はてなキーワード: 同性愛とは
小島慶子のことは嫌いではなかった。むしろ好きな部類に入る方の有名人なのだが、このエントリ(https://fujinkoron.jp/articles/-/2959)はホント胸糞だ。
正しそうな、何一つ彼女の論理に破綻がなさそうに見えるのに、読後感が半端なく胸糞なのだ。その証拠に、何が胸糞なのか整理するのに3時間も彼女の言い草が脳内を反復し、ゲロを吐くのを我慢しながら考え、時間を浪費してしまった。
その整理してみたけれど、きっとまだ整理しきれていない胸糞の原因は以下の通りだと思う。きっとこれから、もっとその原因が浮かんでくるとは思うが、いま書き出さないと脳が爆発、というより腐りそうだ。
匿名だから敢えて断っておく必要もないだろうが、決して売春や風俗を肯定する気はないし、女性の方が歴史上自由から迫害されて、総じて不幸せな環境にあったことも認めるし、自分自身もその加害者であったことがあることも認める。しかし、しかし、だ。あまりにも気持ち悪い理由は:
(1)夫が風俗で遊んでいたことに対して、すごくインテリ的な立場で非難している点。
前述したように、男性が風俗で遊ぶ際、女性性をモノ化して消費している側面はある。そのことに嫌悪感を感じる人も少なくないだろう。風俗やポルノが一般に忌避されているのは、人間味が損なわれて、消費の対象のように感じられるからであろう。しかし世の中には男性が男性を、女性が男性を、女性が女性を物質化して消費するような需要も少なくない。物質化された側が被害者意識を持つことは直感的で、痛みを感じることは、個人的に理解できる。しかも小島が感じた痛みはそんなインテリ的な、形而上の概念が原因であるはずがない。自分を物質化しないと生活ができないような同性に配偶者を一時的に寝取られた悔しさや、嫉妬、さらには低俗なサービスに欲望の解消を頼ってしまうような弱いオスを選んでしまった自分に対する憐憫や敗北感があるのではないか。もっと言えば、自分が腹を痛めて産んだ子供の父親がさほど強くなかったことや、腹を痛めた子供の育児中に欲望を一人解消していたことに対する妬みや、自分よりも低収入な夫がそんな贅沢な遊びをしていたことに対する嫉みも入り混じっていることを小島は自覚していない。
(2)インテリ的な非難をするのに値しない、低レベルの自意識。
配偶者は自分のDNAを後世に残すための精子提供者という一面を持つ。自覚できるかどうかは置いておいて、DNAレベルの判断を私たちは動物的に行っている。だから、理由なく異性を意識したり、性的魅力を感じたりする。そこには「異性を物質化」しているかどうかの理屈の入り込む余地はない。異性を異性化しているだけだ。女性が出産後、配偶者への愛情が低下するのも育児にエネルギーを手向けられるように進化の過程でできた適応だ。その適応の結果、DNAを未来に繋ぐために選んだ配偶者は、モノ以下になる。しかも夫の方が収入が低いとなれば、夫は生は、ほぼ用なし状態だったはずだ。自分は男をモノ化しておきながら、棚に上げ非難するのは完全に最も小島が非難している「自分に向き合っていない」ことにならないのか?自分に向き合っていない小島が自分に向き合えず結婚生活の継続だけを求める夫を非難できるのだろうか。小島は、収入こそ妥協したかもしれないが、健康的で異性として魅力的な顔立ちや体つき、一緒に子育てのできそうな精神的な安定に魅力を感じて配偶者を決めたはずだ。これこそがDNAとしての異性選択ではないのか、自分に問いてみるべきだろう。
(3)息子たちの性教育が終わったと断言できる浅はかさ。
性教育という概念はまだ新しい。しかも、その歴史を見ていくと、内容も時代とともに変わっている。つまり、「性」についての答えはまだ出ていないと考えるのが普通だろう。出産後の夫の不誠実さを悲しく感じることと、それと性教育との関係性はあまりにも薄い。生殖の仕組みについては、科学的な見解があるが、同性愛の問題も含めて性衝動や性的な魅力、恋愛感情についての科学的な理解はまだまだ一般的な正解はない。きっと小島が言っている「性教育」は「現代における社会的に容認できる性行動教育」だ。同じ科目が50年前に存在していたとすると、まったく内容は異なるし、それこそ男女間で大きく異なる。50年後も大きく違っていることだろうと予想する。こんな母親に育てられた息子たちが不憫でしょうがない。性は、表出化する行動であるだけでなく、人類がここまで繁栄、繁殖してきた原動力であり、私たちが幸せやエクスタシーを感じる手に取って誰もが感じることのできる能力なのに。初恋の気持ちや、愛する人を求めてしまう情動、そんな相手に振り向いてもらえなかったり、離れた時の悲しみは理屈ではなく、他ならぬ人間が持つ感情である。何度も言うが、小島が感じた悲しみや絶望を非難しているのではない。気の毒に感じる。小島に原因があったと言っているのでもない。
(4)今も夫に続けられる公開処刑。
現在別居状態にあり、風俗も禁じられているとすると、夫は極度の禁欲生活にあるに違いない。夫も極度の絶望状態にあることは想像に難くない。息子たちに過去のみっともない姿をバラされて、世間にも暴露され、それでも専業主夫を続けるのはもはや生存戦略でしかないだろう。私はキリスト教徒ではないが、罪をもって生まれてきた人間が幸福を目指して生きるには、欲望や邪念、煩悩をある程度昇華していくしかない。それを一人胸の内に閉じ込めたまま、矮小化された欲望だけが吊るしあげられた状態で生きていくのはかなり辛いだろう。小島には欲望は存在しないのだろうか?有名になりたい、モテたい、社会に貢献したい、子供が欲しい、お金が欲しい、自由な時間が欲しい。そんな欲望を本人は十分に発揮しているにも関わらず、あまりにもおぞましく強権的な攻撃ではないだろうか。それを恥ずかしげもなくモラハラになるかもしれない、などと言って経済的な支援だけを行っている気になっているとしたら、それこそ風俗で満たされるような支配欲を自分の夫で果たしたことになると言える。偉大な権力を持っていることに無自覚な罪だとすればバカでしかないし、知っていて快感に浸っているとしたら、一応ファンもいるのでやめてほしい。
専業主婦やハイクラス主婦をターゲット読者とする婦人画報は、ある意味女性性を売り物にして、収入の高い男性と豊かな生活を送るための情報を提供してきた。そんな中、夫の不貞や遊びで苦しんできた女性も少なくないはずだ。不倫に関する記事も読まれやすいだろう。不安を煽るビジネスはメディア業界の常套手段である。しかし小島のこの記事は不安ではなく、怒りを煽っている。つまり炎上商法だ。小島のライフスタイルをカッコよく憧れの対象と見せつつ、「女性の物質化」という尤もらしいが、誰も幸せにならない概念を売り込んでくる。小島の家庭事情を少しずつ切り売りして、そのネタとして夫の風俗通いがオチというのはあまりにも貧相な結末としか言いようがない。
女子アナとして知名度を持てるほど、メスとして魅力があるのが小島だ。メスが魅力的に映るには生殖能力も必要だが、優れたDNAを育み育てるための知性が必要だ。それらを存分に自覚し発揮し、その影響力を利用したスマートな生き方を体現しているのが小島慶子だと思っていた。昨日までは。
小島はスマートだと思っていただけにこの文章にはがっかりした。スマートであれば、どこかで自分の無知や認識の浅はかさを知って、愛する人を失う悲しみを乗り越えてほしい。人間が何に喜びを感じ、何に絶望を感じるかを知れば、きっと幸せになれる。
フランスの性愛を尊ぶ文化や同性愛についての寛容な価値観を共有しない人が移住しようとしてきたら(例えば日本の頑固なおじさん)、フランス人は不寛容には不寛容の姿勢で応じるべきなのかな?
うちの国ではあなたのような人を受け入れませんって。
俺はゲイなんだ。初恋の相手は男だったし、今まで生きてきて男としかセックスしたことがない。
でも最近、もしかしたら俺は生まれつきのゲイではなかったのかも知れないと思い始めた。
少し長くなるかも知れないが、読んで、そして率直な感想でも良いからコメントをくれれば嬉しい。
俺が初めて男とセックスしたのは10歳の小学校4年生の時だった。
相手はサッカークラブのコーチだった。当時の俺はすごくサッカーに熱中していて、クラブの時間も、放課後も休日もサッカーをしてない時間はないくらいだった。
当時俺に指導してくれていたサッカークラブのコーチは熱心な人で、厳しい部分もあったが基本的には生徒思いのコーチだったと思う。
そんなコーチと初めて性的な接触をしたきっかけは、俺が休日にもサッカーをしている話をしたことだった。
「そんなにサッカーが上手くなりたいなら、俺が時間がある時なら休みの日でも練習を見てやる!」
コーチの住んでいるアパートは、俺の実家からそう離れておらず、休日の練習場所にしようと約束した公園もアパートと実家の中継地点にあった。
しばらくの間、休日にサッカーの練習を付き合ってもらっていると、ある日コーチが「今日は練習疲れたろ?俺の部屋近いから休んで行けよ」と言ってくれた。
俺は当時、特に考えもなく「ありがとうございます!」とふたつ返事でコーチについて行ったと思う。
コーチの部屋は物が多いのか少し散らかっていた。コーチが部屋で飲み物の準備をしてくれているのを待つ間、ぼーっと部屋を見回していた時に、ある物が目に飛び込んできた。
エロ本だった。コーチは一人暮らしだからか、エロ本が隠すことなく部屋の隅に積まれていた。
エロ本、当時の俺はサッカーと同じくらいエロいことに興味があった。中学生の兄がいたので、兄の部屋に忍び込んでは押し入れに隠してあるエロ本を読んでいた。
当然、俺は興味があるそのエロ本を「読んでみたい…」と凝視していたと思う。
飲み物の準備を終えて持ってきたコーチはジュース片手に「何だ、興味あるのか?」と笑っていた。
俺がエロ本の表紙を凝視しているのが視線で丸わかりだったのだろう。
俺は「あります」と照れ笑いしながら答えた。するとコーチは「良いぞ」と言いながらエロ本を持ってきてくれた。
俺は「エロ本は大人しか読めないのに、読ませてくれて良いのかな」なんてことは全く考えず、ここでも「やった!」とか単純に喜んでいたと思う。
しばらくコーチと一緒にエロ本を読んでいると、「その年でもうエロいことに興味あるんか?」と肩や腕を撫でてきた。
コーチはわりと練習の時から頭を撫でてくれたり足や背中を摩ってくれたりしていたので特に違和感はなかった。
いや、今思い返すと本当は「いつもより多いかな?」という疑問があったかも知れないが、それでもいつもしていることだった。
俺は当時、友達と性的な話をしたこともないし、兄の様子やTVなどの情報を見るにそういう行為を表立って話すのは恥ずかしいことだというのは認識していた。
だからコーチに聞かれた時も「僕の年齢でエッチなことに興味を抱くのは恥ずかしいのかな」と思った。
コーチの問いかけに対して肯定で答えるのも物凄く恥ずかしそうにしていたのだと思う。
コーチは「照れることない。お前くらいの年齢からちょうどエッチなことに興味が湧き始めるもんなんだ」と笑いながら教えてくれた。
その言葉に俺は安心した記憶がある。この頃はまだ陰毛も生えていなかったが二次性徴期が始まる頃に、
同級生より性の話に恥ずかしさが少なかったのはこの時期の経験があるからかも知れない。
性への関心からセックスの話をコーチに振ったのは俺からだったと思う。コーチは笑いながら「あるぞー」と答えてくれた。
俺はセックスってどんな感じなんだろうとずっと疑問だったからコーチに「エッチって気持ちいいの?」と質問した。
エロ本にはセックスはとても気持ちの良いものだと書いてあったからだ。
コーチは「気持ちいいぞ。みんな大好きなんだ。でも周りにそういう話をしたりしない。みんな秘密にしてることだけど。」と
俺は納得していた。セックスの話をしてる人なんて見たことないが、でも隠して独占したいくらい楽しいことなんだと。
そう思っていると、するするとコーチの手が履いていたハーフパンツの隙間から俺の太腿を触っていた。俺は少し、いやかなりびっくりした。
「こういう風に触り合うと気持ちいいんだ、気持ちいいか?」とコーチは言った。
ここまで書いていて俺は思った、俺は当時コーチと初めて性的な接触をした時のことは今でも鮮明に覚えているし、初めてコーチとアナルセックスした時のことも鮮明に覚えているし、
小学校卒業とともにサッカークラブを辞めてコーチと会わなくなるまでの間にしていたセックスの内容も、全部ではないが印象に残っている経験は覚えている。
その仔細をこの文体で描いていると創作エロ小説を書いている様な気分になるし、読んでいる人は「嘘柱 誇張しのぶ ホラの呼吸乙、釣られねーよクソ腐女子w」と思って俺が思ったことを真剣には聞いてくれないだろうと思ったので割愛することにする。増田は追記ができるので反応次第では追記するかも知れないが、俺の経験したエロ話は今回要点ではない。
俺が思ったことは、俺は当時、確かに性に対する好奇心は抱いていたが、勃起や精通もしたことがなかったし(俺が明確に勃起と精通を体験したのは小5だ)、男女への恋愛感情も抱いたことがなかった(初恋は中学校で知り合った同級生男子でコーチではない)。
俺は小学校の時男性コーチとセックスをしなければ、あるいは普通に女性を好きになり恋をして結婚。子供を作っていたのだろうか。幼少期のこの性的な経験が指向をねじ曲げてしまったんじゃないのか。あの経験がなければゲイにならずにノンケとして生きていたのではないかと思うことがある。
実際、Google検索すると、幼少期の性的トラウマが云々という話を見かける。しかし、俺はあの時を思い出して感情がフラッシュバックして鬱になり自傷や自殺未遂を繰り返す。ということはしていない。
NHK中学生日記では男子中学生に対する男性臨時コーチからの性的虐待がテーマとして取り上げた回があったが、作中で登場した少年はかなり思い悩み不登校になったりしている。
一方俺は、コーチとのセックスは当時かなり楽しんで行なっていた様に記憶している。でなければ、何年もの間セックスをし続けることはなかったと思う。
それはつまりあの経験はトラウマにはなっていない=あの経験と俺の性的指向は関係していないということなのだろうか。
覆水盆に返らず。当時の経験をなかったことにした現在というものは存在しないが、もしそのIFがあったら、俺はどんな今を送っているのだろう。そう思うときはわりと頻繁にある。
【終わりに】
俺はコーチと肉体関係を持った後、もう関係がなくなった現在でも、自分のこの経験を友人や知人、親兄弟に話したことはない。
それは単純に性的なことをベラベラと他人に話すものではないという思いとそれが男同士ならなお他人に言って良いことではない。
という認識が小学生だった当時から、今でも自分の固定観念の中に根付いているからだ。
俺が子供の頃は、同性愛というのはTV番組で笑いのネタにされたり、気持ちの悪い可笑しいことだとして扱われる風潮がまだ残っていた。
今でもそうだが、オネェタレントはTVではキワモノ枠で、決して美化されたり憧れられる存在ではない。
つまり、ゲイはゲイというだけでバカにされていじられる存在だと子供ながらに認識していて、そして自分はバカにされて
「ホモだ!気持ちわるい!」と周りから拒絶されるのが怖かったのだ。いや、大人になった今でも、実はそれがとても怖い。
コーチは結局、俺が高校生ぐらいの時、同じ様に自室にサッカークラブの生徒を連れ込みセックスをしていたことがバレて逮捕されていた。
(しかも複数人だ。当時から実は俺以外にも別の相手がいたのだろうか。)
当時、近隣住民や同卒の友人たちはその噂で持ちきりだった。「俺、あいつに体触られたことあるぜ」とか「俺、あいつの家に来ないかって誘われた」とか
その話の内容は、性犯罪の被害に会う危ない目にあったというより「ホモ、気持ちわりー」という嘲笑の内容が多分に含んでいたと思う。
それもあって、関連の話で盛り上がっている友人を何人か見たが、俺はなるべく話に関わらない様にしていた。
また、俺は被害を訴えようと思わなかった、それはやっぱりコーチへの憎しみ(さほどなかったが)よりも、その経験がバレたことで周りから拒絶されることが怖かったからだ。
人生二重苦で苦しい。
正直今にでも死にたい。
俺の負っているどうしようもない二重苦を聞いてくれ。
二重苦の一つ目は、俺がADHDを持ちだということ。昨今ネットでよく見る「ネット診断に当てはまるのが根拠の自称ADHD」ではない。
時代は大人のADHDというものが一般に知れ渡り始める黎明期、新卒で入社した会社で周囲との関係や業務の事務的な部分でどうにもこうにもうまくいかなかった。例えば会社で電話がなったら新卒の自分が出なければならないのが常識だけど、俺は業務に熱中していると電話の音に気付けず電話をとることができなかった。その他にも事務的書類の不備多数だとか、自分では普通に人と接しているつもりなのになぜか不快感を与えてしまうだとか。当時、新卒入社から数ヶ月で俺の悪評は社内中に知れ渡ったらしい。そんな部分が重なり精神的に鬱になり産業医と相談をした結果、ADHDの可能性を指摘され専門医の診断を受け晴れて正式なADHD患者となった。俺はどう足掻いてもこの障害を一生抱えながら生きていかなければならないのだ。またADHDは35歳限界説などという噂がまことしやかに囁かれているの希望がない要因だ。
二重苦の一つ目は、俺が同性愛者だからだ。昨今、海外ではようやく同性婚というものが受け入れられ始めてきたが、日本ではまだ同性愛というものが文化的に受け入れられていないと言える。令和の時代になってもいまだに「同性愛を認めたら足立区は滅びる」と言い出す人種がいるだ。まぁ彼の人はその発言によって大炎上したのだが。日本が現在でも同性婚程度の制度の改変で二の足を踏むのは同性愛に対する根本的な差別意識が根付いているからなのだろう。別に同性婚を認めろと言っているわけじゃない。仮に明日同性婚が日本で認められたとして、明日から日本人全員が同性愛に対して寛容になるとは思わないからだ。受け入れるというのは制度ではなく心の問題なのだ。じゃあ、数年後、数十年後日本で同性婚が認められるのは?そこから同性愛が一般的になり日本人一人一人に受け入れられるのは?俺が生きている現代から途方もない時間が流れる必要があるだろう。それが達成できた時俺は何歳ですか?
ヨボヨボのゲイの爺が日本で受け入れられてもあと死ぬだけじゃんか。いや、下手したら死ぬまで受け入れる土壌が育たない可能性もある。
とまぁ、主にこの様な二つの生きにくい生まれつきの咎の様なものを背負いながらこの先も生きていかねばならない。
「ブサイクで人生詰んでるわワロスw」とか言ってる陰キャのチー牛!
お前らノンケの健常者に生まれた時点ではっきり言って人生バラ色なんだよ!
何だったら変わってくれよその素晴らしい人生!
あぁ、死にたい。
俺は特権階級だと思う。
小学校の頃先生に言われた「いじめを黙認するのはやったのと同じ」というのに、差別問題はよく似ている。
じゃあ何が出来るんだろう、と考える。
投票はまぁ、自民党は嫌いだし、割と共産党とかに投票してはいる。
他のはやる気にならない。時間も金も、自分や自分の家族のために使いたい。
そもそも時間も金も、東京で暮らしていくには充分ではあるが余裕はない。
「既得権益だ」と言われればそうなんだろうと思う。解消するつもりはない。
増田みたいな異性愛も同性愛も一緒って考えのやつが少ないのが問題なんじゃん
男と女が性行為をして子供を産むのだから異性愛が自然の道理で同性愛は道理から外れている という考えは先入観がなくてもできてしまう
わからないことが多い。
少し頭の整理のために文字を起こす。
今回は法律や制度のことは置いておく。それ以外で。二つくらいに焦点をあてる。
友人知人に同性愛者だと言っている人もいるし、それでなにかあるわけでもなく、なんの隔たりもなく過ごしているつもりだ。
それでも(と思う)をつけるのは私が偏見はないと思っていても、他者から見てそれは偏見だと思うこともあるだろうからだ。
①カミングアウトについて
言う方の気持ち、聞く方の気持ち、心理的負担がどうのこうの〜よく問題に上がっているが、なにが問題になるんだろう?
事実を伝えている。
事実を聞いている。
ただそれだけなのでは?と
「同性が好きなんだよね」と
好みを言っている同列のものだと思うし。
べつになにも悪いことや疾しいことを言っているわけではないし、それを聞いているわけでもない。
いいも悪いもない、ただの事実を口にして、それを聞いて何が心理的負担や問題になるんだろうか。
「そうなんだね。同性愛というのが他人に恋愛感情を抱くこととどう違うのか、私にはわからない。調べて勉強しても一般的な知識だけで君の気持ちとは違うかもしれない。だからきっと真に理解はできない。でも君が傷つくのは嫌なので、私がそのことで知らずに君を傷つけたときは教えて欲しい。謝るし二度としない」
こういったことを返事して、少しやりとりがあってこの話は終わってしまった。
いまでも友人とは何も変わらず楽しく過ごせているが、最近の同性愛の話題を耳にすると私のこの返事はひどいのではと思ったりもした。
②告白について
告白された側が、お付き合いしようと思えば付き合えばいい。
理由も「好きだから」「好きになれたらいいな」「相手をもっと知ってみたいな」etcいろいろあるだろうけど、相手に好意的ならいいのではと。
告白された側が、お付き合いしようと思わなければ付き合わなければいい。
理由も「恋愛感情はない」「好みじゃない」etcといろいろあるだろう。
よく聞く「同性だから」はこれは①でも記述しているように私には「好みじゃない」と同じだ。
このやりとりになんの問題があるんだろうか?
そのときは気持ちに対してお礼を伝え、お付き合いはお断りさせてもらった。
理由は交際相手が他にいたからだったが、その人から出てきた言葉は
そう伝えたが、きっと伝わっていない。
だってそうだろう。
誰かを好きだと言った直後に自身の好意を気持ち悪いと卑下するほど、思い込みと憶測に縛られているのだから。
でもいまならなんとなくわかった気がする。思い込みと憶測だけじゃなく、実際に気持ち悪いと言われたもしくはその影響を受けてきたんだろうと。
私が当時もっといろんなことを知っていれば、あの状況でなにか言えたのではないかと
③違和感に気づいた
頭の整理のためにわかりやすく自分の体験も入れてみると、私は過去の後悔があるんだなぁ…。私の後悔は今回の件には関係は薄いと思うのでここでは割愛。
まわりと私の認識に違いがある。
まわりは同性愛(者)、異性愛(者)と区別し、そこから恋愛感情へという認識だった。
どちらがいいか悪いかはわからないが、この手の話でまわりと考えや話が噛み合わないなとなる理由が認識の違いということはわかった。
はてなでよくリベラル思想の論争があるので、自分はどうだろうと思って受け入れられる範囲を線引きしてみた。受け入れられる概念には特に理由がなくて、受け入れららない概念の方には理由がたくさん書けるのがなんか不思議だな。皆さんはどうだろうか?
•同性婚
自分が同性婚するわけではないので影響ない。同性愛者の幸福度を上げられるならいいのでは
メリークリスマスは非キリスト教徒が不愉快だからハッピーホリデイと言い換えよう的なやつ
俺は葬式だけの形式的な仏教徒だが、人前でメリークリスマスと言えないのは息苦しい。クリスマスはラーメンやカレーのようにすでに日本文化となっているので、政治思想で言葉が使えなくなるのは嫌だわ
男女で入試の点差をつけた事件があったけどそういうのは言語道断だと思う。ただ、女性比率を上げるために点数に下駄を履かせる的なのは不公平なのでやめてほしい。なんだかんだでペーパーテスト一発勝負は貧乏人にもワンチャンあるし、自分がダメだった時も男だから落とされたとかならずに納得しやすいので良い制度だと思っている。
この話はメンヘラ二次創作(ポエム)者による二次創作めんど吐瀉物です
二次創作に最初に触れたのが、しょうがくせーの時に実家にあった某ジャンルのBLr18アンソロだった。
正直、オエ、でした。
大事な所を無理やり触られてアンアン喘いでいるキャラクター。アニメ化もされてたので、アニメではこんなことされてないのに、なんでこんな物が存在するんだろう、って嫌悪感しかなかった。
で、その持ち主(10くらい上)が〇〇と××(blcp)ってどう思う?って聞いて来た。××は△△さん(女性)が好きじゃん、って答えたら、その人は、あぁ、ーーちゃんは原作重視なのね、って。
好きな人が同性だろうと異性だろうと相手が好きになってくれるかはどちらにせよって感じじゃんって今なら言葉にできるけど、あの時はどうでもいいじゃん、って言葉にしかできなかった気がする。結局どうでもいいが。それはともかく。
原作重視、ってか、原作しか存在しないじゃん、これが存在してるのがおかしいんじゃん。
ってしょーがくせーの私はなりまして。そのアンソロの持ち主のことも軽蔑しました。
でも成長するにつれて、おかしいものが当たり前のようにあることを知る。
ちょうど自己嫌悪の機運が高まっていた頃。
軽蔑するものを見ないよりは、その軽蔑を自分に向けて自分を貶めたくて、わたしは二次創作を読みあさっていた。
話の隙間にこんなやり取りがあったら。
こんな関係でいてほしい。
二人のえろが見たい。
誰かの欲望が映し出されたものを見ることで、自分がその欲を持っていると錯覚した。本当はそんなこと思ってなくても、気持ち悪い、と自分自身を罵倒し痛めつけられる理由を作った。
そもそも、原作者が死んで長く経つ作品や、アニメ化も原作の二次創作のようなものなんだと大人になってから知ると、二次創作ってわたしがどんなに嫌でも存在するものなんだ…という諦めもあった。
二次創作をし始めたのは、その鏡合わせだった誰かの欲を自分と一体化させてしまった時からだった。
いろんな話を書いた。いろんな人に読まれた。褒めてもらった。嬉しい、という振りをした。rの付くものを書いて、拙いと言われることに吐き気がし始めた時には、もう夢を見る時間が終わりかけていた。二次創作は現実逃避と自分を殺すための方法だった。
今、それが剥がれかけているのは果たしていいことなのか。こうして増田に投げている時点で捨てられてそうかはお察しなんだけど。
作者が作ってないなら、全部違う。
好き、が勝手と結びつけられるみたいに、みんなその感情さえあれば自分の欲望を押し付けていいと思っている。わたしが自罰という欲を見出したみたいに。
それを楽しいと思ってやれる人は好きにしたらいいと思う。ただ私にとって二次創作は、誰かの欲の借り物、自分を殺す方法だった、んだなぁってだけの話でした。
優しくしてくれたデブもいたと思うしそういう人のことは普通に好きだ。
デブが沢山料理を頼むと「そんなんだからデブなんだよテメーは」と思う。
デブが少ししか食べないと「デブのくせに少食なフリしてんのかテメーは」と思う。
デブの巨乳自慢は先に腹落とせと思うし、あとダイエットコーラ飲んでるデブも嫌いだ。カロリー気にする奴がコーラ飲むな。断食してろ。
特にアイドルとか芸能人とかのキャラは意識低いんか?と思ってイライラする。
そういうのって大抵他のキャラに比べて肉感的というか、デブどころかぽちゃですらなくムチムチという程度ではあるのだけれど、それでもデブが!!!という気持ちになってしまう。
陰キャデブは卑屈なデブとか最悪だからやめろよと思うし、陽キャデブは身をわきまえろ勘違いデブと思ってしまう。
どれだけデブに厳しいのか。
もちろん人の身体的特徴をあげつらうことはNGだと理解している。
太っている理由は人それぞれで、病気など本人の努力ではどうにもならない場合もあり、一概に暴飲暴食や怠惰のせいではないとも分かっている。
またデブという言葉も中傷的なニュアンスを含むため、日常生活では一切口にしないようにしている。
デブという要素が何故かとてつもなく嫌いだというだけで、該当する人を傷つけるのは私の本意ではない。
だからこそ、今まで誰にも、SNS上でも、「デブが嫌いだ」という話をできなかった。
相手が体重を気にしているかもしれないし、その人の好きな人が太っているかもしれない。
というか私自身、「俺デブって無理なんだよね〜w」とか言ってる人に会ったらモラルのなさにドン引きする。
特定の誰かの話ではないけれど、このエントリで傷ついた人がいたら申し訳ない。
その度に自分の中の無意識的で暴力的な差別心を自覚するのがしんどい。
多分こういうのって世の中に沢山ある。
それは例えば同性愛者であったり、外国人であったり、障害者であったり、「差別してはいけないことは分かっているし、差別的な言動はしないようにしているけれど、内心どうしても本能的に受け入れ難く、でもそれを誰にも話せない」状態。
こういう感情ってどうしたらいいんだろうか。
LGBTという言葉が流行りだした、俺が中学3年生の頃であった。
友人のAには俺が受けたい高校を伝えた結果、同じ学力帯であったのも理由で自分の志望している高校を勧めた結果、同じ高校を目指そうという話になった(自分の学区から進学する学校は大体偏差値40後半といったところで、俺とAの受けた高校は偏差値60中盤というところ)。
天才という訳では勿論ないのだが、俺の学区の中では上位だったと思う。
ある日、俺が給食を食べ終わり便所に向かうと、男子生徒が複数名居た。その男子生徒たちとは運動部に所属していた(中学2年生でドロップアウトしたのだが)ため、ある程度の関わりがあったのだが彼らとの雑談から派生してこのようなことを言われた。
だが、他人のセクシャリティという「玩具」を見つけてしまった無邪気な男子中学生の一言にただ衝撃を覚えていた。
「何で」
という一言しか出なかったが、理由は彼らにとって明快であった。
「Aと同じ学校に行きたいんでしょ?笑」
明快、というのは訂正したい。短絡的である。
短絡的な思考から醸造されたその言葉には、度数の高いアルコールよりも他人を不快にさせる力があった。
「そうだけど、俺が先に志望したからサ」
と呆気羅漢と答えた。すると彼らは
「じゃあAがバイなのか笑」
と茶化してその場を去っていった。
給食を食べた後には勿論授業がまだあったのだが、二日酔いのような気分で授業を受ける羽目になった。
俺には女性と付き合った経験が当時はなかったのだが、Aにはその経験があったため、俺はゲイとして扱われてAはバイとして扱われる。そういう理由を考えられたのは帰路についてからであった。
他人へのセクシャリティへの言及に対しては、ジェンダー論だったりが絡んでくるだろうから俺自身も割愛したい。
だが、異性経験がないからといってその人間が同性愛者である。という思考は些かに短絡的と言わざるを得ない。
当時、自身もセクシャリティという概念を一種の話題として軽く捉えていた部分があった。
しかし、この出来事における彼らの短絡的な思考を模倣してみれば、俺の学区では偏差値40前後の同じ高校に結構な人数が進学するため、全員が同性愛者、両性愛者etcになるのでは。
そう考えていたら午前2時を回っていた。
問題はここだよな。これがなけりゃ「有名税じゃね?」とか「表現の自由やろ」で済むんだけど。
お前ら非実在女キャラが出てきたときに何て言ってた? ねえ何て言ってた? って話になるわけで。
ほんと腐フェミの韓流アイドル・洋画沼率高すぎてヤバい。あとバチェロレッテ見すぎ。バチェラーやテラスハウスも見てるやつそれなりにいて草しか生えない。リアリティショーとかいう生身の人間を骨の髄までしゃぶり尽くす搾取コンテンツ見ながら架空の女キャラに文句言ってるのマジウケる~って感じ。あいつらの人権感覚マジでどうなってるんだろうな。
あと、男オタってAKBや女性声優のエロ本とかあんまり描かないよなって思ったけど、男オタク文化圏は二次元と三次元が割と離れてるっていうのと(二次元のオタク、だいたい三次元が嫌いなんだよな。2.5次元が男性向けでは低調なのもそれが理由やろ)、そういうやべーことするやつは直接アイドルや声優に加害に行くっていう違いがあるのかね。声優に変態アプローチかまして問題になってるの、たいてい男だしな……
実際低調やんけ。俺の知ってる女オタはたいてい2.5見てるし女向けの雑誌やアニメイトの陳列棚ではむっちゃ2.5の特集組まれてたりするけど、俺の知ってる男オタで2.5見てるやつなんてレアケースだよ。レヴュースタァライトとかアサルトリリィとかの舞台やってるけど、あれが女向けの2.5と同じくらい男の間で流行ってるなんて聞いたことねーぞ。
さすがにそれは不当に厳しすぎる。いい大人が自分の意志で同意している以上それは同意。Yes means Yes. 嫌なら自己決定権を行使して「nmmnは訴えます」と言えばいい話。「本当は嫌だったけど別れ話を持ち出されたら困るからセックスに応じた」は有効な性的同意だろ、常識的に考えて。
昔、2ちゃんの半角文字板とかでは女性アイドルのエロ作品が多かったが、児ポが厳罰化するに伴い消えていった。男オタが三次に興味ないのではなく、2000年代に(未成年)実在女性のポルノが許されない社会に変わったのだ
そういう流れは知らなかったんだけど、なんか理屈がおかしくね? 18歳以上のアイドルの消費は児ポにはあたらないから児ポの厳罰化で廃れる理由がないし、仮に児ポ規制で年齢を問わず実在アイドルファンのポルノが許されない社会に変わったというのなら、なんで男性アイドルのポルノは生き延びてるの? 当たり前だけど、児ポ法が規制している「児童」には男子児童も含むよね……
女性の地位が低い国で女性の表象をおもちゃにするのはけしからん! とか言ってる腐フェミ見たときは草生え散らかしたわ。未だに同性婚すら認められておらず「ホモっぽい」がいじめの理由になるゲイの地位が低すぎる国で男性同性愛をおもちゃにしてる連中がよく言えるよなって。腐フェミには恥の概念が備わってないんじゃないか。
沼の外から見えるのが「問題ないと思ってる人たち」だけなのでは。ただ他人の性的消費という自覚が麻痺するのはやばいよな。タイBLドラマなんかは本人たちのファンサービスも多いらしく、距離感を掴み損ねるのかも
いや、別に韓流アイドルも洋画沼もリアリティショーも好きにすればいいと思うんだけど、男性向けコンテンツの女性描写に文句言ってるフェミがそれにハマってる率高すぎるのを見てると「はぁ?」ってなるって話(もちろんドルオタや洋画好きやリアリティショー視聴者の全員がそういうフェミやポリコレ厨ではないのはわかるし、フェミではない人たちをどうこう言うつもりはないよ)
タイBL、あれ性的消費というよりも性の消費の方がポリコレ的にはヤバいよね。出てる俳優の多くがGかBの当事者だってんならともかく、そうじゃないか、あるいはそのへんを曖昧にして匂わせで釣りに来てるなら、ポリコレ的には“クィア・ベイティング”の誹りは免れない。
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-47877196
別にポリコレとか興味ないしって言うなら気にする必要どこにもないんだけど、ポリコレに意識高い系腐女子がタイBLにハマってるのは割と見かけるから、見かける度にこいつバカじゃねーのって思ってるわ。
そもそも論として、『ムーラン』の制作陣にアジア人がいない! って中国系アメリカ人の俳優がキレてた流れでいくと、ポリコレ的にはBLの制作陣が女だらけなのはありえない、って話になるんだよなぁ。ポリコレ派腐女子、存在自体が自己矛盾すぎる……
男性の性的消費を批判する声の少なさ、ひとに欲情されることは喜ぶべきことってガチで信じてる男性が多いからかなあと暗澹としていたのですが、これからなのかもしらんね。
ほんと疑問なんだが、こういうこと言うやつって個人主義や自由主義っていう観念が頭の中にないの?
性的に消費されるのが嫌なら、そもそも性的消費の対象であることが自明なアイドルなんかにならなければいいし、アイドルであったとしても耐えられない性的消費があるなら個別に嫌だと言えばいい。本人が明白に嫌だと言っていないのに、わざわざ外野が「そのアイドルの消費は性的消費ですよ!」とか批判しないといけない理由がどこにある?
もっと言えば、性的消費されて喜ぶ男もいれば嫌がる男もいるだろうけど、前者が積極的に性的消費されに行ってるのに後者が文句を言う権利はどこにもない。「男全体」をなんで後者が代弁できると思うのか。「男性の性的消費」なんてものはなく、個別の男への個別の性的消費があるだけだ。そして、架空の男を消費している分には、実在する男としては何も迷惑がかからないんだから放っておけばいいだろう。一緒になって楽しむとかならともかく、わざわざ批判しに行くのは馬鹿のやることだ。
だから、腐女子の人たちが男を性的消費してたり勝手にカップリングしてたりする分には、モデルにした実在人物から抗議が出ない限り彼女らの自由だし、同じ男だからという理由で文句を言う筋合いはなかろうと思うよ。同じ口で「女を性的消費するな」とか「マイノリティの表象を好き勝手するな」とか言われると「ああん? どの口でそれを言うんだ?」ってなるだけ。