はてなキーワード: ポリアーキーとは
図書館は法律がそうだからというのは理解している。
はい、非常に真っ当な疑問ですね。図書館法というのはいかにも特別法特別法していますし、
そんな特別法をあえて作った理念はなんぞや?という疑念を持つのは論理的思考の当然の帰結です。
こういう時は当の法律を見ましょう。
図書館法
図書館法第1条 (この法律の目的)
この法律は、社会教育法(昭和24年法律第207号)の精神に基き、図書館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もつて国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする。
社会教育法第一条 (この法律の目的)
この法律は、教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の精神に則り、社会教育に関する国及び地方公共団体の任務を明らかにすることを目的とする。
はい、また飛ばされました。特別法の濃い匂いが漂っていたのは伊達じゃないですね。
教育基本法 前文
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法 の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
はい、「前文」ですよ、前文。さすが基本法、憲法級の重厚さです。
読みましたか? 前文だけに、その内容も高邁な理想と理念を謳う大上段な代物です。
さて以上からわかるのは
・「図書館法」(昭和25年制定)というのは、教育基本法、社会教育法を受け、その目的を直接に受け継いで補完するために制定された。
・その目的というのは「民主的で文化的な国家を更に発展させ、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献する」という「新憲法の精神」そのもので、
・新憲法の精神実現のためには、「我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図る」のが重要という認識がなされています。
・具体的には、憲法公布(S21)→教育基本法(S22)→社会教育法(S24)→図書館法(S25)、というダイレクトな流れがあり、GHQと国会は新憲法制定後、大急ぎで、この教育関連法セットを整備してるわけです。
当時の情勢的には、とりあえず占領して、「自由な民主主義国家」を作ってみたものの、GHQにしてみればこの間まで「天皇陛下万歳!」とやってたファシズム国家の人民がいきなりこれを使いこなせるのか甚だ不安だったわけです。ならば対策は教育、それも学齢のみならず社会人も含めた全国民の教育が必要、という危機感があって、教育基本法の大上段な前文と大急ぎの教育関連立法の背景になっているんですね。
(そんな事情なので、「大急ぎ」と書きましたが、実際にはGHQは基本法から図書館法の整備まで3年かかっていることすら苛立って督促かけまくってます)
この「【日本国民再教育計画】になんで図書館まで含まれるのか?」というと、そこは(欧米的な)「議会制民主主義のイデオロギー」の部分になります。
・「議会制民主主義」は健全で良識ある市民がいてこそ成り立つ。
・健全で良識ある市民が育つには自由な言論と知識へのアクセスが必要
これが欧米的ポリアーキー(おおざっぱには「自由を重んじ議会を中心に据えた民主主義体制」と思ってください)を支えるイデオロギーの柱の一つなのです。
大日本帝国は法的な主権者こそ天皇でしたが決して絶対君主ではなく(機務六条)、普通選挙による衆議院を持ち、三権分立を整備し、(憲法上の規定外ですが)議会が首相任命に影響力を持っている、という結構民主的な制度を持つ国家でした。それがガチガチのファシズム国家として(ワイマールドイツはもっと民主的だったわけですが)連合国に挑んできたわけですから、連合国としては戦後日本の「ファシズム再発防止」にはかなり細部まで気を使いました。その重点施策の一つが「全国民再教育」で、とはいえ全国民対象の「再教育キャンプ」を作るのは手間も費用も膨大。ということで社会人教育向けとして白羽の矢が立ったのが広報宣伝やマスコミ統制と並んで図書館だった、というわけです。そりゃ気合も入りますし特別扱いもするってもんです。
大日本帝国にも無論図書館はありましたし、「図書館令」という法令(勅令でした)もありました。ところが、この図書館令は「この令を守れば作っても宜しい」という認可のための法整備で、
など、欧米的な「健全で良識ある市民の拠り所たる図書館像」とはかなり方向が異なるものでした。
この違いが「健全で良識ある市民の育成に失敗した」(欧米的観点では、そうでなければ民主的な国家がファシズム化したり革命が起きたりするはずがないのです)原因の一つに見えたため、この認識に基づいて、
・市民の知識へのアクセシビリティの確保(無料で全国津々浦々に)
・改正図書館令のような「図書館が思想統制の末端機関となる事態」を防げる図書館の独立性
「自由な知識の集積、その集積への市民の自由なアクセスなくして民主主義なし」というのは、自由な議会制民主主義の根幹をなすイデオロギーで、だからこそGHQは全力で推進したわけです。
あくままでイデオロギーですから、「功利の観点で利が多い」という判断から図書館を特別扱いしているわけではありません。「民主主義が成り立たない」という「(エビデンスがあるとは言い切れないにも関わらず)重要過ぎて試すことすらできない根幹の部分」を盾にとっているからこそ特別扱いOK、というか「特別扱いしなければならない」という理念なのです。
そういう背景ですから、例えば体育館を図書館と同じような強力な法的地位を与えるよう運動する際には、「図書館が特別に位置付けられている理由」は全く参考になりません。図書館のケースと全く別の論理、例えば「功利のエビデンスを示して財政難でも優先すべき、と多数の賛成を得られるよう説得」なんかを行う必要がありますので、なかなか実現は難しいのではないでしょうか。
もし図書館同様の理由で体育館が特別で強力な法的地位を得ようとするなら、まずは「健全な精神は健全な肉体にしか宿らない」とかの、現在の民主主義と異なるイデオロギーを持った国家体制に作り替えるところから始める必要があります。