はてなキーワード: 年子とは
知り合いに子供が産まれたんだけど双子の男の子で私も双子の男の子が欲しかった。その子は結婚して2年くらいで自然に妊娠して産まれてるし今20代だったはずで、私だってそのくらいの年齢でそうやって子供に恵まれたかった。私は結婚して子作り始めて5年子供できなくて一度流れて治療してやっと授かった。渇望していた男の子ではなくて女の子だった。それでも自分の子供は超可愛いし、妊娠の経過も順調で正期産だったし、出産も初産とは思えないほど順調だったし、まだ1歳前だけど大きな病気もなく健康に育ってくれているし、凄く育てやすい子供だからこれ以上望んだらバチが当たりそうなくらい恵まれているんだけど、どうしても知り合いが羨ましい。
彼女が双子を妊娠したことは某SNSで知ったんだけど見ると嫌な気持ちになる自分がいるから見ないようにしていたのに、たまたま普段開かない別のSNSを開いたときに出産報告を見てしまった。だから今この日記を書いている。まあそこで見なくても共通の知り合いからその話題いつか出ただろうから遅かれ早かれ知ることにはなったとは思うんだけど。
そう、こんなに自分には可愛い子供がいるし環境だって恵まれているのに、他人をみて妬ましくなってしまうのが凄く嫌なのだ。子供にだって申し訳ない。それでも思ってしまう。辛い。自分が嫌になる。この性質どうにかしたい。
自分でも、どこにでもいる、むしろ人より下位にいる人間だとわかってる。
でもなんとかして働きに出たい。
経歴
新卒で総合職社員として務めるが半年でやりたいこと(文を書くことや本と携わること)ができないと判断して、退社
色々あり籍だけ入れ彼と同棲、そのまま転職活動しようとしてたら妊娠発覚
妊娠出産、子どもは2人はほしく、企業入ってからまた育休とか取るよりは一気に済ませた方がいいかも知れん、と思い立ち、年子を生む決意をする。
そろそろ動き出せるとわかりつつ、どうしたらいいのか二の足を踏んでる…育児しか経験したことがない27歳を雇ってくれるところなんてあるのか。
チマチマと在宅でライターをやっている。(0.1円から始めていま0.7円ほど。これ以上は利用してるサイトじゃないところで活動しないと無理かなと思ってる。)
作家は諦めたからできればライターで企業に勤めたいと思ったけど、ライターっていまかなりフリー。
自分でホームページやったり名を売りに行かないと無理な感じがして、自ら名を売り出す行為が自分にできるとは思えなくて、ライターも無理なのかな、と思い始めてしまってる。
長年の夢の作家は諦めた。
もう、夢は叶わなかったな、なんて思いをしたくない。
なれるものに、なりたい。
わたしは、なりたいものには、ならなかったという思いをしたくない。
自分と同じように何者にも所属できず心を病んだ友人が、自死してしまった。
でも、何者にもなれず、どこにも所属していない人間が死を選択する世界、と、同じ世界にわたしも立っているわけで。
死ねと言われてるわけではないと理解してはしてるけど、居心地が悪く、苦しい。
でも子育てが終わった後に、手元に思い出しか残らない状態が辛くて、専業主婦のままはいやだ。
わたしは何ができるんだろう。
何かできることはあるんだろうか。
雇ってくれるところはあるんだろうか。
何者かになれるのだろうか。
いつまでこのような厨二病的な世界にわたしは囚われてるんだろう。
※
すみません、在宅でライターしてると言っても一年でならすと月2〜3万が限度です。
頑張ってもこのままだと月5万くらいしか無理かなと。
毒親の話を読んで似た人がいて吐き出したくなって誰にも言えないからここに書く。
父親が妹を自分の顔に似ていると赤ん坊の頃から毛嫌いした。年子の長女の私の事は猫可愛がりし私の赤ん坊の頃はほとんど父親がかまっていたと聞いた。
物心つくと母は父親に甘える私に、お父さんは嫌いと言いなさい、じゃないとあんたの事嫌いになるよと言った。私は父親より母のことが好きだったので泣いてすがった。妹は構われずいつのまにか立っていたとのちに母は言った。
私は母の言う通り、あんたなんて嫌いと言いお父さんと呼ばなくなった。
父親は妹を泣かせて遊んだ。妹はこの世の終わりのような声で泣いた。泣き叫ぶ事を妹は中学生までやめることができなかった。母はそれを疎ましがって疎まれるのが怖くて私は声をあげて泣くことはなかった。
父親が妹をいじめて母と険悪になると私に母は産むんじゃなかったと言った。そう言われるのが怖くて私が父親に抗議する立場となった。そうすると母は父親の機嫌を損ねなくてすむから。
父親が妹を意味もなく小突いたり、私だけを甘やかそうとすることを口汚く罵りながら、して欲しいことがある時は甘えてコントロールすることが私の役割だった。いくら私が、お前なんか嫌い、きちがい、と言っても父親は私にだけ甘かった。
妹の泣き叫ぶ声を私も疎ましく感じていた。母に父親とあのこさえいなければと言われ真に受けていた。ある日泣く妹を母は玄関から閉め出した。私は母を、もういいでしょ、と説得してからでないと鍵をあけることができなかった。私はくずだった。
小学低学年になり、すかしっぺをくらわすふりをするという遊びが流行った。まだ嫌いと言いつつ自分にやさしい父親に甘ったれた感情が残っていた私は嫌がらせもこめてその遊びをとった。父親はニヤニヤと、してはいけない事だ、お母さんに嫌われるよ、と言った。母に嫌われることが何より嫌だった私は、ごめんなさいもうしません内緒にしてくださいと父親に謝った。父親は内緒にして欲しがったら乳首をなめてと言って私はした。
中学年になると妹はストレスで学校で問題をおこすようになった。家のお金や私の物を盗み、怒るとお姉ちゃんがと泣き叫ぶ。住宅密集地だったため丸聞こえで近所の人に挨拶をすると無視されるようになった。
大人に指図して生きているのがわかるのか私は先生に好かれない子供だった。授業中に睨むなと叱られ母に相談すると、あんたは大人を馬鹿にしていると言われた。
父方の祖父母にも生意気で可愛くないと言われいると母から聞いた。母方の祖母もあんたがなつかないから引っ越したと言われた。妹も私も味方の大人はいなかった。
中学生になると妹は荒れ似た家庭の友達の家に入り浸るようになった。親の寝室にはアダルドビデオの山があった。私はかまってくる男子に学生が拉致されて犯されるビデオを貸した。父親も発情した男子も馬鹿にしていた。その男子に好意をよせ胸を触らせてあげる女子などがいたが私が媚びないからそんな態度だと犯かすぞと言われた。ああ男はそうできるのかと肌身に感じた。
そんな中母が入院することになった。あまり帰ってこない妹と風呂場やトイレを間違えたふりしてあけようとしたり股関を見せてくる父親と過ごすことにノイローゼになった。
私は気が狂っていたんだと思うがお風呂の湯船に浸かり麺棒を股に刺した。自分で自分を守った気がした。食欲もなく母が退院すると私が病院につれていかれ栄養失調だと怒られた。
卒業間近に父に愛人ができ、借金でも虐待でも別れなかった母は離婚を決意した。
その頃にはもう妹は我慢の限界で父親に反抗し物を壊し私や母に殴りかかるようになっていた。当然だ。母の兄が妹をなだめようと受け止めなんてできやしないのに近づき、妹が暴れると妹を罵った。母にその日の夜、あの子らはいらないだろうと児相に預けるように言われたが断ったよと伝えられた。
小学生の時の帰り道けんかをして妹を泣かせてしまった。それを見た知らないおばさんが私を嫌な子だと非難すると、お姉ちゃんをいじめるなとこんな姉妹関係なのに怒ってくれるやさしい子なのを知らないくせに助ける気なんかないくせに妹を馬鹿にした。今でもあの親戚たちが死んだら笑うくらいには憎い。
妹は社交的で可愛く人好きのする人間になった。でもいまだに心に爆弾を抱えているし、私に対して愛憎の入り交じった感情をもっているのがわかる。
私は妹が好きだ。お姉ちゃんは好きだと言ってくれる妹に罪悪感が消えることはないと思う。
私には年子の姉がいた。
正確に言うと、姉はこの世に生まれて来れなかった。姉が亡くなった直後に私が妊娠したため、親や親戚からは「姉の生まれ変わり」「姉と一心同体」と言われここまで生きてきた。
姉のことは20数年間生きてきて1度も見たことがないし、声も聞いたことがない。
でも、姉の存在を感じることは多々あった。
小学校2年の頃、学校の廊下を歩いていたら後ろから頭を突かれた。でも振り返ると誰もいない。
当時ビビリだった私だが、何故か怖くなかった。
これが姉との出会いだった。
姉は、私が弱っていると助けにきてくれていた。
本当になんども助けられた。
私は親から「姉の分まで幸せに生きないとね」なんてことを20数年間ずっと言われてきたので、「ふたりで生きていこう」と思っていた。
どうしようもないぐらい辛くて、死にたくなった時、いつも姉は助けにきてくれていた。
大学に入り、ちょっとメンヘラでお姫様気質の彼女に振り回されて死を覚悟した時だった。
この頃になると、寝る前に真っ暗な部屋の中で泣きながら姉を呼び「こんなことがあってしんどい。助けて。」なんて訴える日もあった。しっかりと声に出して。
側から見たら「独り言を言うやべー奴」だが、私はしっかりと姉の存在を感じながら話していた。
その夜も訴えた。泣きながら「死にたい」と言ったところで意識が途絶えた。
夢の中で姉と会った。
もちろん顔は覚えてない。何を話したかも覚えてない。
でも、姉は私に会いにきてくれたのだ。
そのことだけは衝撃的すぎて忘れられない。
姉のために「永遠の幸せ」を求めて生きてきたけど、そんなものがないってのを教えてくれたのも姉。
幸せではないし、むしろ今すごく辛いけど、姉がいるから私は生きていける。
ふと文章にしたくなったので書いてみた次第。
姉ちゃん、見てくれるかな。
https://anond.hatelabo.jp/20181208225303
俺は栄光関係者じゃなくて、今年の春に子供を通わせようと思って南草津校に見学に行ったことがあるだけの保護者だが。
増田の記事読んでてあれ?ってなった。なんかおれが思ってたのと違う。
まず栄光の印象だが、ビジネスやる気あんのか?って感じだった。
チラシでも合格実績とかじゃなくて講座の値段が安いですよとか体験学習やってるから今がチャンスみたいなことを。
昔からやってる有名塾なのにこんなやる気がないことでいいのか?
お隣の駅にあるマブチ教室がででーーーんと駅からみてもわかるくらいどでかく俺はここにいるぞって合格実績アピールしてるのになぜやらないのか。
私みたいに稼ぎが悪い親じゃなければ問答無用でマブチに入れるぞ。
あと立地も悪い。
栄光はそもそも建物の位置が商業ビルの奥のほうでわかりにくく、ビルの真ん中のテナントがいないこともあって
で、実際行ってみた感想だが。増田で語られてる内容と自分がみたものがなんか違う。
ブクマ読んでたらやっぱり一人で100人の面倒見てたように勘違いしてる人がいる。
俺が見た限りだが、これ、たぶん教室責任者が一人っていう意味だよな?
そうじゃないといくら保護者がバカでもこの塾はやばすぎるって思うだろ。
ただ、俺はこれ社員だと思ってた。若いとは思ったが増田がいうことがほんとならこいつらはバイトなんだな。それはびっくりだわ。
今から思うに、これ大学生からしたらかったるくてバイト集めるの大変なんじゃねえかな。
授業をやってる先生とは別に受付や事務作業とか、授業待ちの子供の対応をしてる人がいて、はた目には異常だって全然思わなかった。
見学に来たうえで話を聞いたらとにかく合格実績の話とかなくて、子供一人一人を丁寧に見ますよってのをアピールしてた。
実際に見たら受験させるというよりはなんか託児所みたいな感じ。先生はたいへんやろなあと思ったけどやっぱり立地が気になって通わせる気にはなれんかった。
よく考えたら、あの話してたやつは社員なのかそれともバイトなのかどっちだ。名刺もらっておけばよかったわ。
マブチのほうは受付やらジムと先生が明確に分かれてるんだな。服装でジムって分かれてる人がいたわ。
マブチは経営者がやくざうんぬんみたいなうわさがあって印象悪かったけど実際に行ったらものすごく空気よかった。
でも見学しててうちの子にはこういうがつがつしたの合わなさそうだなって感じだった。
あと浜学園やら成基学園やら城南予備校に行ったんだけどどれも悪くなかった。
特に浜学園は上位校はガチで厳しそうだけどうちの娘の中間レベルはぬるい感じで通わせるならここがいいかと思ったが、月謝が高すぎて断念。
いろいろ悩んだ結果、フリーステップに通わせることにした。やっぱり草津駅は夜は暗いし安全が第一だよなぁ
どうでもいいけどチラシの画像ググってたらこんなんあったわ。このおっさんだれか知らんけどめっちゃおもろい。
https://blog.goo.ne.jp/mintsun157/e/04daa74c77788916a2270d09a96c6069
参考になるか知らないが、適当に綴ることにする。
3歳になっても言語を全く話せず、クレーン動作を始めとした典型的な自閉症状を示していたため、児童センターを介して専門機関で受診したところ、聴力も問題なく知的障害(自閉症)との確定診断。
応募した私立保育園には全て断られたものの、自宅から少し離れた市立保育園へ無事入園。
「知的障害児」ということで、ほぼ専任のような保育士さんを増員していただき、時々奇声を上げて脱出を企むながらも、最後まで追い出されることなく何とか卒園。
保育園の間は、ずっと会話は不成立。
3歳でビデオデッキの操作(VHSカセットの交換・スロー再生・逆再生等々)をマスターしていたものの、毎日テレビの前でビデオ操作しながら、全く同じシーンを延々繰り返しながら奇声を上げて踊ってる有様。
確か「お母さんと一緒」のビデオだったと思いますが、キメのポーズのところで一緒にキメて、そりゃ見てて可愛いわけですが、親からの会話は理解できていない。
テレビに映った、いわゆる芸人さんの笑いを(意味も分かってないくせに)オウム返しし始めたあたりで、これはヤバいと感じ、(当人は知らない)裏のコンセントをコッソリ抜いて「テレビさん壊れちゃったみたい」ってやってやりました。
しばらくは寂しそうにしていたのですが、何ヶ月かしたら、直ったか試すこともしなくなったので、未練がなくなったのだろうとテレビごと廃棄。
たしか4歳か5歳の頃だったと思いますが、この時から自宅からテレビがなくなりラジオだけの生活になりました。寝る時に子守歌かわりの童謡のCDを流す習慣にしていたのですが、高校1年くらいまでは寝る時に自分で操作して鳴らしてましたね。(ずっと川の字です)
テレビがなくなると空いた時間を埋めるべく、絵本をめくったり、オモチャを手にしたり、パソコンに興味を示したりするようになりました。テレビは捨てて正解だったと今でも確信しています。(モニターでDVDは視聴可)
発語はあるが会話は成立しないのですから、小学校は当然にしてストレートで特別支援学級です。
集団登校には親の同伴を求められたので、6年間ずっと同伴通学でした。(とは言え、後半は列の後方から見守る程度ですが)
「環境の変化」と「予想しない事態」に極度のストレスを感じるのが自閉症児の特徴なのですが、特別支援学級の1年生~5年生まで、担当教諭の異動がなかったことが幸運。安心すると精神状態が落ち着くんですね。
特別支援学級の教諭って、ナニかワケありで左遷ポストみたいな雰囲気があると思うんですが、1年生~5年生まで担当して下さった教諭は全く違ってました。
言葉で書き尽くせないのですが、自閉症児では健常児以上に苦手なところが多いのですが、無理矢理に克服させようと正面突破させるのでなく、苦手なところを避けて歩く方法みたいなことを息子に伝授してくれたように感じます。
予期しないことが起きるとパニックに陥って奇行が始まるのですが、先に予定が分かっていて、その予定どおりに進行すればパニックは起きにくく、そういう特性を最初から見抜いて下さって、本当に上手に導いて下さいました。
伊藤先生、今でも感謝しきりです。(年賀状は欠かさず(息子に)出させてます)
息子にはとにかく外界からの刺激が必要だと思って、ほぼ毎週、公園だの何だの、とにかく外へ連れ出しました。200キロの距離にある実家へは毎月通ったり、とにかく土日2日とも家に籠もっていたことは年に数えるほどだろ、という位に連れ出しました。
電車が好きだったので、環状線一周(全ての駅で降りて看板と写真を撮る)みたいな、そんなオタッキーなこと喜ぶ児童がいるのか?みたいなことやってました。時効だから打ち明けますが、1区分の切符でずいぶんと遠回りさせて頂いたこともあります。
地名や駅名とかはすぐに覚えましたね。
実家へは(下道で行くと)幾つものトンネルをくぐるのですが「このトンネルが最後」みたいなこと言ったり、いついつにこういうことがあった、みたいな何年も前のことを年月日まで揃えて呟いたり、とにかく記憶力だけは半端ない。
ちなみに息子と年子の妹(健常児)がいるのですが、彼女の存在も大きかったように思います。友だちのいない息子にとって、唯一の同年代の子どもが妹だったのですから。
特に小さい頃の妹は兄の障害のことが分からないので、時々は手を繋いだり引っ張ったり(兄のほうは照れて逃げ回ったり)、それはそれは友だちのように接してくれたのですから。
家族での外出のほか、JRが沿線で企画するウォーキングに猛烈に参加しました。
参加するとスタンプが貰えるのですが、有効期限内にフルコンプリートして最上位の景品を貰えるくらい、1級障害者じゃないので運賃は安くならず、相当お金はかかりましたが。
他の子達と同様、かならず電車の最前列に張り付いて、運転手さんの呟き(点呼)をオウム返し。運転席に手が届くような、どこぞの超ローカル線に乗った時は、運転手さんが息子の点呼(出発シンコー)に合わせてマスコン操作してくれたりで、電車が大好きになったようです。
あと英語のナレーションも覚えたみたいで、英語が流れないローカル線でも自分で英語で This train ・・・ Bound for ××× Thank you! って大きな声で「通訳」すると、周囲の大人が褒めるもんだから、より調子に乗って・・・みたいな。
10キロとかの健脚向けコースに参加しているときなんかは、おばちゃん達が「小さいのに偉いねぇ~」って飴ちゃんくれたりするものの、会話が成立しない(がんばって1往復)うえに当人は飴なるものを口に入れたがらず。
食へのこだわりが強烈で、少しでも怪しいものは決して口に運びません。妥協なんてありえないのです。
ヤフーキッズをブラウザのデフォルトにしたのと、使用時間に制限(夜の9時だかを超えると使えなくなる)したくらいで、基本的にノンフィルターで使いたいように使わせました。
パスワードはかけてなかった(息子も自分でかけようとしなかった)ので、時々何をしてるか監査してましたが、Youtube で馬鹿な映像を見てるほかは名探偵コナンを追いかけてる風。あとドラえもんとプリキュア(笑)
年頃の男の子が興味を示すサイトへは立ち寄った形跡もなし。アニメや芸能関係の Wikipedia の更新もやってたみたい。
基本的には「泳がせながら監査」という状態を続けましたが、ずっとパソコンで遊べるわけじゃありません。
時々妹がやってきて「私もパソコンを使いたい」って言う話になれば、兄に勝ち目はないので、みすみすパソコンを奪われることに。
まぁずっとパソコン漬けはよくないし、時々はパソコンを奪われたほうがいい(占有じゃなくて分け合う)と思うので、パソコンを追加することなく喧嘩させる選択(妹相手に喧嘩の練習をしておけ、と)
3年生か4年生くらいになると、少しずつ会話が成立し始めました。
その奇行ゆえ、運動会では常に、どんな遠くからであっても、あれが自分の息子だ、って識別できていたのですが、5年生の運動会くらいからでしょうか、一生懸命に探さないと見つけれなくなりました。
小学校の入学当初は「修学旅行へは親さんも同行してもらうことになりますから(同行できないなら修学旅行は無理です)」って言われていたのですが、伊藤先生の後任の女性教諭も「大丈夫でしょう」と。
無事に一人で(同級生と)行ってきました。
プラスチックの刀を土産に買って帰ってきましたが、どこが気に入ったのか今でも理解不能。
養護教諭のフォローなしに壇上で卒業証書を受け取る息子を見て涙が出ました。
奇行も減って落ち着いてきたので、普通学級でも辛うじて何とかなるかも?って言われつつも、他の生徒さんに迷惑がかかるといけないと思い特別支援学級を希望。
2人の学級で、これまでは異学年の混合授業だったのが、初めての同級生が出来ました。
しかも女の子! だけど家庭の事情(引っ越し)で1年で転校して行ってしまいましたが、別れの日は私物を整理して親と一緒に帰る時間に見送りに行ったようです。買って持たせた花束の中に、コッソリ前年の年賀状の余り(自宅の住所が印刷されている)を忍ばせておいたのは私なのですが、お礼状と共に今でも年賀状の往復だけ続いています。
その子もワケありなんだけど、息子とは特性が違う(不得意分野が違う)ので、嫁さんになってくれるといいんだけどなぁ~とは心の中の声。
気に入った女の子が出来たみたいなのですが、息子の挙動があまりにキモかったらしく、当人から拒絶されたうえに親にも厳重注意
(性的なことをやったわけじゃありません)
当人は加減を知らないし、女の子のほうも自閉症児につきまとわれるのは嫌でしょう、分かります。
中学校の特別支援学級の担任は、父兄の間で評判の良くなかったらしい教諭が着任して翌年に異動とか、産休予定の教諭が数ヶ月だけ担当して交代とかアレな風でしたが、本人には良い意味で刺激になったよう。
3年生になり進路が気になるころ、どこへ進学するかはともかく、特別支援学級という超少人数学級じゃなくて普通学級にも慣れておかないと選択肢がないと思い先生に相談。
数学や理科は進度が全く違うという理由で NG が出たものの、それ以外は何とかなるだろうと(授業の妨げになるなら追い出す条件で) OK。
7割は同じ小学校から上がってきた生徒で一応は幼なじみ。1学年50人ちょっと(ギリギリ2クラス)という少人数な学校だったこともあり、先生の目が行き届きやすいという判断もあってのことだろう。
JRのウォーキング企画を始めとして外にばっか連れ出したおかげか、地名(都市の位置関係)に関しては健常児を超えていたと思う。
理科は小学校から全く履修していなかった(見込みなしと見捨てて他の教科に割り振られた)のだけど、履修してない教科があったのに卒業できてしまうとは。
その下は定時制しかないというランクのところではあるものの、「荒れてない」という理由だけで選択した公立高校に無事に合格。
たまたま定員割れしていた年で、落ちた生徒はいなかったと思うのですが、翌年は定員超えしていたので1年ずれてたらヤバかったかも。
9年間、無遅刻・無欠席ということで学校と市から表彰されました。
ちなみに一つ下の妹のほうも同じく9年間無遅刻無欠席。
4歳だか5歳の頃に妹のほうがキャンプに行きたいというので「キャンプ場は遠いよ」って言って大正池から徳沢まで歩かせたり、お山に行きたいと言われれば「山小屋は売店であって泊まるとこじゃない」と諭してテント背負ってガチな登山に連れて行ったり、ロープウェイに乗ってみよう!って誘っておいて「入り口は上にあって登らないと乗せてくれない」って登らせて下りだけロープウェイとか、とにかく欺しまくりました。
温泉に行きたいって言われて湯俣温泉に連れて行った(吊り橋の先の河原で掘って「これが温泉だ」って)のが最凶だったと自覚してます(小2+小1)
よって、うちの子たちは本当に頑丈です。
中学までの26~27人学級と違って、40人近い教室で、一人も知り合いのいない学校。つまり他の生徒も息子の特性を知らない。
小学~中学は通しの生徒が多いせいもあって、息子がワケありってのは全校生徒のみならず、その親にまで知れ渡っていて、わざわざ寄りついてくる奇特な子どもはいなかったのだけど、高校では最初のうちは先入観なく普通に接してくれたみたい。
同級生から寄りついて来られたことのあまりなかった息子は話しかけられただけで「友だちができたかも」って思い込んで家に帰ってニコニコ自慢してましたが、それが「ぼく友だちいない」に変わるのはそう遅くはありませんでしたけど。
とはいえ、友だちが出来ないまま15歳まで過ごしてきてるので、全く気にならないようではあります。
年に数回、学校開放みたいな行事があって親も観に行っていい日には出かけたのだけど、偏差値が低い=ガラの悪い生徒が多い という先入観を見事に打ち破ってくれました。いやほんと、殺伐感の全くないノンビリした校風の良い高校で良かった。
迷惑をかけるのだからせめてもの恩返しということで、学校の保護者委員?(PTAに近いと思うが、もっとイージー)は進んでお受けし、時々校門にたって挨拶運動とかに参加したわけだけど、先生の命令に従って渋々挨拶してるような感じはなく、どの子も自分の言葉で挨拶してくれて、挨拶運動に参加するのはとても楽しかった。
高校になってから自我が芽生えたか、親と出かけるのを嫌がるようになり(本気で拒絶するほどでもないが)、親としても自立する方向に誘導しないといけないため、JRのウォーキング企画に一人で参加することを許可
前日までに行程(電車の乗り継ぎを含む)と予算を紙で提出すれば金は出すという条件で。
コンビニの外ベンチにDSを置きっぱなしのまま買い物に行って、案の定その間に置引きされたときがあるんですが、ちゃんと自分で交番に行って遺失物届を出してきたり、普通じゃないながらも何とかなる次元には成長
学校行事か何かで、家から最も近い私大(偏差値40~50クラスか?)の見学に行って、学食としてマクドナルドみたいなバーガー屋を含む何軒もあったりで感動したのか、コンビニなんてものが学内にあることに恐れ入ったのか、コナンに出てくる大学生のイメージと重なったのか、どういう訳でか知らないが大学なるものに興味を持った模様。ただし、最初に見に行ったそこだけが気に入ったみたいで、他の大学へは見学すら行かない。
高校になると授業参観なるものが滅多にないのですが、高校3年の最後の文化祭(平日)へは仕事を休んで観覧。
劇で何の役をやるのか教えてくれなかったので、観に行くことも言わずに黙ってビデオ回しながら見てたのですが、ステージの袖からナレーター(司会だったらしく)として登場したところで目を疑う。
名探偵コナンのナレーションを意識しているとハッキリと分かるのですが、恐らくは普段の息子と全く違うキャラだったこともあってか、会場の体育館は大爆笑の渦に。適度なアドリブ(意外性に沸く観客生徒に向かって「ありがとう!」って言ってみせたり)を交えたり、完全に自分の世界に没入していたのだろう、とにかく凄かった。
審査と表彰式まではいなかったのだけど、息子のクラスは最優秀賞を、息子は最優秀個人賞を、それぞれゲットした。
進路指導の先生からの「なりたい職業に応じて学科を絞って学校を選ぶべきだ」という助言を無視する形で、第一希望~第三希望まで全て前述の大学にある学科で、文系・理系おかまいなく・・・という風に進路希望を出していたので三者懇談では「本当にいいのか?」って迫られたけど、「息子が大学に行きたいと思ったキッカケは、そこの大学に出会ったからです」なのだから仕方ない。
いわゆる進学校ではないため、一般入試での合格は絶望的だろう、と先生から言われ、最初で最後のチャンスということで指定校推薦に応募
そもそも、その下には定時制しかないような、こう言うと悪いんだけど学力的には良くない生徒の集まる学校だったのだけど、挨拶運動で感じたようにガラの悪い生徒はおらず、確かに当たりは少ないけど外れはいない、そんな学校ゆえにか「指定校推薦」という枠が設けられていたのは凄い幸運だった。(誰しも外れを引くことを恐れるわけで)
第一希望の学科(息子はパソコンが好きだったのでそういう系)は成績が足りないと言われ、第三希望くらいのパソコンとは無関係なところだったら・・・みたいなこと提案に乗って応募。ちょまどさんだって文系の大学なのにプログラマやっててマイクロソフト行かれたんだから、その気があればどこの学科であってもパソコンの仕事はできるのよ。
劇のナレーターで最優秀個人賞をゲットした余韻もあってか、上手に面接をこなしてきたのと指定校推薦で落ちるのは難しいという条件が重なって、無事に合格の通知。
高校3年でやっと中学生?ってくらいの状態なので、大学を卒業できるか知らないが、ちょうど卒業時点で高校生くらいの状態になるかもしれない。
完治は無理、喋らなければバレない、くらいが限界なんだけど、健常児を遙かに超える得意な分野があるので、そこだけ見て、ダメなところは諦め。
ただ普通の子に近づいたせいか、幼少期に感じた「ありえない記憶力」とかの特殊能力は徐々に衰え、ヒゲも生えだして、すぐに忘れる平凡なオッサンに近づいてることに寂しさも。
中学受験シーズンが近づいてきた。今年子供が受けた経験から、反省も込めて今の時期の心の持ちようや準備できること等について書いておく。
中受でよく聞く「男の子は直前まで伸びる」っての、正直半信半疑で受け止めていたけど我が家については実際この通りだった。息子の学力は秋(11月頃)までサピックス偏差値で言うと50に行くかどうかという感じで、一方の第一志望校の偏差値は60で10くらい開きがあった。それが12月に入ってからようやく息子のエンジンがかかり、そこから目に見えて勉強の質と量が上がっていきそれと共に理解と知識が深まっていくのを感じた。この時期はもう模試は全て受け終わっていたので数字で示すのは難しいが、ざっくりした感覚で偏差値5くらいは上げたのではないかと思う。受験生全員がそうだと言うつもりはないが、子供目線、特に男の子の場合、入試本番が現実的な射程に入ってくるのは残り2ヶ月を切ったあたりからの気がするので、特にまだ100%本気で勉強に取り組んでいないなと感じるお子さんの場合は12月からでも十分学力が伸びる余地はあるので諦めないで欲しい。
更に言うと、我が家のような家庭は結構多いのではないかと思われ、したがって入試本番での受験生の学力は、それまでの模試等に表れるよりもずっとボーダーにぎゅっと集まっているのだと思う。だから(後述のとおり)入試本番である当日の、メンタルを含むコンディションが合否を左右する。
どの受験でも言えることだけど、どれだけたくさん模試を受けて試験慣れしているつもりでも、入試本番はやっぱり模試とは全くの別物だというのを子供の受験を通じて改めて痛感した。しかもそれに挑むのはまだ精神的にも発達途上の12歳の子供である事を考えると、本命校の受験に先だって「お試し」校を受けておくかどうかで経験値に大きな差がつく。
この点、実際に行くかどうか分からない学校を受験することの是非は色々言われているし、我が家も基本的に「行くつもりのない学校は受けない」という方針で臨んだけれど、それでも悩んだ末に2月の本命校の前にいわゆる1月校と呼ばれる学校の1つ(都内の中受界隈では有名な埼玉の某校)を受験することにした。気合いの入った受験生とその保護者達が放つ張り詰めた緊張感、そして激励に来ている多数の塾関係者から溢れる熱気、そこに有名校ともなればマスコミの取材も集まってきて、入試当日の現場は模試では体験したことのない異様な空気に包まれる。自分の子供は肝が据わっていると思っていても、大人ですら平常心でいられない独特の雰囲気に本命校の受験で初めて接して呑まれてしまい,実力を全く発揮できない可能性は大いにある。そうしたリスクを避ける意味でも本命校の前に1校は受験しておくとだいぶ違う。また,上記1.と関係するが、12月からの直前期の勉強で子供の学力は更に上がってくるので、どの程度仕上がってきているかを確認する上でも1月校の入試は有益だ。(2月の受験本番までまだ2週間あるので、最後の弱点補強や振り返りができる。繰り返しになるが子供の学力は本当に最後の最後まで伸びる。)
自分自身も中学受験経験者だが、今の中学受験が当時と大きく違うのは、①ネットによって前日まで出願が可能となり、合格発表までの期間も短くなっている(翌日又は当日の発表が多い)、②複数回受験が可能な学校が増えている、という点。これによって、入試本番に突入してからも受験結果に応じて柔軟に併願を再考・組み直すことができるというメリットが生じる一方で、受験生のメンタルには大きな影響を与える事態となっている。
知らぬが仏という言葉があるように、昔は初日に受けた学校の合否結果が出ないまま2日目校、3日目校と受験するのが常だったので、最初に受けた学校の合否を知るよしもなく(=心乱されることなく)、それなりに心の張りを維持して試験を受け続けることができた。今はそうはいかない。初日に受けた学校の合否が早ければその日の夜にはネットで分かる。仮にそこで不合格となっていた場合、子供は落ちたショックを引きずって翌日以降の試験を受ける羽目になる。中学受験は同じ面子で試験を受け直したら合格者の半分は入れ替わる言われるくらい拮抗した競争であり(前述のとおり、直前の追い込みで受験生の多くがボーダーに集中しているとすれば自然なことだ)、そこで合否を分ける一番の要素は子供のメンタルコンディションとなる。その意味で、2月1日からの受験の結果が不合格となった場合、子供達は最悪の精神状態で試験を受けることを強いられるのである。そうして2日目、3日目と不合格とメンタルが落ち込んでいく負のスパイラルに嵌まり込んでしまい、結果全落ちするケースも珍しくない。実際我が家は2月2日の押さえ校(当日夜に合格発表)でまさかの不合格をくらってしまい、翌3日に向けて子供のメンタルを立て直すのに非常に苦労した。こうした事態を防ぐ観点から、たとえ現時点では受けるつもりがなくても、子供の持ち偏差値から10~15くらい下で前日まで出願が可能な超安全校を2月の受験候補校として押さえておくべきだったなと反省している。
これから親御さんにとってはお子さんの受験準備に向けて精神的なプレッシャーが高まる日々かと思うけど、結果がどうあれ中学受験を親子で乗り切った経験は決して無駄にはならないので頑張って欲しい。
残業徹夜勤務バッチコイ30歳年収700万クラス(残業込み)の都内企業所属。
子ども産む前は、仕事大好きで同期の男性たちからも「働きすぎ!倒れるぞ」と心配されてました。自分でも働きまくったと思います。
責任が重い仕事はストレスがあれど楽しく取り組みました。何度も言いますが仕事大好きです。
女が責任が重い仕事を避けるとか、楽な仕事を好んでするという話、よく見てましたが自分はピンと来ませんで、
「また女を武器にした人がズルしようとしてるのか」くらいの感覚でしたよ。ええ。そんな彼女達はワタシの事を、異端と思っていたようで結婚したときも「仕事と生きるのかと思ってた」と言ってましたし、産休前も「子ども持とうと思ってたの?」と驚いていました。
ええ、こちらも女を武器にするズルい女は軽蔑していましたし、大嫌いでしたけど。
しかし、子どもを産んでワタシはトランスフォームしました。身体も心もです。
ああもう元の社畜に戻れない。
だって、子どもと一緒に居たいんです。心の底からこの子の成長を見守ることが喜びになってしまった。
もちろん、仕事は好きですから続けたいです。でも1番は子どもになってしまった今、仕事は子どもの生活費を稼ぐ最低限でいいや、と思ってしまう自分がいます。
ああ、これまで女であることを利用せず生きようとしてきたのにここで、、と思うけど、それでも楽な仕事に落ち着きたい自分がいます。悲しい。
待ち時間に子ども0歳時のTwitterを見返した。今も毎日キツイが当時の比ではない。
結婚したカップルから子どもが2人以上生まれないと人口減少が進む。
子ども0歳、1歳の時はもう1人で限界と感じたが、3歳を過ぎてから変わった。
一般的に年子や2つ違いが多いけれど、やはり4歳・5歳違いが育てやすいのでは?
給与と連動する育児休業給付金も高くなるので経済面の負担も減る。
自分は出産前に購入したが、もともと質のいい賃貸に住んでいたなら、
とはいえ、2〜3歳になると、モデルルームのキッズスペースは助かる。
そもそも家を購入したら一生、少なくとも最大35年のローン期間は住み続けるという
その時点で解体して土地だけ売却するか、駐車場・駐輪場にすればいい。
家、特に木造建築は無理に直そうとせず、老朽化する前に売ればいい。
一方、マンションは適切にメンテナンスを行い、リフォーム・リノベーションで
最新設備の部屋に生まれ変われば、立地次第でかなり高値に売れるようだ。
そもそも同じ日常の繰り返しは耐えられない。おそらく自分だけでないはずだ。
問題は、転職すると給与が下がるか、労働環境が悪化し、子どもは教育資金の負担がのしかかる。
2011年7月24日、地上アナログ放送終了。テレビ・新聞の大騒ぎからもうすぐ丸8年。
今でもテレビが最大のメディアなことには変わりないけれど、以前に比べ、ネットの影響力が増してきた。
高齢者はどうして変わろうとしないのか。気持ちだけ若い中年も古い規範に取られるのか。
国は明確に「貯蓄から投資へ」を呼びかけ、資産形成を促しているのだから、住宅ローンを組んで家を買うか、
補助金を活用して個人で独立するか、せめて社内ベンチャーでも起こすべき。
子ども嫌いは他のもので人生に変化を、割と好きならスパンを空けても
3人、4人と育てられる状況にしなければならない。