はてなキーワード: 信条とは
「なぜ図書館で本を借りることは恥ずかしいのか?」
https://blog.tinect.jp/?p=82951
図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。
1.日本国憲法は主権が国民に存するとの原理にもとづいており、この国民主権の原理を維持し発展させるためには、国民ひとりひとりが思想・意見を自由に発表し交換すること、すなわち表現の自由の保障が不可欠である
知る自由は、表現の送り手に対して保障されるべき自由と表裏一体をなすものであり、知る自由の保障があってこそ表現の自由は成立する。
知る自由は、また、思想・良心の自由をはじめとして、いっさいの基本的人権と密接にかかわり、それらの保障を実現するための基礎的な要件である。それは、憲法が示すように、国民の不断の努力によって保持されなければならない。
2.すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する。この権利を社会的に保障することは、すなわち知る自由を保障することである。図書館は、まさにこのことに責任を負う機関である。
3.図書館は、権力の介入または社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき、図書館間の相互協力をふくむ図書館の総力をあげて、収集した資料と整備された施設を国民の利用に供するものである。
4.わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。
5.すべての国民は、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない。
6.ここに掲げる「図書館の自由」に関する原則は、国民の知る自由を保障するためであって、すべての図書館に基本的に妥当するものである。
「図書館の自由に関する宣言」とやらにはこんな大層な宣言がされているようだが、実際に図書館に置かれている本は小説や教育的な本ばかりで偏りがたいへん大きい。
国民の知る自由を謳うのであれば漫画や週刊SPA!、週刊プレイボーイなんかも置くべきでは?
国民の知る自由などと御大層なことを言っておきながら、実際には体よく国民を教育したいだけではないか?
図書館は図書館が本気で国民の知る自由を守る立場にあると思っているのなら、あらゆる書籍から平等に本を選定して収蔵すべきでは?
(かなり前に書いたものですが、バービンハイマーのミーム騒動などもあり改めて知ってみたいので、一部修正の上再掲します)
・「児童・学生時代に教師が日教組だった(せいでなんらかの不利益を被った)」
・「○○(思想・信条的な何か)をしたら職員室に呼び出された」
というたぐいの話が広く出回っている。これらの話には大体、平和教育、人権・道徳教育、同和教育への批判的見解が含まれているようだ。
組み合わせて例えてみれば、「平和教育の時間に日教組の教師が反自衛隊的な講話をした。それに対して冷静に反論する感想文を書いたら職員室に呼び出された」みたいな話だ(あくまで例えである)。
別の例を挙げれば、「人権 本物はやたらに言わない」と描かれた人権ポスターと、それを描いたとされる小学生のエピソードが、たびたびなにかの機知のように出回っている。(参考:https://twitter.com/PatriotNewsJPN/status/170058241861103616)
あるいは、別に「放送委員として給食の時間に彰晃マーチを流したら職員室に呼び出された」みたいなものもその一種かも知れない。単に流行に乗ったのかそれともオウム真理教に対する何らかの確固たる意志があったかは分けられるだろうが。
私は90年代後半~0年代に、関東の一都市の公立学校で義務教育を過ごしたが、
教師が日教組であるとかそうでないとかを意識したことはないし、
あるいは何か「大人の建前に都合の悪い」ことをして職員室に呼び出された経験や、それを見聞きしたこともない。
(子どもらしい単純な悪戯や、非行、それに対する指導などは見聞きしたことはあるし、理不尽な教師の思い出もいろいろあるが)
もちろん、年代や、日教組の組織率など地域的な差はあるだろう。(一般的に東日本より西日本の方がその様な教育に熱心と言われているようだ)
しかし、そんなに、一言で言えば、アグレッシブな対立がしょっちゅう存在するのだろうか。
特に大きな疑問として「職員室に呼び出された」という話の場合、その職員室に呼び出された後の話がほとんど見受けられないのである。
それほど思い出に残る、思想的な挑戦の末に職員室に呼び出されたのなら、その職員室での対面の場で何か大きな教訓とでもいうべき体験がありそうなものだが。
2014年、横浜の中学生が、修学旅行先の長崎で、平和教育を行っていたガイドの被曝者に対し「死にぞこない」と暴言を吐いたという事件がある。(参考:https://hi-hyou.com/archives/1193)
これは学校という閉じた空間ではなく、学校外に向けて起きた事件といえるが、ネット上で見られるエピソードには当然これ程のインパクトがないし、裏付けもない。
普通のいたずらや非行とも違う、早熟ともいえる思想的対立を経て、「教師が日教組である」と喝破したり、平和教育などへの批判的精神を表明したはずの人々は、実際何を得たのだろうか。
もし、なにか、「担任教師が日教組だったから~」「(社会的・歴史的な何かについて)〇〇したら職員室に呼び出された~」といったエピソードを経験した(起こした)り、それについて見聞きした方がいたら、ぜひ反応を頂きたい。
できれば、大まかでよいので地方・年代とその時の歳・公立か私立か・職員室なり説教なりの対立で何が起きたのかなど、当時の環境も添えてほしい。
どう反応するのが正解なの?
自分もアッ、はい。って感じの状態になると思うけど、実際こういう行動とる人ってどんな反応を期待してるんだろうか。
わからん。
こう、突然今期アニメの一推しを熱く語り始めるオタクだってさ、あ、ひょっとして今語って良い時なのかも!?って暴走列車の発車サインを読み違えて相手から何らか好意的な反応があると勘違いしてしまうからこその行動をとるのに、
学校で個人の性癖を突然語り出されても、すみません、あなたの性癖には興味がないんです・・・っでもここまで主張すると言うことは何らかの抑圧を感じているのだろうなぁ。でもどんなに頑張っても他人の性癖という究極に自分と無関係な事に対して取れる対応って無風以外になんかあるだろうか。
目の前の人間が同性が好きだと知っても、自分に取ってはパンより米派ですとかストッキングに興奮する足の臭い愛好家ですとかと同じ事なんだけど。究極どうでもいい。
アメリカだとすれ違った同性愛者に宗教的信条により突然危害を加える人間がいるらしいから、社会に対して自分達は無害で善良な市民ですよーっていう主張が死活問題なのはわかるけど、性的嗜好がなんらか善良な市民の条件を毀損するなんて考える日本人っているのか?(宗教的タブーがないという意味で)
いるとしたら、
LGBTQをカミングアウトされるより驚きだわ。
地裁や原審の事実認定、その判断に至る経緯、個別事情や司法事実を全て読み飛ばした上で、最高裁判所の判示を批判する馬鹿。
ジャーナリストや政治家がそれをやるのはまだわかる。自らの政治信条に合わない板結を批判するため意図的に読み飛ばしてるのであろうから。
1番ムカつくのは法律、法学の教育を受けていない無知蒙昧な庶民がそれを読んで顔真っ赤にして「最高裁判所はおかしい!」ってやってること。
納得できない判決が出たら、なぜその判断に至ったのか、どういう個別事情があるのか、をhttps://www.courts.go.jp/index.htmlにアクセスしてここで地裁、原審、最高裁の判示を全て読め。
こういう背景や判示を一切読まないで判決だけ見て批判する馬鹿人間が「エホバの証人なら剣道サボってもいいのか!」とか「デパートでもテーマパークでももう怖くてトイレに行けない!」とか言い出すんだよな。
あのなあ、最高裁判所の判事(というより実務を担ってる最高裁調査官)ってのは碩学なんだよ。最高の教育を受けてリーガルマインドを身につけたこの国で最も公平中立な生ける天秤なんだ。
助手席でうっかり寝ちゃった女性が、運転手の夫からかけられた言葉
自動車はドライバーひとりでも運行できる乗り物だし、運行にはドライバーひとりが全責任を負う。だから、助手席に乗せた人物が寝てるか起きてるかは本質的にどっちもいい。すべてはエチケットの問題だ。
エチケットはあくまでも相対的な行動規範で、当事者同士の関係性、信頼関係、礼儀、信条、さまざまな要素の相互作用で決定される。つまり助手席に乗った人は必ずこうするという一般解は導けないのだ。
上のまとめで夫が嫁に「運転してもらってるんだからさ~」とモラハラムーブを見せているが、これが夫婦でなかったとしたらどうだろう。
たとえば助手席のあなたは会社の若手ヒラ社員。運転は今日のゴルフコンペで初めて会った会社の専務。互いに家が近いことがわかったので帰り道は家まで送ってもらえることになった……みたいな場合、寝られますか? 寝ていいシチュエーションと思いますか?
それとか、サッカーの試合で負けてしまった息子を家まで連れ帰る道中、泣きながら眠ってしまった息子に「運転してやってるのに寝やがって」と腹を立てますか?
本当に本当に当たり前のことを言うが、「寝てもいいかな」と一声かけるだけで全然心証は違う。無理して起きているつもりであっても「もし寝ちゃったらごめんね」と言っておけばいい。
電車で前の席の人に黙ってリクライニングを下げられるとムッとするけど、「失礼します、下げていいですか?」と聞かれたら「どうぞどうぞ」ってなるでしょ? それと同じ。
もし後部座席にも同乗者がいて、その人は起きてても平気そうだったら代わってもらうという手もある。自分はいつも「少し寝たいから助手席代わって」と言って代わってもらっている。助手席に座る人はやっぱり起きていることが望ましいからだ。
ドライバーにとっては基本的には起きててもらえると助かる、という原則は覚えておいてほしい。
長距離をドライブして一日行動をともにしていたならば、自分が眠い時はドライバーもきっと眠いはずだ。
ドライバーはハンドルから手を離せないし、前方を注視していなければならない。そういう時にドリンクや食べ物を手渡してもらったり、スマホで調べ物をしたりしてもらえると助かるのだ。最近はカーコンピュータもタッチパネル式が増えてしまって、操作盤をちゃんと見ないと操作できなくなってしまった(エアコンとカーステレオは物理ボタンがいちばん)。そういうのをドライバーに代わって操作してもらうのも助かる。それに、運転席から見にくい死角を見てもらったりするのも助かる。
だが、運転手が何をしてもらえると助かるかなんて、運転経験がないとなかなかわからないだろう。
それも声をかければいい。「なんでも言ってね」と。
これは危ないから本当にやめてほしい。助手席の人が「アーッ!!」と絶叫したのでとっさに急停車したら「きょう、○○のチケットの発売日だった…」とか言い出してハラワタが煮えくり返ったことがある。短い「あっ」くらいでも困る。運転中のドライバーは安全確保・事故防止のアンテナをピンピンに立てている状態なので、危険シグナルにはものすごく敏感になっている。
ファンと名乗れるほどではないが、達郎(山下達郎)の音楽が好きだ。
上質なAORの供給源として、代表的なアルバム数枚やベスト盤・ライブ盤などを楽しんでよく聴いていた。
自分の中ではネッド・ドヒニーやニック・デカロとかと同じ枠に入れていたと思う。
私にとってリスニングは分析であり考察であり、つまりは研究だ。
吹き込まれた声と音のひとつひとつを拾い上げ、そのことば・その音がそこにある意味を問い、音と音との相乗効果を探る探求だ。
紀元前の遺跡に向かい合う考古学者のように、感覚を研ぎ澄ませ、精神を集中して、真摯に・謙虚にサウンドと向き合う。
そこには、アーチストの送り出した音とそれを受け止める自分の耳、という対等な関係しかない。とても純粋な対話だ。
ところが、そこに招かれざる夾雑物が混じり込んでしまった。ジャニーズ論争である。
はっきり言って、創作と関係ない部分のバックグラウンドは音楽との対話において邪魔な要素でしかない。
むろん、ある種のアーチストにとって生き様や思想信条はその創作性と切り離せない。その人が過去に起こした薬物事件や暴力事件すら作品の重要な一要素だったりする。
だが今回の達郎の騒ぎは違うよね。
達郎の音楽と向き合うのには完全に必要ない、まったく邪魔な情報でしかない。知りとうなかった。
こんな風に言われてしまうと、リスナーは達郎の音楽を聴くたびに、暗黙に達郎のスタンスに同意したとみなされてしまう。
むろん、そんなことは気にせずに勝手に聴けばよいのだが、もう心を空にしてというわけにはいかない。
どうしたって、あの見苦しい保身にまみれた長広舌が思い起こされてしまう。達郎の音楽を聴くという行為は、もはや純粋な対話ではなくなってしまったのだ。
私のCDラックには10枚ほどの達郎のアルバムが並んでいるが、あのコメントを境にその価値はだいぶん変わってしまった。
彼女と食事するお店を探していたら、やたらと評判の良いお店にこんな注意書きがあった
「<夜のご予約>
鮮度良い日本酒をご提供する為に、夜の営業は日本酒をお楽しみ頂く方のご予約を優先しています。」
彼女は体質的にお酒が飲めないのでこのお店は諦めることになったのだけれど、これって
「<夜のご予約>
美しいBGMをご提供する為に、夜の営業は耳が聴こえる方のご予約を優先しています。」
「<夜のご予約>
美しい食器でご提供する為に、夜の営業は目が見える方のご予約を優先しています。」
(追記)
金を落とすかどうかならワンドリンクにすればいい(大体のお店はそうなってる)
ラーメンしか置いてないラーメン屋と、酒がなくとも食事を注文できる料理屋を一緒にしちゃダメだよ
障害者手帳の有無という観点はなかった。確かに例として出したものとの違いにはなるけど、例えば人種、信条、性別、社会的身分又は門地はいずれも障害者手帳は出ないし、色弱なんてのと同じ枠かな。
賃貸と持ち家のどっちが正解かは「人による」し「物件による」し「将来の完全予測は無理」ってのが前提なんだけれど。
「俺は頻繁に住み替えたい」とか「絶対にローンは使わない信条だから」みたいな前向きな価値観がある人には特に言うことはないと思うけれど。
少なくとも「論理的に考えて賃貸だろ!買うやつはバカ!」て主張している人に関しては、「賃貸派の主張って10年前も同じこと言ってたけれど、過去10年は買った人が大正解だったよね」っていう事実には向き合ってほしい。これから家が余るから買うやつはバカ、なんてのは使い古された理論だけど、これを鵜呑みにして買うのをやめた人がいたら、生涯収支で数千万円損していたのが客観的事実なわけだ。
今からなら絶対に賃貸が正解? なんかそれ、「株価が今の倍のときから買ってるけど、ここまで下がれば絶対買い!」って言ってる投資家と似てるね
ついでにいうと、絶対賃貸派は隣人ガチャのリスクを挙げる人が多いけれど、それが起きるの何%だろうね。数パーセントのリスクを恐れて何も行動しないとか、人生ってなんだろうと思う。転職も結婚も何もできなくなる。住宅の場合は失敗したら取り返しがつかない? すぐに売って引っ越すことになったとしても、少し売却損が出るくらいで、数千万円の借金だけが残るようなケースはレアでしょうに。
「ひょっとして俺の番なのか?」
自分も無名の一個人、あらゆるSNSなど不要。という信条で長年過ごしてきたオタクだったのだが…
きっかけは大ヒットした某作品、その作中に日本ではややマイナーな某別ジャンルのネタが大量にぶち込まれており、元ネタ解説とか色々出てくるだろうなーと静観していたのだが、ネットに流れてくるのは断片的な情報とデマに近い風説ばかり。
このままではイカン、作者も浮かばれまいと思い、自ら重い筆を執ってブログに蘊蓄を書き連ねることにした。
あなたも30年オタを続けているのならば、いやでも人一倍ため込んだ特定ジャンルの知識経験があるだろう。
それを必要とする人に、正確な情報で残し伝えていくのに最適な人物が外ならぬ自分だった
そんな時がいずれくるかもしれないよ?
この長文を書いている間にツイート主が自ら問題点に気付いたようなのですが、一応書いたので載せます。
公に相応しい言葉を使われた「夢をかなえるゾウ」の批評論文は普通に読みたい。
勢いに任せて書いていたら思いの外長文乱文になってしまった。歴史については細部に誤りがあるかもしれません。ご容赦ください。
発端と一連のツイート↓
https://twitter.com/dfuz4/status/1672629861524062213?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A
https://twitter.com/dfuz4/status/1672958086733250562?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A
https://twitter.com/dfuz4/status/1672973973825650689?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A
https://twitter.com/dfuz4/status/1672965101517955073?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A
長いので要点まとめをしました。
この時点で既に長いですが、この下に本文があります。
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2.「公」における良書主義について
公による良書主義は、先の大戦で見られた悲惨な言論統制、思想弾圧に繋がる。
民主主義においては、全ての本、全ての人、全ての思想信条は法の下に平等に扱われるべきとされる。
また歴史的に見ても、本と人間(思想・信条)は密接に紐づいており、
公の姿勢としてその部分が守られているため、
特定の本を否定することで人格を否定されたと考える人が現れてもおかしくはない。
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3.「私」における良書主義について
公の立場からしても、本来良書・悪書の判断は個人に委ねられるべきとされている。
ただし、文字通り一人一派であり、そうでなくてはならないため、
当然、他人からも私人の立場から私人の言葉で反論される場合がある。これもまた自由であり、自然かつ健全である。
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4.「公」と「私」の混同
マッチングアプリを使っている1ツイッタラーは「私」の立場である。
前述の通り、私人の立場で、私人の言葉を使ったことが発端だが、
途中から研究者、批評・研究という公の立場を持ち出しているため、区別がついていないと思われる。
公の立場には公に相応しい言葉があり、当然集まる意見にもそれが反映される。
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余談.「全ての本は素晴らしい」と考えている人はいるのか?
いない。
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5.今回のまとめ
「私」の立場で発信したのであれば、他人の「私」の意見も受け入れるべき。
反論を受けてから「公」の立場を持ち出すのは、「公」に相応しくないという点で悪手である。
研究者であるならば、嫌いなどの私情を挟まない冷静で平等な視点で、相応しい言葉で論理的に批評しなければならない。
あくまでも私人としての意見であるならば、自らのためにも研究者の立場を途中で持ち出したりせず、最後まで私人の意見に留めたほうが無難。
個人的には発端のツイートの内容はあくまで私的な意見であり、さして騒ぐようなものではないと思う。が、意見を言いたくなる人がいてもおかしくない。
ただし、途中で研究者という公的な立場を持ち出したことで、認識として危険だと思ったためコレを書こうと思った。
ツイ主に敵意はない。出来れば本人に届いてほしいが、読みづらい文章で申し訳ない。本を愛する気持ちは勿論自分もそうなので、よくわかる。
ここから本文
〜〜〜〜〜〜〜〜
本人がこの視点の区別がついていないことが、一番の問題なのではないかと思う。
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2.「公」における良書主義について
まず前提として、日本には古く戦前に「良書主義」という考え方がある。
コレはざっくり言うと、
"世の中には(ツイ主の言葉を借りれば)「しょうもない」「薄っぺらい」=悪書が存在し、それらは教育および教養において価値を持たない。歴史的・文学的に意味を持った良書のみに価値がある。"という考え方である。
ただしコレは、例え「公」の立場が定めたものだとしても、突き詰めていけば、ツイ主も表明しているようにどこかの個人「私」の主観に基づくものである。
そのため「公」とされる場所においては、近年ではこの考え方が否定されている。
"絶歌問題"と言えば大々的にニュースにもなり、記憶にある方も多いと思う。
大筋は以下。
①「こういった内容の図書を図書館が置いて良いものか」と市民からクレームが入った
②クレームを受けた一部図書館が該当の図書を閉架=職員の出納が必要な場所に置いたり、除籍とした
論点としては、
・公的な自治体である図書館が、特定の出版物を市民の目に入らないように検閲・排除するのは正しいのか
・それは言論弾圧に繋がり、思想信条の自由に反するのではないか
議論の中、多くの図書館ではこの絶歌を特別扱いせず、他の一般図書と同じように取り扱った。つまり開架=誰でも手に取れる場所に置いた。
"本の評価は、読んだ各個人「私」に委ねられる。図書館「公」において、すべての本(すべての人間、すべての思想信条)は平等である"
民主主義に端を発する図書館の歴史を学んだ者であれば、この姿勢には拍手を送るだろう。
「公」においては、良書も悪書もあってはならない。
図書館ひいては司書職の人間が私的な判断で、特定の本への接続を薦めることまた同様に妨げることは越権行為であり絶対的なタブーである。(※2)
また、この対応からも分かるように、本というものは個人の思想・信条・人格と密接に紐付けられて考えられている。
一冊の本は一つの思想であり、一つの信条であり、一個の人である。
第二次対戦前夜のドイツの焚書に対するハイネの言葉である「本を焼く者は、いずれ人間も焼くようになる」からもそれがよく分かる。
「公」の場において、特定の本を特例として扱い肯定・否定することは、その本に書かれた思想およびその思想に同調する人を肯定・否定していることになる。
だからこそ、良書主義は言論統制や思想弾圧に繋がるとして廃れていった。
ただし、繰り返すが、コレは「公」における話である。
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3.「私」における良書主義について
前述の通り、評価は「私」に委ねられる。
司書職の人間に、職務外で好きな本・嫌いな本を聞けば全員がその両方を答えるだろう。コレは「私」の範疇であるため自由である。
本人も表明しているように、発端となるツイートした時点での立場は明確に「私」である。
マッチングアプリをしている私人としての発言でしかない。自由である。
そしてそこに、たくさんの「私」の反対意見が集まった。コレもまた自由であり、自然である。
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4.「公」と「私」の混同
問題はその後だ。
自然の摂理で発生した反対意見に不満を覚えたツイート主は、「批評」「研究」という言葉を持ち出して、文学研究をしている学生という立場から発言を始めた。
研究者は言わずもがな公の存在である。学生であっても、指導教員がおり、大学には国から補助金が出ている。
批評や研究はもちろん存在するが、公には公に相応しい言葉がある。
しょうもない、薄っぺらい、大嫌いという言葉で語られた批評は存在しない。(文芸商業誌にならあるかもしれないが、当然「私」である)
研究者は、特定の作者・文書を研究対象に選んだからといって、選ばなかった文書を見下しているかといえばそうではない。
(内心の「私」の部分ではそうであったとしても、それを「公」である研究の中で露悪的に表現することはない)
公に相応しい言葉を使って正しく批評していれば、反論であっても同じように公に相応しい言葉を使った建設的な意見が来ていただろう。
「個人としての発信なら問題ないが、研究者としての発信なら相応しい言葉ではない」
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余談.「全ての本が素晴らしい」と思っている人はいるのか?
これはハッキリ言うが、いない。
公の立場では「全ての本は平等」に過ぎない。コレは法の下において、そうでなければならない。
私の立場では「全ての本は平等ではない」。コレは法の下において、また民主主義において、そうでなければならない。
ツイ主にアレコレ言ってる人は全ての本が素晴らしいと思ってそう言っているのではなく、
好きな本を貶された、好きではないけどその言い方はないでしょう、お前の態度が気に食わない、なんとなく鼻につく等等、一個人の「私」の立場からの意見に過ぎない。
また途中から研究者の立場を持ち出したことに対して違和感を覚えたり、それはダメでしょうと思ったり、マウントを取ろうとしていると捉えて不快になった人もいるだろう。
何度も言うが「私」の立場からであれば自由で自然で健全である。
ただし、当然、誹謗中傷や現行の法に触れる発言は自由の範疇外なので、コレについては受け入れる必要はない。(警察に行ってください)
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5.今回の件のまとめ
「私」の立場から「私」の言葉で反論、不快感の表明、揶揄が集まった
(自然な流れ)
これに尽きる。
そして、後から「公」ぶるのは無理があり、「公」の在り方に照らせば悪手だ。
つまり公と私を混ぜるな危険。ということで一度冷静になって考えてほしい。
研究者のポーズを取って「批評という文化に馴染みがない…?」等と煽っているが、それこそ公に相応しい言葉を用いた批評という文化に対して失礼である。
「研究者であろうが、ツイッターで発言している時点で"私"の立場です。だから自由でしょ?」というなら納得できる。しかし、ならば他の人の「私」の意見が集まることも受け入れなければならない。
何度も言うが研究者という「公」の立場を取るのであれば、「私」の好き嫌いを挟むことは相応しくない。
この区別をはっきりさせて、「公」の姿勢を理解していないと、研究者としては危険すぎる。
※1) 公の最たるものには文書館もある。文書館は歴史的・文学的に保存価値があるものが選別され保管されている。そこには「公」=研究者による評価判断が下されている。
ただし、文書館および文書館職員は当然「文書館に所蔵されない本はしょうもない。薄っぺらい。大嫌い」等とは言わない。
あくまでも歴史的文学的な保存価値という一要素を選書基準としているに過ぎないからであり、良書・悪書を選別しているわけではないからである。
また、勿論そういった言葉が「公」に相応しい言葉ではないからである。
※2)近年ではCCC等一般企業の参入、指定管理、業務委託といった制度により、自社や関係各社に利益が上がるような本の取り扱い方をしている図書館もある。しかし本来の図書館の在り方としてはこの限りではない。実際に問題にもなっている。
そんな私の成果物なのだから、有能でない私は死ぬべきと、別に思わなくてもいいのではないかしら(タイトル)
今社会人2年目なんですよね。
1年ちょいくらい仕事して、私の心の安寧を守るために編み出した価値観を言語化しておこうと思うのです。
もちろん、会社は私達が優秀な人材になることを期待してくれているし、有能になってくれたら嬉しいしと会社は思っているとも私は思っています。その為に研修やら各種補助やら色々と投資をしてくださっていると認識しています。(エクスキューズ)
さて、会社が私に求めているのは成果物である。たとえ優秀だろうがそうでなかろうが、求められている成果物をきちんと出すことが上司が求めていることである。(まあ成果っていうのが分かりやすい職種ではないのだが。)そして全く同じ仕事をしている人間はいない。つまり分かりやすく比べられる訳ではない。そしてたとえば私が仕事を辞めたとして代わりの人材がすぐに補充されるわけではない。どこも人手不足だ。
だから、上司が求めていることは、私の無能さに打ちひしがれるよりも、やるべき仕事を淡々と、出来ることを出来る範囲でやることがきっと求められている。
別に同期の誰よりも優れ圧倒的成果を出すことを上司は必要条件にはしていないだろう。
大学までは、まあ教育機関ですから、私達が優秀になることそのものが一番の目的だったわけです。でも社会人になったらそんなことなくなった。それが私としては、プレッシャーから開放された気がして生きる気が楽になったなと私は感じたのです。
いつからそう思ったのかは分からない。でも1年目の3月に振り返って、社会人になって一番変わった価値観はそれだなと思った。
実際、同じ部署の同期の彼は非常に優秀だし、一人でガンガンやるべきことを棚卸しして、しかもそれを飄々とこなすのですごいなあと思う。直上の先輩方も非常に優秀で努力家で成果量もすごくて、なぜ一週間でこれだけの仕事量をこなしている?と訳が分からなくなるのが常である。
ただまあそれは隣の芝生はなんとやらであって、私だってアホみたいな仕事量をひたすらやっていた時期だってあるし、仕事の内容によって、かかる時間と成果物の量は異なる。
上司だって、私に対して一定の評価はくださっていることを理解している。上司はおそらく、なんというか、公正な評価をするべしと思っていると感じている。別に上司は私のことを居ないほうがいいとかは思っていないだろう、多分。
・手が早いところ(これは上司も認識していて面と向かって評価していると言われた)
・頑張る意志とガッツがあるところ。体力的にキツくてもガッツで乗り切るところ。
・明るくしようと努めているところ
・分け隔てなくを信条とし、あと人の機微に疎いので、浮きがちな人とも気にせず仲良くなれること
・注意力散漫なのでケアレスミスが多いところ
というわけで、まあ上司は私が私の無能さに打ちひしがれることは求めていないでしょうから、まあ粛々と、淡々とやるべきことをこなしていくしかないですわね。
You Tubeで電車が走ってるだけの動画見てたら関連動画に「6月の蠍座大爆進!」みたいなのが上がってたのでソレも見てみた
普段占いとかスピ系動画全然見ないのだが、こうして稀に関連動画で出てくる(なんでだろ?寝る為のASMR動画ばっか見てるからAIに心が病んでると思われているのだろうか。病んでるけど)
で、内容は兎も角、占いとかスピリチュアル系の動画上げる人ってさあ…口調がうるさすぎないか?
うるさくて聞いてらんないんだが
語ってると興奮しちゃうのかな?
眠くなるくらいの勢いで静かに語りかけた方がソレっぽくないか?
良いこと言ってくれててもうるさくて聞いてらんねーよ
向日性を信条としている人間は自然とああいう異常なテンションになっちゃうのだろうか?
あれで元気貰える視聴者も居るだろうけど、削られる人間も居るんですよ
みんな静かにしなさい
(自分は生まれつき静かだったので言われませんでしたがね。騒がない。ちょけない。子供らしくない。それの良し悪しは別として。というかどう考えても悪いけどな)
いじめや友達のいないことなど、少しばかりでしょうが増田さんと私には似ているところがあったので参考になるか分かりませんが私の人生を語らせてください。
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幼稚園時代のことはあまり覚えていませんが中のいい友人が1人おりましたので子供らしい時間を過ごせていたと思います。
よく「◯◯ちゃんと結婚する」などと友人と言い合っていたのを今でも覚えています。
親が教育指導に熱心なタイプだったため、小学校での学業成績は悪くありませんでした。
1~3年生ぐらいは平和に暮らせていたと思います、しかし、仲のいい友人というのはおりませんでした。
4年生ぐらいになると、粗暴な子供達がクラス内で権力を効かせるようになってきており、身体が細く運動神経に恵まれなかった私はいじめのターゲットとなってしまいました。
朝教室に入ると、クラスメイトが声を揃えて私をバカにする歌を歌いだしたりするのは本当に屈辱でした。
小学校5年生ぐらいではあまりの屈辱に耐えきれず、いじめを行っていた、粗暴な子供のグループの中でも最上位に属しているクラスメイトを殴って階段から突き落としたことがあります。
幸い(私の心情としては幸いというべきではないのですが…)、突き落としたクラスメイトに大きな怪我はなくその問題は学校内で内々にもみ消されることとなります。
その後、クラスメイト全員からの嘲笑は無くなったものの階段から突き落とした子供のいるグループから執拗なリンチを受けることになります、
学校の先生については、私は全く信用していなかったので相談することはありませんでしたし、親にはいじめられていることが申し訳なくて相談することが出来ませんでした。
中学校時代、小学生のころにいじめを行っていたグループは地域の不良グループ(暴走族のようなものだと思う)に取り込まれていって学校内では特定の誰かをターゲットにした目立ったいじめを行うのではなく、
自分たち以外のグループをおもちゃのように見立てているようで、彼らの気分で暴力などをふるっていました。
小学校の頃と比べると比較的穏やかに過ごせるようになりました。
穏やかではありましたが彼らの遊びの中で彼らがおもちゃと思っているクラスメイト同士に殴り合いをさせる遊びがあり、これは今でも到底許しがたいものだと記憶しています。
私はそのターゲットに選ばれてしまったとき、嫌いでもない人間を殴るぐらいならと不良グループの1人に殴りかかったところ返りうちにあい、その後地域の不良グループも含められた集団からリンチを受けました。
幸い(私の心情としては幸いというべきではないのですが…)、このリンチは継続するものではなく一度限りで終わりました。
さすがにこのときの怪我で親にも学校のことがバレたのですが、親は「生きていればいいから無茶はしないで」と泣きながら言われたのは今でもとても胸に残っています。
当時の私としては彼らの言いなりになるぐらいなら死んだほうがましだと考えていましたが、親となった今ならあのときの言葉の意味が分かる気がします。
私の地域では高校の進学は、不良、就職、進学組にキレイに分かれる風習があり中学までの不良は殆どが不良の行く高校へと進学していきました。
勿論、不良の中でも就職、進学組の高校に進むものもいましたが、これまでの仲間を失ったかれらはとても大人しいものでした。
さて、私は親の教育方針もあって進学組の高校に進むことになります。
高校に入って驚いたことは、皆非常に穏やかな人間だったということです、私にとってはその光景が異常なように移りました。
これまでは、いじめなり、不良グループに目を付けられないように怯えながら暮らしていました、高校ではそれがないのです!
友達は相変わらずおりませんので、体育の授業では誰ともペアを組むことが出来なかったり、偶数でちょうどペアを組む相手はなんだか気まずそうな雰囲気を出しておりました。
(それでも露骨に嫌な顔はしませんので、悪い人間ではないのです)
学校の先生も非常に親切で、あまりにものんびり過ごしている私にも根気を持って指導してくださり、このときに親以外の大人でも信用出来る人間はいるのだなと認識を改めました。
私はこの暮らしの中で安穏と日々を過ごしてしまい、学業を疎かにしてしまったことであまり良い成績ではありませんでした。
大学の進学は希望した大学には入学出来ず滑り止めで受けた大学に入学することになります。
アルバイトは短期間のものを数ヶ月おきにこなす程度で余暇を多く持て余していました。
幸いにも住居のそばに図書館があったことから学生時代の余暇は本を読むことに費やしていました。
友達がいないとせっかくよんだ本の感想を誰に共有することも出来ずもどかしい思いを抱えますので、当時の携帯電話(いわゆるガラケー)で読書した感想などを適当なサイトにつらつらと書いてはアップロードしていました。
(当時の携帯電はが文字を打ち込むために同じ物理ボタンを数回押さなければならないのですが、文章を入力するためにボタンを押しすぎたおかげか殆のボタンにはヒビが入ったり欠けたりしていました。)
友達がおりませんので就職活動のための情報というのが自分の元には全く集まりませんから大学卒業後は就職すること叶わず派遣労働者として過ごすことになります。
この時期からようやく手元にある程度の資金が貯まるようになり念願のPCを自宅に導入することが出来るようになりました。
PCが手に入ると友達がいなくても情報を手に入れることが出来るようになったため、就職に関する様々な情報を得られるようになります。
第二新卒というものの存在を知り、卒業後すぐに就職出来なくてもまだチャンスはあるのだと知ることが出来ました。
そこからは就職に向けて情報を集め、必要な知識を得るために自習を行い、なんとか正社員として就職することに成功します。
最初の会社は就職のための対策をして臨んだため面接時のコミュニケーション能力の高さを評価されてしまいました。
本来、私は友達のいない人間なので日常のコミュニケーション能力は皆無に等しいのです。
私の本性を知った会社は私を試用期間中に能力が至らなかったということで解雇します。
非常に落ち込みはしたのですが、業務内容自体は私の適正に合っていたようで(勿論、就職活動時に自分の適正を考えて合いそうな業界を選んだというのはあるのですが)、
解雇されはするものの取引先の会社にツテを作ってもらいそこに入社することになりました。
次の会社でも業務内容自体は同じでそれをこなす能力自体は評価していただけましたが、そこから出世していくにはコミュニケーション能力が必要だと常々言われておりました。
私としては業務能力を持って勝負していきたいと考えており、せっかくのツテを作ってもらった中で申し訳無さもあるのですが次の会社に転職することを決めました。
このようなコミュニケーション能力の無い人間がツテもなく転職出来る会社は社会的にもまっとうな会社ではないのですが、それは反面、私の人間性も無視してくれるということです。
次の会社は非常に労働時間が長く、業務量が異常に多かったのですが、それを求めて入ったということもあり、この頃の私は仕事が楽しくて仕方がありませんでした。
同僚も私のように何らかの欠陥がある人間が多く所属しており、私のコミュニケーション能力というのを咎められることがなかったのも良かったと思っております。
(尤も、私のいない場所で私に対するかなりの誹謗中傷があったらしいのですが…)
業務能力や馬車馬のように働くことを評価して頂いたのか、幹部候補としての待遇を打診されました。
しかし、社会的には悪影響をあたえるような会社でしたのでその中で幹部になることに後ろめたさがあり転職することになります。
この会社で得た経験がこの次の転職に活きており、簡単に転職することが出来ました。
次の会社では私のコミュニケーションに関するコンプレックスを取り払ってくれる上司に出会います。
彼はコミュニケーションのことを「業務を遂行するために最善の状況を作るのがコミュニケーションであり、日曜日にバーベキューに行って楽しむものではない」という信条を持っており、
この考え方のお陰で、人と仲のよい距離をわざわざ作る必要などないのだいう自信を持つことが出来るようになりました。
もともと、知識を仕入れた上で自身がどのように振る舞えば効果が高いのか?というのを考えて行動するタイプでしたので、上司の言う考え方は私の考え方に非常に相性が良かったのです。
知識の仕入れや引き出しというのは大学時代に大量の読書を行ったことで下地が出来上がっていたというのもあります。
自信を持てば人生は上手く回るもので、今では自分の感性に合う伴侶を得て、子供にも恵まれ、大きなストレスもなく平均的な収入を得られる仕事に就けています。
最初の仕事を解雇されたときは人生は積んだのだろうと絶望したものですが、時代の背景や運の要素もあったかもしれませんが、何とかなるものです。
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さて、長々と書きましたが大学生活を楽しむためのコツでしたね?
私の場合は本を読むことが大学生活の楽しみでした、それは自分の人生を好転させる材料の1つにもなりました。
読書は1億円の投資などとも言われますが、本を読む、つまり知る、考える楽しさを知ることは人生を上手く過ごす方法の1つなのかもしれません。