はてなキーワード: ニック・デカロとは
ファンと名乗れるほどではないが、達郎(山下達郎)の音楽が好きだ。
上質なAORの供給源として、代表的なアルバム数枚やベスト盤・ライブ盤などを楽しんでよく聴いていた。
自分の中ではネッド・ドヒニーやニック・デカロとかと同じ枠に入れていたと思う。
私にとってリスニングは分析であり考察であり、つまりは研究だ。
吹き込まれた声と音のひとつひとつを拾い上げ、そのことば・その音がそこにある意味を問い、音と音との相乗効果を探る探求だ。
紀元前の遺跡に向かい合う考古学者のように、感覚を研ぎ澄ませ、精神を集中して、真摯に・謙虚にサウンドと向き合う。
そこには、アーチストの送り出した音とそれを受け止める自分の耳、という対等な関係しかない。とても純粋な対話だ。
ところが、そこに招かれざる夾雑物が混じり込んでしまった。ジャニーズ論争である。
はっきり言って、創作と関係ない部分のバックグラウンドは音楽との対話において邪魔な要素でしかない。
むろん、ある種のアーチストにとって生き様や思想信条はその創作性と切り離せない。その人が過去に起こした薬物事件や暴力事件すら作品の重要な一要素だったりする。
だが今回の達郎の騒ぎは違うよね。
達郎の音楽と向き合うのには完全に必要ない、まったく邪魔な情報でしかない。知りとうなかった。
こんな風に言われてしまうと、リスナーは達郎の音楽を聴くたびに、暗黙に達郎のスタンスに同意したとみなされてしまう。
むろん、そんなことは気にせずに勝手に聴けばよいのだが、もう心を空にしてというわけにはいかない。
どうしたって、あの見苦しい保身にまみれた長広舌が思い起こされてしまう。達郎の音楽を聴くという行為は、もはや純粋な対話ではなくなってしまったのだ。
私のCDラックには10枚ほどの達郎のアルバムが並んでいるが、あのコメントを境にその価値はだいぶん変わってしまった。