はてなキーワード: 学説とは
そういえばそうだった。うっかりしていた。お察しの通り、法学を学んだのは十数年前だし現職の法曹や法学博士ではない。
一部ブクマが指摘しているとおり、「公共の福祉」を人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理であると解する立場は「一元的内在制約説」と呼ばれ、昭和30年代からわりと長らく憲法学の主流な学説とされてきた。
けれど、机上の空論に過ぎないことが既に広く知られている。
このこと自体は知っている。それで法学を学んだのが十数年前の人間として聞きたいのだが。今は一元的内在制約説にプラスアルファするのが主流だとされていることは知っているが、そこのプラスアルファに統一的な見解は出ているのだったか。
危険の防止が含まれるのは一般的な見解だ。あるいはさらに含めて(精神病の強制治療などにおける)本人の利益も制約のうちに入れる説もある。だがそこは少なくとも俺の学んだ頃には結論が出ていなかった。
そもそも元増田自身が「最低限の性道徳」による制約を引っ張ってきた時点で気付かなかったのだろうか。
それにしても、トラバで指摘されている屋外広告物規制条例のように「そうはいっても結構規制されてるよな?」と気付かなかったのだろうか。
実は気づいていて、そこは『原則として』という但し書きに含めていた。だからこの指摘も想定内だ。
しかし(繰り返すが増田の法学知識は若干古い)『一元的内在制約説を拡張した』考えが主流なのだから、まずは共通的な考えとして一元的内在制約説ベースの考えを紹介した。
ついでに言うと、二重の基準論は4の最後のところで少しだけ触れている。
どのみち、『秩序の維持』も無制限に認めたら大日本帝国憲法にしかならないわけで、ジェンダー平等を目的とした表現規制法を作った場合に行為と結果のどちらに重点を置いたとしても(片方に全振りするつもりはない)『宇崎ちゃんの献血ポスター』『温泉むすめ』『たわわの広告』『ロリエロマンガ一般』を規制できるとは俺は思わない。
間違い。
なんか、真に受けてる人が多いみたいなのでちゃんと書いておくけども。一部ブクマが指摘しているとおり、「公共の福祉」を人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理であると解する立場は「一元的内在制約説」と呼ばれ、昭和30年代からわりと長らく憲法学の主流な学説とされてきた。
けれど、机上の空論に過ぎないことが既に広く知られている。
みんな大好き長谷部教授の「新法学ライブラリー2 憲法」(新世社。当増田の底本は第4版(2008年))から持ってきてみよう。
もっとも,一元的内在制約説については,より根底的な点で,その妥当性に疑問を呈することもできる。
第一に,人権を制約する根拠となるのは,かならず他の人権でなければならないとの前提は,「人権」という概念をよほど拡張的な意味で用いない限り理解が困難である。たとえば表現の自由を規制する根拠として持ち出される街の美観や静穏,性道徳の維持,電波の混信の防止などは,いずれも個々人の権利には還元されえないものであり,社会全体の利益(公共の福祉)としてしか観念しえない。一元的内在制約説のよって立つ前提は,政府がかならずしも個々人の権利には還元し得ない社会全体の利益としての公共の福祉の実現を任務としているという明白な事実をあいまいにするばかりでなく,現にある人権が制約されている以上,その制約根拠となっているのも人権であるという誤った思考を導く危険がある。
元増田は、一元的内在制約説という古い欠陥理論に依拠している点で誤っているのみならず、一元的内在制約説の解釈適用においてすら、「『人権』という概念をよほど拡張的な意味で用い」る必要があるにもかかわらず、表現の自由の対抗利益に置きうる「人権」を限定的にすることで「公共の福祉」概念を過小に設定している。
一元的内在制約説は1955年に登場した古い学説で、かつては一世を風靡したが、今じゃ(というか十数年前には既に)芦部憲法に高橋教授が個人の人権の間に損する矛盾の衝突の調整と、自由国家にとって最小限の任務とされる社会秩序の維持と危険の防止である
という定義を付記せざるを得なくなっている。すなわち、現代ではもはや維持されていない学説だ。
そもそも元増田自身が「最低限の性道徳」による制約を引っ張ってきた時点で気付かなかったのだろうか。
そして増田の論はその後、創作物規制・広告規制を行うとするならば、それは当然に『表現の自由』に対抗できるだけの権利・利益が無いといけない。
という独自の見解を開陳し、それを武器に、対抗利益の要保護性をお気持ちで断じてバッサバッサと巻藁切りを始める。
まぁこれは、一元的内在制約説の広く共有された欠陥である「制約の可否を判断する具体的な基準が導かれない」という弱点の犠牲になったものとみることもできるが、それにしても、トラバで指摘されている屋外広告物規制条例のように「そうはいっても結構規制されてるよな?」と気付かなかったのだろうか。今じゃ常識の三段階審査とまでは言わないまでも(交通事故が業務上過失致死だと書いているくらいだから、法律を学んだのは何十年も前のことなのだろう)、古来より伝わる二重の基準くらいは持ってきて欲しかったものである。
日本人の行動原理を暴いてしまったので、ここにメモを遺しておく。
より詳細な理論ができたら改訂する。完成したら出版しようと思う。
ここでは、その最も中心的な部分を、易しい言葉で書いておく。
「赤信号をみんなで渡って」おいて、集団に都合の悪い奴が出てくると、道路交通法違反の罪をそいつになすりつけて排除する。最初から赤信号を渡らない善良な奴も排除する。
こういうことだ。
日本の大衆の行動は、すべてこの原理に基づいて説明できることに気が付いた。
俺はこの学説を、主に欧米諸国、東アジア、東南アジアなどの日本をよく知っているつもりの国々に発信したい。
彼らの中にはいまだに、日本人は勤勉で謙虚であり、日本は住みやすい国などといった幻想を抱いている人が多いかも知れない。
しかし、日本人というのは上に書いたような卑劣な行為が骨の髄まで染み付いた民族である。ヒトの皮を被った悪魔。世界で最も獰悪な人種である。
実際、日本は世界で最悪の差別大国である。人種差別、性差別、出自差別、職業差別、病気や遺伝の差別、いずれも世界で最悪の水準である。この理由も、上の理論から導けるのである。
俺は残りの人生を、日本という人でなしの国が世界から爪弾きにされるようにすることに全力を傾けたいと思う。日本は滅びるべきである。
営利的表現の自由を表現の自由の埒外に置くのは、長らくアメリカ最高裁の立場であったし、今日でもそう考える人は少なくない。メジャーな教科書の記述を絶対視してそれ以外の主張を退けるのは哀れな司法試験受験脳。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4718554686765224770/comment/world3
そりゃまあ、世間一般の人が憲法学の「通説」に権威を認めるべき理由なんてないからね。仲間内だけではなく広く世間に発信したいなら、司法試験受験脳は卒業して内容の説得力で勝負しましょう。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4718578809462578658/comment/world3
通説を無視するだけでなく、あたかも自説こそ通説であるかのごとく吹聴されている言論に対して、それは通説ではないよ、通説はこうだよ、と紹介することが
メジャーな教科書の記述を絶対視してそれ以外の主張を退けているかのように見えてしまう自分の哀れな脳を心配された方がいいと思います
また、自説を絶対視してそれ以外の主張を退けようとしているのは表現規制したがっている方々であることも既に指摘されています
複数の学説がある論点で、特定の説(例れば法人の人権否定説)を採るのはもちろん自由です。しかし、当該研究者の政治的・党派的な立場・信条を優先し、自分の採る見解(通説でもない)が唯一絶対の立場・説であるかのように述べ、権威を利用して素人を誤導し、バレたら法律論ではないと言うのは酷すぎます
もし通説に反対したいのであれば、自分の採る見解(通説でもない)が唯一絶対の立場・説であるかのように述べ、権威を利用して素人を誤導し、バレたら法律論ではないと言うような卑劣な真似はやめて、ついでに司法試験コンプ脳も卒業して、内容の説得力で勝負しましょうね
ところで、女性や有色人種は長らく劣った存在と見なされてきたし、今日でもそう考える人(世間一般から差別主義者と呼ばれる方々)は少なくないですが、女性や有色人種を白人男性と対等な存在とする見解を絶対視して劣った存在とする主張を退けるのは哀れなナントカ脳なんでしょうか?
純粋な疑問なんだけど雌雄の出発点が雌ならば、なぜ人間の雌は支配者の地位から陥落してしまったんだろうか?
資源の確保と戦闘への勝利、遺伝子の多様性を担保するために雄という突然変異が生まれたという学説があるらしく、同族を産むという機能はその種族にとって最大の資源・資産とみなされ、自然界の数多のしゅぞくには女王を頂点とする支配構造がある。
しかし人間社会は男性優位社会と言われるようになって久しく、歴史を振り返れば集団に対する支配権力を有していた女性が少なからず居るものの、多くの場合の支配権力は男性が有する。
なぜ人間の雌は支配者の地位から陥落してしまったのかと考えているけど答えが出ない。
もしこの考察自体がヒューマニズムの観点から女性蔑視だと言われたら何も言えないけれど、その主張はきっと何も答えを出せないとも思う。
と始めたものだから、ここはまぁ納得(というか詳しく私は存じ上げないがそうらしい)なのだが、
いや私が詳しくないだけで、最近の学説や学校では実在が確定したことになってる?
(追記)
Googleにはこうある。
大和を平定した日本国の創始者・初代天皇。 アマテラスをはじめとする天津神の末裔で、山・海といった大自然の神々の系譜も取り込み、さらに国津神の末裔と婚姻を果たし、あらゆる神々を合一化。 そのため国家安寧や安泰を意味し、建国記念の日においては、その即位を祝う紀元節が祝われてきた。
ウィキペディアの「皇室」の中にはこれもある。これには反論もある。
大正時代には、津田左右吉は記紀の成立過程に関して本格的な文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ、「神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」とした。
頭部を横からギロチンで真っ二つにしたとき、前髪の生え際を刃がかすめることはない。もっと後ろにあるからだ。
幼少期の記憶をたどると私が4歳ぐらいの頃、父親に肩車されて毛を引っ張ると「抜けるからやめろ」と注意された記憶がある。
そのときの父の年齢が37で、髪の減り具合は私と同じぐらいだったと思う。
禿の遺伝は母方からのみというのは嘘だと最近の学説で明らかになっているがまさにそのとおりだ。
そもそも思い出せる祖父の髪が4人とも彡⌒ ミなので終わっている。
父親の現状を見ると完全に剥げずに彡⌒ ミで踏みとどまるタイプのハゲのようだ。
髪の毛が横に残っているのだからいいと思うか?
実際は何の意味もない。
横に残された髪はかつて頭頂部に広がっていた茂みを想起させ、それが失われたことを見るものに思い出させるのだ。
生え際を目で追えるから人は生え際を見つめるのであり、もしもそれが追っても追ってもどこにも既にないことを知れば人はそれを追わなくなる。
いや、ほんと意味ないよ。
どっちの兵力が何万で士気が高くて指揮官が優秀だから、とかそういうことを論じても意味がないよ。
でもさ、もしも桶狭間の戦いがなかったとして
って分析したらどうなるのさ?
家臣団を上手く掌握できていないことがわかる…
とかなんとか分析できるんだと思うんだよ。
いや適当だよ。もちろん。でもだいたいこんな感じになるんじゃない?
って分析してしまうんじゃない?桶狭間の合戦というものがなければ。
うっすらでもわかってもらえますか?
話は変わるけど明智はやっぱり滅ぶよ。
彼らがどれだけ優秀な軍団だったとしても
それはそれまでの話なんだよ。
言ってみれば、近畿圏に突如として現れた
本当の実数なんてわかってないんだろうしさ。
ましてや合戦のことを。