はてなキーワード: 等価とは
メタバースはバーチャルに展開される世界のことだよね。世界を構成するのは根本は人間関係に因るので、バーチャル上の人間関係が主軸になる文化って感じか。
会話する、遊ぶ、仕事する、なんか協力する、そういういろんな関係がバーチャル上で完結する。いやそれって今までもツイッターで繋がってる友達とかオンラインゲームで繋がってるとかあるやん、だから目新しくないやん、って思うけど、多分それら従来のは『現実(プライマリ)』と『仮想(セカンダリ)』にわかれてて、メタバースはこれを『現実・仮想(両方ともプライマリ)』に変えてこうぜってこと。仮想を現実+αのエンタメ領域じゃなくて、現実と等価として扱う。だからバーチャル上で完結する経済圏やビジネス、娯楽、生活基盤が最終的に求められると拡大解釈してる。
なんというか無理難題で草。
VRは必然的に視界をジャックしてしまうから、それが最強の難題だよね。SFみたいにフルダイブする=寝てる間にメタバースで生活するようなものができない限り限界が見えてる。なので、xR関連に限ってはMRで現実世界を拡張するほうが本命だと思う。なぜなら情報端末の進化の系譜に乗ってるから。けどそれだと現実世界しかないからメタバース成り立たない。
スマホの話。結局あれって、電話→持ち運び電話(初期のショルダーバッグみたいなやつ)→携帯電話(デカ目の子機レベルからガラケー)→スマートフォンというように、過去の技術を置き換えて生まれたものだよね。
つまり、一般に普及するためには、それが妥当性のある進化の系譜を持っている必要があるってわけ。別の例なら馬車→車(移動手段の置き換え)とか、メガネも人体機能の置換えだよね。けどVRはどうだろう。デバイスとして妥当な系譜を持ってるとは思えない。けど強いて言うなら、世界を置き換えるとは言える。なので結局メタバースとVRはほぼほぼセットで考えるというか、相互にありきで進化すべきってこと。
さぁ、相互にありきで進化すべきだけど、どちらも無理難題を抱えている。なので、残念だけど、今盛り上がってるVR×メタバースは単なるバズワードでおしまいになることがわかる。
とはいえ、この分野に企業が投資しまくっていくようだから、多分なにかめちゃくちゃ便利な発明は出てくると思う。たとえば遠くにいる人と現実と遜色なく話せるっていうのはいろんな人にとって価値があるし、これに限って言えば、会話→ビデオ通話(ZOOM)→もっと便利な遠隔コミュニケーションツール、という系譜に乗るので妥当だ。
相手の人生と自分の人生が等価だと思って結婚するやつは少ないと思うよ。
俺は今29歳。
学生時代からの友達はもうほとんど結婚して、子供のいるところも多い。
結婚に興味がないわけじゃないけど、「できるならしてみたいな」くらいの気持ちしかなくて、この程度の気持ちしかない人間が結婚なんてしちゃいけないと思ってる。
「悲しいこと辛いことは半分、嬉しいこと楽しいことは2倍」みたいなことはよく聞いたけど、責任は倍程度じゃ済まないと思うんだよな。
人間ひとりの人生背負ってるわけだし、子供が産まれたらもっと増える。自分や相手の親のことも考えないといけないかも知れないし。
「自分の行動で迷惑を被る人がいる」って考える怖くて仕方ない。それが自分の好きな人なら尚更。
結婚した人ってそういうことを全部乗り越えられるって覚悟を持ってるってことでしょ?
すげえよほんとに。
「人生背負ってる」って上で書いたけど、背負うだけじゃなくて背負わせてるんだよな。
結婚してるんだから相手も自分のことを好きでいてくれて、相手が望んで自分の人生を背負ってくれてるってことなんだとは思う。
でもそんなこと申し訳なさすぎる。俺なんかの人生背負ってもらうなんて申し訳ない。
「俺の人生半分やるからお前の人生半分くれ」って言ってた国家錬金術師がいたけど、あんなこととても言えないよ。(セリフ自体は好き。また読み返したくなった。)
俺の人生に価値がないとは全然思わないけど、結婚したいなと思うほどに愛する人がいたとして、その人と自分の人生が等価だとはとても考えられない。
好きになればなるほどその差は開いていくと思う。
俺自身に恋愛経験が殆どないからこういう考えになってしまうのかな。
何が言いたいのかよくわからなくなった。
今のこの気持ちが嫉妬なのか憧れなのか、この文が愚痴なのかなんなのかもよくわからん。
「責任感のない奴が結婚できない理由をダラダラ並べてるだけ」って言われたら、それはそう。
乱文長文、失礼しました。
針小棒大な記述がなされた文章を読むことほど困難なことはふつうの人生の中ではなかなか見つけられないかもしれない。一般的に、文章は読み易い方が良しとされがちだ。けれども、文章を読み難くすることによって自分の好ましくない人々がアプローチしてくることを阻害することができるというのは、低質な文章の読解困難性を逆手に取った、なかなか興味深い技術でもある。また、相手に渡す必要がある文章なのだが何らかの事情で内容を読まれるのを回避したいという場合に、相手の蒙昧さをうまく活用して本来指摘すべき問題について問題提起させないというようにすることすら可能だ。読み難い文章を提示することで読者層の足切りに使うこともできる。無意味に複雑な文は、内容など碌に見られないために本来炎上すべき過激な発言ですら炎上しないことがある。たとえば侮辱するときの語をバーバリアンという言葉に切り替えるだけで炎上の発生確率が低下する。こうした衒学的な文や文章によって人を容易に遠ざけられることに関する確かなエビデンスを提示することは残念ながらできないが、ここではヒューリスティックによる、どうすれば読み難くなるかの方法をいくつか紹介していきたいと思う。予め断っておくが基本的には敵対するための類のものであり、重用すべきものではない。まず第一に、段落分けや箇条書きまたは句読点などそもそも読みやすくレイアウトするという理解を促進させる技術を使わないことが肝要で、一般的に読みやすくする技術の逆を行うことで一気に読み難い文章ができあがる。第二に、仮に無意味だろうがなんだろうがとにかく内容が薄くてもいいから長く長く書いて、一目見たときに長いと思うほど文を長くすることも必要だ。長さは重要なファクターであり文章の長さというのは真剣さの表れとして見られることが多い。実例をあげるなら、好きだよ。だから今日うちのホスクラに来て、という言葉と、俺さ、最近ずっとお前との将来のことを色々考えてて、本当にこの先このままずっとやっていけるのか不安なんだよね。これあんまり言っちゃいけないんだけど今の俺の実力だと店でも実はそんなに売上立ってないし幹部にもなれないから、このままだとお前を幸せにできないかもしれないって毎日考えてまじでずっとつらい。もちろん俺が考えてることは薄っぺらいって思うかもしれないけど、でも少しでも信じてくれるなら今日うちのホスクラ来てほしい、という言葉では意味は等価でも後者からは真剣味を感じられる人が多いことだろう。長い文章というものは一生懸命考えたのだと思われる傾向がある。また長文は重いので、重さを感じさせることができる。人は鈍重な文章を好んで読みたがりなどしない。実際に長い重そうな文を見てここまで明瞭な理解度を保って読んでいる人はほとんどいないだろう。その証拠に、ここまでの文の中に「ちんぽ」という言葉に準ずる言葉が入っているのだが、誰か気づいただろうか。むしろ目が滑ったりはしなかっただろうか。これが第三の、初出の言葉を既出であるかのように振る舞う技術だ。高難度の用語を文章に散りばめてそれについて何も解説しないといったケースも似たようなもので、相手を逆戻りさせ、わざわざ必要ではないことを調べさせる類の技術である。また、初出の言葉をその出現からしばらく離れたところで解説するなどしても良い。ともかくわからずとも全てを読むという技法を持っていない人を全員排除することができるテクニックだ。ちなみにご存知の通り、先の言葉に準ずる言葉はこの文章のどこにも存在していない。このような手法でテクニカルタームや難しい語彙または外来語や外国語をなんの前置きもなく使用することによって読者人数のEliminationを行うのは造作もないことだ。シンプルに高難易度のボキャブラリーを使うだけでそれがどれだけ相手にとって不都合なものでも承認されることがある。実はよくわかってないけれど、これだけ洗練された高度な文章なのだから大丈夫であろうという推定のもとに内容が承認され、その結末はなかんずく小気味良いものだ。逆に文章の末尾に初出の言葉を記述してもいい。人は理解できないとき逆や裏を考える癖があり、後ろから推測されることがある。この文章にも囮の一環として最後に無関係の文を追加しておいた。それからこのように読み難い文章では意外かもしれないが、誤字脱字を消すことも必要である。誤字脱字は絶対にあってはならない。誤字や脱字というものは文章に求められるクオリティが正当で重要になればなるほど、許されなくなる。逆に誤字脱字が無いか著しく少ない文章はそれだけで内容の如何に関わらず品質が高いとみなされる。文章が公的な性質を帯びれば帯びるほど、読みたがるような奇特な人物の数は減る。たかが誤字脱字で全体の評価が落ちるのは読み易い文章のときでも同様だが、本質的に相手に価値をもたらさないまさにこのような文章の中に誤字脱字を入れ込んでしまうと致命的になり得る。第五に、例示しないことも重要だ。最後に、ページを跨がせ、ある1つのトピックを中途半端な位置で複数のページに分割することで、相手にページの往復を強要させることができる。ページの往復作業は憂鬱な作業であり、ページ間の往復で情報が消えやすい。2つ同時に見せるとわかりやすくなってしまうようなものは、必ず分けるようにする。図などは至高の素材であり、10ページ目に14ページの図を使った説明を書くなどすれば、それだけで大半の人間は理解を放棄する。他にもいろいろとあるがこのぐらいにしておこう。大変読みにくかったことだろう。だから私はワクチンに反対だ。
なにかというと弱者の救済は自分も弱者になる可能性もあるし倫理的に情操教育とか人権的にという話になりがちだが
実際のところ強者が弱者に転落することなんてそんなにあるわけでもないし、いざそうなったときにさあ福祉だという待遇もない
いいことなのかそうでもないのか、やさしさや余裕なのかという話でそれぞれの価値観と感情を結び付けて答えを都度はぐらかしているけど
すこし余計な話をはさむが
先般炎上した不要とかいう話は特にそうだが感情というのは情報が人間に直接接触して産まれてくるもので それをもとに行動をすると
直情的で短絡的な結果にいきつく
それはその場は気持ち的に解決するので気持ちがいいものだが後から大きくリボで積み重ねた歪みが清算にやってくる
あとでその支払いタイミングになったところで最初の問題発生時と解決が不十分だったから新たに問題が維持されていたことはさておいて
取引や法制度で感情をはさまないように文章化するのと晃かな基準で条件を交換するのはその無駄を省くためだ
まず局面的にホームレス個人をみて一般人個人の感想としてというのは最終的なところまで置いておいてほしい
まず感覚でどう思うか、それが大事だという呼びかけこそが炎上を招きより小さいコストで大きく問題を解決する邪魔になる
炎上商法はその非効率を用いてなにが儲かるのかというと 非効率で手間がかかりその場で不満が生じるそこに商品をもってくるのだ
日照りで乾燥して喉が渇いた状態をつくって 冷やした水をもってくるのと同じ
冷たい水で元気になって 取り組むやる気を伸ばした後で日照り対策をしよう なんて順番は「炎上させられた側だけ」の都合で
炎上によって問題が発生した当事者や対象は感情で乾燥を抱いている外野とは関係なく状況が進行している
福祉はやさしさや思いやりで行っているわけではない
不要で迷惑なやつらを処分するのに一番効率がいいのは それを邪魔だと思っている側に取り込んでしまうことだ
これが生活と完全に切り離された不要なものだとすると 捨てるだろう
その辺にポイ捨てしてるのがなくならない理由 そのへんにゴミをすてるのが無くならない理由
家庭内でリサイクルしたり継続して利用できるものであればどうだろうか
ブランドものを購入したときの持ち帰り用の紙袋は 電気屋でもらう紙袋やコンビニの袋と同じ扱いだろうか
使いでがあるのでゴミにならずに済んでいる
堆肥として利用可能な生ごみや 燃料として利用可能 造形物などの作品に利用可能であったり素材としてつかえるもの
または買い取り手があり売れるもの 引き取りてがあるものはその辺にポイ捨てするだろうか
不要だと切り分けることによって社会としてはそれに対処するコストが発生する
ゴミの回収や収集 処分といった作業に人手が使われることにコストが発生する
これを捨てずに済むようにつかえば コストはぐっと押さえられるだろう
全国民を確認しその中で適切な処理として 処分を割り出す必要がある
これは単純に国が二つになるくらいにコストがかかるのではないだろうか
次に不要であることが確実だと判明したあとの人間の処遇が必要になる
不要であれば即座に廃棄しないと問題が発生することは明らかである
それだけでもコストが大きいけれども そんな処分が追いつくはずもない
であれば一旦確保しておく必要があるがその安全の維持と管理機能には
健全な人間の何倍もコストがかかる 規律を守らず常識では考えられない行動をし
倫理観もなく行動する人間が健康な人間より低いコストで管理できるわけがない
済む場所を分断し貧民街と富裕層で分けるように壁をつくればよいかもしれないが
そういった文化の国は多くある
結果は見ての通りだ
富裕層は貧民からの一斉蜂起に怯えながら貧民層は国益をただ引き下げながら生活し
一向に埋まらない溝を維持管理しつづけるためにコストを払い続けることになる
社会的機能を利用することができて最低限の生活を選択することができ
かつ常軌を逸した行動で利益や生命を守ったりする必要がなくなる
社会として管理されている範疇に 常識的な低層者とあわせて近いほぼ同じ扱いの延長で
対応することができる
飼い犬の維持には金が掛かるが 山に放たれた野生の犬を社会と接点のある部分について
ホームレスが感情的にイヤなものなので 目の前からきえてほしい という感情をもって
不要なものこそ排除や処分といった 存在について等価なコストを支払い快感を得ようとする
無駄な富裕層の遊びみたいなものに踊らされ消費を促されるより前に
不要なものこそ捨てずに取り込み利用することができれば 収入や元手が少なくとも
より大きな利益に繋がることを見据えてほしい
倫理が常識が人権が というところで思考を停止して反論したり直情的にポリコレであれば殴っていい棒だと
一旦ホームレスは汚くて気持ち悪いから不要で殺してもいい と思考実験してみてほしい
たしかに禁忌でおぞましい話でそんなこと考えるべきでも話すべきでもないと思うが
その上で それがいかに無駄なことか 嫌悪し反発するより取り込み遠ざけるほうが
いかに効率的で安全で 管理下にあり感情的にロスを少なくすることができるか
そのプロセスを全員が触れることができる自由があることこそかなり稀有な平和と安全のある日本ならではのメリットだろう
汚い嫌だ不要だきもちわるい それを排除しようとすることこそコストが増大し
その増大したコストと手間につけ入って 本来不要なプロセスや商品を割り込ませてくる
地域猫さんも色々問題抱えてるけど、猫さん好きだけど猫飼えない人間からしたら野良猫さんは明らかにプラスの存在。
ホームレスは見てもなんとも思わんか、マイナスだからこの時点で、可愛い(猫は全猫可愛い)猫が、マイナスの人間に勝ってる。
猫(のほとんど)>底辺の人間 ってのはみんな理解してくれるはず。
言い方は悪かっただろうし、反発食らうのはしゃーないけど、あーゆー謝罪(見てない)に持っていくのが大好きな人間の限界みたいなのを感じた。
もっと素直になれよ。
猫様は、不快にさせる人間よりも、興味ない人間にも勝ってるだろうに。
ここで人権ガーとかいう人間は、ビーガンとか馬鹿にして笑ってるだろうけど、今のところ命の尊さに明確な秤なんてないんよ。
魂みたいなのがあって、人間が100でイルカが80とか、そういう基準あればまた話は変わるけど。
命は等価だってしたら、結局人権なんて、己と同種族か否かみたいなエゴの塊で出来てる概念なんで。
そんな綺麗ごとなんかよりも、全ての命を等価として扱って、自分の好き嫌いで取捨選択するほうがよっぽで合理的で理に適ってる。
いやネタ元を読んだが、証明したのは転売屋の存在する前後の等価性であり、資本主義の自由市場であることには変わらないとと思う。
それは元のノートの主張とは真逆の結論だと思う。以下 p22 より
マスクの例に限らず,超過需要発生時に財を割り当てる際,価格メカニズムに頼るのが最も効率的で あることは,ミクロ経済学の基本事項である.だが,その場で競争的に価格を決めない限り,取引価格 は瞬時には上がらないというのもまた真実である.「市場に任せておけばよい」という楽観主義は,価 格も上がらず生産も間に合わない過渡期(短期)には,何の役にも立たない.とはいえ,短期的な超過 需要は,他の配分方法によって解消されるわけではない.仮に,くじで選ばれた人だけ低価格(たとえ ばモデルの P0)で購入できるとしたとき,購入権の売買がなされたらどうするか.配給も同じだ.結局, 権利を購入したいという人間が現れる限り,非効率性は解消されない.つまり生産量限定時における超 過需要問題の解決は,価格が上がることでしか解決できないのである 13).
生産が追いつかないときは製造業者が価格を上げることで非効率性を解消できるが、転売屋がそれをやっても効果は同じだ。ノートは、だから転売屋の存在は無意味だというのを全体通して言ってるんだけど、よく考えると現実には製造業者は価格を柔軟に上げないでしょう? だったら転売屋の初期の行為には意味がある、彼らの値付けが正しい、って事になる。
あと、ノートでは転売屋の市場が異なるケースでは効率性に貢献する、とも言ってるね。この点も転売屋の意義にプラスだ。
ただ、転売屋に有利な仮定になっている、と断り書きのあるものの中で「最終消費者は,転売屋と取引をすることを厭わない.」は、もはやあまりにも現実離れしている、と思う。そう設定しないと分析が複雑になるだろうから仕方がないことだけども。
最近、「人権感覚のアップデート」とか言われることが多い。しかし、人権思想は短く見積もっても200年~300年以上の歴史があるので、過去もアップデートがあったのは間違いない。
人権思想の走りと言うべきもの。いわゆるマグナ・カルタや権利の章典などで人権思想の基本となる考えが整備されていった。
いわゆる「国家からの自由」と平等。政府が令状なしに逮捕したり、法律の規定や裁判なしに刑罰を与えたり、特権階級をもうけたりすることを禁じた。
いわゆる「国家への自由」。要するに参政権。必然的にこれもついてきた。
人権における画期的なアップデートである「国家による自由」が実装された。19世紀末~20世紀前半に成立し、これにより近代的な人権制度が一応の完成を見たといってよいだろう。
単に自由なだけでは恵まれない人が割を食うばかりになるので、生存権、教育を受ける権利などのように最低限保障すべき権利を規定し、政府が施策により実現することを義務とした。もちろん、これが特権であり平等性に反するという主張もあったが、現実に劣位に置かれている人を、平等な水準にするということで理論的な解決を見た。
「かわいそうな人」の権利を守るために、そうではない人の権利を制約しようと言う思想。
アンチファによるヘイトスピーチ規制の主張や、フェミニストによる表現規制の主張、性犯罪に対する要件の緩和や厳罰化などが人権3.0。
しかし、これは当然に、権利の制約になるので、人権1.0と真っ向からぶつかることになる。
もちろん、人権1.0でも、他人の人権を侵害する行為は禁止する(=政府が処罰する)ことはできる。殺人を行う自由という人権は認められない。
しかし、これは同時に、他人の人権を侵害したことが明確に立証できないことは禁止(=処罰)できない、ということと等価である。これを問題視する向きが人権3.0を主張し、人権1.0を攻撃している。
今日の、立憲民主党本多議員の離党騒動はまさに、この人権1.0vs人権3.0という問題である。人権1.0の立場に立てば、明白な権利侵害があることに対して「のみ」規制されるべきと考える。だから、様々な限界事例を例示して、規制の問題点を指摘する。対して、人権3.0の立場に立てば、明白な権利侵害があるかどうかはっきりしない事例でも、加害者の処罰が漏れることが到底許し難い。これに対して人権1.0の立場からは「十人の真犯人を逃すとも 一人の無辜を罰する勿れ」「刑法典はならず者の権利章典である」といった原則が掲げられ、被害者やその周辺の感情に寄り添わないことが美徳とされる。
増田は、この人権3.0へのアップデートを、バグが多く、危険なものだと考えている。罪刑法定主義や法の適正手続きといった手法、権利の衝突の解決手段としての公共の福祉、明白かつ現在の危険、こういったさまざまな近代的な人権と法制度に基づく道具立てとコンフリクトをする思想は、最早、人権とは呼べないだろう。単なる魔女狩り裁判を正当化し、フォークデビルを火あぶりにする、俗情との結託である。こんなものは、全く「立憲主義」などではない。
数々の困難を乗り越えて五輪への出場が叶い、おめでとうございます。
オリンピックは皆様にとって一生に一度のことだと思います。庶民にも多くの「一生に一度」のことがあり、それを今回のコロナ禍で諦めざるを得なかった人が大勢いるのですが、庶民の一生とスポーツエリートたる皆様の一生とは等価値ではなく、当然皆様の一生の方が価値のあるものです。下級国民の逆恨みに負けず頑張ってください。
皆様、オリンピックに人生をかけてこられたのでしょう。飲食店の店主も飲食店の経営に人生をかけてきたわけですが、まあ彼らのような下級国民と世界に誇るアスリートたる皆様とでは人生の価値が根本的に違いますから、皆様の人生の方が政府から優遇されるのも当たり前だと思います。アスリートファーストってやつですね。アスリートの人生は平民のそれより重いのです。
バッハ会長が政府要人から歓迎会を開いていただけるのも喜ばしいことです。世間では新入社員の歓迎会もベテラン社員の送別会も開けていない企業がたくさんあるでしょう。しかし、オリンピックという4年に1度の興行は彼らのような庶民の人生の転換点よりも遥かに重要なのですから、オリンピック関係者が特別扱いを受けるのは至極当然ですね。五輪貴族・スポーツ貴族の皆様には貴族にふさわしい接遇を受ける権利があります。平民が同じ待遇を求めるなどおこがましいにもほどがありますね。
海外からの選手の隔離が簡略化されるのは実に素晴らしい。一時帰国を希望する日本国民は14日間の隔離に耐え、日本への留学を志す留学生に至っては渡航許可すらままならない状態が続いておりますが、母国に帰ってこようとする同胞や日本に憧れ日本について学びに来ようとする未来の知日派よりも、五輪が開催されるならば場所はどこでも構わないというグローバルな意識をお持ちのスポーツ選手の皆様が厚遇されるのはまさにグローバル化時代の象徴といえます。狭量な愛国心にとらわれずグローバリゼーションを目指す決意を感じ取りました。
池江璃花子さん、あなたは白血病という大病からの復活を成し遂げられました。白血病は血液のがんであり、とても重い病気ですが、それを乗り越えたあなたの努力には敬意を表します。コロナ禍で医療崩壊した大阪ではがん病棟が縮小され、がん患者の治療が後回しにされるという事態になりました。五輪後の東京でも同じ事態になる可能性があるのですが、まあ、あなたが同じ病気というだけで他のがん患者のことを心配しないといけない義理はどこにもありませんから、そんな些事はお気になさらず競技に邁進なさってください。治療が間に合わず手遅れになった大勢のがん患者の生命よりも、あなたが持ち帰ってくれるはずのメダルの方がよほど重いのですから。
内村航平さん、何を言おうが世界は変わらないと謙遜されていましたが、あなたのご発言の通り、政治家や組織委の皆様は「できない」じゃなくて「どうやったらできるか」を必死で考えてくださり、こうして五輪の開催に漕ぎ着けることができました。ロックフェスのようなイベントについては「どうやったらできるか」を誰も考えてくれなかったようですが、平民の娯楽よりもスポーツ貴族の皆様のお遊戯会の方が優先順位は高いですから、致し方ないことでしょう。オリンピックをどう開催するかについて頭を悩ますのは国民の神聖なる義務ですが、ロックフェスの開催についてはそんな義務はありませんからね。「国民の皆さんとアスリートが、同じ気持ちでないと、大会はできないのかな」とも弱気なことをおっしゃっておいででしたが、実際には、国民の8割が反対しているにも拘らず大会を開くことはできそうです。アスリートの皆様の決意は国民の意思などというつまらないものよりも重いというアスリートファーストの原則が証明されたのです。どうか誇ってください。
末筆になりますが、とろろ料理などが美味しゅうございますので、旬からは外れますが是非ともお召し上がりいただき、粘り強さを身につけていただきたく存じます。これだけ優遇されてきた皆様ですもの、日本史上最多のメダルを日本にもたらしてくださるのは当然ですよね。
皆様が飛行船ヒンデンブルク号のように大空に雄飛し、かの有名なピエール・セドリック・ボナンのような聡明さを発揮して、豪華客船タイタニック号のような偉業を達成されることを、心よりお祈り申し上げます。
分かる。分かるよその気持ち。そっちに注力している様に見える。確かにそう見えてもおかしくない。
これが全てだ。
先にも言った通り、C2機関を批判したい側(批判側)から見れば本業のゲームは疎か、公式サイトは無い。
100点の対応ではない。これは間違いない。
ただ、批判側もお行儀が悪い。
そう、批判側はただただお行儀が悪い。
悪いのはちゃんとしない向こう(C2)なのに!
いやそうなんだけどさ、他の人に「そうだそうだ!」って言ってもらった方が君も心強くない?
こういうのはどうかな?という提案です。
少しは批判する側にも真っ当な批判はある、という事を分かって欲しいし伝わって欲しい。
①個人情報を掘るな
メディア欄の映り込みまで徹底的に洗ってマウントを取る。そんなやつら。
ポリコレカードバトルを行うならまぁ有効かもしれんが、残念ながらこれは自分のシンパを増やすバトルなので、残念ながら逆効果である。
大抵の人間は個人情報を掘られることを好まないし、性癖を暴露されたくないし、顔写真を広められたくない。
「C2批判してる連中、迂闊に触れるとメディア欄とか漁られそう」
そう判断された瞬間我々のTwitterアカウントは残念ながらブロックリスト行きである
少なくとも、「俺は批判してお前は擁護する。それ以外はしない」というある種の信頼関係を築かねばシンパは増えない。
方や鍵の中に追い込まれ、プリコネスレでしょっちゅう発言が貼られるようになり、もう方や一躍時の人である。
俺らは中立の人、どちらかと言うと運営寄りの人を取り込んでいかないといけないんだ。
その時に、彼らをフォローしてたり、彼らを擁護してたりするだけでアレルギーを起こされる。
残念ながら彼らは目立ちすぎたし、想像以上に嫌われている。
よって、彼らにはヘイトを集め、批判側のガス抜きの立ち回りに立ってもらおう。我々は表向き対運営と同じ基準で批判することで筋を通し、「やりすぎ」として先制ブロックしてシンパを増やしていこう。
③顔コラで遊ぶな
普通の人間は他人の顔コラで遊ばない、という事を頭の片隅でいいから入れておいて欲しい。
と思うかもしれんが、(是非はさておき)オタクの共通言語になっている(しまった)淫夢と、非批判側が信奉しているゲーム(カレー屋)のP(とか関係者)。
残念ながらこの両者の扱いは等価ではない。後者の方が扱いは重い。
さっき筋を通せと言った口で言うのもなんだが、顔コラで遊んでる瞬間、我々が取り込むべき層は我々をブロックして終わりである。
「非批判側の気持ちに寄り添ってやる」位しないと批判側に対しアレルギーを持ってしまった現状はひっくり返せない。「個人情報掘ってくるお前らが、顔写真を見つけた瞬間どうすると思う?おもちゃにされたくないわ」なんて思われるのは至極当然だろ?
すまん、これは本っ当に純粋な疑問
チャーリーがどう、艦王がこう、簡悔がそう、
【】がああで、ムガブロがどう。
往々にして、残念ながら愚痴スレの用語が出た瞬間そいつはブロックされる。
繰り返しになるが、我々の目的は真っ当な批判だけを、茶化すこと無く、多くの人間に浸透させる事
この4点を抑える事で、まずは非批判側、ひいては運営に対して、「いつもの輩とは違うぜ」「俺は筋を通して真っ当な批判を平等にするぜ」と向こうにも分かってもらう必要がある。
それがまず、スタートラインだ。
そうだ。ここまで来てやっとスタートラインなんだ。
共感してもらう為に、どう攻めればいいかのポイントはどこにあるか。これを考えてみようと思う。
まず、批判の先にあるゴールを決めようか。
「お前らの目的は何だ?」
カレー屋を止めさせたいのか?二度とリアイベを開かず、ゲーム運営だけしてて欲しいのか?
ゲームシステムが俺のアドバイス通りになって欲しいのか?五月雨の改二が欲しいのか?
インターネットレスバトルで構って貰いたいor論破したいのか?
まずこれを明らかにした方がいい。固定ツイなりプロフに書いておけば尚更良い。
そうでない場合、適当な目に付いた事柄にとりあえず文句言ってる人間、きぃのん氏やなぎ氏が目立ちすぎているんだけど、所謂クレーマーとしてブロックリストに入れられてしまう。これはやめた方がいい。
「真っ当に批判する」というのは斯くも難しい。
「真っ当な批判者が出てきて欲しい」だ。
しーらむちゃんの話で冷静に時系列を整理して、グッズ発売当時は商標登録されていなかった、登録後はグッズを売ってないから問題ないかもしれないとブレーキを掛けた批判者はいたか?
パンの話で例外があったときぃのんに伝えた批判者はいたか?(信者は冷静に頑張って一応例外があると見つけていた)
神戸牛で協議会側から声明が出て事実が確定するまでは落ち着けと声高に叫んだ批判者はいたか?(信者はめちゃくちゃ叫んでた)
(真っ白とまでは言わないが)白を、無理やり黒くして、法律違反だと騒ぐその先の目的はなんだ?
無いだろう?目的?
正直、ただ嫌いだから叩きたい、だけだろう?
よぉし、信濃進水させるぞ!と考えるか?
なーんてなりませんよ。
「俺は○○(具体的に)を要求する」
「信濃を実装しろ」「公式サイトを立てろ」「メンテ延長には詫びを配る様にしろ」
こういう内容だ。複数あっても良いが、括らない方がいい。分けるんだ。相手に伝わりやすい。
「増田は愚痴スレの影響を受けていない、ダブスタを取らない批判者が出てくることを要求する」
ここまでやったら次だ。
「落とし所を決める」これだ。
世の中、非常に残念ながら0-100の決着は無い。
精々信号待ちしてたら追突された、位だよ。
だからさっき立てた要求に対して、どこなら妥協できるかだ。これを決めるんだ。
理想はこう、でもまぁこれくらいならして欲しい、なーというラインだ。これも宣言して欲しい。
この行為は非常に難しい。自分だけが折れるように見えるからだ。出来ている人間はほとんど居ない。
「この人マトモじゃん!ちょっと話を聞いてみるか!」
そう思われることが1番の目的だ。これを忘れないで欲しい。
「妥協できる人間」はそれだけでマトモと思われる率が格段に上がる。だからやってみて欲しい。
増田の妥協案は「個人情報を掘る行為ときぃのん氏なぎ氏を諌めながらC2批判する人間が出てきて欲しい」だ。ブロックしろとまでは言わんし愚痴スレ絡んじゃうのは妥協するよ。
主張をぶらさない事、とはどういうことか。
目の前に美味しそうな事件(メンテ延長、Twitterの誤字、神戸牛の話)があっても、一旦落ち着け。
それが解決すると、自分の引いた落とし所ラインに近づくか?を考えて批判した方がいい。
例えば「信濃を実装せよ(終着点)。せめていつ頃やるつもりか出せ(妥協ライン)」と主張している人間が「神戸牛の商標違反しやがって!だからダメなんだ!」と言っても普通の人には「関係あるか?」である(なお、増田は商標周りで攻めるのは分が悪いと思ってると明言する)。
筋を通すこと、とはどういう事か。
己が1度批判したことが改善されたら、それは言及し肯定するという事だ。
「改二が少ない!」と1度でも触れた人間は、昨今の改二実装ペース(飛躍的に増えた事実がある)には、「増えてきたのはよし、ペースをもっと上げてくれ」と肯定するべきである。
ここで「まだ足りない!まだ!」と言ってしまうと、評価は途端にただのクレーマーである。
また、同じ立場の批判者であっても、対C2と同じ基準で批判しなくてはならない。
例えば「ツイートの誤字ww」と、言及したのであれば自身は一切の誤字は許されないし、友人であっても誤字はネタにしなくてはならない。
筋を通す。ということは斯くも難しいのである。
増田はこれを読んでいる、読み切った批判者から見れば信者そのものであろうが、
C2の動きを全肯定している訳では無い。
しかし、「批判者はやりすぎである。C2が可哀想だ」と思ってもいる。
1か0ではなく、玉虫色の決着、妥協ができる人間を増やし、もう少し平和的な議論があれば
ネットの反応、としてC2も言論はサーチしているはずなので、改善されるのではなかろうか。
何か刺さる箇所があった人には、どうか何かが変わって欲しい。
もしかしたらC2アンチじゃない何かのアンチの貴方も読んだかもしれない。
その何かのアンチ活動が、真っ当で冷静なアンチ活動になることを願う。
(2021/07/14編集)
ちょっとした誤字と改行の追加と末文の追加
ついでに生活保護も各種支援もあるし大学も年収380万円未満の世帯は大学費用を無償化されたぞ。生活費も出るそうな
一応、「世帯の所得がその国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない人々(相対的貧困率)」とかいう謎の指標がある
- そもそも論:
相対的貧困率は国が豊かになればなるほど増えるじゃん?それって別に貧困じゃないよね?- 住んでる地域と見えない財産によって一概に言えないのでは?:
OK、衛生的で文化的ではあっても、住む地域によってはこの収入ではスーパーで買い物すらまともに出来ないは確かにあるよね?
そうすると今度は逆に「世帯の所得がその国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない人々」という指標は厳しすぎやしないだろうか?
サンフランシスコなんか周辺物価に合わせて年収1000万以下は貧困認定とわちゃわちゃやってたじゃん?
えっ?日本でも級地制度はある?確かにありはするけど、 新宿区ですら最低生活費が約12~13万円の設定だし、
これ相当計画的に手続きを進めないと生活保護の支給開始前に宿無しになりますよね?
えっ?1級地に住める人は現在は休養が必要だとしてもそれなりにスキルのある労働者のはずで休養後に仕事を選ばなきゃ仕事があるはず?
低スキル労働者が地価が高いところに住むのがいけない?
OK、1級地に住んでいる人たちはとりあえずそれでよしとするとしても、それ以外の等級地域の人たちは?
確かに家賃は東京などの1級地に比べりゃ安い。だがインフラが脆弱で電車が無いかあっても本数が少なく、バスは不採算で廃路、通勤通学に車が必要で、
実際この平成・令和の時代において、会社に通勤が出来ない、高校に通えないから諦める、そんなことが起きちゃってるんだが?
それに雪だって降るし積もるぜ?
えっ?リモートワークを頑張ろうよ???それが適応できるレベルのスキルがある労働者ならそもそも等級の低い地域で困窮したりしませんよね?
「世帯の所得がその国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない人々」指標が等級低い地域でも厳しすぎ、
しかし逆に一部の人たちにとっては緩すぎだ。いわゆる見えない数値化できない財産を持つ人たちがいる。
頼りになる親類、友人、農業技術、DIY技術、学歴 (税知識・法知識・マーケ知識・語学など)ほか、
所得としての数値には現れないが、あらゆるものの金銭の発生をゼロに、あるいは超低コストに抑えることができる人たち。
彼・彼女らは選択的にその生活を送っており、なおかつなんら困窮しておらず、どう考えても貧困じゃ無いですよね???
相対的貧困率って一体なんのためにある指標なんですかね???
一応、「世帯の所得がその国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない人々(相対的貧困率)」とかいう謎の指標がある
- そもそも論:
相対的貧困率は国が豊かになればなるほど増えるじゃん?それって別に貧困じゃないよね?- 住んでる地域と見えない財産によって一概に言えないのでは?:
OK、衛生的で文化的ではあっても、住む地域によってはこの収入ではスーパーで買い物すらまともに出来ないは確かにあるよね?
そうすると今度は逆に「世帯の所得がその国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない人々」という指標は厳しすぎやしないだろうか?
サンフランシスコなんか周辺物価に合わせて年収1000万以下は貧困認定とわちゃわちゃやってたじゃん?
えっ?日本でも級地制度はある?確かにありはするけど、 新宿区ですら最低生活費が約12~13万円の設定だし、
これ相当計画的に手続きを進めないと生活保護の支給開始前に宿無しになりますよね?
えっ?1級地に住める人は現在は休養が必要だとしてもそれなりにスキルのある労働者のはずで休養後に仕事を選ばなきゃ仕事があるはず?
低スキル労働者が地価が高いところに住むのがいけない?
OK、1級地に住んでいる人たちはとりあえずそれでよしとするとしても、それ以外の等級地域の人たちは?
確かに家賃は東京などの1級地に比べりゃ安い。だがインフラが脆弱で電車が無いかあっても本数が少なく、バスは不採算で廃路、通勤通学に車が必要で、
実際この平成・令和の時代において、会社に通勤が出来ない、高校に通えないから諦める、そんなことが起きちゃってるんだが?
それに雪だって降るし積もるぜ?
えっ?リモートワークを頑張ろうよ???それが適応できるレベルのスキルがある労働者ならそもそも等級の低い地域で困窮したりしませんよね?
「世帯の所得がその国の等価可処分所得の中央値の半分に満たない人々」指標が等級低い地域でも厳しすぎ、
しかし逆に一部の人たちにとっては緩すぎだ。いわゆる見えない数値化できない財産を持つ人たちがいる。
頼りになる親類、友人、農業技術、DIY技術、学歴 (税知識・法知識・マーケ知識・語学など)ほか、
所得としての数値には現れないが、あらゆるものの金銭の発生をゼロに、あるいは超低コストに抑えることができる人たち。
彼・彼女らは選択的にその生活を送っており、なおかつなんら困窮しておらず、どう考えても貧困じゃ無いですよね???
相対的貧困率って一体なんのためにある指標なんですかね???