はてなキーワード: 助長とは
Cornellの議論は、ポルノグラフィの危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィは男性をレイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプを輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティの世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的な手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつの表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別は同義語なのである。彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語と行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィが性差別そのものであるという一種のイデオロギーに依存した議論に対する批判そのものである。
もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉を制限的に定義することによって、そうした一般的な議論ではなく、特に女性に対して酷薄なもののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象の問題は不可避であり、言語と行為を限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制の根拠は果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語と行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり、日本におけるポルノグラフィの製作が必然的にそうした女性虐待を表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィの表象が必然的に(fuckerとしての)男性をレイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性の従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。
また、Cornellの依拠するポストモダン・フェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判の対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズムの根底的目的に対して、一定の文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムにコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまり、ポルノグラフィの規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性と被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである。
そもそも、ポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから、女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定の勢力として存在していた。これらは全く女性が使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィの概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性の性的欲望、セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたことからの解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタな二項対立の接続が否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリームは男性が製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリームは男性向けであって、女性向けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィが必然的に男女を社会的に構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。
4. 結び
前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダン的フェミニズムの見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理はポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。
日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定の表現について規制を肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史を判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィの規制は道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制を検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳を可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害が現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からのアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制を正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノ派フェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニストの議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり、特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念が同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。
こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴである。さらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在の規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力や虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段が妥当であるかが問われるべきではないだろうか。
一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制の対象となるのではなく、むしろ一つの「職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知が必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的に正業であると認知されることは、その「職場」におけるハラスメントや虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーン・ハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。
以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。
参考文献
・キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン著 中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィと性差別」(青木書店, 2002)
・ドゥルシラ・コーネル著 仲正昌樹監訳「イマジナリーな領域」(御茶の水書房, 2006)
・大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)
・キャサリン・マッキノン著 森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)
それはどういう表現なのか。
そこをもっと詰めろ。
よく言われるのは、例えば今俺はガンアクション映画を見てきたが、あれは「人を銃で撃ってもいいというメッセージ」だったのか。またそのメッセージを受けて社会の銃犯罪は増えるのか。
そんなことは無いわけだ。
同様に、例えば女性がエッチな目にあっちゃう漫画を読むことで、女性はエッチな目にあってもいいんだ!と読んだやつが思うかというと?
そんなことは無いわけだよ。
かつてまいっちんぐマチコ先生という漫画があって、子供が真似してスカートめくりすると問題になった。スカートめくりしてた子供はいま大人になった。性犯罪者になったか? そんなことは無いわけだよ。
それはたぶん、スカートめくりしてた子供を先生や親が、即ち社会が怒ったから。これに関しては、明らかに「メッセージ」よりも社会が上位にある。フェミ連中だけが見出すメッセージが社会を構築?するなんてことはない。君のいうメッセージの影響など考慮する必要がないほどに微小だ。
もっとドギツイやつ見つけた時に言え。完全自殺マニュアルが自殺を助長するメッセージになる、ぐらいならあるかもしれん。幸いそういうエロは流石にいまの日本社会、規制されてる。
私は食肉を受け入れない。人が肉を食べるため他の生命を奪うことを悪と考えるというよりも、私たちが食卓で口にする肉を生産する過程において他の生き物の尊厳が十分に守られていないことを問題視するというスタンスにおいてである。詳しくはアニマルライツとかそのへんのキーワードでググってくれ。
赤十字が宇崎ちゃんをキャンペーンに使うことがダメだ、と考える方々には、同じ論理を持って今すぐ公共の食堂に並ぶ肉類を全て消し去る運動にも同意をいただきたい。
私は肉を見るのも嫌だ。肉を食べることは自然の摂理、などと考えているのは理性の伴わない野蛮人の思考である。役所や病院の食堂においても平然と肉が並ぶこの社会は、食肉自体があたかも問題のないことであるように人々に刷り込んでしまう。テレビをつければグルメ番組、街を歩けば鉄板で焼かれた肉をデカデカと掲げた広告、レストランや食堂には多種多様な肉類のメニュー。
女性の権利と畜産動物を一緒にするな、ですって?あなたはなぜ人類が畜産動物より高等で尊重されるべきものだと考えているのか。それこそがまさに私が先述した刷り込みの結果でないか。そして私のように畜産動物の権利が迫害されることに心を痛める人間の思いは尊重される必要がない、との考えであるのか。もしそうお思いであれば、私にはその考え方が女性の権利の議論においてあなた方が批判しているものと同じであるように感じられる。
なお一言断っておくと私は赤十字が宇崎ちゃんを使ったことが社会的に許容されない、とは見ていない。かつ食肉に関して、社会的な規制を実施すべきであるとも考えていない。(私が思想として食肉に反対していることは変わりない)
多様性のある社会とは皆が同じように他者のことを分かり合える社会のことではない。仮に自分が許せないものが社会に存在したとしても、それが他者にとって重要な意味を持つものであるならば、それを拒絶せず存在を許容することである。ただし、それが許せないということを主張する権利はある。そしてそれに反論をする権利があることも。異をとなえ流相手にレッテルを貼り耳を塞ぐ事は理性の敗北であると思う。
主体性と客体化について。
https://anond.hatelabo.jp/20191031141650 の補記の続き
- id:ultimateblue 自分の店の看板しょって下着広告出してる下着屋と献血の看板しょってトロ顔乳袋女広告出してる赤十字は全然違う話なのになんか無理やり共通化して黒塗りに持っていこうとしてない?この章だけなんか変
- id:peta0227 ポスターと下着で矛盾するの、主体露出はOKで客体消費はNGの文脈が今回は不適当なケースだからだと思う。ポスターのテーマが「公共で客観的にどう映るか」なら「下着は主体だからOK」はハイコンテキストで不適当かと。
- id:kutabirehateko 下着の広告は消費者たる女性をターゲットに作られており、着用する女性を性的に消費することを煽るためのものではない。男は下着姿の女性や女性用下着を性的に消費するものと公言してはばからない世の中がおかしい。
- id:kumaponta 主体と客体なんて委託でも入れたら途端に不明確になる。判断基準としては合理性に乏しいものだと思うな。主観的な基準はいくらでも騙せるものだよ。明確な客観的基準こそ合理的だと思うよ。
- id:junglejungle 女性下着が本当に主体的なのかかどうか。勝負下着という言葉もあり、男性の性的喚起を目的としている要素もある。かわいい下着を着るべきというジェンダー観の押し付けもある。と、こういう屁理屈もつけられる。
主体性と客体化に関する言及が多く見られた。この観点は重要なのではあるが、正直に告白すると、複雑すぎて細かい議論から逃げてしまった。
たとえば、以下のような2つのケースは、比較的論じるのが簡単である。
前者は「女性の客体化」であり、認められない表現だという人もいるであろう。今回の宇崎ちゃんのポスターは、ポスター批判派にとってはこれにあたる(露出度ではなく、乳袋だが)。
後者は「主体的」な露出であり、前者を認めない人も、こちらを認めるケースが多いであろう。下着広告の大半はこれにあたる。
では、以下のケースはどうであろうか。
これは言い換えると「主体的な客体化」であるが、このケースはどう判断されるのだろうか。
さらに次のケースはどうだろうか。
段々と即答が難しくなってくる。次の例はどうだろうか。
これはコメントでも多く言及されていたが、女性誌の一部などで発生しているケースである。宇崎ちゃんが認められない場合、男女を入れ替えただけのこのケースも認められるべきではないように思われる。
次のケースはどうだろうか。
ここでいう団体は、具体的には赤十字である。赤十字には、恐らく女性を客体化する意思は存在していなかった。今回のケースでは、たまたまコラボレーションをした作品に、女性を客体化した要素が含まれていたことになる。もう少し正確に表現するならば以下だろうか。
このケースからは、なんとなくまずそうな雰囲気が漂っている。情報によると、セーラームーンはこのパターンらしい(anod:20181007164838)。セーラームーンの露出度の高い服装が、男性編集者による女性の客体化に由来しているという文脈を考慮するのであれば、セーラームーンは全面的に認められなくなるかもしれない。セーラームーンは認められると考えている方は、どう判断するだろうか。キズナアイも、もしかするとこのケースに入るという人もいるかもしれない。
このケースを、少しいじってみよう。
セーラームーンが認められやすい理由は、セーラームーンのキャラクターたちにはっきりとした自己が見られるから、という説は一定の説得力がある。似たような例といて、次のケースはどうだろうか。
ナミや峰不二子はこのケースだろうか。自己がはっきりとしていると、多少の露出度の高さは認められる傾向があるように思われる。あるいは、露出度の高さは、「貞淑であるべし」というジェンダーロールからの開放と見なされることすら有り得る。ここで興味深いのは、これらのケースでは依然として、男性による女性の客体化がベースにあるということだ。
このケースの考察は、個人的には、非常にクリティカルであると考えている。もし、ナミや峰不二子、あるいはセーラームーンが認められるとすると、「客体化」や「主体性」は、実は判断基準としては重要ではないという可能性が出てくることになる。むしろ重要なのは、「自己をはっきりと持つキャラクター」と表現の外形であり、言い換えれば「異性に媚びてない」見た目であれば、その誕生経緯はどうであろうと、問題ないという判断になりえる。
「宇崎ちゃんは嫌だが、セーラームーンは許せる」という人は、「宇崎ちゃんは異性に媚びているが、セーラームーンは異性に媚びていないようにみえる」からという心理が理由かもしれない(もちろん、違うかもしれない)。これが正しい仮説だとすると、表現の是非の判断が、外形が許せるか許せないか、という問題に帰着してしまう。さらに、an・anの表紙にも違和感を覚えない人であれば、「同性が異性に媚びている表現は嫌だ」という結論になる可能性がある。
私自身は、このような表現の判断基準の持ち方は、どちらにしても問題ないと考えている。なんらかの経緯により、このような判断基準に至ったとしても、それは個人の自由である。一方で、客体化あるいは主体性が表現の是非に影響を及ぼすという観点の妥当性は、必ずしも明白ではない、とも考える必要があるのではないだろうか。
いずれにせよ、表現の誕生経緯を勘案することは非常に難しい。セーラームーンの例にしても、男性編集者の存在など、そもそも知らなかった人も多いだろう。これはつまり、外形のみでセーラームーンの表現の是非を勝手に判断していた人が、それなりに存在しているということだ。私自身は、このような理由もあり、客体化あるいは主体性といった要素を表現の是非に持ち込むことには慎重になるべきだと考えている。
もし、何らかの理由で客体化に触れたい場合は、例えば「過剰に異性に媚びた表現は、性的搾取やセクハラの助長につながるのでNG」といったように、むしろ外形をベースとした基準にしてしまったほうが、理解も得られやすいし、運用が楽なのではないだろうか(もちろん、「過度に」とはどの程度か、とか、「異性に媚びた表現」が果たして本当に性的搾取やセクハラの助長につながるかどうか、「異性に媚びることは悪いのか」などの別の議論は必要である)。
ある事件を境に「リベンジポルノ」なんていう言葉が生まれて多数の人に認知されてしまったせいで「ハ〇撮りができなくなった!しずらくなった!」という方は男女問わず非常に多いでしょう。
今回は、その方々向けに安全にハ〇撮りプレイを楽しむために気をつけた方が良い事をここに書きます。
ちなみに、書いてる私はハ〇撮りプレイ大好きで撮るだけじゃなく撮られる方も好きです。
今までリベンジポルノとして認知されてきた画像・動画のほとんどは個人情報が割れてしまっています。
「この画像に映っている女性は〇〇県〇〇市の○○高校にいる女子高生だ!○○株式会社に勤めているOLだ!」って感じに。
リベンジポルノというのは撮られた側に被害があった場合のみリベンジポルノとして成立するので、撮られた側が被害を認知し法的措置を取るまでのプロセスの中に「流出動画像と個人情報が完全に結び付いている」という状態が必要になります。
では、流出動画像と個人情報が結び付いていない場合はどうなのかというと、まず個人の特定はほぼ不可能です。
仮に撮られた本人であったとしても似たような顔の人間は必ず居ますし、現在は日本人だけでなくチャイニーズ系・台湾系・東南系のアジア人の動画像も多数流出しています。
ちなみに、リベンジポルノにあたるかあたらないかの境目は現在ハッキリしてません。
例えば、あなたとあなたの友人がプールや海で水着姿で一緒に写真を撮ったとしましょう。
その画像をインスタグラム等であなたの友人が勝手にアップロードした場合、この行為は流出に該当します。
しかし、映っている本人が「勝手に晒された!リベンジポルノだ!」と認知し訴えない限りはリベンジポルノとして成立しないようです。
なので、仮に流出の危険性がある・間違えて流出してしまったという場合でも、撮られた本人が認知できないという状態であればリベンジポルノは成立しません。
撮る側・撮られる側はどちらも個人情報は絶対にネットに流出させないようにしてください。
自分の本名や出身大学や勤めている会社などの経歴はもちろんのこと、自分の顔が映っている写真をアイコンに使うことは絶対にやめてください。
その情報がネットに落ちているだけで猿でも一瞬で特定することができます。
2.顔の一部分を隠す
隠したらダメな目的がない限り、撮られる側は顔の一部分を必ず隠すようにしてください。
正直、薄い中途半端なモザイクよりもアイマスクやマスクを装着する方が効果的です。
「相手が喜ぶなら撮らせてあげたいけどリベンジポルノや流出怖い・・・」という献身的な方は、アイマスクやマスクを付けてはダメか聞いてみてください。
万が一あなたが映っている動画像が流出することがあっても特定されることはほぼ無くなります。
流出を避けたいのであれば、共有サイトは使わないほうが良いです。
特に、パスワードを設定することが可能で動画像を保存することができるクラウド型アプリケーションも非常に危険です。(写〇袋、動画〇ンテナなど)
別のデバイスに動画像を保存したい場合は、USBメモリを使用しネット介さず移すかケーブル等を用いてインポートしましょう。
居ないと思いますが、もし故意に流出させたい場合は共有サイトをゴリゴリ使ってください。
1人で使用する・プレイとして楽しむ以外に、撮る側の目的の一つとして「相手の弱みを握りたい」というものがあります。
相手に優位に立たれたくないという思いから、相手を揺さぶるための武器として撮影するというパターンですね。
リベンジポルノの動機に最も一番近いのが、この「相手の弱みを握りたい」という目的です。
そもそも、リベンジポルノという行為は相手を社会的にKILLすることが可能ですが、その分だけ自分の人生も社会的に終わる危険性が非常に高いです。
「リベンジポルノをすれば自分も終わる、でもそれでもいいから相手に復讐したい」という強い動機がなければリベンジポルノをしようとは思いません。
なので、相手にその復讐心、動機を持たせないことが必要になります。
動機を持たせないために、相手に酷い事をしない・言わない・相手を傷つけるような行為をしないでください。
思春期の子供ならまだしもいい歳した大人ですら、交際相手と別れる時にライン等を即ブロックし連絡手段を断ったり、相手の話を一切聞かず自分の意見のみを押し通して無理やり相手と関係を切ろうとする方がいますが、そのような方が一番リベンジポルノの被害を受けやすいです。
リベンジポルノの動機の根底にあるのは復讐心ですから、その復讐心を助長するような行為は絶対にしてはいけません。
相手と円満な関係を築くことができれば、基本的に動機は生まれないです。(場合によっては、別れた時に相手の事を配慮して撮影者が撮影した動画像を全て削除するケースもある)
万が一相手を傷つけたいという思いが出来たとして、その動機と自分の人生が終わることを天秤にかけた時、おそらくほとんどの人が自分の人生を取るでしょう。
撮られた側は「自分の人生を終わらせてまで相手を社会的に抹〇したい」というラインを超えさせないことが非常に大切です。
そのラインさえ越えなければほぼ全てのリベンジポルノは防ぐことができます。
あと流出に関する危険性ですが、流出に関しては上記ですでに防ぎ方を書いているので上記を徹底してもらえればおそらく流出の危険性に関してもクリアできると思います。
流出後の特定の危険性も上記を徹底していればクリアできるでしょう。
最後に
上記を徹底して守れば、ほとんどのリベンジポルノ・流出は防ぐことが可能です。
イレギュラーが発生しない限り、基本的には安全にハ〇撮りを楽しむことができます。
ハ〇撮りをしたい・ハ〇撮りをさせてもいいかわからない・ハ〇撮りをさせたくないけど仕方なくさせたという人は参考にしてください。
リベンジポルノ・ハ〇撮り・流出と聞くと、性行為中のものだと限定的に捉えて全て悪だと考えてしまう人が非常に多いですが、その考えは間違っており非常に危ないです。
上記でも触れていますが、ツイッター・インスタグラム・フェイスブック等のSNSを見れば、
下着姿・水着姿の男女が映っている画像や動画がたくさん投稿されていたり、
名前を使って仕事や活動をしているわけでもないのにアカウント名に本名を記載し、
グーグルの画像検索で調べれば一瞬で特定できてしまうほどハッキリ映った自分の顔をアイコンの画像に使用されている、
これらは被害が発生していないだけで、ほぼ全て流出と等しい行為です。
そして、毎日毎日数えきれないほどの動画や画像がアップロードされインターネットに流出しています。
「リベンジポルノ」じゃないだけで「流出」は今も発生しておりインターネットに触れたことのあるほとんどの方が経験されていることなのです。
そして、「ハ〇撮り」というワードを聞くだけで過剰に反応される方が居られますが、
あなたが特定の方と「ハ〇撮り」というプレイをしていなくても、あなたの裸や性行為中の姿が撮られている可能性はありますよ。
まさか「自分は盗撮・盗聴の被害に遭うはずなんかない!」と考えていないですよね?
もしそう考えている方がいるならその方は非常に危険で視野が狭いです。
このご時世、隠しカメラ・盗聴器は安価で簡単に入手することができますし、どこに隠しカメラ・盗聴器が潜んでいるかわかりません。
カーテンを開けっぱなしにしていたあなたの部屋、あなたが使った駅の構内・大学・会社にあるトイレ、あなたが日頃通っているジムやスーパー銭湯、あなたが特定の相手と行為に及んだ部屋・ラブホテル、あなたが宿泊したビジネスホテル、etc...
もしかしたらあなたは既に見知らぬ人間にどこかで撮影されており、その動画像はインターネットのどこかでアップロードされているかもしれません。
インターネットのちょっと隠れたところで見知らぬ人間同士で売買されているかもしれません。
あなたが特定の人間と「ハ〇撮り」をしていなくても、見知らぬ人間からどこかで「撮影」されている可能性はあるのです。
「ハメ撮りが嫌だ、流出が怖い」と言い正しい倫理観を持って過剰に反応するのは良いことですが、その可能性があることはしっかり理解しておくべきです。
ではなぜ被害に遭わないのか?被害にあったとしても認知できないのか?ということですが、
「個人情報の流出・結びつきを未然に防いでいること」と「あなたの動画像のみを探している特定の人物がいないこと」が被害の発生を防ぎ被害の認知を妨げています。
極端に言うと、
グーグル検索で「あなたの本名 エロ画像 エロ動画」や「あなたの本名 ハ〇撮り」等で検索をする人がいないこと、検索してもアップロードされた物が出てこないこと
が私たちが盗撮・盗聴されていたとしても被害に遭わないようにしてくれているのです。
お金が欲しくて一般男性・一般女性がAVに出演したとしてもほとんどの方が特定されないのはこれが正常に働いているためでもあります。
逆に言えば、「出演者の個人情報」が割れており「出演者のエッチな姿」が見たくて「出演者のことを詳しく知っている特定の人物」が現れた時に、AVに出演した一般男性・一般女性は特定される危険性に脅かされるということです。
長くなりましたが、以上をもちましてこのダイアリーは終わります。
ちなみに、撮られる側の心理としてはハ〇撮りを拒否して自分の気づいていないところで盗撮されるよりかも上記のことを徹底してあえて撮らせてそのブツを自ら管理した方が精神衛生上は気持ちが楽です。
あと、撮らせることで自分の欲望や無理難題を相手に押し付けることができるというのも大きなアドバンテージです。(むしろそれ無しで撮らせるとかあり得ないし考えられない)
撮らせる側もメリットがないわけではないので、しっかり危ないラインを見極めながら安全にプレイを楽しむとよいかと思います。
ハ〇撮りも使いようによっては悪いものではないですよ。
ところで、議論を混乱させるもう一つの問題として、アファーマティブ・アクションの話と、男女同権が達成されたその後の世界の話を混ぜて話している人がいるように見受けられる。たとえば、「必然性なく女性のみをアイキャッチ的に使うべからず」というのは、過渡期における一種のアファーマティブ・アクションとしては、一定の妥当性を持つと考える。一方で、真に差別が解決した世界では、そのような配慮は逆に不要になるかもしれない。たとえば、「必然性なくA型の人のみをアイキャッチ的に使うべからず」というガイドラインは、馬鹿げている。そもそも血液型など誰も気にしていないからだ。性別の問題も、真に男女差別がなくなった世界では、最終的にはそこに行き着くのかもしれない。類似の例として、アメリカなどでは、商品パッケージに人物を複数掲載する場合、人種の割り振りに対して神経質になるところがある。これは、特定の人種のみをアイキャッチに使う場合、人種差別を助長しているとみなされる可能性があるからだ。現在ガイドラインとして策定されているこのようなルールが、既存の不平等を是正するための措置であるという事実を無視して議論を展開することは、好ましい姿勢とは言えない。また、このようなガイドラインを「女性をアイキャッチに使うべからず」と極端な方向に誤読したり、「男性をアイキャッチ的に使用するのはいいのか」と、誤読を元にしたミラーリングを行うことは避けなければならない。
このようなアファーマティブ・アクションそれ自体が不公平あるいは不正義であり、そもそも認めない、という姿勢はあり得るかもしれない。また、単純に過度な配慮は不要であるという意見もあり得る。例えば、過去に発生したNHKにおけるキズナアイ騒動や人工知能学会誌の議論では、性的役割の固定に対する議論が行われたが、性的役割の是正を求める批判派(アファーマティブ・アクション派といえるだろう)、とそこまでの配慮は必要ない、あるいは(その後の世界では)むしろそのような配慮こそが差別である、とする擁護派の間で、意見の対立が見られた。個人的には、この2つの個別の事例に対しては、過度の配慮であると考えている。一方で、批判派の言いたいことも理解できるので、批判自体には問題がないと考えているし、耳を傾けるべき指摘であろう。なお、特にキズナアイ騒動については異なる論点もあったようだが、その点についてはここでは議論しない。
議論の多くは、おそらく件のポスターが性的、あるいは過度に性的かどうかに帰着するように思われる。そして、この点について、両陣営の合意は、ほぼ得られていない。
擁護派の多くは、件のポスターは性的ではない、あるいは性的な要素はあるとしても、問題になるほどには過度に性的ではないと考えている。一方で、批判派の多くは、乳袋や表情を理由として、ポスターは過度に性的であると見なしている。ポスターが過度に性的であると認められた場合、女性差別につながる表現であり、セクハラにもなるかもしれない。一方で、そもそも性的でないのであれば、セクハラにも女性差別にもならないだろう。
巨乳それ自体がいけないわけがない。また、ごく一部の過激派を除いて、大多数のポスター批判派も巨乳自体への攻撃はしていないように見受けられる。この点を議論するのはあまり意味がないし、ごく一部の過激派の意見のみを根拠に、相手陣営全体に対して「差別主義者」といったラベル付けを行うのは、誠実な姿勢とは言えないだろう。
これは全員にとって非常にクリティカルな指摘である。正直なところ、私自身も自分の認識が社会の平均と合致しているかどうかの自信がない。ポスター擁護派のうち、オタクを自認する人たちの意見が気になるところである。
例えば、「ビキニアーマー」は恐らく今となっては性的な表現のように思われる。肌に密着した黒タイツはどうだろうか。乳袋も本当にセーフなのだろうか。境界線は自分の中でもあやふやである。セーフな気もするし、性的な気もする。あるいら性的な要素はあると認めたとしても、過度に性的かどうかと言われると、過度ではなさそうか。みなさんはどうだろうか。
何を性的と見なすか、あるいは、何を過度に性的と見なすか、は個人どころか社会においてもあやふやであり、時代の変化にしたがって変化してく。
ポスター批判派は、(仮に今現在は認められていたとしても)今後このような表現は社会的に許されなくなり、状況は是正されていくべきだと考えている。これは、過去には普通に存在していた、水着の女性が(無意味に)アイキャッチとして使われていたビールのポスターが、近年ではほぼ絶滅した経緯と相似形である。
一方で、私は別の未来も想像している。それは、このような表現が、むしろ緩く認められる社会になるのではないかということだ。近年すでに指摘されている通り、「オタク」自体が一般化しているらしい。それに伴って、乳袋のような表現に過度の性的な要素を見出す層が減っていく可能性がある。言うなれば乳袋ネイティブ世代の誕生である。こうなった場合、乳袋は広く認められた表現になる可能性がある。
宇崎ちゃんは性的であるが、ワンピースのナミやセーラームーンは性的でない、という意見が見受けられる。これはポスター批判派からも出ている意見で、ナミは性的ではないという意見が見受けられた。
ポスター擁護派は、ナミも宇崎ちゃんもどちらもが乳袋を表現として用いていることから、仮に宇崎ちゃんが性的なのであれば、ナミも同じく性的であり、ナミを公共の場で用いることは認めら得るべきではないと考えている。同じくして、ナミを認めるのであれば、宇崎ちゃんも認められないと一貫性が失われると指摘する。
ここで興味深いのが、ポスター批判派の中でも、この点については意見が別れているということだ。これは、ポスター批判派が用いている「性的な表現に無自覚になっている」人々というのが、ポスター批判派の中にも存在するという事を意味しているように思われる。ワンピースは非常に歴史がある作品であり、オタクだけでなく、社会的にある程度の知名度を持って受け入れられている。好きな漫画といえばワンピースという人も多い。そのため、本来は過度に性的な表現を持ち合わせているはずのナミも、ワンピースという作品と共に社会に受け入れられてしまっている。ポスターに対して批判的であるが、ナミについては認められるという人は、乳袋ネイティブ世代に染まりつつあるといえる。私自身は、もし宇崎ちゃんのポスターが「乳袋は女性を性的に消費する表現である」として認められないのであれば、たとえナミであろうと、乳袋は許されないという姿勢を維持するべきであると考えている。ここで一貫性が崩れてしまうと、「(過度に)性的な表現」の定義が非常に困難になってしまうため、合意が得られにくい。「ナミは(見慣れているから|みんな好きだから|明るいから|強い女性だから)セーフ」という話になってしまった場合、個人の「お気持ち」と揶揄されるのは避けられないだろう。
セーラームーンについてはどうだろうか。すでに指摘されている通り、セーラームーンも公開当初はブルセラを想起させるであるとか、露出が多いであるとか、性的な表現についての批判が女性からもあったようだ。現在では市民権を獲得しているため、このような批判が行われることはまず見かけないが、たしかに絵面だけ見た場合、肌の露出は大きい。セーラームーンを使用した表現が公の場で許されるとしたら、なにが理由だろうか。
ポスター批判派からは、男性からの人気を得るために胸が強調された(宇崎ちゃん|ナミ)に対して、女性が良いと思う服装を女性に着せただけのセーラームーンは、性的消費には当たらないという説が挙げられている。これは、一理あるように思われる。セーラームーンは単に綺麗だったりかわいい格好をしているだけで、それを性的と見なすのは、見る方に問題がある、という考え方になる。韋駄天の例では、靴下を脱いだだけなのに、勝手にそれを性的と見なす男性陣によって問題が発生していたが、セーラームーンも同型だと言えるだろう。人には好きな格好をする権利があるのだから、女性がどのような格好をしても、他人にどうこう言われるのは好ましくない、というのは理解できる。
ここで、本人が望む格好は、どこまでなら許容されるべきであろうか、という議論がある。仮に、ある女性が自分にとっては裸がもっとも自然であると考えた場合、その女性を公の場に掲示されるポスターに使用することは妥当であろうか。そして、その裸のポスターを過度に性的であると誰かが見なす場合、それは見る側の問題であろうか。これは、冗談ではなくて、例えばヌーディストビーチの議論においては、既に似たような議論が起こっている。現在の日本において、恐らく多くの人は、裸の女性の写真を公の場に掲示することは、本人の意志はどうであれ、過度に性的であると見なすであろう。裸は極端としても、例えば胸の谷間が強調された服装はどうだろうか。このような服装を自発的に好む女性は存在するが、公共の場でポスターに使用することは適当であろうか。もし、そのような服装は適当でないと考える場合、あるポスターを評価する上で、本人の意思は、具体的な表現に劣後すると言えるのではないだろうか。つまり、本人が望んでいようとも、性的なものは性的であると見なされるということである。
ところで、海外の識者に宇崎ちゃんのポスターを見せたところ、ネガティブな反応があった、という情報がある。ここで、気になるのが、同じ人物にナミやセーラームーンのポスターを見せた場合、どのような反応があるか、である。宇崎ちゃんに対して否定的な反応がある場合、ナミやセーラームーンに対しても、これらの作品を知らない人からは同様の反応が帰ってくる可能性が、それなりに高いのではないだろうか。セーラームーンも、背景情報がなければ、過度に肌の露出が多い若い女性をアイキャッチに使っているだけのポスターに見える可能性がある。漫画やアニメに馴染みのない人たちにとっては、ナミも宇崎ちゃんもセーラームーンもどんぐりの背比べに映るのではないだろうか。そのような人にとって、セーラームーンを許容するあなたは「性的な表現に無自覚」であると見なされるかもしれない。
こういった観点を踏まえた場合、本人の気持ちや、背景情報といったものは、表現が性的であるかどうかを判断する上では、必ずしも重要な要素ではない、と考えることは可能である。「勝手に性的に見ている」という見方もできるが、多かれ少なかれ、だれもが自分の中の基準をもとに、ある表現が性的かどうかを判断している。そのため、「勝手に性的に見ている」こと自体を悪とする言説は、筋が悪いであろう。これは何も男女間にだけ発生するわけではなくて、世代間や宗教間にも発生する。そうであるならば、性的な表現の基準を考える上では、本人の意志や背景の文脈を考慮するよりも、物理的な要素(肌の露出度など)を用いるのが妥当である、という見方もできる。
ポスターのやつ、いろいろな記事を読みつつ、自分の考えを整理するために書き出していたら、結構な量になってしまった。論点が多くてあまりまとまっていないが、せっかくなのでここに置いておく。少しずつメモ帳に書いてたら気がついたらめちゃくちゃ長文になっていてビビったというか、途中で切らられちゃうので分割するはめになった・・・・。
ポジショニングを先に述べておくと、私は男で、オタク、宇崎ちゃんポスターはギリセーフかな?ぐらいの認識だ。
いきなりだが、ポスター擁護側の反応が過剰である、という意見がある。これは、ポスター擁護側の危機感の強さに由来するものと考えている。「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」という有名な言葉があるが、ポスター擁護派にとって、オタク表現に対する段階的な譲歩は、最終的にはすべてのオタク表現が認めらない未来につながる、という危機意識があるのではないだろうか。この危機意識を補強する要素として、これまでの事例(NHKにおけるキズナアイや人工知能学会の表紙など)も存在する。一方で、ポスター批判派にとっては、あくまでも自分の信じる妥当な指摘をしているし、これまでの個別の事例は必ずしも自らによるものでないので、ここまで反発を受ける理由が分かりづらいのかもしれない。
ここで問題となるのが、ポスター批判派と擁護派の間に信頼関係が無いことである。ポスター擁護派にとって、ポスター批判派とは、個々人の「常識」に基づいて、それぞれ微妙に異なる理由でポスターの問題点を指摘する存在に見えている。特に共有されたガイドラインがない状況でこうなってしまうと、ポスター擁護派は最終的にどこまで譲歩すればいいのかわからない以上、一歩たりとも引くことができなくなってしまう。ポスター擁護派が「お気持ち案件」と言うのはこういう理由からであろう。両陣営の間に紳士協定が存在しない以上、お互いに譲歩は難しい。
個々人の嗜好や常識が異なる以上、必要となるのは各陣営の同意が得られたガイドラインになるであろう。現時点で即効性があるガイドラインは恐らく法律のみであり、法律に基づくのであれば、法的な「わいせつ物」でなければ問題ない、ということになる。もちろん、「TPOやマナーをわきまえろ」という意見もあるだろうが、TPOやマナーへの遵守はベストエフォートであり、必ずしも守る必要がない。法律のみを基準として考えた場合、件のポスターが「わいせつ物」とは言えない以上、それ以上の規制を求めることは「過剰な要求」と映ることもあるだろう。ポスター擁護派には、恐らく規制派の意見が法律を超えた「過剰な要求」に映っている。
では、みんなが納得するようなガイドラインを、批判派と擁護派が一緒になって作ることは可能だろうか。残念だが、私の印象としては、そのようなことは難しいように感じられる。各人それぞれ譲れない線があるらしく、すり合わせは容易ではない。しかし、後述するが、私はそのようなガイドラインは「表現する側」が作れば良いと考えている。
安易なポスターの取り下げ要求は、表現への萎縮につながるという説もある。これは一理あると同時に、必要な行為でもある。私自身は、自由はなるべく保証されているべきだと考えているので、ポスターへの批判をTwitter上で放言することは、それがどのような理由に基づくとしても、認められるべきだと考えている。たとえそれが、個人的な心情に基づいたものだとしてもだ。また、赤十字に対して直接的に取り下げを求める行為についても、特に問題はないと考えている。なぜなら、圧力、あるいはロビイングは、自分の信じる世界を作るための戦術の一つであると考えているからだ。批判派も擁護派も、お互いにやればいい。
さて、赤十字にも、表現の自由がある。赤十字が公的団体か私的団体かに関わらず、赤十字にはどのような表現を行うかを自発的に決める権利がある。もし、赤十字が、批判に対して「なるほどそういう考え方もあるのか」と考えてポスターを取り下げるのであれば、それは赤十字の自由だ。一方で、批判を受けた上でポスターを取り下げないのも、赤十字の自由だ。赤十字がインターネット上でどちらの意見が多いかを見定めで、それに基づいて判断を下したとしても(統計的な正確性の問題を別として)、問題ないだろう。決めるのは赤十字である。
前述のとおり、私は、批判派と擁護派が意見をすり合わせて統一ガイドラインに至ることは難しいと考えている。となれば、最終的には、どのような表現が認められるかどうかは、その表現の発信者が決めるしかない(この場合は赤十字だ)。この前提に立つ場合、両陣営は、発信者を説得するために最善を尽くすのがミッションとなる。つまり、ロビイング合戦だ。実際のところ、自治体はもちろん出版業界や放送業界などを始めとして、様々な企業や業界には、表現者として独自のガイドラインがある。これらは過去のロビイングによって少しずつ構築されてきたものであり、それぞれの価値観をすり合わせた結果とも言える。そして、このような自主規制ルールを作る上では、表現の自由は関係が無い。
ところで、何人たりともリソースの限界というものがある。特に赤十字にとっては両陣営からの意見を受け付けて適切に判断を下す、という非常にリソースを消費する作業が求められる。結果的に、赤十字は、問題が起こりにくい表現のみを使うようになる、つまり表現の萎縮が起こるという懸念が残る。しかし、究極的に言えば、私はこれは問題が無いと考えている。ポスターなどの表現は結局はコストパフォーマンスの問題であり、クレーム対応へのコストと得られる利益(この場合は血液量だろうか)のバランスを鑑みて、最終的には収束するであろう。コスト削減のために無難な表現を選ぶ、というのも戦略の一つであるし、多少苦情が来るのを受け入れつつ、血液を大量に集められる方向に舵を切るのも赤十字の判断だ。赤十字には自由がある。
しかし、ここで注意しなければいけないのは、必要リソース量には非対称性があるということだ。たとえば、赤十字に対して長時間苦情の電話をかけ続けるといった手法は、ロビイングの方法としては好ましくないと、私は考えている。表現者のリソースを飽和させることによって、半ば強引に要求を飲ませる手法は、私の目には品が良く映らない。人によっては、この手法自体を、不当な手段による「表現の抑制」と見なすこともあるであろう。意見の伝達は、なるべく相手のリソースを消費しないように心がけたい。もちろん、あなたがどうしても相手に飲ませたい要求であれば、多少強引な手法を取ることは(法律で禁止されていない範囲で)可能でもある。しかしその場合、まさにその行為自体が非難の対象となり、結果的に周囲からを理解も得られない結果になることもあるだろう。私自身は、Twitter上で意見をつぶやくぐらいが、相手にとって負担の少ない範囲だと考えている。
ロビイング合戦となると、「声が大きいほうが勝つのかよ」という非難もあるかもしれない。そうなのだ、声が大きいほうが勝つのだ。こればっかりは民主主義の必要コストなのか、いわゆる自由のための「不断の努力」というものなのか、各人が自分の信じる事を唱え続け、みんなを説得するしか無い。しんどいが、そういうものみたいだ。もちろん、弊害もある。「米国はNRAがロビイングを続けているせいで、いつまで経っても銃乱射事件が無くならない」という人もいるだろう。しかし、ではNRAの発言権を強制的に奪うことができるかというと、そうはならない。あなたにできるのは、あなたの意見で周りを説得して、支持者を増やすことだけだ。でも、しんどい。できれば相手に静かにしておいて欲しい。きっとお互いに「またかよ」と思うこともあるだろう。不毛に見えることもあるかもしれないが、自由とはそういうものなのだろう。
さて、表現の萎縮を懸念する材料として、一度決まったルールは安易に緩和されないという指摘も考慮する必要がある。
たとえば、知っている人にとっては「定番の話」であり、それ以外の人には「なんでそんなことに」と思われがちな自主規制として、「4本指のイラストは禁止」という決まりがある。これは、自主規制ルールとしてそれなりに広く運用されているはずのルールだ。このルールは部落開放同盟からの意見が由来らしいのだが、私自身(関東出身)は最初に聞いたときは「なんじゃそりゃ」と感じた。今現在も、「そろそろ無くしてもいいんじゃないの」と思っている。
一般に、規制というものは強くなる方向に圧力がかかる。形骸化したルールが、それを理由に削除されることは、傾向としては少ない。そのため、理由はどうであれ、細かいルールを積み重ねていくと、最終的には非常に厳しい規制が完成する。この傾向は、表現の自由度を求める陣営にとっては脅威である。一度決まりができてしまうと、それを覆すのは難しい。もちろん、ロビイングや社会の変化によって緩和が行われることもあるだろうが、できるならば規制が生まれる事自体を避けたい。この非対称性を考慮した場合、ポスター擁護派が過敏に反応することは、ある程度理解できる。譲歩の積み重ねが厳しい規制につながることを懸念するのであれば、今がまさに踏ん張りどころだと言える。
日本赤十字は半ば公的な機関であるので、より安全なルールを運用するべきではないのか、という指摘は、私自身は一理あると考えている。赤十字を公的機関と見なすかどうかについてはここでは議論しないが、公的機関がなるべく安全な表現を使う、というのは、すべての人へのサービスを提供する以上必要なことである。たとえば、政府がセクハラを是とした表現を行うことは望ましくない。なぜならば、セクハラは良くない行為であるという、社会通念上の合意が得られているし、法律という形で明文化もされている。あるいは、政府が過度に性的な表現を行うのもまた、望ましくないであろう。これは、公の場では性的なものを隠すという社会通念上の認識が共有されているからだ。
では、どのような表現が「望ましくない」ものとして社会で共有されているか、となると、全くもって難しい問題である。法的に認められていない行為は当然「望ましくない」し、差別を助長するような表現も、おそらくは「望ましくない」。しかし、社会の大部分は実際のところ未定義エリアとなっており、個別の案件ごとに勘案することになる。すでに広く指摘されている通り、たとえどのような表現でも人を傷つけることは往々にしてある。その前提に立つ場合、単純に「私(や私の周りの人々が)が傷ついたから」という理由だけで「望ましい」かどうかを定義することはできない。たとえば、単に子供が掲載されているポスターがあるとして、どうしても子供を授かることができない夫婦が傷つくからといって、そのポスターを取り下げるべきだろうか。この例に対する答えはない。もし、そのような人が日本で大多数を占める状況であれば、きっと日本政府はそのポスターを取り下げるべきであろうし、あるいは、その傷つき方が非常に強いものであれば、少数のために取り下げることもありえるだろう。(なお、この例示自体が、そのような人を傷つけているだろうという指摘も当然ある)
今回のポスターは、擁護派にとっては、このような未定義エリアの問題であり、どちらかといえば問題がないものとして想定されている。一方で、批判派は「望ましくない」ことが確定したもの、具体的には性差別の問題として認識している。この前提が異なる以上、公的機関が今回のポスターを掲示することの是非について議論するのは、あまり意味がないように考えられる。極端な話、件のポスターがポルノであれば、赤十字が掲示するのは不適切であろう。しかし、そもそもポルノかどうかという点が両陣営の間で確定していない状態では、それ以上の話はしようがないのである。
ところで、公的機関にとっての表現のコストパフォーマンスとは何だろうか。恐らくは、どれだけ全体を幸福を最大化できるか、という観点になるだろう。そして、なるべく多くの人が傷つかない、ある意味では無難な表現を用いるという戦略は、単純にコストパフォーマンスに優れるであろう。そういう意味では、公的機関を特別視するというよりも、彼らは単にコスパがいいから無難な表現を好む、と考えるのが妥当なのかもしれない。
献血を推進するためであれば、ポスターが引き起こす問題は無視されても構わない、という考え方が観測される。これは是でもあり非でもあるだろう。
ここで重要となるのが、ポスターが引き起こす問題とは何なのか、である。仮に、その問題が差別問題であると判断される場合、たとえ献血目的であろうとも、その表現は認められないと考えられる。例えば、「白人は慈愛に満ちているので、どんどん献血に行こう」と書かれたポスターは、現在の社会通念上認められないだろう。一方で、「差別とまではいかないけれど、傷つく人もいる」表現の場合、献血の重要性を理由に、多少の問題は無視されることもあるだろう。先程の例を再び使うのであれば、献血ポスターに子供を掲載することは、おそらく現在の日本では問題となることはない。
さて、ここまで来るとまた同じ話になるのであるが、今回の文脈において、ポスター擁護派は今回の問題を差別問題であると認識していない。一方で、批判派は、これは性差別の問題であると認識している。そのため、両者の話は噛み合わなくなる。結局の所、この論点もあまり意味がない。件のポスターがポルノであれば、それを公の場に掲示するのは、女性差別になるであろうから、献血のためとはいえ認められないであろう。一方で、ポスターがポルノでない場合、献血のためであれば、多少のことは無視される可能性はある。
続くよ