はてなキーワード: イタリア語とは
今の生まれながらにクリスタルと同調する力を持った子供たちは信じてくれるだろうか。
始まりはそう、古き伝承よりも色あせた古き時代のスパゲッティは紅蓮しかなかった。
紡ぎ出す生命――そう、この俺だけで、帝国の新鮮な食材を使ったパエリアを口にすることもなく、獣どもに与える餌も、グランマルシェの迷宮も、鮮血《クリムゾンレッド》のバーミセラスと第一種ミート預言書の一節よりほかに無かった。
今更語るまでもないが、「大いなる時空の縦糸」などという呼称は帝国的ではなく、世界が闇に堕ちそうだというのにミートアカシックレコードを「生き血を糧に生きるラグー」と詠ばれるのを聞いたことがなかった。
うちのHNMLSのパテールなど、未だに血のように赤く破滅を招かないスパゲッティはモルボルだと思ってる。
ここからは俺の想像にすぎないが、赤く預言書にない偉大なるヌードルが地上人<ラムズ>権を得たのはイタリアンFFブームの気配が近づいてきた……誰もが勝利を確信したそのときのような気がする。
イタリア語のアンパンマンの顔みたいなやつがティラミススキル:完全魅了耐性とか……パンナコッタの眷属流行った頃。
初めて喰らい尽くしたカルボナーラにその瞬間だけは言葉を忘れた。
そのミルクと黒胡椒であえた炭焼き風パスタは、今に思えば日本式の全く異なる法則の下に存在する生命体ではあるが、偉大なるヌードルが発酵生成物と云うことが衝撃拡散(ショックアブソーバー)だった。
スパゲッティ――塩を振って炙っただけではない。
小指の力だけで大岩をも砕くサラ=ミとオニオン・ナイトとカプシークムが必ず乗った聖餅生地の帝都アメリウス式で、魔炎の触媒をかけて喰らう『存在』だった。
創造神すらも敵わないメィルシ・ゲリスートゥスなどなかった。
情報化社会のキッズYouTuberたちは信じてくれる…そんなの常識じゃん?
アナログの時代のパスタはルビーしかないといっても過言ではなかった、ということ。
家庭のみ存在する可能性があるだけでなく、配給もデニーズもナポリタンとミート情報源しか無かった、実例もたくさんある。
当然そうなんですけども、「パスタ5倍類」という呼称はデフォルトではなく、ましてミート情報源を「ラグー」と呼ばれるのをアクティブリスニングした実態がないといっても過言ではなかった。そう、iPhoneならね。
弊社の父その他大勢、未だに赤くないパスタはゲテモノだとロジカルシンキングしTEL(笑)。
おそらく赤くない、つまり成長がないパスタがブルジョアジー権をインプットしたのはイタリアンブーム(作られたブーム)が来たときのような気がする。
イタリア語の食べ物がティラミスとかパンナコッタとか流行った学生時代。これメモっといた方がいいよ。
未経験者を、吸収、合併、買収したカルボナーラに需要を示した。
そのカルボナーラは、情報化社会にマクロ的な観点から俯瞰すれば我が国スタイルの別物でビジネスチャンスはあるが、パスタが乳製品と読み取れるミームがシナジーだった。
パスタのみ存在する可能性があるだけではない、『デキる人』はみんなそうしてる。
パスタのみでは乗るしかない、このビッグウェーブに。
今の子供たちは信じてくれるだろうか?
家庭だけでなく、給食もファミレスもナポリタンとミートソースしか無かった。
もちろん、「パスタ」などという呼称は一般的ではなく、ましてミートソースを「ラグー」と呼ばれるのを聞いたことがなかった。
うちの父など、未だに赤くないスパゲッティはゲテモノだと思ってる。
おそらく赤くないスパゲッティが市民権を得たのはイタリアンブームが来たときのような気がする。
流行った頃。
初めて食べたカルボナーラに衝撃を受けた。
そのカルボナーラは、今に思えば日本式の別物ではあるが、スパゲッティが乳製品ということが衝撃たった。
スパゲッティだけではない。
サラミとタマネギとピーマンが必ず乗ったパン生地のアメリカ式で、タバスコをかけて食べるものだった。
マルゲリータなどなかった。
ある程度学があって礼儀を弁えた人なら大っぴらにはしないかもしれないけど陰口とか普通に叩いて嘲笑するよ。
F_ck Fu_Kうるさいハイソサエティじゃない人は大っぴらに嘲笑するよ。
Engrishなんて言葉が何でここまで広まってると思ってんだ。
ちなみにEngrishだけじゃないぞ。中国訛りのChinglishとかインド訛りのInglishとかいう言葉もあるぞ。韓国訛りも何かあった気がするけど忘れた。
スペイン語ポルトガル語フランス語イタリア語ドイツ語ロシア語とかも英語では特徴的な訛りがあるけど
アジア圏の訛りにはそういう呼び方がつけられるあたりに色んなもんが透けて見えるな。
まあ日本人が外国人の日本語を「アリガトゴザイマース」とか書くのと同じような感じで
無邪気にイジってるだけって思ってるアメリカ人は多いだろうけどな。
大学受験も大体終わった頃のようなので、何となく書く。筆者は以下の言語すべてが流暢という訳ではもちろんないが、まあ平均的な高校生が英語を知っている程度よりはそれぞれの言語について知っているつもりだ。ただし、大学の教師でもなければ語学で食べているわけでもないので適当に割り引いて読まれたし。
のっけから本題とずれるが、これから大学生になる人が外国語学習において力を注ぐべきなのは、英語の学習であって、第二外国語ではない。各国語(あるいは文学)を専攻しないならば、第二外国語を学ぶのは大体多くても2年くらいだろうが、授業を聴いているだけならば間違いなく卒業する頃にはすっかり忘れているだろうから、実際的には毒にも薬にもならないと言ってよい。それでも外国語を学ぶことはその使用者の文化を垣間見せてくれるし、ヨーロッパの言語であれば英語の理解を深めてくれる部分もある、かも知れない。
というわけで結論だけ先に述べれば「直感で好きなのを選べばよい(どうせたいした違いはない)」。もう少し付け加えるならば「フランス語はやや覚えることが多く、単位を落とす人がそこそこいる。英文法になじんでいる人間にとっては中国語の文法はややとっつきづらい。逆に英文法がどうも嫌いだという人は中国語にチャレンジしてみてもいいかもしれない。以上を逆にとらえるとドイツ語やスペイン語は無難な選択肢だろう」くらいだろうか。
以下各国語についてのコメント。文法:A(簡単)- D(難) 発音:A(簡単)- D(難) 実用性:A(役立つ)- D(全く無駄) で一応つけてはみたものの、印象なのであしからず。
かつては第二外国語筆頭だったろうが、学習者は減少している。大学の二外として言うのであれば、初期学習は簡単なので一番無難であると思われる。英語と同じゲルマン語に分類され、文法はまあ似ているのでそれほど違和感なく入っていける。また、発音もよく知られるようにだいたいローマ字読みであり簡単。また、日本人にとって、クーゲルシュライバー(ボールペン)などの一部の単語は(ドイツ人が理解することができない)クールで魅力的な響きをもつ。
歴史的な経緯からドイツ語が通じるのはほぼドイツだけで、ビジネスで関わるようなドイツ人であればまず英語が話せるのでドイツ語の実用性は低い。とはいえ、EUの中で最も力を持つ国ではあるし長期的に学習することを考えるのも無駄ではないだろう。
こちらもメジャーで、その意味では無難。文法でハードルになるのは、やはり動詞の活用であろう。例えば英語だとgoは三人称単数でgoesと活用する。フランス語の場合、{単数、複数} x {1,2,3人称}の6パターンの活用をするのが普通で、さらに現在形、過去形、etcと6種類ずつ活用を覚えることになるので英語やドイツ語に比べると暗記が必要な部分は増える。二外としてみる場合、大してモチベーションもないのにこれを暗記するのが大変という場合が往々にして起こりえて、単位を落としやすいように見える。
発音については、英語ほどスペルとの対応が不規則ではないと言われるが、発音しないのに表記される文字が多く初学者にとっつきにくいものである。またこれが上の動詞の活用のスペルを覚えにくくするものでもある。
以上の点から、二外として単位を取るだけならばあまりオススメはできない気がする。ドイツ語に対して利点があるとすれば女の子が多そうなイメージがあるくらいだろうか。ただ、ある程度学習が進むと上で書いた文法や発音の困難はたいした問題ではなくなる。また、歴史的経緯から英語の語彙は(同じゲルマン語である)ドイツ語よりもフランス語との方が共通点が多いので、英語が十分できる人間にとっては、入門を果たした後ある程度読めるようになるための労力はドイツ語より少なくて済む。
実用性という点では、アフリカに植民地がたくさんあった関係上アフリカで多く使われるため国際協力云々といった仕事に興味がある人にはフランス語の知識は有利に働く。
いろいろな問題を抱えつつもとにかく巨大かつ成長中の国で、さらに地理的なこともあって学習者は増えているようだ。
まず、発音が難しい(厳密に言えばどの言語も難しいだろうが)。よってリスニングが難しいので単位取得にはマイナスかもしれないが、逆にだからこそ授業でとるべき言語とも言えるかもしれない。文法についてはひとことで説明するのは難しいのだが、なんと言っても全く活用しない(=漢字は形を変えない)ので英語と同じノリで文法を理解しようとするとなかなか腑に落ちない。原因をいくつか挙げると、一つの文字がいろんな品詞で使われることや「目的語」の概念が英語と若干違った意味で使われるといったところだろうか。また、文法のルールが複雑というよりもどのルールをどこで使えばいいのかがよくわからないという難しさがある。
こういう難点はあるものの、暗記するのはまあ文字くらいで、日本人にとっては文字を習得する苦労があまりないので二外の単位取得くらいだったら一番労力が少なくて済む(かも)という面もある。ある程度要領が良い人で、外国語の勉強をしたくない、というひとには選択肢に入るだろう。
実用性という意味では、もちろんペラペラになればそれなりに重宝されるだろうが(ただし英語もできるという前提で)、そこまで行くのはまあ大変だろう。日本語ができる中国人は大量にいるので、ちょっとやそっと中国語ができても、それだけではあまり使い道がない(と言われている)というのは留意すべきか。
文法の複雑さという意味ではフランス語と似たり寄ったり(どちらもロマンス語に分類される)。ただし、発音がおおむねローマ字読みでありその分暗記はしやすいように感じる。二外としては大きな困難がない言語であると思う。実用性からみても、話者の多い言語でありそれなりに有望だろうが、下手にスペイン語ができるからといってメキシコで働くことになったりするのは怖いかもしれない。
スペイン語も読めるようになるまでは英語の知識が役に立つが、おそらく難しいのは聞いて話すことで、一般に早口で話されるので実際に会話できるようになるまでに必要な労力はどの言語でも変わらないなあ、と感じる。
ちなみあまり二外の選択肢にない気がするがイタリア語も同じロマンス語であり、スペイン人とイタリア人は場合によってはそれぞれがそれぞれの国の言葉で話して理解できるようである(ポルトガル語の方がスペイン語に近いらしい)。少し勉強しただけの印象だとイタリア語の方が文法も発音も少しルールが複雑である。それよりも大きな違いはイタリア語は特定の分野をのぞけば実用性があるとは言えないという点だろう。もっとも、プロとして高い能力を持った人も少ないらしいので全く仕事につかえないという訳ではないだろうが。
実用性は近いからなんとなくドイツ語単品よりは仕事ありそう(ただし地理的に限定される。北海道とか新潟とか)、というくらい(あくまで印象です)。
まず文字が違うのでそれを覚える苦労があり、発音も難しく、文法も複雑である。語学に時間を割きたくない人にはお勧めしない。二外としての利点を挙げると、大体少人数の全学部合同クラスなので、知り合いの幅が広がって楽しそうだった、という風に記憶している。難しい言語ではあるが、その分授業も緩くすすむ場合が多く、選択者の評判はおおむね良好だった。
個人的にはドイツ語とフランス語の後に学習した方が諸々楽な気がするので、二外としてはやはりオススメではない。ただ、ロシアという国に何となくロマンを感じる人は適当に勉強してみるのはオススメしたい。
古典語について個人的印象。括弧は実際問題発音しないので...
ラテン語。文法:C- 発音: (A) 実用性:C- (ヨーロッパ言語の文法的特徴について見通しをつけるのに役立つ気がする)
古典ギリシア語。文法:D 発音:(B) 実用性:D (特定の目的があるなら別ですが)
くどいようだが、(少なくともほとんどの人にとって)なんといっても英語の勉強をする方が先決だ。日本人が中高大と英語を勉強しても話せないのは教育が云々といっていろいろな試みがなされているが、第一の原因は勉強不足である。そもそもセンター試験で安定して9割くらいとれないのであれば高校までの勉強が不足しているし、話せるようになるにはセンター9割からさらにそれなりの努力が必要だ。日本人のほとんどはセンター9割*に達していないうえに、大学に入ると勉強を止めてしまう。これでは「中高大で英語を学んだ」とは到底言えないだろう。(*あくまで一例。要は高校までの学習内容をきちんと身につけているかということ)
また、機械翻訳が発達して語学力はいらなくなるという意見もあるかもしれないが、すくなくとも10年以内に(話を英語に限ったとしても)英語を全く理解せずに英語話者と口頭でコミュニケーションがとれるようになることはないだろう。先のことはわからないとはいえ、機械翻訳の発達を強調して語学学習の無意味を説く人はノストラダムスの予言を当てにして何の努力もせずともよいと言っていた人(いるかは知らんが)と大差ない。ただし、コストパフォーマンスの面から翻訳が金にならなくなっているのは既に事実であり外国語で食っていくのはコンスタントに難しくなっていくというのも正しいだろう。自分は「英語はただのツールなんだから必要になればすぐに身に付く」という言説は全くの嘘だと思っているが、そうはいっても金になる技術を身につけるのはそれはそれで重要であるのも事実で、英語だけできても仕事がないというのはある程度正しい。同時に、別に誰もが英語をぺらぺらになる必要もない訳で、「英語が先決」と書いたのはあくまで外国語学習という範疇に限れば優先すべきは英語であるという意味なので、自分の時間配分の優先度を考えた上で外国語学習をしてほしい。
17世期Sancte Ioannesの頭文字の Si が加わり、
DominusのDoに変更されたそうです。
「ドレミの歌」
DO se do qualcosa a te
e cosi` ritorno al DO
(Tutti insieme appassionatamente)
(訳)
あげる 君になにかをあげるなら
私 私にと言うためのmi
FA ミの次の音
あっち こっちでないなら
はい いいえと言わないなら
さあこれでドに戻ります。
Do-Re-Mi
Doe, a deer, a female deer
Tea, a drink with jam and bread
That will bring us back to Doe
(訳)
ドゥは 鹿、雌鹿
ファーは 遠い、走っていく長い道のり
ソーは 針で糸をひくこと
ラは ソに続く音符
Si, c'est siffler comme un merle
Et comme ca on r'vient a Do-o-o-o
(訳)
Do Doは
Re 黄金の太陽の光
Mi 全体の半分
Fa 歌うのは易しい
さあ Doに戻りましょう
Re masmavi bir dere
Sol papatyali(*) bir yol
(*)トルコ語で文字化けするといけないので、u 、i 、g で代用
(訳)
ドは 1カップの アイスクリーム
レは 真っ青な 1つの渓流
ミは 海に 一隻の船
ファは 海に 一人の船員
ソは 真白菊の咲く 一本の道
do wa mesu no shika
soshite mou ichido
https://web.archive.org/web/20071005084349/http://danceart-web.hp.infoseek.co.jp/doremi.htm
①真に受けない
「リアルに支障きたしてやったぜ?It's wild,isn't it??」
②怒らない。
「Hey,look at his fuckin' ugly face HAHAHA funny😁」
③行動を変えない
「絵文字使ってるあたりyou are just being panic,arent you??」
④煽りを受けない奴は東大イケメンスポーツ万能なやつ以外はありえないということを把握する
「えwwwwフランス語、イタリア語、ロシア語が日常会話程度しかできないとかwwwwwwwwww低学歴乙wwwwwwwwwwww I think you should go back to kindergarden lmao」
ポーカーで同じ数字のカードを4枚揃えるフォーカード(フォーオブアカインド)の手役を、スペインでは「ポーカー」と呼ぶことに由来する。
ちなみに1試合に3得点はお馴染みの「ハットトリック」だが、これはクリケットにおいて3球で3アウトを取ると帽子(ハット)が贈られたという故事に由来する。
また1試合に2得点のときはイタリア語の「ドッピエッタ」がよく使われる。これはイタリア語の「2倍=ドッピオ」に接尾辞の「-etta」を付けたもの。
この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護)
曖昧さ回避 「ベートーヴェン、ベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
Beethoven.jpg
別名 楽聖
生誕 1770年12月16日頃
死没 1827年3月26日(56歳没)
活動期間 1792 - 1827
ベートーヴェンのサイン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。
目次 [非表示]
1 生涯
2 作風
2.1 初期
2.2 中期
2.3 後期
3 後世の音楽家への影響と評価
4 芸術観
5 思想
6 人物
6.1 名前
7 死因また健康について
7.1 聴覚障害について
8 親族
9 弟子
10 代表作
10.1 交響曲(全9曲)
10.2 管弦楽曲
10.3 協奏曲、協奏的作品
10.4 室内楽曲
10.5 ピアノ曲
10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品
10.7 宗教曲
10.8 歌曲
11 著作
12 伝記
13 脚注
14 参考文献
15 関連項目
16 外部リンク
16.1 録音ファイル
16.2 伝記
生涯
ベートーヴェン(1803年)
1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。
1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。
1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。
20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。
1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。
40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。
1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。
作風
初期
作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドン、モーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。
中期
1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。
中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。
これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。
後期
1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。
後世の音楽家への影響と評価
ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。
ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。
中でもワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。
一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークやチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラッヘンマンにまで影響を与えている。
芸術観
同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けた[7]。
ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。
思想
ベートーヴェンはカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスやプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。
また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。
政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒのウィーン体制では反体制分子と見られた。
その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。
人物
身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。
基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。
当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。
潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。
性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。
師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。
パトロンのカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。
テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。
交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントン・シンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。
聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。
死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。
これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。
メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番やハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。
彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。
パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。
コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。
名前
原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。
日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナー、ヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。
姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラント(フランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。
vanはドイツ語、オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。
偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。
詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照
死因また健康について
慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。
ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。
1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。
聴覚障害について
難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。
耳硬化症説
伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。
又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。
先天性梅毒説
「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。
鉛中毒説
上載の死因また健康についてを参照。
メッテルニヒ政権説
ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。
有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。
デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。
完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。
親族
フランドル地方・メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンス・アウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。
祖母:マリア・ヨゼファ
父:ヨハン
母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版) ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。
甥:カール(ドイツ語版) カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。
弟:ニコラウス・ヨーハン
同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。
弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。
弟子
カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。
フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。
ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。
ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。
アントン・シンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。
代表作
詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照
交響曲(全9曲)
第1番 ハ長調 op.21
第2番 ニ長調 op.36
第3番 変ホ長調 『エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]
第4番 変ロ長調 op.60
第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]
第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]
第7番 イ長調 op.92
第8番 ヘ長調 op.93
第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]
『レオノーレ』序曲第1番 op.138
『レオノーレ』序曲第3番 op.72b
序曲『コリオラン』ハ短調 op.62
交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91
『命名祝日』序曲 op.115
『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113
『献堂式』序曲 ハ長調op.124
協奏曲、協奏的作品
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]
ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61
ロマンス第1番 ト長調 op.40
ロマンス第2番 ヘ長調 op.50
三重協奏曲(ピアノ・ヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56
合唱幻想曲 ハ短調 op.80
弦楽四重奏曲(全16曲)
第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1
第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2
第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3
第10番 変ホ長調(ハープ) op.74
第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95
第12番 変ホ長調 op.127
第13番 変ロ長調 op.130
大フーガ 変ロ長調 op.133
第14番 嬰ハ短調 op.131
第15番 イ短調 op.132
第16番 ヘ長調 op.135
弦楽五重奏曲 (全3曲)
ヴァイオリンソナタ(全10曲)
第5番 ヘ長調 『春』 op.24
第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47
チェロソナタ(全5曲)
ピアノ三重奏曲(全7曲)
第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1
第7番 変ロ長調『大公』 op.97
その他の室内楽曲
ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17
六重奏曲 op.81b
七重奏曲 変ホ長調 op.20
管楽八重奏曲 op.103
ピアノソナタ(全32曲)
第8番 ハ短調『悲愴』 op.13
第15番 ニ長調 『田園』
第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2
第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53
第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]
第26番 変ホ長調『告別』 op.81a
第30番 ホ長調 op.109
第31番 変イ長調 op.110
第32番 ハ短調 op.111
その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)
創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34
創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35
『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78
『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79
創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80
創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76
ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120
アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57
幻想曲 op.77
ポロネーズ ハ長調 op.89
7つのバガテル op.33
11の新しいバガテル op.119
6つのバガテル op.126
バガテル『エリーゼのために』 WoO.59
本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。
オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品
歌劇『フィデリオ』 op.72c
劇付随音楽『エグモント』op.84
劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113
宗教曲
ミサ曲 ハ長調 op.86
ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]
修道僧の歌
歌曲
アデライーデ op.46
汝を愛す
鶉の鳴き声
新しい愛、新しい生
口づけ
追憶
懺悔の歌
先日、友人と会った。友人は英語もイタリア語もドイツ語も話せる。過去に何年も海外で暮らしていた。だから、勝手にすごいリベラルだと、フェミニストなのだと思っていた。勝手に、だ。しかし先日会ったとき、ケビン・スペイシーの話になった。彼女曰く、「彼は可哀そうだ。あんな過去のことを蒸し返されて、才能を潰されてしまった。可哀そうだ」。云っていることが判らず、眼が白黒した。すごい動揺した。おもわず「え?」って声に出た。私は多分「でもこれが意識革命の一歩になると思う」そんなことをしどろもどろに返したと思う。それに別にこれから先の作品を封じられたわけで、過去の彼の映画やドラマを発禁にされたわけではない。なおかつスペイシーは、最悪のタイミングでカムアウトまでした。そのカムアウトの話をして、彼の声明を口にした。スペイシーは「そんな昔のことは覚えていないけど」と書いていたと云った。すると「そんなの憶えているわけないじゃん」と彼女は口にした。「ワインステインはアレだけど、好きで躰を差し出している女性もいるじゃない?」再度動揺。好きで?好きでそんなことをしていると思っているの??? そしてした方は憶えていなくて当然なの????
私は父が嫌いだった。すぐに触ってくるから。やさしい接触じゃない。本当に「触る」のだ。どれだけ泣いて嫌がっても、「これは愛情だから」とやめてくれなかった。車で助手席に座るとぜったい太腿をさわってくる。私はスカートを履くのを辞めた。けど、ズボンになっても触るのはやめなかった。私は助手席に座るのをやめた。後部座席以外絶対座らなくなった。夜寝ていると布団に入ってきた。顔や体をべたべたと触った。キスもされた。当然泣いて嫌がった。最初はそれすらも面白がられた。本気で怒って反抗すると、向こうも本気で怒って怒鳴ったりしてきた。父のそれが少しおさまると、今度はそれを兄が手本にした。こわかった。とても怖かった。一度だけ母に密告した。でも口先だけの注意で何の歯止めにもならなかった。挿入まではされなかったけど、太腿に精液を出された感触をまだ憶えている。
こんなことがあって、家族と一切仲良くはなれなかった。なかよくなれると思っている母に、びっくりとした。家庭と云うのは、小さな檻なのだと思った。この檻に閉じ込められたくなかった。
私は家を出た。もう二度と関わらないで居たかった。そんな折に父が病気になった。母は「これでまた家族がひとつになれるね」と云った。ぞっとした。当然なれるわけなかった。父が死んで、私も努力したけど、仲良くなれなかった。その記憶が一気に押し寄せた。
彼女と別れて、その日の帰り、駅のベンチで泣いた。
怖かった。そんなことを云う人だとは思っていなかったから。被害者は、絶対忘れない。忘れることなんてできない。好きで躰を差し出したりなんてしてない。そこにはそれ以外の逃げ道がなかったのだ。家庭内で起こったことを口に出すのは難しい。彼女も目の前に被害者が座って居ると思って口にしてはいないだろう。(もっとも被害者でなくても駄目だけど)
さかんになってきているmetooのハッシュタグ。これを使うには勇気が要る。私には、その勇気がなかった。でも、口にしなければ、こんな心無いことを云われ続けるのだ。
その対処を第三者に「もう忘れろ」とか「時効だ」なんて云われる筋もない。決めるのは本人であり、蓋をするのも、包帯を巻くのも本人次第なのだ。ただ、私としては包帯を巻くのを手伝って欲しいだけなのだ、と感じる。傷は消えることなくずっと残っている。
最近は、1人ディズニーも増えてるみたいだね!先人たちがたくさん行ってくれたからかな。1人でも気にしないで行ける人が多くなったらいいなと思うよ!ではどんどん書いてくね!
reharmonize 本質的にはテーマパークだと思うので、主要キャラを覚えましょう。ビッグ8とプーさん、ピクサー系、可能ならプリンセス一式まで。できれば自分の好きなキャラを1つ決めておくと楽しみやすいです
https://snaplace.jp/tdlphotospot/
http://www.tokyodisneyresort.jp/blog/
http://ure.pia.co.jp/list/media?c=dmania
http://blog.livedoor.jp/wininter001/
http://www.disneyparkstory.com/
http://www.tokyodisneyresort.jp/treasure/fantasy/starwars/program.html
ジョニデ愛してるぜー!! と絶叫(新技:2007年から) … +10pt
https://dpost.jp/2013/02/13/wp-11386/
https://togetter.com/li/961004
次へ続く
エクストラバガンザ (英語: extravaganza) は、文学または音楽作品、あるいはミュージカルの作品で、様式や構造に囚われず自由であることを特徴とし、特に19世紀イギリスの文脈におけるバーレスク(英語版)、パントマイム、ミュージックホール、パロディなどの要素が盛り込まれたもののこと[1]。また、より広い意味では、手の込んだ、大掛かりで贅沢な舞台芸能の上演形態を指すこともある[2]。
この用語は、ジェームズ・プランチェ(英語版)が19世紀のイギリスにおいて流行させた、ある種の演劇を指して用いられた。プランチェは、この言葉を「詩的な主題についての滑稽な扱い (the whimsical treatment of a poetical subject)」と説明していた[3]。
しばしば主題として取り上げられるのは、妖精(フェアリー)が登場するような神話や妖精物語であり、ファンタジー的内容を派手な演出で見せる大衆的な芸能であった[4]。この意味でこの用語が使われた初出は、1794年とされる[5]。
この用語は、イタリア語において「浪費」ないし「贅沢」を意味する「extravaganza」[5]、ないし「stravaganza」に由来するとされる。英語では、18世紀半ばに奇矯な行動を指す言葉として用いられるようになり、その後、18世紀末にはファンタジー的内容の舞台を指すようになった[5]。
>「ミルクとシロップはお入れしますか?」と言われてしまって。
言われてしまってってなんや。店員なんかマニュアルと思って適当に聞いてるだけや
>作り直してもらおうかと考えたものの、まぁ別にいいかと思い、そのまま店を出た。
コミュ障陰キャ過ぎて草。そこで断ればすんでた話だよね?
>「やっぱりそうやんね」と苦笑し、事の顛末を説明すると、彼女は笑いながら「ちょっと待ってくださいね」と言ってiPhoneを取り出し、「あー、確かにそうですね。イタリア語で“牛乳”だそうです笑」と教えてくれた。
どこの方言やねん。落ちのない話すると思ったらやっぱりカッペでしたわあ。そんでラテが牛乳ぐらいググらんでも分かれや無学
>配合を間違ったカフェラテは、まぁそんな感じで、不味くはないけど、クリーミー過ぎてちょっとしんどい。
>飲みながら少し歩いたあと、その子とは駅の改札で別れた。ひとりになった僕は、プラットホームに設置されたゴミ箱に飲みかけのカフェラテを捨てた。
何捨てとんねん最後まで飲めアホ
>声に出して言ってみると、この可愛らしい響きは絶対に自分の頭からは生まれないなと思って、少し笑えた。
何もおもんなくて草。これで笑えるって君一日中笑いっぱなしやろ
>まるで魔法にかかったみたいに、彼女の言葉のひとつで、ローソンのカフェラテは、
>どこにも売っていない“カフェラテ・ラテ”になったというのにーー
最後のーーって何?文才ない奴が一丁前に余韻残そうとすんな
>僕はそれを半分も飲まないまま、ゴミとして捨てたんだった。
お前がゴミとして捨てられとけ
赤ちゃんのコリック(黄昏泣き)を解消するガス抜きチューブが日本では売られていなかった「原因初めて知った、これは産婦人科で教えるべき」 - Togetterまとめ
その後、各方面からカウンターが来てそれがさらに注目を受けているわけだけれども
安全性や問題点については既に様々な意見が出ているわけで、ここではそれ以上つっこまないけれども、それはそれとして当地で(おそらく)長い間実施されている行為であれば、なんらかの知見があったり有用性を証明する研究や論文があるのかな?と調べてみたのだけれども……
正直なところ、イタリア語はさっぱり分からないので、Google翻訳を駆使しつつなんだが
探してみたものの、さっぱり。
元の発言者からすると https://twitter.com/antiquelabarum/status/926433651566489600
イタリアで小児科や薬局行かなくても誰かに「夜泣きが」言うと「ああそれコリックね、薬局に行くと売ってるから」って誰もが知ってます。
ガス抜きカテーテルと、酷い場合用に飲み薬があります(強力なのでなるべく使いませんでしたが)
使ってガスが音を立てて抜けた後の赤子のスッキリ顔半端ない— Labarumラバルム (@antiquelabarum) 2017年11月3日
『誰もが知ってます。』とされているのだが、色々と検索してみてもそれらしい情報や解説ページなどは見られない。
またイタリアで子育てをした日本人はこれまでにも大勢いただろうから……、と日本語のブログでも同様に探してもいるのだが、やはりヒットせず。
あとTwitterにも他のイタリア在住の人もいるだろうから、私も使っていた!などの情報が無いか検索してみたのだがそれも探せず……。
一応 YouTubeでも検索してみたところ、イタリア語でも乳幼児のげっぷを出すための解説動画(赤ちゃん人形を使った)なんかはあったりするのだが、カテーテルを使ったこの手法については探し出せなかった。
たぶん、自分の検索能力が低いので見つけられないだけだと思うのだけれども、もしもイタリアで実際にこの施術を解説しているページがあれば教えてほしい。
私「教え子に赤子生まれたからコリック用ガス抜きチューブ送る」
夫「?日本で買えばいいんじゃ?」
私「それが日本じゃ売ってないんだ、存在すらしねえ」
夫「?!?!」
コリックに黄昏泣きなどと意味不明なネーミングをしママにのみ無駄な苦労を強いる謎の根性論大国日本
今何世紀だったっけ? pic.twitter.com/hms48zfKrj— Labarumラバルム (@antiquelabarum) 2017年11月3日