はてなキーワード: 公立校とは
金も出さないし労力も使うつもりはないけど受けられるサービスが低いと言われてもモンペ乙としか。
来春、息子の小学校就学を控え、地元の公立校に足を運んだ。一人授業参観である。
授業を見てどうなるというわけでもないが、全く知らない場所に愚息をホイっとやるのは快いものではない。
職員兼来訪者用玄関で受付を済ませ、1年生の授業を参観した。
おそろしく退屈であった。
教師は教科書に書いてあることをそのまま板書し、教科書に書いてあることをそのまま読み上げる。
子供たちはおとなしく座っていたが、私の集中力はすぐに切れてしまった。
算数の授業では、持参したノートPCでYouTubeを観ていた。私が。
ネットに転がっている解説動画の方が授業より分かりやすいのだ。
ほんの少し検索しただけで、授業よりはるかにマシな動画が見つかる。
通信教育、有料サービスならもっと多くの、高品質な""授業""を受けられるだろう。
授業の質が低いこと、Google先生の方が優秀なことくらい、子供でも理解できる。ネタは割れているのだ。
学校が終わったあと、青いバックを背負って塾に通う子ならなおさらだろう。
バカバカしくなって、親に良心的登校拒否を宣言する子供が8割くらい存在してもいいはずである。
しかし私が見た子供たちは実におとなしかった。席を立つ子、大声でおしゃべりする子はいない。
日本の学校制度は軍隊をモデルにして作られたが、授業で得られるものはまさにディシプリンしかない。
ひょっとしたら、子供たちは規律を身体に叩き込んでいることを自覚しているのかもしれない。学校のデタラメさもググれば分かる。
さて、どうしたものか。
私学? 同じでしょ。
厳密に言えば幽霊ではないのだけど、他の人には見えないものが見えていた。それを姉に相談したら、それはきっと霊感だよと言われた。だから、それを漠然と霊感だと信じていた。今で言えば共感覚と言われるものかもしれない。だが、そんな言葉も知らない幼少期は、自分には特別な能力が備わってしまったのだと思っていた。
ある程度の年齢を重ねてそんなバカバカしい物を信じているのはおかしいと考えるようになり、見えている自分を否定するようになった。見えていても見えていないふりをするようにしていたのだ。それを続けることによって見えていないと思い込むことは簡単だった。
だけどつい先日、それは再びわたしの前に現れたのだ。白昼の社内、人一人分の影が室内をウロウロとしていた。誰の影かはよく考えないとわからないが影の形やその動き方の特徴をよく見ていると、なんとなくそれが誰の影かがわかってくる。
今日のそれは部長のものだった。それに気づいて部長の机に目をやるが、部長はいつもの様に自分のデスクに座って書類に目を落としていた。
その2日後に部長は急な転勤になった。周囲の人間は入社して間もないわたしの前では一様に事情を話そうとしないが、どうやら会計に不正があったであろうことだけは分かった。
新人のわたしに誠実な態度で丁寧に仕事を教えてくれた人だっただけに、ショックは大きかった。
わたしの両親はわたしが物心がついた頃から自営で雀荘を営んでいた。幸いながら営業が順調だったこともあり母親も深夜まで働いていた。
わたしは小学校が終わると家ではなく両親のお店に直行した。そこでご飯を食べたし漫画も読んだ。暇になれば近くのゲーム屋さんや本屋さんに行っていた。眠くなれば片隅のソファで睡眠をとり、仕事が終わった母親に抱きかかえられながら家に帰った。放課後の大半はそこで過ごしていたのだ。
そんなある日、突然店の中を歩く人の影を見た。はじめは見間違いかと何度も見なおしたが、それは確かにそこにあった。その一部の空間だけが暗く、人の形に動いていたのだ。
それが誰かの影かどうかまで考えなかったが、その日の夜に信用していた従業員がお金を持ち逃げしたという話を、数日後に両親がしていているのを耳に挟んだ。
それからというもの、度々お店の中で人影を見るようになった。大半は誰の影かわからないままだがその影が現れると従業員が金を持ち逃げしたり、お客が金を借りたまま蒸発したりといったことが起こった。
そのことで親にも相談したことがあるが当然とり合ってもらえることはなかった。それどこか、子供が大人の事情に口を挟むんじゃないと強くたしなめられてしまい、それ以降は親に相談することもなかった。5つ年の離れた姉に相談したのはその頃だった。
中学に上がると時折学校でも影が見えることがあった。大抵はその日か数日後に長めのホームルームが開かれた。理由の大半は盗難だ。
クラスにはいじめも当然のようにあったために、このことを友達に話すことをしないまま高校に進んだ。
高校と言っても地元の公立校である。大半は見知った顔だった。その頃には毎日のように色々な影が見えたが、かと言って毎日学校で何かが起こるかというとそんなことはなかった。
そんな時、影の一つが見知った人のものだとわかってしまったことがあった。仲の良い友達の一人だった。本人に何かしら聞いてみようかと散々迷った挙句、気持ち悪るがられるのが嫌であきらめてしまった。
その友達は数日後に学校を退学した。万引というよりも窃盗に近い犯罪だった。
そのことがショックでわたしは影の存在を認めることが怖くなってしまった。友人と話すこともなんとなく避けるようになり、例え誰かと話をしていたとしても足元ばかりを見るようになっていた。当然のようにわたしの周りから人は離れていった。
不思議なことにそうすることで影を見る頻度が減っていくことがわかった。影そのものが減ったのかどうか疑わしく考えていた時に、教室内で音楽プレーヤーの盗難が発生した。沈黙が続くホームルームの中、わたしは一人で嬉しさを噛み殺していた。
それからも色々と試してみたが、どうやら普段から下を向いていればたまに顔を上げた程度では影がみえないことがわかった。くだらない事件は相変わらず周囲で発生していたが、影が見えなくなれば別に気に病むような事にはならなかった。
そうして非科学的なことを悩むこと自体がバカバカしいと思うようになり、とくに意識しなくても影なんてものは見えなくなっていった。そのうち、見えていたことが自分の思い込みだったのではないかと思うようになり、そうしてこの年までそんな話自体も忘れていたのだった。
部長の一件を含めて今になって考えてみれば、どうやら自分に備わっているのはその人の後ろ暗さを見抜く力のようだった。
幼少期から雀荘という特異な環境に身をおいていたことで、何の気なしに人の表情や行動、しぐさなどを見ている間に、その中から誰かから何かを奪おうとしている機微を見抜いていたのかもしれない。
人から何かを奪おうとする人間はそれだけ周囲に対する警戒心が強くなるということなのだろう。この歳になってオカルトな話をするようで恥ずかしいが、その相手から感じ取った漠然とした不安が影として見えていたのかもしれないということだ。
先日、社内の男性に食事に誘われた。部長が転勤になってからわたしの教育を買って出てくれた2つ年上の男性だった。こんなこともあって学生時代に満足に人付き合いもしたことのないわたしは、断る理由もなくなく誘いに乗ってしまった。
ところが、その日になってまた現れたのだ。事務所の室内を落ち着かない様子でウロウロとしている影である。しかも、最悪なことによく見ればその影は食事に誘ってくれた男性のものだった。
誘いを断ろうか寸前まで悩んだ。勤務時間内で何か事件でも起こってくれれば自然と食事もなくなってくれるだろうと淡い期待も抱いていた。しかし何事も無く終業時間を迎え、結局断るタイミングもないまま彼との食事に来てしまった。最悪自分の身の回りのものだけ肌身離さずにいればいい。食事が終われば用事があるなどと理由をつけてすぐにその場を後にすればいいのだ。
心なしか店に案内する彼からも得体のしれぬの緊張が伝わってくるかのようだった。
はじめのうちは仕事はどうか、人間関係は問題ないか、そんな当り障りのない会話をしながら食事を楽しんでいた。そうしてある程度お酒も進んできたところでふと顔を上げると、いまだかつて見たこともないような大きさの色濃い影が彼の後ろに迫っているのが見えた。
一瞬で酔いの覚めたわたしは身の回りの所持品に緊張を張り巡らせた。影の存在以前に、彼の表情が見るからに緊張していくのが分かった。
「こんな人の目がある中でまさか」
次に起こることが予測できない恐怖から逃げ出そうとした時だった。
次の行動を注意深く見つめるわたしに、突然彼は向き直って口を開いた。
「も、、、もしよければ、また食事に来ませんか?というか付き合ってください!」
しばらくの沈黙の後、やっと状況を理解したわたしは大声を出して笑い転げてしまった。
なんと融通の効かない能力なのだろう。彼が奪おうとしていたものはわたしの所持品ではなく、わたしそのものだったのだ。
そんな違いさえ判断できないなんて、なんて愛おしくもぶきっちょな能力なのだろう。
そんなわたしの気持ちなど知る由もなくあっけにとられている彼の手を握りながらわたしは答えた。
「こちらこそ。「こんなわたし」でよかったら。」
彼の表情が緊張から喜びに変わっていくと同時に、大きな影も姿を消していくのがわかった。
小学校の授業で将来の夢を発表するときは、前に座ってるこうぞう君と同じガソリンスタンドのお兄さんということにした。
中学校の授業で職業しらべをして、とりあえず歩いて5分の歯科医さんにインタビューした。
高校入試はなんとなく志願した偏差値60オーバーの公立校(田舎なので公立のほうがレベル高い)に無勉強で合格し、無勉強でテスト平均点95点超えを連発していた。
大学選びはなんとなく文系を選んだ。とはいえ、入学後は割と理系的なアプローチも普通にやる学部だったから、どうでもいい選択だった。
就職活動は志望先を選ぶのに苦労した。やりたい職業なんてなかったから。でも1年に何度も報道される程度には有名なので、家族も喜んでいた。
割と異性は選び放題な人生だった。こういう風に書くと非モテっぽいと思われてるかもしれないが、平均的な顔立ちで頭が良ければふつうは異性にモテる。毎年チョコは義理とか言いながらかなり気合と時間のかかったものばかりもらったし、いわゆるリア充的なうぇーい的価値観で表向き生活していた。
そんなこんなで適度な膨らみのあるおっぱいと尻を持った女性と結婚して子供を作るのも簡単だった。まあ結果論だが一番惹かれたのは顔と声と性格だった。特に声は素晴らしいの一言に尽きる。
そういうわけで、適当に生きていても人生なんとかなるもんだ。だから、ニートとかいうあったこともない人たちには申し訳ないが、頑張れ。
女性解放運動の象徴であり窮屈な衣服しかなかった時代に画期的な運動着だった『ブルマー』が、後に「ブルセラ」として性消費の象徴になったことからも、「これはこれでアリ」順応力の高さを舐めちゃだめ
マジだ!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC
19世紀中頃、コルセットで腹を締めるような当時の下着に反発した女性解放運動家によって、自由度が高くゆとりのある下着として考案された。これは旧弊な拘束型衣服からの女性衣服の転換という革新的なものであった。
ショーツ型ブルマーをオリンピックで最初に採用した国は旧ソビエト連邦
大国化と近代化を目指していた戦前の日本で、ブルマーが普及するまでは教育現場や学校で体操時に女性が着用した運動着は従来からのもんぺぐらいであったため、新しいウェアは非常に斬新に映り、全国の学校の標準運動着として採用された。
ずり落ちたり引きつったりせず軽量で、動きに対しても体に密着したショーツ型のブルマーが、オリンピックや国際競技の場で公式に使用されたことで、女子体操服の代名詞としてブルマーの認識が広まり、小学校・中学校・高校・日本人学校などで、指定体操着として採用されるようになった。
化学繊維とニット素材の発達により、ブルマーは臀部にぴったりフィットしたショーツ型へと進化した。このタイプのブルマーが日本で普及していくのは、1964年東京オリンピック以降の1960年代後半からである。
ブルマーは下着のショーツに対し、概ね以下の相違点がみられる。素材はナイロンやポリエステル等の厚地で伸縮性がある。色が濃紺やえんじ色等の濃い色調の色が用いられる。腰のゴムが太く、裾にゴムが入っている。内側にショーツを穿いた上から重ねて穿く。クロッチが必要ないため、二枚布を股間で縫製する。股上が下着に比べて深い。
スポーティーで格好いいと好意的に受け止められる向きがあった反面、性的な羞恥心が強くなる思春期の女子にとっては潜在的な抵抗感もあったという。軽量で動きに対する追従性が良く、各種スポーツに好適であった。しかし、初経を挟む前後1年からヒップが大きくなり始めて、初経の1年後以降になるとヒップから殿溝にかけてボリュームが生じ、ブルマーの裾からヒップが露出したり、ヒップが露出しなくても臀部のラインが目立ったり、女子生徒・児童向けのジュニアショーツがフルバックタイプで、ブルマーの裾からショーツが露出するいわゆる「ハミパン」が生じやすいという問題もあった。そして、座るさらには座って開脚する際、下半身で股間周辺以外の部分が露出される問題もあった。
1993年、広島県立井口高校や東京都立F中学校の体育祭のビデオが市場に隆注していることが判明する。1990年代に入ると、それまでは一部のマニアのものであったブルセラ趣味が商業的に展開され、女子生徒から着用済みのブルマーやセーラー服などを買取り販売するブルセラショップが誕生した。ブルマーが性的好奇心の対象として一般に認知されるようになると、運動会などの学校行事においてブルマー姿の女子生徒を盗撮したり、校舎に侵入してブルマーの窃盗をはたらいて逮捕されるといった事件が、社会問題として取り上げられるようになっていった。
ジェンダーフリー教育論者の中からは、通常体育の授業時は男女別服装である合理的理由はなく、男女平等教育の観点に照らして男子・女子とも同じ運動着を着るべきであると主張する人々も現れた。
公立校は2004年、私立校でも2005年を最後に、女子の体操着としてブルマーを指定する学校は日本から消滅した。2000年代後半あたりまで9割以上が生産を打ち切っており、現在は店頭をはじめネット通販でさえ入手困難な状態となっている。しかしオーバーパンツ(見せパン)としての用途や保温性の高さにより、現在でも生産され、利用されている。
http://anond.hatelabo.jp/20150404214436
の元増田だが、
『経済的理由で、地方の優秀層は、東大(というより東京)の行きたがらない』
とか
だから
『地方の優秀層が、東大より地元医学部を選んでいる』のでは?との反論を多数いただいた。
そういう側面『も』あることは否定しないが、そういう理由よりも
『首都圏中高一貫校の受験対策のスマート度が、地方トップ公立高校の受験対策を、はるかに凌駕している』
という要因『の方が』結構大きいと思う。
自分が東大に入った28年前と比較して、首都圏の中高一貫校の『充実度』は、相当加速していると感じる。
以前なんか聞いたことなかったような『渋谷学園幕張』とか『豊島岡』とか、東大常連校に仲間入りしている。
一方で、自分らの頃は、結構『熊本高校』とか『札幌北高校』とか、地方の名門公立から東大理1に来ていた人と
友人になってたりしていたが、最近はこれらの高校の東大進学数も、相当減った、と聞いている。
『東大に「行かない」のか?「行けない」のか?』と水掛論を戦わすよりは、
『この30年間の、首都圏中高一貫校と、地方トップ校の、駿台模試の偏差値推移』という客観データで検証した方がいいのでは?と思う。
あと、
『理1理2より、国立大の医学部の方が高偏差値でしょ?』な意見もあるが、
そして、『首都圏の中高一貫校から、地方の医学部へ行く人も結構多い』ということも言っておく
『日能研』が、
『過去30年間を比較すると、確実に首都圏中高一貫校のレベルが上がり、地方のトップ公立のレベルが下がってます』
『難関校への対策スキルが、首都圏中高一貫校はどんどん進化しているのに対し、地方トップ公立校では変化してません』
『その結果、東大ランキングはこの30年で様変わりしました。今や東大へは、首都圏中高一貫でないと、事実上入れません』
という調子で、保護者説明会で散々『中高一貫の躍進をアピール』していたりする。
100%日能研の主張が正しいとも思えないが、ある程度は当たっていると思われる。
本人たちの努力や意思が関係するから「保活」って言葉があるんでしょ。
実際望みの園の近くに引っ越す人もいるわけで、近所に他にないから選べないんだもん!と言い出すのは努力不足だよ。
そもそも大元の話って認可外だし、なら尚更行政の基準なんて関係ない話。
高校だって公立は学区がある地域もあるから入りたい公立校の学区にわざわざ引っ越す人もいるし
ど田舎で近所の公立高校は農業高校しかない、でも進学したいから私立行って寮入る、なんて人もいる。
でもそこで「今どき大学行かないのなんて有り得ないから農業高校を受験に対応した普通科にするべき、しないのは頭おかしい」と言い出したら
頭おかしいのはお前って話だわな。
でも実際底辺が上見るのだけでも大変だよ。
周りは下層民しかいないわけだから、きちんとした上のロールモデルがいない。
モデルがないから上の世界がわからないし、わからないからそこを目指すインセンティヴも産まれない。
例えば田舎の公立校だったら、周りも大して受験を真剣に考えてるわけでもないし、
高卒で働いてそれなりに楽しくやってる先輩とかも見てるし、なんだかんだで生まれ育った地元は住み心地も悪くないし、大学なんて行かなくても良いかなって人多いよ。
発展途上国だって先進国があるのは知ってるけど、それを目指して実際に行動したりすんのは極一部でしょ?
上を目指そうとしたら下層民にハンディがあるのは事実かもしれないけど、そもそも彼らはそれをハンディだとは思ってないのよ。
外国から来る労働者なんてほっといても固まるし、それでいいと言っただけで発狂し集団で吊るし上げる醜い社会
彼らは正社員と非正規の食堂が別れてる工場にも文句をいうのだろうか?
国だって移民から見たらしょせん職場、工場と同じなのにかれら従業員をわざわざ無理やり地域社会に溶けこませる必要があるのだろうか?
「僕はこんなに起こってるんだぞ!!アピールをして気持ちよくなってる善人くんは、自分の息子や娘を移民まみれの公立校に通わせたいと思うのかな?
あるサヨク学者など、自分はプリキュア見てるくせに娘には絶対にテレビ見せない教育してるとドヤ顔してて苦笑してしまったが
まさかあの人物が子供を地域の公立校にそのまま通わせることはないだろう・・
ほっておけば貧乏人は国籍の垣根を超えて固まるのだ、サヨク的に言えば結構なことじゃないかw
はぎうえチキとやらに子供がいるかは知らんが、せいぜい自らと自らの家族をリスクに晒す人道的な生活を送っていただきたいと切に願っておりますよ
出羽守だけど。
ちょい前に子供がアメリカの某州の某公立校に行ってたんだけど(なのでアメリカと言っても地域によっては全然違うシステムかもしれない、以下それ前提で)
制服と言っても特殊な服ではなく、基本的に「学校指定の色の無地ポロシャツと、学校指定の色の無地ズボンまたはスカート」ってだけ。
適した服はその辺で数ドル~十数ドルで売っている。安いので必要に応じた買い替えも容易。
勿論自宅で洗濯機+乾燥機OK。クリーニングなんて要らず、いつも清潔を保てる。
袖の長さは自由なので、「まだ寒いのに衣替えだから半袖着ないと」などという、服って本来寒さ暑さを凌ぐものなのに意味ねえというアホらしい事態にもならない。
男子がズボン女子がスカートという指定も無いので、女子がスカート履くと痴漢に遭うのかどうかは知らんが嫌ならズボン履けばいい。
性同一性障害者も困らないだろう。
(と言っても実際に男子がスカート履けば変な目で見られる事はあるかも。女子のズボンはごく普通)
あと校外行事などで利用する「学校ごとのオリジナルデザインのTシャツ」もある。色柄ともに男女共通。
博物館などいかにも校外学習などで行くような所に行くと、色々な学校から来た子がそれぞれの学校のTシャツを着ている姿を見る事が出来る。
これでも勿論制服の利点である「どこの学校の子かわかりやすい」「毎日着ていく服を考えなくていい」
「服に貧富の差が出ずいじめに繋がらない」という役割はちゃんと果たしている。
もうこれでいいじゃん日本も。
変に高くて、高いから買い替え出来なくて小さくなっても無理やり着てる子も多くて、
洗えないから不潔っぽくて、女子は変態に目を付けられる服である必要性が分からん。
あとランドセルもいらん。あれは最高に無意味だとつくづく思う。
無駄に高くて重くて1年生じゃでかすぎ6年生じゃ小さすぎだけど買い替えも出来ずぼろくなってもそのままで全く持って機能的でない。
中学生の学生カバンは絶滅したのに何でこっちは未だに生き残ってるんだ?小学生じゃ文句言えないから強制されてるとしか思えん。
http://anond.hatelabo.jp/20141023160653
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20141023160653
増田でこれほどブクマついたのが初めてで興味深く読ませていただきました。ブコメも Twitter での言及も。
せっかくなのでそれらを見てまた感じたことを軽く書いてみようと思う。
数々のコメントの内容の前に。
そういれば学級経営についての言及がなかったなと。自分が担任の経験がなく感じたまま書けることが授業くらいなものだった。
自分のこれまでの経歴では職員数の多い高校での勤務しか経験がなくそこでは一人一分掌的に、担任か、それ以外(総務、教務、進路など)といった組織体制だった。当初は常勤講師としての勤務で担任は持たせてもらえず、教諭となった今、前任校で経験のあった同じ部署で仕事をしており、次年度の分掌として学級担任を希望しているという次第。
また後でジョブローテーションなんかについても述べるが、今の勤務校が教育困難校である分不安も大きいが自身の教員としての力量形成・キャリア形成として早くに学級担任を持ちたいと思っている。ちなみに年齢的に言うと大学を卒業してから一般企業に務めた経験があり、ぎりぎり若手というくくりに入れてもらえるかなというところ。
で、HRについてだが、担任経験者にこういった人数についての話を聞くと、自分の近くではこんな感じだ。
学級経営としては大きな差異を具体的に感じるわけでもなさそう。ただやはり教室に5人増えるだけで教壇で感じる圧迫感が強いのは共通している。
これも高校の範囲でしか書かなかったので。ここに書くことは教育業界にいる人間の、現場から聞いた話と少しの憶測である。
例えば高校なんかは義務教育でない上に、多少近い傾向を持った生徒が集まる。それに対し義務教育である小中学校は、公立校には基本的に地域から選り分けられることなく生徒が集まる。で、ここで短絡的に「小中学校は学校による差は無く幅広く多様な生徒が集まる」とは言えない。地域による差があるからだ。
柄の悪い地域というのはどこにでも存在する。よく「団地の多い地域の中学校での教育は大変」なんて言ったりするが、比較的生活水準が低く、片親であったり家庭環境が複雑であったりする家庭の多い地域がある。そういった地域では、家庭でも子供の幼児教育・初等教育に割く余裕がない分、ちょっとした勉強の躓きから ADHD,LD などの障害までが見過ごされたまま子供が育ちがちだったりする。他方では経済的に余裕があり子供の教育にも家計を割くことができる家庭の多い地域があり、そういった地域間で教育格差が生まれるのは必然である。
そういった「落ち着きのない騒がしい小学校」「柄の悪い中学校」を経験した人も多いのではないだろうか。
そんな中で、高校教員の自分が言うのもなんだが小中学校の教員の方が激務だ。これは残業時間などのデータにも出ている。まず小学校は言うまでもなく担任がほとんどの授業を行う。また高校教員は大体の授業数が週 12〜18 コマであるのに対し、中学校では多い場合 20 を超える。まして人格形成も高校よりもなされていない中学校でそれだけの授業をこなさなければいけない。またその上、子供達の部活動には高校よりも張り付いて監督していなければならないし、部活動が終わり職員室へ戻って授業準備でもしようとした所に近所のショッピングモールから万引きの通報が入ったりする。
まとめると、小中学校は平均的とは決して言えず、自分が前記事で書いたような教育困難校は小中学校でもちゃんと存在し、そんな中で上述のような業務をこなさなければいけないのだ。高校で自分が前記事のような主張をしたくなるのだから、小中学校は尚更であろうと思う。
思いの外応援や労いの声が多く嬉しかったです。ありがとうございます。
コメントに多かった声。「5人を隔離すればよいのでは」から「また別の5人が発生」まで色々。
まずその「大変な5人を隔離」については、習熟度別学習もそれに近い性質もあるように思う。試験などの成績でクラス分けを行うことが多いが、それで低学力の子が少人数で集まると、そのチームで学習が行き届くようになるケースは往々にしてある。ただそれで学級一つを作るとなるとそう簡単ではないだろうなとも。
以前は特別支援教育についてもそういう生徒を分けて特別な教育をという考えがあったけれど、今は健常な生徒から課題を抱える生徒まで包括して一人ひとりに良い教育をという(理想論に過ぎる)方針に転換しているので(インクルージョン教育)、そこは今の教育の目指すところではないのだろうなぁ。
単位制みたいなイメージだろうか。特定の小規模な学級を持たず自由化ということだろうが、まずもっと教員は必要だろうと思うけどそれにしても現実的ではないだろうなぁ。
特に自分の勤務校にいるような生徒は自分で正しく判断していく力が乏しいし、持続的な集中力が乏しく激しい私語などで授業を引っ掻き回すような生徒はその場の楽しさだけを求めて集団で固まり結果授業が崩壊しそう。そこへのサポート案でもあれば。
甘えだと言われても詮ないのだが、実際ぜんぜん違うだろうし、似たような原因から似たような事も起こる。ただしどちらがいいかは別問題。後述するがそこにいる生徒たちによって理想的な人数はそれぞれ違う。それが現実的でないのもお分かりであろうが、自分の中ではこれ以外に具体的な案はない。
自分は少なければ少ないほど良いとは思わない。集団生活能力、関係形成能力、客観的意識の育成のためにもある程度の人数の集団は必要である。そのための場が生徒にとって、30人前後の学級なのか、10人前後の部活動なのか、15人の特別支援学級なのかはわからない。またこれまでの授業経験でも学級の経営一つで25人の授業が30人になった後でも良くなるケースだってある。生徒たちが自身にとって最も有用な集団に属するのが良いと思う。
http://anon.isc5.com/2014/10/kyousi.html
記事にいくつかの事が書かれているけどそれらについて。
通信制高校も全日制高校も同じ学校だし、それらと塾もまた別だし混同しすぎ。
まず通信制や全日制など様々な学校があるのは当然生徒たちに適した学校教育が受けられるため。
あと教員免許状について誤解されているようだが教科指導技術だけで免許を取得しているわけではない。教科指導のみでなく発達心理を学んだ上での生活指導やカウンセリング、自己実現のための進路選択指導、全てが学校での教育活動でしょう。
目が届くようになるという意味で使っているケアというのは教育でなく管理ではないのか、ということだと理解したけど、その初動からの全てがその生徒のための教育活動。仰る通りだが、教室に座って念仏を聞くだけで教育とは言えない。実際、前記事に書いたような情緒の安定しない課題のある生徒だって、そんな状態で授業を受けなさいといったところで知識・理解なんて深まらない。じゃあどうするのかというと、この場にはいない方が良いと判断した場合、例えばとりあえず付き添いをつけて保健室や職員室の担任の元へ行かせたりする。そこでその場のケア、そしてその後情報交換をし、その子のアフターフォローについて話し合う。その授業一つ一つだけでなく、組織で取り組むのが教育活動である。
教室という空間自体に疑問を持っておられそうだが、当然、そこにいることが有用でないのであれば通信制高校などで高卒資格を取得すればいい。現任校のような全日制課程に所属する生徒に対しては、その学校で高校生活を送り卒業することを希望したと判断し教育を行っている。もちろんそこには保護者も介在しそんなシンプルな話ではないが。
突っ込みを入れられている前記事の事例が極端だったので良くなかったかもしれない。年間を通して指導をしていると、教室にいる・いないの問題だけでなく、成績にも環境による差異は現れる。数人人数の減る科目だけ授業に取り組み、結果その科目のみ伸びるというようなことだ(もちろんそんな単一な要因であることも多くはないが)。あとこれについてだけは無いが大きな要素として理解していただきたいのだが、勉強の学習だけが教育でなく、特にうちのような困難校ではその生徒がいかに健全に学校生活を送れるかが大事。そのためには人数を含め教室環境というのは大きすぎる要素だ。その上にあって生徒が負担を感じることなく教室にいられる環境を敷くことができるのであればそうしたいだろう。
そうだと思ってやっています。教科指導、生活指導、進路指導、全て教員の仕事です。
結論から言うとそこの相関関係は無い。地域による違いもあると思うけど、一応教員の力量形成のためのジョブローテーションは存在する。
まず基本としては、様々な学校で勤務をすることが教員の経験・力量にもなるし、さらに言うと管理職候補も養成しなければならない。そのために普通の学校だけでなく、工農商の実業高校、定時制や単位制高校、進学校など様々な環境の学校を出来る限り経験しましょうというような方針がある。その上で自分の勤務経歴は、まず常勤講師は力量関係なく空いた枠に入るしかない。そして正規教諭になり、まず最初の経験を積むという段になっている。そのため、自分も数年後には異動することになる。優しいコメントもあったけどその異動までは現任校で頑張る所存。
ただ実態としてそうもいっていない現実もある。例えばある都道府県は初任者はちょっとした郊外、田舎に勤務することが割合として多い。何故かと言うと都心部から中堅教員が動きたがらないから。そこには持ち家を持っているとかそういう事情もあるが、なんせ勤務年数の長い教員はわがままを言う。都心部、通勤が楽、その上学校が中堅進学校であったりすると居心地がよくなる。進学指導に躍起になることもなく生徒指導も手がかからないからだ。初任者は数年で異動させる慣例があったりするが中堅はそうでもなく、異動希望を出さなければ長年在籍することができるので、そこにつけいって、なかなか異動しない。自分は割りと本気で様々な問題の病巣がここにあると思っている。
またそんな中にも、様々な問題のある定時制高校でも勤務時間と仕事量の少なさから長い間在籍する変わり者もいる。定時制なんかには変な教員・使い物にならない教員が多いなんて声を見たことがあるが、自分はそこまで極端な話ではないとは思いつつも、組織の中で周りと上手くやっていくことが苦手で職員数の少ない定時制に在籍する教員もいるので、まぁねぇ、というところ。
※個人の感想です
教育困難校は本当に、高校生とはいえその時その時の刹那的な感情に素直な生徒ばかりなんです。そんなわけにいかない。
高校を出て就職をする。そのために就職試験がありその中では「高校数学なんて世の中で使わねーよww」なんて言っていられない。就職試験で因数分解や三角比の問題を解くことが就職につながる。
そんな、教科教育の意義・理想論なんて話以前の、これ以上なく現実的なことでさえ、生徒たちは自分で判断し学校生活を過ごすことはできない。数学なんて知らねーよ。約数ってなんだっけ。分数って上割る下だっけ。あーもうやだ数学嫌い。ツムツムしよ。
感覚として、今授業をしていて、まだ大人しい1年生の教室の中で、集中してついてこれている生徒 4/5 ,残りがちょっと厳しそうというところだ。そこで自分が授業中、注意や指摘など、教科指導以外のことを放棄したとしよう。怒られない。喋る声で授業聞こえない。あ、LINE きた。そんなこんなで授業を聞く生徒は 3,4 人になるだろうなと思う。
そうなると学校の経営は破綻する。ただでさえ入学から卒業までに数十人が転退学するような学校だ。進級・卒業・就職と進んでいける生徒がいなくなるだろう。そしてそこに「義務教育じゃないんだから」は酷だ。生徒の声に答える事だけが我々の職務でなく、そこには子供の自己実現を願う親がいる。それを求める地域社会がある。そのために学校は存在する。
繰り返しになりますが、多くのコメントの中様々な視点があり本当に面白かったです。たかだか学級人数の話から少し広がりすぎたが、まぁ面白く読んでいただければ幸い。
皆様の生活があり自分の仕事があることも事実であり、そんな社会に少しでも還元できればと思って働いてまいります。仕事が楽になればとも思うけど、それ以上に生徒たちが少しでも良くなればとお祈りして、今回の件についての記事を締めます。
私は低学歴だ。
中学も普通の公立校に行き、高校も近いという理由で県内で下から数番目の高校に通った。
なんでそうなったか。っていうと、中学の頃にインターネットと出会って
当時は常時接続なんてなかったので、
テレホーダイという夜11時から朝7時まで1800円で特定の電話番号へ電話がかけ放題。というサービスをつかってインターネットをしていた。
インターネットの世界で生活していると、いろいろな面白いものに出会う。
私はプログラミングにのめり込み、ゲームを作ったりしながら日々過ごしていた。
高校を卒業するとき、成績の悪さから大学に行くのは諦めて、コンピュータ専門学校に行くことにした。
専門学校の授業は退屈だった。
その会社の新卒は早慶あたりが中心の会社で、しばらくそこで働いたあと転職することにした。
転職先は石を投げれば東大生に当たる。というくらい東大生だらけだった。
そして、私は気づいた。
東大生は育ちが違うということに。
早慶でも私からすれば高みなのだが、東大生は明らかに育ちがちがう。
永住権ではなく市民権って取るのかなり大変だと思うけど。あと子供はアメリカで生まれてりゃ自動的に二重国籍では?
地価の低い地域の公立校は日本より遥かにヤバいので子供の学区の為の引っ越しは当たり前、
学校に入れたくないとホームスクーリング選ぶ親も増えてるけど。
教師も薄給激務でやってらんねーって事で離職率めっちゃ高い。日本のように終身雇用の文化が無いので転職が容易ってのもあるし。
地価が高い地域なら公教育も充実してるけどそういう所に住める金あったら日本でも私立入れられるし。
(日本企業の駐在員なんかは会社のカネでそういう所住んでるけど、自腹で住むとなったら大変そうだ)
アメリカの学校ってPTAめっちゃ活発だよ?つか元々PTAってアメリカが本場だし。
アジアンだったら空気読めてなくてもスルーかもしれないけど、それ「ガイジンだからしょーがない」で済まされてるだけだし。その代わりに差別食らうし。
横だけど
親の財力が低くても公立校には通える機会平等は担保されてるし、そういう公立校が荒れてたり勉強に対するモチベーションが低い連中ばかりいるような学校だったとして、
それに流されるような生活してた本人が悪いんでしょ。
都会の金持ちが私立にしか入れたくない、と言う理由は、そういうモチベーションが低かったり荒れてたりするところだと悪くなると言う理由からなわけで、
客観的に自己形成時期に周りに流されるのは人間として当然の性質なので
流されるのが悪い、というのはありえない。
どこかのバカ社長が、税金高すぎて、これじゃ自分が今死んだら十分な財産が残せなくて嫁と子供が困る、とかほざいてたが、
そいつ自身はバカでも運良く金を手に入れて、それまで否定すると根本的な今の社会を覆すことになるのであれだが、
残されたバカ嫁とバカ子供は別に他の人間と変わりないわけで、それの優雅な生活を維持する様な社会制度を作る必要はない。
勿論、そんなバカでも最低限の保証はするし、ホントに全財産がなくなったなら生活保護は受けられる。
十分な保証がある。勝手に自分の周りを特別扱いするなクズ、という話。
で、その優秀になるための競争に機会が平等に確保されておらず、親の財力や出身地といった本人の努力以外の要素が占めるウェイトが高いまま放置しているから
親の財力が低くても公立校には通える機会平等は担保されてるし、そういう公立校が荒れてたり勉強に対するモチベーションが低い連中ばかりいるような学校だったとして、
それに流されるような生活してた本人が悪いんでしょ。
相続税100%論者キタコレ。個人が努力して積み上げた文化資本をブチ砕く嫉妬の塊www
はてなでは少子化問題が度々取り上げられる。少子化問題の原因として挙げられるのは、若者の貧困化と女性の社会進出による晩婚化だろう。地域の公立校の学級崩壊、日本総ヤンキー化などの話を聞くと、やはり自分の子供には高い金をかけなくては、しかしそんな経済的余裕はない、それだと生まれてくる子がかわいそうだ…、やはり子はひとりまでにしよう、と世の中の夫婦が考えるのは仕方ないことと思われる。しかも自民党は子ども手当を廃止し、より貧困層が子どもを生みずらい世界を作ろうとしている。この政策ははてなではもちろん批判されている。はてなの大多数は、少子化問題をどうにかしなければいけないと思考しているようだ。はてなは高リテラシだから産まない女性を批判するようなことはしないが、しかしどこか他人事を感じる。自分たちも子供がいても良い年なのに、少子化問題、イクメンの是非など社会全般の問題には興味はあっても自分自身の結婚や子育てには興味はないのだ。はてなの民の典型的人間像は30代、そこそこの年収がある高学歴IT企業勤めの独身である。未だに結婚していないのは、20代の若い嫁さんを狙っているからなのだろうか。しかしもしそうだとしてっも、子どもの事を考えてではなく単に自分の欲望のためだろう。けしからん。
さて、少子化問題の原因は貧困と、はてなの民のような頭でっかちの童貞であることを明らかにしてきたが、ではどうすれば問題も解決できるのか。高年齢独身の結婚を促すことは今の自由な世の中ではなかなか難しい。また、ブラック企業が跋扈する日本の労働状況では、子ども作りの前に自分の生死が危ぶまれる。そんな中で、やはりキーマンになるのははてなの高収入高齢童貞である。彼らをうまく利用することが、社会全体が子育てを支援することにつながる。
ここで具体的な策を提示しよう。
とりあえず子を小学校入学年齢まで育てれば、あとは社会が子育ての責任を持つことにする。つまり高収入独身童貞のところに里子に出すのだ。もちろん児童虐待が起こってしまうので、一対一ではなく、一人の子に数人の童貞がつくことにする。お互いに手を出さないように牽制し合うことで、平和が生まれる。童貞たちは可愛い子供の将来のためにお金を使うことができる。これはAKBに金を費やすよりも、よっぽど健全で社会的にも有意義ではないだろうか。社会全体で子供を育てることは、社会の活性化につながり童貞に希望を与え、また出生率のアップにつながるのである。また、童貞による性犯罪も、擬似親子関係を持つことで減少すると思う。
何より童貞たちの弱い立場の女の子を守りたい願望を原発を超えるエネルギーを持っている。これをAKBではなく社会に還元しない手はない。いつしか童貞は社会におけるステータスとなるだろう。美人は何も考えずにボンボン子を産んで欲しい。美人の子は美人だ。美人の子のためにお金を使いたい。
この制度を不健全だとかロリコンだとか言う口だけリベラル派が出現するだろうが、男の子も可愛いし、何より風俗よりもAKBに金を使う童貞はたくさんいるのだ。つまり、下半身はどうあれ上半身では純粋な愛を自称する権利が童貞にはある。童貞はどんな欲望を胸に抱いていても、自分の子に手を出すようなゲスではない。