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2014-02-26

http://anond.hatelabo.jp/20140226225412

横だけど増田特有の変なツッコミで今閃いた。

俺は昔、子どものわりに頭の回転が速いほうだったんだけど

相手と自分の会話を何手も先にシュミレートしすぎて逆になにも言えなくなる子どもだった。

たまに気を抜くと相手がまだ答えてもいない先の先の言葉にたいして頓珍漢な返事をしてた。

増田ツッコミはそれに似てる。

2012-11-10

http://anond.hatelabo.jp/20121110052450

ネット深淵に潜む最悪の7人の7人目が動くときは、警察個人情報の公開にいくら気をつけていても留めることはできなかったろう

悪意を持って行動する人には学習シュミレートする時間が有り余っていて、安全を守る側にはその時間が乏しい

悪意に特化した人が仕掛けるトラップは実に巧妙

普通」の人は「人間」を信じているから「善意」を装われるとホイホイ個人情報を公にして吸われてしま

今回は情報保護について漏らした人は当然批判されるだろうけど、その人が漏らさなくてもインターネットにいる

被害者の友人・知人・同僚などに「善意メソッド釣りを仕掛けてコツコツ長期間小さい情報を集めて

ストーカーインターネット環境が無ければこつこつ集めた情報分類していきながら電話帳と地図や足で聞き込みして)

ネットがあろうがなかろうがいつかは必ず被害者に行き着いていたと思う

ネットストーカーって名前割れしても民事裁判になっても何年でも粘着するし他に興味が逸れるまでは止めないので誰にも止めようが無い

というのを実例知ってる 

人が他人に悪意を持った時、それを未然に防ぐのは難しい

今まであの手の善意メソッドって金貸しがやっているのかと思っていたけど、殺人とか超怖い

2012-01-17

虚数時間に、並行世界パラレルワールドが発生したと思った件

先日、暇つぶしパラレルワールドについて考えました。

その結論として、宇宙インフレーションが起きる前の、

虚数時間に、並行世界パラレルワールドが発生しているん

じゃないかと達しました。

良くパラレルワールドと言うと、シュレディンガーの猫

出てきて、生きているか死んでいるか、観測するまで分か

らないっていう話が有名です。

猫が生きている世界と、死んでいる世界に分岐しているの

パラレルワールドなんて話しでありますが、死んでしま

う毒が、例えば浮遊している原子1個だとします。

それを吸うと猫が死に、吸わないと猫が死なないとします。

もし都度、世界が分岐している考えだと、原子1個がちょっと

迂回して、5秒遅く猫を殺す世界、4.9秒etc、4.99秒etc、4.98秒etc

無限に考えられてしまます

さらに、原子が1回転多かったり、少なかったり、その間に

猫の毛が1つ抜けたり、抜けなかったり、それらが組み合わ

さったり、無限なっちゃうんじゃないかと。

で、違う可能性の世界から見たら、猫が生きているか死んで

いるかも、原子が位置がちょっと違うかも、世界に違いが無い、

または別の世界と見れるんじゃないかと考えたわけです。

から、コップいっぱいの水、も水分子の組み合わせが無限

に分岐しているわけで、現時点の世界から、可能性によって

世界が分岐しているとしたら、分岐しすぎて、成り立たない

と考えたのです。

猫が生きているか死んでるかは、可能性から世界が分岐する

のではなくて、生きている世界存在し、平行して死んでいる

世界存在していると考えました。

それらは、可能性で分岐したんじゃなくて、前から別の世界

として、同時に存在しているんだとしました。

いつから、その世界があるかと考えると、分岐しない訳ですから

宇宙が始まったころ、ビックバンの前、インフレーションの前、

もし一つのから世界が始まっていると、パラレルワールド

存在できないので、

インフレーションの前の虚数時間から世界スタートしたなら

なら、すべての形と時間が別々に同時に存在できるとして、

似た様な宇宙であるパラレルワールドが、ガンガン生まれる

んじゃないかと考えたのです。

生命シュミレートするゲームのように、微妙に違う条件で、

様々な宇宙が、平行世界として展開されていると考えたのです。

その中には、4次元以上の世界もあったり、僕らと同じ3次元

世界もあったり、僕と同じ人間がいる世界もあるのじゃない

か。

ただその一つ一つの世界からは、パラレルワールドは分岐せず、

つの太いチューブのような、中の行動では分岐しない世界で、

チューブの中を、異なる経路を通る可能性はあるが、向かう先

は一緒で、世界は同じだと考えたんです。

とか、寝ながら考えていると良く眠れます

2011-12-24

認知の微視的構造 リマインダー

リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。

第一章

1

認知主義、古典認知主義

意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデル意味する。

 この主義の限界を

2

 ・チューリング

 チューリングの形式化が持っている特徴

(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括

(2)そのメカニズムいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している

(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している

⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している

フォン・ノイマンコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーLISPプログラム言語)を開発。

 ⇒ 研究開発が可能に

A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出

 ⇒理論的に自覚化・明確化される

3

・物理記号システム

①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、

②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム

by 1976 ニューウェル & サイモン

・強い物理記号システムの仮説

SPSS strong-physical-symbol-system

「標準的な記号アトムフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」

①仮想機械

現実の物理機械上で実行されるプログラムのみによって存在し、

そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」

 高級プログラムによって定義されるエミュレータ

フォン・ノイマン型の操作

コネクショニズムとは異なった操作

・記号を割り当てる

・変数を束縛する

・記号列の複写、読みとり、修正

・基本的な統語論パターンマッチング操作

等々

③標準的な記号アトム

「テーブル」「ボール」「愛する」「軌道」「電子」のような語

④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段

そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる

 このような主張(標準的なLISPアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践

彼らの仕事の特徴(例:BACON

 ・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している

 ・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能

 ・選ばれた課題領域を扱う

BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則

BACONに対するいくつかのコメント

BACONが取り組んだデータフォーマット化下のは、人間の労苦

BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。

 ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない

BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの

 ⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう

 サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。

 しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。

 心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える

 BACONは、人類の一部のモデル

 知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている

 古典システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。

 古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々

意味論的に透明、意味論的な透明性

STS semanttically transparent system

システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステム意味論的に透明であるといえる」

 きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズム記述レベル2)における計算の対象が、概念レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述レベル1)と同型である場合である

レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え

レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法

レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)

古典アプローチコネクショニズムの重要な違い

(1)古典理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論意味論を組み合わせた記号システムを仮定している

(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。

 もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない

◎要するに、古典システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである

第二章

 古典認知主義に対する懸念

 ドレイファス:古典認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当

 サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論意味論との間にギャップが認められる

 この二つの種類の懸念について検討する。

あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」

 この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念リストをあげる。

 ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。

 ウィンストンの、フレームを使ったアプローチも不十分

 ・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)

 ・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?

 ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか

ドレイファスの二つの主張

(1)身体問題

「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」

 コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない

(2)コード

 人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。

 このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?

 

 AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。

「強いAI仮説」を、サールは批判する

強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる

Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。

サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。

具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋操作者が中国語を「理解すること」の比較

「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」

 以下、サールの誤りについて論じる

 

 サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」

 脳シュミレータ説:あるりプログラム中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる

↑(サールの再反論)

(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)

(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである

 ↑(アナロジー

 光合成光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない

 では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?

  :外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること

↑(コメント

中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効

 微視的機能主義

 機能主義は、心的状態の本質を、

 入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。

 (適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)

↑(批判)

中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。

 こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう

・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか

×大まかなレベルに位置づけ

  ⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ

ライカンの「小人機能主義」

○微視的機能主義

・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981

ゲシュタルト

 :機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ

ライカン「小人機能主義」

 :機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)

 微視的機能主義

  :システムの内的な機能的プロフィール(内的状態の変換)を、

   内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で

   記述しようとするもの

   ・処理ユニット間の形式的な諸関係を記述する

   ・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる

第三章

 認知科学における民間心理学の役割はあるのかないのか

「民間心理学

 :自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解

 民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる

チャーチランド & スティック

「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学

 民間心理学問題点

(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。

 民間心理学は、子供狂人外国人を前にすると、まごついてしま

(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる

(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである

 最近の分析哲学

  :頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか

Daredevil believes that Electra is dead.

Mary hopes that Fermat's last theorem is true.

 のthat以下を、心的状態の内容と言う。

 心的状態が考えられる傾向

  :われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、

  われわれにとってどのように見えているかによって決まる

 ↓(言い換え)

 我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、

 本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない

⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、

 知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆

・双生地球……☆に対して疑いを投げかける

双生地球で、「海に水がある」と発話される。

地球A:海にH2Oがある

地球B:海にXYZがある

 この違い以外は同質だとする。

 すると、

 地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる

(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)

 もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、

 自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、

 単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して

二つの選択肢

(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、

 世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説

(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は

  〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう

プティ と マクダウェル

「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。

 しかし、

〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」

 筆者

 :あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、

 そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない

 その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。

 仮想反論

 :「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」とするならば、

 心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)

(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、

 内的構成に違いがなければならない。」

 という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)

 仮想反論の詳細

:仮定①:

 二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる

 (そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)

 仮定②:

 行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない

 結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない

「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。

 限定的内容といっても、それを妥当概念として了解できるかは明らかではない」

 なぜなら、

「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは

 まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。

 その具体的理由として、

 ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。

筆者

 :広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、

 民間心理学カテゴリーや分類が

 頭の中で起こっていることに関することに関する科学カテゴリーや分類に

 きちんと還元されるなどということは

 とてもあり得ないように思われる。

・民間心理学は、科学心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない

 世界を記述しない信念であり、なおかつ

 ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学記述の上には)存在しないことも可能

 民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?

 :

 他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、

 その人の身体の動きを予測し説明するための手段

民間心理学の主要な目的

 :

 世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること

(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴

①世界に対する感受性、すなわち感覚生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している

②世界をわれわれと共有している

③彼らは我々自身のもっと根本的な関心と必要の大部分を共有している

④彼らの思考の有用性は、

(我々自身の思考と同様に、)

 彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、

 彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている

 この特徴があるので、

「~したい」という欲求さえ同じであれば、

 神経生理学的な詳細は関係なく、地球人にも火星人にも有効。

・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている

・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、

 さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)

 筆者の見解

 :私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、

 行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである

 ……関連する行動を可能にするものとしての、

 根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、

 そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が

 対応している必要はない。

――

 筆者の意見は全体論である。(行動全体に網をかけるから。)

 ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか

<Fordor>

意識の全体論というのは、

命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」

 という考え方。

 これに、Fordorは懐疑的

命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)

われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題認知的連関)を共有しているとは思えない。

 なので、意味全体論はありえない。

 →信念の内容が、その認知的連関に依存するということを否定。

 信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。

 外延的意味論の一形態に賭ける

:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである

「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」

</Fordor>

筆者

 :Fordorの間違い

 全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。

 Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。

Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。

筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている

 全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)

 一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。

(1)民間心理学は、狂人や言葉の通じない相手には使えない

(2)民間心理学は、長い間停滞している不毛な学問である

(3)民間心理学は、神経科学ときちんとつながっていない

(3)に対して、

 民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである神経科学とつながることを目的とはしていない

(1)に対して、

 民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない

(2)に対して、

 民間心理学の目的は限られたものである

 なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。

整理。

 心的状態に関するわれわれの常識的理解と民間心理学は、違う。

 民間心理学には、きちんとした定義がある。

 これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」

 因果関係と、構成的関係の区別

構成的関係

 :

 研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ

因果的に関係

 :

 因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、

 それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる

ということはない。

チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)

・広域的内容の理論認知科学は心を解明しえない

・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている

科学(物質、プログラム

(構成的関係)

科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。

では、構成的関係とは何か。

構成的関係←→因果関係

構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること

因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない

(駒はなくてもチェスは打てる)

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2010-11-30

コンタクト外して

現実にうまく参加できない私。今日脳汁放出させながら、時給700円の仕事淡々とこなす。

頭の中では電子音ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダと鳴っている。

家でやっているDTMの打ち込みをシュミレートさせているのだ。

もちろん目の前の単純作業との同期は完璧

時々意識が無くなってそのまま死んでいまいそうなときもあるけれど、天国で曲を作れるのなら、それでも良いのかもしれない。

もう百万近く音楽の機材に金を使っている。

両親は最初小言を言っていたが、最近では何も言わない。諦めたというか呆れたというか飽きられたというか。その違いは別にどうでもいい。むしろ曖昧なまま。それが続けば良い。

不安定で超低賃金で、別に将来音楽で食おうと思っているわけではないのに音楽の機材を買いまくっている。何故だろう。やっぱり音楽が好きだからだろうか。しかし偏執的な気もする。音楽をすることによって愛される可能性があるとでも思い込んでいるのだろうか。

いや、もう人気が欲しいとか、そういうことはどうでもいい。僕はとにかく曲を作り続けたいのだ。曲を作り続けて、それを音楽神様の前に差ししたいのだ。神様だけが僕を救済してくれる。人間のために作っているわけではない。資本主義のために作っているわけではない。ただ、自己の救済のためだけに。いつか、光に包まれて僕が報われるのを待っている。永遠の安息が訪れるのを待っている。死を待っている。

2010-08-21

アホなことしてすごい恥かいた

その日、仕事が長引いて終電に間に合わなかった私は先輩に車で家の近所まで届けてもらった。

ここで大丈夫ですよ、と送ってもらったお礼も伝えて下りた場所は家までまだ少しある。

いつもの駅はちょうど反対側だったから最近あまり通っていない道だ。

川づたいに延びる土手をテクテク歩く、昔はよくこの土手で遊んだなあ。

坂の上から寝っ転がってクルクル回りながら「あ、あ!あ、あ!あ、あ!あ、あ!あ、あ!」とかしたっけ。

小さいの頃のことを色々思い出してノスタルジックな気分になる。

時刻は深夜、昔と何一つ変わらない場所に、夜ハイな私、水面は街頭を反射してキラキラきれいだ。

辺りをぐるりと見回してみたけど誰もいない、今がチャンスだとばかりにバックを置いて横になる私。

と、こんな風に書くとまるで生粋の頭の悪い子なのだけど、もちろんそこに至るまではためらいもあった。それもおおいに。

でも子供のころ楽しかったことが大人になるとできないのは何か嫌だというか、もう半ば意固地になってしまい暴挙に及んだ。

つまり「あ、あ!あ、あ!あ、あ!あ、あ!あ、あ!」である。

いざやってみると恥ずかしさもあったけれど、童心に帰れた気がして少しの満足感もあった。

河原の部分まで転げ落ちる。

そしてふと顔をあげ。

あ、人がいる。

寝転がる私とそれを見る男性というのは遠くからシルエットだけ見てみればさぞシュール光景だったろう。

私は光の速さで服を整えさっと起き上がったが何もかも手遅れだった。

どこかのスナイパーみたいに全身に草を散りばめた前衛的なファッションの私にその若い男性は明らかに笑いを堪えている。

もういっそ川に飛び込みたい、走って逃げたい。でもそうもいかず足の指先から頭の先まで真っ赤に染まった私はそこから動けずにいた。

いっそトコトコとすぐ側まで歩いて来たその人を川に突き落としてやろうかとも考えたけど、たぶんご近所さんだろう足が付く。

気まずい空気が流れる。

笑いながら通りすぎていってくれれば良かったものを変に律儀なのか

その男性は立ち止まって、さっきまでの吹き出しそうな顔はどこへやら今にもごきげんようなんて言いだしそうなポーカーフェイスを装っている。

髪に絡まった葉っぱをできる限りの上品な仕草で取り除きつつ私は「こんにちは、お散歩ですか、じゃあさようなら」なんて

適当に会話を済ませて一刻も早くこの状況から抜けだしたいと頭の中で会話をシュミレートしていた。

が、

「楽しそうですね」これが男性の第一声だった。

後から考えればこの人なりのフォローだったのだろう、でもこのときそれを言われた私は正直恥ずかしすぎて涙ぐんでいたと思う。

大の大人スカート履いてああああ言ってればそれは楽しそうに見えただろう、でもそこは武士の情けでしょう。

毛を逆立て顔を真っ赤にしながら押し黙ってしまった私に

少し挙動不審となった男性は、昨日引っ越してきたばかりで近所を歩いていた、そこの建物に住んでいる、近くにコンビニはないかみたいなことを身振り手振りで聞いてきた。

コンビニはあるけど駅の近くなので私の帰り道と同じ方向だ、ゆっくりと腕を上げ向こうの川岸を指して、私はあっちとまるっきりデタラメを言ってしまった。

そのままバックを拾って振り返らずに家まで帰ったけれど、あの人は橋の方までUターンして行ったのだろうか。

後日よくよく思い出してみると相手はいいお年頃の男性だ。恋愛上手なお嬢様ならこれも出会いのひとつにしてしまうのかもしれない。

でもやっぱりあんな出会いは嫌だなあ。

2010-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20100325101946

言っていることは、理解できる。

論理的に。

ちょっと思ったことを反論してみる。

前提として、

「本来異性に好かれないような人間財産や地位を築き、そういうのに寄ってくる異性と付き合う」

これは、程度問題であるという認識

若かろうが、なんだろうが異性と付き合う時に、将来性みたいなものはみてしまうし、その(欲しい)将来が現実に目の前にあるというだけではないのだろうか?

つまり、「そういうのに寄ってくる」人の中にも本当にコントロール不可能な人もいるし、「そういうのに寄ってきちゃった」おっちょこちょいもいると思うのだ。

極端な話。

ここで大事なのは自分コントロール不可能な異性を見分ける能力だと思う。

若い時に恋愛してないと、それを見分ける能力が育たないというのはあると思う。

1.客観的に醜い・見苦しい

醜さや見苦しさって若くてもある。

本質的に、恋愛って醜く、見苦しいものでもあると思う。

自分を客観的に見てるうちは恋愛って、やっぱりできない。

そのことは、若い時から何も変わっていないのでは?

2.時期のズレ

二十代後半だの三十代だので異性に寄ってこられてもそもそもあんま嬉しくなくね?

うれしいだろー。

この気持ちは、全く理解できない。

どんな年齢でも人って、それぞれにおもしろいところがある。

同じ人でも年齢によって変わっていくものってあるし。

これは、とにかくセックスをやりたいという時期が過ぎたということだけではと思う。

3.そうして出来た恋人は実は恋人ではない

金や地位でひきつけた異性なんて、本当は俺の相手なんかしたくないわけで。言ったら恋人と言うより愛人でしょそんなの。

いやいや、愛人みたいな存在だった子を恋人に変えるゲームを楽しむんじゃないの?

こういう場合。

それはそれで楽しい

てか、徹底的に楽しもうとしないよね。元増田は。

10代の時にここまでシュミレートできる能力はすごい。

だけど、こういうのって相手の女性自分と同じ性格でやってることが多いんだよね。

大体において。特に若いと。

だから、詰んじゃう。

人の反応はここに書かれてるほど単純じゃない。

みんなお金は大好きだけど、お金の先に見てるものはそれぞれ違う。

てか、やっぱりこれって単なる「こじらせ」じゃね?っていうのが自分感想&結論。

2009-11-10

性について

さっき、巨峰巨乳と言ってしまった。別に巨乳好きとかじゃないのに。

別にこの話はどうでもいいんだけど…

自分は今のところ高校生童貞、多少女性恐怖症のような感じ。

それで、先日ふと思った。

俺もいつか童貞じゃなくなるのだろうか、そんなこと有り得るのだろうか…と。

頭の中で、性交渉をシュミレートする(童貞なりに)。

まず、人見知りで、劣等感がある自分が、好きな人に欲情したとして、

おもむろにキスをするとか、「僕とXXXしてください!」って言うなどの事象は、有り得ない。

つまりただひたすら待つしかない。なんて哀れな…まあしかしこれが俺だ。

そして俺がいつか誰かさん性交渉に及ぶ場合、当然服を脱ぐだろう。

それが嫌だ。

なんというか、全く、異性と対等な自分というのがイメージできない。

異性に劣等感を感じている。

そのせいで、恐らく、異性の裸体を目前にしたとき、

自分に嫌気が差して、冷めてしまう…ような気がしてならない。

実際は、うわ裸の女の子だウヒョーみたいになって、暴走するのかも知れないけど、

今なるべくリアリティをもってイメージしてみると、そんな気がしてしまう。

2009-03-24

http://anond.hatelabo.jp/20090324203228

あんたのやったことで、少なくとも係の人は自分のされてることが理不尽だって思えたろうから

悪いことじゃあないよ。バカに餌付けしたのはそうかもしれんけど。

次にそなえいて、バカのプライドぎっちょぎっちょんにできるいい方法がないか

シュミレートしておきなよ。自分もよくそういう光景を見てしまったり体験したりするけど、

若い頃よりはだいぶものを言えるようになったなあと思う。

でもそういうバカを見ると、心が寒くなってこっちがへこむんだよなあ。

結局ダメージ受けるのはこっちっていう。

2009-03-08

ちょっと考えてみた

ミクにしても、テクノにしても、打ち込みにしても、シンセサイザーすらも、否定するのかな?

歌うことだけが人間アイデンティティかな?

音楽は道具=楽器を通じて進化してきたし、メディアを使って一般化してきた。

でも、それはみんな人間が求めて作り上げたもの。

DTMだってもはや一昔前のテクノミュージックだけのものじゃない。

アコースティックの音と区別が出来ないほど、自然な音をシュミレートしてる。

ミクだって、シュミレーター。それはたまたま人間の声をシュミレーとしているだけって事。

音楽は自由でいいと思う。

アカペラの、人の声だけの歌も良い。

アコースティック楽器弾き語りも良い。

クラシック音楽も良い。

テクノもポップも自由自在。

どんな楽器を使ってどんな感情を表現するか、それが音楽

そこから何を受け取れるのか、聴き手の感受性を試すもの、それが音楽

作り手の感性と聴き手の感受性の化学反応、って事かな。

ということで、頭ごなしにミクを否定することの意味は無いと思う。

だからといって、人の声の持つ感情表現を否定するものでもない。

http://anond.hatelabo.jp/20090308190204

2008-10-14

http://anond.hatelabo.jp/20081014221604

元増田かもう振られちゃった増田か分からないけど、

自分限定でその状況をシュミレートすると…

痛いけどそれは言い出せないよね…。

相手だけ気持ちよくなってると、

ますます自分だけ一人ぼっちで置いてかれた気分になるもんだよ。

あと元じゃない増田も言ってるけど、愛してないから拒むとか禁句。

セックルの際に他にもいろいろやらかしてるはず。

触っただけで鳥肌って一体どんなことやらかしたんだか。

2008-06-13

http://anond.hatelabo.jp/20080613185147

訊かれた増田じゃないけど、見下すっつーか大きな壁を感じた事は最近あったな。

新人の言語研修を任されたんだけど

他の言語扱った経験があるというのに、変数の値の動きが頭の中でシュミレートできない様子を見て

駄目だこいつ、はやくなんとかしないと…って思ってしまった。

おそらくFizzBuzzでひいひい言うレベル

書き方がわからないのなら、そりゃ初めての言語だから当然なんだけど、論理的思考ができないのには参ったわ。

まあ、なんつーか便乗した愚痴だ。

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