はてなキーワード: 伝統とは
んなことはない。
「黒人が差別されず黒人としてプライドを持って生きること」を主張することもある。
トランプ支持するために共和党に入党する人がいっぱいいて乗っ取られた感
だけどアメリカ保守の敗北はトランプ現象で始まったことじゃない
ジョージ・W・ブッシュ政権もまたネオコンと呼ばれ
トロツキズムの影響が指摘され伝統的な保守からみれば異質な存在
(リベラルよりはましだという感じで乗っかってる感)
一方リベラル民主党は労働者の党だったはずが高学歴・富裕層エリートのための党になってしまった。
庶民に一冊の本も届かない時代にそれらを習得する(させる)には宗教システムを使うのが手っ取り早い。近代化で次々と宗教のバグが見つかり人類は宗教に絶望し緩やかに捨てた。
廉価大量の製紙技術は情報増大をもたらし宗教に頼らず個の判断で生きることも可能になった。
ネット時代に入り、さらなる情報過多は個人の知を向上させず混乱を招いた。
人類は他己による
の基準を求め始めた。
集合知、民主的な意思決定。欠点は無い。SNS同調はロジカルな収束だ。
特に推論は過去の知識と経験と言語と感情、様々な脳機能を組み合わせる必要があり、
右脳左脳脳幹前頭葉すべての部位で大量の酸素と糖が消費される。
これは人体にとってはコストパフォーマンスの悪い活動である。
丸太を右から左に移動させる単純作業ではエネルギーは筋肉で消費されるが、本来ヒトを含む動物はこういった活動に最適化されている。エネルギー効率から見るとコストパフォーマンスが高い活動といえる。
片付けして身綺麗にしましょう
今後は、
やがて離合集散の時代を経て勝者いくつかのグループにまとまるだろう。
この動きはすでに始まっている。天皇信奉するネトウヨなどもそれ。
古くからネットやっている人間に言わせりゃンな事ナニを今更だろう。
ネット勃興時代からすでに指摘されており、2ちゃんねるでも散々テーマになった。
他人の感情を集めて煮詰めるには、調理と鍋と料理人が必要であり
例え調理人になれなくても、諦めて無自覚な具材になるよりマシだ。
そうだそうだ、久しぶりに筒井の「朝のガスパール」を読み直そう。
(筒井は30年前にこうなることをあっさり見破っていた)
1820年にマサチューセッツ州から分離独立した後、1828年の選挙まで、メイン州は分割選挙人投票制を採用していた。その後、他のほとんどの州が採用し始めたように、同州は勝者総取り制に移行した。
しかし1972年、1968年の大統領選挙では、共和党のリチャード・ニクソン氏、民主党のヒューバート・ハンフリー氏、無所属候補のジョージ・ウォレス氏の3者による3者択一のレースが行われたため、州は伝統から脱却した。このレースでは、州の有権者の半数以下に支持されている候補者に選挙権が渡ることを懸念する声が上がったため、メイン州では選挙人投票の分割が実施されました。
ネブラスカ州も20年後にこれに倣い、地方議員が大統領候補者の注目を集めようとした。共和党の議員たちは、分割選挙人投票制度の廃止を何度も試みたが、失敗に終わった。
では、久しぶりにここらへんで「予言」です。11月3日のアメリカ大統領選は現職のトランプが圧勝で再選します。根拠は実はトランプの娘が盛っているだけで本当は「貧乳」だからです。
激戦州ペンシルベニア州菓子店◇トランプ氏クッキー→1万個以上売れる「TRUMP2020」をデコ
ちなみに議員会館売店で“晋ちゃんまんじゅう”は100万個以上
嫌いな人は,まずそうで”食べない”世論調査より正直
アメリカ大統領選は、蓋をあけてみればビックリのトランプ圧勝に終わる。
万が一、トランプが負けるようなことになれば、2020年11月4日は、「世界の終わりの始まりの日」となる。私の生きている間に日本も滅ぶかもしれない……
https://twitter.com/KanAugust/status/1323196053642903552
1/ 私が今回トランプが勝つだろうなと思う一番大きな理由は「愛」です。赤色のハート赤色のハート赤色のハート
感情というのは人から人へと伝播します。「愛」の感情はとても強く、間違えれば人間を破滅させるほど強力です。しかし正しい方向に向かえば「愛」は不可能を可能にしてくれるほど強力です。
2/ 普通この「愛」というのは自分たちの価値観、信仰、家族、コミュニティ、国などに向かうものですが、今回はトランプに対する「愛」が強い。無茶苦茶強い。
3/ 支持者は自分たちが大切にするものを守るために、この男がこの4年間戦い続けてきたのを見てきたから。
「自由」という価値観 信仰の自由家族やコミュニティ(法と秩序、雇用、教育、経済) 国(安全保障、国境、国旗)
4/ これだけ、メディアにいわれのないデマ(ロシアゲート、弾劾裁判、人種差別主義者、などなど)を使って連日叩かれ続けた大統領を私は見たことがありません。それでも彼は怯むことも、諦めることもありませんでした。
6/ 現在トランプ支持者は黒人、ヒスパニック、アジア系、ユダヤ右派、LGBTの間でも急速に広まっていっています。
12/ メディアを通してのトランプしか知らないと、こうした現象は不思議。しかし、支持者であれば至って単純明快。彼らは人種が何であれ、宗派が何であれ、「自由」を愛し、それを実現するアメリカを愛しているから。そしてそのために戦うトランプを愛している。
13/ トランプは誰よりもアメリカを愛している。このことをトランプはこの4年(さらに彼の人生)の行動で示してきた。そして今度は多くの人たちがその「愛」に応えたいと思っている。
14/ 「愛」の感染力はコロナなんかよりも圧倒的に強く、一気に広がります。ウインクした顔この「愛」の力が現在ムーブメントとなり、一時かなり危ないと思われた選挙戦をこの土壇場で一気に盛り返してきているのでしょう。
初めからトランプ圧勝は決まってる日本のフェイクメディアも当然それを知ってるだから選挙直前になってこうやって辻褄合わせをしてきてる分かりやすい
遠子先輩@murrhauser9時間
伝統的に民主党の強力な地盤かつ大票田で、前回の大統領選では端から諦めて、トランプ陣営が一度も遊説すらしなかったカリフォルニア州までもが遂に赤く染まった!もし現実にそうなったら、多くの民主党関係者、多くの民主党支持者はショックで二度と立ち直れないかもしれない!
アノニマス ポスト ニュースとネットの反応@anonymous_post2 7時間
【米大統領選】黒人のトランプ支持率が31%で過去最高に 共和党の大統領ではこれまで12%が最高〜ネットの反応「失業率が下がって、黒人に多くの仕事を与えたのはトランプだもんな
【最新記事】米大統領選挙、バイデン圧勝か?「不正選挙」と暴力というトランプのプロパガンダと戦略、既にベネズエラ、ボリビア、ニカラグアで失敗を実証済み
CNNが投票直前予想でバイデン圧勝と出たぞ!選挙人538人の過半数270人を争う。
確定分でバイデン290人vsトランプ163人。残る85人をトランプが総取りしてもバイデン勝利確定の数字。日本時間3日12時すぎの配信。さぁ、トランプのちゃぶ台返しが始まるぞ
なんでまた騙されようとするの?
参考ー都構想住民投票の出口調査結果 「出口調査 年代別より」
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/lastweek/47511.html
で、なんでまた騙されようとしたの?
維新に平蔵が関わってるってだけで犠牲者の代表格である30代~50代のゆとり・ロスジェネ世代は普通に考えてNOと言わないとダメでしょ。
君たちは「平蔵に騙される素質」があるからこそロスジェネ世代になったし、「変われないから騙され続ける」んだろうね。
ゆとり・ロスジェネ世代が本当に救えないのはそういうところだと思う。
いまだに自分たちの事を「若い世代」とか自称してないか30代?
今の10代たちは君らみたいな新自由主義者に踊らされて搾取されてきた馬鹿を理解してるから保守左派が増えたし、よっぽど冷静な選挙結果だった。
高齢者層は何を考えて反対したのか生の情報がないから分からないけど、恐らく市を無くすことに似た行政上の苦労や無駄な出費を長い人生の中で1度経験してるんだと思う。
反対理由の「伝統のある市がなくなるのが~」とかは老人が理由を明確に言語化する能力を失ったから出た言葉で、きちんとリサーチすれば何が動機となっているのは明文化できるはず。
まず政令指定都市をやめる、という1点において市としては何のメリットもない。
国からの支援もなくなるし大阪市で集めた金を大阪市で使えなくなる。
大阪市民として払った税金が市ではなく府に入ってどう使うのかを決められる。
「市に納税している」という感覚を普段から持っていたらとてもできる行為だと思えない。組織票でなければ。
IRとかの魅力的な話もあるけど、これにしても都構想とは別軸の話であり、都構想が実現しなければ達成できない話ではない。
要するに国に金の流れの十分な説明責任をせずに勝手にやって自分らの懐に金を入れたい。
そういう維新の思惑があっての都構想であり、「維新のために維新が」IRの前にやっておかなければならない事だった。
彼らの金にこだわる姿勢を数年間みてきてそれが分からない大阪市民がいることに驚きと悲しさの半々といった感情だ。
特に組織票以外の獲得が難しいコロナ下で投票を行うという卑怯な前を2度めの選挙でやっても思い通りにできなかったことは今後の維新の評価そのものに影響があるだろう。
接戦だったとはいえ大阪市民がギリギリの冷静さを守りとおす事ができた点は誇らしい事でもある。
これが他県だったら結果がどうなっていたのかは分からない。今の政治の恐ろしさを垣間見た気がした。
大阪はあくまで商業的な働きをする事に専念して、特別区や自治権のような自分らが扱えないものを求めて暴走するべきではない。
残念だが大阪人にその資格も才能もない。少なくとも現時点においては。
できないものはできない。
特に理由はないのだが、最近の通勤時間で「ラーマーヤナ」を読んでいる。特にインドに旅行する予定はないのだが、しいて言えば大学時代の友人二人がインド哲学科出身だったからかもしれない。そういえば、冒頭のムスカの台詞では長母音の場所が間違っている、みたいな話にもなった。
それはさておき、「ラーマーヤナ」である。英雄ラーマが囚われの妻シーターを仲間の助けで救いに行く話で、要するに古代インドのスーパーマリオなわけだが、そこで出てくる美人の形容が興味深い。たとえば「美しく黒ずんだ肌」という表現が出てくる。美白という美意識はやはり時代や地域によっては必ずしも自明ではないのだ。
また、ほっそりした腰つきや豊かな乳房の美しさを表現する箇所もある。
「二つの乳房はそれぞれの先端がむっちりと盛り上がって魅力的で、つやのあるヤシの実のように美しく、最上の宝石の装飾品をつけて輝いている」
この個所を読んで僕は首を傾げた。ここまで乳房の美しさを形容するってことは、シーターは上半身裸だったのか? 実際、インドや東南アジアの神々の像では女性たちは上半身裸だ。以下はエローラの石窟の姿である。
しかし、近現代のインドの叙事詩を描いた絵画では、上半身を普通に覆っている。
シーター姫を攫ったラーヴァナが助けに来たジャータユを返り討ちにする図
それを見て思い出すのは手塚治虫の「ブッダ」だ。正直なところ、みんなおっぱい丸出しで小学生の頃はエッチすぎて読めなった記憶しかないのだけれど、それはさておいて、あれは歴史的に見て正しいのだろうか? それとも、単なる手塚治虫の性的空想だったのだろうか?
そういうわけで僕は「ancient india topless」と検索した。すると、肯定的な証言をするサイトが数多く引っかかった]。特に、英語版ウィキペディアのtoplessの説明がわかりやすかった。
In many parts of northern India before the Muslim conquest of India, women were topless. ……(中略)……Toplessness was the norm for women among several indigenous peoples of South India until the 19th or early 20th century……(以下略)
ムスリム征服以前のインドの多くの地域では、女性は上半身裸であった。……(中略)……上半身裸は19世紀や20世紀初頭の南インドの先住民の女性の間では普通のことであった……(以下略)。
そういうわけで、古代インドの女性はおっぱい丸出しだった。手塚治虫は変態だったかもしれないが、古代のインドの服飾史については、嘘をついていなかった。
また、「古代インド おっぱい」と日本語で検索すると、次のようなツイートが見つかった。
https://twitter.com/tenjikukitan/status/1093099586778853378
古代インドに詳しい方が日本語で情報発信をしてくださると、大変助かる。
よく、東洋を舞台とした作品でブラトップ同然の格好をした女性が出てくることがあり、しばしば批判されるのだが、これは実際には上半身裸だったのを攻めておっぱいだけは隠しておこう、という配慮だったのかもしれない。
実際、いわゆる熱帯地域だけではなく、古代のクレタ島でも乳房は見せていたし、それこそ以前記述したように、日本の海女さんもかつては上半身裸が普通であった。
ところで、英語版のウィキペディアを読んでいたら、気になる記述を見つけた。
The Breast Tax (Mulakkaram or mula-karam in Malayalam) was a tax imposed on the lower caste (Shudra) and untouchable (Dalit) Hindu women by the Kingdom of Tranvancore (in present-day Kerala state of India) if they wanted to cover their breasts in public, until 1924. ……The tax was evaluated by the tax collectors depending on the size of their breasts.
乳房税(ムラカラム)とは、現在の(南インド)ケーララ州で低カースト(シュードラ)と不可触選民(ダリット)に属するヒンドゥー教徒の女性が、公共の場で乳房を覆いたければ支払わなければならなかった税である。……税金を集める役人が女性の乳房の大きさによって額を決めていた。
なんとも非人道的で、正直なところ読んでいてかなりのショックを受けた。身体の大きさを申告・検査しなければならない恥ずかしさ、支払えなかった女性の苦痛、いかほどのものであっただろうか。個人的には野外露出系のポルノは大好きだが、これが強制されたものだとなると不快だ。裸とは恥ずかしいものではなく、人間が生まれながらにして持つ、何物にも束縛されない自由を意味する気持ちのいいものであってほしい。それにこれはフィクションではない。歴史的事実だ。
これについて日本語の資料が見つからないかどうか探したが、幸いにしてナショナルジオグラフィック誌の記事があった。
古代ローマにトイレ税、世界5つのヘンな税 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
乳房税が廃止された経緯もまたショッキングである。ある女性が収税に来た役人に抗議するため、乳房を切り落として見せたことがそのきっかけだ。言葉もない。ローマの公衆便所から税を取り立てたケチで名高いウェスパシアヌス帝が単に合理的でまともに思える。
そのナショナルジオグラフィック誌だが、2018年に同誌は人種差別的であったことを公式に謝罪した。国内の有色人種を無視していたし、外国の文化も過去の姿をやや好奇の念をもって眺めていた。そして、異民族の過去の姿である上半身裸をピックアップしすぎた、と。
とても誠実な姿勢だと思う。確かに異文化への関心は、はじめのうちは興味本位や小ネタから始まるかもしれないが、それだけで終わってしまってはもったいないし、現在の姿を誤解したままでは失礼だ。それに、欧米や日本がオリエントの人間を過度にセクシャルに表現してきた歴史があり、それを是正することはまったく正しい。
それは欺瞞だ。伝統的に上半身を見せる文化を改変するのは子どもたちに嘘を教えることになる。乳房を恥としない相手の価値観や服飾文化の破壊ではないか、という意見もあり、それももっともだと思う。とはいえ、今のところ乳房は隠すものがデファクトなグローバルスタンダードになってしまっている。歴史的正確さと表現のふさわしさと、これもまた正解のない問いである。
シーター姫のおっぱいが気になった僕もこの罪とは無縁ではない。今を生きる人々の人格と彼らの先祖の文化や伝統、どうすれば両方に敬意を払えるかを考える日々である。できる限り正確性に努め、通説が誤っていれば訂正をするように心がけているが、それでも異文化への関心が性的な好奇心とは無縁ではないことを意識しないではいられない。
今回は古代インドではトップレスが普通であったことを示した。また、乳房の隠蔽はキリスト教だけではなく、イスラームの影響もあることも明らかになった。
今後は、世界の中で乳房がどのような文脈を持っていたかを調べたい。例えばシチリアの聖アガタも乳房を切断され、かつては形の似ているパンや鐘の職人の守護聖人であったが、いまでは乳がんの守護聖人ともなっている。また、戦時中の日本を含め、多くのプロパガンダでは、乳房は母性の記号として国土の豊かさを意味してきたし、しばしば女性を母としての役割に閉じ込める役割も担ってきた。逆に、女性自身が抗議の意味で露出することもある。私の身体は私のもので、勝手に意味を担わせないで欲しいという奪還の意図もあるのだろう。
加えて、世界各地ではどのような形の乳房が理想とされてきたのか、その変遷もいつかはたどりたい。
実際、「ラーマーヤナ」ではほっそりした体を(乳房の重みで)曲げて、と形容されるターラーという猿の夫人がいる。今も残るインドの彫刻から判断すると、古代インドには細い腰とそれに対する豊かな乳房への明確な好みがあったのではないかと推測される。また、この彫刻の特徴は東南アジアにも受け継がれている。その辺が知りたいのである。
このあたりは西洋の絵画史からたどるのがいいかもしれないが、芸術が個人の自己表現となった時代以降は、画家自身の好みも反映されて難しい。
また、逆にトップレスが世界の標準であった可能性についても検討したい。すなわち、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの広がっていない地域の服飾史について検討し、トップレスでいることの自由がどのように失われていったかについても調査したい。
いや大前提として伝統的に民主党は青で表現されて共和党は赤で表現されるのだが
トランプだってメイクアメリカグレートアゲインの赤い帽子被ってるだろう
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日本学術会議が推薦した第 25 期会員候補者 105 名のうち、6名が菅総理によって任命されなかったことについて、
明確な理由説明はなく、説明の要求を斥けることは学問の自由の理念に反すると同時に、民主主義に敵対するものであり、
これに断固として異議を唱えます。
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《説明しないこと》こそが民主主義に反する権力の行使(国民に対する暴力)であり、主権者である国民に説明責任を果たすことが
情報公開の制度は古代ローマの時代イタリアの地で芽生えました。イタリア学会としてこれを看過することはできません。
必ず説明責任が果たされることをイタリア学会の総意として要望致します。
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イタリア学会は「日本におけるイタリア学の発展と普及に寄与することを目的としている。」(イタリア学会会則第 3 条)
イタリア学を通じて学び得た知見を社会活動に適用することは、学会の目的に適う実践的行為と判断し、
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菅首相は「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民に
理解されるべき存在であるべき」だと述べた。これをテキスト解釈にかけると「国の税金を使っている以上、国家公務員の
一員として、政権を批判してはならない」という意味になる。ここには 2 つの大きな誤謬が隠されている。
学問は国家に従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、
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学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類に資するものである。与党に資するものだけを学問研究と
みなすことは大きな誤りである。学問研究によって得られる利益は人類全体に寄与するものでなければならず、
判りやすい例を挙げれば、日本は西洋から数学や物理・化学を始め、あらゆる分野で多大な恩恵を無償で受けた。
万有引力定数や相対性理論を発見したのは日本人ではない。その恩恵と利益を受けながら、その使用料は払っていない。
なぜなら学問成果は全人類の共通善として無償で開放されているからである。
日本国には受けた恩恵を人類に返すべき義務があることは言うまでもない。
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国からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならない」というのは手前勝手な考え方である。
公務員は政権の《しもべ》ではないからである。公務員は国民全員の利益のために働く。
政権が間違った判断をすれば、それを国民のために批判することは、むしろ公務員の義務である。
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古代の中国では臣下が君主に行ないを改めるよう諫言することは褒むべき行為とされた。
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翻ってイタリアの地、古代ローマの時代には、時の政権の勝手な振る舞いから国民を守るための公的機関である
護民官が設置されていた。現代の公務員に匹敵する護民官は、時の権力を批判・牽制するために作られた
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次に、菅首相は憲法 23 条が保障している「学問の自由」の意味を理解していない。「学問の自由の保障とは、
学者が学問的良心に従って行なった言動の評価は、まずは学者どうしの討論に委ね、最終的には歴史の判断に委ねるべきであり、
間違っても《時の権力者》が介入すべきではない、ということである。」(小林節慶應義塾大学法学部名誉教授)
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1632 年ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を完成させた時、ローマ教会は検閲を行ない、教皇ウルバーヌス 8 世と
ガリレオはローマの異端審問所で証言するよう出廷を命じられ、翌年、6 ヶ月にわたる裁判を受けさせられた。
ガリレオは自分の誤りを認めさせられ、異端審問官の前で研究を放棄するよう宣誓させられた。
そしてフィレンツェ近郊で残りの 9 年の生涯を軟禁状態で過ごすことになる。
教会の決定に疑義を挟むことなどあってはならず、時の権力に反する主張は時の権力の判断によって封殺された。
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「今回、菅首相は、特定の学者の言動について《広い視野を持っているか》《バランスの取れた行動であるか》
について自分の権限で判断した」と告白し、その結果、《国の予算を投じる機関(の構成員)として国民に理解され
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問題は、仮に菅氏が高い実績のある学者であったとしても、同時に、《首相》という権力者の地位にある間は、
そのような判断を下す《資格》が憲法により禁じられているという自覚がないことなのである。
にもかかわらず、高い実績の学者たちが全国から会議に集まるために 1 人につき月 2 万円余の交通費を用意する程度の
ことを逆手にとって学術会議に介入しようとするとは、《選挙に勝った者には何でも従え》という、政治権力者の思い上がり以外の
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私たちが最も問題とするのは、《説明がない》ことである。憲法 63 条は「答弁または説明のため出席を求められた時は、
国会に出席しなければならない」と義務付けている。この趣旨について政府は「首相らには答弁し、説明する義務がある」(1975 年の内閣法制局長官)
と見解を示している。
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しかし、菅首相は官房長官時代から記者会見で「指摘はまったくあたらない」と木で鼻を括った答弁を繰り返して憲法を無視してきた。
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世界で初めて情報公開制度を始めたのはイタリアである。「執政官に就任して(前 59 年)、まずカエサルが決めたことは、
元老院議事録と国民日報を編集し、公開する制度であった。」(スエートーニウス『ローマ皇帝伝』第1 巻「カエサル」20)
それまで国民は元老院でどんな議論を、誰がしているか知る術もなかった。
議員が私利私欲で談合を行なっても、知る由もなかったが、議事録が速記され、清書されて、国民に公開されるようになったおかげで、
貴族の権力は大いに削がれた。隠れての不正ができなくなったからである。
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一方、その時代から 2000 年以上経った今の日本では、安倍政権下で情報は秘匿され、文書は改竄・捏造、削除され続けてきた。
確かに、日本では民草に説明をするなどという伝統も習慣もなかった。江戸城で開かれる老中会義の内容が知らされることもなければ、
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おそらく安倍・菅首相が目指す世界はこうした江戸時代のものなのであろう。人事で恫喝して従わせる手法は、一種の《暴力》とみなされる。
紀元前 5 世紀のアイスキュロスの作品『縛られたプロメーテウス』には権力の何たるかが活写されている。
この劇は二人の登場人物がプロメーテウスを連行する場面から始まる。
プロメーテウスは絶対君主であるゼウスの意向に逆らって、天上の火を盗み、人類に与えたために、
暴君ゼウスから罰を受けて、スキュティアーの岩壁に磔にされる。
この時、彼を連行する 2 人の登場人物の名前に作者の意図が巧みに織り込まれている。
二人は Kra/toj(クラトス)と Bi/a(ビアー)という名だが、ビアーの方は劇中で一言も言葉を発しない。
ギリシャ語でクラトスは「権力」を、ビアーは「暴力」を意味する。無言の暴力を用いて他者を従わせるのが権力であるという寓意である。
ギリシャ語のビアーやイタリア語の violenzaは単に武力による物理的な暴力だけではなく、圧力や強制を意味する。
ビアーのように《説明しない》ことが権力(クラトス)なのである。
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同じく、カフカの『審判』では主人公ヨーゼフ・K は、ある日見知らぬ 2 人の男の訪問を受け、何の理由も告げられず、逮捕される
(この 2 人の男はまさに「クラトス」と「ビアー」を暗示している)。
その後、何の説明もなしに、有罪とされ、「犬のように」処刑される。この小説でも《説明しない》ことが権力であるとして描かれているが、
ソルジェニーツィンの『収容所群島』にはまさに何の《説明もなしに》逮捕され、強制収容所に連行される日常が記録されている。
逮捕するのは決まって深夜である。深夜に訪れることで逮捕者を恐怖させる効果を狙ってのことだが、
また同時に、近隣住民が翌朝、隣人が忽然といなくなったことを知って恐懼するよう仕向けるためでもある。
これが不安をかき立て、恐怖を蔓延させる。いつ自分が逮捕されるか人々は戦々恐々とし怯えるようになる。これによって国民は心理的に権力によって完全に支配される。
つまり、《説明しない》ことこそが権力の行使であり、国民を無力化させる手法なのである。こうして国民は恐怖と不安から権力に従うようになる。
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こうした事例からも民主主義がいかに「説明すること」にかかっているかが判る。
説明と情報公開が民主主義を支える命であり、それを破壊する手段は《説明しないこと》、《情報を秘匿する》ことなのである。
たかが 6 人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。
ましてや一部の学者の話であり、自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。
しかし、問題の本質は、時の権力が「何が正しく、何が間違っているかを決めている」点において、ガリレオ裁判と変わりない。
科学分野の基礎研究の予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、
また軍事研究に手を染めない学術会議の方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある。
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実際、すでに文科省は今月17日に行われる中曽根元首相の内閣・自民党合同葬義において弔旗を掲揚し、葬儀中に黙禱するよう、
国立大学や都道府県教育委員会、日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などに通知を送っている。
国民全体の奉仕者である公務員を、自民党のための奉仕者に変えようとする暴挙は許されない。
かつて次のように臍をかんだマルティン・ニーメラーの轍を踏まないためである。
(文責:藤谷道夫)
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ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
ユダヤ人が連れ去られた時、
私は声を上げなかった。
そして彼らが私を攻撃した時、
私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった。
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通常の娯楽に加えて、(古代)ローマ人の労苦に満ちた厳しい生活を陽気なものにしてくれるものに、
凱旋式があった。
(中略)民衆は大喜びで拍手喝采していた。だが、部下の兵士たちから将軍に向けて罵詈雑言を浴びせる習わしがあった。
将軍の弱みや欠点、愚行の数々を公衆の面前であげつらうのである。将軍が高慢にものぼせ上って、
自分を無誤謬の神(絶対に正しい偉い人間)だと思い込んだりしないようにするためである。
例えば、カエサルには、部下たちがこう叫び立てていた。「禿げ頭の大将よ、他人の奥さんたちを物色してんじゃねぇぞ!
あんたは商売女(淫売女たちで)で我慢してりゃいいんだ!」1現代の独裁者たちに対しても同じように言うことが
できたならば、きっと民主主義にとって怖いものは何もなくなるだろう。
(Indro Montanelli, Storia di Roma, Rizzoli, Milano, 1969, pp. 141-142)
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「犬儒派(キュニコス派)のディオゲネース(前 400/4 頃-325/3 頃)は、
《何でも言えることだ(言論の自由 parrhsi/a パッレーシア)》と答えた。」
言葉って変わっていっちゃいけないのか?
「ろうにゃくなんにょ」はどう考えても発音しにくい。
「ろうじゃくなんにょ」「ろうじゃくだんじょ」ではダメ?
使いづらいものを、伝統だからとそのまま使い続けていくのってアホらしいと思う。
そんなサービスがあったら最悪じゃない?
難読漢字をドラスティックに変えてしまうと、原型をとどめておらず、かえって分かりづらくなり定着しにくいだろう。しかし「ろうじゃくなんにょ」「ろうじゃくだんじょ」くらいであれば、元々の読みに慣れ親しんだ人でも理解しやすい。
固有名詞であれば、あえて読みづらい名前を付けて印象付けることは狙いとしてあるかもしれない。きゃりーぱみゅぱみゅなど。
丸亀製麺が神戸の企業であることは香川県民からの評判にあまり関係がない。 丸亀製麺は丸亀市のうどん店で研修することなど丸亀へのリスペクトを強調しているし香川県にあまり店を出さないのは遠慮してのこととも言っているが、完全に言い訳。 香川県民にとって「実際においしくない」という事実から評判が悪い。
伝統的な「讃岐うどん」は弾力がかなり強くて食べにくいしイリコ出汁は生臭みがどうしてもある。 でも、それが讃岐うどんだというのが地元民の認識で、地元民はそれがおいしいと思っている。 (若い人は必ずしもそうではないことも多いけど。)
観光客向けにクセを弱くしている店も多くて、地元民向けの店とは完全に棲み分けされていて、丸亀製麺のうどんはクセが弱められた店に分類される。 香川県民向けの店でもなく、香川県の店が観光客のためにクセを弱めているわけでもないという中途半端な立ち位置が香川県における丸亀製麺の立場なのである。
念のために述べておくがクセの強い讃岐うどんに慣れていると丸亀製麺はおいしくないということであって、全国的に平均的な「うどん」としてみれば丸亀製麺はまあそこそこなんだと思う。 ただやっぱり伝統的な讃岐うどんではないのも確か。