はてなキーワード: 疑問符とは
アンサーありがとう! すごく興味深いやり取りをさせてもらって嬉しい。でもたぶん、既にエクスキューズをしてくれているように、半分くらいは読解に関することかも。そして私の書き方も、示したいポイントからちょっとずれてた気がします。補足させてください。
アンサー内でも触れてくれているように、「ある特定の主催者がいる」というところはまあそこそこよく見る、普通の話だと思うんですよ。そして、同人文字書き男氏としては、それを踏まえて、「でも、元増田がその主催者を『ボス』だの『取り仕切ってる』だのって表現するの、権力のにおいがヤバくない? あるいは実際にそう表現されちゃう権力関係があるならますますヤバくない?」みたいなことを問題視してるのだと読み取りました。
私もこの点は完全に同意です。権力感ありありの表現は不思議に感じるし、実際に権力構造があればそれはおかしい。アンソロまで激しく干渉されるとしたら超怖いですね。近づかんとこ、ってなります。
ただ、そもそもの話として、私としては、元増田の文章から「ボス」が周囲からちやほやされてる・強権を振るってるような権力構造を読み取ってなかったんですよね。むしろ、
などで、全然ちやほやされてないっぽいな、主導権をずっと握ってるわけでもないんだなという印象でした。だから、同人文字書き男氏のアンサー内の最後の選択肢、「そいつの関知しないアンソロが編めないようになってんの?」については、明確に元増田の記述とは異なる状況ですよね。元増田のいう「ボス」は参加してなかったらしいわけだから。逆に、「アンソロに参加しないこともあるぐらいの人を『ボス』って表現するの、ずいぶん偏ってない?」という点に注目してます。
以上のように、たぶん私と同人文字書き男氏では、受け取った印象がそもそも結構違うんだと思います。「ボス」「取り仕切る」という言葉のイメージをどれくらい重要視したか、という差なのかもしれません。たとえば、もともとの元増田の表現が「みんなが『ボス』だと持ち上げてる人がいる」的な権力構造に関する言及だったら、「お前の界隈おかしいよ」には全力で同意しますよ。
そんなやついねえよ。
って書き出しに私が引っ張られてしまったのもあると思います。いやいや、そういう立場の人間自体はいたよ、みたいな。なので、私が出した情報は「とりまとめ的な立場によくいる人が実在したケースを知っている。そのケースでは私が『ボスだ』と思うような権力構造はなかったけど」という内容になったわけです。
まとめると、「お前の『界隈』おかしいよ」にちょっと疑問符をつけたかった、というところでしょうかね。
界隈の構造がそもそもおかしいのか? 元増田の感じ方にややバイアスがあるのか?
であれば、私はさしあたり後者に一票なので。
これでちゃんと返答になってるといいんですけど。
アホっていう観点は自分が賢いと勘違いしてるから生まれる観点であって、AIのデタラメ回答をただのデタラメ回答だと認識してる人はやっぱ言う程頭が良くないんだと思う。
あれが増田の願うアホの解答だと思うし
増田の望んでるのはアホじゃなくて面白い回答が出来るAIだろう
でもそんなんまだ研究が進みきってないからジョークの側面を機械が把握しきれてないからで、突拍子もない阿呆を笑っているのはそれが何か面白いことをするという期待感と確証と信頼感があるからできること
突然筒状のロボットがピーガガ鳴いてもその面白さとシュールさと異様さを受け入れられる寛容さが無ければ笑いにたどり着く確率は限りなく少ないし
やっぱ事前に何度も「今日はどんなジョークを話してくれる?」『今日は貴様が私に話す番だが?』とかいうやりとりをしてる上で笑いの大小は生まれるもんだと思う。
だって、唐突によくわからんパーティーピープルに「コイツ!オモローなんですわ!」って言われて『バビョーン!(クラスでめちゃくちゃ受けたギャグ)』とかされても疑問符しか浮かばないし
国によっては敵襲みたいなもんだろう、とか、いやウケずに帰って度胸試しとか言って自分を騙すのやめろや、とかしか思わない訳ですし
だから増田の求めるアホなんてのはやっぱ『僕にとって最強のアホ』であって
科学者が本気になって取り組んだアホが『1文字目から大爆笑を引き起こすアホ』か『核ボタンとインターホンの違いがわからないアホ』になるかわかんないしね
だから、そのデタラメな答えを出す奴の方が今のところは比較的正解なんだろう
知性と知識を持つ存在が考えられる面白いへのアプローチとかいうのは
というか逆に知識があるなら、一つだけ情報を与えずに「ここまでいろんな知識を与えてきたが、君には一つ、猫という存在を想像してほしい。違っていたらその都度私たちがヒントを与えるから」みたいなことをすればなんか良い感じのボケを生み出すんじゃねえか
ふと、社会人デビューする前にこれを吐露しておくと肩の荷が下りる気がしたので下ろしておくことにしました。推敲は一切しないので悪しからず。
自分は小学校の時、音楽の授業での合唱に何故か強いモチベーションを持っていた。確かあの時はパヴァロッティの演奏のビデオを見たり、ソプラノ歌手のものを見たりしたかと記憶してる。それでもって家に帰るや否やソプラノ歌手の声真似をしようとしていた。声が変わるとそれは厳しくなって少し苦悩はしたが、声は大きかったことと中学に混声の合唱部があったこともあって真っ先に合唱部を選択した。
中学で3年テノール(バリトン寄り)を歌い続けたのは自分にとって一番長い合唱経験になっている。
高校に入るとき、自分は先行き不安定な歌で身を立てる訳にはいかないだろうから、と合唱から距離を置いて勉強に勤しもうとした。が、これにいくつかの失敗を伴った。
合唱から距離を置いた結果中学の合唱部時代の同期達と疎遠になった自分は荒れた自称進学校で格好のストレスのはけ口だったようだ。合唱に勤しみすぎたのか、自分には頼れる人間が合唱部の同期の他にあまり多くはいなかった。それどころか一部の同期には大分冷たい目を向けられていたように今は思う。ただその一方人数合わせに先輩に呼ばれて一度だけステージに立ったこともあった。
高校を出る頃から今まで、自分は合唱から距離を置くべきだったかどうかについては結論が出ないままでいる。そしてこれからも出ないと思う(こういうことを吐露したかった。)
2年を経て上京して、大学に入った際、大学のグリークラブが一曲入学式で歌っていた。ゆるそうな雰囲気を感じてここならやっていけるかと思ったが、ここで思いのほか高い壁に当たった。ミサの聖句の一つ一つが余りにも自分にとって重い物になっていた。かつて中学の頃は文章の意味を追いかけて、恐らくは絵本程度の世界を思い浮かべることが限界だった。大学に入って、あまりにもミサの聖句は苦しいものだった。半年持たなかった。
それから翌年、中学の同期と後輩に呼び出されて歌った。これは昔ともに歌った人間も居て勝手も分かりよかったのだが、やはりミサの聖句は重かった。しかしミサが一番ウケがよかったのも事実だった。結局、1年半ほどたったところで仲たがいしてしまい、それっきり今に至る。
結局自分にとってミサは何だったんだろうか。家は浄土真宗本願寺派と日蓮宗の両親の下に生まれ、それなりに二人とも経を唱える程度のことはし、自分もさせられた。そんな家で育った自分にとって、若いころはミサはもう一つ、どこか別のところで誰かが信じている神の姿を描こうとするものだったように思える。つまり、そこに神は、自分の中では居たように思う。
しかし、恐らくは不登校と化して自傷まがいなこともやっていた(出席日数もギリギリだった)高校時代辺りが節目だったかもしれない。
大学時代に歌うミサは自分にとって余りにどう歌えばいいか分からない、そんな曲だった。旋律を美しく仕上げることは、特に死ぬほど練習した中学時代の勘が多少なり働いてくれる。でもそれだけだった。曲が自分たちを支えている。しかし支えられる自分が何も描くことが出来ないような空虚感があった。神はもう居なかったように思える。
それなりに人を信頼して生きていた中学時代、人を信頼しなくなった高校大学時代ではあまりにもミサに対してモチベーションが違った。
1日経って、やはりある程度肩の荷が下りているのを感じているところです。
思いのほか拙文を人が見ていたので幾分かの追記をしておこうと思います。
グリークラブ=聖歌隊なんだから今思えばバカをしたなと思っています
ではないんですがかなり出身校に偏りがあり、出身の中学から90人程度、ほかの中学も10~30人程度の塊で進学して来ている人が殆どで、既にその中でコミュニティが存在しているというのが実情でした。後東〇予備校に9割の生徒が通っていて、金銭的事情でそういった所に所属しなかったのも大きいかもしれません。
今の自分の思想は無神論に寄っていて、神を熱心に信仰している他人が不思議に思えてしまうのです。
それに、ミサはKyrieなどがそうですが、「私はあなた(神)を讃えます」みたいな内容、つまり信仰の告白を歌詞に含む曲が多い以上それを非キリスト教徒が歌うことに疑問符を隠せないでいます。
言われてみると、合唱と神というスコープを通して興味関心が少しずつハッキリとしてきた人生かもしれません。少なくとも信仰は無神論寄りになって、クラシックな合唱からは足が遠のいているのが実情ですが、時には歌を歌う人、神を信じる人の気持ちを感じる機会を得られればと思います。
「小説として上手い」というからにはその人の作品は一応短編でもオチが付いてるのだろうけど、オチ付いてないのに上手いとなると疑問符しか頭に浮かびませんね
短編集まとめたらいいのに、くらいの路線で聞いてみてもいいかもしれないけれど別に対面じゃなくネットで適当に発表して適当に感想貰うだけでも全然心が満たされる幸福な人種なんじゃないのかなあ
それで本当に満たされず餓えちゃうような人間だからこそ、あるいは強い意思なり目的なりを持てる人間だからこそ本作るにまで至れるわけで
その点増田は創作者としての気概とか資質とか、自分の作品に対する責任ってものが人より有るのは間違いないし誇っていいと思う
誰かに保存されてしまうことを考えなければ、いつでも気軽に消せてしまう作品は悪く言えば作りっぱなしが出来るし、手を離してプラスな感想だけ貰ってマイナスな感想無視しちゃってもいいし
作品を形にしちゃったら執着なり責任なりは着いてきちゃうので、それをどの程度の重荷と思って背負うか投げ打つかはほんと人それぞれだし、良い悪いとか無いけど、それをしっかりと自分の物と思えるのなら大事にしたらいいと思います
中長編書かないし、多分向いてないから得意な1万字未満程度の短編ばかり書く自分はそう思いますね 1ネタを綺麗にまとめるだけならそんな苦労でもない
その人が完結した数万字超えの中長編なんかを個人ページなんなりで持っているなら「あなたが本気で書いたのなら~~~」みたいに思えるでしょうけど
そういったまとまった完結作品がないのであれば、質を上げる方策はそこそこあるけど量の増加は一つ一つの量を重ねることでしか訓練できないと思ってるので、増田の方がよっぽどアドバンテージあるんじゃないかなあと愚考する次第でした
高遠丞くんのGOD座退団の報せを受けたとき、頭が真っ白になった。月並みな表現ではあるけれど。走馬灯さえ見えた気がする。
あたしを心配してひっきりなしに鳴るLIMEの通知音がどこか遠くに聞こえた。
高遠丞くんをご存知だろうか。
といっても、ちょっと観劇が趣味の人にはきっと常識で、でもそうでない人間はすこしもピンとこないのだろうなと思う。
なんでもいいからとにかくあたしの知ってる高遠丞くんの話をさせてくれ。
最後まで読んでもなんのオチもなければまとまりもないしあたしはずっと泣いていますが、最初に言っておくとこれはちゃんとしあわせな話。結論として、高遠丞くん、大好きだ〜〜〜〜!!!!!っていう話に死ぬほど文字を割きます。よろしくな。
GOD座という劇団の名前くらいは誰しも聞いたことない?ないのかな、一般人の感覚がわからん
あるでしょ?!??!
高遠丞くんはそこのトップで、あたしの推しでご贔屓で王子様だった。
あたしが丞くんと出会ったのは、丞くんがまだ入団したばかりの頃だった。元々観劇が好きでちょこちょこGOD座にも足を運んでいたのだけど、推しやご贔屓の概念はなくて純粋にそのお話を楽しむタイプだったので、当時は役者の顔や名前も満足に覚えていなかったと思う。そんな中であたしがなんで当時新人で端役をつとめていた丞くんに目を留めていたのか実のところよくわからない。声のハリとか立ち姿が好きだった。あたしがちょっとミーハーだったのもある。いやなんでだろうな。奇跡かもしれない。世界、これを奇跡って呼ぶことにしよ。
そこからGOD座の公式インステアカウントやブログを読んで彼のひととなりを知って、どんどん好きになった。丞の劇団員ブログは正直全然面白いものではない。何十人もいる劇団員がかわりばんこに書いているブログで丞の番が回ってくるのを永遠かと思うくらい待っていたのに文章は短いし、写真も少ない。私生活もなければジョークのひとつもない。真面目さ、演劇に対する果てしない情熱。彼が書いたものは何を読んでも、いつだってそれしかわからない。そこが好きだった。
そうしてゆるくゆるく高遠丞くんを応援する日々が一変したのが、そうだ、ご存知あの舞台。
あたしはあの舞台を今後一生覚えているのだと思う。
ときたま再演もしてるからお願いだからみんな見てほしい。あっでももう丞は………………あの舞台は……………………………
虚無……………………………………………………………
丞の役は王子様。正真正銘の王子様。「GOD座の丞」と言えば王子様、のはじまりである。
GOD座のお家芸、きらびやかな舞台と華やかな役者。その中心に世界一素敵な男。凛とした姿勢が、よく通る声が、意志の強い眼差しが、あて書きかと思うほどぴったりハマった、少しシャイだけど正義感の強いとびきりやさしい王子様。夢中になった。恋をしないわけにはいかなかった。一生応援すると誓った。
そこからのあたしはバカほどGOD座に通い、丞の出てる舞台の初日と千秋楽は絶対におさえたし地方公演にだって行った。初主演をつとめてからどんどん人気が出てファンも増えていった。ちょっとさみしくて、うれしかった。役どころもだいたい主役か準主役の王子様とかなんかキラキラしたヒロイックな男。世界一似合ってしまうので仕方がない。何度あたしを恋に突き落とした?
丞とほぼ同期にあたる晴翔くんはたまにインステに丞との写真もあげてくれたので、並の晴翔推しより晴翔のインステを見た。劇団員ブログを見た。カーテンコールでファンに向ける笑顔はどんどん上手になったのに、相変わらず劇団員ブログはつまんなくて、大好きだった。
そんなストイックなブログじゃ、丞くんが如何に演劇を愛しているかくらいしかわかんないでしょ?!??
そんなしあわせな日々に飛び込んできた退団のニュースのことの重大さがよくやく伝わったでしょうか?!??!?!
よく生きてだと思う。いやほんとよく生きてたよあたし。
あれほどに舞台を愛していた丞くんが芝居をやめてしまうなんて考えられない。もともと自己発信の少ない丞だ、GOD座からのお知らせ以外に何一つ情報は出てこない。他のファンたちの余計な詮索がしんどくてツイッターのアカウントに鍵をかけた。GOD座となにかあった?と考えてみたところでわかるわけもない。ただわかるのは、GOD座のような大きな劇団を自主退団した丞はきっともうどの劇団にも入れない。GOD座と何かあったならなおのこと。いやこれいま自分で打ってて過呼吸なるわ。吐きそう。本当に何日も満足に眠れなくて、泣きながら明け方に寝て泣きながら目覚めてまた泣いた。廃人の日々。
そこにさした一筋の光明。
MANKAIカンパニーとGOD座のタイマンアクトで、高遠丞が出るらしい。GOD座じゃなく、MANKAIカンパニーとして。
このときの気持ちを形容しようにも、キャパオーバーの飽和状態でどうしようもない。わけもわからず縋るような気持ちでチケットを取った記憶だけある。いやあんまり記憶がないな。丞がまた舞台に上がれる!というぶん殴られたような衝撃的な喜びと、GOD座と対決って大丈夫?負けたら解散?MANKAIカンパニーってどんなところ?と次々に疑問符が溢れ出た。溢れ出ただけネットで調べまくったら正直全然勝ち目がなくて、また眠れない日々に逆戻り。
いやだいやだどうして!だった以前と比べて、もしかして役者続けられるかも?って期待があるぶん余計しんどかった。絶望感が期待と不安に変わっただけ。
それでも、確実にその公演は舞台で丞がまた見られる。そのあとはわからない。「最悪の場合」に向けて心の準備を整えながら、そして泣きながら、初日を待った。
初日の公演を見たとき、あたしはまあ当たり前のように爆泣きしてたんですけど、ほんとのところそれがどういう感情なのかよくわからなかった。だってそこにあたしの大好きだった王子様はいなかった。衣装だっていままで見てきたものに比べたらえらく地味に見えたし、舞台も質素。演技だって、あんまり詳しくないけどいつもの丞の大胆さは影を潜めて、シンプルな動きになっていたようにおもう。
でも、「高遠丞」がいた。
ううん、「ラファエル」がいた。
親友思いで生真面目で頑固で、心優しい男がいた。いつもより繊細な動きで、微妙な表情で。
初日のあとも何度も何度も足を運んで、やっとあたしは悟った。
わかってしまった。
丞はこのために、これがしたくてGOD座をやめてそこにいるんだね。
それに気付いて、また泣いた。いや泣きすぎじゃんって思うでしょ、あたしがいちばん思ってるよ。でもこれはなんだろう、悲しいんじゃないんだよ。純度100%のうれしいでもない。強いていうなら、GOD座の王子様へのお別れと、感謝と、あたしの大好きな人の新たな門出のお祝いの気持ちだ、これは。
しかしMANKAIカンパニーの公演は見るごとに良くなったり悪くなったり、みんなが手探りで、でもみんながきっと演劇バカで、そうやってつくってるんだろうなって思った。みんな、丞みたいな人なんだろうな。だったらいいな。ついにGOD座とのタイマンアクトのその日、あたしはあんまり不安はなかった。相変わらずMANKAIカンパニーの公演に安定感はないけれど、大丈夫だと思ったし、実際に大丈夫だった。まあアホほど泣きはしたんですけどね。そのときのカーテンコールの丞の泣きそうな顔が、いままで見てきたどんな王子様よりも素敵で魅力的で、嬉しくてほっとして結局キャパオーバーで泣いた。オタクはすぐに泣くんだよ。
ただ少し思うのは、これがもし本当に丞のやりたかった芝居なら、GOD座で丞は何を思って演じていたんだろう。あたしが好きだった丞を、丞はちゃんと好きだったのかな。あたしたちは丞に王子様の仮面を押しつけてしまっていたのかも、と思ったら途方もなくしんどくなる。もう謝ってもしかたがないけど、きらびやかな仮面じゃなくて、ありのままの「高遠丞」をあたしはちゃんと応援したい。今からでも遅くないよね?
願わくば、丞もGOD座でのたくさんの思い出を、愛しく思ってくれていますように。ワガママを言うなら、あたしが大好きだったGOD座の君も嘘や偽りじゃないって、楽しかったって、言ってよ。それだけがあたしの願いです。でももうなんでもいいや、生きててくれてありがとう、舞台に帰ってきてくれてありがとう。
ついでに。MANKAIカンパニーでの丞の劇団員ブログを見てあたしは笑ってしまった。プライベートの話も写真もない、来てくれたお客さんへの感謝と演劇の話だけが堅苦しく、しかし真摯に書かれたその短い文章に。大好きだ、あたしは一生高遠丞が大好きだ。
☆
今更だけれど思ったこと書くね。
エンタメに飽きたら、世界史の勉強をするのがいいんじゃないかな。
この元増田の言っていることの全部が正しいとは思わないんだけれど(たとえば「海外ドラマはお子様向けを卒業した十二歳向け」みたいな表現ね)、娯楽をある程度摂取するとパターンが見えてきちゃうのは本当だと思うし、たくさんの作品を鑑賞していると、脚本術について詳しくなくても、「この場面で伏線を張っているな」とか、「今このキャラクターの物語をたたみに向かってるな」とか、何とはなしに見えてきちゃうよね。
それに、月9ドラマなんかだと作業しながらでもそれなりに理解できるようにストーリーを作っているので、まどろっこしく感じちゃうのもよくわかる。自分も全然見ない。映画なんかも、友達と付き合いで行く以外は、こじらせ芸術映画をたまに見る程度。なんでかっていうと、アート系映画は脚本術に従っていない、従っていたとしてもあからさまじゃなくて、どういうストーリーになるかほとんど予測がつかない。そこが楽しいから。
で、この増田は勉強することにしたみたいだけれど、なんだかんだ言って、教養を得ることに向かうってのは、いい考えなんじゃないかな。
自分なんかは、世界史をざっくりと勉強してみると楽しかった。ちょっと古い本だけれど、中央公論社から出ている「世界の歴史」シリーズ全三十巻を、数年前に読んでみた。正確には、学生時代に流し読みをしたものの再読だ。
世界史を知っておくメリットはいくつかある。ニュースを流し読みしても大体のことが頭に入ることだ。でも、それとは別に、そもそもすごく楽しいってのがある。いろんなファンタジーとかゲームとかの元ネタを見つけるとわくわくするし、遠い国の人たちの暮らしを知って空想するだけでも、毎朝の通勤時間が豊かになる。
それと、このシリーズは、歴史と地域ごとに分かれて書かれているので、ある出来事が複数の巻で重複して触れられることがある。たとえば、モンゴルによるバグダッドの破壊なんかはイスラームの勃興期と遊牧民を扱った巻にそれぞれ出てくるし、トルキスタンで起こったムスリムの反乱は、近代イスラームの巻と清朝末期を扱った巻の両方に出てくる。
それの何が面白いかっていうと、同じ出来事が見方によって評価が全然違うってこと。当たり前なんだけれど、ある国では救国の英雄だけれど、別の国では冷酷な侵略者になっていることなんてざらだし、時代が変化することで評価が逆転したり、忘れられていた人に急に光が当たったりする。チンギス・カンはモンゴルではヒーローだけれどほかの国では災厄以外の何物でもないし、バッハやフェルメールといった人物も、忘れられていた時代があった。この世界史のシリーズも著者によってバイアスがかかっていて、そこがかえって読みごたえがあるんだけれど、モンゴルを担当した人が個性が強くて、「遊牧民文化は定住民のせいで低く評価されすぎ!」みたいな本を出していて、おかげでモンゴルの残酷な行為が若干省かれちゃっているのが難点。
これってまさに芥川龍之介の「藪の中」みたいな感じで、互いの証言が矛盾しているから頭を使わないといけなくて、下手な娯楽よりもずっと面白い。いや、自分も現在起こっている日本と中国・韓国との証言の食い違いは、あまりいい気持がしないんだけれど、それがたとえば何百年も昔のことだと、それがとてもロマンチックに感じられる。聖地奪還の情熱に燃えていた十字軍も、アラブから見れば「なんか辺鄙なところから蛮族が来たぞ」みたいな印象しかない、みたいな話だ。
話がそれてしまったけれど、自分が言いたかったのは、頭の中に複数の物語を併存させておくことで、自然と物事に対して客観的になれるメリットがある、ってこと。しょっちゅう増田で表現の自由だとかセクハラだとかいろいろと炎上したりしているけれど、ある人の意見を絶対視しなくて済むようになる。Aという視点ではこうだけれど、Bという観点からだとこういう意見が当然出てくるだろうな、ってのが読めてくる。読めてくると、「この人ならこういう反応をするだろうな、この専門家ならこういう発言をするに違いない」ってのがわかってきて、こっちも必要以上に感情的にならなくて済む。元増田は「悪化する大衆のメンタリティ」という表現で、そういう荒れがちな場をちょっと下に見ている感じもないではないけれど、議論にすらなっていない議論から距離を取ることができるようになると、余計なストレスを感じなくて済むのは確かだ。
それに、複数の見方ができるようになると、例えばムスリムから世界史を見たらどう見えるだろう? 女性史の観点からならどうだろう? って、多くの人に受けいれられている歴史の見方を疑ってかかれるようになるので、やっぱり楽しい。
他にもいろいろメリットがあって、基礎的な知識があると、ほかのことを勉強していてもすごく楽しい。古典文学を読んでいてもすごく面白いし、百年前のあの憧れの人と同じ本を手に取っているって興奮できる。文豪たちと同じ詩を読んで感動するのはいいものだ。科学や医学の歴史についてざっくりとでもいいので学ぶと、自分の生活は先人のものすごい技術的蓄積の上に成り立ってるんだなって思うし、自然科学の基礎的な素養があると、ぽっと出のインチキ治療法には引っかからなくなる。哲学史について軽く触れるだけでも、学生時代にしたような哲学的思索は、ギリシアやインドが二千年前にとっくに通過した場所だってわかってはっとする。女性の地位がどう変化したかをたどってみると、「女性は『常に』被害者だった」みたいな極端な意見には大きな疑問符をつけることができる。
それと、こうやって三十巻ざっと読んで思ったのは、自分の歴史観はバイアスがかかっていたんだなってこと。たとえば、ギリシア・ローマの歴史は一巻にまとまっていて短すぎるって思ったし、中国の歴史ももう少し細かいところに触れてほしいって思ったけれど、たとえばムハンマドの時代からアッバース朝滅亡までが一巻ってのはちょうどいいって感じられて、これってつまり自分がイスラームのことをまだまだ知らないってことだよね、って思えたりして、バランスが悪いなあって。自分の考えは、ちょっと偏っているかもしれないって、疑えるようになるってのもまた、勉強する楽しさの一つだ。
あと、いろんな知識が増えると、いろんな人が自分よりも前に書かれた本について言及しているのをたくさん見つけることになるんだけれど、この世界がまるで巨大なシェアードワールドみたいな感じがして面白い。自分が古典を読むのが好きな一番の理由がそれかもしれない。さっき述べた、互いに矛盾するような証言でさえ、この世界がどれほど「作りこまれているか」、いいかえると複雑なのかを教えてくれているみたいで、興奮する。
自分は通勤時間と昼休みにしか読書をしないエンジョイ勢だけれど、こういう勉強ってのは一生やっても飽きない気がしている。娯楽を馬鹿にするわけじゃない。でも、「娯楽の場がぎすぎすして嫌だな」ってときには、ほかにも楽しいと思える遊び場を持っておくのは、いいことなんじゃないかな。
いや、わからんぞ。
まず現代日本でネット利用に罰則などつけるわけにもいかない、という認識は県の委員も持っていたから罰則などついていないが、そのために実効性の問題がまず出て。ルール決めたからって子供がネットやめたりするのか?
あとは、格差が広がるだけになるかもな。仮にある程度ルールと指導が有効で、平均点が県全体であがったとしても、優秀なやつの点があがるだけで落ちこぼれが落ちこぼれのまま変わらないなら、県全体の活力としては変わらない。格差がじわじわしたマイナスになる恐れすらある。
あとは個人的にこれの確認を最も期待しているが、ネット利用時間と成績の相関があるのは事実として、それは他の要素と比べてどれほどの強さなのか。例えば成績が微増しても、対策してない都会の学校に全く敵わないなら、ネット規制はコスパの悪い対策で、教育界隈は負の影響を過大評価しているかもしれない。
周りの人たちや世間の人たちは、旅行へ行くとか帰省するとか友達と会うとか遊びにくとか寝正月だとか、いろいろ楽しいらしい。
自分も同じように扱われがちで、この正月はどう過ごしたのかと問われるわけだが、自分はどうも答えにくい。
というのも、宗教行事に追われるからだ。三が日もそれ以降も説法なり懇談なりあって行かなければならない。
(自分から信仰を望んでいるかどうかは別だ。そうするしか生きられない世界(境遇)もあるということだ(自分が進行を望んでいないとは言っていない))
信仰があるとか言いにくい。世間一般に知られた立派なもの(自分の通っているものが立派でないとは言っていない)ならいざ知らず、名称を挙げたところで疑問符しか浮かばないだろうし。
どんなところか?仏教ではない、神道っぽい、新興宗教といえばそうなんだが…
宗教というと、地下鉄でテロを起こしたクソ団体や、勧誘にいそしみ金を巻き上げる詐欺集団が出てきて、世間からのイメージは悪い。
そんな中とても言い出せない。
とにかく、自分は忙しいんだよ…
遊んでるお前らとは違うんだ…(自分も遊びたいんだよ!!!!)
ところで、宗教を気持ち悪がる人たち、君たちは初詣に行かないのか?葬式に出たとき焼香はしないのか?仏壇に手を合わせないのか?墓に線香をあげないのか?法事で坊さんに拝んでもらわないのか?受験でお参りに行くのは一体何なんだ?
死にたいと検索すると、見慣れた電話番号と見慣れた記事が並びます。
ポエムなことが好きですが、恥ずかしいです。
死にたい、と裸足で雨の中飛び出して行って捕まえられて帰りました。
ふと立ち寄ったゲームセンターのUFOキャッチャーに100円を入れたらいぬのぬいぐるみが取れました。
Twitterのブックマークには笑えるツイートを集めて、死にたいと思ったら見ます。
みんなが死にたいと思うんだよ。と言われたらみんなで死のうよ。と思います。
昔のことを思い出すと、恥ずかしくなります。
自傷は痛そうなのでしていないです。
夏は汗が止まらないので嫌いです。
寝ると怖い夢を見ます。
自殺の方法を考えますが、新しいお家を事故物件にしたくありません。
怖い話が好きだったのに、自分が死ぬことを前提として読むとあまり怖く感じません。
死ぬことは怖いのか、怖くないのか分かりません。
タレントさんが政治のことを厳しい口調で批判しているのを見ると、頭に疑問符が浮かびます。
なんでも美味しく食べられますが、美味しいお店が知りたいです。
冷え込むので、掛け布団を一枚増やしました。
お元気ですか。私は元気です。
正直よく知らなかった。
日本代表のラグビーの試合は全部見たけどどこで使われてた?元ネタが何なのか分からない。
使いやすさもあって最近何かと使ってる人が多く、ラグビーの言葉というよりは流行り言葉としての認識が最初だった。
流行語大賞としてはベストな選択だと思う。ラグビーが流行ったのは間違いない。
2019年初出の言葉というよりは近年使われるようになった言葉で、今年大々的に行われて上手くいったのが流行った理由なのかな。
働き方改革も相まって鉄道会社も利用者も無理しなくていいよねって風潮が強まった結果だと思う。流行ってよかった言葉。
10月まではかなり騒がれてた。
増税直前には何が8%で何が10%なのか、連日のように取り上げられていた。
しかし、10月以降は食品が8%、それ以外は10%という非常にざっくりとした記憶でしかなくなった。
みりんとみりん風調味料もテイクアウトとイートインももはや気にしちゃいない。
渋野日向子はゴルフのよっちゃんイカの人として一世を風靡したし知っているが、「スマイリングシンデレラ/しぶこ」という二つ名?ニックネーム?は聞いたことがなかった。
今年話題の人物ではあるけど言葉として流行ったかと言われると疑問符。
あと賞金女王ではないんだよね。持ち上げられてかわいそう。賞金女王になった人もかわいそう。
使ったことはないし使ってる人も実際に見たことはないけど、タピオカは空前の大ヒットだったし「タピる」って使い方をする人も大勢いたんだろうなぁとは容易に想像がつく。
デザートなんて一年に数回しか食べない自分が、今年一回タピオカを食べたくらいには流行ったモノだった。
ネットのごく一部でしか見たことないものの社会的に意義のある活動だと思うので、これを機に理不尽さはどんどん解消されてほしい。
20%還元やクーポン発行があるとその◯◯ペイで買い物してみたり。
国がいくら何をやっても流行らないのに、一企業であるソフトバンクが金ばらまいたらあっさり流行語に。依然浸透したとは言えないけど特定の人々の生活を変える強いインパクトがあった。
車に乗らないと生活できない地方にとっては頭を悩ませる問題だよなあ。
発端となったのは池袋っていうのがなんだかなぁ。車なくても生きていける人が問題提起するとは。
復帰していいとかしちゃだめとか、ものすごく活発な議論がされていた。
闇営業よりそっちの盛り上がり方のほうが気になった。
元号が変わったって事実以上に令和という言葉も盛んに使われていた。
献血ポスターの件、乳袋ってエロいけどエロくないのが面倒くさいところなのかなあ。
間違いなく性を意識した表現ではあるけれど、程度問題としてそこまでエロくはないっていうか。もちろん見る人の感性によるんだろうけど。
宇崎ちゃんってキャラクターは巨乳であること=乳袋があることとそのキャラクター性とか密接に関わっているから、ポスターの乳袋を問題視すると宇崎ちゃんを選んだことに論点がずれてしまい、ややこしくなる。
乳袋の否定はキャラクター性の否定になるから、乳袋を否定すると宇崎ちゃんをポスターに用いること自体に疑問符がつく。
そもそも用いなければよかったのかもしれないけどなあ。なーんかこの程度のラインで要求を呑みたくないんだよなあ。
乳袋って差別なのかなあ。女性を性の商品化している表現。アイキャッチに使っているからダメなのかな。
よく分かんないんだよなあ。乳袋によってもたらされる差別ってのなんだよって話。
具体的に何なのかいまいちぴんとこない。黒人差別だと社会的地位の低さや理不尽な暴力とかと繋がりやすいんだけど。
たぶんそういうことを反対派〈ゾーニング派?〉の人たちは言ってるんだろうけど、乳袋の表現と社会的地位の低さってのが感覚的に繋がらないんだよなあ。
二次元で描き表された乳袋と、実社会における理不尽な待遇とだよ? 文章にするとますますよく分かんなくなる。
乳袋の表現が公で許容されている社会は、女性と性的欲求とを直接結び付ける感覚が許容されていることを示していて、ゆえに乳袋は公で表現されてはならないってことなのかなあ。
もしそうだとしたら、一部のフェミニストの人たちは一件後も次なる標的を見つけるだろうし、最終的に内心の自由にまで踏み込んできそうなんだよなあ。
そんな長いスパンでは問題を捕えていなくて、エロいことを思っていてもいい、ただそれを表に出すなってだけの話なのかもしれないなあ。というか、たぶんそうなんだろうなあ。
でもって面倒なのが、許容できるエロさに個体差があるってところなんだろうなあ。
件のポスターに反発している人たちには乳袋がもうダメなエロさなんだ。ここでもう線引きしてる。
でも、乳袋ってエロいけどエロくないからなあ。エロに対する解像度というか、懐の深さというか、それが違うのが問題なのかなあ。
最近、インターネットで「いかがでしたか?」という言葉を目にしますね!
「よく分からない!」という人も多いのでは?
そこで、今回はここ数年で見かけるようになった「いかがでしたか?」の意味、
流行ったきっかけ、使い方について、気になったので調べてみました!
皆さんが気になっているのは、
ということだと思います!
辞書で調べたところ、「いかが」という言葉は、次のような意味になるそうです。
《「いかにか」の音変化》
[形動][文][ナリ]成り行きや結果を危ぶむさまを表す。どのよう。「その考え方は如何なものか」
[副]
1 状態・意見などについてたずねるさま。どう。どのように。「御機嫌如何」「この件は如何いたしましょうか」
2 事の成り行きについて疑問をさしはさむ気持ちを表す。どう。どんなもの。「その案は如何かと思う」
3 相手を誘ったり、相手に勧めたりする気持ちを表す。どうですか。「お一つ如何」「あなたも御一緒に如何」
4 疑問を表す。どのように…か。
「―言ひやるべきと、近う居給ふかぎりのたまひあはせて」〈枕・三五〉
5 反語の意を表す。どうして…か。
「かくばかり逢ふ日の稀になる人を―つらしと思はざるべき」〈古今・物名〉
6 どう言ったらよいかわからないほどの意で、強調する気持ちを表す。どんなにまあ。さぞかし。
「かかる物に捨てられぬといはれむは、―いみじかるべき」〈落窪・二〉
びっくりです!(*_*)
やっぱり、「でし」にもいろいろな意味があるようですね!
《原題、(フランス)Le Disciple》ブールジェによる長編小説。1889年発表。当時のフランスの科学万能主義の傾向に一石を投じる内容で、物議をかもした。
日本だけでなく、遠くはなれた外国ともつながりがある言葉、ということでしょうか?_φ(・_・ふむふむ
《他の語の下に付いて複合語をつくるときは、一般に「だか」となる》
1 数量・金額などを合計したもの。収穫量や知行 (ちぎょう) の額、また金銭の総額など。「生産高」「石 (こく) 高」「現在高」
3 程度の高いこと。また、限度・限界。
㋑せいぜいのところ。→高 (たか) が
「二、三年は稽古だの何だのと何にもならねえ。十両が―だ」〈洒・通神蔵〉
4 物事の要点や、あらまし。大略。
㋐形や位置が高い意を表す。「高殿」「高照らす」
㋑音声が大きい意を表す。「高笑い」「高話」「高鳴る」
㋒りっぱだという意のほめことばとして用いる。「高知る」「高敷く」
実は、調べている時に気づいたことなのですが、
ここで紹介したもの以外にも、いろいろな「たか」の意味があることに気づきました。
みなさんも、興味があったらぜひ調べてみてください!
さて、ここまで、「いかが」「でし」「たか」の意味をご紹介してきました。
それは・・・
「?」の存在です!!
そもそも、この「?」ってなんて読むんでしょうか?
「?」に意味なんてあるんでしょうか?
実は!
「?」に意味はあるんです!
疑問符(ぎもんふ)は約物のひとつで、「?」のように書かれる。疑問を表し、疑問を表す対象の後に置かれる。なお、耳垂れ(みみだれ)、クエスチョンマーク(英: question mark、クエッションマーク)、インテロゲーションマーク(英: interrogation mark)また、俗にははてなマークなどとも呼ばれる。
一般には、疑問文の最後に、終止符(マルやピリオド)に換えて置かれる。このため、疑問符は文の終わりをも示す。ただし、しばしば文の途中の疑問を表したい単語(不明確なことなど)の直後に置かれる。この場合、括弧で囲むことが多い。
なるほど!という感じですね!
「いかが」「でし」「たか」、そして、「?」の意味をご紹介してきたのですが・・・
みなさんが気になっているのは、やはり
ということですよね!
増田も、この「いかがでしたか?」という言葉を辞書で調べてみたのですが・・・
残念ながら見つかりませんでした。
辞書には載っていないようです。
まだ辞書にも載っていないような、かなり新しい言葉なのかもしれませんね。
「いかがでしたか?」の意味が載っている、なんてこともあるかも・・・?
しかし、いずれは「いかがでしたか?」の意味が分かる時が来るかもしれません!
まとめると、
ということになります!
https://live23.5ch.net/test/read.cgi/livetx/1230739034/78
ググって出てくるかぎりではこのレスが最古かな。
https://pc11.5ch.net/test/read.cgi/net/1260161018/738
738 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2009/12/12(土) 22:38:03 ID:2/RhDKgNO
内藤ホライゾンのなの字も知らないようなやつばっかだけど
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sake/1269350643/277-278
277呑んべぇさん2012/07/03(火) 21:49:30.43
最近は?の後にw付けるのありなんだ
ちょい前は単芝ってだけでwwwwwって反応で
疑問符の後にw付けようもんならwwwwwっうぇwwwwwって感じだったよな
それVIPか
278呑んべぇさん2012/07/03(火) 23:10:08.05
?とwの位置なんかもう大昔にどうでもよくなった感があるな
まじめに言うと、「主人公たちが完全な善ではないから」「正義に対して疑問符をつけながらも、少年漫画の王道だから 」。
主人公のルフィは海賊なので、世間的には正義の味方ではないんだよ。
むしろ海賊と敵対する、海軍のほうに世間的な正義がある。文字通り、海軍は背中に「正義」 と書かれたマントを背負ってるしね。
だけど、正義を背負っているはずの海軍も、完全な善性を持っているわけではない。立場に甘んじて、ズルをしたり支配したり、弾圧をしたりする。こういうのってリアルだよね、権力の描き方として。
あと、主人公たちが求めるのは正義ではなくて、自由。ルフィたちが何と戦っているかというと、支配に対して戦ってる。体制をなんとか維持しようとする海軍はじめ権力と、それに囚われず、自由を求める海賊の戦い。
これ、いつの時代も変わらない、少年のための熱い物語じゃない?
もちろん欺瞞でもあると思うけど。
あれが"ヘイト"だと言われると流石に疑問符が浮かぶ。「ビジネスで発言してるのは東国原の方だろ」とか、色々ツッコミたいところはあるけど。
そもそも言うほど"激昂"してなくない?金氏の反応も含めてビジネスでしょ。クソほどの価値もない下らないビジネスだと思うので、どちらにせよ東国原氏には二度とテレビに出て欲しくはないけど。
また今回の件とは別に、東国原氏が保守的で差別的な思考を流しがちなのは同意。でもあれは別に東国原氏が異常なわけじゃなくて、所詮は日本人の平均がその程度ってだけだと思うよ。
あ、武田ナントカは学界から永久追放した方がいい。擁護できる点が一つもない。そのうちヘイトスピーチで逮捕されるんじゃないかな。