2019-01-03

創価学会を辞めました

誰に話していいのかわからず、悶々としている間に10年も経ってしまったがようやく心の整理ができたので書き記しておこうと思います

表題通り私は、創価学会を辞めました。

ネットを調べると辞め方というのがあったんですけど、住所を記入して送ることや彼らと再び関わりを持ってしまうことが怖くて提出することができませんでした。

もう一切信じてはいないし、誰も自宅に尋ねては来なくなったので籍が残ってしまっているのは癪だけど辞めたということにします。

ちょっと前向きに描きたいので退職エントリ風に書きます(笑)

どんな人物なのか

私は創価学会員の二世でした。生まれた時から親が勝手に入会させており学会員です。(酷くありませんかw)

母は熱心な学会員でした。父は特に信じてはいませんでしたが、学会員になっていました。

下の兄弟創価学会二世でした。弟は生まれながらに知的障害者で途中から大学中退してしまいました。その頃からなぜか創価学会を盲信し始め、私はなぜか今も嫌われています

裕福な家庭ではないことは物心ついた瞬間から理解した。

生い立ち

物心ついた時から創価学会自分のすぐ近くにありました。

学会」「勤行会」「勝利」「池田先生」などの文字が並んだ新聞を読まされ、家には仏壇がありなぜか母親は毎朝毎晩何かをつぶやき祈っていました。

私はこれが普通のことだと思っていました。

新年には必ず新年勤行会という行事に行き初詣には中学まで行ったこともその文化があることも知りませんでした。

私は体が弱く、学校休みがちでした。しかし、勉強人一倍でき、小学校の頃から特に苦もなく高得点を取り続けました。

得点の高い友達はそれだけ御本尊様に祈りを捧げたんだと信じていました。

しかし、小学校の高学年になり創価学会信者である自分マイノリティーだと知りました。そして宗教のことを口にすることはよくないのだと思いました。

中学になると少し勉強自分でしないと上位に上がれなくなった。部活を始めたが、なかなか難しかった。

勉強しつつ部活をやりつつ祈りを捧げると成績は良くなるのだと信じていました。しかし、ある日気づいた。「この時間勉強部活をしたほうがいいな。」と

親になぜ祈りを捧げるのか聞いても意味全然からず、なぜ信じているのか不思議でした。

でもきっと理由があるのだと思っていました。これだけパワーを注いで時間を割いているもの意味を私は知りたかった。

任用試験という試験があるらしいことを知った。今はあまり覚えていないが、創価学会検定みたいなもんで上の位を受理されていると教えることができる資格っぽかった。

あっさり試験に受かってしまった。

でも全くわからなかった。

なぜ時間を割いて勉強したのかもわからなかった。それくらい当時の自分にとって理解不能で単純なテストだった。

私は可愛くない子供だった。

クラスメイトが信じている朝の占い大人たちが適当にそれっぽいことを書いているため信じなかった(今だに12星座がわからない)。

人造人間18号はなぜ後継機なのに16号に劣るのか理解不能だった。

でっち上げられた歴史教科書パチモンみたいなので勉強させられた。

要するに、創価学会を盲信し続ければ幸福になるということがあの手この手で書かれているらしかった(詳しく覚えていない)

私は「なぜ信じるのか」を知りたかっただけなのに誰も知らないらしいことに愕然としてしまった。

それから創価学会は親との付き合いのためだけに仕方なく行くことになった。

親をがっかりさせたくなかった。常に良い子でありたかった。

私を創価学会二世にした親は何の疑いもなく登録して何の疑いもなく、幸福になることを望んだのだから裏切ってはいけない。

創価二世はつらい「誰が生めと頼んだ! 誰が造ってくれと願った!」というミュウツーセリフが心に沁みた

なぜやめるのか

努力価値を知った
不信感が湧いた

努力価値の話

創価学会はだいたい謳い文句が決まっている。

要約すると「○○さん大勝利勝利の裏には1日○時間唱題をしていた!」ということがあの手この手で毎度出てくる。

ちょっと待って冷静に考えてほしい。

「その時間別のことやったらもっとすごい成果が得られるのではないか

目的に向かう努力をした方がいい。

唱題(御本尊に向かって題目を唱えること)の時間も半端じゃない!一日10時間

ちょっと待て!と普通なら思う

創価学会努力をあまりできない人が努力した気になるシステムがある。

題目という祈りだ。

時間が長ければ努力したとカウントされる。失敗しても責任自分にはないので楽なのだ

本気で努力する必要がない。

そこで得られる報酬や結果の理由は「題目をたくさんあげたから」となる。

私は中学の頃テスト100点をとった。親はこう褒めるのである「よく頑張ってお題目たくさんあげたね。次も頑張ろうね」

この100点は自分努力をした結果なので素直に褒めて欲しかった。

子供にとって親に自分努力が褒められないことほど悲しいことはないと思う。

そこから私は猛烈に努力した。自分努力証明たかった。

部活も、勉強も猛烈に頑張った。

高校は猛烈に勉強県内トップ3に入る高校に行った。

部活全国大会に行き大学国立大の行きたい学科合格した。

裕福な家庭ではなかったので学費バイトで稼いだ。

祈っている時間は1秒もなかった。祈りに屈する自分も悔しかった。

仕事もめちゃくちゃ頑張って同世代の平均年収を抜いた。

特にお金のことを心配しなくても一人で生きていけるようになっていた。

不信感の話
不信感1

創価学会員はなぜか引越し後の住所を知っている。

ある日見知らぬ人間が知り合いのような口ぶりで尋ねて来るのだ。

そこまで冷酷ではないので口ぶり合わせて軽くあしらっていた。

大学の頃アパートの1階に住んでいたんだけどなぜか窓から間取りややっていることを見られていた。

現場は見ていないけども、訪問時見られているとしか思えないような話をよくされた。

見知らぬ土地自分が知らない人が自分生活を見ているのだとしたら怖すぎる。

不信感2

選挙の前親から毎回電話が来る。

公明党をひたすら勧めて来る。

他党と比較して何がいいのか教えてくれない。なぜいいのかも説明してくれない。

とにかく勧めて来る。謎

勧め方が露骨すぎやしないだろうかと毎回笑ってしまった

「なぜ信じているのか説明できない信者」と「わかりやすい組織の利益」わかりやすくて大変よろしい

そんなこんなで努力して自分目標を見つけることが大事なんだなぁとか普通によくわからないという感想が出てきて自分には必要なくなっていった。

これから

でも創価学会を一概に悪だと言えないことも最近気づいてきた。

人間努力して努力してどうにもならないときどうするのかというと、祈ります(笑)

神社に行ったり、神棚に祈ったり、そのとき信じるもの祈ります

宗教ってこのためにあるんだなって思ったりしました。

今私は世界中を飛び回り、いろんな国の人と話して物を作る仕事をしています

いろんな価値観の人がいます

宗教もいろんな人がいて、そういう人の境遇や想いを理解してあげるのは大切なんだと思いました。

人生何があるのかわからないので、今後私も宗教に入ることがあるのかもしれません。

でも大切なのは事実自分で見極めて、自分で納得することだと思います

悩み続けた信者生活でしたが、常に自分がどうあるべきかを考えさせられ勉強になりました。

これからどうするのか何も決めていません。結婚もどうしていいのやら

でも正しいことは自分で見極めてしかるべき努力を重ねていきたいと思います

幸せってなんだろうって思うことも多々あります

親は創価を盲信するあまり認知症の初期症状っぽいの幻覚ならぬ幻臭を感じているようです。

それを聖教新聞で抑えられるみたいなことを言い始めていますが私は元気です

みなさん幸せですか?私は初期ステータスの割にはそこそこ幸せです。

  • 増田は賢いね。届けなんか出せば嫌がらせを受けたり平穏な生活が脅かされるかもしれない。親とだって仲が気まずくなると思う。自分が会員としてカウントされてるのと引き換えに、...

  • 創価二世が世界を飛び回ってるんだぜ?やばいな

  • 創価学会は

  • 「です・ます調」と「だ・である調」を混ぜて文章書くとただでさえ読みにくい文章が更に読みにくくなるしなにより頭の悪さがにじみ出ちゃうからやめたほうがいいよ

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