はてなキーワード: 俎上とは
落ち着いた頃合いなので掲題の語の意味について考えてみたい。(と書き進めていたがまた盛り上がっているようだ)
そもそも「性的に搾取される」という語の頭に「萌え絵で」は結合するのか?という日本語的な疑問はあるが、まずはこの用語自体が示す意味を考えたい。
まずは後半部分について考えてみたい。
安易なイメージだが、たとえば「多額の借金を背負ったため風俗で稼ぐ」といった状況を指すと解釈する。
その原因の理由に関係なく、性というプライベートな領域に対して実質的に自己決定権を持てない状態(=本来自分自身が持つべきものを不当に奪われる)を「性的に搾取される」と表現するのはイメージとしても理解できる。
よって、
に違和感は無い。
(補足)ただし
はいわゆる「主語が大きい」に該当する不特定多数表現で認められない。「日本一を取って目標が無くなった」という言葉を残して引退した女優までをも「被害者」と括るのは余りに失礼というものだ。
前項の理解をベースにすれば多少はイメージが……と思ったのだがやはりまだ難しいため順番に考える。
まず「萌え絵で~」の「で」は動作・作用の手段・方法・材料などを意味する格助詞である。言い換えれば「萌え絵を使って~」となる。
ここからが難解である。たとえばここで「男性全て」が搾取者なのだとするのはあまりに乱暴というものだろう。
では出版社だろうか?
性に関する書籍は多くの出版社が発行し、利益を上げるのだから可能性はある。しかし巻き上げているのは金銭であり、支払っているのは購入者だ。また、出版社自身が非難されるケースは目立たない(主にオタク男性が非難の対象となるケースを観測する)。
絵の描き手だろうか?
男性を男性らしく、女性を女性らしく描くことが非難されるのだとしたら誰も絵を描くことはできまい。また描き手についても直接非難されるというケースはあまり見られないように思う。また描き手には女性も多く、後述の通り何を搾取するのかという疑問が生じる。
描き手でも無く、出版当事者でもない、一消費者に過ぎないオタク男性が槍玉に挙げられるケースが多いので挙げたが、ここに至るロジックはどのようなものだろうか。
これもまた難解である。
当該用語に関して「当事者は私だ」と発言した女性もいたことから「萌え絵を見た女性個人」が搾取された者(当事者)だと解釈するのが自然と思われていたが、中には「この女性キャラは嫌がっているのにセクハラされている。これは性的搾取だ」という用法もあり、「萌え絵のキャラクタ自身」が当事者とする考えもあるようだ。順に検討したい。
「萌え絵を見た女性個人」は萌え絵を見ることで、性に関する"何か"を搾取されたということになる。
だが当事者は当然、萌え絵を見たが為に性を切り売りする労働に就かされてはいない。よってそれに類するような感慨を指すものと思われる。
しかし繰り返すが、当事者であることろの萌え絵を見た女性個人は特段"何もされてはいない"のだ。
何もされてはいないが「搾取された」と謳う、ここにこの用語の理解を妨げる最大の要因があるのではないか。
性的な部分を"強調"された(なお一般論として絵は特徴を強調する)絵を見ることで、絵のキャラクタへ自己投影し、自らが不本意に辱められている=性的な要素を搾取されたと感じる(冒頭のイメージに近い状況と認識する)ことから、「萌え絵で性的に搾取される」と形容された説はどうだろうか。
絵のキャラクタの人権にまで思い至らせる豊かな発想力は大切にして頂きたいが、自己と他人(人ですら無く、絵だが)の境界の認識がまず必要では無いかと考える(ちなみに作品のキャラクタが自我・自己を持つことに興味関心があるのであれば Re:CREATORS あたりがお勧めです)。
心情として、「不本意にも性的労働に従事するようなイメージで自らの性を搾取される」ことを指すものだと推測したが、これが「萌え絵を見る」ことで引き起こされるロジックの解明が必要と考える。
またその原因として、オタク男性が(恐らくは)搾取する側として定義される点も不明である。なお需要と供給の観点、即ち「オタク男性が存在するから彼らが好む不埒な萌え絵が量産され、良心的女性を傷付ける」とする桶屋理論はあまりに短絡的であり、オタク男性は全て滅ぶべしの結論に至るのみでいうまでも無く時間の無駄である。
余録。
幾度も繰り返されてきた議論にvtuberも参戦(被害)とは、隔世の感がある。
「性的では無い」といえば「オタクは感覚が麻痺している」と返ってくるのもまたテンプレだが、たとえば自分はゲーム等の影響でレーティングについては下記の認識を持っている。
全年齢:乳首は見えず(描かれず)行為は婉曲的な表現(俗に言う朝チュン)
これに照らせばキズナアイは全年齢表現であり、それ以上でも以下でも無い(アクション映画だと思って家族全員で見てたら唐突に濃厚なベッドシーンが出てお茶の間を凍らせるハリウッド映画こそきちんとレーティングして配慮頂きたいぐらいだ)。
胸の形が、上目遣いが、と言われてもそんなエロ目線で見ることができるのは根本的に視座が異なるためで相互理解は不可能と考える。オタク受けしかしないキャラクタを人前に出すなという主張であれば起用した企業に言うべきだが、起用した企業がそのキャラクタのファンを対象とした企画を立てたのならば「不満を持つ人達は対象では無い」で終わる話だろう。
これを唱える人は世の中には「良い表現」と「悪い表現」があり、両者は明確に区別・分別が可能であると思っている節がある。
このため「悪い表現」をゾーニングすれば「良い表現」だけが残り、世界は平和になると考えているようだ。
ゾーニングして「悪い表現」が消えれば次の「悪い表現」が見つけ出されて消え、清く美しくなっていく世界をお望みとは世も末である。
性的搾取議論におけるテンプレの一つだが、個人の好みによる感情以外は特段どうも思わないケースになるのではないか。
というのも、多くの男性が男性外性器を"息子"と称していることからも、男性は基本的に"息子"には寛容であると思われる。
そういえば男の娘やふたなりジャンルは一体どちらの性を搾取しているのだろうか?という疑問に気付いたが俎上に乗ったことはあるのだろうか。
「小児性愛者は、小児性愛行為を合法化せよと主張しているのではない。」
LGBTとしても、そのように主張している訳では無い。ではどこからそんな話が出て来たかというと、同性婚の話題が出るときに常に小児性愛が引き合いに出されるから。
この時に引き合いに出される小児性愛というのは、「小児性愛行為を実行する人」のみが引き合いに出される。「実行しない人」はそもそも俎上に載らない。
どういう事かというと、同性婚の話では「同性婚するLGBT(関係を持つ人)」の話題なのであって「同性婚しないLGBT(関係を持たない人)」の話はしてない。だからここで引き合いに出される小児性愛は、行為をする人(関係を持つ人)のみになる。
「ロリコンは法律違反だからダメ」みたいな幼稚な言説を退けるため。
必ず両立してるわけじゃないので、何の救いにもなってない。
さんざん書いたので略すが、「それは証明されてないし、証明不可なことだ」
「なんで未成年はそういう扱いなの?」などとさらに遡っていけば
人類の法制史を語ることになり、俺にはその全てを説明する時間も能力もない。
このくらいで勘弁してほしい。
これが説明で着ないのに、「ロリコンは悪」とはとても言えないんじゃないかね?
あと、「社会的合意」はLGBT差別の前科が示す通り、万能、常に正しいわけではない。
増田で書いてることに対して、「国会に云々」言ってるやつはココがどこか理解できてるのか?
あと、「私が国会云々しない」ことは、「私の論が間違ってる」ことを意味しない。
「そう決まってる」「決まってるから変えにいけ」だけで、
おまけに「これは説明で、意見ではない」とかツッコミ対策するチキンっぷり。
よくもまぁ、偉そうに「議論ができない」とか書けたもんだよ。
区別してるよ。
ではなぜ「禁止国内でLGBTがテロリストとして扱われること」にこだわるのか理解できない。
「こういう状況においてこういう立場であればこういう意見になる」という何の意見の表明でもないただの説明に、
「あらゆる状況でそうだって言うんだな?」とか「おまえもそれが正しいと思うんだな?」みたいな反論を延々としている。
とりあえず現状の日本においては、
「内心でそう思うだけなら違反ではなく、現実をモデルとしない二次元であれば違反ではない」ということになっている。
俺が「そういうロリコンであれば許す」と主張しているわけではない。
LGBTとの違いは、同性愛者は成人同士で互いの合意が有効であるのに対し、
ロリコンは必然的に相手が「未成年」となり、意思決定能力に欠けるために「合意」が得られないからだ。
俺が「未成年には意思決定能力がない」と主張しているわけではない。
「なんで未成年はそういう扱いなの?」などとさらに遡っていけば
人類の法制史を語ることになり、俺にはその全てを説明する時間も能力もない。
このくらいで勘弁してほしい。
とにかく、社会はそういう仕組みで動いていて、多くの人がそれを許容しているし、
反対があれば社会に訴え、賛同を集め、国会で俎上に上げて、法律を変更することができる。
民主主義国家であれば、あらゆる成人にそれを成す権利が与えられている。
ロリコン擁護は実名ではしづらいというのも確かにそういう問題はあるのだが、
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.okinawatimes.co.jp/articles/-/198183
いやいやいや、
そもそもサヨの人達が勝手に「ネット右翼」呼ばわりしてる人達のほとんどは一度も保守とか右翼とか自称してねーだろ。
むしろ彼等はたびたび「自分は保守も右翼も志向してなくて、ただサヨに問題を感じてるだけ」って自分達から言ってるじゃん。
でもそれだとサヨの人達的には都合が悪い(彼等は人をチェックするのは大好きだけど自分達自身が俎上にされてチェックされるのはとんでもなく不当なことだと思ってる)ので「いいや俺達に文句を付けるのは右翼なんだ」っていう虚構を押し付けた結果、少しでも気に入らないとか自分に不愉快な存在をなんでもかんでもネトウヨ呼ばわりするようになって、どんどん自らの知能を落としてるんじゃん(陰謀論やレッテルで批判を封じ込めるようになったら知能の維持は不可能)。
一周回ってきたら「あいつらは反サヨではなく右翼」という自分達の都合の為の虚構が虚構だったことも忘れて「保守ではない。反左翼というだけ。ネトウヨの正体看破!」って、痴呆でも始まってんのか。80近くまでボケずに頑張った西部邁をダシにボケ果ててるんじゃないよ。
実際のところ女性が俎上に上げる男というのはそんな奴ばっかだから。
女性向けアンケートがよくいうNG男性のトップが「店員に高圧的・タメ口」だが、数的に言ってそんな人間滅茶苦茶少数派だ(地域差があったらごめん)。
しかし女性は「NGな男性」ときかれるといつもそれをトップに上げる。
これはNG度合いが高いというより、よく視界に入る、つまり女性はそういう男に注目するということ。
https://twitter.com/anatatachi_ohno/status/951765345030742016
ここでいう「肩を叩く」「お茶に誘う」(どっちも結構図々しくウザい感じに、というニュアンスだろう)も同じだ。
ウザい感じに肩を叩かない男の方が圧倒的に多い。
女性の目は常にそういう男の方へ向いている。
肩を叩かない男のことを「あの人は肩を叩いてこないね」等と話題にすることはない。
であれば、そういうテストステロン的なウザい行動を繰り返すというのは
女性の目を集めてモテるために限れば結局最適な行動なのだろう。
Q.「女性にモテたい男ほど女性に嫌われるようなウザい行動をするのはなんでか?」
高圧的・セクハラ的ウザ男性とそれにクレームを付ける女性というのは
単なるちちくり合いコミュニケーションをしているといってもいいだろう。
『[翻訳] ドヌーヴ「女性を口説く権利」 全訳』を掲載された方が、"la liberté d'importuner"を「ウザがられる自由」とお訳しになったのはなかなかの技だと思うのですが、惜しいことに、この全訳はかなりの数の誤訳を含み、その結果、多くの箇所で、原文の文意を正しく伝えていません。
以下、大急ぎで、主だった誤訳箇所を列挙し、元記事(http://www.lemonde.fr/idees/article/2018/01/09/nous-defendons-une-liberte-d-importuner-indispensable-a-la-liberte-sexuelle_5239134_3232.html)の正確な読み取りに基づく改訳を提案しておきます。「✖」で誤訳箇所を示します。「⇒」でその部分について、正確であろう訳文の例をを示します。ご検討ください。
⇒また、女性に対する慇懃な振る舞いを女性を傷つける男性優位の態度と見なすのは間違いです。
✖正しく意識されるようになった。
⇒意識されるようになったのは正統なことだ。
✖いわゆる普遍の名の下で、
⇒誰にとっても善いのはこういうことだと勝手に決めて、
✖実際、報道メディアやソーシャルネット上で、#metooが巻き起こしたのは密告と、個人個人に抗弁の余地や弁護の余地を与えることなく、性暴力の加害者と同じ俎上で糾弾することだった。
⇒事実、#metooを通して、報道メディアやソーシャルネット上に密告と公の場での告発のキャンペーンが発生した。犠牲になったのは、性暴力の加害者たちとまったく同じ俎上に乗せられ、抗弁の余地も弁明の余地も与えられない人びとだった。
✖「豚野郎」たちを屠殺場へ送り込むこの熱狂だが、女性が自立することを手助けるには程遠かった。 実際には性の自由の敵、宗教的過激主義、最悪の反動主義者に利益をもたらすことになってしまった。この反動主義者は、実質的にはヴィクトリア朝のモラルのもとで、女性を「別扱いな」存在とみなし、女性を保護することを求めながら大人の顔をした子供とみなすのだ。
⇒「豚野郎」どもを屠殺場へ送り込もうとするこの熱病は、女性が自律的になるのをいささかも助けない。それどころか、実際にこの熱病から利益を得るのは、性の自由の敵たち、宗教的過激主義者たち、最悪の反動家たち、そして、実体論的な善概念とそれにともなうヴィクトリア朝風のモラルの名において女性を一種「別扱いの」存在と、大人の顔をしていながら子供のように庇護されることを求める存在と見なす人びとなのである。
✖ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』を「女性差別」で
⇒ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』を「女性蔑視」で
✖「やりりたいこととやりたくないことに」
⇒「してもいいと思うことと、するのはいやだと思うことに」
⇒人の気分を害する自由
✖彼女は給与が男性と平等に支払われるように注意しているべきだ。しかし、地下鉄で痴漢にあっても、それが犯罪だからといって、トラウマを植え付けられたと感じる必要はない。
⇒彼女は彼女は給与が男性と平等に支払われるように注意することができる。しかし、地下鉄で痴漢にあっても、痴漢行為が犯罪と見なされるからといって、一生涯続くトラウマを植え付けられたとは感じないでいることもできる。
✖評判だおれだったとさえ考えてもいい。
⇒さらには、大した出来事ではなかったと考えることさえできる。
✖女性としての私たちは、自分たちが、力の乱用を超えて、男性たちとセクシャリティへの憎しみという顔をもったフェミニストになることを認めない。
⇒私たちは女性として、権力の濫用を告発することを超えて男性たちとセクシャリティへの憎しみとして表れるフェミニズムに強い違和感を覚える。
⇒ウザがられる自由が男たちの側にあってこそ意味を持つと私たちは考える。
✖そして私たちは、このウザがられる自由にどう応えていくかを知らなければならない。性的な獲物の役割に閉じこもる以外のやり方でだ。
⇒そして私たちは、このウザがられる自由に対して、獲物の役割に閉じこもる以外のやり方で対応する能力を持っていなくてはいけない。
✖子供を持つことを選んだ人々のために、
✖娘たちが気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなどなく、自分の人生を精一杯生きるために十分教育されて自覚を持つことが適切だと考えている。
⇒自分の娘たちが、〔性について〕気後れさせられたり罪の意識を感じさせられたりすることなく、人生をのびのびと生きるのに十分なだけの知識を得て意識的になるように育てることこそ適切だと考えている。
✖たとえそれが辛く、生涯残る傷を残すものだったとしても、身体を傷つけられる事故にあった女性は尊厳を傷つけられないし、傷つけられるべきでもない。
⇒女性の身体に関与するアクシデントは、必ずしもその女性の尊厳を傷つけるわけではなく、ときにきわめて辛いものであっても、そのアクシデントを理由に当該女性を終身犠牲者のように考えるのは必ずしも適切なことではない。
以上。
以下、高校受験を控えた中学生が正月に勉強サボって書いた妄想文のようなもの。
誤情報・誤認識に基づいた記述が多々想定されるので、くれぐれも「その通りだ」などとは思われぬよう。
1、ノーベル賞を受賞しても国家予算は決められない
大隅良典先生は、オートファジーなる現象の発見で2016年のノーベル賞を受賞された。
その後、いくつかのメディアなどを見ていると、大隅先生は
・独創的な発想に基づく研究の推進
・若手研究者の支援など人材育成の充実
などを提言されている。
しかし、この影響は極めて部分的なものにとどまると思う。
つまり、今後も独創的な研究の支援は増えないし、
若手研究者の研究環境・生活環境は悪劣なまま維持される。
なぜなら、「科学技術振興予算は今後、増えない」からだ
(ごまめの歯ぎしり:河野太郎代議士のブログ参照)
https://www.taro.org/2017/01/%e8%ac%b9%e8%b3%80%e6%96%b0%e5%b9%b4%e7%a0%94%e7%a9%b6%e8%80%85%e3%81%ae%e7%9a%86%e6%a7%98%e3%81%b8.php
科学技術振興予算の内訳を組み替えるにしても、
すでに奪い合いの激しい中で、目に見えた結果の出にくい
上の二つをどこまで拡充できるかには疑問がある。
もしも予算を増やそうなどと思ったら、公民の教科書ではないが
概算要求→政府案→予算審議→予算成立
という国家予算のプロセスの中で、負債の返済や、
増え続ける社会保障費などとともに俎上に載せた上で、
予算成立までこぎつける必要がある。
どちらにしても、研究者という存在の限界は
大きく超えているように思い、いくらか愚考してみることにした。
具体的には、
「研究者が国会議員になることで科学技術振興予算を増やせないか」
ということだ。
多分、ノーベル賞学者の知名度なら参議院議員になれると思ったので、
2019年の選挙もそう遠くないし、勝手に考えてみた。
2、象牙の塔からの発信ではなく議員として予算委員会へ
いきなり乱暴な議論だが、上記の予算プロセスを経て、
「平成29年度予算は政府案どおり成立した」らしいので、
http://www.mof.go.jp/budget/budger_workflow/budget/fy2017/
政府=研究者ならば問題は解決する気がする。お手盛りで決められるかもしれない。
当然そうはならないが。
では立法、つまり国会から研究支援法のようなものを提案することは可能だろうか。
これもなかなかハードルが高く、参院ならば10名
(予算がらみなので20名以上?)集めないといけない。
おそらく、まず初めにできることと思われるのは、
予算委員会で発言する事のように思う。できれば議員として。
予算審議の公聴会における公述人でも良いではないかと言う考えもある。
しかし、それでは足りないと考えている。
五年前くらいに災害対策特別委員会で京都大学教授・
内閣官房参与の方が日本の災害対策・インフラ問題について、
公述人として熱く語っていた。
しかし、地方のインフラの悲惨さが変わる気配はない。
つまり、考えの正しさだけでは足りない。
国民の理解を得られている、という事を示さないといけない。
やはり選挙を経て、国民の信任を受ける必要がある。
しかし、わざわざ著名な学者でなければならないのだろうか。
3、果実をもぎ取った人の説得力が必要だ
結論としては、著名であることは何より必要であろうと思われる。
国民に対し研究の重要性を訴える事は、誰でもできる。
しかし信頼を得るには、担保となる実績が必要だろう。
研究の種が花開き、果実をもぎ取る季節までは、
気が遠くなるような時間がかかる。
蝉の一生ではないが、ほとんどの時間は日の当たらない
地中生活といっても過言ではない。研究者にとっては、
その生活も楽しいのだが、たぶん理解されない。
広い人々に訴え、信頼を得るには、
その手に確かに、たわわに実った果実が必要だろう。
現状、日本は科学・技術の振興をやめつつある。
他の先進国との競争に負けつつあり、新しい研究の芽吹くことのない、
研究の土壌として貧しい国になりつつある。
Nature Indexについての記事が話題になったのは記憶に新しい。
https://www.natureasia.com/ja-jp/info/press-releases/detail/8622
これでいいのか、このままでいいのか、
ということについて述べるのは、あまり意味がない。
悲しいことだが、国民が選び議論した結果だからだ。
それでも保険会社が子供に夢を聞けば、
「学者」は高い人気がある。
彼らが果実をもぎ取ることができる未来は
このままだと日本という国からは着実になくなっていく。
衰退しつつあることが現状である以上、
現状維持は衰退の維持である。
わかりやすいところでいうと、
大学院の博士課程には、もう学生がいない。
愚考とはいえ、著名な研究者の国政進出を願いたくなるほどに、
現状は深刻で、喫緊に対応を要すると思う。
4、別に大隅先生でなくてもいい
非現実的なところでいくと
・政府・内閣・国会が突如科学振興に目覚めて予算方針や法律が変わる
・法律や閣議決定された予算の基本方針などに逆らって
勇敢な予算編成が組める官僚が出現する
もう少し現実的には
・研究者が大挙して霞ヶ関に大々的に陳情に行く
(パブリックコメントって効果あったのだろうか)
・国会議員に積極的に働きかけ理解を求める
しかしこれらの効果も限界があるように思われるので、
・研究者が国会議員になる
が短期的には最も有効である気がしてしまう。
中期的には研究者が中心となって小さくても良いので政党化すると良いと思う。
長期的には
・科学振興が選挙における関心事になる
ことが良いように思うので、
少しずつでも科学者は象牙の塔から出て、
地域のイベントや飲み屋に繰り出すべきではなかろうか。
研究者という生き物が国民に、さらには国会議員にきちんと理解されるようになれば、
研究者は象牙の塔ならぬ地中暮らしで満足なのだから。
大隅先生など著名な先生を国政に引っ張り出す必要もなくなる。
以下の文などを読むと、すでに飲み屋には
大隅先生をはじめとした研究者がたむろっている気がしてならないが。
http://www.jscb.gr.jp/jscb/contribution/contribution.html?vol_id=223&no=9&id=28
以上、あまりの散文に目眩を覚えつつ、間違って投稿ボタンを押すことにする。
これらの疑問はどれも共通の誤りを含んでいる。
それは、「人生を外側から見なければ答えを出しようがない」という点である。
つまり、「何にとって」意味があるのか、「何の」役に立つのかという目的語を定めなければ意味が定まらない。
意味が定まらないということは議論の俎上にさえ上げることができない。
たとえばドラクエをしている人に
と聞けば、
「レベルを上げるためだ」
と返ってくるだろう。
ところがこの答えは「ゲーム」という狭い枠組みの中の話でしかない。
→シナリオを進めることはゲームをクリアするために意味がある。
となって、それ以上は辿れない。すなわち「スライムを倒して何の意味があるのか」という疑問には、
【ゲームをクリアするうえで】という限定指示が暗に付属していると解釈せねばならない。
これがもし「【人生において】何の意味があるのか」という疑問だったならば、
とでも答えないといけない。答えが変わるということはすなわち元の疑問が全く違う疑問に変わっているということだ。
ところで冒頭に上げた疑問のうち、
これはいったい、「何にとって」なのか?
「他人にとって」、ならば、まだいい。
厳密には、「他人の人生に対して何か満足度を上げるようなことができるのだろうか?」という疑問になる。
これは疑問として成立する。
「俺の人生の意味」なんていうのは、「俺の人生」が一度終わってみないと確定しない。
しかし、「俺の人生」が終わっているということは、「俺」はもういないということである。
いない対象にとってどんな意味があるかという疑問は、疑問として(語用論的に)成立していない。
一応、死後の世界の存在を仮定すれば、その疑問を持つことは可能であるが、
神ならぬ我々には死後の世界の詳細がわからない以上、その疑問には「絶対に回答できない」。
絶対に回答できない疑問は、やはり疑問として成立しない。
という主張にある。
細かいことを言えば、効用関数とかリスク選好度はどうなんだとか色々突っ込むところはあるのだが、それよりも最も重要なのが、この主張は
ということだ。
言うまでもなく、この比較は、「人生を外側から見なければ評価できない」ことの典型的な一例である。
生まれた場合と生まれない場合の評価を、期待値で測るのか、期待効用原理で測るのかはたまた他の方法なのかは反出生主義の主張からは読み取れない部分だが、
いずれにせよ彼らは「生まれない場合の評価はフラットにゼロである」ということを前提としている。
ここがクリティカルな誤りだ。
我々は人生内部のことしか検知できないため、そもそも生まれない場合の評価をすることができない。
いわば、生まれない場合の評価はNullであり、Nothingであり、#N/Aである。
死後や生前の世界が存在しない場合、評価値が存在しえないという意味の#N/Aであり、
それが存在する場合、正当な結果を知りえないという意味で#N/Aだ。
#N/Aとの比較結果は当然#N/Aであり、前提が成り立っていないことがわかる。
(追記)
これに対する言及です(忘れてた)
https://togetter.com/li/1182893
異世界を描くにあたって現実世界と違う文化や小道具を出してそれを表現するのは効果的だ。だから『JKハル』においては書き出しでコンドームが草だということにハルが草を生やしている。
あたしがこっちの世界に来てまず一番ウケたのが避妊具が草ってことで、「やべ、草生える」って爆笑したら、「生えませんよ」とマダムは真顔で言った。
「スキネ草も知らないの? もうかれこれ30年も前に錬成されてこの辺じゃどこの薬草屋にも売ってるけど。ずいぶん田舎から出てきたのねえ」
スマホどころかネットも電話も、そもそも電気もねぇ車も走ってねぇの世界の人によりにもよって田舎呼ばわりなんて、東京のみんなマジごめん。都市辱だよね。
避妊具が草という異世界の文化が示され、ハルが「草生える」という日本のスラングで応じる。するとマダムに田舎者扱いされてしまう。異世界より文明の進んだ東京から来たというのに! この異世界と現実世界の文化が二度にわたって対比される冒頭は、普通に読めば相当ウィットに富んでいると思うが、しかし山本はここを無視してシャワーがあるというだけで異世界的想像力に欠けていると文句を言う。難癖もいいところであろう。
問題は書き手の側が、「異世界は現実世界と変わらない世界でなくてはならない」という不思議な信念に捕らわれてるってことなんだよな。そんな意味のない縛りをはずしたら、もっと自由な話が書けるはずなのに。
「そんな意味のない縛りをはずしたら、もっと自由な話が書けるはずなのに」と言いつつ、他作家をそんなマイルールで縛ろうとし、不自由を強いてくるのは何なんだろうか? 自分が勝手に自分の作品にそれを課していればいいだけであって、それをもって「想像力貧困な小説」だと他作家の作品を批判するのは筋が悪すぎる。
山本は「わざわざ異世界に行く必要ないんじゃね?」と言うが、『JKハル』が異世界に行くのはもちろん理由がある。
ひとつは、「過酷な男尊女卑の世界で東京JKが娼婦となってサバイブする」というシチュエーションのためだ。これを現実世界でやろうとすれば両親の存在や児童養護施設といった社会的セーフティネットを何らかの形で消化しないといけないし、ハルは18歳未満なのでソープで働けないという問題もクリアしないといけない。自らウリをやるか非合法施設で働くとかそういう話になるが、そんなことを話の俎上にあげれば『JKハル』の主題からどんどん離れていってしまう。『JKハル』が描こうとしている話をやるためには誰もハルを助けてくれない異世界に放り出されるのが手っ取り早くかつ妥当なのだ。
理由はもうひとつある。それは『JKハル』が異世界転生モノへの批判と愛を内面化したメタ小説だという点だ(と書くと、「異世界転生モノを馬鹿にしているのか」とか「異世界転生モノをメタったなろう小説はいくらでもある」とか怒り出すやつがいるが、別にそういう話はしていない。『JKハル』もまたメタ異世界転生の要素をもった作品で、その消化の仕方が独特だというだけである)。これは読めばわかるし、既に指摘した感想なり論考がネットにあるため詳しくは解説しない。
せっかく異世界なんだから、魔法を使ったすごいセックスとか、非ヒューマノイド型のモンスターとのセックスとか、いくらでも突拍子もない想像力あふれるセックスが描けるだろうに、何でこんなつまんない当たり前のセックスばっかりなの?
これこそ山本弘の「想像力が貧困」で、かつ『JKハル』が描こうとしているものをまったく理解できていないことを自ら告白する一文であろう。
『JKハル』を読めば誰もが当たり前に理解することだろうが、あの作品は別に「魔法を使ったすごいセックスとか、非ヒューマノイド型のモンスターとのセックス」を描こうとしていない。そんなことを言い出してしまうのは戦国時代にタイムスリップする話は常に現代兵器を持っていくべきなどと言うぐらいおかしな話であって、別にそういう話があってもいいが、全ての作品がそうあるべきと言ってしまうのはただの暴論だ。
『JKハル』におけるセックスは、暴力的で抑圧的で一方的なコミュニケーションの象徴である。男尊女卑の行き過ぎたあの世界で、多くの男性客はハルを含む娼婦に暴力的なセックスをする。実際に暴力を振るわれることもあるし、もっと屈辱で悲惨なことさえ起こる。しかしハルやあの世界の女性たちは挫けず前向きに生きていこうとする。あの作品にセックスが描かれるのはそういう意図から発したものであって、かつその構図を純化して描くための異世界でもあるのだ。
また、ここで言明しておきたいが、男は常に悪者とかそういう話ではない。
『JKハル』が批判的なのは、他者を理解しようとせず一方的なコミュニケーションを取ってしまう者であってそこに男女の区切りはない。
物語の序盤では話を聞こうとしないシスターにハルがめんどくさそうな態度を取るし、何よりハル自身が、もうひとりの主人公とも言える千葉に対して無理解であり、そのことを別の女性キャラクターに指摘されるくだりがある。『JKハル』が主人公や女性をひたすら称揚し、男性であるというだけで批判する話でないことは、念のためここに付記しておく。
いつ異世界転生小説は現実逃避小説であると決まったのか。またそうであったとして、異世界を舞台に現実と戦う小説を書いてはならない理由はなにか。
「SF」の古典に未知なる想像力を描いた作品があることは疑いようのない事実だが、それをもって「SF」は常に未知なる想像力を描くべきというのは暴論だろう。
また、未知なる想像力を描いた「SF」や現実世界とは違う異世界描写をした「ファンタジー」が素晴らしいというなら作品で訴えてこそ作家ではないのか。それを広く世に示す作品が書けず、あまつさえ他人の作品の狙いや意図を理解せずに古典的名著を棍棒にしてただ殴りかかるのであれば、山本には小説家としての矜持と能力がないと言わざるをえないし、作家としての筆を、今すぐにでも折ったらいいのではなかろうか。
それにしても、一方的なコミュニケーションに批判的な視座を持つ『JKハル』に対し、作品を理解しようとせずマイルールを押しつける山本弘は、作中2話に出てくるモブおっさんそっくりで、非常に皮肉が利いている。
“「批判はあるけれど、一方でOKとされている」なんて事例は、この現代社会に存在しない” いや、それが大半でしょ。その上で、多様性として受け入れるものもあれば、セクハラのように排除すべきものもあるって話かと
こういうブコメがサラッと出るの、さらに少しでも星がつくの、怖気が走るよな。
自分が楽しむものは「多様性」として受け入れて、自分が嫌なものは「セクハラ」と切って捨てるわけだろ?
男向け二次ポルノを排除したら、BLも排除されたってショック受けてた女子も居たが、当たり前だろって話なのに、こうして「BLはたよーせー」って思ってる輩が多いんだよ。
(ブコメの人がそうだと言いたいわけじゃない、けどBL排除にショック受けた女子は似たような感覚だったはずだ)
もちろん、「本当に酷くなったら排除」という人もいるだろう。
「社会的影響力」ってな言葉で、それを助長するからと、本来だったら「たよーせー」レベルの酷くないものまで、排除されるだろ?
はあちゅうさんが、岸勇希氏から「電通」でセクハラやパワハラを受けた
この件が話題になるにつれ、はあちゅうさんが過去にTweetした
「童貞いじりの件」(彼女Twitterでの言葉を採用し、この言葉を使うが、わざわざ逆撫でする言い方をしなくても良いのにとは思う)
これはどうなっているんだ、これもセクハラではないのか、と批難の声があがっている。
感情に流されない識者は、岸勇希氏からのセクハラやパワハラと、「童貞いじりの件」は別箇に議論されるべきであって、
今回の彼女の告発は、相対化されるものではないとコメントしている。
まったくその通りだと思う。
はあちゅうさんが、「私は電通の考え方に染まったのから『童貞いじりの件』をTwitterに書いた」といえば味方できるのに、というのも、この二つの件を混同している典型に思える。
一番問題なのは、「理想の被害者ではないと声をあげてはならない」と、被害を被っている側、被害者の相談を受ける人が内面化することだろう。
しかし、この二つのことを一緒くたにしてブーメランだとか、語る資格はないと語る人がいる。なぜか。
「童貞いじりの件」という言葉は、女性から男性へのセクハラ、同じセクハラという言葉の定義に抱括されてしまうからだ。
Wikipediaのセクシャルハラスメントのページ(いろいろ見て回ったがWikipediaがわかりやすかった)を参照する。
セクハラは、対価型セクハラと環境型セクハラに分類できるそうだ。
今回のはあちゅうさんが「#metoo」のハッシュタグで告白したものは、対価型セクハラに分類される。
一方、はあちゅうさんの「童貞いじりの件」は、分類するならば、環境型セクハラに分類されるっぽい。
(あくまで私の私見である。きっとこのように綺麗に分類できるものではないし、セクハラにあたるのかもわからない。私は専門家ではないので、専門家に詳しい解説を願いたい)
どうも、この対価型セクハラと環境型セクハラをセクハラという大きな言葉で括っていることが
要はセクハラと言ってもいろいろなモノがあり、そのひとつひとつの拾い上げて検証する必要があるのではないだろうか。
対価型セクハラと環境型セクハラという分類も、大雑把な分類だがこの性質はまったく違う。さらにその中でも発信される場所などに対しての考慮も必要だろう。
対価型セクハラは、権力を持つものが、セクハラもしくはパワハラをその権力を笠に行うので、セクハラ・パワハラ被害を訴えにくい。
対価型セクハラは、声をあげ辛く、議論の俎上にも載せにくい。なぜなら声を上げるだけで不利益を被る蓋然性が高く。匿名で訴えたとしても、信憑性にかけると判断される可能性もある。
一方の環境型セクハラも職場や学校など限定された環境であれば、声をあげるのは難しい。
しかし「童貞いじりの件」は、インターネット上の発信であり、批判の声を発信者に届け、議論の俎上に載せることは容易である。
そもそもはあちゅうさんが、童貞に対して(語りかたが不愉快だから)何も語る資格を持たないというのも、冷静に考えれば妙な話であり、
さらに言えば、はあちゅうさんの今回批難されているTwitterの「童貞いじりの件」は、概念としての童貞を語っており、誰か個人を晒し上げているわけでもない。
そもそもセクハラなのか、これは環境型セクハラに分類しちゃって良いのだろうか(専門家の意見求む)。どうもビミョー臭い。
本人が堂々と公言している童貞、ヤリマンをコミュニケーションネタとしていじることや下ネタとセクハラは違うと思うんですけどねー。明るく楽しく笑えるものが自粛になるのは嫌だなー...。
と、いうはぁちゅうさんのコメントは、童貞をタブー視することこそが問題なんじゃね?と彼女なりの考えがあっての発言にも思える。
彼女の言い回しに対して違和感がないわけではないが、言わんとすることはわかる。
すべての、セクハラという言葉で定義できるものをシステマティックに片付ける社会は嫌だけど、許せないことはある。これは矛盾しない。
私はセクハラやパラハラの専門家ではないので、発言を控えるべきだとも思った。
しかし、かつて酷いパワーハラスメントにあい「言ったとて、どうにもならない」と言い出せず、悔しくて、惨めな思いを味わったこともあり、
今回の#metooの動きで声にならなかった言葉が可視化されて、今後「私だけじゃない、これは怒っていい奴だ」と声をあげやすくなるのは、
とても素晴らしいことだと感じ、考えを述べた。