はてなキーワード: 対峙とは
支援サイトにその支援サイトで設定できる上限のプランを用意している人がいたんだけど、閲覧できる作品が月500のやつと同じと書いてあって、見つけた当時は月10万とか馬鹿げてるなとしか思わなくてスルーしてしまった。
それが後になってみて気になり始めた。「ぜひリクエストしてください!丁重に描かせていただきます。」みたいなことが書いてあったのを思い出し、それが後になって貴重な条件にみえてきたのだ。
skebとかで数万円の単価で絵を描く人はよく見るが、プランとして10万円とかいう価格で用意して好きなように酷使できるにしてる人って今まで見たことなかったから、そういう人は一体どんな絵を描くと気になって仕方がなくなってきたのだ。逃がした魚は大きい的なやつかもしれない。
それからはもう他のエロ絵で抜けなくなってしまった。一旦関心がそっちに向いてその絵をひと目見るまでは何も性的に興奮できなくなってしまったのだ。
広汎性発達障害と診断されてるのでその気質が影響してるのかもしれない。
何につけてもその絵師のサイトをもう一度見つけることに興味が向き、資格試験に勉強にも集中できなくなった。
性依存症だろうか。とにかく今の俺の状態は昆虫並みなんじゃないか。
障害診断されてるのでそれ用のかかりつけ医もいるが、しかし性依存症ではないかということはカミングアウトできないから根が深い。
特に男が陰でそれなりの頻度でオナニーとかしてるのは当たり前の話だが、だからといって誰かに対峙するたびに「この人も自慰してるんだろう」とかいちいち思ったりはしないだろう。医者であってもだ。
それが一旦カミングアウトしまうと常識でありながらそれゆえに意識されてこなかった事実が、その瞬間から前面に押し出される。その瞬間からきっと医者に俺は「エロいことしてる人」と診察を受けるたびに思われるようになるわけだ。そうなることがどうしても嫌だ。それをすれば治療を前進させることができるんだとしても嫌なのだ。
漫画とかテレビなどオタクについて公共の媒体で語られるとき、こういうことについては触れられてないと思う。
なにかのはずみで無惨様よろしくな昆虫並みの行動傾向になってしまうオタクがいることを。
それはそういう発表力、記者であるという社会的な立場とか単純に文章力がある人に、こういう実感を持ちうるほどそこまでR18オタク界隈にどっぷり浸かっている人がいないからかもしれない。ある程度知識を揃えようとしたところで知識として得られるものはうわべにとどまり、あとはイメージで補うということをしている結果メディアに描かれるオタク像はどうしても似たり寄ったりになるのだろう。もっと多種多様な症例があるだろうにそれは記述されないのだ。
逆に俺みたいな当事者もまた、文章力とかないので緻密に事実の細部を伝えきれず結局は四捨五入するようにかなり「丸められた」状態でしか伝えることができてないと思う。表現力などがないから結局メディアが語るステレオタイプと大差ないことしか伝えられずに終わってしまうということだ。
ジャニーズの宮下?だかはラブライブとかエヴァとかあくまで地上波アニメの範疇でオタクであると印象づけたいようだが、そこを対馬忍のゆきかぜのちっぱい最高ですとか言うようになったら俺も好感持てる。ハマってる18禁絵師がいるとか言ってほしいものだ。
だって俺個人の感性としては「可愛いということ」単体には価値がないから。可愛い子がエロかったりときにはパンスト被せられたりがに股ポージングさせられてるような絵や動画にはじめて魅力を感じる。下手なたとえなのは自覚してるがたとえるならば、自転車のボディーだけ与えられてもタイヤだけ与えられてもそれ自体には使用価値がなくて、自転車ごと与えられてはじめて使用価値が出てくるようなものだろう。
そして地上波アニメにエロいことを求めるのは非効率だから結局地上波アニメやその感想だけを連ねるだけの人には好感が持てないということになるわけだ。可愛い子が可愛いことしてるだけの絵面の何がいいの?としか思えん。
まあでもそういうことを平気でいうような芸能人もたくさんいるのだが気持ち悪いと思われるだけだから売れないというだけのことなのかもしれない。
芸能界を生き抜くにはアルコピース平子がスマホ見せてと言われたときに「これ見せたら社会人としても人間としても芸人としても終わる」とか言うぐらいの慎みは必要なのだろう。俺はそれがないからこそ障害者なのだろう。
一人二役では組織の対峙性理論が崩壊しており、死因究明事件に偏りが生じかねない
そういう世界で医者として、こっそり存分に健康被害をばらまこうと考える歪んだ若者どもが、スマホドクターの存在も知らずに、ゾンビのように医師試験に群がってくるだろう
前原元外相テレビ出演詳報(1)「共産党はシロアリだ。協力をしたら土台が崩れる」
--例え選挙協力であっても共産党と手を組むわけにはいかない、というスタンスか
「共産党とはまったく違う。私は京都なので、非常に共産党が強いところで戦ってきた。共産党の本質はよく分かっているつもりだ。シロアリみたいなものだ。ここと協力をしたら土台が崩れる。われわれはやはり、外交・安全保障は政権交代があってもそれほど大きく変わらない、現実的な柱で。しかし内政は、『小さな政府』や新自由主義とは対峙(たいじ)していく。大きな野党の家を、共産党が主導するのではなくて、民主党が中心となって作っていくことが大事だと思う」
https://www.sankei.com/article/20151114-KR4TKX5N2RIETERY5266JPDICI/2/
5年間一緒にいたねこを手放すことになりそうなので、自分の気持ちの整理のためにつらつらと書く。
5年間一緒にいたねこは私がはじめて選んだ家族であるし、人生のパートナーである。
私がこのねこと出会ったのは運命的でもなんでもない、保健所で一緒に暮らすねこを探していたときだ。
当時の私は自堕落的で、アルバイトとして働いてはいるものの、なんの目的もなくただダラダラと呼吸をしていた。働くということがまま苦痛であったし、大きなトラブルはないのに人といることに疲れていて、未来なんてどうでもよかった。死ぬほどでなくとも積極的に生きることもできない、そういった自分が嫌ではあったものの、特に変えるための努力もする気になれなかった。
ふと、自分が猫を飼ってみたかったことを思い出した。昔は無理だったが、今ならそれを実行できる環境にいる。短絡的ではあるが、働くことも人と付き合うことも生きることも、私だけの猫がいればできそうだった。
すぐに保健所に電話をして、引き取れそうな猫はいるか確認をし、年明け後にすぐ猫を見に行った。私の数少ないいいところはすぐ行動に移せることである。
保健所には十数匹の猫がいた。仔猫もいたし、成猫もたくさんいた。
仔猫はきっと他の誰かが選んでくれるだろうと、私は成猫を引き取るつもりでいた。それも誰も引きとらなさそうな猫を。
成猫を探しているというと、職員さんは1番奥のケージを見せてくれた。ハチワレ猫と黒猫の2匹の兄弟が目を丸くしてこちらをみていた。ハチワレの方は怯えていなかったが、黒猫の方はすごかった。私を確認するなりケージの隅へ避難し丸くなり、全神経をこちらに集中させていた。
誰も引きとらなさそうな猫と決めていたが、その様子を見て少し怖気付いた。なにしろ私は猫を飼ったことがないのである。
職員さんにどちらかを引き取ることにしますと伝え、一週間後に迎えに行くことになった。
一週間結構悩んだ。いっそのこと2匹一緒に引き取ろうかとも思った。そうしなかったことは今でも悔やんでいる。
受渡日当日、私はまだ決められずにいた。
もう一度直接みて決めるしかできなかった。
私たち人間の緊張を感じ取ったのか、一週間前はリラックスしていたハチワレも、その日は警戒心をむき出しにしていた。黒猫はそもそも初対面の時から私を警戒していた。
黒猫がキャリーケースに入れられている間、私は飼育に関する誓約書や、外飼いされる猫の悲惨さ等の書類と対峙していた。余談ではあるが、この保健所は非常にいい保健所で、職員さんたちはみんな動物に対して愛情を持っていた。私がカウンターで待っている間、少し離れたところにいた職員さんが業務を止めてさみしそうに、でも本当にうれしそうに、飼い主さんがきまってよかった〜〜よろしくお願いしますと伝えにきてくれた。
少しして、遠くの方からアオ〜〜と悲しげな大声が聞こえはじめ、キャリー片手に職員さんがやってきた。
では、よろしくお願いしますのひと声とともに黒猫の入ったキャリーが渡されて引き渡しが完了した。
大きな黒猫は怒り混じりにずっと鳴いていて、施設内の人たちは物珍しそうに少し笑いながらこちらをみていた。
黒猫は1年ぐらいは慣れないかもと職員さんから伝えられていたが、1月ほどで私に腹を見せ、擦り寄ってきた。
毛はふわふわでの長毛で、声は高く、ずんぐりとした樽のような胴体に、ポンポンのような短い鍵尻尾を持つ大きな黒猫。
食べることがすきで、度々勝手に餌袋を破り思う存分腹を満たした困った黒猫。よく私のお腹や膝の上に乗っては機嫌良く撫でられていた。
本猫の努力もあり、ちょっとしたダイエットに成功した後は歩くたびに伸びたお腹の皮が左右にたゆたゆと揺れる。水のように柔らかい。目が合うと短くンニャと鳴く。寝てる私の気を引きたいときはゆっくりと私の顔に爪を立てる。歩くときは爪を出さず。
前歯がすきっ歯で、獣医さんに相談するまで、自分の不注意で歯を一本無くさせてしまったのかと思っていた。
はじめて黒猫を洗った時、シャワーをかけ続ける張本人である私に、震えながら縋りつくようにして膝に乗り、その日から度々、私がシャワーを浴びている間は心配そうに浴室の外から私を見守ってくれる。目が合うと小さくニャッと短く鳴く。
もう1匹の新猫を迎えた日、大いに不満もストレスも抱えただろうに、一週間後には新入りを舐めてくれた。
その新入りした仔猫は多種多様なアレルギーと喘息を持ち、ご飯に対して気難しかった。
歩くときは爪を出さない大きい猫と、歩くときも爪を出す小さな猫。
視線だけで訴える甘え下手な大きい猫と、鳴いて物事を要求する甘え上手は小さな猫。
どちらも私がそばに行くだけでゴロゴロと喉を鳴らす気前のいい猫。小さな猫は尻尾を震えるほど立たせるので分かりやすい。
車に乗せると怒鳴るように鳴いて不満をぶつける小さな猫。以前はほぼ毎日のようにしていた喘息も、最近は全くといっていいほど出なくなり、落ち着いてきて本当によかった。
間違いなく私の人生は救われたし、大袈裟でもなんでもなく、今の私がいるのもすべてこの猫たちのお陰だ。
たまに、猫の死について考える。そのときは必ず火葬や仏具について泣きながら検索する。それは今から心の準備をしておかないと、駄目だからだと思う。
いつか私は猫たちを看取って、小さな骨を拾い、猫の思い出が残る家で生きていくものだと思っていた。
まわりは、配偶者が猫アレルギーで喘息であるなら猫を手放すのが当然だという。それが極端だといってくれる人もいる。
私は、猫をペットとして飼っていない。家族として接し一緒に生活してきた。
ひとりは、猫に依存すること自体間違っていると言う。自分のことしか考えていない、今が変わるときとも。きっとその通りなんだろう。
猫と別れる選択をした場合、おそらく妹夫婦が猫を預かってくれることになる。
それは逃げだと言われたけど、一軒家でも同じ建物内に猫といたくないと言われたら、私は離婚以外この選択肢しか選べない。選べないことに絶望する。
今までの薄給をほぼすべて猫に関することに費やしてきた。観葉植物も空気清浄機も、Amazon Echoもデジイチも、オイルヒーターも除湿機も。他の人には一見関係ないものも、すべて猫に関係している。
一緒に暮らしてきた猫と完全に人生を絶たれれば、私には働く理由も欲しい未来もほとんどがなくなる。と思っている一方で、人生を救ってくれたこの猫たちと別れたあと、意外と平気で生活できそうな気もする。私はそれが怖い。
配偶者は、私が猫を選んだとしてもだれも責めないと言ってくれる。
かといって、本当に我儘に生きてきた私に怒ることなく辛抱強く優しく誘導してくれる配偶者を捨てることも私にはできない。惚気になるが、この人は少し鈍感なところもあるけど、本当にできた人間で、こんなウジウジとして怒りっぽく自己中心的な私にはもったいないくらい良い人だ。猫も人も、私には本当にどちらかを完全に切り捨てることが怖くてできない。
だからせめて、妹夫婦に一時的に猫を預けるということに今はさせてほしい。この先、絶対にまた一緒に暮らせる時がくるという希望がほしい。気兼ねなく会いに行くことができる人に預け、猫に関する費用を払うことで、私を関わらせてほしい。
猫にも配偶者にもどちらにも誠実でなく、妹夫婦にも負担を強いるという選択を取ろうとしている。猶予はまだある。もしかしたらもっと違う選択をとるかもしれない。
https://togetter.com/li/1791822
「お気持ち」をシカトして「法に違反してなければ何してもいいんだよ」とやられたら法で殴るしか選択肢がなくなる。
それでまんだらけ側も大ダメージをおったわけだ。最初から近隣に配慮していればこんなダメージはおっていないだろうね。
法に触れてなければ何をしてもいい、という考えを大声でいいたてているというだけで、まるでタガのはずれた連中なのだなあ、としか思えぬ。
法に触れていれるというだけで一斉に黙ってしまう、というのもいかにも権威主義で、お上にはいっさいさからわないまま「表現の自由」などと抜かすのも笑えるな。
「表現の自由」を守るためには必然的に公権力と対峙する場面があるわけだが(そもそも公権力と対峙するために表現の自由はあるといえる)
実際に「法に触れなければ何してもいい」で大ダメージをおったよね。法治国家、というのは法以外の規範を無視してもよい、という意味ではないことくらい理解しようなw
風営法の200m以内がどうこう、というのはゾーニングど真ん中案件だということは理解しているかな? あとね、例えば中国で表現の自由を実践しようとしたら、必然的に法に抵触する。表現の自由は、とにかく法に従います、というところでは守れないんだな。
上でやりとりあったようにこれは風営法であって表現の自由案件じゃないんだけど。仮に表現の自由案件だったとして、現行法を超えた自由を得たいなら、まずお上に取り合って法を変えましょうというのが正規の手続き。やりたいことがあれば法だって無視しても良いという考えが表現の自由じゃないよ。性表現をそのまま支持する=表現の自由戦士が押し通そうとしてる、性表現が許されなかった=表現の自由戦士は無力 って背景も条件も考えずにどちらの結果でもスキあらば場外を叩こうとするからおかしな発言になるんだぞ
だからそのゾーニングが今回の場合は法律で明確に定義されててそれに抵触するってことが報道ではっきりしたんでしょ。曖昧だったり定義されてなかったり判断が割れたり法律に基づかない批判だったり現時点で適法だけどこれから違法化させたいとかそういう表現の是非を問う争点は無いわけで。そしてここは日本で、本件は日本の法律と照らし合わされる。勝手に全世界対応の表現の自由を進めたくて仕方がない人扱いされても知らんがな。
リベラルが「MtF(所謂トランス女性の事)問題」や「キラキラネーム問題」に際して自分から化けの皮を剥ぐという事態はもはやネットの風物詩である
そういうのが本当にあったとしてもうれしくない。
好きになった人じゃない容姿の人が好きな人の動作性格をするってうれしいか。
客観的に美しさに照らして美しいと思えたとしてそれが何になる。
好きになった顔とは違ってるんだから同じ人と対峙してるんだとしてもいつものようなときめきもなくなってしまうだろう。
俺が好きになった顔で俺だけに見せる顔をするからいいんだ。どこぞの芸能人でその顔をされても興味がわかないという人もいるだろ。
しかしこれは思考実験として深めていくと恐ろしいことになってくる。
たとえば催眠術じゃくて本人の意思として整形手術でどこぞの美人女優と呼ばれる者と瓜二つになったら受け入れられるだろうかとか。
もはや元の顔ではないが、それは本人の意思なのだ。連続性があるのだ。
老化しても受け入れるだろう。同一性という観点では整形も同じだ。しかも老化と違って本人のなりたかった意思だ。受け入れるのが筋ということになる。でもこの結論は妙な気がする。
薄々気づいているようだけど、あなたが「理屈が通っている」と見做していた日本共産党の姿勢や他の政策も「非実在青少年」の件と大差ないんだよ。
例えば問題になった『2021 総選挙政策』(https://www.jcp.or.jp/web_policy/2021/10/2021-sosenkyo-index.html)において、安保については「75、領土問題」の項で尖閣諸島における中国の武力を使った「覇権主義的な行動」に対して、
と述べる。じゃあどうやって中国と対峙するのか?「75、領土問題」で、
と述べる。要するに「米軍を撤退させ、自衛隊は強化せず(むしろ現状でも強化されすぎてる)、中国と友好的な協議および交渉をつうじて紛争を解決する行動規範を結ぶことをめざす」。実効性や継続可能性があるか、付随する負の効果はどれほどかを完全に無視して、「軍事力を強化すると戦争になりかねない」「平和的な交渉が理想」という表層的で外聞のいい点と点を繋いで政策と称している。
これで理屈が通っているなら「非実在青少年」の件だって十分理屈が通ってることにできるでしょ。あなたは本件について
と述べる。真っ当な姿勢だと思う。でも日本共産党としては「誤った社会的観念を広めかねない」「弱者を護ることが大事」とだけ言えば十分でしょ。繰り返しになるが、日本共産党は「実効性、継続可能性、付随する負の効果」を無視している。本当に児童を護ることに資するのか、多数の表現の中から特定の意味内容を含む表現だけを見分け規制する仕組みは継続可能か、他者の権利を侵害していない無実の者を投獄することになりはしないか、政敵の排除に濫用されはしないか、これらは考慮していない。
もちろん彼らのこういう気質が役に立つ場面もあって、例えば生活保護の受給補助。あれは窓口である役所が生活保護制度の「実効性、継続可能性、付随する負の効果」を勝手に慮って出し渋っているのだが、そんなこと気にせずに「困窮しているなら支援するべきでしょ」という一点で突き通せる日本共産党の姿勢に価値がある。あなたが評価していた「姿勢」とか「理屈」というのはこの類のものでは?それは本件でも一貫していると思うよ。
つまり左右とか、「左すぎる」とかではなく、「実効性、継続可能性、付随する負の効果」をまともに検討して政策を立案できるかどうかという問題。もっといえば日本共産党に限った話ではなく、人間が政治をやるとしばしば起こる問題。
まあがんばりたまえ👽
本をうなずきながら読む
読み終わってみたが、とくに書くことがない
1+1=2という記載に疑問のもちようがない
イスラムはこういう教え、キリスト教はこういう教え、仏教はこういう教え
そういうもんなんだから読んで書けと言われてもまとめるだけになってしまう
そういえば、大学のレポートや卒論も参考文献のダイジェストを「思われる」、「考えられる」で締めて考えたフリをしているだけだった
「書き続ければ上手くなる」。みんなこういう。文章が上手いやつに限ってこういうことをいう
けれど、上手いやつは最初からキラリと光るものをもってる。問題意識というか、物事を力強く疑うことできる体力というか、明らかに他の人とは違う原石をもってる
昔から自分にはそういうものがなかった。読書感想文も目も当てられないほど平凡で、自分が自分にいつも落胆させられていた
文才があるやつの強さに憧れる。ただ、著者に同調するのではなく、著者と対峙し、仮想的な著者との議論に何万文字と最後まで付き合える強さに感嘆する
この強さは絶対才能だと思う。だから、どれだけ国語辞典を目で追っても、文章術を箇条書きにしても、本を読んでも、そして増田でこうやって愚痴を書いても
僕は書評が書けない
かなしい
私の読解が間違ってるのでなければ、
Vチューバを採用する問題と、職場の水着ポスターの問題は、前者が「私たちの論理」で後者が対人性愛者の論理で捉えられるべき範疇にある。現実の水着ポスターの問題を解決した対人性愛者の論理を空想のキャラクターに当たり前のように適用するのはフェアじゃない。そうして生じた問題はそもそも、野蛮さも危険さもないVチューバとしての自己表現を歓迎するフィクトセクシャルの常識では起こらないのだ。
このように仰りたいのか? ならば、「助かる」はどうなる。
Vチューバの文化ではライバーがクシャミや、せきをしたとき「くしゃみ助かる」とコメントする文化がある。ホロメンとか人気のVでは「助かる」は大量に流れる。悪いときは当人が嫌がっていてもお構いなしだ。助かるの動機は人それぞれだけど、最も広く受け入れられている説明は、Vチューバが現実の世界に確かに生きていると実感できるから、というもの。有名な話だが、Virtual の翻訳——“仮想” は誤訳だったと言われている。実質上の・事実上の・実際の、がより正確な意味になる。実質上は現実の Youtuber であるアバターを被った存在がVチューバなんだ。フィクトセクシャル増田よ、私の言いたいことがわかるかい。Vの視聴者の中には多くの対人性愛者が、スペクトラムの向こう側の人々が大量に含まれていて、単に現実の女性アイドル・芸人の代替として彼女らを観ている。もしこちら側の人間が大多数だったなら、キズナアイの分裂は成功して今日の彼のVの活動範囲はもっと広くにわたっていただろう。
実際上混ざり合っているリスナーの中に、フィクションを現実として受け取る人がいる。
問題を起こすのは対人性愛者なのだから、対人性愛者用の論理が適用されるのが正しいだろう。
私は横増田だ。
「アバターの格好を否定されたら、主体性を持って自分のあり方を選択した中の人が悲しむ」
こんな風に言っているブックマーカーがかなり多く、いた。それはフィクトセクシャル的な分離の考え方ではありえない判断ですよね? かの増田は彼等をたしなめるために筆をとったのだと思う。
警察が、胸を揺らす女子高生にみえる女性を広告塔として利用する。
フィクションを現実として受け取る人は理解する。なるほど、現実の女性は道具として利用していいんだ。
追記・
私自身はフィクトセクシャル側の深くにいるようだ。増田を読んでいると、思いもよらぬ新しい視点を教えられる事がある。今朝もそうだった。
私はいままでは、オタク側の論者として戦争に参加してきた。でも私には、得られた新しい見方を持ってしても、否定できないように思えたんだ。
「警察の女性V広告採用への弾圧は女性性の抑圧なのに、職場の水着ポスターを全会一致で弾圧したのは女性性の抑圧にならないのは何故?」
今のところ対峙する勇気があったのはフィクトセクシャル増田だけのようだ。
増田を常にウォッチしてるアンチ・フェミニズムサイド の α 増田ブクマカーは高々 20 人程度だろうと思う。増田たちと彼等がアウンの呼吸でこの話題を流してくれれば、波風は立たずに終わる。表現の自由を守るために、フェミニズム批判は続けられる必要があるはずだ。この視点は、向こうからの射線、だけが、通る。一方的に撃たれる。誰かが拾えば負ける。
みたいな主張をまあまあ見るんだけど……
そりゃ、「恋愛だ!」って確定させる描写ではないことは理解できるんだが
「恋愛じゃない」ってことも確定してるとは思えない場合が結構有ってな……
そういう一言で言えない空気感だからこそ作品描写によって表現してるとも言えるわけだし
そもそも「恋愛」というものだって人対人の関係なわけだから、組み合わせによって在り方なんて千差万別であって、
本人たちの意識下で「恋愛かどうか」が判断基準になるべきだと思うんだよな
例えば肉体関係が有ったって、本人たちの定義と外れていれば恋愛ではないし、
当人たちがアセクシャルで有った場合(アセクシャルにも色々あるけど)は、ヘテロセクシャルから見て「恋愛しているような記号的表現」が無い場合でもしっかり恋愛していることってあると思う
その「本人たちの意識下」、というこちらの主観では測れない物を作品の中の描写から少しずつ拾い上げてやっと、「恋愛なのかそうじゃないのか」が判断できるのに、
「恋愛じゃない!」という発言をしている人の主張って大体「自分の考えている(今まで見てきた)恋愛に当てはまらない」というものばかりで何だかモヤモヤしてしまう
まあそうじゃない人もいるのかもしれないけど、繰り返しがっかりさせられてきてしまったんだよね
恋愛が主題の作品でなくても、登場人物たちには出来事や対峙する相手への感情ってのは当然にあるわけで。
その感情が当人の基準で、ストーリーの流れの上で恋愛に当てはまることだってあるんじゃないのか?
だって、ストーリーの盛り上がりには、強い感情が付き物だろう。
その強い感情が恋愛感情とは限らない。友情である場合も、友とは別の仲間意識である場合も、敵にしか抱けない信頼であることもある。それと同量の可能性として、恋愛感情だって存在するわけで。
そうすると、「恋愛感情だけ」を必死に可能性として排除しようとしている方が、過敏すぎる気がしてくるんだよな。
「恋愛じゃない!」の主張で枕詞的に使われてる「安易な恋愛表現」ていう文字列も、必要以上の侮蔑を感じてなんだか戸惑う。
安易ってなんなんだ……。そんなに恋愛感情を簡単でシンプルで解しやすいものだと思っているということか?
恋愛観だって友情の形だって人それぞれで、その人同士の組み合わせになったら、他のどの関係とも同じように「その関係でしか成り立たない形」になるのに……?
そこまで分かっていながら、おぎの議員や青識氏への評価はあまりに政治的というか、アンフェアに過ぎる。
これまでフェミニズムが表象問題に対峙する時に使用してきた、その「文法」や「理路」なのだと、増田も分かっていそうじゃないですか。
↓この辺のくだりは、悪意しかありません。悪質なレッテル貼りです。
例えば青識氏がフェミニズムの理論を借用するのは、明らかに同じ土台で議論を行うためじゃないですか。
表象問題以外については、彼らはフェミニズムの理想を共有していますよ。
私が彼らを支持しないのは、差別を是正して社会を良くしたいという動きに対して、方法論の違いで衝突しているのではなく、敵対者としてその理想そのものを腐し足を引っ張る為に、自分が支持していない敵対者の思想の論理だけを借りて相手を批判し、批判に使った論理の元の思想(フェミニズム)が目指す理想そのものは唾棄して見もしないような輩だと思うからだ。
2回、放校になりかけた。それはとても大変だったが、割愛する。
1日の大半が溶けていき、大学にも行けなかったし、それどころか進級テストすら受けられない生活となっていた。
麻雀は、「脳汁が出てくる展開まで持っていく時間効率が悪い」+「実力を上げてもそれを証明するのにとんでもなく時間がかかる。」
1試合15〜30分で、1、2回しかリーチなりアガリなりできない。つまり、脳汁が15〜30分に1、2回しかでない。
さらに、1000時間やっても戦略の良し悪しや成績が実力と相関してこない。つまり、戦略を変更すると、その戦略の良さを証明するのに1000時間はかかる。
ネットポーカーは大量の多面打ちをすることができる。3分に1回は、オールインで脳汁を噴出させられる。
さらに、ポーカーの場合、大体100時間もやれば実力と成績が相関してくる。麻雀の1/10の時間で戦略の良さを証明できる。
つまり、脳汁が出る展開がすごく効率が良くなる。そして、実力を上げてそれを証明する時間も麻雀より遥かにマシだ。
ポーカーによって、脳汁を出しまくることで、これまで20時間かかってた脳汁噴出が、6時間くらいで脳汁噴出できるようになった。
また、戦略を考えたり勉強する時間も、麻雀より遥かに取れて、落ち着いてギャンブルというものに対峙できた。
将棋は棒銀すら理解できなかった子供時代の記憶があり、微妙だったのだが。
1問の詰将棋は約1分もかからない。なんなら、1秒で勝負がつく。
1分でリーチ局面に持っていけて、戦略を正しくねれば確実に勝てる。
100問も詰将棋をとけば脳みそが脳汁で溢れてヘトヘトになる。大体、1日2時間で麻雀20時間分の脳汁を出し切れる。
大学時代、放校になるまで追い詰められましたが、本当にポーカーに出会えてよかったです。
失った10代、20代の6年くらいは取り返しがつきませんが、
本当によかったです。
「相手を視認し、本隊に伝達する」ってことがどれほど大切かっていうのは、二百三高地を見ればよくわかる。観測所を奪取するために一万五千の死者が出た。
な、【わかってない】だろ
んで、これにスターがたくさん付くが
「千里眼」でもいいし、「神託」でもいいし、「テレパス」や「透明化」が使えてもいい
それらを魔法で防げるなら、「上空からなら視認できる」とかご都合主義もいい所だろ
「りある」な話がしたいんじゃねぇのかよ、そういうところご都合に走るなら、なろうを嗤えねぇんだよ
なんだか知らないけれどわざわざ部分的にリアルに寄せて、なんで異世界の話するんだろうな
馬鹿じゃねぇかなって思うんだよ
(そういう異世界ものがあってもいいが、それに限定するならなろうだのなんだの揶揄するなよ)
https://togetter.com/li/1775032
大前提として、航空戦力は航空戦力として行動できなければならない
例えばファイアーエムブレムのぺガスナイトやドラゴンナイトは、接敵した地上戦力から反撃を受けている
航空戦力の理不尽さを感じるには、Skyrim をやってみると良い
弓と単発魔法で空飛ぶ敵に対峙するのがどれほどの無理ゲーかをひしひしと感じさせてくれる
AIがドラゴンを地上に降ろすようになっていなければまず勝てない
制空権だの航空戦力だのを語る上での最低条件は
人の戦力を Skyrim 辺りのレベルで調整すると、ドラゴンという存在は「圧倒的」になる
高速移動体には弓や魔法が当てづらく、あちらさんは地上に降りずにブレス攻撃してれば勝ててしまう
実際、そのようにAI調整すると、近接歩兵はただのごみで人間はまず勝てない
あの世界できちんとした戦術のもとドラゴンを運用できれば勝利間違いなし
人の戦力をWizardry辺りのレベルにすると、話は変わってくる
どんな攻撃も当たらず
城ごと焼けるので籠城も意味をなさず
世界は丸いのか平べったいのか
平べったいなら重力はどういう物?
太陽光はどういう成分?
神とは魔法とは?
人体構造はどうなっている(顎を殴って脳をゆする的な能書きが通用するのかしないのか)
ケガはどういう風になっていて、「治療」はどうなってる?
ともすれば、家や城よりも人体の方が丈夫になる世界で鎧の意味とは
etcetcetc
与太話としてこういうの話すのが面白いのは分かるんだ
「あいつは高次元存在も殺せる」いやいや「あいつは殺意を向けられてだけで相手が死ぬ、神ですらな」的な
だけど、なろうへのこういう話だと、作品としての「設定」は忘れられて
わりかし現実に沿った話になるの、なんでなんだろうな
城が航空戦力を想定してないって語るドヤ顔が多いんだけど
そんなこと言ったら核融合爆発も想定されてないよ、その城、みたいな
単純に「攻撃力が敵の外皮を貫通するかどうか」の設定次第なので
これを論じるのはアホらしい話である
みたいな話にも「武器に魔力が宿らねば無効」と設定すれば終了だ
架空の生物に現代兵器が勝てるかどうかは、単純に「設定による」話で
私 たちは感染症のプロです。日常の風邪、腸炎、インフルエンザといったよくみる病気、肺炎や髄膜炎など入院治療を必要とする病気、結核やエイズなどやや特殊な病気、そしてバイオテロや鳥インフルエンザなど新たに問題になっている病気。たくさんの感染症に対峙する専門家です。
らしいが?
こないだまた日本の研究者が中国に高給で引き抜かれたわけだけど、それに対して「金を出さない日本が悪い。科学者は人類全体への奉仕を考えるので金を出してくれる環境に行くのは当たり前」みたいな擁護が多くされていた。
まず断っておくと、根本の原因が「日本政府が学術研究に金を出さないこと」なのは間違いないし、それは否定出来ない。この点について政府と文部省は完全にカス。自民党のバカ代議士が「50%は国の責任」とか言ってたけど100%国の責任だと思う。
でも、その結果として中国に金貰って研究するのなら、「人類への奉仕のため」「科学に国境はない」みたいな御託は完全にウソでしょ。
香港の民主主義を叩き潰し、ウイグルとチベットの民族浄化を現在進行で続け、冗談みたいなスピードで軍拡を続けて世界の民主主義勢力と対峙しようとしてる国なんだよ。そのパワーの根源にはテクノロジーがあるわけなんだけど。
中国の金で研究するってのはこういう巨大なならず者国家に貢献するって事なんだよな。そこから目を背けるのはおかしいよ。
たとえば1930年代にどこぞの国の科学者が「研究待遇が良いから」という理由でナチスに招聘されて毒ガスだの核兵器だのの研究に従事してたとしても「科学に国境はない」とか言って擁護されたのか?あり得ないでしょ。
現代の中国をナチスに例えるのはもう全然大げさじゃないよな。民族浄化を断行し軍拡に走る大国なんだもん。そういう国に言って金を貰って研究するんだから、せめてそれが「自分の関心のある分野での研究ができれば世界がどうなるかとか一切興味ない」という意思表明であることは解ってくれ。
ハイパーハードボイルドグルメリポートで触れられた、ゴミの処分地に住んでる14歳の子供を見て、俺はどんな気持ちで対峙すればいいのかわからなくなった。
資本主義にいくら中指を立てていても、こういう状況に対して自分ができることはゼロだ。募金なりなんなりあるだろうと思うかもしれないが、そんなことはまったく関係ないし、なんなら無駄だ。できることはゼロだ。そこに立たないとそもそもスタートすらできない。
俺はただの人間で生活者で自分の生活を成り立たせていくことで精一杯だ。世界にある矛盾をずっと甘んじて受けながらも自分の快楽を追い求めてる。たまに贖罪されたくって、赦してほしくってそれらしいことを話したりするけど、お前なあ、そんなことで何かが変わるだなんて一瞬でも思うなよ。ずっとずっと違和感だけが俺のありもしない尻尾を引っ張る。つれえなあ。
俺の生活は俺だけの責任で行きたいんだけど、まあ、みんなも知ってる通り「生きる」ってことに他者が関わらないことは一切ない。これはまじでそうだ。仕事をする、飯を食う、歩く、何かを見る、お店で話をする、風邪にかかる、なんでもいいんだけど、世捨て人はいないってことだけは言い切れる。他者ってのをあなたが人間に固定していない限りは。
俺は人が好きだ。人と関わることが大好きで、延々くだらない話をお酒飲みながら(最近はハイボール、前までは発泡酒)ずーっとどうでもいいこと話していたいし、仕事でも私事でも相手の好きなところをずっと話していたい。もちろん、一乗寺の疎水が実はサイホン式じゃなくなったのけっこう前なんすよとかそういうなんの役にも立たないことも。
役にたつって死ぬほどくだらねえなって思い始めたのはいつくらいからだったんだろう。そもそも役に立つってなんなんだろうか。我らは、どういう家庭状況かに関わらず、今、楽しいかそうでないかに関わらずおしなべてすべて、「生まれてきたくて生まれたんじゃねえ」ということはもちろんそうだと思っていて、ここに反論ある人はいないと思ってるんだけれど、それはあってるかな?生まれてきたくて生まれて来た人いるなら、連絡くれる?
前提だけが先行していて、その中でじゃあ、選べって言われて、そんなのまじで無理ゲーだと思ってるのが40年近く生きてきた俺の結論だ。
いや、不惑とかそういうことついつい自分も言いたくなるけど、その不惑は諦めって言葉と何が違うのかな。俺にはまったくわからんよ。書き出しから全然話が変わってしまっている。申し訳ない。何を言いたいのかは俺も全然わからない。これから生きていく意味なんてみんな持たなくていいと思う。でももっと考えたい。どうしたら自分が心地よくなるのかとかを。
で、その前提になってしまっている、なぜかこの土地に生まれてしまったことよる、いや、土地もそうだし、どういう家庭環境に生まれてしまったかによってそもそも多くのことが決まってしまうのに、それに対して俺らが生きてる社会はあまりにも無慈悲じゃないか?働かざるもの食うべからず以前の話をしないとどうにもできないじゃない。
俺らは搾取されている。それは、国家というものがあるからだ。でも、国家を完全に否定できないのは、それがあることで社会的弱者(弱者という言葉はひどい差別用語なのでなるべくなら使いたくない、が、意味合い的にもそうだし通りやすさもあるので今は使う)を救えている側面もある。でもそれができないならそもそも国家なんて必要なくないか。今、それができているか?不勉強ですまないが、西欧国家が作り出しただろう、民主主義、資本主義が世界に行きわたった結果どうなってる?それが今目の前に広がっている景色なんじゃないのか?
答えはない。ごめん。でも、一番最初に持ち出した少年の覇気のない目のことを私は忘れられない。し、私は彼のことを助けられないし、助ける気もない。私はわたしのことで精一杯だ。
なんだよこの世界とずっと思うけど、何もできない自分の状況に反吐をもらしながらでも忘れねえとしか言えない。大きいことは言えないし、何もできることはない。
でも。忘れることは一番の悪だ。それ以上に悪なのは、善意のふりをしてこの世界中のことをつなげてしまったインターネットだ。知っちゃったら、無関係でいられないじゃないか。