2023-06-26

夢をかなえるゾウ」に関するツイートについて

この長文を書いている間にツイート主が自ら問題点に気付いたようなのですが、一応書いたので載せます

公に相応しい言葉を使われた「夢をかなえるゾウ」の批評論文普通に読みたい。




勢いに任せて書いていたら思いの外長文乱文になってしまった。歴史については細部に誤りがあるかもしれません。ご容赦ください。

発端と一連のツイート

https://twitter.com/dfuz4/status/1672629861524062213?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A

https://twitter.com/dfuz4/status/1672958086733250562?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A

https://twitter.com/dfuz4/status/1672973973825650689?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A

https://twitter.com/dfuz4/status/1672965101517955073?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A

長いので要点まとめをしました。

この時点で既に長いですが、この下に本文があります

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1.筆者の思うツイート主の問題点

「公」と「私」の視点および言葉遣いの混同

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2.「公」における良書主義について

ツイ主の考え方は所謂「良書主義」であり、

公の場では良書主義否定されている。

公による良書主義は、先の大戦で見られた悲惨言論統制思想弾圧に繋がる。

民主主義においては、全ての本、全ての人、全ての思想信条は法の下に平等に扱われるべきとされる。

また歴史的に見ても、本と人間(思想信条)は密接に紐づいており、

公の姿勢としてその部分が守られているため、

特定の本を否定することで人格否定されたと考える人が現れてもおかしくはない。

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3.「私」における良書主義について

私の場では(各個人における)良書主義は認められている。

公の立場からしても、本来良書・悪書判断個人に委ねられるべきとされている。

ただし、文字通り一人一派であり、そうでなくてはならないため、

私人立場から私人言葉特定の本を肯定否定すれば、

当然、他人から私人立場から私人言葉反論される場合がある。これもまた自由であり、自然かつ健全である

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4.「公」と「私」の混同

マッチングアプリを使っている1ツイッタラーは「私」の立場である

大学指導を受けている文学研究者は「公」の立場である

前述の通り、私人立場で、私人言葉を使ったことが発端だが、

途中から研究者批評研究という公の立場を持ち出しているため、区別がついていないと思われる。

公の立場には公に相応しい言葉があり、当然集まる意見にもそれが反映される。

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余談.「全ての本は素晴らしい」と考えている人はいるのか?

いない。

公の立場では「全ての本は平等」に過ぎず、

私の立場では「全ての本は平等ではない」。

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5.今回のまとめ

「私」の立場で発信したのであれば、他人の「私」の意見も受け入れるべき。

反論を受けてから「公」の立場を持ち出すのは、「公」に相応しくないという点で悪手である

また、その二つの視点は明確に区別しなければならず、

研究者であるならば、嫌いなどの私情を挟まない冷静で平等視点で、相応しい言葉論理的批評しなければならない。

あくまでも私人としての意見であるならば、自らのためにも研究者立場を途中で持ち出したりせず、最後まで私人意見に留めたほうが無難

個人的には発端のツイートの内容はあくま私的意見であり、さして騒ぐようなものではないと思う。が、意見を言いたくなる人がいてもおかしくない。

ただし、途中で研究者という公的立場を持ち出したことで、認識として危険だと思ったためコレを書こうと思った。

ツイ主に敵意はない。出来れば本人に届いてほしいが、読みづらい文章申し訳ない。本を愛する気持ちは勿論自分もそうなので、よくわかる。




ここから本文

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1.筆者の思うツイート主の問題点

ツイート主のツイート及び意識問題点として以下がある。

・「公」と「私」の視点及び言葉遣いの混同

本人がこの視点区別がついていないことが、一番の問題なのではないかと思う。

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2.「公」における良書主義について

まず前提として、日本には古く戦前に「良書主義」という考え方がある。

コレはざっくり言うと、

"世の中には(ツイ主の言葉を借りれば)「しょうもない」「薄っぺらい」=悪書存在し、それらは教育および教養において価値を持たない。歴史的・文学的に意味を持った良書のみに価値がある。"という考え方である

ただしコレは、例え「公」の立場が定めたものだとしても、突き詰めていけば、ツイ主も表明しているようにどこかの個人「私」の主観に基づくものである

そのため「公」とされる場所においては、近年ではこの考え方が否定されている。

「公」の最たる例が図書館(※1)である

"絶歌問題"と言えば大々的にニュースにもなり、記憶にある方も多いと思う。

大筋は以下。

①「こういった内容の図書図書館が置いて良いものか」と市民からクレームが入った

クレームを受けた一部図書館が該当の図書閉架=職員の出納が必要場所に置いたり、除籍とした

図書館対応として正しいのか議論が起こった

論点としては、

公的自治体である図書館が、特定出版物市民の目に入らないように検閲排除するのは正しいのか

・それは言論弾圧に繋がり、思想信条自由に反するのではないか

といったものである

議論の中、多くの図書館ではこの絶歌特別扱いせず、他の一般図書と同じように取り扱った。つまり開架=誰でも手に取れる場所に置いた。

この対応は良書主義への抵抗であり、

"本の評価は、読んだ各個人「私」に委ねられる。図書館「公」において、すべての本(すべての人間、すべての思想信条)は平等である"

という姿勢を強く示したものである

民主主義に端を発する図書館歴史を学んだ者であれば、この姿勢には拍手を送るだろう。

「公」においては、良書も悪書もあってはならない。

図書館ひいては司書職の人間私的判断で、特定の本への接続を薦めることまた同様に妨げることは越権行為であり絶対的タブーである。(※2)

また、この対応からも分かるように、本というもの個人思想信条人格と密接に紐付けられて考えられている。

一冊の本は一つの思想であり、一つの信条であり、一個の人である

二次戦前夜のドイツ焚書に対するハイネ言葉である「本を焼く者は、いずれ人間も焼くようになる」からもそれがよく分かる。

「公」の場において、特定の本を特例として扱い肯定否定することは、その本に書かれた思想およびその思想同調する人を肯定否定していることになる。

からこそ、良書主義言論統制思想弾圧に繋がるとして廃れていった。

ただし、繰り返すが、コレは「公」における話である

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3.「私」における良書主義について

前述の通り、評価は「私」に委ねられる。

司書職の人間に、職務外で好きな本・嫌いな本を聞けば全員がその両方を答えるだろう。コレは「私」の範疇であるため自由である

ツイート主の発言に戻ると、

本人も表明しているように、発端となるツイートした時点での立場は明確に「私」である

マッチングアプリをしている私人としての発言しかない。自由である

そしてそこに、たくさんの「私」の反対意見が集まった。コレもまた自由であり、自然である

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4.「公」と「私」の混同

問題はその後だ。

自然の摂理で発生した反対意見に不満を覚えたツイート主は、「批評」「研究」という言葉を持ち出して、文学研究をしている学生という立場から発言を始めた。

研究者言わずもがな公の存在である学生であっても、指導教員がおり、大学には国から補助金が出ている。

批評研究はもちろん存在するが、公には公に相応しい言葉がある。

しょうもない薄っぺらい、大嫌いという言葉で語られた批評存在しない。(文芸商業誌にならあるかもしれないが、当然「私」である)

研究者は、特定の作者・文書研究対象に選んだからといって、選ばなかった文書を見下しているかといえばそうではない。

(内心の「私」の部分ではそうであったとしても、それを「公」である研究の中で露悪的に表現することはない)

それが「公」における平等である

公に相応しい言葉を使って正しく批評していれば、反論であっても同じように公に相応しい言葉を使った建設的な意見が来ていただろう。

指導教員に聞いてみてほしいが、以下のように言われるはずだ。

個人としての発信なら問題ないが、研究者としての発信なら相応しい言葉ではない」

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余談.「全ての本が素晴らしい」と思っている人はいるのか?

これはハッキリ言うが、いない。

公の立場では「全ての本は平等」に過ぎない。コレは法の下において、そうでなければならない。

私の立場では「全ての本は平等ではない」。コレは法の下において、また民主主義において、そうでなければならない。

ツイ主にアレコレ言ってる人は全ての本が素晴らしいと思ってそう言っているのではなく、

好きな本を貶された、好きではないけどその言い方はないでしょう、お前の態度が気に食わない、なんとなく鼻につく等等、一個人の「私」の立場から意見に過ぎない。

また途中から研究者立場を持ち出したことに対して違和感を覚えたり、それはダメでしょうと思ったり、マウントを取ろうとしていると捉えて不快になった人もいるだろう。

何度も言うが「私」の立場からであれば自由自然健全である

ただし、当然、誹謗中傷や現行の法に触れる発言自由範疇外なので、コレについては受け入れる必要はない。(警察に行ってください)

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5.今回の件のまとめ

ツイート主は「私」の立場で「私」の言葉を使い、

特定の本およびその本を好む人を選別・選民したために、

「私」の立場から「私」の言葉反論不快感の表明、揶揄が集まった

(自然な流れ)

これに尽きる。

「私」の言葉を使った時点で、「私」の言葉は集まってくる。

そして、後から「公」ぶるのは無理があり、「公」の在り方に照らせば悪手だ。

まり公と私を混ぜるな危険。ということで一度冷静になって考えてほしい。

研究者ポーズを取って「批評という文化に馴染みがない…?」等と煽っているが、それこそ公に相応しい言葉を用いた批評という文化に対して失礼である

研究者であろうが、ツイッター発言している時点で"私"の立場です。だから自由でしょ?」というなら納得できる。しかし、ならば他の人の「私」の意見が集まることも受け入れなければならない。

何度も言うが研究者という「公」の立場を取るのであれば、「私」の好き嫌いを挟むことは相応しくない。

この区別をはっきりさせて、「公」の姿勢理解していないと、研究者としては危険すぎる。

※1) 公の最たるものには文書館もある。文書館は歴史的・文学的に保存価値があるものが選別され保管されている。そこには「公」=研究者による評価判断が下されている。

ただし、文書館および文書職員は当然「文書館に所蔵されない本はしょうもない薄っぺらい。大嫌い」等とは言わない。

あくまでも歴史文学的な保存価値という一要素を選書基準としているに過ぎないからであり、良書・悪書を選別しているわけではないかである

また、勿論そういった言葉が「公」に相応しい言葉ではないかである


※2)近年ではCCC一般企業の参入、指定管理業務委託といった制度により、自社や関係各社に利益が上がるような本の取り扱い方をしている図書館もある。しか本来図書館の在り方としてはこの限りではない。実際に問題にもなっている。

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