそも最高裁おかしいとする学説とか、当該事案と違って犯罪の守秘を前提として違法薬物中毒治療を引き受けるような場合守秘義務が優先する(つまり通報すると秘密漏示罪が成立する)とする学説とかがあります。最も権威ある逐条解説である有斐閣注釈刑法」は後者の説。

犯罪通報証言秘密漏示に該当するものの,司法作用への協力という公益も含むため,違法性阻却の可否が議論されている。

(a)犯罪通報告発 ①医療関係者

 刑事訴訟法上の違法収集証拠排除が争われた事案であるものの,治療中に覚せい剤使用が判明した場合患者同意なく警察通報することを適法とする裁決平17・7・19刑集59巻6号600頁がある。本件については,重症患者医療機関を訪問することを萎縮する恐れに鑑みて,無制限違法性阻却を認めるものではないとの解説が行われている(山田耕司・最判解(平17)270頁,日本医師会医師職業倫理指針<改訂版>(2008)11頁)。しかし,個別事案ごとに具体的な利益衡量を行うとすると,医療関係者秘密漏示で処罰されるリスクを負うことになる。患者秘密保護を優先して通報行為違法性阻却されないと考える(福山・前掲288頁)のでないのであれば,犯罪処罰という公益に協力する医療関係者には特段の事情がない限り違法性阻却を認めて秘密漏示による処罰リスクから解放するという考え方もありえよう。

 ただし,犯罪の守秘を前提として麻薬治療を引き受けるような場合については,守秘義務が優先するというべきである犯罪の守秘を前提としているのも関わらず秘密を漏示する行為医療関係者の円滑な利用を害する程度が大きいし,また,守秘を前提とした医療の利用さえ裏切られうるとなると,犯罪を行った者に医療を受ける機会を完全に失わせることになりかねないかである

有斐閣注釈刑法 第2巻」(2016)320頁)

この辺の理解には、そもそも刑法秘密漏示罪が医療法律宗教関係者限定された身分である理由に対する理解必要で、その理由というのは医療法律宗教関係者を利用する際には,個人秘密を知られることを甘受せざるを得ないことから守秘義務刑事罰をつけることによって,そのような専門的職業を円滑に利用することを可能にしている(前掲書314頁)こと。たとえば弁護士警察通報するようだと弁護士法律相談なんかできないよねって話で、医者治療を受けるのもそういうことなのです。

あと、通報しても秘密漏示罪にならない場合があるからといって、通報義務があるわけではない。

なので、前掲最高裁決定の射程を広めに見たとしても、通報する・しないは医師裁量ではあるので、そういうときに病者の医療アクセスを考えて通報しないか、それとも治安維持のため通報するか、そこに各医師思想信条とか世間の風潮とかが影響してくる。

個人的には、刑法医療関係者特に守秘義務を課した刑法134条の立法趣旨から考えていくのが筋だろうと思っているので、通報しない方が遵法的な態度ではなかろうかと思っています

2022-09-21

anond:20220921125433

最新の学説では、もっぱら、ネコモデルにした絵なんだそうな。

2022-09-20

多様性の主たる目的は種の存続

っていうの、最初に言い出したのは誰なんだろう?

そういう学説?とか有名な論文があるの?

多様性の主たる目的は種の存続

っていうの、最初に言い出したのは誰なんだろう?

そういう学説?とか有名な論文があるの?

2022-09-16

「けつなあな」に関する学説判例の整理

A説(通説) 「けつなあな」を「けつのあな」と読み替える

この場合、その後の女性の返答から「けつなあな確定」とは肛門への指、性器又は異物の挿入を伴うアナルセックス意味すると考え、「けつなあな」とは単なる誤記と解する。

B説(少数説) 「けつなあな」と読む

「けつなあな」をそのまま読み替えず「けつなあな」と読み、アナルセックスではない2人の間に共通した認識の存する行為又は概念を指すと考える。根拠として、LINE誤記があれば現在ではすぐに削除して訂正することが可能であることを挙げ、日本語として素直に読めば「けつなあな」を「けつあな」と読みアナルセックスと解することは無理があるとする。これについて多数説からは「LINE誤記に気が付きながらこれを放置することは日常生活でよくあることである」との批判がある。

判例 「けつなあな」を「けつ(の)あな」と読み替える

最高裁判所はこれまでの「『けつなあな』はアナルセックス意味しない独特の概念である」という考えを大法廷にて変更し、「『けつなあな』を『けつ(の)あな』と読み替え、当該事案においてはアナルセックスの申込であると解される」とした。調査解説は「社会の情勢の変化に鑑み、多数説に立脚したものである」と示した。尚、一部の裁判官は反対意見にて「『けつなあな』からアナルを想定することは日本語として無理がある」とし、少数説に立脚した立場をとっている。

2022-09-05

なぜ大企業正社員人権侵害なのか(個人的考察

常に80%の人間は保身・保守自己利益だけを考え、20%の人間生産性に寄り掛かる、というパレートの法則学説がある。大企業においてはそれが顕著である

しかし、大企業に入って取締役になって活躍できるのは0.xx%であり、他の99.xx%の人間は、護送船団という名の鎖でつながれた船に乗り、ジョブローテの餌食になって人生を終える。

これは人間能力の発揮、という点では完全に飼いころしであり人権侵害であると思う。

また、実能力上でのスポイラー機能のみならず、「大企業に入ったほうが人生は安泰だ」という錯覚を覚えさせるのも罪が重いと思う。

これは大樹に寄り掛かって安定・一定ペースで人生を進めることがあたか人生成功のように感じさせるが、しかしこれは完全に錯覚である

自分能力スポイルし、社会通念上の「最大公約数」的なルートをなぞっているにすぎない。

なぜそれが人権侵害なのか?

大公約的な人生などひとつもないかである

誰しも小さいころ、絵がうまかったり数学ができたりスポーツができたりしただろう。

それらは誰も追いつけないレベルとして与えられた才能なのである

なので、それらを諦め、生来能力20%しか使わず死んでいく大企業正社員は、人生という大枠で見たときに、人権侵害の大きな被害者なのである

もちろん、その中でトップを目指し達成する人は別であるが、99%は実現できない。

そして出世も諦め、ほどほどで成長を停止し、社内で「ほどよく居心地のいい場所」を見つけ、適当人間関係で右往左往して引退し、年金をもらってロスタイムを消費して終わる。

与えられた人生20%も使わずに終わる。

「安泰」があると思わせて釣り針に引っかけて、組織人間人生を消費する。

これが最大のトリックであり、闇の深さである

2022-08-31

anond:20220831023046

法律法律って書いてるけど、条文の読み方とか学説判例とか法体系とか何も知らなそう。

まあ学校の授業で存在しないからしゃーないけど。

刑事法なんかに関しては人生終わる可能性もあるんだから、どこかでちゃんと教えるべきとは思う。

2022-08-15

共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで

これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。

ただ、内田が、

感情の器」って、あくまでも個人的身体条件のようなものから

というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。

たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミス道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会規範構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。

そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。

家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。

アレックス・カー20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。

おりしも建設省代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代

アメリカの7倍のコンクリートを使って日本山河コンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。

その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。

「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。


A・カーは、フェアプレイ精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者トップ黒海に豪奢な別荘を保有し、人民実質的農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。

「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司説教ブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖

最近、想起するのはやはり旧統一教会家族価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族崩壊している、といった、「おまゆう問題崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするとき動機付けメカニズムなのだ

内田永井議論テーマひとつである人権平等。あたか普遍的原理についても、

それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。

アメリカ建国者の一人、トーマスジェファーソン人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。

これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。

どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質人民に備わっていると信じて建国者デモクラシー設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権矛盾が、南北戦争北軍正当性を決定的にする。

内田議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要キーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。

自分でうまく整理がつかなかった。内田はいう。

「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係いかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。

内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。

まず外付けの倫理から。どのように受容されてきたか

舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後憲法のものアメリカ経験に基づいたものだ。

しかし、日本人権教育は、残念なことに、人権普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。

戦後人権を外付け実装してきた日本は、そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。

現在、旧統一教会問題話題の、国家宗教というテーマにしてもそうだ。

政教分離キーワードとなるのは、恐怖から解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西課題だ。宗教いかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴ勝利した古代ローマ

そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要再確認された。それが言論の自由関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場比喩が生まれる背景ともなった。

他方、旧世界フランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会権威苛烈弾圧が恐怖であった。だから公共空間合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランス言論の自由は、その意味カトリック否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したこと歴史的な背景は深い。

このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。

それは、実は国によって微妙コンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的価値なら、なぜ何千年も克服できなかったか意味を問うというか。

しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後日本裁判所も含めて。

でも、それこそが日本人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。


その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。

内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは自分の国や自分家族自分自身の歴史だと俺は思う。

自分自分先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理けが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本アジア欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。

歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。

自分理想とするもの現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。

自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。

ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要キーになるし、国家宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米経験教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決行政戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料支出したこと違憲とした歴史的判決で、戦争経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。

しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通体験共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代

50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。

「あの頃は」という共通過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。

まり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。

それが、失われ、外付けの価値観だけがカラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。

永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代

「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。

と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。

また、日本憲法に組み込まれ歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。

高度成長期に「あの頃」といえば戦争時代だった。

それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、

視聴者からは、おしん私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。

しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ

しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争記憶との関連が薄まった。当然、日本憲法リアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。

しかし、いずれにしても過去記憶憲法規範が直接に結び付かない、その世代経験、そこに、永井紛争国の辺境の地を自分テーマに選んだヒントがあるように思えてならない。

紛争リアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生ときに知った人権、そして憲法価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。

しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。

永井氏が、内田氏との対話のなかで

私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこから自分母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親単身赴任でしたし。

といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。

全然人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。

動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的ロールモデルとは限らないのだ。

この体験辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。


ともあれアレックス・カー面白い

読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。

A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.

Dogs and Demons, 2002, A

2022-08-08

anond:20220808151749

行政手続法限定的って話は立法時の経緯からも正しいし学説上も通説だけどね

つうか審議会親玉学説親玉も塩野教授で、その塩野がそう言ってるんだから当たり前

2022-07-19

anond:20220719220603

物事事象を疑ってみるにせよ、前提とする議論の土台を無くして全部疑うとか言いかねないあたりが陰謀論界隈っぽい。

議論の前提とする学説論文実験、仮説を設定できない奴が理系なの?

何専門?ちゃんと院でた?

理系で学卒とか言わないよな?

2022-07-11

今時強力効果論を真面目に論じている学説があるのか?

2022-07-08

日中テレ東除いてみんな安倍

575川柳

ようするに、定番の各局放送スクショくれ、という話じゃないんだが、

空気を大切にする感覚、あるいは、一斉に同じ方向を向こうとする感覚

この日本人の底に流れている感覚ってどうしたら克服できるのかな、と考え込んでしまうわけだ。

落合陽一のこういうツイート象徴的だ。

https://twitter.com/ochyai/status/1545282099963625472

政府で働く人の悪口をみんなで言うと,その悪口を聞いた誰かが,日本を良くしようと思って銃でその人を撃ったりするんだよ.その人が撃たれた後にみんな暴力はいけない断固として許せないって言うんだよ.言葉の使い方は気をつけようね,みんなの悪意の責任はみんなで取ろうね,メディア個人も.



主語と述語を入れ替えたら、戦前のぜいたくは敵だ、というスローガンとなんら変わらないメンタリティ

このツイートをみて、表現の自由について少しでも考えたことがある人なら、すぐさま、この発言の危うさに気が付くんじゃないかと思う。

政府で働く人の悪口をみんなで言う」空気への落合氏の懸念は、「みんなの悪意の責任はみんなで取ろうね」という形で、一億総ざんけにつながってゆく。

しかし、こうしてあるべき「みんな」がひとつツイートに4回も強調され、プレッシャーになってゆく社会の危うさに気が付いていても、あるいは

表現の自由が脅かされると気が付いても、

残念ながら、というか、ひとたび憲法に結び付けて議論するやいなや、普通の人の感覚から離れたズレた議論になってゆく。

日本憲法学は腐っているので、公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じてもほとんど生産的な議論はできない。

しろ、ただ単に、ヤバいぞ、と気が付くだけで正直、十分なのだ。その感覚戦争中に起きたことなど過去の思い出から引き出されるものかもしれない。

戦前の痛みを受け止めていれさえすれば、それが原点となる。共有できる、歴史という思い出が必要なのだ

しかし、実のところ、それも心許ない。

増田でこれ以上、脱線した演説をしたくはないのだが、ひとつだけ俺が好きなアメリカ連邦最高裁判決中のフレーズを置いていく。

空気ときには言葉不協和音に満ちていることは、弱さではなく強さを表している。

COHEN v. CALIFORNIA SUPREME COURT OF THE UNITED STATES 403 U.S. 15June 7, 1971

アメリカ最高裁意見が書かれる時には、建国時の200年くらい前の精神をふりかえって書かれることがしばしばある。

この不協和音という言葉も、フェデラリスト81論文(1788)で、A.ハミルトンが書いたとされる、「多くの関係者の不調和は・・討議を進展させるであろう」という言葉に源をたどることができる。

アメリカ建国当時のJ.マディソンは、民主制擁護すればするほど、多数の圧政を招き、民主制の基礎を掘り崩してしまう、民主主義ジレンマに強い問題意識を持っていた。

落合氏のツイートのような、この空気感が、民主主義をどう動かすかを想像し、多数の圧政を招くメカニズムの克服について考えなければならない、これがマディソンの問題意識だったといっていい。

多数決のもたらす結果を克服しつつ、いか民主政治を適切な方向に管理誘導するか、これが匿名論文として執筆されたフェデラリスト論文ポイントだった。

空気多様性擁護する、ということのアメリカ的な原点は、ヨーロッパでの苛烈宗教的対立にさかのぼることができるが、建国に至る思い出が憲法起草に反映され、代々引き継がれてゆく。

このように、歴史というのは憲法上の原理を考えるうえでとても重要で、原点となる記憶が、その時々の重要判決で繰り返し呼び戻され、継承されてゆくことが必要なのだ

憲法の考え方をさかのぼってたどっていったら建国者にたどり着くアメリカと、たどっていっても芦部や清宮の古臭い基本書で行き止まる日本との違いを思う。

日本では、というと、やはり戦前、戦中になにが起きたか、ということをしっかり心に刻むのが重要だと思う。

というか現在日本社会を方向付ける、歴史という思い出が、それ以外にない。

戦争体験にこだわらず、つくる、という発想もまあ大切かもしれないが、

自民党起草の憲法改定案のように大切な原点となる体験をなかったかのようにしてしまおうとする動きには警戒する。

しかし、原点があったとしても、それを頼りに、社会を同じ空気にしてはいけないと、どこまで切実に思えるか。ここに日本社会の弱さがあるようだ。


安倍さん亡くなったというニュースを先ほど知った。


安倍さんは、日本政治を大きく変えた人物安倍さんだけのせいではないが、小泉構造改革以降、正直、あまりよくない方向に日本が進んでいったと思う。

首相官邸の強化は小泉さんの置き土産、そのおかげで恩恵を受けた第一安倍内閣から、随分と政治官僚との関係も変わった。安保法制も最悪だった。

先ほど述べたような憲法改正のその動きの先頭にたっていたのも安倍さんだった。正直、あまりいいことを思い出せない。

こうしたこともふりかえるめにも

哀悼を表する。

2022-07-06

anond:20220705133616

在外二元的制約説は公共の福祉人権制限するアプローチが2種類あるってだけで、公共の福祉機能が二つあるという学説ではないし、そもそも一元的内在制約説よりも古い学説だったはずだが...

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