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はてなキーワード: プラグマティズムとは

2015-12-26

しか人間の貪婪(どんらん)さは、地方領主はるかに上回る。
地方領主は、王の代理人に地方管理させないだけだ。
ところが人間は、自分の生み出した宇宙存在すら忘れてしまう
―寄生虫が宿主のことを忘れているように。
それどころか人間は、大地は安定しているという幻想を、第一の原則とすることで、
自分の周囲の世界さらに閉じようとするのである人間はすべてをみずからの弱さに還元したがるのだ

ジョルジュ・バタイユ

抽象化した自己に対する誤解のある批判

プラグマティズム

2014-11-09

奥ヒダ

現実を見ることは大切なものですよほんとに。夢見る少女じゃいられないわけです。

いま求められているのは、物事総合的に判断できる人材です。分かりますか?


学問の学際化も進んでいます。これから生物物理化学なのです。

生物物理化学 - Wikipedia

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%89%A9%E7%89%A9%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6


世の中正しさよりも目先の利益が優先されてきたわけです。その場逃れの手っ取り早い方法ばかり重宝される。

でもそれは付け焼き刃にすぎないですから、その限界が出てきた時代と言えましょう。


人間のあらゆる価値判断がそうなのです。例えば人物評価を考えてもごらんなさい。

あの人はすごい人だ。あの人は優秀だ。あの人は人格者だ。そんな評価があてになりますか?

「お賃金」とタイピングしたらGをTと押し間違えて「おちんちん」になった。修正するでしょう?

でも人物評価には正解がありませんからおかしいと言われても「常に」修正しないわけです。これがいけない。


物事には両面性があるでしょう。賛成と反対に分かれて議論しても建設的な答えは見つかりにくい。

なぜなら、賛成派は賛成派に都合の良い事実論理だけを用いようとし、反対派もまた同様だからです。

両面を見て判断する人間がどこにもいない。これが社会システムセキュリティホールなのです。


冒頭に述べたように人は生きていく上で現実を見ないといけません。そうですよね?

同様に、社会システムも存続する上で現実を見る必要がございます

そして、現実理解があってこそスムースシステムは成長するのです。


私は物質文明否定的なので経済成長を善しとはしません。

しかし、それはあくま個人的見方です。よく考えてもみてください。

システムが未知の解決すべき問題に直面するのは経済問題に限りません。

ありとあらゆるシーンで、成長は必要とされるということです。視野を広く持たねばなりません。


ですから、成長のために「あらゆる」現実理解必要なわけです。

狭い範囲ばかり観測しても仕方ない。少ない変数ばかり観測しても仕方ない。

目先の利益だけを追っている人に足りない視座はこれなのです。


さらに言えば、「夢」の扱いにも若干の語弊があるように思えます

曰く、「夢は叶わないから夢なんだ」「夢より目標を持て」「でもないよりはあったほうがいい」。

じつに巧みな言葉遊びです。結局、「夢」が何を指しているのか、それは有耶無耶なままです。


言葉の上で明晰判明だからといって、あくまでそれはモデルです。理論です。

現実理論通りにいけば苦労しません。どんなに美しく正しそうな理論でも現実とのズレがあるものです。

実験物理学人間ならば痛感していることです。

まだまだプラグマティズムが浸透していないなあと思います


dankogaiはさまざまな事態にそなえ仕掛品を作ることを推奨しています

当然仕掛品有効性はテストします。じつにプラグマティックです。さすがは私たちヒーローです。

加えて言えば、さまざまな事態にそなえたtipsも見つけておくべきでしょう。


こういった芸当をやってのけるには、夢ばかり見ていては駄目。現実ばかり見ていても駄目なのです。

もちろん夢や最終目標の設定は大切かもしれません。現実を見ることは間違いなく大切です。

ですが、それのみでは根本的な成長は見込めないことでしょう。


現実を見た上で、その一歩先を見つめ続ける必要があります。それも、目先の利益にとらわれずに、です。

それが、さまざまな事態にそなえた仕掛品tips作成という1つの思想なのです。

株式投資をやり始めた人が、勝ち組へと成長していくかどうか分かつターニングポイントがそこなのです。


理想主義現実主義の人にはこう言っておあげなさい。「現実的成長は見えているのですか?」と。

自分言葉で成長を語れない人間にはやはり、現実的成長が見えていません。

それでは、現実的成長の広い可能性から、独創的に現地味ある「夢」を見いだしていくことも叶わないわけです。


夢がない、やりたい仕事が見つからないと嘆いている人が沢山いますね。

彼女らに足りないのは精神論ではありません。もちろんカウンセリングでもありません。

プラグマティック思考なのです。

2011-03-17

http://anond.hatelabo.jp/20110316235051

自分天皇制擁護なのはプラグマティズムの観点からです

現状では例えば廃止を強行した際、それで起きる混乱が現状のデメリットを遥かに上回ると思うので廃止反対というだけです

(ちょっと考え難いですが)10年後には天皇制廃止論者になっているかもしれません。状況次第ということです

政治学ではあらゆる政治思想に優劣を認めませんので、自分のような政治学専攻者にはこういう考え方の人間が多いと思います。

2011-01-19

http://anond.hatelabo.jp/20110119230528

そこで取り扱う「文法的な正しさ」というのは、矛盾なく日本語を構築できる体系を目指そうというものであって、「正しい文法と間違った文法」を振り分けるものではないでしょ?

いや、だとしたらそれは構造―構築主義者たちの学問で、「国語学」ではな構造主義以降の範疇に入りますよ。

それは普通に言語学」にも通じる、ネオ~系の学問。まぁ、その考え方は構造主義以後にプラグマティズム的な発想をした

研究者達のものでしょう。エスペラント語と発想は同じ。ごく普通言語研究でしょ。

でも、「国語学」と敢えて名乗るならそれは当然そういうものではなく。

敢えて、『正しい国語』を追い求める学派なんですよ。だから国語学(≠日本語学)で扱う文法には「正誤」がある。

あれは自国言語におけるキャノンを問題にする学問から。何度も言うけど、神学なんですよ一種の。

これは文学研究にも言えて、「国文学研究」って言うのは未だに「作品に込められた意味」を探る意味論的批評をやるんですよ。

もちろん、彼ら自身もそれが時代遅れ学問であることはわかっている。しかし、「国家」というイデオロギーが有効に機能している

以上、それは必要とされている。だから存在するジャンルが、国語学であり国文学研究なんですよ。

文学研究」や「言語学研究」と名乗れば済むところをさらに細分化しているのはそういう理由からです

別に、研究者自身の思想が「保守であるとは限りませんが、存在完璧に「保守ですよ。

だって国家イデオロギーなくしては存在しない研究ジャンルなんですから。これを保守と呼ばず何を保守というか、みたいな。

橋本文法が「正しい」わけじゃないんだけど、それを「正しい」と定義する学問が必要なんですよ、国家のために。

2009-09-02

脳科学(笑)批判 【スキナープラグマティズムの再検討】

脳科学に対するスキナー心理学の優位】

スキナー心理学の特徴は結果さえでれば内的な処理を問題にしない点にある。

■「林檎を食べれば、空腹が治る」重要なのはこのことであって

■「どうして林檎を食べると空腹が治るのか? 内部でどのような処理が行なわれているのか?」

そんなことを知ってどうなるのだろうか?

脳科学などに取り組むよりも、林檎が有益であることがわかればそれで十分で、林檎を植えたほうが良いというのがプラグマティックな判断ではないのか。

脳科学は「どうして○○を善だと我々は思うのか?」「なぜ林檎を美味しいのか」といった常識生理現象から詳しく説明するだけであって

倫理的生き方を促すものではない、とプラグマティストは批判する。

この空虚脳科学ブームを切り上げ、スキナーに立ち返り「行動・実践」を重要視すべきではないだろうか?

2008-12-09

[]匿名ダイアリー、字小さくて書きにくい

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20081208/1228726052

普通に、知らんやつに、「お前」とか命令形で言われるのは儀礼的におかしいと思うのだが、それでも「無限の応答責任」が生じるのが「知識人」というやつか。それこそもう一度問うが「そもそも、なんでネット馬鹿どもとコミュニケーションなんかしなきゃいけないんだ。 」

http://twitter.com/naoya_fujita/status/1042662107

 なるほど、なぜだろうか。言葉遣いの悪い「言論的な野蛮人」をコミュニケーションの外に排除してはいけないのは。では、どっちもどっちで片付ける「論理的な野蛮人」をコミュニケーションの外に排除してはいけない理由はなんだろうか。

そもそも「ツイッター」というつぶやきサービスミクシィは公共的なのか。私的/公的という範疇が融解しているから、なんでもかんでも「公的」にすんなよ、別けろよ、という僕の思想というか主張があるのだが、君たちは「藤田直哉」の思想について不勉強無知馬鹿だ。

http://twitter.com/naoya_fujita/status/1042663811

 たぶんこれはメディア論(かっこわらい)の人たちが「じゃあなんで『私的』なことなら大学ノートに書かず『知らんやつ』が読めるところに書いてんだよ」っていうのにうまく答えられなかった程度の話でしょう。無論そんなこと、君の思想を逐一知ってる義務はないということ程度に、知ってる必要ないことだけどね。

 逐一、発言を拾っていくつもりだったけど、めんどくさいから止める。

 まずあの、

基本的な立場として僕は「南京はあったし数は30万は行き過ぎだけどそこそこはあっただろう」ということをまぁ認めるよ、という立場です。

 「30万は行きすぎだけど」ってところだけれども、君にそれを判断できるほどの情報があるわけ?((ぼくにはないよ))南京事件以前の南京城内外の人口がどれくらいで、南京事件以後の非難区、非難区以外の城内外がどれくらい、とかそういうことを踏まえたうえで言っているわけ?『南京戦史』であるとか、南京事件資料集((その手のはわりと多いので、どれと具体名を挙げるのは遠慮させていただく))であるとかを熟読してそういっているわけ?

 無論、そんなわけないでしょう。この人がそう言っているのは、『バランス感覚』、(別に誰が見るというわけではないだろうけど)誰もが納得してくれる『おとしどころ』としていっているわけでしょう(その『おとしどころ』で不興をかっているわけだけれども)。だいたい、君はその正当性の担保をどこに求めるつもりだろうか。言説に「善」(つまり道理)はないのに「正」(つまり公正さ)があるとでも言うつもりなんだろうか。であるならば、言説の公正さとは何で、誰がそれを決めるんだろうか。それとも、君に対して礼儀正しいか、そうでないかが、公正さの基準なの?

 ある程度の確からしさがあると認めるのであれば、そこにも強度があると考えれないだろうか。つまり、この確からしさは、あの確からしさよりも正しい、と。その『確からしさ』とあの『確からしさ』はどちらも確かではないから、一緒だ、排除してしまえる、とするのは実に非科学的で暴力的な態度でしょう。

 そもそも、こんな風に「公正さや正義を無視するものはコミュニケーションから排除してしまって良い」という風なアメリカ的なポストモダンプラグマティズム((想定するのはローティフィッシュだ))をマルクス主義者を自称するぼくが振りかざして、あらゆるものにコミュニケーションは開かれるべきだ、というような(野蛮なコミュニケーション的理性を基にする)原則論理念ポストモダニストを自称する人たちが振りかざすというのは矛盾した話だと思うけど。

 『デリダ的に言うならば』、こんなふうにテーゼがあってアンチテーゼがあってジンテーゼあるというような弁証法的なものの考え方自体がどうなんだろうか。飲み会(ある種の『問答』だな、無論皮肉で言ってるんだけど)なんかでクダを巻いてそれで『思想』((ゼロアカの、でも、ロストジュネレーションの、でも、好きな接頭句を入れてくれよ))を作り上げてしまう、そんな馬鹿みたいな真似がどうかということだ。

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