はてなキーワード: 元の理とは
https://anond.hatelabo.jp/20230908154902
を書いた者だけど、反証可能性という概念自体がイマイチ理解されてない気がするので
あくまでも例であって、トリチウムの安全性や危険性について述べたいわけではないので注意してね。
その根拠は今までに理論及び実験で確かめられたトリチウムという物質の性質、
https://www.kaiseiken.or.jp/publish/reports/lib/2022_27_12.pdf
この命題の偽は「トリチウムは生物濃縮する」であって、例えばトリチウムの蓄積量が有意に多い海洋生物が発見されて、
それが生物濃縮の結果だったことが判明すれば(そんな簡単な話でないことは承知の上で)
「トリチウムは生物濃縮しない」という命題は反証されたことになるよ。
この元の理論が間違いである可能性、元の命題が偽である可能性を反証可能性と言います。
例えば「トリチウムが生物濃縮がされないことは理論によって証明されている」だと、
トリチウムに関する実験も観察もその後一切行われないことになる。だって証明済みなんだからそんな事する必要ないでしょ?
たまたまトリチウムの生物濃縮に繋がりそうな事例が発見されてしまったら、
いかにその発見が誤ったものか、価値のないものという攻撃に終始するようになる。
こういうのはみんなが知ってる科学じゃないよね。
科学は新たな知見を取り入れながら、より正しい理論のあり方を追求するものです。
いま通用している科学理論は反証される余地がありながら反証されていない事実を持って、
その正しさを示していることになる。
なのでトリチウムの話も含めてあらゆる科学理論は証明されておらず、すべての理論は仮説だと言えるよ。
(個人的に証明という言葉は、厳密な意味では数学以外の分野では使えないと思う)
では本題の「処理水放出は安全である」という命題だけど、これも上のトリチウムの話を含め、
この理論の反証は「処理水放出は安全ではない」だけど、この命題、どうやったら証明できる?
元増田でも書いたけど、今後太平洋沿岸で海洋生物摂取を要因とした健康被害が発生したとして、
どうやってそれが2023年日本の海洋放出が原因だと断定できる?
海域モニタリングも同じ話。現在多くの国が原発処理水を放出し続けている中で
今後のモニタリングで異常値の原因なんか特定できるはずもない。
仮に今後異常値が出たとして、「処理水放出が原因とは断定できない」というしかないんじゃないかな。
つまり「処理水放出は危険だった」という判定できる条件が見当たらない。
となると日本政府は今後のいかなる関連事象に対しても処理水放出は危険だった、という判定を下せないわけだよね。
で、ここで一つ考えていただきたいんだけど、
「危険」の判定を下せない審判の出す「安全」という判定って、何か意味があるの?
処理水放出が危険だったという判定を下す、つまり反証をできないのであれば、反証に繋がりそうな事例を否定するに終止するしない。
そうすると日本政府による「処理水放出は安全である」という主張は、
「今後処理水放出による健康被害は政府として一切これを認めない」という政治的なステートメントになってしまうんだけど、
なので処理水放出安全論を唱える人は、いかなる条件を満たせば元の命題が反証されるか教えて下さい。
上で私は無理だ、といったけど、健康被害者の調査または海洋モニタリングの結果から処理水放出が危険だと判定できるならそれでもいいです。
まとめると
①処理水放出は科学理論だよ。主張する当の日本政府がそう言ってるよ。
②科学理論であれば反証可能性を持つはずだけど、現状は反証される条件が見当たらないよ。
③なので日本政府またはその主張の支持者は、反証されうる条件、処理水放出が危険だったと認めうる条件を明示してね。
です。
以上、id:p__o__n でした。よろしくおねがいします
この日記は某家庭教師塾のアルバイト講師が、主に中学1〜2年生の親に向けて切実に伝えたいことをまとめた文章である。
誰か1人でもいい、悩んでいる方に届いて参考になれば幸いである。
【はじめに】
塾は万能ではない。塾に来る中学生の中には、まだ塾に来るべきではないのに来てしまい、泥沼に陥っている子たちがいる。
ここでは塾に来る前に確認してほしいこと、何をするべきか、本当に塾を活用するにはどうすればいいのかを教科ごとに書いていく。
【数学】
そしてそのできない原因はほぼ共通しているといっていい。
公式は言えるのに肝心の計算で間違うのでいつまでたっても間違える。
九九が言えない、約分ができない、筆算に1分かかる……このような子は、率直に言って「まだ」塾に通うレベルではない。
このような子たちを指導するときに組むカリキュラムは当たり前だが計算練習を中心にしたものとなる。
しかしこの計算練習というのが塾のシステムとかなり相性が悪いのだ。
講師は生徒の間違いを指摘し、解説するために存在しているのだが、基本中の基本の計算練習においてはその存在感は希薄なものとなる。
サポートできるのはせいぜい「7の段を間違いがちだから一緒に言ってみよう」「丁寧に書くと計算を間違いにくいよ」くらいのもので、肝心の計算のクオリティ、スピードに関してはもう完全に生徒本人が頑張るしかない。
講師としてもはやく基礎の計算練習を終わらせて本番である面積や平均、方程式などの難問を教えてあげたいのだが、しかし計算ができるようにならなくてはスタートラインにすら立てないのだ。
早くスタートラインに立ってほしい、その一心で連絡ノートに「自宅で計算練習をしてください」と書き、計算プリントを持たせ、家で毎日1枚こなすように言いつけて親御さんにも協力を仰ぐのだが、そういう子に限って「なんで計算なんか練習してるんだ?早く単元の解説をしてほしい」というダメ出しを喰らってしまう。
違うのだ!
計算というのは本当に大事で、中学、高校、大学受験の全てに尾を引く。
土台がぼろぼろの家はすぐに倒壊する。
ミスなく、速く、基本的な計算をこなすこと!これが全ての基本だ。
そしてその基本を中学1、2年生のうちにマスターしておけば本当に大きなアドバンテージとなる。
逆にここで躓いて中学3年生になり、高校受験を計算練習から始めるのはかなり厳しい戦いになる。
だから伝えたいのは塾に通わせる前にまず自宅で計算練習をしてくれ!ということだ。
高い月謝を払ってわざわざ塾に来て黙々と計算練習をする羽目になるより前に、安い適当なドリルを買って家で一冊終わらせた方が絶対に良い。
できれば1週間集中して取り組んでほしい。
数日間が空くとすぐに忘れる。大人が思うよりもがっつり忘れる。
子ども1人では集中できないし親が面倒見れないから塾に通わせているんだ!と思っている方は、騙されたと思って1週間連続で家庭教師を雇い、徹底的に計算練習を見てもらうのだ。
週に数日塾に通わせて中途半端な熱量の計算練習をするくらいならそちらの方が断然コスパはいい。
何度も言うが、長い人生の中で、この時期に基本の計算をマスターしておくことは本当に大事なことだ。
中1、中2で計算で躓いている子どもを持つ親は相応の危機感をもってほしい。
計算練習だけは講師が教えてどうにかなるものではない、生徒が自分で継続して頑張らなければ身につかない。
そしてある程度基本の計算ができるようになったら初めて塾に通えば良い。
「計算ができない」というノイズが取り払われた子どもは純粋に単元の理解に勤しめるし、講師も全力で教えられる。
子どもの数学の成績が奮わず塾に通わせるか迷っている親御さんは、まず「計算で躓いている」のか「単元理解に躓いている」のかを見極めてください。わからなければ体験授業なりで講師に聞いてください。
「計算で躓いている」ならやるべきことは塾に通うことではない!
その準備だ。前段階だ。とにかく計算練習をするんだ。話はそこからだ。
☆中学に向けて計算のスキルを身につけたいという小学生、親御さんにはくもん教室をおすすめする。
くもんの数学プリントは殆ど計算の反復練習であり、毎日宿題プリントが5枚出るので継続した勉強習慣も身に付けやすい。
下手な進学塾に通うよりまずはここで計算スキルを身に付けるべきだ。
しかし、くもんは計算練習に特化しているため面積や平均など、応用した単元の練習には向いていない。というかプリントの範囲に(ほぼ)入っていない。
なので、余裕のあるご家庭ならば、早い段階でくもんに通い、ある程度計算力を得たら進学塾に切り替えて単元の練習をするという流れが1番良いと思う。
【国語】
本を読んでいない、これに尽きる。
実際に問題を解いてもらうと、普段文字を読んでいないので文章を読み終えるだけでタイムオーバーしてしまったり、最後まで読んだ時には前半の内容を忘れていたりする。
深刻だと感じるのは「嬉し泣き」の概念などを理解できていない子で、「泣く」のは痛い時、悲しい時のみだと思っているので誤読するのである。
本を読むのだ。もしくは映画でも、漫画でも歌でもいい、とにかく作品に触れて、自分以外の人の感情の流れを知ること、新しい概念を学ぶことが重要だ。
塾講師が「嬉し泣き」とはこういう感情で、「切なさ」とはこうで…と教えるよりもそっちの方が余程スムーズに理解できるし記憶に残るしなにより生徒も楽しいだろう。
親御さんにお願いしたいのは、そのような作品に子どもが触れる機会を作ってあげることだ。
本を買わなくてもいい。学校や地域の図書館に連れていき、子どもが読みたそうな本を数冊一緒に選べばいい。
この時に絶対やってはいけないのは、子どもの選ぶ本に口出しすることだ。
あまりに簡単だろうが、絵しかなかろうが、倫理的に心配であろうがとりあえず読ませるのだ!
気になる本の魔力は他者が思うより強い。
一冊読めば似た本が読みたくなる。それを繰り返すうちに、放っておいても文字数の多い小説に手を出すようになる。
どうしても読ませたかったらリビングの目立つ本棚に置き、親が率先して読んでいれば興味をそそられていずれ読む。待つのだ。
そうやってある程度文字を読み、文章に慣れ、感情や行動のサンプルを身体で学ぶ、そうして初めて問題を解くスタートラインに立てる。
だから文章題で躓いている普段全く本を読まない子どもは、まず本を読むところから始めてくれ!
その状態で塾に来ても、何十分もかけて文章を読む基本練習をするだけだ。
高い月謝を払っているのにあんまりだと思わないか?教えるこちらも心苦しい。
本当に塾を効果的に使いたいなら、まずその準備として文章を読むところから始めるんだ。話はそこからだ。
【英語】
これに関しては特に言うことはない。
中学1年で本格的に勉強が始まるため、ほぼ全員が同じスタートラインから始まる。
スタートラインの前にある基本的な計算力や読解力を要求されることもない。
アルファベットが言えれば十分だ。最悪言えなくてもたった26文字なのですぐに追い付ける。
家庭でやってほしいおすすめの勉強はリスニングくらいだろうか。
こればかりは塾で教えるのは厳しい。
計算練習と同じく、継続的で本人の努力の量に左右される単元なので、塾で、家庭で、自主的に反復練習を積んでもらう必要がある。
あとリスニングは聞き取りにくい所を何度も繰り返して聞くのが重要になってくるのだが、その「聞き取りにくい所」は生徒本人しかわからないので、他人が教えるとどうしても非効率的になってしまいがちなのだ。
中学でリスニングはあまり重視されないのだが(出るとしてもレベルは高くない。基本がわかっていれば十分だが、簡単な文の読み上げが聞き取れないようなら対策した方がよい)、高校、大学受験、そして英検やTOEICではかなりの何度のリスニングが出てくる。
これらのリスニングに日本の学校教育だけで立ち向かうことはほぼ不可能なので(そもそもリスニングの機会が少なすぎる)、自分で何かしら教材を買って学ぶ必要がある。
ほぼ暗記科目である。
例えば社会で、応仁の乱が起きた理由が上手くわからないので覚えられない…という躓き方をしている生徒には塾講師が役立つだろう。
しかし、その点は教科書を読めば理解できて、単に暗記で躓いているなら塾講師なしでも解決できる場合が多い。
要するに復習サイクルを上手く立てれていないのだ。
躓いている子は宿題として出されたテスト範囲の問題集を一回解いて、丸つけをして、あとは一切問題集に触れずにそのまま試験に臨んでいる。
これでは良い点数が取れないのも当たり前だ。
一回問題集を解いたら間違った問題に印をつけて、翌日そこだけもう一回解く。そして1週間以内にもう一回解いて、全問正解できるまで何周でも繰り返す。
テスト前にも同じ事をやって、全ての間違いを潰した上で本番に臨む。これだけだ。暗記ものでやるべきことはこれしかない。
まぁこれができれば苦労はしない話でもあるのだが、しかしこのサイクルは中学のうちに自分でできるようになっておいた方が絶対に良い。
これができない子は塾講師にいつこのページの復習をして、そうしたらこの問題集をやって…と逐一指導されることになるのだが、これはもはや勉強の指導というよりはマネジメント、生活管理の域になってくる。
率直に言って、やはり高い月謝を払ってまで通わせる必要はないように思える。
勉強週間がついていない最初のうちは塾に通って復習のやり方を教えてもらえば良いと思うが、それは意識して慣れればいずれ自分でもできるようになることだ。
マネジメントを期待して塾に通って暗記物を学ぶのならそれは正解だが、数学や文章題のような"コツ"を期待して通わせるのならやめた方がいい。
来たところで最終的にやるのは問題を解いて、覚える、それしかないのだ。
【おわりに】
とりあえず伝えたいことは以上になる。
とにかく塾は万能ではないこと、塾の効果を最大限に発揮するには家庭での準備や努力が不可欠なことを認識してもらえたなら嬉しい。
そして、今現在自分の子どもがどの段階にあるのかを見極めて適切な措置をとるようにしてほしい。
全く地力がないまま塾に放り込まれ、指導時間内はひたすら文章を読み、九九の練習をし、そして家庭での勉強が継続して行われないため次に教室に来たときには内容をあらかた忘れておりもう一度六の段から始める、このような中学生を指導するのは本当に辛い。虚無だ。
月謝の無駄だとも思う。高額なのだから、本当に有用なことに使ってほしい。
今現在悩んでいる方、どういう措置をとればいいかわからない方がいたら、コメントを貰えればできる限り答えるので活用してほしい。
それがね、いつものことのようなんですよ。チャンスだ! と思っちゃう人がいっぱいいるのではないかと。んでそれを煽る人までいる。
ガンガンと道路のアスファルトかコンクリ片か知らんけどわざわざ叩き割って暴動資材まで用意する奴さえいる。
そういうのがね、これまで色々と騒ぎになると、必ずじゃないけど結構起こってきたのをみんな知ってるんでしょう。
おお、株価上がるぞーみたいに、略奪する人とかは思ってるんでしょうね
んで、これもまたきっかけがそうだから、黒人差別があるからだ、と言われてしまうのです。
結局どーーーーーーしてもそこに焦点が来てしまう。
差別で反対運動が起こってその結果暴動になったと。風が吹けば桶屋が儲かる、みたいな。
そして、警察権力だって暴動状態になった時に、鎮圧行動は一応するけど、虐殺までは出来ない。
テレビでも報道されてたと思うけど、警察車両壊し放題みたいなことまでやってる。
仕方ないとまでは思ってないとは言えます。無茶なことはやめろって人達も多いし、その多くは静かに抗議活動をやってるみたいですよ。
結局どうも、一旦警察組織を解体して、元の理念だった市民サービスに戻そうという動きがあるそうですね。
メディア全般の子供への影響(殺人ゲームやドラマで悪影響があるのか?など)に関して言えば、主要理論の変遷があった経緯がある。
当初、メディアの影響力は極めて高く見積もられた。「強力効果説」だ。皮下注射モデルとも言われるが、薬物を注射したときに効果が発揮されるように、確実かつ速やかにメディアの影響は発揮されると思われた。有害情報が即子供に悪影響を及ぼす、という教育界隈の話は、この時代の認識に基づいていることが多い。
しかしこれは否定された。研究によって、人々がメディアの言う通りになんて動いてないことが確認されたからである。メディアの影響力は限定的であるとされ「限定効果説」が唱えられた。この説では、例えば、メディアで有害情報が子供に流れても、それが悪影響を及ぼすのは家庭環境が悪かった場合である。家庭環境のがメディアより先に立つという訳。
さらにその後には、やっぱりメディアの影響が大きい場合もある、という話で「新しい効果理論」が唱えられるようになった。ここでは、メディアの情報が、まずコミュニティのリーダーに影響を与えた場合、その影響が拡散することで影響力があがる、みたいな話をしだした。今はここ。(といっても、もう教科書に載ってるような話だが)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/メディア効果論
個人的には、エロについても、だいたい限定効果説が正しいと思ってるのだが。
常々変だ変だと思ってるのは、教育界脇はマジでここら辺の話を全スルーして、素朴な強力効果説を採用してることが多い。暴力的なメディアを見ると暴力的になり、性的なメディアを見ると性的になると思ってるし、そういう論が未だに出回る。だからゲーム脳信じるような人がごろごろいるのよ。
教育学は、学際的すぎるのか、ハッキリ言って専門分野として怪しい部分が大きいと思う。ソーカル案件がごろごろしてる。この手のエビデンスを探すときは、元の理論の出典にまず気をつける。アメリカ教育学会とかの90年代の論文とか、特に気をつけるべし。
Twitterが140文字制限を撤廃するという話が広まっている。Twitterに1万字も投稿できるようになると、タイムラインの魅力は減じるのは免れないであろう。140文字に制限されているからこその創造性が失われる。一方で、Twitterに長文を投稿したいというユーザが現在不便を感じているのも間違いないだろう。
サービス提供者の理念の元、あえて何かをさせない/何かを強制することにより、サービスに特有の文化が生まれる、というのは当然あることだろう。問題はそのサービスが広まってしまい、人がいることこそが価値になったとき、元の理念とは相容れない利用法をしたくなる人が現れるということだ。
ユーザからすれば「人がたくさんいる」から使い始めるし、運営会社からすれば「人がたくさんいる」ことを強みにして、弱小のときとは異なる戦略がとれるようになる。そのとき、元の理念を強固に維持してユーザに不便を強いるか、あらゆるユーザの用途に合うようにして中心がぼやけたサービスにするか、難しい話だ。
この前pixivでイラストにコメントしてほしくないという人がいたが、それも似たような話であろう。「イラストによるコミュニケーションのサイト」という、ある種偏った理念を持っているpixivが「イラスト投稿サイト」としてのデファクトスタンダードになってしまったがための悲しみがある。
・
ネットで他者に対して「なぜこうしてくれなかったのか」みたいなことを書いてる人に対する定番の煽り(最近はあまり使われてない気もしないでもないが)として
「**はお前の母親じゃないんだ、そんなふうにお前を全肯定してくれるのなんて母親だけだ」
っていうのがあるじゃない。
何が言いたいかはネタ元の理論を含めてよくわかる(すくなくとも、わかるつもり)。
「母親というものは全身全霊をかけて子供を愛するものだ。少なくとも物心つかないような年齢の赤ちゃんや幼児に対してはそうだ」
みたいな一般認識に基づいた、
でも、、自分は実感としてどうにもこれがピンと来ない。
・
自分にとっては
「この世で一番自分を肯定してくれなかった存在、それは母親だ」
別に自分は「虐待されていた」とは思っていない(ただし、現在の基準に照らせば「子供に対する虐待」の基準は満たしていたとは思う)し、虐待されてたとしても、当時としても現在としても特段酷いレベルではなかったと思っている。
今でいうところの「毒親」だったのだろうが、それでいうならそんな人間はありふれていただろうし、自分も「こんなひどい親を持っているのは世界で自分だけだ」的に思ったことはない。
失礼な思い方だが「自分以下」の家庭環境の同級生や先輩や後輩はいくらでもいたし、本や新聞やテレビや映画といったメディアで描かれている「特に子供を溺愛しているわけでもない普通の親」というものは、だいたい自分の親と同じだな、と思っていたから。
でも、とかく自分は母親に「肯定された」という思いも覚えも記憶もない。
自分にとっては母親は「自分が自発的に何かをやると「そんなことはやめろ」もしくは「いつそれを「卒業」するのか」と必ず言ってくる人」でしかなく、優しくされた記憶が無いわけではないが、肯定されたり是認されたりした覚えがない。
(なお父親は自分にとっては「とにかく家族には興味のない人」で、「肯定的になってくれない代わり否定的にもならず、無干渉なので母親に比べればずっと楽」な人だった。いや今も現在進行形でそうだけど)
・
自分の自覚が足りないだけで自分は「毒親にとてつもなく酷く虐待された人」なのかもしれないとは思うし、その可能性の方が高いような気はするのだけど、それにしても、
「**はお前の母親じゃないんだ、そんなふうにお前を全肯定してくれるのなんて母親だけだ」
というのは、世間一般の人、少なくともここ読んでる増田達にとっては、「引っ掛かりを感じない」ワードなの?
もちろん「そうだからこそ(多くの人がそこに引っかかりを感じるからこそ)煽りに用いられるんだよ」っていうのが大きいんだろうけども。
・
と思ってしまう。
上に書いたような前提に基づく煽りなのだとしても、みんな「母親なんてこの世で最も自分を肯定しなかった存在だろ」と思って大人になってないのか? と。
そうでないとしたら、自分は珍しい方なのか? と。