はてなキーワード: 学費とは
大学進学率が上がるに伴って金が足りなくなったから学費を上げざるを得なくなっただけ
いまのご時世、「大学まで行かないと就職先がない」という認識自体、正確ではない。
個々の企業に焦点を当てれば、大卒限定ではない採用を行っている優良企業は多々ある。
借金は返済を求められるのは当然のこと。
同じく地方出身者はなんとなくわかると思うんだが、高校は「地元では自慢できる」レベルのとこに通っていた。
県下一、というわけでもないけど、地元で一目置かれるようなそんなところ。東大進学者を毎年1名出したり出さなかったりするような。
自分はというと文化系と運動系の狭間みたいな部活にがっつりのめり込みつつ、子供の頃から親の影響で続けていたとある楽器と寺社仏閣が好きな、自他ともに認める「変わった子」であった。学力でいえば中学までは特に勉強しなくてもまあまあいい成績が取れる、中途半端に器用な子だった。
親は勉強については大してうるさくなかったが(むしろ楽器の練習をしない方が厳しく怒られたし、数学で10/100点をマークしようが音楽の成績が満点じゃない方が嫌な顔をされた)、お金には厳しく、「大学は国公立しか許さない」と宣言されており、真に受けた私は私立のすべり止めも一切受けなかった。だが高校3年間を部活に捧げた、数学のテストで毎回赤点叩き出すような人間にそのルートは厳しかった。見事に滑りおち、進学先を失った。進学校に通っておきながらこの体たらく。
これから1年浪人するしかない、と思ってふさぎ込んでいたが、そこで偶然にも某専門学校の「大学編入コース」なるものを知る。専門に2年通った後、大学へ3年次編入するというコースだ。ははぁ、よくできてるなあ、と思いながらも学校の担任と両親に相談し、その専門学校へ進むこととなった。
正直入試はあってないようなものなので割愛する。学力レベルからペーパーテストは免除され、英語面接だけだった。まあまあ緊張したが絶対うかると半ば解っていたので強気でいった。ちなみに高校時代苦手にしていた教科は数学と英語だ。瞬間的な暗記力となんとなくで世界史及び国語で高得点を叩き出す完全なる文系である。妙にコアな知識を植え付けてくれたラノベや推理小説たちとヘタリアには今も感謝してる。日本史は文化史だけ異様にできた。
身バレが怖いので色々伏せるが、駅チカでこぎれいなビルがキャンパスだった。キャンパスと言っていいのか?
専門学校内での大きな学科のくくりとしては「英語学科」に属することになり、その中で「英語を使った仕事に就きたい人のコース(翻訳・通訳など)」と「海外の大学に行きたい人のコース」、あと「大学編入したい人のコース」に分かれる。
なんで大学編入が英語学科に属するかというと、ほとんどの大学の編入試験の科目が「英語」「小論文」「面接」のみだからである。(学科によっては専門科目の試験がある場合もある)
授業は9割は英語の授業だった。ネイティブ講師も日本人講師もいたが、とにかく英語。リーディング・リスニング・ライティング・スピーキングの授業がそれぞれあり、それ以外に大学編入のための英語試験対策授業がある。少人数にこだわってて、基本の4つの授業はそれぞれTOEICや学内試験の結果から5段階にレベル分けされていた。私は入学時のペーパーテスト免除、しかも学費も一部免除の特待生扱いで入学したので、「は~やっぱこの程度か専門」とか思っていたが、最初のTOEICテストで300点台叩き出して5レベルあるクラスの下から2番目に入れられる。「出身校」の学力が高かっただけで「私」の学力はクソだった。ただ真面目に授業を受けていればクラスはすぐに上にあがり、最後は一番上のクラスに所属していた。この基本の4つの授業は大学編入以外のコースの人もいた。
残りの1割は資格の授業(英検、ワー検、秘書検、漢検など好きなものを選択できる)の他、第二外国語、小論文対策、PC(というかOffice)など……まあ大学1年生の一般教養と似たような感じだろうか。選択で教養の授業もあったが種類は2,3種類しかない。しかも大して面白くない。
大学1年生と違うのは、自分で授業を選ぶ幅がとても狭いところ。というのも学年によってどの授業を受けるか、カリキュラムが既に綿密に組まれており、「朝ゆっくりしたいから1コマなくそ~」というのは全くできない。選択授業も「とってもとらなくてもいいよ」ではなく「この中からどれか選べ」という選択。なので学期はじめにコースの人間全員集められてHRみたいなことをして、時間割を配られたりしていた。
【学生】
上記の通り様々なコースの人間が入り混じって授業を受けていたので、通っている人は本当にいろんな人がいた。アンタこんなしょぼい専門いていいの!?っていうような頭のいい人から、クソほど簡単なテストを「難しくてヤバかった~」という人まで、本当に様々。Lv.2→Lv.5まで駆け上がるといろんな人と話した。超絶パリピ野郎もいたし、内気で根暗で今にも引きこもりになりそうな人もいた。
同じ大学編入を目指すコースの中だと、まあまあ頭いいけど大学入試では一歩及ばなかった、みたいな人がほとんど。大体がプライド高くてそれを一度へし折られてしまった人、という印象。(私もだけどさ)すべり止めの私大に受かってたけど行きたくなくてこっちを選んだ、という人もいるにはいた。あとは行ってた大学が嫌になってやめて再チャレンジしたいとか……。比較的頭のいい人は多かったけど、それでもやっぱ学力でいうと「まあまあできる」か「いまいちできない」のどちらかだった気がする。コース内で一緒に行動していた友達は国公立に受かっていった人から最後の最後どうにか推薦で滑り込めた人までいた。
コースの人間の数は結構多かった。高校の一クラスくらい……?もっと少ないと思って入学したので意外だった。やっぱり学力レベルでつるむグループが分かれる。男女比は男子の方が圧倒的に多かった。3分の2くらい。でも学年全体で見ると女子の方が多かった気がする。
あと意外といろんな地方から集まってた。やっぱり学校周辺の人が多いのだけど、隣県や新幹線で帰省するくらい離れている土地から来る人もいた。私はかろうじて同じ県ではあるが学校までは通学に2時間かけていて、隣県出身で学校近くに一人暮らししている友達がうらやましかった。
【学費】
高い。私大に2年行くとのかわらん。でも高校時代まあまあ成績取れてたら学費免除は簡単に取れる。(模試の点数とかセンターの点数を基準に学費免除とかしてくれる学校もあると聞く)
本来国公立にしか行かせてくれなかったはずの両親があっさり行かせてくれたので、絶対に学費を無駄にすまいと2年間は真面目に必死に授業や資格取得に打ち込んだ。その後まあまあ就活に有利そうな資格とかちょいちょい取れたので、短大とか他の私大行って仮面浪人するよかよかったなあ、と思った。けどその辺って結局当人の努力次第なので、学校の授業の時間を使って資格取得や受験対策に打ち込める環境にお金払ったと思っている。払ってくれたのは親だが。でも無利子の奨学金も2年次から勝ち取って少し貢献できた。と思いたい。今返済しんどいけど。
1年間みっちり英語を叩き込まれたあと、2年生からいよいよ編入試験が始まる。
3年次編入試験は多くの大学がやっているが、大学によって受けられる条件は様々。私が行きたかった大学は他の4大からの受入のみで、専門卒は受け付けていなかったので諦めた。(でもそういう学校の方が少ない印象)
編入試験の日程は学校によってかなりばらつきがある。早いところだと6月くらいで、遅いところだと2月くらい?私は全部で3つ受けたが、ひとつは8月で、残りのふたつは12月だった。やっぱ秋~冬にかけてが多い。
面接の練習なども授業でしながら、それぞれの試験日に向けて準備を重ねていく。8月に試験を受けたところが第一志望にして最難関の大学だったが、ものの見事に落ちてしまい、泣きながらそのあと友人らとカラオケに行った思い出がある。編入試験は受験科目が少ない分やりやすいと言われるが、その門はかなり狭く、私が受けたところも倍率は5~10倍くらい(だったと思う、もう記憶があいまい)最終的に編入浪人の道を選ぶ人もいる。専門→大学編入のいいところは浪人などの1年のロスを出さずに大学を卒業できる所だが、結局編入試験の壁が高くて編入浪人したりレベルを落としてD~Fラン大学に入ったりと、メリットが活きないことも多い。でも努力してそれが実ればいい大学に入れるのも事実なので、そこは編入にチャレンジする人次第なのかな……とも思う。専門入って遊んでしまった人たちは上位クラスの人でも結局ランクの低い私大に行った人が多く、しっかり努力し続けていた人は国公立や偏差値高い私大に進んでいった。英検1級取得したり、TOEICでマックススコア出した人もいる。
あとTOEICのスコアで試験免除がある学校とかあって、TOEICマジもっと気合入れてやればよかったな、と思った。試験免除にならなくても入学後の単位に換算してもらえたりした。
英語はもうとにかく授業をガンガンうけてガンガン問題解くだけ。喋る・聞くは捨てて、ひたすら読むにステータスを振り続けていた。(書くは申し訳程度にやった)9時半から15時まで授業を受けた後、18時まで学校に残り友達と多少ぐだりながらも勉強(というか課題)、家に帰ってからも英語の長文読解とひたすら向かい合う日々。
小論文は書き方の作法を徹底的に叩き込まれ、あとは個人の文章センスや知識量がモノをいう感じだった。国語と世界史、そしてラノベから影響を受けた文化史系に強かった私には最高の科目だった。
編入試験の過去問も一応あって、見せてもらうためにその大学に足を運んだこともある。(コピーはさせてもらえないので、目で見て出題傾向を把握するのが精一杯だが)あと学校で過去問を回収して過去問集みたいなのを作っていたので、行きたい学校が人気校ならそんなことしなくてもコピーできたりした。英語試験はどの学校も長文読解系が多く、TOEICをそこそこにして英検受けまくっていた自分にはありがたかった。
面接指導は就活とほぼ一緒、だと思う。なんでこの大学に行きたいのかをはっきりさせろ!と言われ続け、「御校に在籍の〇〇先生の研究室で●●について研究したいです!!理由としては!!」みたいな答えをガチガチに固めていった。これはのちの就活に活きたと思う。
【試験】
どの大学も小論文は楽勝だった。8月に受けたところは英語で予想外の作文が出て動揺し、読解問題では時間が足らず、涙を呑んで不合格を覚悟した。翌日即結果発表だったが、当然私の受験番号はなかった。
第二志望の大学の前に第三志望の国公立を受けにいったが、家から遠く深夜バスでの移動となった。しかもバスからまた電車で移動するが乗換をミスり試験に遅刻。席に着くために荷物を通路に置いたら試験管に怒られ、萎縮しながら受験したが英語は予想できたレベルでむしろ楽しかった。1週間後には結果が開示され、無事合格。
そして満を持しての第二志望。同じ学校から他にも2名受けることになっており、一緒に移動。英語試験はやや苦戦した覚えがあるが、それよりも面接がしんどかった。大学に、特にその学校に入りたい理由を述べ(行きたい研究室があるでゴリ押しした)、なぜそれに興味を抱くに至ったかなどを話したが、とにかく緊張して噛みまくり、面接官に不審な顔をされ落ちたと悟った。しかしその試験当日、夜から私の受験期を中学から支えてくれた某バンドのライブがあり、普通に間に合わなさそうだったので走って会場を後にした。ライブはギリギリ間に合った。そして入試も無事にパスできていた。
進学先が二つ用意されたわけだが、もちろん第二志望を選択。一応国立大なのと、高校時代から学びたいと思っていた専攻があったのが決め手だった。思う存分研究に打ち込めたと思う。嘘。2年では足りない。もっとやりたかった。でも取りたかった単位や聞きたかった講義はほぼコンプできた。
上記でも少し触れたが、入学時に専門学校の授業の単位を大学の単位へ変換してもらえるため、本来4年で取る卒業単位を2年間で全部とれ、ということにはならなかった。特に私は人文学系だったので、変換がスムーズにいったというのがある。法律や経済系の学科は専門科目の変換が難しく、卒業単位を取れなくて留年した人が多かった。(と後に聞いた)
1年大学ライフを満喫したのちすぐ就活なのはきつかったが、興味のあったサークルにも在籍し2年間最初から最後まで活動できた。でもいくら単位変換してもらったとはいえ他の3年生に比べると圧倒的に単位は足りてない(その上私は卒業単位にならない資格系の講義も取っていた)ので、ほぼ毎日1~4コマ、そのあとサークル!バイト!みたいな生活をしていたし、就活の時期は本当にしんどかった。英語の資格(TOEICスコア700前後と英検準1級)と進級のために取らざるを得なかった数々の英語以外の資格、そしてあの日の面接対策と小論文対策が活きたのだろう……と思うと私はこのルートをたどってきてよかった。他の短大や4大出身の編入生は就活で軒並み苦労していた。でも専門より大学の方が圧倒的に楽しかったです。普通に1年生から大学入りたかった。
大学編入後で一番しんどかったのは、3年生でありながら1年生に交じって体育やらされたことかなあ。
色々書いたけどあくまで文系の話です。理系の編入はもっと大変と聞くし、そもそも専門→理系学部編入というルートが恐らくない。
東大や京大に比べたら底辺もいいとこだけど、こういう抜け道もあるよっていう話をしたくて。でも根っからの文系だった私だからこそうまくいった裏ルートみたいな感じではあるんだけどさ……。うまくいかなくってせっかく編入した大学やめて引きこもりになってしまった知り合いもいるし、正直この専門→大学編入というルートを誰にでもお勧めできるかというとそうでもないけれど。
あと社会人なってから編入で大学入って、教員免許だけ取って中退した編入生の知り合いもいる。社会人なってから大学で学びたいという人で4年は長いという人にもいいんじゃないかな。あと大学とりあえず入ったけどつまんなくて他の学科行きたいとか他の環境行きたいって人。
私は本当は大学院に進みたかったのだけど、やっぱり学費の関係で諦めて就職した。研究してた分野とも全然違う仕事をしているけれど、趣味としてまだその分野についての情報収集や勉強は続けている。なお英語をかなり使う仕事だし専門時代に取った資格もそれなりに活かせてはいるので業務内容には満足している。
いよいよセンターが近づいてきて、不安な受験生たくさんいると思うけど、どうかここだけが人生の決め手とは思わずに気楽に頑張ってほしい。案外人生どうにかなることの方が多い。
過去の思い出ってどうして美化されて事実よりも美しく見えるんだろう。
どうしてあんなに煌めいてるんだろう。まぶしい。
結局自分が大好きってことなんだよね。今から自分の思い出振り返りするね。
毎回テストテストばっかで勉強に追われてた。受験の時なんてこれで人生きまっちゃうんだ、落ちちゃったらどうしようってすっごく心配だったけど今となってはあのどきどきも愛おしい。いじめられたこともあって学校も行きにくかった、けど今の年になっても付き合いのある一番仲がいい友人もできた。
すごく好きな人ができた。結局告白もせず自然に疎遠になっていったけど。毎朝7時50分に家を出るとね、好きな人と交差点で会えた。それが楽しみで楽しみでどんなに朝寒くても起きるのが苦痛じゃなかった。あんなにときめいたり誰かを好きになったりすることってもうないかもな。授業中や休み時間、気がつけばその人のこと目で追ってた。帰り道だってもしかしたら会えるかもしれないなんて期待でウキウキしてた。ほんと、若いよね。
修学旅行なんて行く前は「行きたくない~」とか言っちゃうめんどくさいやつだったけど、いざ言ってみたらすごい楽しくて。好きな人と見た長崎の夜景が忘れられない。付き合ってなかったけどずっと私の胸の奥底でキラキラ輝いてる。心の中でシャッター切ったみたいに覚えてる。肌寒かった空気も。ずっとこの思い出に囚われていくのかな。
オープンキャンパスに行ったとき。真夏の日差しがギラギラしてて、涼しい研究室の中から見た木漏れ日の翠が美しかった。あの時大学紹介してくれた先輩たちはすごく大人びて見えて大学生活ってなんて自由で楽しいものなんだろうって心がうきうきした。今でもこの時のこと思い出すと将来への期待と不安が入り混じった何とも言えない甘酸っぱい気持ちがこみ上げてくる。つらい勉強も頑張ろうって思えた。今振り返ってみても、自分はあの時の先輩たちみたいに大人になりきれていなし、きっとこれからもあの人たちより大人になれることはないんだろうな。
大学生の時は片道2時間もかけて電車通学してたんだよ。同期からは散々馬鹿にされたけど、親が一人暮らしさせるの心配だったから。学費全部出してくれるのも親だったから。同期と飲み!とかサークル活動とか研究室に籠って勉強とか世間一般にいう大学生らしいことは全くしなかったけど、電車から風景眺めながら論文読んでたのがすごく懐かしい。
初めてデートもした。この人とも結局付き合わなかったけど。水族館に行って一緒に観覧車に乗った。2人とも緊張してがちがちしてたな。自分で言うのも何だけどすごく初々しかった。あれから観覧車のってない。
一人で初めて旅行もした。奈良の燈花会。朝早く行き過ぎて、ライトアップはじまるころには足がクタクタになってた。我ながらあほだな。
卒業式ではきれいな袴を着た。学友たちと写真撮ったり、教授に感謝の気持ち伝えたりしたけどいまいち「卒業」っていう実感がわかなかった。
去年の4月から社会人になった。毎朝起きて、化粧してヘアセットして職場に向かう。先輩からの小言愛想笑いでかわして、上司に頭ペコペコさげて。お客様対応とか笑顔もうひきつってるし。残業も長くて毎日家に帰ったら風呂入ってすぐ寝て朝。の繰り返し。土曜出勤もあるから日曜は死んだように寝てる。その分お金は稼げるんだけどね。好きだった趣味も社会人になってからやってない。
過去の思い出は煌めいて見えるけど、社会人になってからの思い出と現実は今もこれからもずっと煌めいて見えないような気がする。
誰に話していいのかわからず、悶々としている間に10年も経ってしまったがようやく心の整理ができたので書き記しておこうと思います。
ネットを調べると辞め方というのがあったんですけど、住所を記入して送ることや彼らと再び関わりを持ってしまうことが怖くて提出することができませんでした。
もう一切信じてはいないし、誰も自宅に尋ねては来なくなったので籍が残ってしまっているのは癪だけど辞めたということにします。
私は創価学会員の二世でした。生まれた時から親が勝手に入会させており学会員です。(酷くありませんかw)
母は熱心な学会員でした。父は特に信じてはいませんでしたが、学会員になっていました。
下の兄弟も創価学会の二世でした。弟は生まれながらに知的障害者で途中から大学を中退してしまいました。その頃からなぜか創価学会を盲信し始め、私はなぜか今も嫌われています。
「学会」「勤行会」「勝利」「池田先生」などの文字が並んだ新聞を読まされ、家には仏壇がありなぜか母親は毎朝毎晩何かをつぶやき祈っていました。
私はこれが普通のことだと思っていました。
新年には必ず新年勤行会という行事に行き初詣には中学まで行ったこともその文化があることも知りませんでした。
私は体が弱く、学校は休みがちでした。しかし、勉強は人一倍でき、小学校の頃から特に苦もなく高得点を取り続けました。
得点の高い友達はそれだけ御本尊様に祈りを捧げたんだと信じていました。
しかし、小学校の高学年になり創価学会の信者である自分はマイノリティーだと知りました。そして宗教のことを口にすることはよくないのだと思いました。
中学になると少し勉強を自分でしないと上位に上がれなくなった。部活を始めたが、なかなか難しかった。
勉強しつつ部活をやりつつ祈りを捧げると成績は良くなるのだと信じていました。しかし、ある日気づいた。「この時間、勉強や部活をしたほうがいいな。」と
親になぜ祈りを捧げるのか聞いても意味が全然わからず、なぜ信じているのか不思議でした。
でもきっと理由があるのだと思っていました。これだけパワーを注いで時間を割いているものの意味を私は知りたかった。
任用試験という試験があるらしいことを知った。今はあまり覚えていないが、創価学会検定みたいなもんで上の位を受理されていると教えることができる資格っぽかった。
でも全くわからなかった。
なぜ時間を割いて勉強したのかもわからなかった。それくらい当時の自分にとって理解不能で単純なテストだった。
私は可愛くない子供だった。
クラスメイトが信じている朝の占いは大人たちが適当にそれっぽいことを書いているため信じなかった(今だに12星座がわからない)。
人造人間18号はなぜ後継機なのに16号に劣るのか理解不能だった。
でっち上げられた歴史の教科書のパチモンみたいなので勉強させられた。
要するに、創価学会を盲信し続ければ幸福になるということがあの手この手で書かれているらしかった(詳しく覚えていない)
私は「なぜ信じるのか」を知りたかっただけなのに誰も知らないらしいことに愕然としてしまった。
それから創価学会は親との付き合いのためだけに仕方なく行くことになった。
私を創価学会二世にした親は何の疑いもなく登録して何の疑いもなく、幸福になることを望んだのだから裏切ってはいけない。
創価二世はつらい「誰が生めと頼んだ! 誰が造ってくれと願った!」というミュウツーのセリフが心に沁みた
要約すると「○○さん大勝利!勝利の裏には1日○時間唱題をしていた!」ということがあの手この手で毎度出てくる。
ちょっと待って冷静に考えてほしい。
「その時間別のことやったらもっとすごい成果が得られるのではないか」
唱題(御本尊に向かって題目を唱えること)の時間も半端じゃない!一日10時間!
創価学会は努力をあまりできない人が努力した気になるシステムがある。
時間が長ければ努力したとカウントされる。失敗しても責任は自分にはないので楽なのだ。
そこで得られる報酬や結果の理由は「題目をたくさんあげたから」となる。
私は中学の頃テストで100点をとった。親はこう褒めるのである「よく頑張ってお題目たくさんあげたね。次も頑張ろうね」
この100点は自分の努力をした結果なので素直に褒めて欲しかった。
子供にとって親に自分の努力が褒められないことほど悲しいことはないと思う。
祈っている時間は1秒もなかった。祈りに屈する自分も悔しかった。
特にお金のことを心配しなくても一人で生きていけるようになっていた。
ある日見知らぬ人間が知り合いのような口ぶりで尋ねて来るのだ。
そこまで冷酷ではないので口ぶり合わせて軽くあしらっていた。
大学の頃アパートの1階に住んでいたんだけどなぜか窓から間取りややっていることを見られていた。
現場は見ていないけども、訪問時見られているとしか思えないような話をよくされた。
見知らぬ土地で自分が知らない人が自分の生活を見ているのだとしたら怖すぎる。
公明党をひたすら勧めて来る。
他党と比較して何がいいのか教えてくれない。なぜいいのかも説明してくれない。
とにかく勧めて来る。謎
「なぜ信じているのか説明できない信者」と「わかりやすい組織の利益」わかりやすくて大変よろしい
そんなこんなで努力して自分で目標を見つけることが大事なんだなぁとか普通によくわからないという感想が出てきて自分には必要なくなっていった。
人間努力して努力してどうにもならないときどうするのかというと、祈ります(笑)
神社に行ったり、神棚に祈ったり、そのとき信じるものに祈ります。
今私は世界中を飛び回り、いろんな国の人と話して物を作る仕事をしています。
宗教もいろんな人がいて、そういう人の境遇や想いを理解してあげるのは大切なんだと思いました。
人生何があるのかわからないので、今後私も宗教に入ることがあるのかもしれません。
でも大切なのは事実を自分で見極めて、自分で納得することだと思います。
悩み続けた信者生活でしたが、常に自分がどうあるべきかを考えさせられ勉強になりました。
これからどうするのか何も決めていません。結婚もどうしていいのやら
でも正しいことは自分で見極めてしかるべき努力を重ねていきたいと思います。
親は創価を盲信するあまり認知症の初期症状っぽいの幻覚ならぬ幻臭を感じているようです。
【中学受験】
動機は3つ。小学校で好きだった子や友人と張り合うため。先生に勧められたため。行きたい学校を見つけたため。
小学校は東京郊外の私立に通った。いわゆる東京の私立というイメージとは遠く、付属中学もなく田園の教育という方針を実践しているのんびりとした学校だった。学年に男女合わせて30人ちょっとしかおらず、当然クラスもひとつしかなかった。
私は四年生の時に親の母校であるその私立へと転校した。学校では何もしなくても成績が良かった。テストはいつも早く終わり、ほぼ満点しか取らなかった。いつもトップを争う子がおり、私はいつしかその子に好意を寄せるようになった。その子とは度々一緒に学級委員に選出されて囃されたが、実際悪い気はしなかった。
五年生になって周囲が塾という習い事のため足早に帰ることに気づいた私は、特に深く考えもせず受験がしたいと親に申告した。担任の先生と相談すると、可能性を広げる良いチャンスなので多いに推奨すると言われた。この時の先生の一言だけで私は世界が広がった気がした。
学校をいろいろ見学した結果、最後に訪れた御三家の一角を目指すことになった。門を叩くまで母は恐れ多いと躊躇していたが、行ってみると風通しが良く自由な校風で私は一発で気に入った。ここしかないと強く思った。
好きになった子とは家族ぐるみの付き合いがあり、テーマパークへ行ったり共学を一緒に見学したりした。同じ学校で無敵の青春時代を過ごす妄想が捗ったが、世間的に知名度の高かった共学も思ったほど私には語りかけてこなかった。試験日程も遅かったので、お互いそれぞれの御三家が第一志望となった。
塾は近所の個人塾に通った。寺子屋みたいな雰囲気で、先生は塾長と奥さんの2人、生徒は4人、そして授業中は正座だった。私だけ必要な科目数が多かったので、マンツーマンで教わる時間も多かった。回答を間違えると「バカチン」と先生はよく言った。指導は厳しかったが、頻繁に飴を配ったり可愛がってくれた。
塾は行ったら行ったで面白いし好きではあったのだが、束縛に耐えられなかったのか、私はよく直前にお腹を壊したり、自転車で行くふりをしてバックレたりした。もちろんすぐバレた。何度もやめてもいいよと親に諭されたが、そう言われると余計に引けなかった。何より勉強は楽しかった。自宅で勉強と称して漫画を読むのも楽しかった。
大手の塾には模試と講習だけ行ったが、普段の学校や塾とはまるで異質な空気に圧倒された。何点取ったらゲームもらえるとか、模試で何位だったからお小遣い増えたとか、そんな会話が横行しできない奴は容赦なくバカにされた。私は萎縮してしまい、模試や講習では御三家を狙うにはギリギリの偏差値をいつも取っていた。
そんなこんなで中学受験。第一志望の受験日は2月1日。受験番号は402。母が「フォーチュンだね」と言ったので覚えている。大手塾特進クラスの連中はまるで家にいるみたいに寛いでいた。田んぼの学校に通いちっぽけな寺子屋からひとり送り出された私は、担任や塾長の言葉を思い出しつつ、昼休みに母の作った弁当を噛みしめた。
手ごたえはあった。得意科目は算数だったが、特に国語ができた気がした。第二志望以降も受けたはずだが、第一志望で力を使い果たしておりほとんど記憶がない。2月3日に結果が出るとその後はもう受けなかった。サクラサク。
【大学受験】
東大を受験することにした。理由は、別の進路を断念したため、学費が安かったため、そして周囲のほとんどが目指していたため。
はじめは芸大の先端芸術表現科というところに行きたかった。アートを学び実践したかったのだ。しかし、東大からでも道はあるという説得と、受験対策のための出費がかさむという理由で断念した。今思えば金をかけずに挑む方法を模索して食い下がればよかったが、当時は思い至らず折れてしまった。
私が中学の頃に父は長年勤めた会社を早期退職したが、その後仕事が奮わず家計は火の車となった。学費と生活費の捻出に家族があくせくする状況の中、私だけ美大受験の意志を押し通すことはどうしてもできなかった。大学受験は塾に通わず授業と自習で挑むことになった。
幸い有数の進学校には通っていたので、目標を東大に変えることは自分の置かれた環境を最大限活かすことにもなった。上位25%が東大に進学する学校で私は時折圏内に食い込む程度の成績だったので、そう遠くない目標に思えた。
ところが、目指し始めた頃には届きそうに思えた赤門も、時間が経つにつれ遠のいていった。ハイレベルな塾に通う周りからは目に見えて離され始め、模試の判定も振るわなかった。いくら寝ていても自習をすると眠くなり、分からないところがあっても差を感じると素直に質問できなくなった。焦るほどに時間だけが過ぎていった。
願書を出す段になると、父と腰を落ち着けて話した。弱気になった私とは裏腹に、父は自信に満ちていた。「滑り止めに金は出さない。行きたいところだけ受ければいい」と父は言った。それもそうかと妙に納得し、私は東大のみを受験することにした。東大一本なら正直落ちてもカッコつくと思った自分がいたのは事実である。
余談だが、父は学生紛争で東大受験がなくなった年に受験生だった。成績優秀で東大を目指していた父はその年第一志望に挑戦することすら叶わず第二志望へと進学した。私はその話を本人からではなく母から聞いた。複雑に絡み合った様々な思いを背負って私は試験に臨んだ。
結果はボロボロだった。足切りこそされなかったものの、センター試験は合格者平均を大きく下回っていた。二次試験の数学に至っては頭も回答用紙も真っ白だった。案の定、私は東大に落ちた。
【大学受験2】
東大に落ちて私は忸怩たる思いでいっぱいだった。自分が周りに一目置かれたいがためにいたずらに東大を目指した気がした。東大しか受けずに落ちたと言うと、周囲はその勇気を讃え不運を嘆いた。だが私が一番良く知っていた。それは勇気ではなくただの処世術で、不運ではなく純然たる力不足だった。
私が卑屈にも自分と比べていた仲間たちは一足先に合格をその手で掴み大学生となってしまった。毎日通っていた高校も卒業してしまった。私はからっぽになった。現役受験が終わってから、これは他人との競争などではなく自分との戦いなんだとやっと気付いた。
就職か浪人かという選択肢を前に、働くと言いかけた私に親は浪人を勧めた。もったいないから、という言葉に私は到底納得できなかったが、ある種自分を見直す時間だと捉え受け入れた。親に頭を下げ予備校に通った。
浪人の前半期はくすぶっていた。授業は新鮮で楽しめたが、予習復習には身が入らなかった。借りた小説を読み漁り、レンタル映画を見倒した。私は物語の主役であり、困難に立ち向かう若者であり、世界の広さを思い知る冒険者であった。自由を求め無頼を気取っていたが、その実何の変哲もない予備校生だった。
後半期になると配属クラスが上がった。自分でも気持ちが乗ってきているのが分かった。模試では結果を出せるようになり、勉強と試験のサイクルが単に知識の吸収と確認をする作業なんだと理解できた。高校の教科書をはじめから読んだり、資料集を飽きるまで眺めたりした。そこに書かれていたのは試験のために記憶すべき情報ではなく、世界を紐解く手掛かりだった。
この頃から私はセンター試験をひたすらやった。現役受験の際に感じた基本の不足を徹底的に見直そうと思った。周りは東大対策に余念がなかったが、私は自分が一番手応えを感じられる道を進めばいいと思えた。センター試験で満点が取れるようになると、不思議と二次試験の過去問も解けるようになった。
結果からいうと、私は当時の前期日程試験で不合格だったが、後期日程で理科一類に合格した。
前期日程で落ちたのは予想外だったが、余計な要素が削ぎ落とされるほどに私はなぜか冷静になれた。後期日程では科目の絞り込みに加え選択もあるため必要な試験が少なく、私の場合はほぼ英語と数学のみだった。そして私にとってはそれが望ましかった。
試験前日はよく眠れた。朝は自然と目が覚め、焦りや気怠さを感じることなく落ち着いて試験に臨むことができた。数学はあっけなく終わり逆に不安になったが、英語が会心の出来だった。やるべきことはやったという清々しい心持ちで試験を終えた。
結果発表では安堵と高揚感からか、現実感が薄らいですべてがぼやけた夢のように思えた。勝鬨をあげたり号泣したりする見知らぬ同志たちを横目に、私は特に湧き上がる感情もなく立っていた。アメフト部に合否を聞かれ、小さく頷くと胴上げされた。着地の際に自分の体重が戻ってきたのを感じ、それまでの漂うような気持ちは消えた。
こうして私の受験は終わった。
【最後に】
小学校で好きだった子は私と同様に第一志望の御三家に合格したが、中学進学以来疎遠になった。私は大学を出て10年になる。
受験は競争心を煽って奮い立たせる仕掛けが多く、そういう経験を経て比較でしか物事を測れなくなる人間もまた多い。実際に私も周囲の人間や環境に大きく影響を及ぼされたが、最終的に納得の行く結果は自分の選択からしか生まれなかった。
正月の受験生たちに、あけましておめでとう。
もうすぐ2018年も終わり。
自分は今、関東から田舎に帰省している大学生。大学は駅弁の理系。
今はほとんど荷物のない自分の部屋で死にたい気持ちと涙が出てきています。
来年3月に卒業しなければいけないのですが就職決まっていません。
内定がないんです。
自分は吃音を隠さずにどもっていいともの価値観で生きてきました。
これは間違いのようです。
子どものころ吃音のある学生や大人と交流する学校のイベント??があって。
そこに参加しているスタッフさん、吃音を持った大人がこんな仕事をしているよ。
職場でカミングアウトしているから堂々とどもりなさいって話していたけどこれはウソだったんだろうな。
履歴書、面接で吃音のことを堂々とカミングアウトしたけど相手にされなかった。
エントリーシートの段階で貴意に添えない結果が42社、運良く面接まで行けたところは5社。
ある企業では帰り際に障害者枠で再度応募してくれないかとも耳打ちされた。できる限り早く連絡してくれということだった。
その時の自分はこんな心の狭い企業なんてこっちから願い下げだと思っていた。
でも今になって考えればこれは助け舟だったのかもしれない。
結局11月ころに大学の学生支援室・キャリア支援室に相談したけど後の祭りだった。
なぜもっと早く相談してくれなかったのか。どうして吃音があること障害があることを堂々と
カミングアウトしてしまったのか。今の雇用情勢について解説があって自分がやっていたことは
全部裏目に出ていたことがわかった。吃音は発達障害だから精神障害者手帳を持つ方法もあると教えてもらえた。
就活開始時に精神障害者手帳を持って一般枠と障害枠両方で就活する
選択肢があったことも教えてもらえた。というかそうやって内定もらった同じ学部の人がいるということもわかった。
その人は東証一部上場企業の障害者枠で内定もらったそうだ。大学側も入学当初から相談してくれていれば
可能な限り最大限の支援をすることもできたそうで拍子抜けだった。
自分がこれから精神障害者手帳をもらって就職活動しても半年の待機時間があるため障害者枠での応募はできない。
悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。
吃音があっても問題ないって大丈夫だって就職はできるよって言っていた大学生や大人の話を真に受けて信じてしまった自分が馬鹿だった。
お前だって祖父の年金に頼ってただろ。まさかバイト代だけで学費と生活費捻出出来るわけないからな。
で?専業の大変さはどこ行ったの?
大学やバイト行く暇がある人よりその暇のない人の方が大変に決まってんだろと何度も言ってるが
お前がそれを認めないだけだろ
「結果的にできた」ことは「楽にできた」ことではないし、幾度も教官の慈悲で通ってるんだわ。
何故こいつは「大学に行ってると言えば皆から大変だと思って貰えるだろう」と思ってるんだろうか
「ずっとバイトだった」ってならまだ大変だと思って貰えるかも(それでも働けるだけマシだろ、って考え方もあるけど)しれないけどさ
「大学に行ってる主婦」なんて聞いたら大抵の人が余裕あるな~という感想しか抱かないと思うんだが
何故こいつは「大学に行ってると言えば皆から大変だと思って貰えるだろう」と思ってるんだろうか
「ずっとバイトだった」ってならまだ大変だと思って貰えるかも(それでも働けるだけマシだろ、って考え方もあるけど)しれないけどさ
もともと結婚前から妻は「うちは貧乏で…」みたいなこと言ってたんだ。
確かに挨拶に行った実家は借家だと聞いていたし、広くはなかった。
とはいえ、身なりはきちんとしてたし妻は一人っ子だし、ある程度の謙遜というか自虐だと思ってたんだ。
お互いの実家とは違う場所で結婚式になって、親族を呼ぶことになったんだが、
うちは親族含めてホテル代は払って、親族交通費は親が出してくれていた。両親や兄弟の家族は交通費自腹。
まぁそれは、いろんな方法あるよなーってくらいだったんだが、
その後妊娠してら赤ちゃん用品を買ってうちに送ってくれたと思ったらあとで妻が払うとか、
今住んでいるところで生むのは大変だろうからウィークリーマンション借りて
短期間面倒見るみたいな申し出があってそれは助かると思ってたら、
この先もお金がかかったり、貯蓄しなきゃいけない中で、
請求するのは当たり前、みたいな感じなのがすごいモヤモヤする。
ウチに来るときに高そうなケーキ買ってくるとか、ネット通販できるものをわざわざ買って宅配便で送るとか、
自分には高い化粧品ポンポン買うとか、好きなアーティストのライブに遠征するとか、
遺産とか残してくれなくていいから、老後の面倒くらいは自分たちで見てくれ。
俺も大学の学費は自分で出してたり、就職してからも仕送りしてたり
(結婚を機に自分たちのために使いなさいってことでもうしてないが)、
来年2月から始まるフルハーネス、特別教育が必要になるってふざけんなー!
いまでは草刈り機も特別教育、グラインダーの刃を交換するにも特別教育って説明書を読めばわかるだろー!
日本郵政も取扱い荷物が減ってるのに、ドライバー不足で土日配達しないってどうよー
いまの普通免許で乗れる車種が減るなら自動車学校代も学費減らそうよー
教育熱心で説教が長くて自分の面子が大事で度々手を上げるおとんとどこまでも優しい良いお母さんけど最終的にはおとんの味方しかしないおかん
俺の大学の学費、前期後期それぞれ25万ずつなんだけど、おかんおとん、出してくれてありがとう。
仕送りもしてくれて、まあ俺も自分でバイトしなきゃ食えない額ではあるけど感謝するしかない総額を俺に注ぎ込んでくれたんだな。
ありがとう。感謝ついでに言うけどそんなにお金お金言うくらいなら生まないでほしかったな。
学校サボってメンクリ通ってたら母親にバレて実家に数日引き戻された。
俺が限界になってるの見てひょっとして今度こそ俺の話を聞いてくれるんじゃないかと期待したが、全然そんなことなかった。
元気付けたいんだと思うけど父親に数時間に渡って俺を育てる苦労話された。
お金かかったんだね。俺を育てるの大変だったんだね。そんなに苦労して製造した息子が大学も卒業できない失敗作になっちゃってごめんねって感じだった。
父親は「自分の親に『計画的に生んでエリートにすべく育てた』って言われるのが嫌だった」って教えてくれたけど、「お前は出来ちゃった婚の産物」ってバラされるのもなかなか辛いものがあったよ。
なんだよ、俺お前らの無責任中出しで誰にも望まれてないまま出来ちゃった上に金かかっただけのお荷物じゃん。
本当はちょっと休学の相談をさせてほしくて実家に帰ったんだけど、休学のきの字も言わせてもらえなかったし、「今年卒業する以外は一切認めない」とか言われちゃった。
俺だって別に是が非でも親の金で留年したい!なんて思ってなくて、「経済的に無理なので自分でどうにかしてくれ」と言われるならそれでよかった。ただちょっとでも休学したいくらいつらいと言わせてほしかったし、せめてどうしたいのかだけでも聞いてほしかった。聞いた上でそれは無理だと言ってほしかった。
自腹切って休学するのも許されなくなっちゃった。
俺の心は値段にして25万の価値もないっぽい。仮に休学させてもらえたとして最低限ドブに捨てたことになる前期の学費25万円。これが5月くらいの話。
実家帰った間ずっと何かしらの説教されててつらかったなって思って、東京に帰るために母親が駅まで車で送ってくれてる間わんわん泣いちゃった。母親に甘えたかったのかもしれない。
その母親と先日久々に会って、尋問されたので今でもうまく学校に行けてないことを正直に言った。おかんは俺のことをいたく心配して、「今から一緒に実家に帰ろう」とか言い出した。決定的だった。俺はこの優しくて浅はかなお母さんに勝手に絶望した。俺あなたの目の前で泣いたじゃん。帰らなければよかったって言ったの聞いててくれてたじゃん。「あなたにとって家に帰るのはあまり良いことではなかったんだね」とまで声かけてくれたじゃん。何それ。
母親に心開くのをやめた。この人に何かを期待しても僕がしんどいだけだと結論づけたので、家族カテゴリから他人のフォルダへ存在を移行させた。目先の優しいポーズをするのだけが好きな人なのか、単に頭が悪いのか。多分後者なのだと思う。頭の悪さで人を傷つけるだけで、他は絵に描いたような良いお母さんだった。
母親が家族ではなくなったので、俺の対人関係のフォルダにおいて、全てが他人に統合された。考えてみれば当然だと思う。家族だからとか友達恋人だからとかで甘えた態度を取って訪れるのは不快感に耐えかねた破滅だけだもん。親しき仲にも礼儀あり。ただでさえ価値のない俺の本音とやらは人に迷惑をかけるだけなのでこの先誰にも言わないようにして生きていきたい。否、死にたい。
今日そのおかんから電話がきた。クリスマスだから何か送ってあげようか?だって。本当にありがとう。でもごめんなさい。他人からは現金以外受け取りたくない。だって貰ったら大事にしなくちゃいけないじゃん。自分を大事にするのもめんどくさいのに。大事にするってなんだ?わからん。
一時期は「毒親」って言葉にも興味を持ったけど、最近は俺が恨むのはお門違いだと感じている。おかんもおとんも悪いことはほとんどしてないと思う。そりゃ人間だからたまに失敗するだろうけど、そんな些細な失敗で巨額投資先が丸ごとつぶれてんの本当に可哀想で申し訳ない。強いて言うなら出来ちゃった俺なんかは生まないで堕ろすのが正解だった。
社会に出られない。学校に行けない。バイトも受からなくなった。必死になって就活エージェントとやらにメールして面談約束しては当日怖くて泣いてしまって外に出られずドタキャンするのを繰り返している。12月。文章も上手く書けなくなった。好きだった音楽がうるさくて聞けなくなった。映画も本もごちゃごちゃして見られなくなってきた。
どうやって死のうかな。俺を売ってできた25万円で、俺が生まれてきたせいで負担がかかった他人のみんな、せめて焼肉とか食べて幸せになってくれないかな。あ、25万しないんだっけ。