はてなキーワード: 科学者とは
思春期の頃、よくこんなことを考えていた
宇宙のことが好きで、というか宇宙に思いを馳せることが好きで、よく妄想していたこと。
今自分が立つ地面の、踏みしめている砂粒の中にひとつの宇宙があるのではないか。
あるいは
わんぱくな坊やがジュースをこぼしたその瞬間、テーブルの端から滴り落ちたその一滴の中に宇宙が始まり、その一滴が床に落ちハジけるまでが
無限の大きさを持つものがミクロの世界に広がっていること、無限の時の流れが刹那に過ぎること。
自分のこの宇宙はどこかの世界の水滴の中とか、妄想するのが楽しくて、友人に、恋人に、夕焼けに、よく話していた。
もちろん今は当時の目の輝きで周囲にこんなロマン話を出来ない。
その後20年間科学を学び、殆どのことを説明できるようになった。わからないことに仮説立てて考えることができるようにもなった。
ただ今も、自分の中で世界が揺らぐような、何か知らんがグっとくるような、感覚を味わえたことは、
決して厨二でも黒歴史でもなく、大好きな思い出になっている。
小林さんちのメイドラゴン観てて、ケツァールコアトルさんの一人称が僕っ娘であることに考えてしまった。
両手に収まりきらないおっぱい、健康的に垂れ下がった臀部、オッドアイが印象的な彼女は女性だ。
だが、お酒に狂わされたせいとはいえ、妹と同衾した過去を持つ彼女はBであり、Qだ。
その象徴が僕だ...だが、彼女から僕を取ったら何が起きるのだろう。
〜わ、みたいな言い方をかなりご年配の翻訳者の書いた海外文学でしか見なくなった今、
書き言葉に置いて、中性化はかなり進んでいるといって良いだろう。
俺が僕であたしで吾に変えても問題はない。混ぜたら危険、なんてことはないのだ。
だが、それはまた一人称によってしか文脈に性別をもたらせない怠慢ではないのか。
俺はこれを書いているのが男だとどうやって証明すればよい?
幼女戦記の3話を1.1~1.2倍速の早回しで見るとシューゲル博士が
閉経後の何も怖いものがなくなった妙齢の女性にしか見えなくなるのは
飛田さんがベテランであるがゆえに、男ではなく科学者としての喋り方、
それも容易に想像しやすいステレオタイプな狂気のそれを演じているがほかにならない。
そして台本の台詞から男がなくなった博士は正直おばさんでいい気がする。。。アーデルハイトって女性名詞じゃねーかちくしょう。
どうせ誰も悲しむ人間なんか一人もいない
機能不全家族で育ち発達障碍者として生まれた時点でこうなる運命だったのかもしれない
友達も一人もいなくて貧困だから薄暗い団地で古いゲームを繰り返し遊ぶだけしか楽しみがなかった
笑った経験など一度もない
両親はアスペルガー症候群とカサンドラ症候群みたいな感じでいつも口喧嘩ばかりしてた
学校でも過ごしづらかったのに家に帰るといつも情緒不安定な母親に怒鳴り散らされた
あまりのストレスのせいか中学生の頃には身体が不調になり 鬱病や慢性疲労症候群なような状態になった
あの時に死んでおけば良かった
人間の声が本当に嫌いになった
人間の姿も見たくない
ずっと寝たい
ずっと寝ていたいのに眠れない
検索サイトで「死にたい」みたいに検索すると「死んではいけません相談して下さい」みたいなページが出てくる
おせっかいなんだよ
こういうのやめて欲しい
世界を破滅と混沌に導くトランプやテロリストや環境破壊者は正しいと思う
自分でコントロールしてるって感覚がないのに自分の心臓や内臓が勝手に動いていたり腸内に細菌がいると思うと気持ち悪くて吐き気がする
科学者になってたら地球を滅ぼす兵器を作ったり人類を滅ぼす研究をしていたかもしれない
って書きたくなるくらいつらいことあった
http://anond.hatelabo.jp/20170109214808 のつづき
前回の記事を書いて、数日はセルクマ+netcraft3さんのブクマだけだったので、うーんはてなでもこういうの受けが悪いのかと思っていたのだけれど、久しぶりに見たら結構伸びていた。どうせ批判コメ(しかも本質に関係ない、放射能アレルギー的なもの)にあふれていると思ったが、意外や意外、肯定意見や建設的な批判が大半で、まだまだ日本のインターネッツも捨てたものではないななどと思ったりした。
その中でも、commonな批判と、その他目についたコメントに対する返信をしたい。
また、以下の返信については、あくまでもコメントに対する返信であって、コメントをした人に対する(人格)攻撃のつもりは一切ない。そう見えたのなら私の文章力の問題だし、そもそもミスリーディングな文章を書いたのが問題だろうと言われたらそれまでである。すいません。
(これだけ書いても多分ある程度の人は攻撃されたと感じてしまうのだと思う。文章力のせいだろうか。ちょっと申し訳ない)
この文章は、あくまでも彼の主張の問題をつくだけのものである。福島が安全かどうかというのは全く別の問題であり、ここではそれに関する議論は一切しない。
これでも噛みつかれそうなので一応書いておくが、別に私自身は特に何かを避けているとかはない。単に面倒だからだ。
と書いたら、id:reijikanさんから『「単に面倒だからだ」ということだけれども、早野さんはその面倒なことをやっている。』というコメントを頂いてなるほど書き方が悪かったなと思った。
単に(面倒くさくてw)一言で面倒と言ってしまった私が悪いのだが、これは後半でも書いているように、「私は私の責任でもって積極的には気にしない」という選択肢を取っているということである。したがって、例えば乳幼児の親が放射能汚染に敏感になっていることを批判することは私には決してできない。そもそも上で挙げた資料には、誤差すら書いてないので原理的に批判はできないのであるが…。
また、早野氏がどれだけ何をしていようと、(これも語弊を招くかもしれないが)私には一切関係ない。また、彼の行っているその「アウトリーチ活動」とやらは科学の世界と一切関係のないものであるというのが先の文章の主張である。
これは一番星を集めていたid:IkaMaruさんやid:njamotaさん、また「牧野さん政治発言繰り返してるじゃん…」とのトラバなど、結構たくさん頂いた指摘である。
結論から言うと、もちろん科学者が政治をするのはまことに結構なことである。有馬氏など、日本の科学行政にも科学者あがりの人は実際に何人かいる。政治発言にしたって、牧野さんが政治発言をtweetするのも結構だし、M川さんが天皇制に反対するのも結構だし、xxさんが毛沢東と会って公安の監視下に置かれたのもどうぞお好きにやってもらえればいいとしか言えない。外国でも例えばロシアのサハロフさんなんかは大変有名である(こう書くと業界が極左ばっかのようだが、まぁそんなことはない) 。
というかそもそもよく考えたら私のこの文章だって見ようによっては部分的には政治的であると言えなくもないかもしれない。
私が問題だと思うのは、「科学的発言の皮をかぶった政治発言」である。そりゃあ(直接面識もないのにこんなに例に出しまくって申し訳ないが)牧野さんが集団的自衛権に反対しているのを見て「あぁなるほど天文学的には日本国は9条を保持すべきなのか」と思う奴はこの世にいないだろう。こんなのは誰がどう見たって個人の思想信条を発言したに過ぎないと思うわけである。翻って見るに早野さんが「躊躇なくイエス」「どこにもない」「自信を持って言える」「間違っている」と繰り返したらどうか。(あぁ、http://bzfd.it/2jkl8zc からコピペしてめまいがしてきた…。)これを見て政治的発言だと思うやつは相当ひねくれているか科学的知識を持っているかのどちらかである。
もっと別の例を出そうか。いわゆるニセ科学、例えばなんとか水やなんとか菌のたぐいであるが、これにはほぼ必ずと言っていいほど「~博士」「~名誉教授」の肩書を持った人のコメントが寄せられている、ような気がする。人は一般に、そのような肩書があれば科学的に中立な発言としてそのコメントを見てしまうということの証左であろう。「水素水で若返りました(65歳男性)」とは発言の重さが違うのだ。
(どうでもいいが、改めて上の記事を読んでみたがこれは本当にとんでもない記事である。『その批判、一部は当たっているんですよね。「あなたたちは、全員を測ったわけではないでしょう」「安全な人だけ選別しているのではないか。きっとどこかで高い人がいる」という点は特に当たっている。その通りだと思いました。』なんてバイアスがあるって言われただけなのにあたかも「とんでもないいちゃもんつけられたのに真摯に対応するワタクシ!」みたいな感じに読めるし(というか下の論文読むまでこの文章が何言ってるかわからなかった)、そもそも「思想を語っているわけじゃない」とまで断言している。早野さんはサイコパスなんじゃないだろうか。正直言って恐怖を覚えた。)
私も、早野さんが(65歳男性)として発言する、あるいは「これはあくまでも政治的発言ですが」と断って発言するならば一切何も言わない。どうぞ好きにやってくれればいい。しかし、「科学者」の肩書を使って「絶対」というような非常に強い政治的発言を繰り返すのは看過できない。科学者として発言するならば科学の言葉を使わなければならない。
以上のような早野さんの言動は、日本のインターネット界にいわば「放射脳叩き」をもたらした。そのせいで、親が我が子を心配するといったような基本的な権利ですら危機に瀕している。少なくとも今私がここに書くくらい、公の場で福島関連を言うことははばかられるようになってしまった。このような恐ろしい事実を鑑みるに、やはり私には早野さんの政治スタンスを認めることはできない。
私が前の記事で言いたかったのはあくまでも「アウトリーチ」としてのあり方なので、論文には言及しなかった。もちろんなにか「動物のふしぎ」だとか「宇宙のふしぎ」みたいな啓蒙書に対して統計5σ要求するのは流石にやりすぎである。しかし、福島のような問題に対しては、アウトリーチですらも科学に立脚した発言でなければならないと私は思っている。なぜなら、目に見えない不安に対抗する術として人類が編み出した方法こそが科学に他ならないからである。まずは、自然に100%はないことから理解しなければ中世から進まない。
ところでid:njamotaさんが挙げてくださった論文 https://www.jstage.jst.go.jp/article/pjab/89/4/89_PJA8904B-01/_pdf もせっかくだからとさっと見てみたが、どうやらこれはあくまでも生データをそのまま載せた論文であるようで、そこから先の議論はなかった。正直これで論文になるのかというのは私も少し驚いた(おそらく、やはり前回の予想通り、疫学調査では統計を議論できるほど数がないからであろう。別に分野が違うから驚いただけで、ケチをつける意図はない)が、それ以前にそもそもSrに関してはmentionすらされていない。アンダーコントロールな汚染水を垂れ流している以上、チェルノブイリ基準では問題ない、という結論で良いのかどうかはわからない。
(ただやっぱりFig.3, 5, 7にエラーバーがないのは絶対におかしいと思う。早野さんだって東大理物の学生実験でこんなグラフ見せられたら突き返すと思うよ…)
このレベルの調査で絶対安全という結論を導き出すのは、私には不可能である。ググったところこの論文が聖典のように扱われているが、正直一体何がどうなっているんだ…という感じが拭えない。(しつこいが危ないと言っているわけではない。ただわからないと言っているだけである。)もっとも私は疫学など露とも知らないので、まあこれがどこまで確からしいかconcludeすることはできないのだが、少なくともある種の統計分布を仮定して有意性を出す、という(少なくとも私にとっての)conventionalな科学の枠内では捉えられなかった。有識者の意見を聞きたい。
おっしゃる通りだと思うが、私は牧野さんや押川さんほど社会的地位も無ければメンタルも強くないし、早野さんやそのゆかいな仲間たちほど厚顔無恥ではない。
あと日本語の読解間違ってたらすいません。やさしく教えてください。
福島のは公式情報だけでも7割以上に転移、再発もすでに数%出てるってのに「見つからなくても問題ない甲状腺がん」って無茶苦茶だよ
そらまともな科学者なら怒るわ
https://twitter.com/koichi_kawakami/status/818856621866500096
https://twitter.com/koichi_kawakami/status/819114613362937856
https://www.buzzfeed.com/satoruishido/hayano-san-01?utm_term=.wl5ZmGQzx#.shrzlOPbm
よく言われる予後がいいというのは治療すれば命は助かる可能性が高いってこと
それでも90%くらい
今日この記事 http://bzfd.it/2jkl8zc がホッテントリに入っていたが、正直言って早野龍五氏の科学者としての良心を疑わざるを得ない内容であった。
ところがブコメを見ると一部を除いて賞賛で溢れかえっている。未だに日本の科学リテラシーが低いことを痛感した。
ということで、彼の主張の何が科学的方法論としておかしいのか、挙げてみたい。
この文章は、あくまでも彼の主張の問題をつくだけのものである。福島が安全かどうかというのは全く別の問題であり、ここではそれに関する議論は一切しない。
これでも噛みつかれそうなので一応書いておくが、別に私自身は特に何かを避けているとかはない。単に面倒だからだ。
例えばSTAP細胞のときに、たとえSTAPが存在したとしてもゲルの切り貼りなどをした小保方氏はguiltyであるという主張は広く受け入れられたが、全く同じことである。
たとえ福島が安全であっても(その可能性はSTAP細胞が実在するよりは遥かにもっともらしいとは思うが)、早野氏の科学的姿勢は適切ではない。
(福島とSTAPを比べるなんて失礼極まりない!放射能乙!と思われた人は論理的思考法が向いていないと思うのでブラウザバックを推奨する)
簡潔に書くと
これはブコメでも幾つか指摘が見られた。Srと言うのは極めて厄介な核種で、崩壊時にβ線しか出さない。
β線はγ線と異なり荷電粒子線であるので、物質中では前方散乱により極めて速くエネルギーを失い、かんたんに遮蔽されてしまう。
外部被曝という点ではこれはよい性質であり、我々はSrの影響を気にする必要はない。
しかしながら内部被曝ではこれは極めて厄介である。基本的にはCsとことなり、正確に体内のSrの量を見積もることはできない。
さらに厄介なことに、Srはアルカリ土類元素であり、Csとことなり生体での半減期が極めて長いことが知られている。
また、体内での蓄積部位も異なるので、影響も異なるはずである。今までの疫学調査でもSrは直接測定できていないわけで、Csほど信用に足る基準値は設けられない。
したがって、特に過去の摂取について、WBCは内部被曝とは一切の関係がない。あたかもWBCが銀の弾丸であるかのように書くのは重大な欺瞞である。
食品に対しても同様で、Srの蓄積は注意深く扱う必要がある。全量検査では図ることができないからだ。
Srはあまり飛散せず、炉中に多く残っていると言われていることから、汚染水はどうなっているかも不明である。
一応心配になった方のために厚労省の資料 http://bit.ly/2iZ4M2u を挙げておくが、殆どの資料では検出限界を下回っているようなので、サンプルでの安全性という点では問題ない。
しかし、保証されているのはそのレベルであって、全量検査は銀の弾丸ではないということに留意されたい。
(別にサンプルしか見てないからダメだと言っているわけではないよ)
こういうソースがあって、このうちこれ由来の放射線は全量検査でき、ここであるモデルを仮定するとそれ以外の放射線についてもこの程度見積もれる、というのが正しい科学である。
WBC!全量検査!安全!というのではなんの説明にもなっていない。
もちろん現地でそういう説明をしているのかもしれないが、すくなくともこのインターネット記事を見るだけでは非科学的な説明しか見当たらない。
そもそも、科学は白黒つける方法論ではない。統計学に従って、確率xx%以上でyyである、ということをいう手法である。
なぜならば、ものを測って何かを予言する際には、次の3つの誤差が必ず発生しうるであるからである。すなわち、「理論誤差」「系統誤差」「統計誤差」。
高校や中学で習う科学では、理論誤差はないものとして扱うが、測定時の機械による系統誤差および個人誤差は必ず生じる。
確率事象を測定することはあまりないから統計誤差には馴染みがないかもしれないが、生物の授業などで習ったのではないか。
また、現実のサイエンスの世界では理論誤差は極めて重要である。上のように限られた情報(例えばCsの量)から何か(例えばSrの量)を推定する場合、必ずモデルが入り、それに伴う誤差が生じるからだ。
科学の世界でも最も統計に対して厳しいのは、早野氏の分野である素粒子・原子核の分野である。
例えばCERNで見つかったHiggs粒子は5σ(99.9999426697%)以上の確率で存在すると確かめられてはじめて発見と相成った。
しかし、彼がいまだかつて福島の問題で統計を議論したことがあるだろうか?
「xx人を検査しyyであったのでモデルzzを仮定すれば福島事故のせいでww病にかかる人は10万人中aa±bb人である」というのが正しい科学的な言い方である。
もしaaが十分少なければ、「1 / bb = nだから、nσすなわちcc.cc%の確率で10万人いても誰もww病にかからない」ということができる。
ではなぜこれをしないのか?
私は全く専門外なので知らないが、おそらく疫学調査などではサンプルが少なすぎる、あるいは理論誤差が大きすぎるため、このような統計処理がうまくできないのではないだろうか。
また、「3σすなわち99.7%で安全です!」と言われても多くの人はむしろ恐怖を覚えるだろう。誰も1000人のうちの3人にはなりたくない。
(本当は3σで安全だからといって3人必ず病気になるわけではない。ただ科学的には「わからない」というだけである。誤解なきよう)
最後の点に関しては100%早野氏に原因があるわけではなく、日本人のリテラシーの低さも問題ではあるが。
しかしだからといってこれは全く言い訳にならない。仮にも原子核物理学者を名乗っているならば、物理学者としての作法を通すべきである。
科学というのはこのように、いわば「歯切れの悪い」ものである。だからこそ、「水素が溶けた水はアンチエイジング!」みたいに歯切れのいいニセ科学が跳梁跋扈するのだ。
科学者はニセ科学に対抗するためにはきちんと科学の流儀を通さなければならない。「わかりやすい」白か黒かの主張は、むしろニセ科学に歩み寄るものではないか。
早野氏を賞賛するコメントでよく見受けられるのは、彼はアウトリーチを通して市民に安心を与えているから素晴らしいのだ、という主張である。
上の記事を読んでも伝わるが、早野氏自身も、市民を安心させるという点は意識していると思われる。
しかしながら、科学者の役割はあくまでも観測対象を客観的に見つめ、客観的な結論を出すことである。その結論を見て本人がどう行動する、あるいは行動すべきかというのは、本人、あるいは政治家が決めるべきことではないか。
もちろん市民に安心を与えようというのが偽善だとかいうつもりはない。しかし、あまりに対象に近づきすぎてしまえば、科学としての客観性が失われてしまう。
上で述べたように、あくまでも科学的にわかるのは、「cc.cc%以上の確率で安全」ということだけである。そのことと「絶対安全」の間には、大きな溝がある。
政治家が情けなさすぎるのか早野氏が科学者としての役割を逸脱しているのか、あるいはその両方なのかはわからないが、いずれにせよ「100%安全」というのは、科学者の言葉ではない。
これが行き過ぎれば、100%STAP細胞があると信じて実験事実を捻じ曲げた、小保方晴子が再び生まれることだってありえないとはいえない。
何度も言うように、私は福島が安全かどうかについては何も言うつもりはないし、この文章は何も言っていない。
ただ言っているのは、早野氏の言動には科学者として疑問を持つものが多いということである。
なお、もしかしたら「東大の物理の偉い先生が言ってるんだから正しいんだよ!」と思う人もいるかもしれない。
補足までに書いておくが、物理の研究者で福島に言及している人のうち、早野氏のように「絶対安全」を繰り返す人と、ここで述べたようなきちんとした科学的手続きを取っている人はだいたい半分ずつくらいである。
月面と地球を往復する資材運搬機について、やはり砂漠から飛び立つよりは舗装された路面から飛び立つ方がエネルギーも格段に少なくて済む。
そうするとより大きな機体を用いることができ、物資運搬のコストも下がる。
月面産の『ルナセメント』の生産にはそもそも原材料の収集から焼成まで様々な困難が予想され、今だ構想の段階に留めるが、地球産セメントに月の砂を細骨材として混ぜた『ルナモルタル』、さらに粗骨材まで加えた『ルナコンクリート』は既に実験が行われ、一定の結果を出している。
粗骨材の強度と打設後の養生困難こそ若干気になるものの、潰しの結果ではどうにか普通のコンクリートの基準強度に近い値は確認できている。
あとはいかに分厚く打設するかの問題で、必要なら鉄筋メッシュなどで補強を行うのみだ。
『ルナコンクリート』と地球上のコンクリートではワーカビリティに月とスッポンの差がある。
生産コスト面ではひっくり返って、月面が月になる。それでも、技術として施工は可能である。
ただし、それはコンクリートを打設するだけならの話しだ。
月面に比べたら気温差がほぼないに等しい地球上でさえ、コンクリートの連続打設には目地を必要とする。
熱膨張と収縮に対応するため、地球では10メートル以内に一箇所の目地挿入が望ましいが、温度差が数百度に達する月面では目地間隔を3メートル程度に設定する。
しかし、そもそも目地の素材についての選定が困難を極めた。
通常、地球で使うエラスタイトなどの弾性樹脂類は温度差、紫外線で劣化が激しく、短い期間で意味を成さなくなる。
ある程度の耐性を備え、十分な弾性を備えた物質が並べられた。
鉛は昼間の融解での現況回復を期待されたが、昼夜を繰り返すうちにひずみが大きくなる。
その他、油粘土などの様々な案が出され、実験が繰り返されたが、どれも月面の環境に早々に用をなさなくなった。
過去の事例に倣って木質の板材などが試され、他の物質よりいくらかいい結果が出たが、低温時に衝撃を加えられると破砕される弱点を露呈した。通常の車両の走行程度ならともかく、資材運搬機の離発着にはとうてい耐えられない。
結局、月面離発着施設については建設が見送られ、二本のレールと電気を使って飛ばす、俗に言うレールガンが次案として検討されることになり、科学者達が大幅に増員されることとなった。
あおりを受けて月面の土木屋達は大幅に人数の削減を受けることとなり、地球へと帰っていった。
(結局、レールガン構想は数年後に頓挫し、月面基地の第一義である宇宙での人類生存のための技術の確立についても大幅に停滞することになる。その為、当時の基地司令官は長く無能の代名詞的に扱われることとなった)
幼稚園では一人遊びが最高の楽しみだった、自分の世界だけで生きていた
朝顔のたねを潰して、砂を掘って、壁に登った
小学校では図書室の図鑑だけが昼休みの私を癒してくれた、外遊びには興味が持てなかった
中学校では、体育の時間の後で全員が制服に着替えても一人だけ体操服で授業を受けた、そのほうが涼しいから
高校では体育祭をサボって図書室で本を読んでいた、拘束されるのが嫌だったから
親が泣いても文化祭に行かなかった、それまで一日もクラスを手伝ってなかったから
遠足のときは家を出てから学校に病欠の連絡をして満喫で時間を潰した、もう親を泣かせたくなかったから
授業は面白かった、つまらなくても過去問で単位を取った、科学こそ自分のスキなことだと感じた
サークルに熱中した、気づいたらリーダーになってすべてをつぎ込んでいた
大学院は思っていたのとは違った
科学への渇望は消えていなかったけど修了と同時にアテもなく飛び出した、先生と研究室には我慢の限界だったから
僕は10年経っても体育祭から逃げていたんだ。集団から、どこからともなくリーダーが現れて全員に無言の圧力で不文律を押し付ける。集団の中で、時間と場所と思考の自由を奪われていくあの感じ。社会に蔓延するあの体育祭の空気から、きっと抜け出せると信じていたんだ。それでも、自由になれなかった。
まだ、後夜祭のキャンプファイヤーは消えずにいる。
いや、それは違うよ。被害者意識とかはおいといて、圧倒的少数派であることは確かです。
偉大な女性科学者が何人いたとしても、専攻内で女子1名(私のことです)なんだったらそれは少数派でしょう。
圧倒的少数派で、かつ「自分は異質である」と度々思わされているって、つまりマイノリティってことじゃないの?
元増田の言い方は確かにアレだし、「なんで?」と聞かれたら真摯に答えますが、その中に「女のくせに」というニュアンスが含まれていてイラっとくることはあります。
(大体そういう人はその後にオタサーの姫などと揶揄してきて殺意を覚えます。)
たしかにちょっとしたことなんですけれど、男女比がおかしいところに行くということは面倒くさいことが増えるということなんです。
その面倒くささ(「生きづらさ」は少し重い言葉かもしれないが、そう思う人も多いだろう)を否定して受容せよって、つまり女性の方だけハードル上がっててOKということなんですが分かってますか?
女性の方だけハードルが上がっているということは、理工系全体がより質の低い人材を受け入れることになるということなんですが分かってますか?
「どういうことですか? いきなりスウェーデンまで呼び出して……」
「ミスター・山中、お忙しいところをすまない。が、なにせコトがコトでな。ボブ・ディランの件はご存知だろう?」
「ええ、そりゃあまあ……」
「クソ文学アカデミーめ。だから文学に賞を与えるのは反対なんだ。
たかだかポップ歌手ごときに国王陛下と委員会の威厳を汚させるわけにはいかん。
そこで……ここにディラン氏の毛髪があるわけだが」
「いや……その……
なんていうか……
よく誤解されますけど、ips細胞ってそういうんじゃないんで……」
「どうした? 万能細胞ならクローンくらい楽勝だろ? 出し惜しみするなよ」
「できないこともないっちゃないんですけど……向いてないっていうか……」
「逆らうつもりはないんですけど、ただ……」
「問答無用! しょせん、アジアのサルか。信用した私がバカだったわ!
存命の受賞者が一人いなくなるのはさびしいが――是非もなし!(ジャキッ)」
「うわあ! う、撃つなァ!」
ドキューーーンン!!
「う……撃たれて……ないのか?
でもさっきの銃声は……?
う、うわああ!
委員会の人が死んでる!」
「フッ……間一髪だったな。怪我はないかい? ジャパニーズ・ボーイ」
「あ、あなたは――
ボブ・ディラン!!
助けてくれたんですね!?
でも、どうして?
「声なき人々の叫びを聞き届ける……それがオレの生き様なのさ」
「カッコイイ……やっぱりボブ・ディランはヒーローだったんだ。
ボブ・ディラン!」
――どれほどの道を歩かねばならぬのか
男と呼ばれるために
どれほど鳩は飛び続けねばならぬのか
砂の上で安らげるために
どれほどの弾がうたれねばならぬのか
殺戮をやめさせるために
その答えは 風に吹かれて
(『風に吹かれて』の歌詞と夕陽をバッグに荒野を去っていくボブ・ディランの背中。それを見つめる山中伸弥教授の目には熱いものが溢れている。そう、彼の無垢な涙こそ、ディランにとってのメダル――ノーベル賞などよりももっと価値のある勲章なのだ)
そやね。
たとえばスピード違反を誘うような「150キロで一般道走行してうっはー気持ちいいぜ!」みたいなまっすぐな欲望が表出された絵や写真(何度見返しても皮肉でもなんでもない)を、公共の機関が主導で書いてもらったとなったら、やっぱりそれがあるだけで反発喰らうとおもう。車体の空気力学的美しさや美しく流れる背景のボケ感とかは表現の本質だから当然関係あるけどしかし表現手段に過ぎないのでそのうち関係なくなってくる。ほんとうにそうなったとき先頭に立つのは交通事故遺○の会あたりだろうけど、それは「民衆にいわされてる」部分もある。
長谷川豊さんのも「憎悪感情」がすべての病気経験者に突き刺さって、結果「透析患者の会」が先頭に立たされてただけ。表現がまずかったなんて謝罪じゃ足りない。
ぼんやりとした「みんなの意見」とか「マナー」とか「空気」とか「経験則」でも相当効率よく回っちゃう日本だから、科学なんてある意味過剰投資に頼らなくてもなんとかやってけてる部分があるとおもうよ。ただ行き過ぎると衆愚政治になるおそれもあるから、豊洲地下は多少金かけてでもちゃんとした科学者がやってほしいとおもってるけどね。感情アセスなんていくら金かけても無理無理、教育科学とおなじ。ニブくて人の痛みのわからん奴らを「敏感にする方法」などなく(体罰は当然禁止ね)、担当者に多少専門知識とセンスのあるもの、できれば男女半々で、を選ぶしかない。
いや「すべてクリア」してない。
ザムザを倒した、生命体へダメージを与える閃華裂光拳を封じるためだけに他の利点を捨ててる。
そもそもクリアしたのは「一度超魔生物に改造されたら二度と元の肉体に戻れない」って点だけ。
それも「元の肉体に戻れる方法を開発する」じゃなく「死体で作った超魔ロボに乗り込んで操る」って迂回策だった。
それにボディが死体だから物理攻撃しか使えなくなった。試作段階だったザムザは闘気を放ったり出来てたのに。
また、超魔ゾンビを破壊したロン・ベルクの星皇十字剣は自分の魔法力や闘気を剣に行き渡らせて超スピードで放つ一撃だったから、生命体である自分の肉体を改造して闘気を操るテクニックを体得していればダメージを抑えられた可能性も高いし、もし初撃に耐えられればロン・ベルクは戦闘不能になるから勝利は確実だった。
闘気に関しては試作段階だったザムザがダイの紋章閃をまともに食らってほぼ無傷だったわけだしな。
あと「超魔化したら魔法が使えなくなる」という欠点は改良されずじまいだっただろ。ザボエラ本人は超魔ゾンビの中に隠れちゃったんだから。
本当にこいつダイの大冒険読んでるのか?
いまだ根強い「本当はSTAP細胞はあった!」説がやっぱりおかしいこれだけの理由 | ハーバービジネスオンライン
こういう中途半端な意識を持った科学者の発言がSTAP細胞問題を余計に間違った方向に持っていってるんだと思う。
生命科学の専門家の間で「STAP細胞の存在の真偽」についてはまったく話題にならない。それは、論文が取り下げられた時点で研究の実体がなくなったとみなされるからだ。その一方で、現在、小保方氏の支持者を中心に、STAP細胞の存在を信じる非専門家の人々は、少なくない。
という部分はおそらく言いたいことは正しいんだけど、
その中でドイツの結果はSTAP細胞の作製に成功したことを主張しているわけではない、としている。
言ってることは正しいんだけど、こういう、STAP細胞が実際にあるかどうか、ということと結びつける事自体が
無意味なことだ、ということをしっかりと伝えるべきで、ドイツの結果が成功したかどうかに言及すること自体が一般の人への誤解を招く。
これを書いてしまうと、じゃあドイツの実験がもし仮に成功してたらどうなんだ?という議論をしたがる人が出てくるわけで。
極端な話、彼女が本当にSTAP細胞の作成に成功していたとしても彼女の罪は消えないし功績は得られない。
まず、論文としてあれだけの嘘や不正を盛り込んだ物を書いてる時点でその成果が100%正しいものだったとしても解雇並の処分を受けるレベル。
特に医学生命系の研究では「たまたま」発見された様なものは山ほどあり、それを科学的に理解して利用出来る事に価値があるわけで、
よくわかんないけど気づいたら出来てました、なんてのは何も意味がないし、ましてやそこに嘘を記述してこうやって作れる、なんて言うのはただの不正でしかない。
彼女の罪はSTAPが出来た、と嘘を付いたことではなく、あり得ないほどの不正を入れ込んだ論文を発表したこと、ということをきちんと認識してもらいたい。