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2023-06-07

セルフケア

セルフケアを頑張りましょう!みたいなことを主治医に言われた。(精神科

頑張って、セルフケアしてる。

過食やめたいし、お金使いすぎるのもやめたい。

から、少しでも安全な、セルフケアで頑張ってる。

たとえば、くるしいときは、体を手でさすってみたり、マインドフルネスをしてる。

マインドフルネスは非常にいい。

最初は逆に苦しくなってたけど、おちついてくる。

自分にとってはだけど。

最近おすすめセルフケア方法といったら、ランプを暗い部屋でつけて、読書すること。

すっごく心が落ち着く。

セルフケア、、難しいけれど、上手にできるようになって、もっと安心したい。

いまは、不安の海に飲まれすぎて、苦しくてたまらない。

から、がんばりすぎない範囲でだけど、セルフケアやってみる。

2023-06-06

片付けができない。

片付け出来なさすぎて、振られたこともある。

持っているASDのせいかな?と思ったけれども、お医者さんに聞いてみたところ、どうやら別に持っている、「愛着障害」が原因らしい。

今は、スキーマ療法?(名前、間違ってたらすみません)みたいなので、頑張って治療している。

愛着障害らしいけど、親も当時大変だっただろうし、親を責める気持ちはないけれども。

自分の親は、THE毒親!って感じではなく。

酷い毒親でもなく。

ほんとに、毒親?って感じだから、尚更治療方針が合っているのかよくわからなくなる。

でも、すごく今寂しいのは事実だし、苦しいし、幼少期も寂しかたから、主治医たちが言ってることは当たってるのかなあ?

子どもの頃、友達愛着障害を持ってたらしいけど、自分より大変そうだったから、なおさらよくわからない。

自分が本当にこの病名であっているのか。。

ただの日記みたいですみません

2023-05-27

卵巣を片方摘出したので入院生活について書いておく

自分ブログも持っているけれど知人にあれこれ言われたくないので匿名にて失礼します。

健康な人へ

心当たりが一切なくても健康診断は毎年受けるべきだし、付けられるオプションはなるべく全部付けるべき。時間とかお金とか恥ずかしさとか痛みとか、いろいろハードルはあるんだが、健康には代えられない。あ、今はとても元気です。大丈夫

他の人の体験記を参考に入院準備を進めたので、これも後続の助けになれば幸いです。後続なんていないのが一番なんだけどね。

身バレを防ぐために若干ぼかしたり時期をズラしたりしています

概要

・開腹して左の卵巣と卵管を摘出した

2023年4月入院

入院期間は7日間(月曜入院→日曜退院)。手術は入院2日目(火曜日)の午前中

パジャマタオルレンタルサービスを使ったので持って行かなかった

■ 大まかな流れ

月曜日入院。昼食と夕食は普通に食べる。シャワーも浴びる。夕食後は食事禁止

火曜日:朝6時以降は水も禁止。午前中に手術を受ける。気付いたら終わってたしベッドから起き上がることも禁止されていた。微熱があったため隔離されてPCR検査を受ける。正直傷口よりPCRの綿棒の方が数倍痛い。あいつは一体なんなんだ。

水曜日:朝、上半身を起こしてみる。立ってないけど立ちくらみみたいな状態時間と共に和らぐ。昼から食事再開(重湯)。コロナでもインフルでもないと分かったので昼過ぎには隔離が解除され、自分で歩いて病室へ戻った。その後尿カテーテルを抜いてもらい、蒸しタオル身体を拭いてパジャマに着替える。

木曜日メモによると1日中ハイラルに籠もっていた(ブレワイをプレイしていた)らしい。痛み止めが背中カテーテルから飲み薬(ロキソニン)に切り替わる。

金曜日:この日の朝食から普通メニューに戻る。午前中の回診で諸々の管やテープを取ってもらい、シャワーが解禁される。

土曜日:またハイラルにいる。こいつハイラル居座りすぎではないか? 傷口(というより上に貼られたテープ)がかゆくて看護師に訴えるが「カサブタなので我慢するしかない」と言われて絶望する。それでも諦めず主治医先生に訴えたらかゆみ止めの塗り薬を処方してもらえた。効き目が薄くてさら絶望した。かゆみとの戦いは退院後も1週間ほど続いた。

日曜日退院

看護師さんから主治医先生からも「珍しいくらい順調に回復している」と言われたので、普通はもう少しゆっくり良くなっていくのかもしれない。

■ 持って行ってよかった

・延長コード(3口3m)

今回のMVPSwitchスマホの命をつないでくれた。ベッドの頭の方の壁にコンセントはあったものの、スマホの充電ケーブルが短くてギリギリ枕元までしか届かない。ベッドを起こしたらもう無理。延長コードがなかったら電源の取り回しに苦労したと思う。退院したら自宅の古いものと交換するつもりで買ったので、入院生活だけを考えるなら1.5~2mで大丈夫そう。

・小さめの紙袋

ベッドサイドに置いて細々したものをまとめる用。高さ15cm×横15cm×奥行き5cmくらい。化粧品買うともらえるような、しっかりした作りのものおすすめ。折り畳めるから退院時にじゃまにならない。ある程度高さがあるとペンを挟んでおけるので便利。

クリアファイル

入院した後も書類は増える。一度目を通せばいいもの(処方薬や麻酔説明書きなど)と、繰り返し取り出す必要があるもの(食事飲水量の記録表など)を分けるために最低でも2つほしい。

メモ

気になるから後で看護師さん来た時に聞いてみよう→忘れる、のループから脱却したい時に使う。気になることは際限なく増えるから覚えておくのは無理。別にスマホでも構わないがフリーハンドで好きに書ける紙の方が便利だった。

バナナクリップ

髪が長い人向け。手術後しばらくはお風呂に入れず髪も洗えないため、次第にベタベタテカテカして気になってくる。そういう時にさっと留めてとりあえず遠ざけておくと気持ちが楽になる。ヘアゴムでもいいんだけど、バナナクリップの方が圧倒的に手軽。

メッシュ生地の巾着

石鹸シャンプー歯ブラシなど濡れたものを雑に突っ込んで、サイドチェストの手すりにくくりつけて干した。ベッドサイドが広く使えるしすぐ乾くし、地味に便利だった。メッシュ生地に限らず巾着は「くくりつける」という選択肢が生まれからポーチよりおすすめできる。

ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド

説明不要。これを書いている今もまだプレイしている。ティアキンに移るタイミングを見失っている。手術直後はただ草原を走り回って採集活動に勤しめばいいし、回復してきたら弱そうな敵や簡単そうな祠に向かえばいいし、病状に合わせてプレイスタイルを変えられるのも良かった。

■ あればよかったなぁと思う

・充電ケーブルの先を保持できる仕組み

延長コードを使うと発生するデメリット。ちょくちょく充電ケーブルの先が床に落ちるし行方不明になりやすい。クリップ的なもので留めておきたかった。

ごはんのおとも(ふりかけ等)

入院して初めて、自分は白米が単体で食べられないらしいと知った。おかずも山程あるんだけどそれ以上に白米が多くて苦労した。残すのも忍びないから毎食フードファイト状態ふりかけでもごま塩でも、とにかく白米に味がつけられるアイテムがほしかった。

マスク置き場

感染症予防の観点から、ベッドにいる時もなるべくマスクをつけておくよう求められていた。そうは言っても寝る時はさすがに外したいし、食事時はもちろん外す。そういう時にちょっと置いておける場所がほしかった。

スマホストラップ

出歩く時、スマホパジャマポケットに入れていたが、ふとした拍子に落ちるんじゃないか不安になった。背中の痛み止めが繋がっている時は痛み止めを入れる巾着(紐が長く斜めがけにできるもの)にスマホも押し込んでいた。看護師さんにはちょっと笑われた。でもあのスタイル超便利だったな……ロッカーの鍵も入れてたし……。痛み止め取れた後も巾着は残してほしかった。

■ あればさらに快適に過ごせたかもしれない

クリップボード

入院中は毎日ごはんをどのくらい食べたか」「水はどのくらい飲んだか」「お手洗いに何度行ったか」を記録する必要があった。用紙はクリアファイルに入れておいたんだけど、書く度に出してしまってを繰り返すのはちょっと面倒だった。

ドライシャンプー

シャワー解禁があと半日遅れていたら、なんとしてでも髪を洗おうとしたと思う。髪、想像以上にベタつくし重くなる。

■ なくても別に困らなかった

上着(パーカー類)・靴下

春だったので特に寒いと思わなかった。

ハンガー

備え付けのハンガーで十分事足りた。

・S字フック・洗濯バサ

巾着のところで書いた通り、洗ったものは巾着に入れてくくりつけて干したので「何かを引っ掛けたい」と思う場面がなかった。

ウェットティッシュ・汗拭きシート

病室には手洗い場が備え付けられていたし、看護師さんが毎日蒸しタオルを持ってきてくれたので使う機会がほとんど訪れなかった。

ペットボトルに取り付けるストロー

起き上がらずに水を飲めるから便利という体験記を読んで買っていったが開封もしなかった。起き上がれない時は水も禁止されてたし、飲めるようになる頃には問題なく起き上がれた。これが一番の想定外かなぁ。

スーツケース用の鍵

事前の説明では「鍵をかけられる小さな引き出しがある」としか言われなかったので、引き出しに入り切らないが盗まれたら困るもの管理する目的で持っていった。しかし引き出しは十分に大きかった(Switchをケースに入れた状態しまっておけた)し、引き出しの他にも高さ1m×横20cm×奥行き50cmほどの鍵付きの棚があったため使う必要がなかった。

こんな感じです。参考になるといいなぁ。ともかくみんな健診には行こうね。

anond:20230527085549

医療保護入院にするように夫と義実家に掛け合うしかないんじゃ

義実家福祉サポート状況と主治医精神保護指定医なのか確認

警察事件が起きてからじゃないと動けないし

2023-05-23

anond:20230523155134

これ、増田発達障害はそんなに関係なくて、おそらく親も発達障害でそれが根本原因だと思った。

親も発達障害で〜と思う根拠ひとつ遺伝やすいか子供が2人とも発達障害であれば可能性高いよねということ。あとは、「理想の家庭を作るためには、こうでなければならない」って言う思い込みやこだわりの異常さ。

発達障害距離感がわかんないか自分の言うことを聞く弱い立場人間がいると調子に乗る。

人の感情距離感を掴むのが苦手であっても、家族内の強い立場であれば自分の思った通りの距離感で許される。それによって相手がどう思うかを気にしなくていい。子供が親から逃げるのは容易ではないから。

しかも、全員発達障害だと、ちょっと変なのが当たり前で気付けないって言うね!

なんでこんなことを言うかと言えば、私も似たような家で兄弟全員大人になってから発達障害ってわかったからだよ!主治医に話聞く限り両親も発達障害だねーって言われたわ…。

増田はよくがんばったよ。

子持ちの増田たちよ、子供にもプライバシーがあって適切な距離感で接する必要があるって覚えておこうな。

2023-05-16

非モテ女性恋愛失敗日記 その2

渾身のデートの誘いをさらりと流され早数日、今日今日とて飲酒しながら日記を書き連ねる。

近ごろ忙しいのと、散々っぱら書いているように恋の失敗があり、悪天候も重なり、とにかく精神状態が悪い。しばらく使わずに済んでいた頓服夕方ごろ飲んだ。胸の中に雨雲のようなものがある。重たくて苦しい。ああ、しばらく人生上手くいってたのにな。

月一で心療内科に通っているが、最近は特段医師相談したいようなこともなく、先々月から減薬が出来ていた。主治医との相性はすこぶる良い。

先生は私の様子を真摯に聞き、しっかりと同意を取ったうえで処方をコントロールしてくれる。

精神医学が未発達な時代に生まれていたら、私はいまごろ座敷牢鉄格子を掴んでいただろうから、つねづね現代医学には感謝している所だ。

だがこの調子では、減薬の努力も虚しく、ふたたび処方を増やしていただくほかないだろう。

少し上手くいっていた(ように思い込んでいた)男性に軽くあしらわれた位で、ハルマゲドン前夜のような絶望ぶり、我ながら滑稽である

しかし誓って言うが私は今回の件に限って悲しんでいるのではない。

しろ今回の件は、大きな大きなコンプレックスが噴出してくる小さな切っ掛けにすぎなかったと思う。

私は幸福ながら、今まで自らのコンプレックスというものに気付いて来なかった、というより見て見ぬふりをしてきたのけれど、よく考えてみれば、私はとても長い間、男性に愛されない=容姿性格に魅力がない ことに深い悲しみを覚えていた。

驕りかもしれないが、勉強仕事も人付き合いも、並み以上には出来る、という自負がある。周囲の人や環境に恵まれた部分が大きいものの、やはり自分自身努力はしてきたつもりだ。その点に関して私は概ね満足するし、卑屈にならない。

だが容姿性的魅力に関しては全く異なる。

天地がひっくりかえっても、人様に認めてもらえるとは思われない。お洒落は嫌いではないし、日ごろメイクも髪も整えるが、どれほど着飾ったとして男の人のお眼鏡には適うはずがない。

思い返してみると、中学校のころには、無意識の中にこのような考えがあった。

何故これほどまでに自己評価いびつになってしまったのかは分からない。きっと原因があるのだが、今はそこまで思い至らない。

異性に対してあまりに卑屈がゆえに、好きな人から袖にされて、悲しいより先に、「ああ、やっぱり」と妙に腑に落ちた感じがしてしまった。

それが、堪らないほど辛く、虚しい。

私を選んでよと駄々を捏ねてみたかった。もう少し早く出会っていればと悔やめる女性でいたかった。

いずれにせよ手に入らないと諦めているから、そんな感情も湧いてこない。ただ、泥のような自己嫌悪の中に寝転がっている。

こんな思いはいつまで続くのだろうか。

考えると、必要以上に憂鬱になる。



以前の日記コメントをくださった方々、ありがとうございました。失礼な表現かもしれませんが、まさに心のこもった叱咤激励、と思いました。お言葉しかと受け止めます

恐らく個別の返信は望んでおられないと思い、文末にてお礼を述べさせていただきます

2023-05-07

発達障害治療を始めて2年で人生変わった

ゲームニコ生にハマりすぎて高校中退

高認を取って大学に行くが、またもや中退

ハロワに通い、なんとか就職するが「朝起きれない」「上司の指示が伝わらない」「(早く帰ってゲームしたいので)1分たりとも残業したくなくて勝手に帰って怒られる」等により職場で浮き、短期離職を繰り返す。

上記の流れがあり、その後単純作業バイトに落ち着いた。

発達障害自覚があったので、心療内科を予約し、ストラテラを飲み始めた。これが2年前。

若干の副作用もあったが、主治医相談して色々薬を組み合わせながら、服薬を継続した。

食欲が減退して体重は10kg減ったし、吐き気もあるし、日中勃起しなくなった。

服薬のメリット簡単に言うと「やろうと思ったことがやれる」これに尽きる。

トイレ汚れてるな…)→todoに即登録今日中に必ずやれる。

生活リズムちゃんとしたいな…)→寝る時間を決めてiphoneに即登録→何がなんでも絶対寝る

運動を習慣にしたいな…)→以下略

(そろそろ正社員ちゃんとした給料がもらえる仕事がしたいな…)→以下略

(せっかくいい会社に雇ってもらえたし、今年は◯◯の勉強をしたいな…)→以下略

(そろそろ結婚したいな…)→以下略

といった感じで、現実的に実行可能ことなら、めんどくさくても実行できるようになった。

それによって、2年間で人生が180度変わった。

収入的にも、自身能力的にも。

死ぬまで飲み続けるのは肝臓負担が怖いので、肝臓の数値を内科で定期的にモニタリングしている。

また、最近は「ストラテラを減らしていくにはどうしたらいいか?」という方向で主治医指導のもと戦略を実行している。

人生のレールを外して困っているなら、ストラテラひとつ選択肢として考えてみてください。

自立支援医療制度を使えば1割負担治療できます

通うのは面倒だけど、人生単位で考えたらものすごい得だと思います

2023-05-05

anond:20230502234520

俺がデキモノを取るために病院に行ったときに丁寧に治療してくれたお医者さまや看護師の皆様には感謝しかないけど、

俺を含む多くの人の人権(知らなかったかもしんないけど、移動の自由集会の自由基本的人権から)を奪うことを提言して実現させたり反自粛派やマスクが苦手な人たちを罵ったりしてきた尾身や西浦や忽那や知念やその他Twitterの医クラの連中には憎悪しかないよ。

俺はお前らの患者じゃねえよ。なんで主治医先生でもないお前らが俺の自由権利を奪おうとするんだよクソどもが。お前らのことは絶対に許さないし忘れないからな。お前らは敵だ。診療室では尊敬すべき先生看護師さんかもしれないけど、病院の外で俺たちの自由を奪おうとするなら俺は患者じゃなく一人の市民としてお前らに立ち向かうぞ。

戦慄せよ 政治家ども そして医者どもよ

あらゆる全体主義者の名折れよ

戦慄せよ! 貴様らの人権侵害の企ては

ついにその報いを受けるのだ!

ついにその報いを受けるのだ!

すべての者が貴様らと戦う兵士

たとえ我らの若き英雄が倒れようとも

自粛させられてきた恨みが再び英雄を生み出す

貴様らとの戦いの準備は 整っているぞ!

2023-05-01

大学病院を辞めた理由

当方地方都市で勤務する内科医

卒後臨床研修必修化付近年代である

地元医学部入学しそのまま母校の附属病院で勤務という、いわゆる地元秀才コース。数年前まで同地域大学病院に勤務していた。

研修医大学離れが叫ばれて久しいが、働き方改革でそれに拍車がかかっており、人的リソースは多くの医局において現在進行形悲惨なことになっている。

 

大学病院を辞めて時間が経ち、自分が辞めた理由を冷静に振り返れるようになったので、備忘録的に記載してみる。

多くの方がそうかもしれないが、辞職の理由単一理由ではなく、複数の要因の組み合わせである

つのことであれば我慢できても、同時期にいろいろな問題が重なるとその場に居続けるのが難しくなってしまう。

自分場合は以下に列挙する理由による。

 

 

学術活動への不適正

大学へ行く前から化学物理実験時間が苦手だった。当時から実験計画を立てて正確に遂行していくのに興味がなかったように記憶している。

大学病院勤務なので、研究の真似事や学会発表論文執筆は細々としたが、何年やっても面白くならなかった。

仕事から嫌々やっている状態で、達成による金銭的なインセンティブもなく、全くモチベーションが湧かなかった。

 

そんな折、大学より「来年から各講座への研究費は教員当たりの論文数を参考にして支給する」旨の通達があった。

まり論文数が少ない医局員は講座のお荷物になるということと同義である

今後、論文数が減りこそすれ増えることは全くないことを自覚していたため、大学から離れる理由の一つとなった。

 

 

地域医療への貢献ができないこと

弱小医局ゆえ、県内の主要病院への医師派遣も行きわたっていない状態が続いていた。

例年、研修医として回ってくる若手をあの手この手勧誘し、少しでも人員不足を解消しようと全医局員が願っていたように思う。

 

しかボス教授)より不意に、「来年からA県のB病院へ一名派遣することにしたから調整よろしくー」とぶっこまれた。ちなみにボスはA県出身である

いやいや先生、まだ県内すら充足していないのに隣とはいえ他県に人を出す余裕はないっすよ、と繰り返し伝えたが、

「もうB病院先生約束しちゃったんだよ。同じ大学の先輩なんだよね。非常勤でいいから。お金はしっかり出してくれると思うよ。」と取り付く島もなし。

やむなくスタッフを説得して派遣。B病院事務交渉したが、給与はむしろ当県としては安いレベル

あれは当該スタッフからまれただろうな・・・

 

 

ボス方針の頻繁なブレ

前項のようにボスは気分や口約束仕事を拾ってくることが多く、悩みの種であった。

科内の方針変更だけであれば不平不満をカバーすることもできるのだが、他院や他科も絡むと厄介この上ない。

 

あるときボスから、「C科と共同して新しいプロジェクトを進めることにしたかよろしくね。D教授とは話がついているから。C科の先生たちと調整してね。」

明らかに業務量が増えそうな内容であったが、自分の科の医局員にも勉強になりそうであり、資料集めを行った(一部は実費で)。

それからC科の先生方と何度か調整を行い、C科としても非常に前向き。必要人員コスト見積もれたのでボスへ報告。

で、返答は「思ったより負担が大きいねえ。うちの科としては無理じゃない?やっぱりやめようか。D教授には直接伝えないけど、医局員同士で話をつけといてね。」

いやいやいや・・・もうC科の先生方は割とやる気ですよ、そのつもりでいますよ、と話したが覆らず。

C科の先生方の視線がしばらくの間つらかった。

 

 

・他院とのコメディカル格差

この辺りは言うに及ばず。

大学病院が不人気の理由として永らく言われている内容。

筆頭はやはり夜間の緊急性が極めて低い呼び出し、夜間帯は当直医に運ばせる薬剤、採血や点滴をやらない看護師、あたりか。

挙げればきりがない。

 

 

医局員への不信

まず先に、自分所属していた医局は非常に雰囲気がよく、医局員も非常にまじめだった(と少なくとも自分は思っていた)。

年々ボス要求が強まってきているのを、皆が不穏に感じてはいたが。

 

上述の幾つか不満が頭の中でグルグル回っていた折、決め手となる2つの事態が発生した。

 

1つは後輩の医局員と患者さん、およびその家族とのトラブル

患者さんの病状に関わるような内容ではなかったものの、精神面には少なからず影響を与えそうな事象であり、明らかにこちらに非があった。

自分はその後輩のオーベンという立場で繰り返しフォローを行い、なんとか訴訟にならずに済んだ。

なお外来主治医ボスであったが、フォローの場には一度も顔を出さなかった。

 

もう1つは自分出張で不在中、および不在後のトラブルコロナ禍の真っ最中であり、どこも入院ベッド確保に苦労していた時期である

自分が長期にフォローしている外来患者さんが、自分の不在時に具合が悪くなったと受診希望があったようだ。

その日の当科救急担当の後輩(上述の後輩とは別の医局員)が電話を受けたが、満床で来院を断ったと。

自分出張から戻ってきて数日、他院他科の先生から連絡があり、その患者さんが急変して亡くなったとのこと。後輩からは何も報告を受けていなかった自分は、電子カルテを開いてようやく状況を把握した。

満床なのは分かるが、長期フォロー中の患者の具合が悪くなったのであれば、まずはフォロー中の病院患者を受けて病態評価をしたのちに十分な情報提供と共に依頼をするのが筋ではないか」と至極真っ当なお叱りを頂いた。

 

 

この辺りで急速に、力が抜けていくのを感じた。しばらく腑抜け状態が続いた。

大学病院とはこういうものだ。ボス業務が多くて忙しいのだ、仕方ない。後輩も日々がんばっていた上で、トラブルを起こしたり満床ゆえ断ったりしたのだ、やむを得ない。

だが、それを自分我慢して引き受けて、自分幸せなのか?

 

 

結局、自分フォロー患者の急変報告を受けて数か月後、大学病院退職

それから数か月は仕事をせず過ごして、今は臨床研修指定を受けていない小規模の一般病院で働いている。

全く苦労がないわけではないが、仕事に関する不満はほぼない。

家に帰ってからボスから要求や他科の先生との交渉、他院の先生からのお叱りが頭の中をグルグル回って眠れないこともない。

子供関連のイベントはほぼ皆勤賞で出席できるようになった。運動習慣がついた。酒が減った。

 

しかしたら上述した要因のうち、いくつかがなかったら、まだ大学病院で働いていたかもしれない。

それで自分がどうなっていたかは全く分からない。

 

それでも間違いなく言えること。

今、自分幸せである

 

 

追記

研究に興味ないのに、なぜずっと大学病院にいたのか?

地方の弱小医局では、そもそも大学以外にまともな研修機関がなかったりする。実際、自分の科は大学一択だった。

2023-04-13

父親危篤

https://togetter.com/li/1424289

この方は登山中1000m滑落して雪山遭難して生き残った

雪を鼻息で溶かしてすすって、小水をなるべく体が濡れないようにもらして、身動きできないまま体温を温存して救助を数日まった

20年後にようやくこうして体験談投稿したが、それ以前は思い出すたびに、あるいはヘリコプターを見るたびに涙がでてしまっていたのだという

それでなんとなく思い出した話

 

うちの父はもうずっと昔に登山しなくなったのに20年ずっと遭難している

最初はささいなことで、定年後すぐに発熱した、38とか40度

寝て、起きて、本を読んで療養すれば風邪ならなおるのにいつまでもなおらなかった

病院で一万人に一人とかの肺の難病名前がついて

一生悪くなるばかりで治ることはない、次に発熱したら死ぬ可能性もあるかもといわれた

しかに熱を出すたびにだんだん自分でできることが少なくなっていった

いつ熱をだすかもしれぬ体で、肺にも負担をかけるから海外への飛行機にのらなくなって、

それでも自家用車運転して海外から日本にもどってきた子孫の顔を見に行き来した

酸素ボンベをつかいはじめてから焼き肉あきらめた

自家用車ボンベと車いすが載るのに買い替えて身障者マークをつけて

自宅風呂、自宅トイレの順にいけなくなって、要介護認定がついて、うごきすぎて酸欠で失神と失禁してしまう失敗も経た

車いすと、電動ベッドとし瓶の生活がはじまった

 

そうやって発病から20年以上生き延びてとうとう先週寝たきり度C2になった

主治医から「看取り」という言葉も出た

それでも父は頭ははっきりしている、遺書も書いて、お母さんを助けにきてくれという

 

それが先週だれがみてもダメとなって入院しC2認定になって、

脱水のために点滴いれて、そうしたら炎症値がさがってしまった

酸素飽和度は相変わらず低くて手足すらろくにうごかせないけど、この20年の間におしえてたラインで状況を報告してくれてる)

ももう少しもう少しと、代謝を抑えて生き残ろうとしている

もちろん世話をしている母はずいぶんと苦労していて、この20年あまり自由がない、

どころか父のためにありとあらゆることをして体力のつづくかぎり奔走した

なにしろ家を一軒立て替えて住み替えたのだ、普通ではできない

 

父本人も神様のような人ではなくて、ふつうのおじいさんなので

動けないのに口出しして小言爺さんみたいなとこある

母(も老人)の家事に細かくあれしたかとかこれのお礼を言ったかとか、

物を一つ買うにももったいないなど

口出しをしまくってものすごく嫌がられてもいた

 

そもそも父はもとからまり医療健康に詳しくない

子育てにも関与が少なくて、自分家族の手間を減らすために金を使うこともへただ

母の決定にうんうんと従うとこもあるが、ちょっと大きい金がうごくとなると納得させるのに手間暇もかかる

まりセルフケアすら上手ではないか介護の段になると嫌がられて当然なのだと思う

 

でも登山遭難をみていると父も勇気をもって孤独な一人遭難を20年もつづけているのだなとおもった

ロマンとかじゃなくて、むしろ邪魔なんだけど、汚くていやがられるから恥ずかしいはずの失禁すら、

生き延びるために勇気にかえているんだなぁと

 

自分はお父さんとお母さんからまれてよかったんじゃないか

そんな遭難生活私は耐えられるか、支えられるかわからないな

2023-04-12

anond:20230412171614

どうもこうも噓松じゃなきゃそのまま人事に報告して終わりでは?

 

人事もお話にならない会社ならもうそれは諦めるしかいね

諦めるというのは泣き寝入りするっていう意味でなくて、労働基準局へ行って『あっせん』申し込みするって意味

そんで、『私は働く意思があるが無意味で非合理なプレッシャーをかけてくる』と主張して、

解決金なり休職期間なりを勝ち取る

で、この得たお金休みを使って転職しましょう

 

噓松じゃなきゃメンタル的に主張を通すのはきついかもしれないけど、

どうでもいいと無視出来る金額でもないので、頑張った方がいいと思う

 

比喩でなく主張したらガチで死にそうなメンタル状態場合主治医相談ですな

こういうどうしようもない上司会社ってあるあるなので

2023-03-29

anond:20230329081634

うつだった頃やむを得ずセルフカットしてたんだが主治医からうつの人が美容室へ行くことができず自分で髪を切ることは間々あると聞いたことを思い出した

心当たりがなければまあ気にしないで

2023-03-26

anond:20230326145927

LDは弱めっていうか無いと思う。計算問題苦手なだけ。

アスペADHDはどっこいかな…個人的ADHD強めだと思ってたけど(片付けられない・日程見積もり下手くそ)、前の主治医にはアスペルガー強めではないかと言われた…

2023-03-20

これ前も見たわ anond:20230319163211

早起きして勉強して仕事して図書館とかコワーキングスペースとかマック寄って勉強してる社会人

https://anond.hatelabo.jp/20230126073253

 

どこでもいいから遅延なく給与払うだけの企業体力と法令を遵守する意思がある企業にイケば良いだけだぞ

勉強なんて要らん

ただ打たれ弱いとかメンタル不調で医者通ってるなら主治医相談した方がええぞ

IT屋に必要なのは英語といい加減さとタフさで技術じゃないぞ

2023-03-16

anond:20230316210104

どう考えても、それだけ障害抱えながら働いてるのがすごいよ

自己嫌悪にならなくていいよ

あとメンタル的なことは主治医相談して薬調整してもらってもいいのでは

2023-03-13

母さんがガンで死んだ(追記

から連絡があり、母さんの体調が悪いこと、癌の可能性もあることを知らされる。母さんは自分意志でがん検診は受けていなかったから、不安を感じつつも、「姉は大袈裟からなー」と、大ごとになるとは思っていなかった。

ただ、残念ながら婦人科系の癌だった。コロナ禍ではあったものの、運良く地域の基幹病院入院することができ、溜まっていた腹水を抜いてもらったり、検査をしたりと、色々と処置をしてもらったらしい。

医者から一般論として「5年後にはいないだろう」という話をされたが、「医者は短めに言うんだろうな」と、前向きに捉えようとした。仕事の帰り、一つ手前の駅で降りて、歩きながら母さんに電話した。

「そうじゃないかと思ってたから、分かってスッキリしてるよ。子供たちは立派に独立して、みんな家族もいるし、私は思い残すことはないから。」

とサラッと話していた。なんとか気丈に話そうとしたが、涙が出た。帰宅し、妻に報告したら、また涙が出た。祖父を癌で看取った妻は「そんな簡単に亡くなりはしないよ」と、怒っていた。彼女なりに励ましてくれてたんだろう。

「何で癌で人が死ぬのか」ということすら知らないことに気づいて、いくつかの本を読んで、「多臓器不全で死ぬ」ということを今さらながら知った。

翌月、帰省すると、「で、何しに帰ってきたの?」と、とぼけたことを聞かれたので「様子見にだわ」と。特段変わった様子はなく、いつもの調子

溜まっていた腹水を抜いてもらって、楽になったらしい。「しばらくは大丈夫かな」と思う。翌朝、母さんは「そのうち、『あれが最後に作ってもらった朝ごはんだったな』ってなるわよ」と軽口を叩きながら、目玉焼きを焼いてくれた。

その後の検査で、癌はそれなりに進行していて、「ステージⅢの後ろの方」と評価された。外科手術や放射線治療を行う段階にはなく、化学療法プラチナ製剤)を試してみて、癌細胞が小さくなるようであれば、外科手術や放射線治療検討しようということに。

母さんは「『髪の毛が抜けることがある』じゃなくて『絶対抜ける』って言われたわ」と笑っていた。

程なく、抗がん剤治療が開始され、母さんの髪の毛が抜けた。この頃は、抗がん剤副作用が抜ければ、食べたいものだとかも色々あったから、買いだめしといてあげたりした。

実家家族帰省して、夜遅くまで母さんも交えて酒を飲んだりもした。まだ、言葉もしゃべれなかった娘も、母さんにはよく懐いていた。

副作用に耐えながら抗がん剤治療を続けたものの、思うような効果は得られなかった。

「癌の専門医先生の方がいいんじゃないか」という思いもあり、主治医先生にも相談の上で、セカンドオピニオンを取ることにした。

その道の専門医先生2名にお話を伺いに行ったが、どちらも「うちなら治るかもよ」だとか「この治療法よりも、こっちの方がいい」なんて話は、当然なく、今診てもらってる病院で、「そのままお世話になる方が良い」とやんわりと伝えられた。

それでも、「やっぱり経験値が高い専門医先生の方がいいんじゃないか」と、先の2名の先生のうちお一人にお世話になることにした。

細かく検査もしてもらったが、「やれることは限られている。選択肢がないわけではないが、リスキーな上、効果期待値は低いので、おススメはしない。本人の希望に沿うならば、通いやすい、もともと診てもらっていた病院で改めて診てもらっては。」

とのお話があり、結局、出戻ることにした。その病院からの帰路、高速道路の大きなSAに寄った。

あなたたちが小さい頃には、旅行の度に、いつもこのSAに寄ってたのよ」と懐かしそうに話していた。

ちなみに、今でもそのSAを通過すると、その時の母さんを思い出して、なんだか泣きそうになる。

改めてもともと診てもらっていた病院に伺ったところ、事前に調整はしていたこともあってか、主治医先生は嫌な顔一つ見せず引き受けてくださり、次の段階の抗がん剤(単剤)にトライすることになった。

これ以降、段々と体力の低下、食欲不振が顕著になりだし、当初は「抗がん剤副作用かな」と考えていた。思うような効果が得られず、抗がん剤の投与を中止してから状態改善しなかった。

母さんが癌であることは、母さんの希望もあって、積極的に知らせることもせず、また隠すこともしなかったが、状況を知った遠方の親類達が揃って見舞いにきてくれたりもした。

この頃は、まだ座ってコーヒー飲むらいのことはできていて、楽しそうにお喋りもしていた。

妹が介護休業を取り、母さんの面倒を見てくれることになった。その時点では、自分のことは自分でできていたし、正直言って「早いんじゃないかな」と思っていたが、結果的には、ドンピシャタイミングだった。

死ぬまでに行きたいと言っていたスカイツリー東京結婚式に出席したので、その足でスカイツリーに行き、ビデオ通話で見てもらった。「すごいねー」と笑ってくれた。

12月下旬は、早めの冬休みを取って実家に。妹からは、体力の低下が著しいということは聞いていたが、想像よりずっと悪かった。

ベッドの脇に座って吐いてばかりいた。思っていた以上の状態言葉が出なかった。夜も眠れず、食事も摂れず、水分を摂れば吐き。かわいそうで見ていられなかった。

足のむくみもひどく、母さん曰く、頭の中は「しんどい」一色だった様子。肩をさすったり、足を揉んであげたりしかできない。足をマッサージしてあげていると、少しの間だけ、寝てくれたのが、せめてもの救いだった。

そんな中、母さんは「とても渡せそうにないから」と、お年玉と一緒に娘の七五三の祝いを渡してくれた。涙が溢れた。母さんも「湿っぽくなってごめんね。」と言いながら泣いていた。年明けも早々に再入院。あまりに辛そうな母さんの姿に、打ちのめされてしまった。

母さんの希望は、「できる限り家にいたい」だったので、妹が訪問看護段取りを取ってくれ、病院には無理を言って予定より早く退院した。この訪問看護のチームが素晴らしく、親身になって、それも超速で対応してくれた。母さんは「病院から逃げ出して正解だった」と、喜んでいた。

急遽、仕事休み実家へ。妹と交代で診る体制に。眠れず、体の置き所がない母さんは、15分おきくらいで、姿勢を変えてあげなければいけなかった。辛そうだった。

少し話ができそうなタイミングで、「今までありがとう。母さんの子どもで良かったよ。」と口に出すと、涙が溢れた。喋るのも辛く、手をあげるのもしんどいはずの母さんは「何を言ってるの。こっちのほうが、ありがとうよ。いい子だね。」と言って、頭や頬を撫でてくれた。涙が止まらなかった。

妹と交代で眠りながら看ていたが、日に日に意思疎通がとれなくなり、意識レベルも低下。せめて、苦しまず、穏やかに逝かせてあげたいと、鎮静剤の量も増やしていった。眠る時間が増え、顔をしかめる頻度も少なくなり。

「母さん、先に横になるね。また後でね。」と声をかけて寝ようとしたところ、ほとんど意識のないはずの母さんが、少し手を上げて応えてくれた。「バイバイしてんの?」と、妹と2人で笑った。

その晩、妹に「やばいかも」と起こされ、会ったときにはほとんど呼吸もなく。子供3人が揃ったところで、母さんは静かに息をひきとった。目を瞑り、とても穏やかな顔だった。皆、口々に「お疲れ様。よく頑張ったね。」と母さんの闘病生活の終わりを労った。

泣き崩れてしまうかもと思っていたが、不思議と涙は出ず、ホッとしたような気持ちになった。

訪問看護に連絡したところ、深夜にも関わらず、看護師さんが来てくれた。死亡診断は医師しかできないとのことだったが、脈拍を見たり、瞳孔を見たりして「確かに亡くなられていますね」と手を合わせてくれた。

そこからは、子供三人で、看護師さんの指示に従って、母さんの体を拭いたり服を着せたり。服は死装束じゃなく、妹が見繕ってくれていた、いつも母さんが来ていた服を着せることにした。

最後看護師さんが、母さんに化粧をしてくれると、すっかり血色が良くなって、まるで寝てるみたいだった。

看護師さんが帰られてからは、葬儀屋を探したり、段取り役割分担を話したり。葬儀屋は、空いてるところに頼むしかなかったというのが実態で、なんなら「火葬場に直送しろ」くらいのことを言っていた母さんの考えとは違ったんだろうけど、普通に葬儀屋に頼むことになった。

一旦、各自寝て、翌日以降に備えた。

翌日は午前6時の医師の死亡診断に始まり、寺や葬儀屋との調整や、親類への連絡、行政関係手続きなどで忙殺され、あっという間に通夜になった。どんな感じで動いたのか、正直、思い出せない。

覚えているのは、いつも気にかけてくれていた母さんの友達が、偶然訪ねて来られ、母さんに会って「信じられない」と泣いてくれたことと、一報を受けた母さんの義姉にあたるおばさんが寄ってくれて、母さんに会って「寝てるみたい」と泣いてくれたこと。

おばさんは「お母さんは若い頃はお父さん(自分祖父自分が小さい頃に他界。)と、喧嘩ばかりしててね。今頃、お父さんから「うるさいのが来た」って言われて、また喧嘩してるかも。」と、知らない話をしてくれた。

納棺ときには、たくさんの花と一緒に父さんの写真や、自分を含む子ども写真を納めた。

短い髪の毛の頭には、ウィッグをつけたかったんだけど、生前に「あんな高いものを燃やすなんてもったいないから棺桶には入れるな。」と言われていたので、やむなく頭はそのままに。誰が使うんだよ。マジで

葬祭会館で通夜を終え、そのままそこに泊まることにし、姉と妹は一旦、家族帰宅。酒を飲みながら待ち、時々、隣室の母さんの顔を覗きに行っては、線香をあげ、その度に泣いた。

夜中の2時になっても、誰も帰って来ず、体力的にも限界だったので、寝た。深夜に姉が、朝型に妹が戻ってきた。

翌日も葬儀火葬バタバタ。孫たちが大騒ぎしてくれたおかげ(?)で、終始、湿っぽくならずに済んだような気がする。母さんも、「あんたらねぇ」と笑ってくれただろう。

母さんが望んでいたような「火葬場に直送」じゃなくて、普通見送り方にはなってしまったけれど、許してくれると思う。

それから職場に復帰するまでは、皆で家の片付けや、クレジットカードの解約やら銀行関係やらのたくさんの事務手続き、親類縁者への連絡などを分担して対応している間に、あっという間に過ぎていった。

その間、近所の方だとか、母さんの旧来の友達だとかがたくさん弔問に訪ねてきてくれた。皆が口々に「いい写真だね」と言ってくれた祭壇の遺影は、母さんが自分で選んで、わざわざトリミングまでしていたものだったから、本人も満足してるだろう。

母さんの旧来の友達からは、母さんの若い頃の話や、その後の友人関係の話しを伺った。学生時代のことや、社会人時代のことだとか、自分が知らない母さんの一面をたくさん知ることになった。

当たり前だけど、母さんは「母」としてだけでなく、一人の人間として、たくさんの人と関係を作り、それを続けていたんだなと気付き、なんだか新鮮な気持ちになった。

そういえば、ウィッグ友達の一人で、自分もよく知っているおばさんが貰い受けてくれることになった。何度も「管理が大変だけど大丈夫?」と聞いたけど、それを踏まえて快く受け取ってくれた。

ウィッグ販売店には、その旨は連絡しておいた。弔問に来てくれた時にお渡ししたところ、母の遺影に向かって「返さないからね」と笑っていた。

思い返してみると、母さんが癌になってからというもの、母さんとは色んな話ができた。父さんのことだとか、嫁いできた経緯だとか、これからのことだとか。

癌との闘いは、とても辛かったと思うけど、近い将来確実に訪れる「死」に向かって、本人も家族も、心の整理も含めて、時間をかけて準備することができたように思う。僕は癌で死にたくないけれど、そんなふうに、ちゃんと準備をして死にたいなと思う。

母さん、ありがとう。母さんの子どもで良かったよ。

追記

たくさんの方に、暖かな言葉いただき、恐縮しておりますありがとうございました。

私自身が、母さんが癌になるまで癌のことを何も知らず、また、どのような経過を辿るのかを知らなかったので、「自分用に書いたけど、同じ境遇を迎えてたり、これから迎えるかもしれない誰かのためになるかも」と、乱文を投稿させていただきました。

野暮かなとも思いましたが、いくつかコメントいただいた内容を踏まえ、その趣旨に合うかなとも思うので、いくつか追記いたします。

母さんが癌の宣告を受けたのは、2月上旬で、翌年の1月中旬に60台後半で他界しました。10月頃まではまずまず元気でしたが、以降は段々と体力の低下が顕著になりました。12月中旬までは、体調が良ければ妹の運転ドライブに行く程度の元気さもあったのですが、食事を受け付けなくなってからは、あっという間でした。思っていたよりもずっと早い経過だったので、「もっと会いに帰ったら良かった」と思うこともありますが、「そうさせないところが母さんらしいな」とも感じています

経過は個人差が非常に大きいものだと思います。母さんよりも早い経過を辿る方もいれば、もっと緩やかな経過を辿る方もおられるでしょう。早い経過を辿ることを前提に、たくさん話し合って、準備をしておいた方が良いと思います特に、残された時間はできたら住み慣れた自宅で過ごしたいという方が多いと思うので、それができるよう、家族介護+訪問看護体制を整えられるかをしっかり考えておくべきだとも思います。うちの場合は、姉が実家比較的近くに住んでいたこと、妹が介護休業に理解のある職場環境だったこと、また、訪問看護のチームが素晴らしかたこと等、様々な要因が重なって、自宅で看取ることができました。

なお、母さんがやっていてくれた事で本当に助かったのは、エンディングノートをしっかり書いていてくれたことと、重要書類(通帳、カード年金手帳マイナンバーカード等)を整理してくれていたことです。特に、亡くなったことを誰に知らせるのかは、親類縁者ならまだしも、友人関係ほとんど分からなかったので、これがなかったら不可能でした。「私も書くから一緒に書かない?」と、提案されてみても良いと思います

長くなってしまいましたが、皆様の一助になりましたら、幸いです。皆様のコメントから、元気をもらいました。改めて、ありがとうございました。

2023-03-06

抗がん剤治療してる母(70over)と介護してる娘(アラフォービアン

どこにも言えないので言うんだけど、母ががんになって、1年に1回会う程度で実家との交流を避けてたアラフォーレズの私が主となる介護者になって・・・

あー!!!前説明がメンドクサイな!!!

あのねーーーーーー!!!

わたしのお母さんの主治医先生女性)がーーーーーーーーーー!!!

ドンピシャまじで私の好みで本当に最高に大好き神よこのクソな状況にありがとうございますーーーーーーーーーーーーーーーー!!!

なにかしたいとかどうとかないけどさあああああああああああああああ!!!

すげーーーーーーーーーーーーー!!!好みーーーーーーーーーーーーーーー!!

病院HPに一人だけ顔写真出してないのよくわかるーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!




……母の命を救って下さってありがとうございます

自分が情けなくてしんどいです。

2023-03-03

「力の差がある相手性的関係は求めてはいけない」

って、誰も幸せにしない考え方だな

特に、『下の立場』の人間にとって。

本来ならば上の立場人間からアプローチしてきて付き合い、結婚に至ればめでたいものなのに

それを勝手に縛って禁止してくるっていう。

問題恋愛じゃなくて、本気じゃない付き合いで安易に性行為を求める事の方なんじゃないの?

それって別に同い年の学生同士とかでも起こり得る事だし

単なる形式的な力関係だけの問題じゃないと思う

>例え恋愛のつもりであっても、セクハラになりえます立場という優越性を利用しているからです。

っていうけれど、本当に恋愛なら問題ないでしょ

断られても引き下がらないとかならそれは立場の差に関係ない

大学高校同級生ストーカー殺したなんて事件も後を立たないか立場問題じゃないと思う

上司→部下、弁護士クライアント主治医患者OB/OG就活中の学生教員学生教祖信者、すべて×です

この中で明らかにアウトなのって教員学生くらいで

しかもそれって上下関係があるからというよりは単に大人子供からだよね

教員じゃない大人であっても子供恋愛関係になろうとするのは駄目だと思うし

主治医患者なんてのは禁止されて困るのは患者側でしょ?上手くいけば玉の輿のチャンスなのに。

上司→部下、弁護士クライアント主治医患者、…これの一体何が悪いんだ?特に女性からしたらハイスペック男性と知り合うチャンスで有難いくらいなのに。

何が嫌って、こうして本来別に問題でも何でもない筈の恋愛禁止して、同い年の対等婚しか駄目なんですーってしていくと

ますますパワーカップルけが結婚出来て未婚者との経済的格差が開いていくって事。

2023-02-22

うつ病治らないんだけど、いつ治るんだ?(追記しました)

うつ病になって休職して半年

薬も飲んで、無理をせず、運動もしてるのに、しんどさがなくならない

ふとした拍子に泣きそうになる

主治医は復帰できる状態と言うが、無理だろこれ

頑張って復帰した方が治るのか?


追記

寛解という言葉を初めて知った。ありがとう

元には戻らないんだな…

何度もうつになると再発しやすいらしい

自分場合うつっぽいのに薬飲まずに働いてたから、脳にダメージが蓄積してるのかも

まだ休んだ方がいい気がする

2023-02-18

発達障害二次障害もあるけど、理解のあるパートナー結婚して、理解のある会社で働いて、理解のある主治医に書いてもらった診断書年金貰って生きてる。

Twitterとかで言ったら妬まれそうだから書き捨て。

2023-02-12

ノリで子どもを産むな【追記

※一番最後追記しました。

親になる資格必要になる世界みたいな漫画話題になっていたので。

覚悟もないのに子どもを欲しがるなまじで。ペット飼うときですら育てられるか考えろって口酸っぱく言われるだろ。

うちには息子が2人いた。長男は今年20歳を迎えて元気でやっている。(一応少しフェイクを入れて書く)

次男は2歳でこの世を去った。

妊娠からやや小さめだった。長男も生まれとき小さかったので気にしていなかったが、結構ギリギリになって障害病気があるだろうということが発覚。

中絶できる時期はとうに過ぎていて生んで育てる以外の道はなかった。生まれ次男複数障害を持っていた。

赤ん坊なんてみんな猿かガッツ石松みたいな顔をしているけど、次男は握り潰した粘土か何かかと思った。生き物という感覚すら持てなかった。

可愛いと思えなかったし、生きてる間ほぼそう感じることも、感じたいとすら思えなかった。まだダウン症のほうが可愛いと思えた気がする。

障がい児の親が自分の子「天使」とか言って可愛がっているのは本当に尊敬する。嘘でもそんなこと言えなかった。

ただただ死んでくれと願っていた。

麻痺があって常に崩れた福笑いというか、はっちゃけたヒョットコみたいな顔をしていて、たまに目が合ってコミュニケーションが取れてるのかと思っても、ただただ私の黒目に映る自分の顔を不思議そうに眺めているだけで

私の話なんか聞いちゃいないし理解しちゃいない。聴覚もすごく弱かったようなので当然だが。

互いの実家から離れたところで生活していたので、夫は次男障害があると分かった時点ですぐに会社に掛け合って残業の少ない部署に異動し、入院中はほぼ毎日顔を出し、退院後も通院はほぼ毎回付き添ってくれて、

私がまだ幼い長男障害のある次男育児疲弊しないよう、家事から次男の面倒から何でも積極的に取り組んでくれた。長男と2人で過ごす時間も、私が短時間でも一人で過ごせる時間も作ろうとしてくれた。

看護師さんや主治医も「お母さんはよくやってるよ」とたくさん労ってくれて、一緒に連れていた長男にもたくさん声をかけてくれて、遊びに付き合ってくれたり、寂しい思いをしないよう気を使ってくれて本当に感謝している。

そして労ってもらうたびに、まともな母親だと思われているとホッとしていた。

日々次男が死んでくれることを期待していた。うっかりした事故死ぬことを毎日どこか期待していたが、母親保護責任者遺棄致死とか児童虐待逮捕されたら長男未来まで潰してしまう。

長男存在のおかげで道を踏み外さずにいられた。常に長男や夫や周囲にまともな母親だと思われるように振る舞わなくてはと思っていた。

そんな次男も2歳になってすぐの頃に熱を出した。免疫が弱かったのでよく熱を出してはいたが、このとき合併症を併発して、瞬く間に弱っていき、そして亡くなった。驚くほどあっけなかった。

年末で慌ただしかったのと、長男を抱きしめて、長男の頭に顔を埋めながら泣いていた夫を見て冷静に「良い人だな」と思っていたことは覚えている。

まりのあっけなさであまり泣けなかった。気が張っていて泣けないのだと思った看護師さんが背中をさすってたくさん労いの言葉をかけてくれたのを覚えている。

涙は出たが、これでこの生活もやっと終わるという安堵の涙だったと思う。

次男の死後、夫にもう一人欲しいか?と聞かれたがまた障がい児が生まれたら今度こそ道を踏み外しそうな気がした。

長男との時間を大切にしたいということにして子どもはもうけなかったし、夫も賛成してくれた。

健常児の長男には次男が生まれからたくさん寂しい思いをさせたと思って、できる限りのことをしたつもりだ。

長男大学受験するとき看護師になりたいと言った。次男を世話する私や病院に行くたびにいつも笑顔で接してくれた看護師の姿を覚えていて、病気の人やその家族を支えられる人になりたいと思ったらしい。

次男の死を願っていた母親の子とは思えなくて驚いて涙が出たし、こんな母親申し訳ないとも思った。

次男の死を経て健常者の子どもを育てる「普通の親」になれたと日々安心感に包まれていた。育児ストレスはあれど次男の面倒とは比較にならない。

が、ここで話は終わらない。

20歳になった長男に話があると言われた。つい最近出来事だ。

ゲイであることをカミングアウトされた。驚いた。驚いて何と声をかけるべきか言い淀んでいると夫が「打ち明けてくれてありがとうな」と長男に声をかけていた。さすがほんと何故私と結婚したんだろう、良い父親だわまじで。

カミングアウトきっかけは先日の首相秘書官差別発言ニュースで、

私と夫が「こんなこと言う人が国会にいるなんて信じられんわ」とか、小泉進次郎が「自分の子どもが当事者だったら」みたいな話をしていて、これに夫と「本当そうだよね」と話していたこと。

これを聞いていた長男私たちになら打ち明けられると思ってくれたらしいし、今言うしかないと思ったらしい。付き合っている人もいるらしい。

正直、いまは付き合ってる人がいて、打ち明けられる仲間や親がいるから生きてられるけど今日まで何度も死にたくなったと言っていた。

記憶にないが私や夫も差別的発言価値観言葉したことがあって、長男を傷つけていたのだろうと思うし、「死にたくなった」は長男から最大級私たち両親への非難だと受け止めている。

まったくもって「普通の親」にはなれなかった。

障がい児の親を終えたと思ったのに、今度は性的マイノリティーの親になったわけだ。

次男は2歳で死んだけど、あのまま生きてたら、私はどこかで道を踏み外してしまったんじゃないかと思う。

本当に無理だった。長男が何歳でゲイ自覚たか知らないけど小学生くらいでカミングアウトされてたら、まともに対応できなかった。

「なんでカミングアウトするんだ」「黙っててくれれば良いのに、大人になってから好きに生きたら良いのに」と思ったと思う。

私が子育てをする期間内長男が「普通の子」でいてくれたから、それなりに普通の親をやってこられたに過ぎない。

いま長男20歳になって、手が離れているし、もうあなた人生でしょと思えるくらい育っているのでカミングアウトを受け入れられてるところがある。

たぶん私に親になる資格はなかった。長男が無理して普通の子供として振る舞い、親に合わせてくれたおかげでギリギリ親とみなされていたに過ぎない。

親または親になりたいと、子どもが欲しいと言ってる人に問うけど

いま可愛いピンクのフリフリのおくるみ着せてる娘がトランスジェンダーでも育てられる?その可能性考えたことある

ゲイレズビアンである可能性考えて喋ってる?

腹の中にいる子どもが先天性異常で潰れた粘土みたいな状態で生まれてきて崩れた福笑いみたいな顔に成長する可能性考えたことある

それでも可愛がれる?それでも子どもを大切にできんの?

自分の子供だけはシスジェンダー異性愛者で健常者で…って、その前提でしか出産子育てを考えてなくない?

結婚たから次は子どもって考えしかなくない?周りが子どもいるからっていう、ペットを持つか否か以下の考えで産もうとしてない?

まじで真剣に考えて欲しい。子どもにとっても親にとっても博打なんだよ出産育児人生も。


追記

(読みにくいところを少し修正しました。)

色々言われるだろうなと思ってたので沢山ついてるコメントは半分くらいしか読んでないですが…


自分がかわいそうでヨシヨシされてえだけだろ

→どこにもそんなこと書いてないですがコメントする増田を間違えていませんか?

・ノリで産んだのお前じゃねえか。夫は理解ある彼だったかサバイブできただけだろ。

→そのとおりです。ノリで産んだけど周囲のお陰で何とかなっただけで、後悔しまくったので書いています次男を殺さなかったのは偶然か奇跡だったと思うから

理解ある彼(夫)くんっていうの本当にそうだと思う。あと息子も理解ある息子くんだと思う。だからやってこれただけ。長男内面的にも夫に似ていてホッとしている。私に似なくて良かった。だからやってこれただけです。

1つでも欠けてたら500%虐待してたと思う。

長男は健常者だけど育児ストレスないわけじゃなかったし、その都度次男の世話に比べたら、と考えて乗り切ってたし、小中学生くらいでカミングアウトされてても受け入れる余裕もなく絶対傷つけること言ったと思う。

めちゃくちゃ理解ある周囲の人達のおかげで踏み外さなかっただけです。運があまりにも良すぎたから私は犯罪者にならなかったけど、子ども欲しいっていう人は、「普通じゃない子」だったとして、家族仕事や働き方変えれる?頼れる親族は近くにいるの?主治医看護師は信頼できる?行政サービスは充実してる?そういうサポートアクセスやすい?そういう子を育てられるだけの精神的余裕や知識はある?

その辺やばい状況だったとき虐待しないで育児できる?最強の環境揃ってたってストレス発狂しそうになるよ。健常児育児でも苦労すんのに1つでもマイノリティ性あるだけで苦労は倍以上になる。その覚悟はある?子どもは親選べないし、親のノリに付き合って産み落とされ人生を送ることになった息子たちを思ったら、(お前が言うなだけど)覚悟あんの?と思っちゃうよ。


・お前がクズなだけ

→そうです。だからこれを書いている。生む前に自分子育てできるような人間か?をきちんと考えてれば、ノリで産まないという選択をすることも可能だった。20年前は今より産むのが当たり前という圧は強かったし、周りが子持ちで、周囲から子どもを産むことを期待されてるのも、その期待に答えるのも当たり前だと思ってた。子どもを持つ幸せな家庭の母親というものになれると思っていた。そこに障害児が産まれる想定はなかった。可能性は分かってたけど大丈夫だろうなんとかなると漠然と思ってた。自分ごとのように考えてなかった。障害児を育てたくないと思うようなクズで、考えも足りないクズだったので。

今はまだ産めっていう圧はあっても当時よりはまだマシだろうし立ち止まって考えてほしい。

そしてクズだとぶっ叩いてくれてありがとうございます。考えも覚悟もない親だと子どもがかわいそうになるというのが伝わっているようで良かったです。



その他

長男から最大級非難」っていうのは、「こんな社会に産まれてなかったらこんな死にたくなるような気持ちにはならなかった」とか「異性愛者に産んでくれてたら」っていう意味合いを含んでいると受け取っているし、それに対して親としてできることは長男にとって安心できる両親でいることくらいなので、そういう親でいようねと話している。それしかできないから。

2023-02-06

anond:20230205123402

一卵性双生児のいる4児の母です。ふたご(2・5)の日に、双子ご懐妊確認ですね。おめでとうございます

1)一卵性か二卵性かなど含めて、双生児の子宮にいる状態は3種類に分かれます。絨毛膜と羊膜がどうなっているかによります。その診断を「膜性診断」と言いますが、1020週の限られた週数で超音波判定できます。これを逃すとわからなくなるので、主治医確認しておいたほうがいいです。それによって、出産リスクも変わってきます。私は一絨毛膜性二羊膜のため、胎盤共有なのでリスクは中程度でした。

2)妊娠中は、私の母体自己比較では、2人分でも体重の増えは単体児妊娠の1・5倍程度。早産傾向になり35週で管理入院(2週間)しました。37週で自然分娩でした。8分差で生まれました。

3)出産後は、二人の授乳時間強制的に合わせるのがおすすめです。(一人が飲みたがったらもう一人が寝ててもたたき起こし、同時に授乳)←泣いててかわいそうでも、子供は覚えていないし、何より母体大事なので(子供に合わせていたら寝る時間なくなる)。単体児の上の子たちは、懇切丁寧に母乳オンリーで!離乳食ちゃんと!とかなりましたが、双子だとそんなこと言ってられず、とにかく日々育てるしかないので、おおざっぱというか・・・精神的にはラクな面もありました。

4)育ってくると、二人で遊ぶようになるので、実はすっごくラクでした。別に公園行かなくてもいいし。双子を授かってよかったと思っています。進路は高校から別々で、今は二人で暮らしているので生活費も1・5人分で済んでいます

5)双子赤ちゃん母親一人で育てるのは至難の業で、父親存在が重大です。うちは夫が平日遅く、今でいうワンオペでしたが、土日はご飯を作ってくれました(これはすごくたすかりました)。男親の出番ですね。

楽しみですね。いいこといっぱいありますよ。

2023-01-31

子どもを産んだら仕事を辞めろと社会に言われた

受験を、進級試験を、国家試験を乗り越えて医者になった。

結婚をして子どもを持つ希望はあったけれど、仕事を中心に生きたかった。

責任の少ない初期研修のうちに子どもを産み、なるべく夫中心で子育てをしていく事にした。

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まれた子は、重い障害児だった。

遺伝子異常だった。誰も悪くない。確率問題だった。

.

運の良い事に、障害は重いものの体調は比較的安定していた。

主治医には、一般保育園入園も充分可能許可を得た。

10件ほど保育園見学し、受け入れられると明言したのは1箇所だけだった。

ただでさえ激戦区、流石に厳しかった。

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自治体に問い合わせた。

障害児を産んだら両親のどちらかが仕事を辞めて面倒を見なさい。月5万円の特別児童扶養手当が出る。」と言われた。

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初期研修終了後に働く予定だった病院院内保育室に問い合わせた。

入職が決まっていない段階での相談は受け入れられないと言われた。

病状として保育が可能かどうかすら答えをもらえなかった。

病院側に相談したが、仮の入職予定としてでも保育室に話を通してもらう事は出来なかった。

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埒が開かないので、障害児専門の保育園を探した。

目処のついた障害保育園に入るためには、その自治体に住所が必要だった。

保育園を利用可能エリア引っ越した。

時間ながらも保育園を利用できる事になった。

求職要件入園し、就労要件に移行していく予定になった。

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ただし、障害保育園短時間保育のみだった。延長の制度もなかった。

ベビーシッターや自費での訪問看護の利用は高額になる。

夫と私の力関係問題で、私が限られた時間の中で働くしかなくなった。

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入職する予定の病院の人事に相談をした。

限られた時間しか働けないが、病院での研修をどうしてもしたかった。無給でも構わないから、研修をしながら保育要件を満たせる立場が欲しかった。

週2日、半日つの研修医の立場提案された。

保育要件を満たすために、他の仕事もする必要があった。他の仕事を探すために、研修曜日を確定したかった。

曜日を決めて欲しい」と言ったら、突然「保育園に預けるために仕事をするならば辞めろ」と人事に言われた。

調整が面倒になったのか、そもそもまともに働けない人間は要らなかったのか。

私は、まだ正式に入ってもいない医局を辞めた。

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国公立大学地域枠で多額の税金をかけてもらいながら医師免許を取ったのに、誰にも働く事を望まれていないように感じた。

子どもの事は愛していた。

障害関係なく、可愛かった。

だけど、医師として働く夢を捨てたくなかった。

子どもを手放す事すら具体的に計画した。

毎日泣いていた。

思い描いた幸せは、どこにもなかった。

障害児を産んだら仕事はできない。

仕事をしたければ、子どもを産むべきではなかった。

そんな事も知らない自分馬鹿だったのか。

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勘違いしている方がいるようなので一応書いておきますが、収入で言えば夫より私の方が良いので、いわゆる「下方婚」と思います

夫婦間の力関係は、収入のみでは決まりません。

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障害児を産む可能性は充分理解していたつもりでしたが、障害児の受け入れ先がこれ程までに少ないとは知りませんでした。

院内保育は障害児を受け入れているとの情報は持っていたので、断られるとは思っていませんでした。また、実際その立場になるまで真剣には調べませんでしたが、さほど不自然な振る舞いではないと思っています

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その他のコメントについては「勘違い」等ではなさそうなので言及は控えます

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