はてなキーワード: ウェディングドレスとは
「なんでそんな人と結婚したの?」という質問は友達からも100回聞かれた。相手がしつこくて「結婚しよう」という言葉にうんと言わないと同じ言葉を100回繰り返して家に帰らせてくれなかったとか、単にウェディングドレス着て花嫁さんとして祝福されたかったとかくだらない理由しか思い出せないんだけど、一度も結婚しないでずっと独身でいたら結婚に夢ばかり描いて、結婚生活のイヤな面なんて考えもしなかっただろうなと思う。
「義理実家との付き合いがめんどくさい」とか「家事の分担でもめる(共稼ぎでも結局女の方の負担が多い)」とかは結婚生活あるあるで、たとえ大恋愛で相手に夢中になって結婚したとしても発生しうる話なので、Q&Aサイトとかで結婚生活の悩みを読むと「分かる分かる」となるのが唯一の収穫のような…。
男性並みの給料がもらえて、昇進とかもほぼ平等な代わりにやたらと独身率の高い(特に女の方)職場なので、「ずっと独身の人は結婚生活に憧れだけ持って生きてるのかな?」と気の毒な気がする。独身生活を満喫しているならそれはそれでいいんだけど、結婚生活のマイナス面を知っているというのは案外独身生活の心の支えになると思う。・
昨今アイドルゲームやアニメが多い中、度々話題に上がる「ライブにコスプレしてきていいのか」問題について事の整理と個人的な解釈をまとめたいと思います。
まず、ライブの注意事項にコスプレ可・コスプレ禁止等の記述がある場合はそれに準じたルールとなります。
一般に、公共の場所でのコスプレはマナー違反と言われています。
着替える際にトイレを占拠する場合は迷惑ですね。許可の無い場所での撮影会も通行の邪魔になりますし、管理者への迷惑になります。コスプレ自体TPOをわきまえた服装ではないです。
コスプレ禁止の明記が無いからコスプレしてもいいと判断することもできますが、一般にはコスプレは許可されたイベントにおいて行うものという認識の方が多いのではないでしょうか。
ライブ会場やその周囲もいわゆる「公共の場所」です。よってコスプレはマナー違反と考えられます。
しかし、ライブ会場では大きくキャラクターが印刷されたTシャツや法被、特攻服等の服装の方もいらっしゃいますね。その方たちの服装はコスプレに比べライブの服装として容認されているように感じます。
トイレを占拠しての着替えや、同じ服装をした仲間たちとの写真撮影、TPOから外れた服装であることはコスプレと同様です。
いったい何をもってコスプレはマナー違反と言われるのでしょうか。
個人的には一般の利用者が多く居るような施設(お店や道路等)ではそういった服装をするのは頂けないと感じます。しかしライブ会場内で有れば良いと思います。法被や特攻服は羽織るだけですし、フルグラT等は外では上着を着ていれば問題ないと感じます。
そういった点ではコスプレも会場内だけであればいいのではと思えそうですが、トイレ以外着替える場所もなければ、その服で会場に向かうのもTPOが感じられないので難しそうですね。
あとこれも個人的意見なのですがライブにコスプレは結婚式にウェディングドレスで参列するようなものという表現に頷きます。
最後に
先日の某ライブにてコスプレ参加を複数人(男性女性問わず)見かけたことを受けて書きました。
公共の場所でのコスプレは作品と他のマナーを守っているコスプレイヤーさんにも迷惑をかけていると感じます。また、許可されていない公共の場所での撮影会も管理者や利用者に迷惑です。法被や特攻服等の作品を大きく表した服装も時を場所を考える必要があるのではないでしょうか。
また、時折コスプレにしろ作品の名前等が連想される服装(ライブTシャツ等)をしているときは、その作品の看板を背負っている自覚持って問題行動は起こさないようにと聞きますが、どんな格好をしているにも関わらず行儀・作法をいち人間として自覚することが大切ですね。服装だけでなく行動に関しても重きを置くべきです。
まあ正直こんな個人的意見述べたところで昔からの暗黙の了解とかもありますし空気読んで人に迷惑かけないようにうまいこと立ち回って楽しんでる人もいますし、自分が楽しめるようにある程度目に障ることに対して鈍感になったほうが幸せですよね。
朝、早く目が覚めたので、
娘や嫁が起きないうちに朝食を作る。
「お母さんを呼んでおいで」
友だちと買い物だという娘と、
昨日は結婚式の打ち合わせの後、
お酒を飲んでそのまま帰ったと聞いている。
まだ寝ているかな、と
彼女はもう起きていた。
片手で鍵を閉めながら、
空いた片手で彼女の腰を抱き寄せる。
9月にはこの部屋を引き払って、
あと数回で終わるのかな。
「もうすぐ結婚なのに、いいの?」
そう尋ねると、彼女は「いいの」と
甘えた声で顔を胸に埋めてくる。
ゴールラインが設定されたことで、
またじっくり堪能するようになった。
ひとしきりイチャイチャした後、
昼過ぎまでうたた寝。
軽くメイクを整えただけでも、
やっぱり彼女は美しいなと思いながら、
ビールを飲む。
16時過ぎに向こうの家を出た。
家に着くと嫁も娘も帰ってきていた。
嫁に「おかえり。どこ行ってたの?」と聞かれ、
と答える。
食後は、娘が買ってきた服を
次々に着替えて見せてくれた。
同じように躍った嫁の姿が、
次に、打ち合わせでウェディングドレスを
試着しているであろう、
彼女の美しく晴れ晴れしい姿が重なった。
その後、2年ほど疎遠になっている大学時代の友人に
メールを1通送り、
布団の中で読みかけの本をめくって
1時過ぎに寝た。
わかるほんとにわかるわかりすぎてつらい。
私は親の件はないけど、かわりに「いわゆる式典・儀式に一切意義を見出せない、宴会の類が嫌い」という苦痛があった。
周囲の希望で結局式はやったけど(私がやりたくなければやらなくていいと言ってくれたのは私の母と主人だけだった。悩んだけど結局私が折れた)、せめて身内だけにさせてもらった。
披露宴はしなかったけど友人知人向けの二次会的なパーティーをやった。
ウェディングドレスも別に楽しくも嬉しくもなかったし、写真も撮りたくなかった。袖があっても二の腕がたくましすぎた。
そして儀式全般がダルかった。二次会では自分を中心に据えられた乱痴気騒ぎ、居心地が悪くて死にそうだった。
なんでこんなことやらなきゃいけないんだろう、私がやりたくないことをやっているのを見て喜んでいる人がいるなら神経を疑いたかったし、別に喜んでいない人には付き合わせて心底申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
主役になりたくない。注目されたくない。愛想を振りまきたくない。そういう心の叫びを押し込めて一日中笑っているのは本当に疲労困憊の一言だった。
花嫁だから結婚式は嬉しいはず、と思われているのが心底いやだった。親孝行と言うにはダメージがでかすぎた。
趣味でもないSMプレイを強要されて、痛いし辛いのに本当は気持ちいいんだろうとか言われるのってこんな感じの屈辱だろうかと思った。
「結婚式をやるのはいいことでめでたいこと」という風潮を一刻も早く木っ端微塵にしたい。
私は百合が好きなオタクだ。女と女なら割となんでも好きだと自認しているけれど、中でも特にハマっているジャンルがあり、それは百合がメインになっているという性質のものでは多分ないのだが、私は百合としてそのコンテンツを楽しんでいる。
(このジャンルでのことについていくつか言及するが、そこに迷惑を掛けたいわけではない。読んでくださる方がいるとして、その中に具体的なことが分かってしまった方がいても心の中に秘めておいてほしい。)
それで、私は百合を楽しむに当たって、同性愛を娯楽として消費するわけだが、やはりそこにおいて相応の敬意を払うべきだと考えるし、少なくとも自分なりに真剣に同性愛について向き合ってきたつもりだ。
ここで言いたいことは要するに「同性愛を差別しないで」ってことなんだけど。
そんなこと3億回は言われてそう。でも、改めてそう主張したくなったというか、どこかで吐き出さないと限界だ、と思うきっかけがあったからこうして書きなぐっている。
それは私の母のことが原因だ。
私はオタクなので、よくグッズなんかも買うのだけれど、その中に、大好きなキャラクターがふたりでウェディングドレスを着ているというものがね、あったんです。幸せそうでかわいくて、大好きなキャラクターの長年の想いが叶えられた(というように私には見えた)そのイラストが私は大好きで、それを手にした日にはずっと眺めていた。
眺めながら、かわいいな〜結婚できてよかったね〜〜〜最高〜〜〜〜とか思いながらふわふわした気持ちでいると、背後にいる母親に気づかなくて、「えっなにそれ、女同士?きもちわるいね」と言われてしまうんですね。はい。書いているだけでそのときのことを思い出して具合が悪くなってきた。
明らかに同性愛を差別するような発言だと思うし、イラストの片方が男性なら母はこの発言はしなかったでしょう。でも母は同性愛に差別なんてしないというし、偏見もないとなんの屈託もなく言うわけです。
なぜそんなことになっているかというと、他愛もない会話が原因。ニュース番組で同性愛に関係する話題が取り上げられていて、それについて話していたときだ。母の発言を要約して再現すると、
「世田谷区?とかで同性婚もできるようになった?みたいだし、そういうのはいいことだよね。まあでも、男同士とか、女同士とかちょっと…アレけどね!女同士でも、片方がすごくボーイッシュとかだったらわかるけど。」
もう何から何まで心底腹が立って、めんどうくさいので普段あまり母に逆らうことは言わないですけれど、こればかりは「そういう偏見ってどうかと思うけど」と言ってしまった。
母は「偏見なんてないけど。何怒ってるの?自分のことでもあるまいし。みんな心の中では気持ち悪いって思ってるけど言わないだけだよ。」と。
それでなぜか今もなお逆ギレ(?)されてあたられているという次第だ。
今さっきそんなことが起きて、前述した記憶に封をしたはずの結婚イラストのときのことも思い出してしまって、私は今本当に、本当に悲しいような、ムカつくような、よくわからない気持ちでいっぱいで、、、どうしたらいいかわからない。
私は今差別してしまった、と思ったならどうしようもあるんだろうが、自覚がない人に直してくれというのは、まず無理な気がする。
恋愛は男と女がするもの、という価値観に塗りかためられた頑なな考え方に、対抗する術を私は持っていない。
私のいるジャンルでは、それを百合として楽しんでいる人もいるし、そうでない人もいる。
だからなのか、「同性愛表現はやめろ」だの「これは同性愛差別じゃないか」だのいろいろ問題になりがちで、頻繁に炎上している、気がする。
私は作品を愛しているし、同性愛にも本気だから、公式側の人間の差別発言や、受け手側の差別的嚙みつきに、それを見てしまえばいちいち本気でしんどくなる。
私の母ほどあからさまなことを言う人はあんまりいないけれど、「同性愛なんか」とか「同性愛よりも良い」とかそういう…なんていうのかな。無自覚に同性愛を低める発言をする人がすごく多い。
だからあまり見ないようにしているけれど…身内から言われるともう奇襲の域でどうにも防ぎようがない。つらい。聞きたくない。
もう何言いたいのかわからなくなってきた。
感情的になって、クソみたいに読みづらい文を書いてる気がする。
別に同性愛が嫌いでもいいんです。私がつぶあんは好きだけどこしあんは嫌いだと思うのと同じように、異性愛は好きだけど同性愛は嫌いだという人もいるでしょう。別にいいです。言葉に出さなければ殺人願望が許されるように、思うだけならいい。それに、もう、嫌いなら嫌いって言ったっていいよ。それは好みの問題だと思うから。
差別してないよって笑いながら差別しないで。社会規範から逸脱することを無意識に悪だと思わないで。お願いだから。人を好きになることで差別しないで。
耳を塞いでも、内側から聞きたくないことを囁かれるのも、本当につらいです。やめて。
一生母に自身のセクシャリティについて話すときはこないでしょう。一生、母に自分の趣味は隠したままでしょう。
なんかもうどうでもいいな、全部。
僕は今「アイカツ!フォトonステージ」(以下フォトカツ)をやってる。
アニメ、ゲーム「アイカツ!」のソシャゲ(スマフォ版リズムゲーム)だ。
それ以前にも色んなソシャゲをやっていて、その中には「アイドルマスターシンデレラガールズ」、「アイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージ」も入っている。
(以前とは言っているが、アカウント自体は消してないので適度にログインして「今こんな感じになってるのか~」ってなったりしてる。)
フォトカツ以前にアイカツ!が大好きで、アニメ、映画も何度も見たり、ライブにも行ったり、アーケードゲームもかなりやった。
年齢的にはまだ若いと思ってるけど、本来の対象年齢の女児からしたら十分に「アイカツおじさん」だと自覚はしてる。
そんなアイカツ!のアイドルの中で僕は「霧矢あおい」が大好きだ。
星宮いちごと一緒にスターライト学園に編入し、ソロではドラマ、ユニットではSoleil等で活躍しているあおいが本当に大好きだ。
いちご達の中では割りと物知りな反面、アイドルのことになると抑えが効かなくなったり、「穏やかじゃない!」って穏やかじゃない言い方するあおいが本当に大好きだ。
その他にもアニメのエピソードで色々好きな部分があるんだけど、いまいち文才がないというか、オチまで書く体力が無くなりそうなのでここでは割愛する。
そんなわけでフォトカツが今年度頭にリリースされた時もまだその気持ちは変わっていなくて、始めの課金ガチャでPRのあおいが欲しくて課金をした。
幸運なことに最初の11連ガチャの時点でPRが引けた。それも霧矢あおいだった。
初めてフォトカツに課金するときは「あおいは恒常PRだし、PRの排出率2%って言っても大したことないだろう」って思ってた矢先に出たもんだから凄くテンション上がった。
それからは暫く編成にあおいを1番(プレイ中に一定のコンボ数に達すると「その調子♪」みたいに話しかけてくれる)に置きながら、イベントやログボで貰える無償スターを集めながらその後出た新しいPRあおいを出そうと頑張った。
時々課金したりもしたが、一気に課金するほど貯金がない、手元にガチャ出来るほどスターを持ってると回したくなる誘惑に負けそうになると言った点から、1ヶ月に1回程度、11連ガチャする分だけ課金すると言った自分ルールを作って回してた。
結果、暫くPRどころか「SR1枚確定」の確定された1枚のSRしか出ないことが殆どだった。
もちろん3days全公演に参加して、多分全部の公演で多かれ少なかれ泣いてた。
そのライブで一番印象に残った曲が、このライブで初めて公開されたいちご、あおい(の歌の人)の「青い苺」だ。
いちごとあおいの人選、「青い苺」というド直球みたいなタイトル、振付に歌詞にと初めて観た時は「これもうアレじゃないですか!」って思いながらもう感動しっぱなしだった。
その反面「(二人の関係からこうなることはとっくに)知ってた」「(今までそんな素振りばっかりだったけど)ようやくか」みたいな気持ち悪いオタクみたいな感想も湧いてた。
そして4月になり、アイカツ!はTVでの放送が終了してアイカツスターズ!と名前とキャラを一新して放送が始まった。
あかりジェネレーション(シリーズ3年目)からあおいの出番は減ってはいたが、「これで本当にTVであおいと会えなくなるのか…」と思うと少し悲しくなった。
でも、フォトカツがその悲しさを和らいでくれた。
なぜならフォトカツにあおいがいるから。
しかもその頃にはガチャだけでなくイベント報酬のR、SRのあおいも手に入ってこの段階であおいだけで8人編成「あおい8」が組めるようになってたと思う。
そして6月、僕のフォトカツライフの中ではかなり大きな出来事が起こった。
「キュートにジューンブライド」というタイトルのイベントで3月に初披露された「青い苺」がようやくフォトカツでプレイできるようになった。
これには素直に嬉しくて、アイカツスターズ!のアーケードが稼働した関係で少し落ち着いてきたフォトカツのやる気を再び燃え上がらせてくれた。
しかし、そのイベントと同時に公開されたあおいの新規PRにはかなりのショックを受けた。
あおいがウェディングドレスを着ていた。
ジューンブライドのイベントだし当然だろとは思いつつも当時の僕にはかなりのショックだった。
イラストが、ドレスが、ポーズが、表情が、あおいが可愛すぎた。
でもドレスを着ている、何かを思わせる表情でこちらを見ている、こちらに手を伸ばしている。
それがたまらなくショックだった。
幸い身体に大きな不調を起こしたりはなかったが、数日は頭からアイカツ!が、あおいの事が離れなかった。
Twitterを後で見返したらいつも異常に恥ずかしいこと書いてfav貰ってたり、会社の飲み会や友人とのSkypeでこの事について話したくてしょうが無い状態になってた。
数日経ってそんなショックから落ち着いて今までどおりのテンションで「あおいが可愛い、大好きだ」と言えるくらいまでになった。
そして、このウェディングドレスのPRあおいをガチャで入手したい気持ちをどうするか考えた。
いつもどおり課金して回す以外に道はないのだが、悲しいことに仕事が減って給料は減ってたし、ボーナスもまだ先だったため貯金がギリギリだった。
これまでのフォトカツの新規PRが期間限定だったこともあり今回も期間限定で入手しないともう二度と手に入らないのではと思い焦っていた。
その後どういうことか今まで十分に読んでいなかったお知らせを5度読みくらいして分かったのが、「今ガチャを引くとウェディングドレスのPRあおいが出る確率が高くなってるけどその後恒常PRになる」ということだった。
救われた気がした。
いつでもあのあおいに会いにいけるようなそんな気持ちで悩んでた気持ちが一気に晴れた。
そんな晴れた気持ちでイベントに臨み、イベントで集めた無償スターで11連ガチャを回したが結局先行販売期間中にウェディングドレスのPRのあおいを入手することは出来なかった。
僕はフォトカツをまだ続けている。
今日から始まったイベントはダンシングディーヴァの新曲「きらめきメッセンジャー」がプレイできるイベントだ。
同時に始まったガチャではスプラッシュの立花ミシェルが初めてSRで登場したので出来れば欲しい。
こんなミーハーなこと言いながらも未だにウェディングドレスのPRあおいが僕の手元に来ることを願いながら今回もガチャを回してる。
でもね、あなた今いくつ?
39歳で、もうすぐ40ですよね!!
この職場に来た時に、あなたの年齢を知らない人から「高校生くらいのお子さんがいるの?」って聞かれたよね?
そんなおばさんのドレス姿、誰が喜ぶの?
みんな苦笑いしてましたよ。
ドレスなんかどう見ても20代前半の子しか似合わないデザインで、どう頑張っても許されるのは20代後半まで。30代はアウト。
他に似合うドレスがあったでしょうに。
それをもうすぐ40のあなたが身に着けたら似合わないこと分かるよね?
よくそんなのを身に着けたドアップの顔の写真を送ってこれるよね。
恥ずかしいと思わないのか。
そもそもあなたの結婚式なんて、わが社から誰も出席してないし、
写真を送ってくれなんて誰も頼んでないのに(確認済)よく写真を送ってきたね。
自己満足にもほどがある。
大体この写真どう処理すればいいの?
誰も見ないし邪魔なだけだよ。
ありがとうも言わず、誰も聞いていないのに挙式や新婚旅行の予定だけみんなの前で発表してやめていったあなたに、みんなうんざりしています。
やめたのにこれ以上うんざりさせないでください。
世界では未だに宗教が原因で戦争やいがみ合いが絶えないのに、日本ってすごい。
何がすごいって誰もが信仰を全くといっていいほど意識していないこと。
それなのに初詣は行くし盆と彼岸にはお墓参りに行くし、お賽銭は投げるしお葬式にはお焼香するし。
かといってクリスマスを祝うこともウェディングドレス着て神前で永遠の愛を誓うことも咎められない。
しかもその上で、新興宗教に対して一定の自浄作用も機能してて、外国からの宗教がほとんどはいってこないわけじゃない。
それなのにほとんどの人が信仰を意識してないってことが本当にすごい。
一般人(大手民間企業女性総合職と独立して起業した男性)が、まるで芸能人や女子アナ、モデルがするような豪勢な結婚披露宴をする理由って何なんでしょう。
フォトギャラリーが送られてきたのですが…内容がドン引きw式場のカーテン越しの光に目を細める新郎、長椅子に不自然な格好で横たわるウェディングドレス姿の新婦、何故かグランドピアノの前で新郎新婦がお互い違う方向を見つめて手を取り合っている後姿の写真、他にも色々と新郎新婦の不自然なポーズで撮られた写真の数々が沢山来ました。何か、東京カレンダーの変な小説?に出てくる様な参考写真を彷彿させられました。
モデルたちのビジネス用のインスタグラムみたいでした。不自然なポーズの中に「幸せな笑み」「無表情でアンニュイ」「プロモーションビデオのワンシーン的なアレ」みたいな。
お美しいのですが、これは誰得なんだろうかと。ナルシストなのだろうか…。因みに、ご祝儀を幾ら包んだら良いか解らないレベルの結婚式だった。式場やメニューやら諸々見たら色々察する位。やっぱりトンデモナイ豪勢な物が出てきて、ヨーロッパの貴族か?と思う位。
日ごろのFBもいわゆる「キラキラ系」なのですが、新郎が起業したという事で、新婦はブランディングも兼ねて一所懸命「しっかりリア充やってます」「奥さんの仕事ちゃんとやってます」「富裕層生活してるでしょ?」アピールする事で起業が安定している事を暗にPRしてるのかなーとは思って「奥さんも、そういうPR活動が大変だなー」位に思ってたのですが…。
これ
http://www.huffingtonpost.com/entry/i-love-you-hatsune-miku_55ef16c4e4b002d5c076ca27
とりあえず序盤のあたりだけ訳しておく.
もしポップスターに肉体が必要と考える人がまだいたら,ショックを受けるかもしれない.
何年か前,ヤマハはボーカロイドを開発した.それはコンピュータに合成音声で歌わせるソフトウェアだった.2007年にそのソフトウェアは身体を獲得し,初音ミクと名づけられた.(hot-sue-neigh mi-kooみたいに発音する)青い髪のアニメ風少女で,世界中の生身の人間たち相手にツアーをし,不思議なホログラムで舞台に立ち,彼女のファンによってボーカロイドソフトウェアで書かれた電子音楽を熱唱する.彼女が世に出てから何年も経つ間,何人もの男女のボーカロイドシンガーが加わった.また彼女はいくつかのゲームの主役だ.これらの出来事は本当に奇妙でかつ,マドンナがウェディングドレスでVMAのステージに立って以来の,ポップシーンにおける重要な出来事だろう.
これは21世紀的なアイディアだ.すべてクラウドソースの歌をうたうデジタルポップスターというのは.ミクは舞台の上で足首を捻挫したり声が出なくなったりする心配をする必要もない.まあ魂のない企業産娯楽の現れといえるかもしれない.しかし,彼女はファンが望むからそこにいるのであって,そうなると等式の流れが逆転する.彼らが彼女に音楽を与え,同時にコンサートで応援する.
別の言い方をしよう.もし皆が朝起きて急にミクを嫌いになっていたとすると,コンピューターホログラムは使われなくなるだろう.だけど別に悲しくはない.同じことがTaylor Swiftに起こると,彼女は何年もの間つまらないアルバムをリリースしたあげく,限界に達してDemi Lovatoの二の舞になるだろう.それはとても悲しい.
歌う日本のホログラムが世界中を闊歩してることを信じない人にとっては受け入れづらい話かもしれない.レディガガの前座だってつとめたし(以下メディア展開について略
後半は北米でローカライズ版が発売されたProject Mirai DXの宣伝とローカライズ担当者のインタビュー記事になるので割愛.気になった点を以下に示す.
・ユーザーによって音楽やさまざまなコンテンツが作られていることが注目に値する
・たくさんある曲を適当に聴いていると,一曲くらい自分好みの曲がみつかる
ユーザーによって作られているという点は,最初期のボカロシーンには当てはまるかもしれない.例えばネギもたせたりデフォルメキャラが作られたりしたのはその頃のユーザーの手によるものだ.しかし一旦製作者と視聴者の関係が確立してしまうと,両者の間には埋まらない溝ができた.現在の話をすると製作者の層とボカロのメイン視聴者の層はまったく異なると思う.視聴者は製作者を応援したり,お金を落としたり,ファンアートを描くくらいはできるかもしれないが,自分で製作者と同等の活動をしたりそれを目指したりはしない.ちょっとややこしくなるけど「ボカロソフトのユーザーである曲の製作者」と「曲を視聴するユーザー」に完璧に分かれている.確かにユーザーによって作られているコンテンツと言えなくもないけど,それはファンメイドのコンテンツとは違うように思う.なぜならファンは視聴者側が圧倒的に多いし,製作者はむしろ自分の曲を聴いてもらうため仕方なくボカロを使うという面があるからだ.ファンが直接コンテンツを作るのではなく,製作者を評価するなど間接的な方法でしか関われない.その少々歪な状況が英語圏には伝わってない(別に伝わらなくてもいいと思うが).外国のボカロファンはさすがに異国の奇妙なコンテンツにはまるだけあって熱意はすごく色々なことにトライしてるみたいだけれど,逆に日本にはほとんど伝わってこない.
もう一つの点はひとつの本質に迫っていると思う.ボカロは曲の良し悪しは別としても何万もの歌が動画サイトに登録されている.曲風も製作者の好みによって千差万別で,メインストリームで受け入れられないようなニッチな曲風も多い.たくさん聞けば自分にぴったりの曲を見つけることができるだろう.これはAKBやラブライブで女の子を増やしまくって誰か一人くらいは推しが見つかるだろうという戦略と図らずも同じだ.とはいえ手がかりがないと膨大な時間が必要なので,口コミとかセガのゲームのようなとっかかりが鍵になる.まあ今はネット上のボカロの知名度は高いので,ネットを積極的にやってる人なら一曲二曲は知ってたり,もしくは好きだったりするんじゃないかと思う.敷居の低さとコンテンツの多さは強みとなる.
確かにGorillazは君がリンクした動画でまったく同じことをした.2006年のグラミー賞でも同じことをしようとしたけど,問題があってテレビ用にごまかすことになった.費用がかかりすぎるので同じ形式のコンサートはもうやってない.Musion社から借りている技術も向上してない.
ミクに使われてる技術は全然違うもので,開発元の内製だ(訂正-もともと違う会社と共同開発したようだけど,今はクリプトンが全責任を負っている).その方法はもっとシンプルだしパテントに縛られることもない.一方でミクの3Dアニメーションソフトウェアは無料でファンメイドのものだ.おかげで非公式のファンメイドコンサートが世界中で定期的に行われている.とってもクールだと思う.訳ここまで.
コンサートはやはりお金かかるんだろう.ほうぼうに散らばった曲の版権者,3DCGクリエーション,自分達が主演できるわけでもないバンドの何曲にもわたる練習.オペラとかはもっと収支がひどいみたいだけど,彼らは自分が好きだから赤字でも上演するそうだね.
しばらく疎遠だった従姉妹からようやく送られてきたメールは結婚の報告だった。
ぼくは従姉妹のことが本当に好きだったのだ。
2つ年下の従姉妹とは小さい頃によく遊んでいた。姉妹である母親どうしが祖父の会社で手伝いをしていたためいつもお互い連れられて来ていたのだ。
まだ幼い時の話ではあるが、親戚同士で旅行に行けばいつも二人で手をつないで歩いていたし寝る時ですら同じ布団に入っていた。
長女である従姉妹は兄が欲しくて、末っ子であるぼくは妹が欲しかった。そんな思いが一致したためか二入は本当の兄弟のように仲が良かった。いや兄弟以上だったかもしれない。
長女らしく優しいおっとりとした性格は、従姉妹をいつもにこやかな笑顔にさせていた。
兄弟の顔色ばかりみていた末っ子のぼくにしてみれば、ぼくの行動を無条件に笑顔で受け入れてくれる従姉妹は、隣にいてくれるだけで安らぎをもたらしてくれる存在だった。
ぼくはそんな従姉妹のことがいつのまにか本当に好きになってしまっていたのだ。
祖父が会社をたたんでしまったことで顔を合わす機会は減ってしまったが、小学生になっても休みになればお互いの家を行き来し、母親同士の仲が良かったこともあり旅行なんかもよく一緒に行ったものだった。
そんなある日、久々に親戚同士が集まることになった。
鬼になったぼくはちょうど目の前いた従姉妹の身体を抱えるように捕まえたのだ。
その時ぼくの両の手飛び込んできたのはわずかながらも確かな胸の膨らみだった。
従姉妹は戸惑うぼくの手からそそくさとぬけ出すと、そのまま鬼ごっこをやめて離れていってしまった。
その日を境に従姉妹は親戚の集まりから遠ざかるようになり、中学校に上がる頃には全くと言っていいほど顔を出さなくなっていた。
それからも会う機会を探してはいたものの、本当に理由を見つけることができなかった。
ただ会いたい。それだけでよかったのかも知れない。しかし、従姉妹という関係がそれを許してはくれないような気がしたのだ。
その後は人並みに女性ともお付き合いをしたが、従姉妹よりも魅力的と思える女性には出会うことはなかった。
忘れられないまま、それでいて会う理由もないままにいつの間に時間だけが過ぎ、ぼくは実に30も後半を迎えるまでの歳になってしまった。
いつまでも結婚しようとしないぼくに母親はしびれを切らせ会えば小言を並べてくる。
そうこうしている間に、とうとう母親の知人の紹介でとある女性とお見合いをすることが決められていた。
会ってみて驚いたのは、その女性はなんとなくではあるが従姉妹の面影を持ち合わせていたことだった。
その頃、従姉妹もまだ結婚をしないままだった。だが、散々に悩んだ結果、ぼくはその女性との結婚を選んだ。
結婚後すぐに子供にも恵まれ、人並みに幸せを噛み締めていた頃に悲しい知らせが舞い込んできた。
伯父である従姉妹の父親が病に倒れたのだという。しかも残念ながらその病は回復の見込みがないものだった。
母親とともに駆けつけた病室には、ぽつんと従姉妹は座っていた。
看病で疲れたためかすこしやつれて見えたが、すっかり一人の女性に成長した従姉妹はただただ美しかった。
そんな従姉妹は、ぼくに気づくと悲しさを見せまいと力なく笑ってみせたのだった。
その笑顔があまりに綺麗で、従姉妹に対して抑えていた感情の堰が音を立てて壊れていくのがわかった。
やはりぼくが好きなのは従姉妹だった。その気持に蓋をして得た幸せが間違えであることに気づいてしまったのだ。
しかし今更それをどうすることもできない。新しい命を前に、それが望まれていなかったものだなんて言えるわけがないのだ。
程なくして伯父さんが他界した知らせが届いた。
葬儀に顔は出したものの、ぼくは従姉妹に合わせる顔など持ち合わせているはずもなく、言葉を交わすことはなかった。
それから数年、従姉妹とはまた疎遠だった。それこそ連絡をする理由がなかったのだ。
ぼくは気づいてしまった真実をまた心の底奥深くに埋め戻そうと、必死で家族と向き合っていた。
そんな従姉妹から久々にメールが送られてきた。内容は結婚の報告だった。
ぼくの気持ちを知ってか知らずか、結婚式でカメラマンを頼みたいということらしい。
どこで聞きつけたのか、疎遠だった割にぼくが趣味で写真を撮っていることを知っていたようだ。
もちろん断る理由はなかった。
なぜなら、ウェディングドレスの従姉妹を、誰よりも、それこそ新郎よりも近くで見ることができるのかもしれないのだから。
その後もメールで少しのやり取りをしながら、最終的な打ち合わせは当日に顔を合わせてからということになった。
逃げ出したい気持ちがなかったわけではない。こんなに私情にまみれたままで写真なんて撮っていられるものかという疑問がいつも頭の片隅にはあった。
そうして当日、チャペルの中でホテルの関係者と打ち合わせをしていると、純白のドレスに身を包んだ従姉妹が母親に手を引かれながら入ってくるのがわかった。
挨拶もままならないままに思わずカメラをむけると、従姉妹はあの時のようにまた力なく笑ってみせたのだった。
そうして今ぼくの手元には千を超える写真が手付かずのままにデータとして並んでいる。ただ一枚、その時の笑顔が収めらた写真の調整を終えたところで、他の写真に手を伸ばせずにいたのだ。
従姉妹がこの笑顔を見せたのはこの時限りだった。それ以外の写真には感動の涙と笑顔が溢れているが、それを見るのは、ぼくにはただ辛く感じられてしまった。
式場で初めて新郎を見た時に、ぼくはハンマーで殴られたかのような衝撃を覚えた。
なぜならギョッと思えるのほどに新郎がぼくに似ていたからだ。それも顔や表情だけではない。言葉の選び方や身振り手振りまで、本当に気持ちが悪くなってしまうほどに似ていたのだ。
誤解かも知れない。独りよがりかもしれない。
でもきっと、従姉妹はぼくのことを好きでいてくれたのだ。ぼくが会いに行くのを待っていてくれたのだ。
なのにぼくは、世の中の常識だなんてつまらないことに遠慮して、従姉妹を困らせてしまうかもしれないなんて都合のいい解釈をして、逃げてしまった。
あの時、父親の病室で見せた従姉妹の笑顔は、あきらめを受け入れる笑顔だったのだろう。もう助からない父親の死を少しでも前向きに受け入れるためのスイッチが入る瞬間の笑顔だったのだ。
だとすれば、従姉妹が純白のドレスに身を包んで現れた時に見せた笑顔も同じものだろう。
ぼくへの想いと期待とを、もうあきらめたのだということを教えてくれるための笑顔だったのだ。
なんのことはない。
結局は、ぼくが一番に望むものを手放していたのは他でもないぼく自身だったということだ。
きっとこの写真を従姉妹に渡すことはないだろう。それどころか、他の誰ひとりにだってこの写真を渡すつもりはない。
10年ほど前だろうか。自分がまだ独り身の時に、お酒の勢いを借りて従姉妹の携帯に電話をかけたことがあった。
聞けば流星群を見に遠く離島へのツアーに参加しているとのことだった。
そんなぼくを疎ましくもせず従姉妹は電話に答えてくれたのだった。
映画の予告編や広告で、実際の内容とは異なる印象を与えようとする戦略って、ちょっと意図がわからない。
宣伝文句として刺激的な言葉を並べてあったとしても、少し読み方を変えれば間違いではないのであれば、いちおうはフェアネスを担保できると思うけれども、ちょっと擁護が難しい場合は困惑してしまう。
思っていたのと違ったけどおもしろかったー、と観客が思えるのならいいのかもしれない。
けど、実際には、予告と違うじゃねーかふざけんなうんこ、とクレームのリスクのほうが高くなるんじゃないかな。
嘘大げさ紛らわしいどころか明らかに虚偽ともなると、賠償とか返金とか要求できたりするのかな。
具体例をあげると、ベイマックスさんは、まあいいかなと思うよ。
予告編のイメージと実際の内容はずいぶん違ったけど、間違ったことは言ってなかったし、ベイマックスさんに癒されたし、実際おもしろかった。
だが、リアル鬼ごっこ、てめーはだめだ。
JKのきゃっきゃうふふ感はよかったけどJKを減らすとか関係なくなってるし、マリコさまとかJK設定すら放棄してやがるし、あでもウェディングドレスでの蹴りは脚の長さが映えてかっこよかったです、陸上女子はまあいいんじゃないかな、うん。
何より「総勢37名全員女子」という表記がひどくて、どう見ても37名どころでは済まない人数だったはずだし、「全員女子」とか書いておいて男を出すんじゃねーよ気持ち悪い。ウホッじゃねーよ、うんこ。日常系萌えアニメに男が出てきたときの阿鼻叫喚を知らないのかよ。ふざけんなちくしょう。
1,なぜ同性愛結婚をしたいのか理解できない。特に結婚式をあげたいというのが理解できない。
結婚式って異性間で行うように作り上げられてるじゃん。例えば衣装にしても、男性はこの服装で女性はこの服装でって。それを無理やり同性で二人ウェディングドレスとか着て異性婚者とおんなじ格好して結婚式をあげる意味がわからない。ウェディングドレスとか異性婚を前提としてそれに意味が付与されているわけだし、神父の言葉とかもそれを前提とされてるじゃん。
そういう以前からある異性婚を前提とした因習をもとにしたものなのに、同性愛者がそれをしたいというのが理解できない。同性愛ってそういう因習とかから自由なものじゃないの?
例えば、同性愛者の結婚類似の結びつきを祝う、独自の形態の祭りを発展させればいいじゃん。なんでわざわざ異性愛者と同様の結婚形式をとろうとするの?
「理解できない」っていうか、理解=受容する気がないだけでしょ。
異性婚者の結婚式は「異性婚者だからあの格好」なんじゃなくて、それを着る人が男性あるいは女性だからあの格好なんだよ。そこを意図的にごっちゃにすんなよ。
男性はこの衣装で女性はこの衣装って決まってるから、同性婚のときも男性同士は二人とも男性の衣装で、女性同士は女性の衣装でやってるってだけじゃん。
そもそも結婚式で異性婚前提にされてるのは祝詞くらいなんじゃないの?
少なくとも日本の結婚式においては宗教的意味はすごく薄れていて「結婚する二人のお披露目・お祝い会」ってのが存在意義なんだから、祝詞をそれに合わせて変えることが言うほど非合理的と思えない。
なんでわざわざ「結婚類似の結びつき」を別に作って独自の祭りを今から発明しなきゃいけないの?めんどくせえ。めんどくさすぎる。
それにその路線で行くとどうせその「お祭り」ではウェディングドレスや燕尾服や白無垢やその他異性婚者が今結婚式で使ってる衣装は使うなとか言われて着ると叩かれたりするんでしょ?
でも個人が個人のイベントで何着ようと本来は自由であるべきなんじゃないの?
2,なぜ同性愛者が異性愛者と同様の愛の形を持っていると当然のように語るのかがわからない。
いやさ、世の中には様々な性愛の形があって、人に相当の迷惑をかけない限りそれぞれ認められるべきだと思うわけですよ。SM,グロ,動物。。。いいんじゃん?
でもなぜ同性愛だけが異性愛と同様の地位を占めるべきって主張できるの?
例えば統計的に同性愛者も異性愛者と同様の長い期間1対1の強い結びつきを維持すると証明されてるの?パートナーをとっかえひっかえしたりしないの?ほら、一部のゲイたちは「ハッテン場」とか言って乱交に近いような行為をする傾向にあるとか、まことしやかに言われるじゃん。それって一般的な結婚をするような異性愛者の行動とはかけ離れてると思うんだよね。もちろんそういう人たちが同性愛者の一部でしか無いのかも、とも思うけど、一部なのかかなりの部分なのか全然外からはわからないよね。友人にも直接は聞けないけど、なんとなく飲みの席とかで聞くには性に奔放だよね。
もし、安定したカップルが形成できていてそれで異性間結婚と同様の社会的認定を受けたいなら、やっぱり結婚類似の制度を作ってそれで認定してもらえばいいよね。それで結婚と同様の扶養とかの制度を受けられると。結婚と全く同じ制度である必要はないよね。
制度に愛の形とか持ち出すことの意味がわかんない。なに「愛の形」って。愛って有形なの?
人に相当の迷惑をかけない限り認められるべきなら、同性愛者で結婚考えてる人はお互い好き合って結婚するわけで誰にも迷惑かけてないんだから認められるべきじゃん?
なんで同性愛が異性愛と同様の地位を占めるべきでないって主張できるの?
カップルの安定度? 安定度で測るの? つーか安定度って何??
パートナーをとっかえひっかえするのだって「人に迷惑をかけない」なら認められるべきでしょ。それは異性愛間でだってそうじゃん?
逆にそれで人に迷惑をかけるんだったらそれは異性愛同性愛関係なくやめるべきじゃん?
なんで「結婚類似の制度」が必要なのかが全然説明されてないんですけど。
3,そもそもなんで結婚して結婚と同様の社会的認定や庇護が得られると思っているのかわからない。
結婚して何かメリットが得られるとしたら(本当にそんなものが得られるのかは不明だが)、それを同性愛者がほしいと思うのは理解できる。でも、それが与えられるかは別の話だ。
例えば、日本人のだれかがアメリカ人にとっての当然の権利であるアメリカの投票権がほしいと思ったら、、、アメリカに帰化するしか無い。「日本人のままでもアメリカの投票権がほしい」というのは気持ちは分かる。僕ももらえるならほしいかもしれない。でも、そりゃむりだろう。
なので、これまで異性間のものとして扱われてきた結婚というものに同性愛者が入り込んできても、すぐにじゃあ同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな。
こういう結婚はこれまでの歴史、経緯で異性間のものとして扱われてきたという話をすると、「武田信玄も男の小姓に恋文を書いていて、同性愛は歴史的にも認められてきた」とか主張する人がいる。これは無理筋だと思う。僕も同性愛は長く歴史上存在してきたんだろうな、と理解はしている。だけど、同性結婚は直近の近代まで認めた社会があったとは聞いたことがない。同性愛は否定も差別もする気はないが、同性婚はそれとはまた話が別じゃないかな。
え、なにこれ。「ぼくは同性婚者に異性婚者と同等の庇護や認定や権利を与えたくありません!」って言ってるだけじゃん。論拠とか無いじゃん。
あなたが同性愛者イヤだから同性愛者に結婚制度認めたくないんですってゴネてるだけですよね。
「昨日まで黒人は奴隷だったんだから今日から法律変わって自由人になったからって白人と同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな」、って話に対して、「そりゃ法律変わったし本人ら何も悪いことしてないんだから認定と庇護与えない方がアカンのは明らかでしょうが。与えないこと正当化してんじゃねえよ」とか思わんのかいな。
いやどんな感想を抱くのも自由だけど、それを他人にもっともらしく主張して認定と庇護を付与する云々レベルにまで真顔で首を突っ込んでくるのはやめてくださいよジョークでも不快なのに。人の権利左右するような話題ですよ?
鬱陶しいし怖いわあ。これが通っちゃったら「ぼくは女に選挙権とか認めたくありません!」「わたしは男は全員去勢するべきだと思います!」とかも通っちゃう話になるじゃん。
イメージとしてはリベラルをきどりたい異性愛者の声が大きいようにみえる。たとえばエルトン・ジョンのように著名人が日本でカミングアウトをして権利拡充を歌っているのだろうか。マツコ・デラックスやミッツ・マングローブですら、「オカマ」という売り出しで同性愛的側面は強調していないように思える。また、そういう活動もしていないように見える。
誰が推進してるかってそんなに重要か?
つうか普通に同性愛者の団体とかが推進してんじゃないの。今だって権利制限されすぎだし。普通に同性婚が制度として確立されれば同性カップル利益あるじゃん。
ということで、「同性愛者に対する結婚類似の制度を作って認定していくべきだが、結婚と同じにしてしまうべきではない」というのが理解できない。
本人たちはなんでそんなことしたいと思うんだろう。
また、それを積極的に認めていこうと考えている異性愛者たちはちゃんとつきつめて考えているのだろうか。
ぼくには「同性愛者の友人もいる」し、全然同性愛者を差別する気はないんだが。
1,なぜ同性愛結婚をしたいのか理解できない。特に結婚式をあげたいというのが理解できない。
結婚式って異性間で行うように作り上げられてるじゃん。例えば衣装にしても、男性はこの服装で女性はこの服装でって。それを無理やり同性で二人ウェディングドレスとか着て異性婚者とおんなじ格好して結婚式をあげる意味がわからない。ウェディングドレスとか異性婚を前提としてそれに意味が付与されているわけだし、神父の言葉とかもそれを前提とされてるじゃん。
そういう以前からある異性婚を前提とした因習をもとにしたものなのに、同性愛者がそれをしたいというのが理解できない。同性愛ってそういう因習とかから自由なものじゃないの?
例えば、同性愛者の結婚類似の結びつきを祝う、独自の形態の祭りを発展させればいいじゃん。なんでわざわざ異性愛者と同様の結婚形式をとろうとするの?
2,なぜ同性愛者が異性愛者と同様の愛の形を持っていると当然のように語るのかがわからない。
いやさ、世の中には様々な性愛の形があって、人に相当の迷惑をかけない限りそれぞれ認められるべきだと思うわけですよ。SM,グロ,動物。。。いいんじゃん?
でもなぜ同性愛だけが異性愛と同様の地位を占めるべきって主張できるの?
例えば統計的に同性愛者も異性愛者と同様の長い期間1対1の強い結びつきを維持すると証明されてるの?パートナーをとっかえひっかえしたりしないの?ほら、一部のゲイたちは「ハッテン場」とか言って乱交に近いような行為をする傾向にあるとか、まことしやかに言われるじゃん。それって一般的な結婚をするような異性愛者の行動とはかけ離れてると思うんだよね。もちろんそういう人たちが同性愛者の一部でしか無いのかも、とも思うけど、一部なのかかなりの部分なのか全然外からはわからないよね。友人にも直接は聞けないけど、なんとなく飲みの席とかで聞くには性に奔放だよね。
もし、安定したカップルが形成できていてそれで異性間結婚と同様の社会的認定を受けたいなら、やっぱり結婚類似の制度を作ってそれで認定してもらえばいいよね。それで結婚と同様の扶養とかの制度を受けられると。結婚と全く同じ制度である必要はないよね。
3,そもそもなんで結婚して結婚と同様の社会的認定や庇護が得られると思っているのかわからない。
結婚して何かメリットが得られるとしたら(本当にそんなものが得られるのかは不明だが)、それを同性愛者がほしいと思うのは理解できる。でも、それが与えられるかは別の話だ。
例えば、日本人のだれかがアメリカ人にとっての当然の権利であるアメリカの投票権がほしいと思ったら、、、アメリカに帰化するしか無い。「日本人のままでもアメリカの投票権がほしい」というのは気持ちは分かる。僕ももらえるならほしいかもしれない。でも、そりゃむりだろう。
なので、これまで異性間のものとして扱われてきた結婚というものに同性愛者が入り込んできても、すぐにじゃあ同様の認定と庇護を与えましょうというわけには行かないんじゃないかな。
こういう結婚はこれまでの歴史、経緯で異性間のものとして扱われてきたという話をすると、「武田信玄も男の小姓に恋文を書いていて、同性愛は歴史的にも認められてきた」とか主張する人がいる。これは無理筋だと思う。僕も同性愛は長く歴史上存在してきたんだろうな、と理解はしている。だけど、同性結婚は直近の近代まで認めた社会があったとは聞いたことがない。同性愛は否定も差別もする気はないが、同性婚はそれとはまた話が別じゃないかな。
イメージとしてはリベラルをきどりたい異性愛者の声が大きいようにみえる。たとえばエルトン・ジョンのように著名人が日本でカミングアウトをして権利拡充を歌っているのだろうか。マツコ・デラックスやミッツ・マングローブですら、「オカマ」という売り出しで同性愛的側面は強調していないように思える。また、そういう活動もしていないように見える。
ということで、同性愛者が結婚をしたいというのが理解できない。
僕の意見では、将来的には同性愛者に対する結婚類似の制度を作って認定していくべきだが、結婚と同じにしてしまうべきではない。また、同性愛者たちは結婚類似の制度ができれば、異性愛者と同様に安定した家庭を築いて社会に貢献できる、ともっとアピールすべき。
異性愛者の結婚が以前より多様化、不安定化していて、異質な結婚形式を認める準備ができている、というのもそのとおりだとは思うしね。
同性愛結婚に反対する人が「僕にも同性愛者の友人がいるが」と話すことに対して、反論者が「テンプレうざい」的な反応するのはなんなんだろうね。わけわからん。
アラサーの新婚。結婚というイベントに全力で向き合えず、ゼクシィも買うこともなく、照れて流すように済ませた。
親族だけで、それなりに満足できるアットホームな挙式をした。結納も婚約指輪もなし。
自分の性格的にそれで良かったと思ってるし、派手な結婚式がやりたかったわけでもドレスを何着も着たかったわけでもない。
それから半年ほど過ぎ、同僚の結婚式に参列したり、結婚準備の話を見聞きしていると、無性にむなしくなる。
それなりの学歴でそれなりの会社なので、結婚する同僚はそりゃもう、キラキラしている。女も男も。
「金がないから若者は結婚できない」ってどこの世界の話ですか?っていうくらい、浮ついてるし金かかってる。
カルティエの指輪、2週間のハネムーン、新郎のサプライズに感涙の新婦、手の込んだビデオレター、余興、
フワフワのウェディングドレス、とにかく大勢の友達・友達・友達が集まる二次会、三次会・・・
自分にはいらないし、羨ましいわけでも、悔しいわけでもない。たった1日に500万円使うとか、心の底から金の無駄だと思う。
ただ、そういうスイーツ的価値観を無邪気に甘受できる女に生まれ(育ち)たかったなーと思って、言い表せない悲しさで寝られない。
貧乏性、スイーツ的なものに対する憧れ、というのが正にドンピシャで刺さる。
派手婚できるくらいの貯金はあるけど、いくら持ってても結婚式に大金をつぎ込めない。
ブライダル業界は悪という意識が強かったので、結婚式と披露宴はプランナーを通さずすべて自分で手配した。
指摘があったように、キラキラした結婚式=大人の通過儀礼ということが分かってきたから落ち込んでいるんだと思う。
様々な労力(恩師に会いに行ったり、休みごとに打ち合わせしたり、友達に色々な頼みごとをしたり)を大幅にカットし、
その後のキラキライベント(新居への友人招待とか)もやりたくないし、やっても楽しめない、と思うのは、大人としての程度が低いと思う。
会社の飲み会で頑なに「一発芸できません!」「カラオケ歌いません!」と主張する新人のよう。
キラキラを体験もせずに勝手に凹むのもどうかと思って、海外でフォトウェデイングしてみたけど、思ったより楽しめなかった。
好みを変えたいという馬鹿な悩みなので、凹む。