はてなキーワード: 日本企業とは
1歳の娘をバギーに乗せ、3歳の娘の手をとりながら、私は横断歩道の前で待っていた。
住宅地にあるバス通り、それなりに交通量は多いが、信号機はない。
朝の通学時間帯には、地域の父母が旗を持って立ち、子どもたちの通学の安全を守っている。
結局、スピードを落とすことなく走り去る自家用車やタクシーを十数台ほど見送った後、やってきたバスが横断歩道の手前に停車してくれた。
3歳の娘は危なっかしく傘を肩に預けながらも笑顔でバスの運転手に手を振り、私は軽く会釈をしながら横断歩道をようやく渡り終えた。
自宅への道を急ぎながら、娘は「みんな、なかなか止まってくれないよね」と、ぽつりと呟いた。
つくづく、この国で子どもを産み育てていくのは大変なことだと思う。
出産費用にはじまり、医療費に教育費はもちろん重くのしかかる。
家族が増えれば住居の広さも必要になり、自炊するにも食材が増えた分だけ、食費の増加は避けられない。
年に一度くらいは遠方の祖父母に子どもと会う機会をつくろうと思えば、交通費もかなりのものだ。
子どもを育てるコストを負担しつつ、自分たちの老後に備える必要もある。
問題は、その原資となる収入だが、今や雇用の安定など私たち20代や30代には望むべくもない。
成熟し、縮小していく社会において、高度成長期のような右肩あがりの成長に伴う給与上昇は考えられない。
となれば、椅子取りゲームで競争に勝ち、立場と給与を力づくで手に入れるしかない。
勝利しなければ、生き残らなければ給与の上昇を見込めないどころか、今の仕事すら失うかもしれない。
そしてその競争に参加するには、子どもの存在は重たい足かせになる。
家に帰って子どもの世話をするために、そして週末には子どもに時間を使うために、働く親たちは必死の思いで自らの仕事を効率化する。
だがそれでも、突発的なトラブルがあり、夜遅い時間に設定される会議があり、そして就業時間後のコミュニケーションが命運を握る社内政治がある。
子どもを持つ親は、子どものいない同僚たちと対等に競争に参加することは難しい。
この国のビジネス社会は、仕事にすべてを捧げ、集中する覚悟と実践を要求する。
この競争は、ブラック企業だろうと、優良企業だろうと、実はさほどの違いはない。
では、夫婦の内の片方が仕事に全力を注ぎ、もう片方が子育てを一手に引き受ける分担をすればいいのだろうか。
私たちの親世代で一般的だったように、企業戦士と専業主婦という分業により、家庭を経営していけばいいだろうか。
答えはノーだ。
なぜなら、私たちの親世代と私たちでは直面しているリスクの大きさが違いすぎるからだ。
かつて、日本企業は滅私奉公を要求するかわりに、少なくとも正社員として働く男性たちの雇用を守ってきた。
そのしわ寄せは、結婚によって退職する若い女性社員や、パートタイム労働者が負っていたが、彼らは主たる生計者ではなかったから、それでも「雇用の安定」というお題目は守られていた。
今は違う。
主たる生計者が期間限定の雇用に甘んじている状況は珍しくない。
正社員ですら、いつ競争に敗れ、仕事を失うかわからない危機感に常にさらされている。
どちらかが仕事を失っても、次の仕事を見つけるまで、家計を支えるためだ。
競争に勝たなければ所得の上昇が望めない社会で、成長し、お金を必要とする子どもたちに応えるためだ。
そのためには、母親である私は急いで仕事復帰しなければならなかった。
数が足りない認可園に入れないリスクに対処するために、先着順の無認可園を徹底的にあたって予約金も支払った。
秋生まれになるように調整したのは、産休明けにシッターを利用して急いで仕事復帰し、認可保育所選考のポイントを加算するためだ。
11月生まれで1月後半からシッター利用で復職、生後半年を待たず0歳で認可保育所に入園できれば、私たち夫婦の収入でも対処できる。
本当は4月や5月頃生まれの方が、0歳入園でもほぼ1歳に近く、子どもとの時間を持つことができるが、それでは約一年も仕事を離れることになり、復職のハードルが高すぎる。夏から翌4月までをシッターで乗り切るのはあまりに経済的負担が大きかったので、断念せざるを得なかった。
結局私は2人の娘を産んだが、仕事を離れていた期間は通算で一年に満たない。
そこまでして復職しても、いわゆるマミートラックからは逃れられないが、それも甘受するしかない。
「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログが話題になったが、ネットで何を叫ぼうと誰も助けてはくれない。
同情の言葉くらいはもらえるかもしれない。数年先には状況が変わるかもしれない。
それでは目の前の子ども、不運にもレールに乗れなかった家庭には手遅れだ。
誰もが自分の生きる場所を守り、しがみつくことに精一杯の世の中で、他者に手を差し伸べる余裕がある者などほとんどいない。
保育園に入れないのも自己責任だと切って捨てられる、それが現実だ。
ちなみに、そこまでして入った保育園も、子どもが体調を崩せば利用できない。
行政が提供する病児保育のサービスはあまりに貧弱で、フルタイムで働く私たちには使いこなせる余地がなかったから、いざという時には高額な病児ベビーシッターサービスも活用している。
そこまでしてでも、母親が正社員という立場を守って働き続けなければ、子どものいる家庭を守ることはできない。
少なくとも私はそう考えている。
母親は一度仕事をやめ、子どもが手を離れる年にまで育ったら、再び仕事を探して働けばいいという識者がいる。
そういう人は、十分な学歴と意欲があり、健康な体を持ち、自分自身以外に面倒を見るべき存在がいない若者ですら、安定した仕事を得ることが難しい社会の現状を知っていて、そんなことを言っているのだろうか。
誰もがいつ仕事を失うかわからない、そして失業した際のセーフティネットがあまりに貧弱なこの国の仕組みを理解していて、言っているのだろうか。
ひとり、あるいは複数の人間を新生児から社会人まで育て上げる責任の重さを、親になったからには背負わなければならない。
それも親になるという選択をしたのは自分たちなのだから、自己責任の範疇である。
費用も、機会も、制度をいかに利用して乗り切るかも、すべて親の才覚にかかっている。
それでも、私は自分たち家族が驚くほど細い綱渡りをしていることを自覚している。
もし娘たちや私たち夫婦の誰か1人にでも何か不慮の事故や病気があれば、この綱渡りを続けられる保証はない。
ここまでは、物質的な話だ。
子どもを育てるには、物理的金銭的に大変な努力が必要なのはもはや否定できない。
次に、親になる者が直面するのは、精神的な困難だ。
公共交通機関に子どもを乗せるなという論争が、日々至る所で巻き起こっている。
冒頭、娘が呟いたように、横断歩道をゆっくりとしか渡れない幼い子どもを連れた親は、道を渡ることすら容易ではない。
必要なしつけはしているつもりだし、公共の場でのふるまい方を教育するのは当然親の務めだと考えている。
それでも、子ども連れでいることで向けられる世間のまなざしに、どうしようもなく辛い思いをすることはある。
一人だったらとくに気にすることもなく車の間をぬって渡ってしまえる道も、子どもが一緒だから、安全を確認するまで辛抱強く待つ。
走り去る車をじっと見つめる娘の澄んだ瞳と、だんだん冷たくなっていく小さな手のひらに、どうしようもない心の痛みを感じながら、私は待つ。
もちろん、指定席を子どもも含めて人数分取っているが、たまたま私たちの近くに乗り合わせたビジネスマン風の男性は、あからさまなため息をつき、はしゃぐ娘たちを見て舌打ちする。
大きな声はださせない、椅子にはきちんと座らせる、そして食べ散らかすような菓子類は与えない。
飲み物はこぼさないようにストローやマグを準備し、それでも万が一に備えてタオルや着替えは常備する。
万全の準備をしているつもりでも、子どもの機嫌が悪くなることがある。
だが、帰省シーズンともなれば、指定席車両のデッキも自由席券の乗客で溢れ返り、苛立つ彼らは泣きじゃくる子どもを抱えて現れた親を睨み付け、ため息をつく。
一体、子を持つ親はどうふるまえばいいのか。
子が公共の場所で泣かず、疲れたとわがままを言わないようになるまでは、外になど出るべきではないのか。
容赦なく投げつけられる批判のまなざしを、せめて子どもが直接こうむることがないよう、親は細心の注意を持って配慮し、矢面に立つ。
自分で選んだ生き方なのだから仕方がない、これも自己責任だと言い聞かせ、今日もぐっと奥歯をかみしめる。
仕事を持ち、愛するひとと結ばれ、子どもをもうけて家庭を築き、社会に参加する。
本当に幸せなことだ。
川の字に並んで眠る夫と娘たちの寝顔を見る時、私は自分の歩んできた道が間違ってはいなかったことを自覚し、そしてたとえようもないほどの幸福感に満たされるのを感じる。
だが同時に、ひどく不安にもなる。
私はこの先も、この幸せを守り続けていけるのだろうか?
家族の健康を守り、仕事を守り、娘たちの未来を保障し、自己責任をまっとうできるだろうか?
身の丈に合わない幸せを追い求め、手にしてしまったのではないかと悩むことがある。
本当は、私のようなごくありふれた個人がまっとうできる責任など、自分ひとりが生き抜くくらいのことなのかもしれない。
仕事に集中し、結婚も出産もしなければ、私がとるべき自己責任の対象は私1人分でよかったはずだ。
ただ、保育園に子どもをいれられなかった親が怒り、子どもの障害とともに生きる親が絶望してしまうこの世の中で、ありふれているはずの家庭を持つ親が何を考えているのかを伝えたかった。
今、この国で子どもを持つということは「自己責任」の範囲を子ども全員にまで広げるということだ。
それでも子どもが欲しいなら、産み育てる責任をまっとうしてほしい。
…ありふれた幸せに憧れているだけなら、残念ながらお勧めできない。
だが、各論では真逆であり、子どもを持つことはリスクであり、ペナルティでしかない。
私たちは誰もが自分の幸せを自由に追求する権利があるが、子どものいる幸せは非常に高価だ。
子どもを持っても、誰も褒めてはくれないし、助けてもくれない。まして見返りなどないし、批判にさらされることが増えると覚悟してほしい。
それでも子どもを持つのは、子どものいる幸せがそのリスクやペナルティを度外視させ、高価さに見合う以上の精神的な充足をもたらしてくれるからだ。
私は正直、覚悟が甘かったから、今でも時々こんな風に心を痛めたり、迷ってしまう。
まだまだだな、と思うばかりである。
シャープがFoxconnに買収される方向になることが決まりつつある。
現時点では両社の交渉は延期だが、
最終的にはFoxconnに買収されることを私は支持している。
日本の社会全体で見ると、産業革新機構がシャープを買収して欲しいという論調だ。
エルピーダーメモリーの時、産業革新機構が出資したが、破綻した。
そもそも、コモディティ化が著しいメモリーに、日の丸だからというだけで
コモディティ化した製品なので、為替による影響が大きい製品なのに。
私も愛国者であるので、日の丸企業にシャープを買収して欲しいと思う。
だが、産業革新機構だったら、Foxconnのテリー・ゴウ氏に買収してもらう方がいい。
または、日の丸企業だったら日本電産のCEOなどハングリー精神を持っているところがよい。
日本電産のCEOもFoxconnのCEOも一代で大企業を作り上げたたたき上げだ。
一方シャープや産業革新機構のCEOは社内政治でCEOになったのだろう。
たしか、2000年前半あたりだろうか、シャープとサムスンが訴訟合戦となった。
シャープにとって不条理な訴訟にも関わらず勝ちに拘らないで、和解した。
これを見て、この会社先がないと感じた。
私は、数年前台湾にある、とあるグローバル企業の日本法人とプロジェクトを一緒に行った。
グローバルで活躍する台湾企業には、今の日本企業にはないコスト感覚がある。
なぜこのコストなのか細かくリーズニングが徹底的に要求される。
ただ、グローバルでみるとどうだ。
正当な主張をしない株主は正しいのか?
シャープを見ればなにか見えてこないだろうか。
「これからはすべての入口となるテレビが重要なのでテレビに力をいれる」
といっていたが、この昭和時代のパラダイム・先見性のなさをみて
株主は黙っていたのだろうか。
みなさんはどう感じられたか。
「私の戦闘力は53万です」
というのはフリーザの有名なセリフなのですが、ソフトウェア産業でもまさに同じようなことが起きていて、戦闘力(=生産性)が桁外れの人がごろごろいるのです。
100人のプログラマが2週間かかって出来ないことをスーパープログラマが2時間であっさり解決とか普通にある世界です。
Google Code Jam とか Top Coder のアルゴリズム部門といったオンラインプログラミングコンテストに出場してみればわかると思います。(誰でも出場できます)
全世界一斉によーい・・ドン!と始まって、1問目の問題文を読み始めます。
すると・・三分の一も読むか読まないうちに、スコアボードにはすでにプログラムを提出して正解判定をもらっている人がちらほら出始めます。
なん・・だ・と・・?!
なんとか心を冷静に保ちつつ、1問目を読み終えてプログラムを作成、テストして提出し終えた頃には団体様はすでに最後の4問目まで提出し終わっています。
とか言っている場合ではありません。実は日本人もこの手の大会で上位入賞どころか優勝しまくっている人はいます。
じゃあ、こういう魔人たちは一体どこで働くのでしょうか?
答えは書かなくてもわかっていると思いますが、日本の IT ベンダーにはまず就職しません。
(まあ、私には崇高な魔人が本当に考えるところはわかりませんが)
はて、ソフトウェアエンジニアは日本でどうやって幸せになるんでしょうか・・
IT は超戦士たちが跋扈するドラゴンボールの世界です。特殊な世界には特殊な戦略で立ち向かわないとだめです。
常々私が思っていることに、
という事があります。
IT というのはモノづくりから「レシピ」の部分を純粋抽出した産業です。
そのため、実際の物質の制約がほぼないので、際限なく効率化できてしまうのです。
ここを理解せずに従来産業のモデルを当てはめていれば崩壊するにきまっています。変な平等主義がさらに輪をかけて状況を悪くしています。
スポット・コンサルティング仲介ビジネスって今後流行るのかな?
ここ最近経験したスポット・コンサルティング仲介ビジネスについて増田で書いてみます。
まず、これを書くきっかけになったのは、ちょっと前に LinkedIn で経由でやたらと
connection 依頼が来てて、どうせいつものヘッドハンターからだろうと
とりあえず放置しておりました。(ほぼ海外の方からで職業が Consultant やら Analyst だったので)
そこに、海外在住と思われるの日本人の方から connection の依頼と共に
その方が私にコンタクトした理由は、あるクライアントから技術的なコンサルティング依頼があり
それに対応可能な人間を探していたところ、私を LinkedIn で見つけたので
連絡を取りたかったということでした。。
(おそらく私以外にもたくさんの方を探していたことでしょう)
で、その方は海外のWEBを使用したスポットコンサルティング仲介業者の方で
クライアントとのコンサルティングを仲介するのが仕事だとのこと。
ちょうど仕事の谷間で時間があったのと個人的に興味があり面白そうだったので
気軽な気持ちでコンサルティングのアドバイザーになっても良いと返答しました。
また、報酬などの条件がお互い合わなかったり対応が無理そうな場合には
コンサルティング自体成立しないという事もありうるということでした。
で、アドバイザー登録をしてからコンサルティングが成立する前に
私が依頼を行うに適切かどうかを判断するための、いくつかの事前質問が私に届き、
回答を行うといった流れで、この時の質問は業界で最新の開発及び技術動向、
競合状況などをある程度把握している人間ならば答えられるといったもので
それからコンサルティングを電話で行うか、文章ベースで行うかを
決めるの事になるですが、電話で不安な場合も通訳を使用することも可能ということでした。
結果的に文字によるやり取りになるのですが、通訳を使用する場合には
で、実際にコンサルティングを行う事になったのですが、
依頼事項の内容を見た時に私は驚くことになります。
まず、この質問を送って来た奴は出来る!
事前質問が余裕で回答出来る内容だったので正直舐めていたのですが、
実際のコンサルティング依頼での中身はかなり際どく、
アドバイザーは機密に関する内容やコンプライアンスに抵触する内容で
あれば答えなくて良い決まりになっているのですが
その機密にぎりぎり抵触しない内容だが、実際に開発に携わっていたり
技術論文の内容を正しく把握していないと回答出来ない質問であったり。。。
会社で資料を見ればすぐに分かる回答も、自分が過去に開発した時の記憶や
専門サイト、論文検索、各社のプレス内容を調べてから文章にしていくとなると
思ったよりも時間がかかる。。。
一旦、引き受けた以上は出来るだけ真摯に取り組みたいと思い、
回答を図や文章にしていくのですが、請求可能なコンサルティング時間に対して
もっと高くしておいたのにな~と多少後悔も。。。
それで、回答を送る時際に仲介の方から依頼先の情報をもらうのですが、
これが大手コンサルティングファームの人間という事が発覚!
なんだよ~大手のコンサルファームが企業相手のコンサルティングする際の
大手だったらかなりの報酬を企業に請求するだろうし、もっと取っても良かったな~と。
でも、やはり大手のコンサルの人間は出来るというもの同時に再確認。
開発に直接携わっていない分、情報として分析したりまとめあげるために
で、回答を何とか送り、依頼者が結果に満足しているということで
安心していたところ、追加でお願いしたいのだけど対応可能か?と再び連絡あり。
最終的に3日に渡り延べ10時間以上を回答に費やし10円万以上の報酬を
得ることになったのですが、もう1回依頼が来たら対応するかは
その時の気分次第かな?
やっぱり私は開発に携わっている方が性にあっていると感じたり。。。。
今回依頼を仲介したのが海外のところで基本的に英語でのやり取りなのですが、
偶然見ていたワールドビジネスサテライトで知ることに。。。。
ちょっと内容見てみたのですが、海外のところに比べて価格が安いですね。
日本語オンリーで相手も日本企業・日本人が相手だというのもあるし
元々コンサルティングビジネスがまだ日本には根付いていないのか?
ビザスクは今回の私のケースみたいに積極的にアドバイザーを探すのではなく
仲介をメインにやっていくのかな?
ここら辺がこれからの課題になりそうな気もしないではないです。
って考えたりもしたけど、英語化する手間もあるし
そもそも優秀なアドバイザーがいるのかな? と思ったり。
うまくビジネスとして成立するのだろうか?
大学教授が言った発言だろうが中卒が言った発言だろうが関係ない
そんな匿名性は失われていった
本名でやらなけりゃいいじゃん
と思われるかもしれないがそういうことじゃない
となる
そのうんこマンの発言は常にうんこマンの過去の発言やネット上での実績、下手したらリアルの俺のステータスまで…等のフィルターを通して読まれることになる
そうじゃない
俺が求めてるインターネットはそうじゃない
嘘を嘘と見抜けない奴には難しい
そんなインターネットが好きなんだ
俺は増田に書き始めていろんな人になった
専業主婦として男叩きをしたり
そして時には
でもそんなことは関係ないんだよね
出社後、少し時間ができたので、ふと、過去に在籍していたベンチャー企業のホームページを見た。
入社時、そこの社長は声高らかに、打倒 google を謳っており
若く、身の程を知らない自分は根拠のない高揚感に包まれ入社した。
自分がjoinした時は、立ち上げ間もなかった頃で資金も潤沢。R and D に勤しんでいた。
だが、半年経ったころ、ふと気付いた。
しかも全員、ちょっとプログラムをかける程度。ましてや、自分以外はPHPで"hello world"なレベル。
ある日社長に問いただす。
「勝てると思ってるの?数も資金も技術力もノウハウも、比較にすらならないのに」
その返答に戦慄した。
出資者からの資本金引き上げも相次ぎ、入社当初4億近かった資本金は3000万まで下がった。
ついには受託開発に手を出し始めた。
運用はどうする?インフラはどうする?そんなことも決めないまま、訳のわからない受託案件が飛び込む。
受託に慣れていない社長と営業は、3人月で100万とか、どこの会社にも見向きもされれないブラック案件ばかりをとってくる。
今は200人くらいの中小企業の開発部でマネージャをしている。
昔は大きくはないが、ちゃんとしたビルに入っていたのに、なんとかマンションの302号室。
いや。ほんとに辞めてよかった。
転職時は、年齢的にもギリギリだったが、あの時、歯を食いしばって動いた自分を褒めてやりたい。
さて、仕事頑張ろう。
それでも
・電車通勤の場合「遅延、事故、間引き、何があっても間に合うように早く家を出ろ」
・自動車通勤の場合「事故、渋滞、何があっても間に合うように早く家を出ろ」
理不尽の1つだが、民法の危険負担の原則(債務者主義)に近似していることがわかる。
…と結論付けるのは早計。
民法の危険負担に関する規定は、当事者双方が「対等」である双務契約を前提とした規定である。
すなわち、会社(使用者)と社員(労働者)というはじめから対等でない関係には直ちには適用できないのだ。
結局のところ、何の不利益(遅刻による評価下落、有休扱いにして遅刻を帳消しにする場合有休を浪費することになる、など)も受けないでおこうとするなら、会社のいいなりにならなければならない隷属関係は揺るがない(´Д`)
通常の倍以上時間がかかるにもかかわらず出社を求められ、無事出社できても雪がひどくて仕事にならず、1日の大半を雪かきだけですごす日があるとさすがに何やってるんだと惨めな気持ちになる。
こういう経験を一度でもしたことのある、もしくは身近にそれを見てきた人間であれば、今回のあの騒動はそれほど驚くべきことではない。大小に関わらず、身内企業では実によくあることだからだ。
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信用と業績の中心を失った企業は緩やかな死を迎える
もしこれで能力のある第三者が離脱せずに経営者側と和解なく経営権を剥奪するというのなら、それはクーデーターにほかならない。
一見して筋道の通った話に聞こえるかもしれないが、これは他人の私物を奪う行為だ。なぜなら、労働者の生産物は常に経営者の資本の上に成り立っているからだ。
自らの資本を持って一企業として自立して、市場から占有率を奪い取るのであればわかる。それこそが自由経済の原則だ。他人の資本で成長しておいて、培った実効支配力を持って母体を乗っ取る行為は寄生虫のそれと何ら変わりがない。
経営者側としては、こうした企業倫理の崩壊を防ぐために時に売上よりも理念を優先する必要がある。売上につながるからといって能力者の行動を野放しにすればいつの間にか企業内の正義が逆転してしまうからだ。
もし有能な人間が、今の企業のスケールが自らの能力に合わないと判断したのであれば今すぐにでも自らの資本で起業すべきである。もしそれができないというのであれば、それは自らの能力に対するおごりだ。なぜなら、その成果物全ては企業の資本があってはじめてのものだからだ。それを忘れて自らの能力を主張することは、エゴ以外の何ものでもない。
ときにそうした人間が会社の批判を行い、さらにそれに多くの人間が同調する姿を目にすることが、それが身勝手以外の何物でもないことは言うまでもないことだ。
しかし、ここには経営者側、能力のある第三者側に共通して不足していると言える点がある。それは自らの立場に対する自覚でありおごりだ。
企業の売上であり利益は、決して個人の活躍だけで成立するものではない。言い換えれば、企業や組織のブランドとは、そこで働く人間全員によって作られているものだからだ。そのブランドを背負うことで、はじめて個人の能力が発揮されているということを忘れてはならないのだ。それは企業で働く人間誰ひとりとして忘れてはならない原則といっていいだろう。
考えてみて欲しい。もし自らが、自らの属する組織や企業の評判の全く届かない土地に立ち、何も持たない状態で今の報酬と同じだけの収益を直ちに得ることができるだろうか。それができないというのであれば、その部分は自らが属する組織に依存している部分にほかならず、それを自らの所有物であると勘違いしている証拠なのだ。
しかし人間とは往々にしてこのことに対して無自覚である場合が多い。だからこそ企業は寿命を避けられないし、つまらぬいざこざで能力のある人間が露頭に迷うことが絶えないのだ。
今回の一見を、メディアはこぞってアイドルグループ解散の危機と報じた。しかし、見極めるべき問題の本質はそこにはない。なぜならそこにあるのは一企業存続の危機であり、そこで働く人間たちの生活の危機にほかならないからだ。口を開けてしまった溝を埋めることも、一度生じた不信感も、ましてやぽっかりと穴が空いた能力者の席も、取り戻すことは容易ではない。
今回の件において残念に感じたことは、どこにおいても大人が不在だったことだ。誰しもが自らの利権と正義のもとに行動し、それによって利害が生じる守るべき人間たちを置き去りにしていたからだ。これこそが日本企業が世界に最も劣る点であり、企業寿命が伸びていかない一番の理由でもある。
自らの類まれなる能力に自覚がありながら経営側と折り合えない悩みを抱える人間は、一度の足元を見なおしてみて欲しい。育ててくれた会社も、信用してついてきてくれた人間も、そして自らの家族も、すべてを失ってしまったわたしのようには絶対になってはならない。
>元増田にレスした増田だけど、俺は日本人全体へのもっと高度(実用に耐える)な英語教育は絶対に必要だと思う。
これは間違ってる。反例として考えられるのはフィリピン。英語は出来るが国全体は崩壊している。英語は重要だが日本の抱える問題の一つにすぎない
>日本人の生産性が低いとか、情報技術に弱いとか、経済が行き詰まってるとか、様々な問題の根本的な原因は日本人の英語力の無さに集約されると思う。
生産性が低いのは日本の体育系が宗教を仕事に持ち込んでコミュニケーションコストを異常にあげてるから
日本のコミュニケーション≒コミュニケーション+儒教 になっている。
コミュ力コミュ力と一時期言われてたのは結局コミュ力じゃなくて儒教力だよ。いかに儒教形式に従い忠誠を示すか、それが日本のコミュ力であり
communication skillとはかなりかけ離れている。
この儒教を徹底的に排除したのがキーエンスで平均年収が1000万を越えてる。逆に言えば日本はもっと豊かになる伸びしろはある。
何の役にも立たないどころか生産性と不幸をまき散らす体育会系を排除しないと日本の未来は無い。
>日本企業(その大多数を占める中小企業)がみんな特に抵抗なく英語圏で商売できるようになったらそれだけで日本経済の問題はほとんど解決すると思うわ。
最近、いや結構前からか、アニメが地方UHF局のような局でしか放送しなくなった(MXとか)。
人口の大多数(もしかして、国民の99%が)がそういう電波を受信出来るエリアに住んでいるからいいのかもしれないが、少なくともここでは受信出来ぬ。
メディア側の人の話として、先日「円盤を買って頂かないと」とか、「円盤が売れるのを前提にアニメ化してる。円盤でコストを回収している」なんて事もちらほらネットで見た覚えがある。
中身試聴すら出来ない、見られてないのに、円盤買えるわけ無いっしょ。
じゃぁ衛星でも受信すりゃいいじゃん、とよく言われますが、アンテナ出すだけでNHKの料金が馬鹿高くなる。
パソコンでTVを見たくない(画面が小さい)、というのと回線が遅いという。
アクトビラくらいはなんとか見られる環境にあるのだが、それ以外のネットTVはうちのAVシステムでは無理。
そもそもADSLなので厳しいところがある。
ちらっと広告を見てると「光TV」みたいに、光回線とセットらしいが。
じゃぁ、光にすればいいじゃん、今時、ともよく言われるが、光回線維持費高いヨ。
現在ADSLで2000\/月なんで。一戸建ての光回線引いたら維持費は倍以上。
光も「高速」とか言われるけど、1Gbpsなんて使わんだろう。使い切ってる人いるのかな。瞬間最大でその付近まではいく事は有るだろうけど。
通常使用ではADSLのダウンリンク速度(ウチの所は平均8Mbps。契約は12M)で十分で。
そうだなぁ、現状プロバイダから提供されている光回線速度である1Gbpsの)の1/20~1/10、50~100Mbpsででいいから、維持費を半額で。維持費まで1/20~1/10とは言わねぇよ。
未だにADSLを使い続けている人達はけっこういると思うけど、同じなんじゃないかな、と思う。
個人的には、震災を経験して、光回線の災害に対する弱さを見てしまったので、通信インフラの確保としてね。
(PSTNだと、電話線からの給電で電話が通じるとか、切れた時の復旧の早さ(むしろ、光回線の復旧が遅かった)とか)
まぁ、NTT的にはPSTNの維持が困難になりつつあるから、いずれは廃止だろうけど、「無駄に見かけだけの高速を求めてるんじゃなくて、通常使いやすい速度での安価な提供」を求めている事に気が付かないと、光回線への移行は遅々として進まないと思う。日本企業のくそったれなところだよね。白物家電やAVで海外に負けた理由が分からんのか、と。
そういうわけで、ネットTV系も選択外にいるが、維持費予算さえ許せば選択肢の中。
なんだかんだと、アニメオタのつもりだったが、(日単位で)リアルタイムで見られなくなったアニメが多く、しかも円盤を買わないと見られないアニメばかりになったせいか、アニメから遠ざかった自分でありました。再度書くけど、中身を吟味も出来ない状態で円盤は買えないよ。
Twitterが140文字制限を撤廃するという話が広まっている。Twitterに1万字も投稿できるようになると、タイムラインの魅力は減じるのは免れないであろう。140文字に制限されているからこその創造性が失われる。一方で、Twitterに長文を投稿したいというユーザが現在不便を感じているのも間違いないだろう。
サービス提供者の理念の元、あえて何かをさせない/何かを強制することにより、サービスに特有の文化が生まれる、というのは当然あることだろう。問題はそのサービスが広まってしまい、人がいることこそが価値になったとき、元の理念とは相容れない利用法をしたくなる人が現れるということだ。
ユーザからすれば「人がたくさんいる」から使い始めるし、運営会社からすれば「人がたくさんいる」ことを強みにして、弱小のときとは異なる戦略がとれるようになる。そのとき、元の理念を強固に維持してユーザに不便を強いるか、あらゆるユーザの用途に合うようにして中心がぼやけたサービスにするか、難しい話だ。
この前pixivでイラストにコメントしてほしくないという人がいたが、それも似たような話であろう。「イラストによるコミュニケーションのサイト」という、ある種偏った理念を持っているpixivが「イラスト投稿サイト」としてのデファクトスタンダードになってしまったがための悲しみがある。
年末,友人と集まってこの話をした.
たいして珍しくもないありふれた話だとは思うが.
自分の父は,最近になって日本株の投信をかなりの額,買ったらしい.それも大手証券の電話での勧誘に応じてだ.バカ高い手数料を払い,これまで日経平均以下のパフォーマンスしか残してない投信を,これだけ日経平均が上がった時期にだ.数年前,インデックス投資を勧めた時には,日経平均は大きく振れるから怖いと言っていた父がなぜこの時期そんなものに手を出したのか不思議だったが,勧誘してきた証券会社の今年の超強気の日経平均予想が根拠らしい.父は実は前にも,日本企業の豪ドル建社債(円安で儲かった)や,途上国の企業にロング・ショート両建てで投資するファンド(損した)を買っていた.よく言われる話だが,大手証券の営業って,客が取れるリスクとか,金融理論的にベストと考えられる運用(リスクに応じて,内外国債,内外株に分散投資)なんて一切考えずに,とにかく手数料が高いものを回転することしか考えてないんだなあというのを実感した.
友人Aの親は土地持ちだが,最近,某大手不動の勧誘で,土地を担保にアパートと貸家を建てたらしい.27年で投資分が回収できるらしいが,ほとんど家賃が下がらないという前提での試算とのこと.静岡の都市部でも田舎でもない場所だが,今後凄いスピードで人口減少が進む中で,まず損をするだろう.彼の家は相当資産あるらしいので,大したダメージではないかもしれないが.