はてなキーワード: 図書館とは
前のつぶやきが予想外に見てもらえたので、続編をやってみる。
何か、コメントで90年代も語ってほしいなんて無茶要求があったので、
中途半端なインターネット老人らしく早く目が覚めてしまい、今日が平日で数時間後に勤務と分かりつつ無理に書いてみる。
前のつぶやきでは分かりやすさのため自身の属性を2000年代の高校生と称していた。
呪術廻戦で多少有名になった感があるが、バトルはしない理系の変態が行くアレなところと思ってもらえば差し支えない。
そういう経歴なので、90年代のネットというのは余り知らない。
Windows95でパソコン時代の潮流を眺め、Windows98時代にネットとともにJOINした程度にしか知らない。
親父がオタクだったせいもあり、5インチフロッピーのPC98のゲームとかには触れていたものの、ネットへの邂逅は98年前後位だ。
とは言え、3.5インチのフロッピーからRPGツクールを遊び、宝箱のフラグ制御による実現については学んでいた自負のある中途半端なガキではあった。
なんで、自宅はテレホタイムでのWindows、学校ではFreeBSD、寮ではVineLinexでインターネットに接続していた。
そのレベルなので、あまりこの時代のインターネッツは知らない。
知らないけど、知らないなりに触れて覚えているそれを記したうえで、諸先輩方にご教示頂ければあと3日で到達できる週末のggりライフも捗るというもの。
なんてスケベ心で、知っている限りで書いてみる。
そうやって浅薄な知識を挙げることで情報集収集できるってツーチャンネルで学んだんだ、僕は詳しいんだ。
それこそ、インターネット=HP(ホームページ)というノリだった。
ただ、個人の糞つまらない趣味を載せたページや、形だけの企業サイトなど、
目がチカチカする効果や、嫌がらせのMidi音源、文字の無駄な移動、キリバンとかそれしかないのという楽しみ…
同じく、当時の論調を見れば「こんなつまらないものを見るのにお金をかける人なんていないよ。普及しないね!」なんてのもあって
なんかすごいらしいけどつまらないなぁ、なんて思っていた。
それが今やテレビより接するメディアになるなんて思ってはいなかった。
今やブラウザでほぼ完結する世界のWindowsだけど、昔はツールがなければただのチラシの裏代わりのメモ帳だった。
なんで、いろいろしたいときにはこれらのサイトを巡回して「Toolスゲー」って感じで入れて飽きてアンインストールのローテーションだった。
この時期はストレージが数百メガ、メモリが数十メガのゴミみたいな時代なので、Tool入れ放題なんてそんな優しい時代ではなかった。
それこそ十年以上前にこれはからブラウザですべて完結するってgoogleがchromeを出したときは
「ご冗談をw」って思っていたけど正にそうなっていて、googleのノストラダムス力に西野プペルカナ以上に震える限り。
とは言え、かゆいところはtoolが必要なのでこれらのサイトは需要は低くなったけど今も必要だよね。
当時の検索と言うと、自分の認識的には鉄板のYahoo!とロボットが広くあまねくのgooという認識だった。
初めはYahooで当たり障りのないページを探しつつ、goo(同名ドメインのエロサイトはまぁ別途)から派生し、
Infoseek、AltaVistaなど、よく知らない世界への入り口を紹介してくれるロボット検索エンジンにたどり着いた。
この時は、google?ゴーグル?なんて感じで90年代の後半に出てくるくらいで知りもしなかった。
それこそ、2chのトップかどっかにgoogleの検索窓があって、それで知った位な感じ。
検索で色々未知の探求をしていくうちにたどり着いたのは、図書館のネットに放課後はつなぎだしたのはいわゆるアングラだった。
街の灯、日本海溝、メリーゴーランド等、まぁワードで分かる人は分かるアレですね。
眺めつつ、アレしつつ、うわースゲー、ここは別世界だ!なんて図書館やテレホタイムに興奮していた。
ニュースになるのは2000年のだけど、ファミコン決死隊とか労務課の倉庫とかそいう感じのアレで逮捕される人が出てきて現実だと改めて認識した。
そういうのはいつか消えるかと思えば、まだ形を変えて主に中華系で生きている。
法や制度が整備されても、人の欲望の忠実さを表すこれらは人間らしい。
コミュ障ボッチだったので、Outlookメールの発する妙なメール着信音にいちいち狂喜乱舞していた。
あの頃なので、スパムなんてなくて知り合いとかのメールで喜んで長文返信してそこで途絶えるなんてのをしていて、学ばないなと改めて思う。
とは言えそういう、一人一つと思っていたメールをWebメールとして取得できるHotmailはその存在を知り喜んで取得した。
が、まぁ上述の状況から取得しただけで終わった。
この後、フリーメールは各種ドメインで乱立するんだけど、今はgmailに収束した感がある。
なんて、過去の先輩の学籍番号を特定してアクセス出来て、そこからレポートをパクッて提出が出来ていた。
ただ、これが後にバレて不可を教員から受けるというドラマがあり、そのぐぬぬを何とか乗り切ったのはまた別の話。
FreeBSD自体は今も生きてはいるけど、Linux系列の方が多いのかな、少なくとも仕事の上では見ない。
なんて思うけど、自分自身の90年代のネットへの関わりがうっすいので、
このあたりのあれやこれやを知っている人が教えてくれると嬉しい。
・人類は滅んでいるが、廃墟なんかはそこそこ残っていて、マッドマックスみたいな感じではない ラストオブアスくらい
・敵対する勢力やモンスターなんかはいないか、いてもそんなに重要ではない
・ところどころに残ったランドマークを訪れ、観光してみたり貴重なアイテムを手に入れたりする
・地形はある程度現実に即していると嬉しい
・大層なストーリーはない 滅んだ後の世界のいち個人としてうろうろするだけ
こういうゲームが欲しいんだよな
フォールアウト4をより現実に寄せて、ブレスオブザワイルドみたいな操作性とゲーム性で、戦闘要素を薄めてサバイバル要素を濃くした感じのやつ
学校の廃墟に入り込んで一晩中寝たり、植物園の廃墟で珍しい植物見たり、こわごわ動物園を見に行ったり
そういうことをやりたいのだ
あった・なかった以前の問題で、言ってることやってることそれ自体が無茶苦茶なのだ。
どれほど無茶苦茶で出鱈目なことをやっているか、一例をあげよう。
西岡昌紀、木村愛二という1990年代にホロコースト否定でちょっと話題になった人がいる。この二人は、ホロコースト否定の仲間である。
私は西岡とTwitter上でつい最近やり取りした。必要以上に詳しい内容は書かないのでそんなもんだと思って読んで欲しい。
西岡の本に否定論界隈では有名な話が載っている。「137人のドイツ人捕虜の睾丸が修復不可能なほどアメリカ兵によって蹴られた」という虐待話である。その話自体はどうでもいいので割愛する。
この話が、いったいどこに書いてあったのかがポイントだ。
この時は西岡本を読んでなかったので、西岡のブログしか知らなかった為、「文献名も知らないのに読めるわけねーだろ」と私は噛み付いた。
すると、西岡、文献名を示した。後でわかったが、その文献名は西岡本に書いてあったそのままである(実際には一文字抜けてたが)。
ところが、どういうわけかなっかなか見つからない。でも、Googleさんは偉い! ちょっとくらい単語が違っても似たような候補を勝手に探してくれるのである。
それは、アメリカ合衆国の政府サイトだった(ちなみに彼らの著書の執筆時である1990年代には存在しなかった)。
そしてそれは確かにあった。しかし、資料名がかなり違う。西岡の言った文献名の「Report」は実は「Record」だった。しかもそれは、正しく記述したとしても、文献名そのものではないのである。
実は、西岡が書いた文献名は、その資料のいわゆるヘッダーに記載された文字だったのである。
どこの世界に、文献名ではなく、ヘッダーを記載するバカがいる?
なぜそうなったのかは、実はその資料、木村が西岡にそのコピーを渡したものであり、木村が国会図書館で簡単に見つかった!と自著で豪語していた資料だった。
つまり、木村は西岡にきちんとした文献名を伝えなかったのである。そして西岡は木村に確認もしていない。ヘッダーに書いてあったからそれをそのまま脚注文献名に書いたのだ。アホか……。
木村は西岡に「ここにあのネタが書いてある」しか言わなかったに違いない。
私は、西岡に怒った。違う文献名を書くとはどういうことだ? と。でも西岡は、木村が国会図書館にあると言ったから、とか言い張るのである。お前著者だろ? 文献名も知らないで自著に全然違う文献名を記載したのか? と文句言ってやったが、まだわかってないようなので、私は今度は国会図書館をネットを通じて探した。
ところが。
正しいと思われる文献名で検索しても、まるで見つからないのである。この辺の事情はちょっとややこしい。アメリカの政府サイトの文献名が正しいとは限らないからだ。その文献名はあくまでも、ネット上の資料を示している。
それで、文献名の単語の組み合わせを工夫したりして、延々と探し続けたが、今度はそうすると、ヒット件数が多くなりすぎたりして、どれがどれだかさっぱりわからない状態が続いた。
イライラしてきた私は西岡に「木村のやつ嘘ついてんじゃねーのか? 国会図書館に見つからないんだが」と言ってやったが、西岡の木村に対する信頼は揺るがない、絶対にあるはずだという。
そこまで言うならと、国会図書館に直接問い合わせていやったら……あった。しかし、外部からは絶対に検索できない文献名だったのである(国会図書館もどうかしてると思うけどw)。
見つかったので、正直言えば、ある程度は嬉しかったが(自力で苦労して見つけたから)、それだけ苦労させるとはどう言うことだ? お前が知ってなきゃおかしーだろ? と西岡に噛み付いたらやっと西岡は謝ったのである。
だが、疑問は終わっていない。その文献は、アメリカ議会記録というもので、議会での議論を記録するものである。アメリカ政府は1800年代から延々とずっと記録し続けている(大抵の国はそうしているが)。そして適当な日数分ごとに製本してまとめて保管している。
だから、膨大な量の議会記録が存在するのである。一冊あたり、私が見つけたその冊子だけでも一千ページはゆうに超える。それが数えきれない冊数が存在する。
もちろん、「137人の睾丸」事件のあった年代はある程度は絞れる(これ自体は別の本に載っている)。しかし、それでもどう考えても何千ページもの記録から探し出さねば絶対に見つからない。
と言うよりも、その情報が議会記録にあるとどうして知ったのだ? もちろん時期も含めて。
つまり、木村が自著で豪語したような「簡単に見つかった!」は絶対にあり得ないのだ。それは誰かから情報をもらったからとしか考えられないのである。多分、その情報が上院議会のある特定の日の議論にあるとだけ教えてもらったのだ。
そんなもん、英語さえわかれば誰でも簡単に見つけられるわ!バカタレ!
それは、細かくいうと第95巻のvol.1という108ページ分の塊の中にある、冒頭ページから20ページ分くらいのところにある情報だったのだ。
俺でもあっさり見つけたわ!バカが!情報を知っていたからだ。西岡の言ったヘッダーにある日付分だけを探したのである。
どうして、そこの情報を欧米のリビジョニストから教えてもらえたか(もちろん知り合いだからだが)、は簡単に理解し得る。欧米のリビジョニストの多くがお気に入りにしているネタであり、元ネタの記載が事実上そこにしかないからだ。
元々はある古い雑誌の記事なのだが、1949年当時、議会の中で、その記事のことが話題になり、議会記録に記録することになったからである。
当時の雑誌を入手するのはアメリカ人ですらかなり難しいそうだ。
が、有難いことにある程度の規模の図書館なら、議会記録は存在するので、アメリカ全州で簡単に確認可能なのである
日本でも、国会図書館にだけは存在する(その後調べたら、戦後占領政策をやったGHQが米国政府議会記録を日本の国会図書館に保管するようになり、この業務が停止されず延々と続いたそうだ。ただし、今はアメリカ政府のサイトで容易に閲覧可能なので、近年の議会記録については国会図書館に保管はされていないと思う)。
このことを知っていたら、情報だけで日本人も容易に見つけられる。
ところがまだ話は終わらない。
西岡とこの話を最初にしていた時、私が言いたかったのは、上院議会のことではなく、その事件に関する公聴会の報告記録の方だった。ところが、西岡は上院議会と公聴会の区別がついていないのだ。だから、西岡は自分が所有している木村からもらった上院議会記録のコピー用紙の中に公聴会の記録もあると、訳のわからないことを言うのである。
そんなもんある訳ない。だって、公聴会の報告記録は上院議会記録とは全く別のものである上に、議会記録は日本にも関係するから国会図書館に所蔵するとしても、細かい公聴会報告までいちいち国会に所蔵するわけがない。しかもその公聴会報告は「137人」事件を否定するものでああり、リビジョニストが知っているわけがない(知ってたら、リビジョニストに都合の悪い話だから、自著に絶対に137人事件は書けない)。これを何度言っても、西岡は理解しないのである。
こんな連中の書いた本の内容を、どうやって信じる? だから否定論は出鱈目なのだ。あった・なかったの問題のレベルではないのである。欧米のリビジョニストの論文も幾らか読んだけど、まじで酷すぎるよ。フォーリソンなんか読んでるこっちが頭がおかしくなりそう。ただし、基本的な文献名などの記載は、欧米の方はしっかりしてる。西岡・木村よりはその面では欧米の方が信頼できるけどな
うちなら、サイゼリヤに行ってパスタを食べるか、久兵衛屋に行ってうどんを食べるか。
そしてお近くのモーリーファンタジー(じゃなくてもいいけど思いついた例として)に行って時間を潰す。
どれも「埼玉じゃなくてもできる」ことだけど、むしろそれでいい。
なんで教えて教えてばかりで自分で調べようとしないんだ。
なんで自分で調べるかどうかって話になるの?
相手の発言の根拠を尋ねているだけで、その相手とコミュニケーション可能な状態にも関わらず、相手に質問せずに、書籍等にあたる必要性って何?
個人的には「他人に質問すること」も「自分で調べること」に含まれるしね。
興味があるならこのあたり読めばいいよ。おそらく近隣の図書館にあるだろう。
『万葉集の発明 新装版』 https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455381.html
『創造された古典』 https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784788506695
論文がいいなら、このあたり。
すごい!ありがとうございます!
義務教育の対象である理由を知るためには、当然に義務教育の目的を理解する必要があって、その理解を深めるには政治や歴史を知っておく必要がありますよね。
その役に立ちそうです!
数値データを期待してると思うけど、これらには確か数値データはない。どちらかといえば、なぜ「古典が必要とされたか」を言説研究から読み解こうとするものだ。
言説を「個人の感想」と見なすかもしれないが、そんなことを言われると質的データが取り扱えなくなる。データの捉え方をもっと広く持ったほうがいい。
もちろん数値データが必ず必要なわけではないし、数値データがあったところで、それをどう分析するかで結論も操作できることが多い。
ただし、数値データを必要としない場合ってのは、観測方法が成立されていないとか理由がある。
「古典を義務教育とする理由」の証明に、「数値データは必要ない」という主張でしょうか?
個人的には、全ての人が一次データにあたるだけのスキルを持つ必要はないと思うけど、「古典」のようなものを事後的に創る(当たり前だが、どんな作品でも生まれた直後は古典ではなく、必ず何かしらの共同体での価値づけを経て「古典」に祭り上げられる)仕組み自体があることを知っておくことは必要だと思う。相対化の視点も必要だからな。
なんで教えて教えてばかりで自分で調べようとしないんだ。
興味があるならこのあたり読めばいいよ。おそらく近隣の図書館にあるだろう。
『万葉集の発明 新装版』 https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455381.html
『創造された古典』 https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784788506695
論文がいいなら、このあたり。
「国語科教育史における「古典」概念の成立時期についての一考察--国民科国語における「古典トシテノ国文」からの遡及」
https://ci.nii.ac.jp/naid/120002220719
数値データを期待してると思うけど、これらには確か数値データはない。どちらかといえば、なぜ「古典が必要とされたか」を言説研究から読み解こうとするものだ。
言説を「個人の感想」と見なすかもしれないが、そんなことを言われると質的データが取り扱えなくなる。データの捉え方をもっと広く持ったほうがいい。
個人的には、全ての人が一次データにあたるだけのスキルを持つ必要はないと思うけど、「古典」のようなものを事後的に創る(当たり前だが、どんな作品でも生まれた直後は古典ではなく、必ず何かしらの共同体での価値づけを経て「古典」に祭り上げられる)仕組み自体があることを知っておくことは必要だと思う。相対化の視点も必要だからな。
いいぞ、いいぞ、いい発想だあ!
そうそうそうそうそう!!!あるよあるよ、田舎にもあるよお文化資本!!!あるある!!!!!!!!
森とか、ノイチゴとか、謎の沢とか、クソみたいな児童養護施設とか、毛虫がムチャクチャつく気っ色悪い木とか、崩壊した神社とか、そういうやつっ!!!!!
素晴らしいよねえ、ホントに
上野動物園とか、科学博物館とか、そういうのに全然匹敵するってことがもう、文字列見ただけでわかるでしょう!あなたは東京の人だっていうんだから、そのくらいはスパパーッ!と理解できるでしょうなあ!
素晴らしい、素晴らしい発想だホントに
だから絶対に、絶対にあなたの子供は田舎で育ててあげてほしい チョーゆたかな自然に育まれてチョーゆたかな人間になるに決まってるもん
裏山に生えてるトゲだらけの木に手が刺さる経験の方が、バカでかい図書館でいろいろ本読んだり、博物館に出かけたりするよりも文化的な成長に寄与することは確実だもんな!
わかってくれてうれしいよ
だから絶対に絶対に絶対にあなたの子供は田舎*だけ*で育ててくださいね
ないない、絶望的な空虚とか、人生を棒に振っている感覚とか、心の底に澱のように溜まっていく都市部への深い憎悪とか、そんなもんあるわけない
毎日家に引きこもって、東京のオシャレなお店紹介とか見てるだけでもうドンドン身体が文化資本に染まっていくもん
クズみたいなヤンキー紛いしかいない小学校に通って、昼休みにそいつらがサッカーやってるのに混じりかねて校旗・国旗・市旗を掲揚するための台に寝そべって太陽を眺めているんだ しばらく瞼を閉じて、ふと目を開けると、補色残像で世界が青っぽく染まるんだよな
メチャクチャいいエピソードでしょ 田舎にいても、科学に目覚めるきっかけはいくらでもあるんだあ!
あなたは都会で育ち、「どこにだって素晴らしい文化資本はあるんだ!」なんてうつくしいことを本気で言えるすばらしい人間になった
その素晴らしさをぜひ活かしてほしい
文化資本論って絶対ウソだと思うの。母親も祖母も図書館や美術館が大好きでよく出かけてるけど、すこぶる頭が悪いもん。文化資本論って本を読むのが偉いみたいな感覚の延長にある気がするけれど、娯楽として大衆小説を読んだり絵画を見たりしてるだけならテレビドラマ見てるのと変わらないと思うの。実際韓国ドラマも暇さえあれば見てるし。
都会の人が想像するような都合の良い自然って実は田舎にはあんまりないんじゃないかと思う
うちはすぐ近くに山があるけど傾斜が凄いし木がぎっしり生えてて駆け回ったり秘密基地を作れたりするような感じじゃなかった(エロ本は捨ててあった)
樹木の種類は分からないけどヒノキ?樹液が染み出してカブトムシが来るタイプじゃなかった
子どもの目から見ても落石の危険がありそうだし見通しが悪いからイノシシやクマが接近してもギリギリまで気づかないんだろうなって恐怖もあった
山の反対側、家の近辺は本当に民家しかない
民家民家民家、その民家ゾーンを抜けたら田んぼや工場や学校がある区域に入って、そこを抜けたらまた民家ゾーンに入ってずーっと行くと市役所や図書館がある
親に車を出してもらわないと家以外どこにもいられなかったし車を出してもらえたところで行けるのはイオンの中の小さなゲームコーナーくらい
博物館だって常設展示のダイオウイカのホルマリン漬けくらいしか見るものがなかった
通う学校の選択肢が少ないから山猿のような子とまっとうな人間の子が一緒に押し込められて過ごさなければならなくなる
何でもインターネットで手に入ると言っても都会で行われているライブに参加する体験や大都市にしか展開されていないチェーン店でのコラボ商品は手に入らない
映画だって上映される作品は少ないしスクリーンは都会の人が見たら家のテレビで見るのと同じじゃんって思うくらい小さいと思う
そう言えばよくネットでは、例えば一人飯を恥ずかしがる人に対して
「お前のことなんて誰も見てない」「自意識過剰だ」と言われるがそれは都会でしか通用しない言い分だ
また知り合いでなくとも人のことをじろじろ見てその様相を脳みその皺に刻み込むのを生きがいにしている人は多い
それに迎合しないと「記憶力が悪く注意力が散漫な無能」のレッテルを貼られることさえある
都会の人がいくら「そんなことはない!」と叫ぼうと残念ながら田舎ではその常識は通用しないしそれが現実なのである
増田がどの程度の田舎に住むのか分からないけど少なくともうちはこんな感じです
参考までに
このまま東京で生きていくつもりだった。
が、地方転勤になってしまった。幸いにも転勤先は妻の実家のある県だ。資格職でキャリアの心配が少ない妻は、地元に戻れると喜んでいた。
しかし、全国的に見ても田舎とされる県であり東京を出たことがない自分には未知の世界である。
正直まだ受け止めきれていないし、心配も多い。特に運転が苦手でペーパードライバーの自分は車社会に戦々恐々である。職場や地域の文化にも馴染めるかも不安だ。だが、せっかく得たチャンスと捉え前向きに頑張ろうと思う。
問題は子どもである。上の子は4月から小学校、下の子は4つだ。入学する小学校は近所の公立に決まり、保育園も第一志望にすんなり通せた。どちらも地元では雰囲気が良く面倒見が良いと評判のところらしい。
妻は、幼稚園から大学まで国公立。塾なども通わず学校の勉強だけで進学してきた人だ。だから、「大丈夫大丈夫」と言う。しかし、小学校から塾に通って中学受験し、予備校の支えで大学に入った自分は田舎で十分な教育が与えられるかとても不安だ。子どもにはできる限りの選択肢を与えたい。そのためには偏差値や学歴も気にしなくてはいけないと思う。
さらに、さまざまなところで言われている文化資本の格差も心配だ。自分は幼少期から図書館や博物館、歴史的な所縁のある地、動物園など様々なところへ親に連れて行ってもらい、それらに当然のように囲まれて育った。将来の夢を決めたきっかけも、そうした施設のイベントがきっかけだった。
気が早い心配かもしれないが、将来広い世界に出た子どもたちに「田舎で育てられた自分は文化資本が与えられなかった」と落ち込んでほしくない。だから、地方でもできる限りの文化資本にアクセスできるように親として努力したいと思う。
ただ「文化資本」と言うものにも少し疑問がある。都会には文化資本が豊富で、田舎には少ないーーが定説として語られている。けれどそれは、都会の社会階層の高いとされる人々が都会の価値観で都会にあるものこそ資本だと決めつけているのではないかと言う疑問だ。例えば、地方には都会にはない自然があるし、子どもの遊び場も豊富だ。苛烈な受験競争もないため、のびのびと学び・遊ぶ時間もある。一次産業が身近に存在し、(妻に聞くところによると)農業体験などの体験学習にも力を入れている学校も多いようだ。農家のような自然と関わって生きる仕事に就く人にとっては、そのような地方での経験は、「高い文化資本」になるのではないかと思う。それに、素晴らしい業績を残した科学者も、「自然の中で遊んだ経験が自分の糧となった」とよく話している。創造性が必要とされる現代においては、人と違う多様な経験を持つことはアドバンテージになるのではないかと思う。地方には地方の文化資本があるのではないか、それは都会でも「地元から得た独自の文化資本」として役に立つのではないかと思うのだ。
もちろん、都会の文化資本も子どもに与えたい。今はなんにでもインターネットでアクセスしやすい時代だ。コロナの影響で人の移動は難しくなりそうだが、地方で家賃などが浮く分家族旅行にあて、ホンモノを見せに行くこともできる。そうした工夫でできる限りの文化資本を与えたい。また、折角地方で育つのだから、地方でしか得られないような経験もさせてやりたい。地方で育ったことをむしろ誇れるような、そういう育て方をできたらと思う。
地元育ちの妻や義両親、親戚などにも聞きながら育てていくつもりだ(仕事も今より暇になりそうだからたっぷり子どもに関われる)。
はてなは度々文化資本が話題になるし、そういったことに詳しそうだ。地方で子育てしている人や、地方で育った人はどのようにして文化資本にアクセスしてきたか教えてほしい。
で、子供に「遊郭ってなに?」って聞かれたら結局どう答えればいいの?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210218230048
id:zeromoon0 「わからないことは自分で調べなさい。出来れば図書館で本を借りて読みなさい」と言う。
これに星つけたくなるの分かるんだけど、これを単体で、子どもに対して使う人いるなら保護者として微妙だなー
と思ったので書き散らす
ただ単体の「自分で調べろ」って「私は応えない」って意味なのよね
別にわからないなら分からないでいいし、詳しくないなら「私は詳しく無いけど、こういうものだと認識してる」 と前置きしたうえで「自分で調べろ」 って伝えるべきだよ
こう言う話題を親がシャットアウトしてたら、性教育なんて無理そう
子どもの文献調査にも拠るから調べたうえで変な本を参考にされても困るし、元増田の「子育て」って言う文脈理解してない
遊郭が何か、子どもに伝えられるように自分で文献調べるのはいいと思う
ただカッコの使いかたを見るに残念ながら違いそうだけど
自分も家庭で性について教えてもらったってわけじゃ無い
でも今じゃ2才、4才の子どもがいて「おうち性教育」を少しずつはじめてる
性を語るべきで無いものにはしたく無いなー
子ども達に、未来にいい文化を残したいから、自分たちの姿勢を変えてか無いと、歳とった時には森さんみたいな扱いになりそうだわ
なぜなら俺は最寄りの公立図書館が自転車ですら行くのが困難な距離にしかなかったからだ
俺からしたら日常的に図書館に足運べる時点で立派な社会的強者だ
自覚しとけ
バーカ
結婚と同時に二人で地方に引っ越した。嫁はそれまでの仕事を辞めてからしばらく仕事を探していたが、偶然に司書の仕事を貰えた。なり手が少ないが給与も少ない。まして田舎の小さな図書館なので人だってそんなにこない。端から見ればバイトのお姉さん程度にしか思われていないだろう。
ただ、図書館に関する増田を読んで、本という媒介の価値とそれを守る司書の役割が実際にはとても大きいって気づいた。図書館は無料で本を読めるだけの場ではない。司書は単なる貸し出し係じゃない。たとえ時代に応じて認識に変化があっても、役割がなくなることはあってはいけないんだなって思う。
KADOKAWAのサクラタウンが来てからというもの、観光客が東所沢駅周辺に増えた。
東所沢は西武線のお膝元にも関わらずギャンブル列車JR武蔵野線が通っており、車両基地があるせいか終点にもなる癖に、ビジホどころかマクドナルドさえない。
ヤオコー内に入っていたモスが移転してやっと駅前に一休みできる店ができたくらいだ。
KADOKAWAが来てから東所沢はどうも騒々しい。かといって浮足立つ程の楽しさもない。住人の年齢層は高くはないがオタクが少ないからだ。
光るキャラクターマンホールも最初はみんなスマホで撮ったりしていたが、慣れた今はどうでもいい。
サクラタウンは千人階段とミュージアムがメインなので子供を遊ばせにくい。本屋の絵本コーナーもあまり充実しておらず、グッズが多いので子供は鬼滅買って炭次郎買ってと騒ぐので難しい。有料のマンガ図書館の児童図書コーナーはいつもがら空きだ。オープンした直後の寄せ書きにはママ世代らしき字で子供が遊びやすくなるようにとの要望が複数あった。
隣の東所沢公園にも人が増えた。ほとんどは地元の住人のようだが以前よりも父母祖父母の大所帯で来ている人が多いようだ。
銀のエイリアンの繭玉のような物が数十個鎮座してカランコロン異音を出しているが、有料の時に入っている人をついぞ見た事がない。あそこは元は急斜面にコンクリ道が這う謎のゾーンで、あまり遊んでいる子供もいないので自分のような陰キャがこっそり秘密基地を作るのに向いていた。
バレンタイン当日の今日、昨夜の地震を受けてヤオコーの百均に懐中電灯を買い足しに行った。気まぐれで東所沢公園の中を通ると、カップルが何組もいた。
噴水が撤去された中央からヤオコー方面に抜けたが、勝手に駐車していく人が多いからかヤオコーの駐車場を通り抜けられないようネットが張られていた。このネットは自分とサクラタウンの間に張られているような気がした。ネットの張られた駐車場をぐるりと回り込んで歩いた時、少し足首をひねった。
百均の緊急用ホイッスルは売り切れていた。お目当ての光量が強い懐中電灯を買ってポケットに入れた。ヤオコーのバレンタインコーナーは値引きされながら半分程撤去され、そこに防災グッズコーナーができていた。
帰り道、東所沢駅に向かうのであろうカップルとすれ違いながらポケットの中の懐中電灯を触った。自分は地震に怯えながら今夜この懐中電灯をベッドサイドに置いて寝るだろう。今日すれ違ったあの何組ものカップルたちがどう眠りにつくのかはわからない。
図書館は法律がそうだからというのは理解している。
はい、非常に真っ当な疑問ですね。図書館法というのはいかにも特別法特別法していますし、
そんな特別法をあえて作った理念はなんぞや?という疑念を持つのは論理的思考の当然の帰結です。
こういう時は当の法律を見ましょう。
図書館法
図書館法第1条 (この法律の目的)
この法律は、社会教育法(昭和24年法律第207号)の精神に基き、図書館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もつて国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする。
社会教育法第一条 (この法律の目的)
この法律は、教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の精神に則り、社会教育に関する国及び地方公共団体の任務を明らかにすることを目的とする。
はい、また飛ばされました。特別法の濃い匂いが漂っていたのは伊達じゃないですね。
教育基本法 前文
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法 の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
はい、「前文」ですよ、前文。さすが基本法、憲法級の重厚さです。
読みましたか? 前文だけに、その内容も高邁な理想と理念を謳う大上段な代物です。
さて以上からわかるのは
・「図書館法」(昭和25年制定)というのは、教育基本法、社会教育法を受け、その目的を直接に受け継いで補完するために制定された。
・その目的というのは「民主的で文化的な国家を更に発展させ、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献する」という「新憲法の精神」そのもので、
・新憲法の精神実現のためには、「我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図る」のが重要という認識がなされています。
・具体的には、憲法公布(S21)→教育基本法(S22)→社会教育法(S24)→図書館法(S25)、というダイレクトな流れがあり、GHQと国会は新憲法制定後、大急ぎで、この教育関連法セットを整備してるわけです。
当時の情勢的には、とりあえず占領して、「自由な民主主義国家」を作ってみたものの、GHQにしてみればこの間まで「天皇陛下万歳!」とやってたファシズム国家の人民がいきなりこれを使いこなせるのか甚だ不安だったわけです。ならば対策は教育、それも学齢のみならず社会人も含めた全国民の教育が必要、という危機感があって、教育基本法の大上段な前文と大急ぎの教育関連立法の背景になっているんですね。
(そんな事情なので、「大急ぎ」と書きましたが、実際にはGHQは基本法から図書館法の整備まで3年かかっていることすら苛立って督促かけまくってます)
この「【日本国民再教育計画】になんで図書館まで含まれるのか?」というと、そこは(欧米的な)「議会制民主主義のイデオロギー」の部分になります。
・「議会制民主主義」は健全で良識ある市民がいてこそ成り立つ。
・健全で良識ある市民が育つには自由な言論と知識へのアクセスが必要
これが欧米的ポリアーキー(おおざっぱには「自由を重んじ議会を中心に据えた民主主義体制」と思ってください)を支えるイデオロギーの柱の一つなのです。
大日本帝国は法的な主権者こそ天皇でしたが決して絶対君主ではなく(機務六条)、普通選挙による衆議院を持ち、三権分立を整備し、(憲法上の規定外ですが)議会が首相任命に影響力を持っている、という結構民主的な制度を持つ国家でした。それがガチガチのファシズム国家として(ワイマールドイツはもっと民主的だったわけですが)連合国に挑んできたわけですから、連合国としては戦後日本の「ファシズム再発防止」にはかなり細部まで気を使いました。その重点施策の一つが「全国民再教育」で、とはいえ全国民対象の「再教育キャンプ」を作るのは手間も費用も膨大。ということで社会人教育向けとして白羽の矢が立ったのが広報宣伝やマスコミ統制と並んで図書館だった、というわけです。そりゃ気合も入りますし特別扱いもするってもんです。
大日本帝国にも無論図書館はありましたし、「図書館令」という法令(勅令でした)もありました。ところが、この図書館令は「この令を守れば作っても宜しい」という認可のための法整備で、
など、欧米的な「健全で良識ある市民の拠り所たる図書館像」とはかなり方向が異なるものでした。
この違いが「健全で良識ある市民の育成に失敗した」(欧米的観点では、そうでなければ民主的な国家がファシズム化したり革命が起きたりするはずがないのです)原因の一つに見えたため、この認識に基づいて、
・市民の知識へのアクセシビリティの確保(無料で全国津々浦々に)
・改正図書館令のような「図書館が思想統制の末端機関となる事態」を防げる図書館の独立性
「自由な知識の集積、その集積への市民の自由なアクセスなくして民主主義なし」というのは、自由な議会制民主主義の根幹をなすイデオロギーで、だからこそGHQは全力で推進したわけです。
あくままでイデオロギーですから、「功利の観点で利が多い」という判断から図書館を特別扱いしているわけではありません。「民主主義が成り立たない」という「(エビデンスがあるとは言い切れないにも関わらず)重要過ぎて試すことすらできない根幹の部分」を盾にとっているからこそ特別扱いOK、というか「特別扱いしなければならない」という理念なのです。
そういう背景ですから、例えば体育館を図書館と同じような強力な法的地位を与えるよう運動する際には、「図書館が特別に位置付けられている理由」は全く参考になりません。図書館のケースと全く別の論理、例えば「功利のエビデンスを示して財政難でも優先すべき、と多数の賛成を得られるよう説得」なんかを行う必要がありますので、なかなか実現は難しいのではないでしょうか。
もし図書館同様の理由で体育館が特別で強力な法的地位を得ようとするなら、まずは「健全な精神は健全な肉体にしか宿らない」とかの、現在の民主主義と異なるイデオロギーを持った国家体制に作り替えるところから始める必要があります。