はてなキーワード: 脳科学とは
https://www.webchikuma.jp/articles/-/120
〈わかる、というのは秩序を生む心の働きです。秩序が生まれると、心はわかった、という信号を出してくれます。つまり、わかったという感情です。その信号が出ると、心に快感、落ち着きが生まれます〉(『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』)”
”〈「わかった気になる」と「わかる」とのあいだには本質的な線引きが出来ない〉(佐々木敦『ニッポンの思想』)”
”「説明が正しいかどうか」よりも、また「その問いが妥当かどうか」よりも、私たちの脳はともすると、「説明があるかどうか」のほうを重視してしまう。
説明とは、そのままでは未知にとどまってしまうものを分解して、自分がすでに知っているものの集合体へと帰着させてしまうということです。”
”「自分が不愉快な状況にあるのは、特定の人たちに有利なふうに世の中が設計されているからだ」
と問うからです。”
日本代表がPK戦に勝っていたとしたら、「なぜ、日本代表はPK戦の技量がこのようなレベルだったのか」と自分に問いかける人はこうもいなかったでしょう。
>俺が興味があるのはあくまで文化と性の関係であってフェミニスト文脈ではない
なるほど。
俺がここで主に興味あるのは、文系概念に対する理系知識の導入だ。
かつて人文学では、文化というのはヒトと動物を乖離させるものと理解され、ヒトの生まれつきの本性というのは教育によって如何様にも変化するとされた。「子供は真っ白なキャンパス」などという言葉が事実のように扱われ、男の子を女の子のように育てることで男性の暴力性を去勢することができるとすら考えていた時代があった。もちろん事実は違い、文化とは、ヒトの生物として性質の一形態であり、教育は人間性を変化させる万能の道具などではない。
ヒトの進化適応に関する理解や、脳科学の発展と解釈を踏まえたうえで、これからの社会人文学は理論を作らねばならない。
(フェミニズムに批判的なのはこの点で、根本的に80年代理論であるフェミニズムは理系概念の理解が全くできてない。全ての性差を"ジェンダー"という変更可能な概念に回収せんとする理解で全体が構成されてしまっている)
お前は「あなたが正しいかもしれないが、正しくないかもしれない」という言い方で、文化が現在の生物理論から離れたものである可能性や、教育が万能の道具としての効果を発揮する可能性を、わざと留保している。
それは科学って立場からは認められないものだ。「炭を殴り続けたら炭素が分解して酸素にになる可能性がワンチャンあるかもしれない」「月を実際1億人で調査すればウサギを発見できるかもしれない」と言うようなものだ。
お前がそれについて無知であることは、事実が未定であることではない。
そこを胡麻化すことはぜひともやめて欲しい。
あと、お前はやはり、文化がもたらす性癖の変化に興味があると言いながら、性癖が増えることと性欲が増えることを混同しているようだ。文化は所詮ヒトとしての本性の上にのっかっているのであり、ヒトを変えたりはしないのだということを、再度確認してもらいたい。
過去に、脳科学、神経科学の発見に対して、ノーベル医学生理学賞がそれなりに与えられているのに対し、もっとも基礎的かつ重要な発見と私には思われるヘッブ則を提唱したヘッブにノーベル賞が与えられていないことは意外に思う。恥を偲んで告白すると、私自身もつい先ほど、仕事の合間にネット検索で逃避していた際に知ったばかりで、このように増田に書いているのである。
例えば、ゴルジとカハール(1906)から始まり、「ニューロンから脳へ」の確か最初の章で紹介されてたイカの軸索の研究によるホジキンとハクスレー(1963)、分離脳のロジャー・スペリー(1981)、エリック・カンデル(2000)あたりが貰ってる。今調べながら知ったが、パブロフも貰ってるし、ヒューベルとウィーゼルも貰ってる。Wikipediaで見てると、神経科学系でほかに私の知らん人もそれなりに貰ってる。医学生理学賞ではないが確かヘルムホルツも貰ってる。だが、ヘッブは貰ってない。
ヘッブが受賞できなかった理由は素人の私には分からないのだが、近年のディープラーニングでのイントロダクションで「まくら」としてヘビアンラーニングが引用される割には、神経科学そのものの領域では評価が高くないのかもしれない。そんなことありえるのかな。
1904年生まれ1985年没のヘッブが、時代に対して「早すぎた」ということはあるのかもしれない。それにしても、晩年にはパーセプトロンとかニューラルネットワークとかそういうので、AIいけるやん!って当時の人々は盛り上がってた筈なので、やっぱりなんでだろうという気はする。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/020800002/021400005/?P=2
「間違った心理学で、男性がこう、女性がこうとか、世の中ではよく言われていますね。例えば、男女の脳の違いとして、男性の方が左右の脳の連携がよくないとか。これには、元になった論文がありまして、1982年に『サイエンス』誌で発表されています(※)。男女それぞれ、脳梁の太さを測ったら、女性のほうが太かったと。でも、この論文のデータは男性9人、女性5人からしかとってないんです。それだけで、女性のほうが左右の脳の連絡がよくできてるっていう結果にしている。そもそも信頼性がないし、その後、いろいろな研究者が再現しようとしたんだけど、結局できてません。今さすがにこれを信じている脳科学者はあんまりいないんですよ」
現在の知見では、少なくとも形態上、男女の脳に違いはない、ということになっているそうだ。しかし、「男女の脳」「脳梁」といったキーワードで検索すると、驚くほどたくさんの結果がヒットして、「脳梁が太いから女性はおしゃべりで、感情的」みたいなことが平気で書いてある。
・ボードゲームのルール、一度説明を聞いたくらいでは覚えられない
・わりとセリフの多い漫画(ゴールデンカムイなど)を読んでいると途中で読めなくなってくる
・TOEICや英検などのリスニングパートで、聞く、問題文を読む、正解を考えるというマルチタスクをすると何もできなくなってしまう。ちなみに英語は完全に聞こえているし、理解できるレベル
・下手の片付けをしていると判断の多さ疲れて途中で何もできなくなる
ポンコツの理由がわかってなるほどという感じ。ADHDだから〜ではなく、ADHDと呼ばれるグループによくある脳のタイプをしているから、と考えている。障害だから云々という話ではないし、だから同情とか配慮を求めたいとかではなく、単純にポンコツなのにも脳に理由があっておもしれなみ脳科学やべ〜という感じ
初めに断っておく。これは全部俺の実体験だ。
最近、壁を歩く男に会わなくなった。
日本中どこにでもいて、みんなが見たことがあるだろう、あのニンジャだ。
なに、ニンジャを見たことがない? 車や電車の窓からぼんやり外を眺めていると、風景と並走して走っているのを幻視した子供は多いと聞く。
俺はニンジャを見た記憶はないが、これから話す男は、それに属するものだ。
学校、午後、お昼時。
眠気に耐えながらぼんやり授業を聞いているときに、そいつはよく現れた。
窓の外なんてもんじゃない、室内の、目と鼻の先をそいつは歩いている。
壁は泥のように変化し、足首まで壁にどっぷり浸かりながら、そいつはえっちらおっちらと室内を歩いている。
俺の足は壁に浸かっているし、足には苦労しながら壁を歩いている感覚がある。
そして同時に、椅子に座りぼんやりと授業を聞いている俺の感覚と意識も確かにある。
本来の俺と壁を歩く俺、二人の体の感覚を共有しているかのような、そんな奇妙な感覚だ。
俺はたぶん、三半規管だか何だか、とにかく脳の重力に関する部分に欠陥か緩みかがあるんだと思う。
お昼時のように意識が緩む条件のとき、その箇所が無意識からささやく。「あれ、おかしいぞ? 重力が真下じゃなく横を向いてるぞ?」と。
両者を脳がうまいこと折衷した結果が、「壁に立つもう一人の俺」であり、「足首まで壁に埋まってなんとか踏ん張る俺」なのだ。
子供の頃、俺は満天の星空や青空の大伽藍を異常に怖がる子供だった。それと何か関係があるのかもしれない。
脳科学者、オリヴァー・サックスならどういう診断をしただろうか?
そんな壁を歩く男だが、成人を超えてからも時々見た記憶がある。しかしここ最近、年をとってからはめっきり会うことがなくなった。
年をとったことで、脳のその辺の配線が変わってしまったのかもしれない。
もう、あの男には会えないのだろうか。もう一度、あの男に会いたい。
そして俺はあの男になって、もう一度壁を歩きたい。