よく知らない道で歩いてて、ちょっと前に同じ方向に向かって人が歩いてるとする。
するとその人が引き返してきた。周りからも察するに行き止まりだったのだろう。
さて、この時はどうするのが良いのか。
合理的なのは自分もすぐに引き返すことだ。行き止まりだと分かっているのに進む合理性は全くない。
しかし実際そうするのは躊躇われる。
なぜなら、引き返すと前の人の動きを判断に使ったと認知されてしまうからだ。
行き止まりで引き返すというのは道を間違えたということに他ならず、それを認識されるというのは恥ずかしいと思わせてしまうかもしれない。
他者の行動を観察し、それを基に自身の行動を選択することは、人間社会で生きる我々にとっては当然のことだ。しかしその一方で、自分の行動が他者によって観察され、評価されることはどこか居心地の悪さを感じさせる。これは、我々が他者からどのように見られるかという意識、すなわち社会的な評価に対する恐怖からくるものだろう。
それゆえ我々はあえて進めないと分かっている道を歩き、あたかも自分で見て行き止まりであることを知ったかのように振る舞うのだ。
だが、その日は何故か自分の中の反逆心がムクムクと湧き上がってきた。なぜ自分は無駄な労力を使ってまで、自分のプライドを守る必要があるのだろう?そして、なぜ自分は他人の目を気にして、自分が正しいと分かっている行動を避けるのだろう?
思い切って、私は歩く方向を変えて引き返すことにした。しかし、そのとき足元に気付いたものがあった。それは、地面に書かれた大きな文字で「迷路です。頑張って出口を見つけてください」と書かれていた。そのとき、私は思わず大声で笑ってしまった。
つまり、ここは意図的に設けられた迷路だったのだ。前に歩いていた人が引き返してきたのも、自分が進めないと思っていた道が行き止まりだと思ったのも、全部この迷路の一部だったのだ。それを思うと、自分が今まで無意味な恥を恐れ、他者の視線を意識しすぎていたことに気づいた。
私はひとりで大笑いしながら、道なき道を進むことにした。今度は他人の視線を気にせず、自分の感じるままに、迷路を楽しむことにしたのだ。
そしてまた、歩き出した途端に思い浮かんだ。この迷路は、実は人生そのものではないかと。たまに迷いながら進むこともあり、時々引き返すこともある。それでも、それが全て自分自身の道であり、それを恐れずに進んでいけば、必ず出口、つまり目的地にたどり着くことができる。
そんな思いを抱きながら、私は楽しげに迷路を進んだ。そして突然、行き止まりに向かって歩いていた人がまた現れ、今度は「こっちが正解です!」と声をかけてきたとき、私は思わず大笑いしてしまった。人生の迷路は案外シンプルなんだな、と。そして、どんなに迷っても、他人の視線を気にせず、自分の感じるままに進んでいけば、いつか必ず出口にたどり着くことができるのだと、改めて確信したのであった。
いい話になった。終わり。