はてなキーワード: 伝統とは
思いついた順。順番に意味は無い。
・田舎の道路は舗装されて無いのがあたりまえだった。ごく一部が舗装されていたが、舗装はコンクリートだった。アスファルト舗装はまだほとんど無かった。
・川にかかる橋はまだ木と土でできていた。わずか数年のうちに、全部コンクリート造りに作り変えられた。その時の橋がまだ現役。
・石炭がまだ日常的に使われていた。学校の隅の方には石炭を積み上げておく小屋があって、冬は当番の子供がその日のストーブで燃やす石炭を小屋から教室に運んでいた。炭の燃えカスの掃除は先生がやってくれていた気がする。石炭ストーブが石油ストーブに置き換わると、石炭小屋は鶏小屋に改装されて、学校でニワトリを飼っていた。
・火鉢や七輪がまだ現役だった。火鉢の中では炭を燃やして暖をとっていた。
・掘りごたつの底は格子状になっていて、その下で炭か何か燃やして暖を取る構造だったが、それは当時すでに廃れていた。電熱線を使った電気ごたつが安くて便利なので、かなりはやくから普及していた気がする。
・家にかまどがあった。物ごころついた時にはもう使われなくなっていてプロパンガスだった。お年寄りの家ではまだ現役でかまどが使われていた。
・洗濯ものは川や湧水のあるところでやっていた。湧水は出口すぐが飲用水の採取場所、数m下ると食器や食べ物を洗う場所、そこからさらに数m下るとそれ以外を洗うもの、と順番が決まっていて、いつもだれか数人の主婦が何か家事をやっていた。水道が普及するといつしか誰も使わなくなり、掃除されなくなり、廃れた。
・秋には落ち葉のたき火で焼き芋を焼いて食べるのが定番のおやつだった。
・農業に使うかごなどが、まだ藁で作られていた。この伝統は数年後にはすっかり無くなってしまった。
・村の加治屋さんがいて、農機具の修理などをやっていた。
・軽トラックが普及しはじめていたが、農道がまだほとんど整備されていなかった。車が通れない歩行者用の山道を、天秤棒をつかって前後に思い荷物をぶらさげて運ぶという仕事がまだあった。
・コンクリートブロックを使って塀を作るのが流行り、みんなで競うように塀を作っていた時期があった。へー。
・車はどの車も数年でサビサビになった。今のような耐久性のある焼付塗装がまだ開発されておらず、車検のたびに車の塗装をやりなおしていた。車検とはある意味、車の塗装をやりなおすイベントだった。
・街へ行くたびに、あちこちでボコボコビルが建ち始めていた時代。1970年より前に建築されたコンクリート作りのビルというのはかなり珍しいが、1970年代にはめちゃめちゃ大量のコンクリート造りのビルが建設されて、日本の街の風景が一変した。
・いまはシャッター街となっている田舎の商店街に、もっとも活気があった時代。
・軍隊帰りの教師が現役でいた。ゼロ戦の特攻隊の訓練生だったとか、広島に原爆が投下された後の遺体を積み上げて燃やす作業をやったという教師がリアルに居た。多くの大人たちが原爆のキノコ雲の目撃者だった。
・家を建てる時、壁は土壁だった。そのへんの土に藁を混ぜて建材として使っていた。土壁の中の芯は細い竹を格子に編んだものだった。
・貯金の金利がめちゃめちゃ高かった。しかし実際には金利以上にインフレになったので、真面目に貯金した人はむしろ損をした。
・缶ジュースは当時から1本100円だった。子供には高級な飲み物だった。
・お豆腐屋さんに毎日お豆腐を買いに行っていた。田舎でも数100mも歩けば、一軒は豆腐を豆から作っている豆腐屋さんがあった。
・主婦が買い物に行くときは、細い竹を編んだような、かわいらしい買い物かごを持って買い物に行っていた。レジ袋などというものはまだ無かった。せいぜい紙袋。
・生ゴミはかまどで燃やして処分していた。灰は肥料として活用された。街のゴミの収集車は、不燃ごみの回収が主だった。
・冠婚葬祭は、5人組といわれる隣近所のグループで協力しあって、自宅で行うのが当たり前だった。
・どこの家にも子供がいた。夜は外出を厳しく制限された。今思えば、どこの家庭も夜になると夫婦でセックスして楽しむのが当たり前だったんだろう。
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・子どもは神社やお寺の境内に集まってよく遊んでいた。缶けりとかが定番だった。
・そんなド田舎にもエロ本はあった。子どもたちが拾い集めたエロ本の隠し場所が神社の床下だった。
・雨の日はよくトランプしていた気がする。
・こたつのテーブルの板をひっくりかえすと麻雀用の緑のフェルトが貼ってあった。
・蛍光灯が爆発的に普及したのがこの頃だった。電球よりずっと明るいので最初はみんな驚いた。
(しかし、統計を見ると子どもが減り始めたのもこの頃。電球の方がエロい気分になりやすかったというメリットはあったのかもしれない)
・バスには運転手のほかに、切符を売ったり、バックする時に誘導したりする車掌がもう1人乗っていた。それがワンマンになったのも昭和50年代
・国鉄で荷物を送るときは、包み方にめんどくさい規定があって、紐で縛ったり指定のタグをつけたりしなくてはならなかった。
・昭和50年代に複数の宅配便会社が競争で一気に普及して、国鉄で荷物を送ることは全くなくなった。
・女子の体操服はブルマだった。バレー部が人気だった。部活やマラソン大会では女子が校外を体操服(下はブルマ)で走っていた。
・ダンボールは既に普及していた。ダンボールが普及する前は農作物は木の箱に入れて出荷していたらしい。使われなくなった木の箱がよく他の事に転用されていた。
・そんなド田舎でも新聞と牛乳は毎朝届いていた。牛乳はビンに入っていた。
・学校の校舎は当然木造。体育館も木造。今思うと、体育館のような大きな建物が木造っていうのは当時としてはなかなか凄い事だったんじゃないかという気がする。
・バイクといえばスーパーカブのことだった。それ以外のバイクは見たことが無いレベルだった。
・車と言えば軽トラだった。それ以外の車も見かけたが、変わり者扱いされるレベルだった。
・仕出し弁当とかは薄い木で作った箱に入っていた。プラスチックや発泡スチロール製のトレ―が普及したのも昭和50年代
・幹線道路なのに1車線のところがあり、ときどき渋滞でにっちもさっちもいかなくなって警察を呼ぶことがあった。
・リヤカーを引いて魚を売りに来るおじさんがいた。スーパーカブに山ほど靴を積み上げて靴を売りにくるおじさんもいた。富山の薬売りもいた。
与信や貿易仲介はトレード部門として扱われるけど、そこは投資銀行はあまり関係ないな(モノを動かす部分からやるけど、カネに関しては商業銀行の信用状業務に近い。金利・フィービジネスだし。自己勘定での投資もあるけど……)。ぱっと海外で相当するものとして思いつくのはカーギルやブンゲあたりの農産物商社。元増田が言ってるのはここの話。
投資銀行が関わりうるのはプロジェクトファイナンスっていう資源開発に関連する領域の資金調達、出資で、海外の伝統的商社はあまり関わらない領域。運ぶ、仲介するだけではなくて、そもそも開発やそれに向けた出資から行う部門。と言っても海外でも主役はインベストメントバンクよりは圧倒的に資源メジャー。物産や商事の利益の多くはこの部門やな。
本当はこんなお気持ち呪詛を吐いて砂をかけて去る事が良くない事なのは分かっている。
だがどうしても誰かに愚痴らずには居られなかった。我ながらマナーが悪くて、馬鹿だなあと思う。
もともと好きだったブランドの初のスマホゲームタイトルという事もあって、事前登録も始まってすぐにして楽しみにしていた。
自分の好きなキャラクターは、そのブランドの第一作に登場するキャラクター。主人公やヒロインではないので第一作のキャラの中ではやや影は薄いが、初作のキャラという事もあり根強いファンも居た。
伝統あるキャラクターなので実際スマホ版にもすぐに実装された。
大好きなキャラクターが使える事が嬉しくて、その場その場で完全育成してきた。貴重な上限解放アイテムが実装されるとそれも惜しげなく使ってきた。強くなった自分の推しはゲーム内でも有用な存在になり、そのキャラクターを活用して攻略するのが楽しかった。
このゲームのガチャからは、キャラだけでなく装備が排出される。
その装備にあたるカードは毎回書き下ろしイラストになっていて、定期的に追加される。
はじめはもとから人気のあるキャラクター、例えば第一作の主人公格のキャラなどが優先的に実装された。自分の好きなキャラクターが彼らに匹敵する存在でない事は流石に分かっていたから、人気のあるキャラクターが優先されたり、枚数出たりするのは仕方がない事だと思っていた。でも順番だからいつか自分の好きなキャラクターのイラストの装備が登場するだろうって楽しみに待っていたのだ。
結局、推しの装備は1枚も登場しなかった。
その間、後から追加されたスマホ版のオリジナルキャラの装備が何枚も出てくるのを横目に見ていた。元から人気のあった過去作のキャラクターは10枚ぐらいはあるんじゃないかって、それぐらい出てくるのを見た。人気があるとはとても思えないオッサンキャラの装備だって出た。
でも推しの装備は1枚も登場しなかった。5年で、たったの1枚もなかった。
ゲームは5周年を盛大に祝った。描き下ろしイラストを沢山用意した。でも推しのイラストはやはり1枚もなかった。
ストーリーもたびたび更新されたが、まともに登場することはなくなった。稀にある貴重な出番に目を輝かせても、蓋を開ければ誰かの引き立て役で終わる、誰でもいい役割。
最新情報を紹介する生放送も5年間追い続けて、どこかに1つぐらい推しに関する情報があるんじゃないかって、でも結局なかった。
「第一作から応援してきたのに、なんでこんな惨めな思いをしなくてはいけないのだろう。」
勝手に信じて、勝手に裏切られた気持ちになって。冷静に考えれば自分一人が第一作から応援してきただのそんな事情は、運営側からしたら知ったこっちゃないだろう。
たった1枚の描き下ろしイラストが欲しかった。5年待った。いっぱいプレイした。沢山課金した。
「他のキャラクターたちも魅力的だから、その時その時ピックアップされてる彼らの魅力を楽しもう!そしたら推しがピックアップされる時も皆で楽しめるはず。」
そんな考えは甘かった。結局推しがピックアップされる時なんて無かったし、これからも来ないのだから。
その間に前にもピックアップされたキャラクターにまたフォーカスするイベントがあったり、新キャラクターを囃し立てるイベントがあったりしながら、ああもうなんか、運営は第一作からのファンとかどうでもいいんだなって。
鉄腕アトム「透明巨人の巻」という話がある。若き天才である花房博士が物質伝送機のせいで、ウサギ、魚、ロボットの融合した怪物になってしまうエピソードで、「ハエ男の恐怖」が元になっている。その最終部で、博士が悪党を罰するために物質伝送機であちこちに飛ばしてヒーヒー言わせるドタバタがあるが、その中でラインダンスの真っただ中に飛ばす。悪党どもが冷や汗をかきながら一緒に踊ってごまかす横で、レオタード姿の女性が並んでいる。
また、これはどこで読んだのか忘れたのだが、手塚治虫が宝塚劇場を訪れ、レオタードというか舞台衣装の女性に囲まれて興奮のあまり卒倒しているコマのある漫画があったと記憶している。
つまるところ、こういうスカートやレオタードのラインダンスは宝塚が起源なのだろうか?
まずは基礎的な情報を手に入れるために、ウィキペディアで「ラインダンス」を検索した。すると、意外な事実に行きあたった。
ラインダンス(Line Dance)とは、ダンスフロアに整列し、全員が一斉に同じステップを踏むダンス。主にカントリー・ミュージックやポップスなどの曲で踊られることが多いが、音楽ジャンルに特に限定は無い。
また日本ではポンキッキーズという番組で知名度を上げている。本番組の場合では、主に小中学生の女子は椅子を一列に並べた状態で、ポンキッキーズれていた[ママ]曲や洋楽を流しながら座ったり立ったりしてラインダンスを行う形だった。それに加えて普通のダンスを混ぜて行う為に非常に難易度が高かったが、成功すると非常に見た目がよく、放送当時はこのダンスを学芸会や体育祭で取りあげる学校も多かった。
ひらけ! ポンキッキ!から視聴していた自分のような人間からすると非常に懐かしい。しかし、あの女子たちの踊りは確かに脚を上げるものではなかった。
それならば、あの踊りの名前は何か? 散々探し回った結果、次のことが分かった。横に並んで脚を上げる踊りはロケットダンスと呼ぶそうだ。なるほど、このキーワードで探すとたくさん見つかる。リンクが多いと投稿できないので、冒頭のhを抜く。
ttps://www.youtube.com/watch?v=4i7y6XE7sz8
ttps://www.nicovideo.jp/watch/sm31659056
ttps://www.youtube.com/watch?v=fVewBno93RA&list=RDfVewBno93RA&start_radio=1&t=137
名称は、米国のダンスカンパニーロケッツからだろうか?(後ろの男性諸君の笑顔がいい)
ロケッツは、1925年にセントルイスで、「ミズーリ・ロケッツ (Missouri Rockets)」として結成された。創設者のラッセル・マーカートは、1922年にブロードウェイの「ジーグフェルド・フォリーズ」で見た「the John Tiller Girls」(英国のダンス・グループ)にヒントを得て、「もし、もっと背が高くてもっと脚が長いアメリカ人の女の子たちに、複雑なタップダンスと目の高さのハイキックをさせることができたら...イチコロだ!」と確信した。
だが、ここから名前が来ているとすれば、ラインダンスはフレンチ・カンカンではなくアメリカ起源ということになる。
第二次世界大戦終結後の1946年に、宝塚音楽舞踊学校を宝塚音楽学校と改称し、4月22日から宝塚大劇場で公演を再開した。再開第1作は『カルメン』『春のおどり』の二本立てで、大戦中に入団した計3期69名がラインダンスを披露した。
とある。ここまでは想像がついた。宝塚ではなく松竹のであるが、おおよそ同時代の写真がある。
1927年、岸田辰彌が欧米遊学から帰国。岸田はこの経験を活かして、日本初のレビュー『モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜』を日本人の世界旅行記をテーマにして制作する。同年9月1日から上演され、画期的な内容で大ヒットを記録した。主題歌レコードがヒット、当時としては露出の高い豪華な衣装も話題となった。ラインダンスを初めて演目に取り入れ、16段ながら(現在は26段)大階段も登場した。以後、少女歌劇のレビューに欠かせないものとして定着する。
つまり、ラインダンスは1927年にまでさかのぼるのだ! 実際問題、当時としては露出の高いと書かれているが、それがどの程度かはよくわからない。ウィキペディアに写真はあるが不鮮明だからだ。歯がゆい!
しかし、1930年の「パリゼット」の写真はあった。確実なことは言えないが、ほぼレオタードだ。日本国内で初めてバレエが演じられたのは1911年の帝国劇場であり、レオタード的なものに対する抵抗は、わずかながらも減っていた可能性がある。
今まで、同じ少女歌劇団としてこの二者を併記したが、それぞれカラーは大きく異なる。長くなるが、「松竹歌劇団」の項から引用する。
宝塚歌劇との比較では、松竹歌劇の方がよりスピード感と大人の男性の嗜好(色香)を優先した演出を行っていた。これは片や下町の浅草、片や山の手の日比谷(東京宝塚劇場)という、両者が拠点とした土地柄の違いによるものともされるが、前述のように、東京松竹が発足する以前から、松竹レビューの基本要素には「エロティシズム」が含まれていた。青地晨は次のように述べている。「昔はズカファンにとっては松竹は下品でみられなかったし、SKDファンには宝塚は気取って鼻もちならなかった。だが、二派に分れてシノギを削るほど、本質的な違いはなかったにせよ、宝塚と松竹と、それぞれのカラアと伝統があったことはいうまでもない」。戦後の占領期には松竹・宝塚両方を取り上げる雑誌が複数刊行されており、ある程度観客層の重複もあったとみられるが、戦前からのファンには、両方を愛好するファンを「節操がない」と批判する向きもあったという。
こうした説を補強する、次のような画像がある。
1932年、松竹の「らぶ・ぱれいど」公演の様子。 明確にレオタードを確認できる。
スポーツ新聞ではラインダンスを撮影するとき、たいてい脚を上げているところを映しており、これってどうなのか、と思わなくもない。最近、女子スポーツの写真をことさら性的に撮影することを阻むため、JOCが対策に乗り出すことにしたそうだ。いいことだと思う。女性がスポーツを思い切り楽しむとともに、写真を撮る楽しみも守られるよう明確なガイドラインを望む。それと同時に、スポーツ新聞のこういうチアのアンスコばっかり撮っちゃう傾向にも一定の歯止めがあってしかるべきだろう。ついでにノーバン始球式という表現もギャグが滑っている気がする。
しかし、自分も同罪かもしれない。ある程度読んでもらうためにはタイトルを工夫せねばならず、レオタードで読者を釣ってしまっている。
上記の松竹歌劇団の動画が含まれているリストをたどっていると、驚くべきものを見つけた。
https://www.youtube.com/watch?v=BVKkNAf1ruI&list=RDfVewBno93RA/
なんと、1940年代にはすでにチアの見せパンのようなものが存在していた! こうなると、見せパンの歴史はサーカスの衣装などにまでその調査を広げないといけない。もっとも、これは見せパンなのかスカート付きレオタードなのか判然としない。一瞬お腹は見えてるけど……。
英語版ウィキペディアのshortの項には、bun huggers(ショーツみたいなブルマー)について次の記載があった。
In 2008 it was noted that the International Volleyball Federation used to require that female volleyball players wear such garments while playing.
なんと、ブルマータイプの衣装の強制が21世紀になっても行われていたのである。にわかには信じがたい。以前にはビーチバレーの衣装の強制について調べたが、問題はここにもあったのである。
さいわい、こうしたことは昨今になって改善され、好きなものを着ていいことになった。動きやすいようにショートパンツが多いが、ブルマーが強制されなくて本当に良かった。
僕はブルマーが好きだ。だが、強制は大嫌いだ。ブルマーが好きなら嫌がる女性にはかせて喜ぶなどもってのほかだ。
それとは別に「Short shorts」と呼ばれる短パンがあることも知った。自分が以前の記事で1930年の The Women’s League of Health And Beauty=The Woman’s League of Health and Beautyのブルマー風のものやナチス時代にブルマーにカウントしていたのはこれだったかもしれない。やはり写真だけではわからないことが多いが、念のため訂正しておく。ブルマーの世界的な分布についても、再考を要する。
今回は、フレンチ・カンカンへの興味から派生して、ラインダンスについて調べた。1930年代にまでさかのぼることが分かったが、それがフレンチ・カンカンからの影響を受けているとはっきり示すには至っていない。彼がパリにいたのは名高いMistinguettが活躍した時期のことで年代に矛盾はないが、証拠は不十分である。
また、追加調査により、ブルマーや見せパンの広がりの年代がかなりずれる可能性が見つかった。今後も調査に役立ちそうなキーワードが見つかり次第、記録していきたい。
わりといいこと言ってると思うけどお相撲協会のおえらいさんに言ったところでずっと続く伝統なんでと切り捨てられそう
土曜開催増やせるなら平日に休み入れたほうがいいのにね
米の上に魚の死体が乗ってるだけなのに国民食みたいな顔してるのがウザすぎる
そもそも食う頻度かなり低いんだよな そのわりに海外では日本食=スシみたいになってて、料理要素があるゲームやるとたいていSushiがでてくる
でもそのSushiの見た目が軍艦巻きなのがウケるんですよね わかられてないぞ、寿司!
寿司らしい寿司、握り寿司はRaw-fishが乗ったDisgustingな食い物で、食うに値しない それが世界基準なんだよな
米の上に生魚を乗せただけのものを料理と言い張る時点でおしまいなのに、さらにそれをベルトに乗せて回転させる 意味がわからない
そういう奇怪な店がひとつだけあるっていうならわからなくもないが、むしろ庶民の寿司つったら回ってるもの、みたいな風潮すらある
回転するのがスタンダードな食い物ってなんなんだよ 本当に異常なんだよな 気持ち悪い狂った国の最悪伝統料理
いやいやいや 米の上に生魚乗せるのに伝統も何もないな
ステーキを伝統料理と言わないのはあまりに原始的だから 寿司もサルですら考えつくような粗雑な料理なので伝統の名を冠する資格なし
あれ本当に異常で、米の上に物が乗ってたら寿司だっていうんなら米を食うときにかなりの頻度で寿司状態が発生していることになる 不快!
ですからシャリを地面に置いた時点で地球全体がネタになり、地球に属するところの我々自身もその瞬間寿司の一部になってしまう
これまでシャリが地面に触れたことが何度あったか 我々は何度寿司にされたのか という話になってきて、到底受け入れ難い
寿司にならないためには寿司を否定するしかない 寿司と俺のレーゾンデートルをかけた戦いが始まる
でも寿司は雑魚だから俺が勝つに決まってんだよな 逆にどうやって寿司に負けるのか?という話になってくる
女性も男性も民族も関係なくフラットにも正しい方向性のひとつだよ
もちろん、女性が女性らしく、男性が男性らしく、民族が伝統的にある、これらもすべて尊重されるべき価値観で、
好きな恰好うんたらに男女関係なくね。男が女の格好してもええやろむしろ。
伝統を守ってアイデンティティを保つってのはわからんな。まぁ個人として守るのはええんちゃう?自由だし
黒人としてプライドもって生きることってのはよくわからんけど面白そうな議題やな
何にしろ黄人白人はそもそも黒人にはなれんし、生まれは変えられんだろ。別人種でも黒人としてのプライドもって良いって話になるならわかるが、そうなったらそれは黒人としてのプライドって呼ばれ方はしないんじゃねーかな。