はてなキーワード: バイクとは
そんなもん慣れだろ。
なんでもそうなのだと思うけれど
物(プラスチックの蓋だったり、紙コップだったり、あるいはもっと複雑な機械、電動歯ブラシとか、電気シェーバーとか、ヘアードライヤーとか、掃除機とか、スマートフォンとか、PC、とか車とかバイクとか自転車とか)というものは意外と人間に最適化されていない、もしくは初めてその物を触る人が直感的にその物の操作方法を理解出来るように実は出来ていない。
しかし、人間は脳を物(道具)に合わせる形で最適化する術を心得ている。
物(道具)といったが、実際には自分自身の手や足や口や首や頭、身体っていうものも最初から自由に動かせるものではない。
赤ちゃんや幼児は長い時間をかけて自分自身の体を動かす方法を学び、その体系的な身体操作方法を応用して道具というもののコントロールもする。
習熟すれば野球選手がバッドを、テニスプレイヤーがラケットを、サイクリストが自転車を、自分の手脚のように感じて操作できるというのも脳がそのように出来ているからだ。
だから、習熟すればスターバックスのコーヒーも最適化された飲み方が出来るはずだ。
そもそも脳のような高度で柔軟性のある機能が備わった器官が標準装備されているのにたかだかプラスチックの蓋ごときに音を上げるとは……。
そういうとこだぞ。
義弟ついて
ただ頭が悪いだけなのか、いわゆるグレーゾーンなのかの判断がつかなくて悩んでいる
エピソード1つ1つは些細なことばかりで、ずっと見過ごされてきた感じだが、
実際に接していると何かしらの障害を疑いたくなるのだけれど、脳外科に行ってCTとMRI検査しても異常なしという結果だった
ただ、仕事の覚えが異常に悪いようで、簡単な作業(荷物をAとBに仕分けるなど)もテキパキとできないようで、
勤務2日目に怒られ、3日目には病院行った方がいいんじゃないかと言われて、結局続けられず退社に至るの繰り返しになっている
日常生活に支障をきたすような感じはなく、義弟宅から自分の家まで普通に電車を使って来ることはできるし、バイクで通勤も普通にできているのだけれど、
配達の仕事などで車を運転すると、決まったルート配達でも、途中で工事で迂回が必要になると、どうやって目的地に行けばいいかわからなくなるらしい
そんなエピソードを数え上げればキリがなく、1つ1つは誰でもあるよね、なレベル?(うちにあるウォーターサーバーの冷水とお湯のボタンがどっちか来るたびに間違える)で、
でも、些細なことが複数重なると、やっぱり障害かなとも思ったり
若い頃に数年ボクシングをやっていて、何度も脳震盪起こしてたと言っているので、いわゆるパンチドランカーの症状なのかもしれない
○○に当てはまるのは?
・バイク好き
・ビートルズ好き
・ギター好き
・サッカー好き
他にもいっぱいあるよな?
ふと、広大なネットの海に彼の断片が揺蕩っていないことに、一抹の寂しさを覚えたので。
彼に逢ったのは大学2年の春のこと。九州出身の僕にとって、コートが手放せない北関東の春寒に辟易していた頃であった。
新歓委に適当に名を連ねた自分は、準備のために何ひとつ手を動かすこともなく、当日ふらりとやってきては三枚目を演じる役目に殉じていた。
定かではないが、正確にアイデンティファイしたのは、何度目かの食事会のことであったろうと思う。えらく目に残る濃紫のダウンコートに、これまた鮮やかなスカイブルーのボトムス、黄緑のリュックという出で立ちで、ママチャリを漕ぐ小柄な姿に、台湾の街なかをゆく人を彷彿したものである。
彼が口を開けばすぐに明晰さに気がついた。女史の多い学類の中で数少ない男子、話を聞いてみると、さらにマイナーなところで史学徒志望とあっては、親交を温めるに十二分であった。必然的に同じ授業を受けることになり、同じ時間に学生控室に居ることになった。
半年も経つ頃には、先輩風なぞ吹かせられないほど優秀であることを思い知らされた。彼の謙虚な姿勢で分かりにくかっただけで、史学は勿論、政治、社会、哲学、文学、芸能に至るまで幅広く人文学の素養を蓄えているさまは、正しく博学才穎と評するに値する。
なるたけ楽をしようという学生と対照的に、彼は努力の人でもあった。史学徒らしく先行研究を丁寧に洗い、批判的思考の先に論理的な積み重ねをするといった基本を忠実に守り、そしてその先を直向きに追究していた。
彼の尊い所は、それらの要素をコメディカルに自嘲し、扮飾していることであった。口癖に「チャップリンのような男になりたい」と言っていたが、恐らくはそのあたりに起因するのだろう。オフの彼は道化であることを心がけていたように思える。
実際、彼が醸し出す人間的魅力は、接する多くの人々の心を開かせてきたに違いない。それは悲しいかな、告別式に集まった人の数で可視化された。
院進を悩んでいた頃、自分の無才さとそれを補えない怠惰を刺激され、逃げるように就職した。
少ない給料でも、彼が困ったときに本代くらい捻出できれば、それで十分だと思って。自分は一線で人類の知を切り開く探求者にはなれなくとも、彼らを応援することくらいはできる、そう思っていた。
遺された人にはありがちな思考過程ではあるが、彼が居なくなった後の世界は何も変わらなかったことが恨めしかった。まるで彼という存在を皆忘れているかのようで。
自分もそんな世界の一員だった。彼の告別式でも、その後一人で2月の寒空の下をバイクで3時間走ったときも、ひとつぶの涙も出やしなかった。次の日にはケロッと出勤した。
暫くして事後処理で窶れきった主査の先生へ手紙を書いたとき、初めて涙が溢れた。「彼の分まで生きましょう。彼もきっとそれを望んでいるから」と、宛てたのは先生へだったが、届いたのは自分のところだったのだろう。
思いきり泣いたことで随分気持ちは楽になったのだが、前よりもずっと、フラットに彼と向き合える自分がいることに気づいた。それは嬉しいことだった。少し遠いところに行ってしまった、くらいに思えて、以前よりずっと身近に彼がいるような気がするからだ。聖書にある「神に近づいた」状態と似たような心持ちなのだろう。
以来、こうやってことあるごとに彼を思い出すわけだが、そのたびに僕の中の彼が記憶のリフレインだけでなく、その先の知新を促す。僕は過去の一時点に比べて、ずっと世界に対して心を開けるようになった。
彼がやっていた南相馬の農村社会史を引き継ぐことはできないが、彼がやろうとしたことは自分にも引き継げる。今、僕が眼の前の人々を愛し、その未来へと思いを馳せることを大切にしているのは、きっと彼がそうだったからだろう。
彼の不在は世界を変えなかった。だが、彼の存在は僕の視座を変え、そして僕からまた誰か別の人へ伝播する。それが世界を変える頃に、誰も彼の名を知らずとも構わない。よもや小汚い小男から手渡されたバトンだとは世人も思うまい。彼という人間の射程の如何に大きなことか。
君がいなくなっても地球は回り続けている。コロナで世の中がひっちゃかめっちゃかになって、東京五輪があって、君の好きだった能年玲奈は今も芸能界で頑張っていて、相馬の野馬追祭りは久しぶりに開催された。国会は相変わらずだけど、安倍さんのことは、そっちに行ったから君のほうがよく知っているだろうね。
どうか、もう少しそこで待っていて欲しい。君の好きな偉人たちがごった返しているだろうから、ヒマはしないだろう。僕はもう少し僕にしかできないことを探してやってみるよ。また会えたときには色んな話をしよう。
加齢臭、口臭、腋臭、香水臭、アンモニア臭、タバコ臭、アルコール臭は、周りの人の病気の元になりますので、外出する前に、身体を良く洗い、口の中を綺麗にしてから外出してください。
痰、口から吐いたものは、路上にすてないで、トイレの大便器に吐きましょう。
ゴミは、自宅に持ち帰って、自宅で捨てましょう。
空き缶、ペットボトルは、自販機脇の空き缶入れか、自宅に持ち帰って、自宅で捨てましょう。
髪は、黒髪で外出してください。
髪の形は、坊主かスポーツ刈りか七三分け刈りで、前髪を切るようにお願いします。
車の外装と内装は、派手にしないで地味な外装と内装でお願いします。
バイクの外装は、派手にしないで、地味にしてください。
車とバイクの騒音を小さくしてください。マフラーを外さないでください。マフラーを付けてから走行してください。
日本全国禁酒なので、アルコール飲料を飲むのは、やめてください。
髭は、不潔に感じるので、髭を剃ってから外出してください。
鼻水、鼻詰まり、咳こんだら、自宅でやすんで、外出しないでください。
短気の方は、外出しないでください。性格が良くなったら、外出してください。
太っている人は、外出しないでください。美男子、美女、痩せてから、外出してください。
雨、雪が降っている時は、自転車を乗らないでください。
歩きスマホは、やめましょう。
悪口を言うのは、やめましょう。
自転車は、車道の左側を走りましょう。車道の右側と歩道を走っては、いけません。
新型コロナウイルス感染防止の為に、グループ行動をやめましょう。
一人行動でお願い致します。
母が深夜アニメにハマった。
そろそろ還暦になろうという母だ。
若い頃は、1stガンダムの同人誌を描き同好の士と絆を深めあったということだから、再びアニメに没頭する下地は出来ていた。
後はもうずぶずぶと沼に落ちていくだけ。
そのまま、約束のネバーランドにハマり、呪術廻戦にハマり、チェンソーマンはお気に召さなかったが。
ともあれ。深夜アニメに手を出したのも当然であろう。
転生したらスライムだった件、面白い!自分は、深夜アニメは知らないが他にも似たような名前のアニメの感想をLINEだったり、夕飯の席で語る。
だがしかし、母には一つ、疑問があった。
「なんで最初に出てくる魔物?がスライムかゴブリンって決まってるの?」
一つじゃなかった。まあいい。
マジンガーZに憧れ、ダイターン3を嗜み、ダンバインとガンダムで育った母には分からない。
自分にはそれが驚きだった。
ドワーフと言えば、背は低いが筋骨たくましく酒と鍛冶に生きる種族。
ギルドもそうだ。個人では手を付けられない事を依頼し、繋がりを得て問題を解決する、いわゆる組合のようなもの。
つまり、それは。
そういった常識で育ってきたクリエイターが作り出した物が、違う常識で、叫べば大岩が開き、バイクが空を飛び宙返りで額にフェード・インする勇者ライディーンで育ってきた人に対して。
これがジェネレーションギャップなのだと、思い知る事になった。
ほんとそれ!バイクの教習に来て車の運転技術が向上しないとか言ってるみたいなもん
百歩譲って実質的に破綻してて大学こんなに要らんやろっていうのはわからなくもない
大卒って一言でいってもガチ目な卒論やるとこと遊んでても卒業できる大学とでバラバラやしな
一般に高学歴って言われてる大学はなんだかんだ卒業要件も厳し目だったりしてとりあえずちゃんとした資格として見て良いところも多いよ 人文系は知らんが特に理系新卒で高学歴が優遇されるのは底辺大学が教育機関として機能してないってのもかなり大きいような気はするな
幼稚園の目の前に8年ぐらい住んでいたけど、子供の声は意外と気にならなくて、
大気と壁を隔てて届く人声なんて大したことなくて、なんなら子供の声なんて高いから聴きとりやすいだけで成人男声の怒鳴り声とかに比べたらエネルギーはずっと小さいし
(´・ω・`)「↓起きるまでみてた夢やでー」
アプリで呼んだらエイプ100に乗ったのが来た。ああ、そういう…と解釈して、彼から差し出されたジャケットを借りて着る。だけどなんでか自前のライダー用のグローブを持参してたので、片方の肩に掛けてたカバンをたすき掛けに直したあとに手にアタフタと着けつつタンデムシートに跨がる、とその前に、ヘルメットホルダーに掛けてあったジェットヘルメットを借りることにして被った。すると待ち構えてた運転手いや前席のライダーがバイクを発進させたので慌ててタンデムステップの位置を確認して両足をのっける。両手はどこで保持しようかと瞬間的に逡巡したあげく(前席の彼に抱きつくのもイヤなので)後席の下あたりにハンドルあったよなーと思い出して掴んだらあったので良かった。だいぶリヤサスペンションが沈み込んでてなんとなく底突きしてる気がしないでもないが、トコトコっちゅうかプリプリと走る感じはけっこう楽しい。
…でもなんでか次のシーンで気がついたらパトカーの後部座席?でライダーの彼とバイクごと捕まってた😩ファンカーゴのバカでかいやつみたいなのに二人ともエイプ100に跨がったまま乗せられてて、免許センターまで連れて行かれるらしい。
老人が前方の横断報道をこちら側の歩道に向かってよたよた横切ってきてて、自転車のこちらはどうしようかあやふやな動きになったわけ。
んでちょっと挙動不審気味になった後その老人に対して大回りで避けようとしたら、その老人がが歩きのよたよた具合と同じぐらいゆっくり傾くようにしたたかにころんだんですわ
こちらの優柔不断な動きに老人も戸惑い気味になったのが原因だとは思う。
最初は助けようかと思ったがそのとき俺は横断歩道が接続しているところまでさしたかかっていて、なんかそこにはバイクがいたわけよ。
なんか俺ここにいるとバイクの邪魔?みたいな考えとかで頭がパンクして、もうその場を立ち去るしかなかった
後ろを見たらバイクの人が助けに言ってた模様。
なんかとことん俺が悪いみたいになっててやだなーって。
多くとも俺の原因は間接的で結局は老人の自爆なのに
これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。
ただ、内田が、
「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。
というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。
たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。
そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。
家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。
アレックス・カーが20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。
おりしも建設省に代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代。
アメリカの7倍のコンクリートを使って日本の山河をコンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。
その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。
「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。
A・カーは、フェアプレイの精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者のトップが黒海に豪奢な別荘を保有し、人民は実質的に農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治の開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。
「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司の説教がブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖。
最近、想起するのはやはり旧統一教会。家族の価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族が崩壊している、といった、「おまゆう」問題。崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするときの動機付けのメカニズムなのだ。
内田と永井の議論のテーマのひとつである人権・平等。あたかも普遍的な原理についても、
それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。
アメリカの建国者の一人、トーマスジェファーソンは人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。
これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。
どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者の懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質が人民に備わっていると信じて建国者はデモクラシーを設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法の価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権の矛盾が、南北戦争の北軍の正当性を決定的にする。
内田の議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要なキーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。
「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係ないかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。
内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。
舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後は憲法そのものがアメリカの経験に基づいたものだ。
しかし、日本の人権教育は、残念なことに、人権の普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。
戦後、人権を外付け実装してきた日本は、そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。
今現在、旧統一教会問題で話題の、国家と宗教というテーマにしてもそうだ。
政教分離のキーワードとなるのは、恐怖からの解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西の課題だ。宗教といかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴに勝利した古代ローマ。
そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会を構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要が再確認された。それが言論の自由の関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場の比喩が生まれる背景ともなった。
他方、旧世界のフランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会の権威と苛烈な弾圧が恐怖であった。だから公共空間の合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランスの言論の自由は、その意味でカトリックを否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要な意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したことの歴史的な背景は深い。
このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。
それは、実は国によって微妙にコンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的な価値なら、なぜ何千年も克服できなかったかの意味を問うというか。
しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後の日本の裁判所も含めて。
でも、それこそが日本の人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。
その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの、感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。
内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは、自分の国や自分の家族、自分自身の歴史だと俺は思う。
自分や自分の先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理だけが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本のアジアや欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。
歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神を自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。
自分が理想とするものと現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。
自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。
ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要なキーになるし、国家と宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米の経験を教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決は行政が戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことを違憲とした歴史的な判決で、戦争の経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法の仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国の精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。
しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通の体験、共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代。
50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。
「あの頃は」という共通の過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣の闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。
つまり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。
それが、失われ、外付けの価値観だけが、カラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。
永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代に
と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。
また、日本国憲法に組み込まれた歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。
それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、
視聴者からは、おしんは私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。
しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ。
しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会、バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争の記憶との関連が薄まった。当然、日本国憲法のリアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教と国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。
しかし、いずれにしても過去の記憶と憲法の規範が直接に結び付かない、その世代の経験、そこに、永井が紛争国の辺境の地を自分のテーマに選んだヒントがあるように思えてならない。
紛争のリアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生のときに知った人権、そして憲法の価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。
しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。
私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。
「全然、人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。
動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的なロールモデルとは限らないのだ。
この体験と辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。
読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。
A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.
デザインとかね、やっぱり好きなものを選びたい気持ちはわかるんだけど、自分の体格に不相応なバイクを選ばれると後悔するのは自分なんだよ。
大型バイクで立ちごけしてる女の子とか見かけるんだけど、大型バイクでしょ、起こせないんだよね。
いつまでも起こせなくて、起こしてあげたら発進する直前でまた立ちごけ。
こういうのたまにあるんだけど、体格に全く合ってないのよ。
前にYou Tubeでも見たんだけど、立ちごけして起こしてもらって、信号待ちでまた立ちごけしての繰り返しなんてのがあった。
いくら好きなマシンでも乗りこなせないで立ちごけで車体を傷つけてるってのはマシン自体が可哀想。
もう少し体格に合わせて乗って欲しいのよね。
これって悪口なわけじゃないよ、立ちごけして事故に発展したりして自分がケガするどころか、最悪死ぬかもしれないから言ってるのよ。
快適なバイクライフをおくりたいなら、体格に合わせなきゃだめ。
曲げないとつま先すらつかないのは本当に危ないのよ。
Twitterのトレンドの、信号なしの丁字路の一側の道路から対向車線を越えて右折しようとしてる車に自車が譲らないことを問題のように上げてる投稿、レスにもそうだそうだ譲ってあげようよみたいなのがたくさん付いてるが勘弁してほしい
あのシーンで後続がいるのに譲るの、めちゃくちゃサンキュー事故のパターンじゃん
自分が見てあげてるからと言っても曲がり始めたところでバイクとかつっこんできたら制しようがないし、じゃあってんで知り合いでもない相手を信用してよく見えないけどえいやで曲がるのはそもそもまともな運転ではないじゃん
結局「本当に曲がって平気かわからないが、向こうが停まったせいで曲がらざるを得ない」状況を作り出されることになるから、自分だったら絶対嫌だし、それを考えて停まらないな
ほんとに待てど暮らせど一生曲がれないような交通が整備されてない外国ならともかく、日本ならその先に信号があるから一回分信号を待てば曲がれるようにできてるし、それでいいはず
そういう道になってないなら左折で入れるよう迂回するべきだ
なんか優しさの問題みたいに言われてんの、実態やすでに考慮されてることを知らずに的外れなきれいごという子供や部外者に駄々こねられてる感じで釈然としない
入れ物の口から液体が溢れるように流れ出るさま(意味深)。ドバドバ。
飲み物などをどんどん飲む様。がぶがぶ。
逆に、お金などを湯水のように垂れ流して使う様。上記2.から転じたものか。
用例:「(やれ旅行だ、やれバイクだと言っては)息子は毎月金をがばがば遣う。」[1]
布などが固くこわばっている様。「ごわごわ」に似ているが、「「がばがば」は薄い物が板のように平面状に硬直している様子を表す」と使い分けについて記す書籍[2]もある。
用例:「このシーツ、のりのつけすぎでがばがばだ」[3]
布などがあおられてめくれる、広がる様。
用例:「雨風の中で車にカバーをしようとしたが、がばがばあおられたりまくれたりであきらめた」[4]
上記3.から転じて、性行為の対象としての膣や肛門が、大きすぎて締まりがない事。
上記9.から転じて、締まりがない、だらしがない、杜撰である事。「真夏の夜の淫夢」界隈でいわゆる「淫夢用語」として使われはじめたとされる。
これ本当によくまとまってるな……。
服や靴が大きすぎる→
おまえガバガバじゃねえか→
ニコ動やなんJが締まりのない状況を指す言葉として語録化したことで定着
→辞書的な意味の中に「締まりがない」は最初から存在してないことを知らない人達が誕生
ってことか。
・こんなとこが!?ってとこに道がある
→ちゃんと舗装された道路ね。もちろん手入れが行き届かず通行止めだったりボロボロだったりもするけど、驚くくらい田舎までちゃんと舗装路がある。
→鉄オタじゃないから知らんけどいらんやろ
・こんななのに!?ってとこにガソスタやコンビニなどのインフラ施設がある
→助かる。
それなりに広い国土でどこ行っても安全に旅できるってマジですげえな。税金払い過ぎてるのは年収900万以上ってマジじゃんって思ったわ。
自分自身は"バカだぞ?"って開き直るのに、他人のバカな振る舞いは許さないのかぁ・・・って思ったが、
よくよく考えたら、能力が足りないことに対して怒ることはあまりない気がする。なぜなら怒ってもしゃーないからだ
子ども用三輪車が指摘を受けたら三輪のモーターバイクになったりしないのと同じだ
プンスコするのは自分自身の中の道徳哲学から外れたバカな言動を見た時の模様というわけで
これが愚行権か
基本的に他人に対してバカと指摘することになんら躊躇いを感じない
それは自分自身が他人から "バカ" と指摘されても特になんとも思わないからである
状況によっては、反省したり・法的手段に出ることもあるかもだが、
自分自身はバカだぞ?と開き直るくせに、他人のバカな振る舞いは許さない、
無茶苦茶勝手な話やなぁと思ったけど・・・・・よくよく考えたら、
能力が足りないことに対して怒ることはあまりない気がする。なぜなら怒ってもしゃーないからだ
子ども用三輪車が指摘を受けたら三輪のモーターバイクになったりしないのと同じだ