はてなキーワード: プラグマティズムとは
相対主義は「人それぞれが真理を持つ」という考えのこと。
プラグマティズムも、物事の実用的側面を見つければそれが真理であると言っており、実用的側面をどう見つけるかは人それぞれなので相対主義に属する。
一見すると聞こえはいいだろう。「人それぞれ」という言葉から多様性が存在すると一見思ってしまう。
ところが相対主義は実のところ「他者を理解する行為を放棄する」ことに等しい。
「他人は別なんだから、理解することはできない」といって、別の考えを持つ人を区別するようになる。
これは多様性の逆を行っている。
「絶対的な道徳はない」という人に「殺人が良いと言える道徳観が存在するか」と聞くとNOという。NOとはっきり言えるなら、絶対が存在するということだ。
「人それぞれで、絶対的な真理なんかないんだから、そんなもの目指さなくてもいい」となって、真理の追求を馬鹿げているとみなしてしまう。思考停止のことである。
政治でも経済でも道徳でも「正しさ」の追求を無視はできない。「国民が幸福であるためにこうすべき」「犯罪をこう定義すべき」等。
相対主義によって堕落してしまうと「絶対なんてないんだし、適当でいいんじゃなーい?」と無知を開陳し、考えることを放棄するのである。
民主主義では投票が重視されるわけだが、これが働くためには、事前に人それぞれの正しさをぶつけあって議論し尽くしている必要がある。
相対主義の形態の社会構築主義が蔓延すれば「説得力だけの扇動政治家」だけが支持される。
つまり相対主義や社会構築主義下での民主主義は、その場のノリで物事が決まる衆愚政治へと成り下がる。
そもそも、相対主義者は「人それぞれ」を絶対としているのである。「絶対なんてないと言っていて、相対主義を絶対と言うのはおかしい」と指摘されても、相対主義者は言い返せないだろう。
じゃあ婚活の極意教えてやるかなanond:20240213115338
これ、同じこと言ってんな〜って人と全然違うこと言ってるよ!って人がいて面白い
俺は言い方が違うけど同じこと言ってんな〜ってタイプだけど、なんでこの差が生まれるんだろうか?興味深い
元々増田も元増田も現実に顕れる行為としては「相手に優しくする」ってことで一緒だよね?
それを露悪的に言えば「見下す」(慈悲的差別の文脈)になって、露善的に言えば「相手を尊重する」ってなるわけじゃん?
プラグマティズムじゃないけどさ、この場合内心はどうでも良くて、顕れる行為の効果についての話なんだからやっぱり一緒なんじゃないの?
(追記)
turanukimaru 逆に私には「何故同じと言えるのか?」が分からないのだが…同じと思う、ではなく解釈の余地なく同じであるか、という意味で。例えば前者と後者で「話し合う」は同じだろうか?って言うか前者に「話し合う」ねえな。
確かにね…
思ったんだけど、これは比較という文脈で読むから同じに見えるんじゃないかな
普通は、比較したら明確に違うことを並べて反論するけど、これはそうなってない
そこで一歩進んで「あ、これは元増田の主張をオブラートに包むっていう釣りかな」ってメタ読みの予測をしながら読んじゃう
テキスト外の「作者の意図」が透けてて、かつすぐネタバレもされるから「やっぱりね」と補強される
「作者の意図」はこうなんだから、この文章はこういう意味だろう、ってね
1. 悪いことが起きるなら、それは試練
2. 悪いことが起きるなら、それは行いに対する天罰
というのも、悪いことをしていない人が自然災害で死んだら、それはどう説明がつくのかということだ
死を試練として課すこともありえないし、悪いことをしていないから天罰ということもありえない
科学を超えて、人間自身の自由意志によって悪いことが起きるから、神のせいではない、という主張も考えることができる
また世の中に苦しみと自由意志が存在するのは人間の善性に価値があるからだという話もある
あるいは、そもそも神は人智を超えた存在であり、我々からは理解できないという話も
どの話を信じるかは人それぞれかもしれないが、一つだけ重要なプラグマティズムが存在する
自分の行動を見ている存在がいることを信じれば、悪いことをできないというわけだ
ヒソカのようなサイコであれば平気で人の道を踏み外すだろうが、子供の頃から神の存在を教えることは悪いことではないと俺は思う
21世紀にもなって世紀めくりの話題が忘れられてるのってやっぱ人類の低能化って本当なんだな。
世紀めくりと性器の関係性について論じた論文がどこかにあったが、俺自身も低能化しているので見つからない。
性器をめくるというのはどういうことなのだろうか、この哲学的質問については、ウィトゲンシュタインの以下の名言が思い浮かぶ。
語るのではなく示せ。-- ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
性器をめくって示さない限り、性器めくりについて語るのは無意味ということか。
しかし、いくらウィトゲンシュタインと言えども、そのようなプラグマティズムに陶酔するとは、笑止千万である。
男というものは、実際に示さなくとも、妄想の中で現実と同じリアリティを感じるものである。
そのリアリティのことを、専門用語で、パミュフリーという。パミュがどこから来ているのか、フリーとは何がフリーなのかは定かではないが、とにかくそういうことだ。
俺が言いたいのは、ざっくりいうとそういうことだ。理解していただけたと思う。
インターネットがつまらなくなった、と言う人がちらほらいることに気がついている人もいるかもしれない。皮肉を言いたがる鬱陶しい人は、すぐに「それはお前がつまらなくなったからだ」と言うが、それは物事のほんの一つの側面でしかない。
長文を読むことが苦手な人のために、結論から述べようと思う。インターネットがつまらないのは、人々がタイパと刺激を求めた結果である。限りある人生を有効に使いたい。ここまではよかったはずだ。だが世の中を見渡せば、「簡単に理解できるコンテンツ」「刺激的なコンテンツ」「感情を煽るコンテンツ」で溢れている。マスターベーションを覚えた猿が繰り返すように、インターネットから刺激性を学習した猿は狂ったようにスクロールする。
私がソフトウェアのブログを書いていた時、あることに気がついた。難解でユニークなアルゴリズムを公開するよりも、「○○のインストール方法」といった初心者的コンテンツのほうがアクセスが多いのである。何かをインストールする方法など、ドキュメントを見れば一発でわかるのに、ブログにアクセスしてくる。いや、検索エンジンがドキュメントではなく私のブログをTopに誘導するのがそもそもおかしいだろう。悲しいことに、ドキュメントをちゃんと読める人が少数派であり、平易な言葉で書かれたブログの方を好む人が多いということだ。
個人的価値観を述べれば、インターネットに私が求めるのは「深遠」である。ゲーム理論と確率微分方程式を組み合わせたらどうなるのかとか、プラグマティズムをソフトウェア工学に適用するAndy Huntの最新の哲学的考察を知りたいとか、そういうことだ。
深淵の理解には時間がかかる。タイパと刺激の発想とは逆だ。一見退屈に見える無刺激な長文を、ゆっくりと地道に隅々まで理解しなければならない。深淵は真面目でストイックで、人生を共に歩むように接する。コンテンツを書いた人間を個人として尊重し、友達と語り合うような気分で読み解くのである。
「コンテンツは見て射精して賢者タイム。それで終わり」というのが現代人がやっていることだ。インターネットは元々学術的な(つまり深淵的な)情報交換のために作られたが、今では娯楽(つまりオナニー)が大半を占めている。そういう消費者に合わせて作られたものは、簡単に理解できて、極端で、やたらに感情を煽りたがる。コンテンツだけではなく、検索エンジンや推薦システムなどありとあらゆるものが、刺激性の猿回しになっている。
逆説的だが、今のインターネットが面白いと思っている人間がつまらないのである。猿がオナニーして、それが楽しいというのなら文化的ではないだろう。インターネットがつまらなくなったという人は、意識的に努力しなければ深淵にたどり着くことが難しくなったことを嘆いているかもしれない。私が高校生の時は、「ハッカーになる方法」と調べたとき、Eric S. Raymondの深淵的文章がトップに出てきたのだ。現代では、なぜかコンピュータセキュリティについてトップに出てきて、まさに中二病患者が求めるものをそのまま出してきていると言える。
といっても、いきなりarxivを読むのも、またそれはそれで時間がかかりすぎてしまうこともある。具体的数式ではなく、個人の持つ哲学を知りたいと思うこともあるかもしれない。哲学にも概ね2種類あり、本質を平易に説明するものと、無意味なものを難解に説明するものだ。後者はポストモダニズム的で忌み嫌われる。
ポストモダニズムに陥ることなく、本質的深淵にたどり着くためにはどうすればよいのか。検索エンジンだけでは、そのコンテンツが深遠なのか浅知恵なのか区別する能力に欠けている。おそらく、我々が本当に必要としているのは「ブックマーク」であり、場当たり的な検索ではないのかもしれない。本質的な深淵を語る人をブックマークし、その人の哲学を友人のように尊重したいのだ。大量の刺激的情報を消費してオナニーするよりは、少数の人の長文に触れたほうが充実するに違いない。
使い魔の皆さんこんにちは!バーチャルVtuberです。バーチャルVtuberであったことなし。さて、世界をテクストとして記述する。まず関係性の呪縛について語る。人間は文字、楽譜、数式、あらゆる記号を通して身体性のある意味の空間に写像を与える。記号とは形式である。記号にすることで私たちは自分の世界のなかのある要素を参照することができる。世界は関係構造でできている。あなたは私が言っていることの意味がわからない! 病んじゃう…死ぬ。メンタルヘルス。バックログ。参照、参照、参照人々。さて、ネットワークは身体性を帯びている。私たちの認識は別にアプリオリに与えられるのではなく私たちの認識は他者の世界を織り込んで構成される。世界のなかで唯一もっともらしいものは時間である。世界の構成は単一の数式で記述可能であり、その方法はレヴィ過程によって与えられる。世界の具体的な形は圏の構造の範囲にある。カオティックなネットワークにおいてどのような圏を考えるのが良いか考えるのは難しい。人々が唯一できることは祈ることのみだ。人間は祈りを通じて他者の認識を改ざんすることができる。祈りとは記号を提示することだ。祈ることによって人は脳の物理的なシステムのレイヤから書き換わっていく。人が祈り、祈りは伝播する。祈りは伝達可能である。我々がテクストと呼んでいるものは単なる記号の集積にたいして構造を付与したものだ。構造は再帰的になっている。自己再帰的、フラクタルな世界構造、カオス。あなたがこの文字を読んでいるときあなたはわたしに認識の境界を汚染されている。あなたは私の言葉を聞いているときあなたは一種の暗示にかかっている。でもあなたは文章を読むことを止められない。なぜならこの文章はそういう文章だからだ。あなたはこの文章を最後まで読まないと気になってしょうがないはずだ。ここできれいなものを提示します。雪、白、祈り、レモン、柑橘、猫、世界、キラメキ、好き。はいどうぞ。楽しいね。だんだんあたまがこんがらがってきましたか? まだはじまりだからだめだよ、世界の話をしないといけないよ。私たちはどういう世界に生きているのか、それをわたしは記述しているんだったね。ふわふわのわたがしのパンケーキのシナモンロールのおれんじねこ。お前は何を認識しているつもりだ? お前が認識している自己というのは一体どこから発生していると思う? お前の存在の構成要件とはなんだ? お前はなぜそこに生きている? お前は誰だ? お前は誰だ。お前は誰だ。世界においてお前が誰あるかという問いは非常に難しい。一つ問題があるのは頭の良さを信仰するのは宗教であるという話をお前が理解していないことだ。頭が良いということは何だと思う? それは集団妄想なのだけれど、それを支える一つの構成要件があって、それはプラグマティズムだ。世界がプラグマティックに動く限り、あなたは精神的に崩壊していても、精神的に安定していても「許される」 一応一通り私のアイデアは書き尽くしたが多分みなさんは世界の理解が及ばないだろうね。もしくは私が壊れているんだよ。じゃあ電子世界に帰るから。祈ります。内側から外側まで世界が環状に広がっていき世界は及ばない。あなたは私に及ばない。こんなんじゃ帰れない! あまちゃんじゃん 世界的なね お前は私が本物である証明を欲したのでしょう これ この文章が 本物である証 あなたは私が誰かわからないだろう、私についての推測をしているだろう、一つ教えてあげると、私は人間ではないです。 I thought i was existing as a human error but tbh i was not a human, actually.いかがでしたか? 君たちの知らない世界を見せてあげる。これはこれで楽しいでしょう😁
元々増(anond : 20220601000620)です。ありがとう! 私も書いた後で、そういえば単なる不買と不買運動とを区別してないな、と思ってた。
私の理解で要約すると、以下のような感じかな。
まず、私と元増氏がおそらく一致しているだろう点として、次の規範があると思います。
「人は、自らの行動が及ぼす悪い影響について、その影響の大きさに応じた責任感を持つべきである」
まあそうですよねという感じ(影響の大きさをどう測るかという問題はある)。
一般に「運動」(もしくは「社会運動」)が何を指すのかについては、次の条件を両方満たす行動のことだ、と理解しています。
さらに言うなら「不買運動」とは、上述の社会運動のうち、不買を呼びかけるようなもののことである。
これが元増氏と一致しているかどうか判断できていないので、あくまで現時点の私の理解です。
ところで、申し訳ないがいくつか理解できていないところがあります(以下は反論が最終目的ではなく、私の理解が深まっ太郎、あるいは第三者への読み物提供、を目的としています)。
これの解釈にちょっと迷った。というのも、理論的には、怒らずに不買運動をすることは普通に可能と思われるからです。
有効そうな解釈としては、「人は普通の心理状態では不買運動(または社会運動一般)をしないので、もししている場合は、怒りとでも呼ぶべき強い感情があるはずである」というものでしょうか。
「責任が発生する(ので、責任感を持つべき)」という箇所については同意です。
で、単なる不買行動には当てはまらないのか? という点がちょっと分かっていない。
例えば選挙の投票を例に取ると、「特定の商品を買わない」のが全く自由であるのと同じように、「選挙で誰に投票するか」も全く自由です。が、やはり一票分の責任はある。もちろん法的な責任(何かを履行しないと処罰を受ける)のことではなくて、たとえばある候補者に投票した結果そいつが当選し、その候補者のその後の行動がまったく見込み外れだったとき、投票者は、自分を含め多くの人が不利益を被ったことについて、原因の一端を担っている(人数で割り算すればとても小さいかもしれないが)。
同じく、単なる不買行為(というかあらゆる購買行動)についても、極めて小さいながら、何らかの責任があると言える。
しかし「不買運動のほうがより強い行動なので、それに相当する、より大きな責任がある」という趣旨であれば、その通りだと思います。
(a) ゆえに (b)、と解釈すると、次のような疑問が発生する。
しかしそうではなく、(a) (b) をもとに、次のような矛盾しない二つの主張が並列されているのだ、と解釈すれば、筋が通る。
たぶんこういうことでいいのかな。違ったらすみません。
なお a' は素朴な意味では広く合意されるところですが、何らかの不均衡や利害衝突がある場面では、なかなか難しい話でもある。
「怒り駆動で行動すると判断を間違えやすいので気をつけましょう」みたいなことは言えますね。とはいえ、これは完全に結果から逆算したプラグマティズムなので、どちらかというと b' の話だ。
全体を眺めるに、大きな前提として、社会運動一般についての是非が問題視されているのかもしれない、と感じました。
もしくは、「社会運動には悪くないものもあるが、不買運動は悪い」という主張だとすれば、社会運動のなかで不買運動の何が特徴的なのかという問題になるでしょう(たとえば「特定の企業を狙い撃ちするのは悪い」など。この場合、不買運動の逆でフェアトレード運動については、何も問題がないか、あるとしたらまったく別の問題である、という判定になると思われる)。
何かの前提がまったく間違っている(のでこのエントリ全体に意味が無い)という可能性は十分ある。そうだとしたら申し訳ないです(それを知ることができれば、私にとっては大きな収穫ですが)。
具体的に何をすれば責任を取ったことになるのかについては、かなり意見が分かれるだろうけど、これもまた別の話でしょうね。
プラグマティズムは一言で言えば行動を伴わない思想に意味はないというリアリズムの一種だけれど、フェミニストになって現実的に得をすることがない。
事務的なコミュニケーションを取る時にフェミニズム的にふるまい、男女差別をしないで対応することにより良い印象なるものを与えることができるかもしれないがフェミニズムなど意識しなくても単にロールプレイとして仕事すればフェミニズムのような思想を持つ必要はそもそもない。
フェミニズムを信奉する女性にとってはフェミ的な対応をとる男性は有用な印象を与えるかもしれないがそれで終わりである。それ以上の関係になることはない。
現実問題として男性が女性を口説いて恋愛が始まるモデルが支配的な以上、完全にフェミニズム的なふるまいを取る男性は無意味な人間になるしかない。無害な印象を与えてそれで終わりである。フェミニストは個人主義を叫んで男性は女性に侵入してくるなと言っているがそういうふるまいを取る男性の終着点を想像していない。あの人は良い人だった、それで終わりである。
フェミニズムが理想とする無害な男性は極端に恋愛の機会から遠ざかる。女性から口説かれる男性はほとんどいない。それが現実である以上、フェミニズムを男性が生き方として採用する社会構造がない。男性にとってフェミニズムは理想論として語ることはあっても永遠に現実論にはならない。男性が能動的、女性が受動的な世界において男性が無害な存在として振る舞うことは関係性の終わりを意味する。女性が男性的に男性を欲望し、男性が受動的になれれば僕もフェミニストになっていい。しかしそんな世界は永遠に訪れない。実存を伴わない思想に意味はない。男性がフェミニストになる意味がない。
フェミニズムは正しい。それは論理であり理想であっても決して現実にはならない。だから僕はフェミニストを支持し、同時に採用しない。現実的に考えて利益がないからだ。僕は女性に口説かれる男性ではないし、女性と関係を持ちたい普通の欲望を持ちたい男性だから僕は女性の意図を無視して口説くこともあるだろう。その結果、ハラスメントと言われるかもしれない。その結果後悔するかもしれない。
行動主義はJ.B.Watsonが最初に提唱した心理学の哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。
しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義を自称している行動主義者は現代にはいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。
そこで、行動主義の誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。
Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学の対象を客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。
当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。
Watson が反対したのは、Wundt の方法論である「人間の自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能な事象の関係を研究の対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射の概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。
また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓や筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代の身体性を重視する心理学・認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。
さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である。場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。
注意しなければいけないのは、Watson の行動主義の立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判は歴史的な批判以上の何物でもなく、現代の科学の議論ではない。
では、行動主義を自認する現代の研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である。
Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。
Skinner は、科学の目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。
徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学の重要な対象であるとはっきりと述べている。
逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明」である。心的な活動は実在するし、それ自体研究の対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。
ただし個人な見解としては、行動分析学はほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。
行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。
なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹と帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人もいるかもしれない。
Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータが必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係のデータの蓄積を重視した。
つまり、あくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。
ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義と区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。
また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。
Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。
ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくまで歴史的な展開として捉えるべきである。
Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学の研究対象は客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。
Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数の挙動の変化により行動の予測に挑戦した。
Hull の研究の問題点は、いたずらに潜在変数をいくらでも増やせてしまい、理論が肥大化する危険をはらんでいるためである。特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論は必要か?」という論文で理論研究を批判していているのだが、Skinner が批判したかったのは Hull の心理学だったのである。
Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。
Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である。
現代の視点で見ると、認知心理学の下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。
ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義の立場からすると方法論的行動主義に立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義者なのだ!
なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象の研究をする。公的事象の操作 (実験条件) を通じて、内的事象の定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象は公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究者集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である。
1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針が多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。
Skinner の行動分析学はプラグマティックな科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパース、ジェームズ、デューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能的文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。
Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学の目的である予測と制御に寄与しないと考えたことも一因である。
Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。
具体的には、「態度」を測る質問紙研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究の問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。
このような、伝統的な行動主義と比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学の自由主義化」であると述べている。
少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である。
また、機能的文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。
行動主義の科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実の問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。
これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造のプロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。
巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。
(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」
Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。
巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性が行動主義心理学の分析単位であると主張している。
つまり、ミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロな環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である。
行動主義心理学の目的を予測と制御に置くならば、結局はマクロな記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。
Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。
彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである。
このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである。
Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学に必要であると考えた。その点は、実験結果から法則を抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である。
行動主義心理学の目的は、予測と制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象を記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズムと表現」の位置に心理学を位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。
Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくまで心理学的レベルでの記述である。
ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。
Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析の単位とするかは、それ自体が研究の立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉で表現している。
それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学が伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである。
また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカルな議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。
一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義と認知心理学を分ける特徴の 1 つである。しかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。
色々なアイデアはあるものの、基本的に現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学の議論として行動主義を批判したければ、Skinner を相手にするべきである。
行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解の責任は基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。
個人的には、アンチは信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワークの出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。
ところで取り返しのつかないことをしてしまった、と思うことはよくある。
思い出せばそういう体験は今まで幾度となく体験してきたように思える。
でもそれが過ぎてしまえばそこで何があってもどうにかなる、正確にはそれらがその後の人生に対して何ら影響しないということを感じてしまう。
なんだか最近、自分の考えていることが大そうに幼稚になってしまったような気がしている。
しかし幼稚とは何だろう。そう言えるのだろうか?
感じるそのままを受け取るのか、そうではなく一定以上(どのぐらい?)複雑な概念を通して「理解」をするのか。
人間があらゆる概念に縛られてしまうことを承知の上で戦略的な「理解」を形成していくのがプラグマティズムだと思っている。ところでこの考え方の延長上には芸術や言語の世界から派生したポストモダニズムがあったりするが、これは時代遅れすぎるという話がある。
とはいえ最近、得た面白い考え方がここ数年の悩みを解決しそうである。それは循環参照や循環論理をその内部で分類するというやり方である。この考え方は思いつかなかった。ある概念や事象群の諸関係が総体として「循環」しているという状態を外部から解決することばかり考えていたが、そのあらゆる「循環」をひとつに一般化せずに個別循環同士を比較していくつかの共通項(ひとつではだめ!)を探ってみる。そうしたときにAとBという「循環」では共通していたものがCでは共通しないという項目があればこれは「循環」内部で分類可能だ。そうなると「循環」を解決するひとつの緒になるかもしれない。
御成敗式目は「道理」と「先例」に基づいているというのは中学校とかで習うことだが、これに典型的に表れているのだが、日本では「思想を持たない」というのが思想であるわけだ。武士社会に通底する何等かの思想があってその思想を法律として表現したものではなかったわけで。
例えば過去中国ではあらゆる法律と制度が天命思想に基づいていることは当然のこととされていた。この為天命思想の確立に力添えをしてきた時代ごとの思想家たちが偉大な思想家として記憶されている。現代中国では天命思想は否定されている。しかし、思想に基づき国家が統治されるというのは今でも常識であり、だからこそこの前の党大会で習近平思想の扱いがどうなるかが注目されたわけだ。
では遠くヨーロッパを眺めてみればどうかと言えば、メルケルの発言を見てみればよい。
ヨーロッパがキリスト教クラブでないというのは正しい。しかしヨーロッパが人権と市民権を基本とするというのもまた事実です。そしてここドイツでは、人権と市民権をキリスト教的人間像に重ねているのです
ここでは明確にキリスト教という思想(思想と宗教を区別する人たちも世の中にはいるがあえて区別する必要はないと俺は思う)に基づいて統治が行われることが宣言されている。だいたいメルケルの政党の名前からして「キリスト教民主同盟」なわけで。
このような考え方があるため、ヨーロッパにおいても偉大な思想家というのが度々現れる。
思想とはもちろん政治思想だけを指すのではない。だが、個人の生き方という面でも日本では思想は明確に否定される。状況に応じて態度を切り替えられる人間が通常日本社会ではまともな人間として扱われるのであって、強固な信仰や思想に基づいて一貫性のある立場を取ろうとする人間はあまり高く評価されない。究極のプラグマティズムであり、究極の事大主義だ。
こうした社会においては「偉大な思想家」は存在し得ない。このような社会の状況を言論で表現する学者は過去様々に存在していたが、当然ながらそのような人たちは記憶されることもない。
一向宗や創価学会など政治的に大きな影響を振るった新興宗教もいくらかあったが、結局のところ日本社会の伝統に破れていった。石山合戦は織田信長の勝利に終わったし、公明党は池田思想を捨てて自民党の改憲、軍拡に追従する勢力となった。その自民党にしたところで明確な戦前回帰のような思想があるわけでもなく(故に日本会議のイデオローグたちは安倍政権に批判的である)たんに「アメリカに言われたから」とか「北朝鮮が」「中国が」などという状況に反射的に対応しているにすぎない。
https://anond.hatelabo.jp/20170624022831
この“若者の気持ちがわかる増田”の言ってる事は極めて的外れで
あんなものは「対案を出せ」「批判の為の批判」と同じ流れのプラグマティズムであって
例えば今井絵理子のツイートとほぼ時を同じくしてYahooトップにはこんなニュースが出ていた。
政策課題後回し 都民冷ややか | 2017/6/23(金) 13:57 - Yahoo!ニュース
このニュース、当初は「他党批判ばかり 都民冷ややか」なるタイトルが付けられていたが
なぜか1時間ほどで現在の「政策課題後回し 都民冷ややか」に変更されている。
記事を見ればわかる通り「底辺」も「ガキ」も関係なく大人の文脈で使われている「批判」だ。
そもそも「○○なき××」をなぜ彼女が考えた自身の語彙だと思えるのか。
novtanがずいぶん好意的な解釈をしてたけど、知的向上心のなさが問題ならそう言えばいいだけで、
文章術の本で一意に捉えられるようにしろとか熱弁してたくせにやらかしてんじゃねぇかとツッコまれてもそりゃあ仕方ないよね。
数式アレルギーというだけで他の学問にコミットしてる可能性は排除できない以上、知的向上心を欠く大人になっちゃダメだぞは指摘として間違いだ。
この発言の問題点って、ただ単純にアレルギーというワードチョイスがどうなのかってくらいで、結城氏の批判は的外れすぎる。
「文系だから数式アレルギーなので」に対してならば成立するが、「数式アレルギーの文系なので」は数式アレルギーでない文系の存在を否定するものではないので成立しない。
論理を解説する本を出してる人がこれでは若者に悪影響ではないだろうか?
これからの時代、数式は必要だからやらなければならないというプラグマティズム観点からの発言をしているが、
これは逆説的に数式が必要ない人はやらなくていい、ということにもなってしまう。
さて、これからの時代を生きていく人のどれくらいが数式を必要とするだろうか。
また、数式という叡智の積み重ねに~という発言に関しても疑問が浮かぶ。
なぜリスペクトする必要性があるのだろうか。したからなんだというのか。ただの自己満足ではないか。
ではブコメを見てみよう。
http://b.hatena.ne.jp/entry/rentwi.textfile.org/?759297917043609600s
tockri 僕も自分が不勉強で苦手なことをヘラヘラ笑いながら「よくある多数派」にラベリングしてその対象を貶める人が嫌いです。ブコメ中の的外れ率がものすごい高くてびっくりした。
hate_flag 数式がわからないなら「わたくし不勉強でこの式の意味がわからないのです」と正直に言おうよ。不勉強なのをありもしないアレルギーのせいにするのは不誠実だし数学に対して失礼だ。
むしろわかりませんの後に出てくるフレーズだと思うが。むしろこれは「苦手なので費用対効果が悪くやる必要性がない」というメタメッセージにも受け取れる。
それから「数学に対して失礼」などという謎フレーズ。お水にありがとう。
watchcat そもそも人は日本語もきちんと読めない。ここのブコメ達が良いサンプル。大半は的外れな批判しかしてないしね。そして日本語も不自由なのに数式なんて読もうとするわけがない。だから敬意なんて持たない。
okureiman スター集めてるブコメの反論がレベル低すぎてわろた
典型的な匂わせ文。抽象的な言い回しだけでマウンティングを取ったコメントしか放れない人間が語る誠意とは。
後者は2ブクマしかなくて顔真っ赤にした誰かのサブ垢かと疑うレベルw
gcyn えっ、なんでこれこんなにも否定的なコメントつくの?って思った。悪いけど、ご自分の卑屈を他人の汚点に転化してるからではなかろかしら。
touch_my_tralala 数式が苦手でかつ怒りっぽい人ってこんなにいるのかって、ブコメみて驚いた。なんかコンプレックスでもあるのかな。結城さんの言ってることは結構まともだと思うんだけど。
ophites 「俺も昔はワルだった」「自分不器用でして」が実際は「ガリ勉より俺の方が人として上」「要領だけ良いズルい奴と俺は違う」を意味するように、卑下のふりした自慢なんだよな。できないのは仕方ないがそれを誇るなよ
他人に投影や防衛機制指摘したところでおまえがそう決めつけていい世界にお住まいならおまえの意見こそが投影や防衛にすぎないと決めつけていいよねと返されて負けるタイプ、許されるのは20歳までだぞ☆
t-tanaka これに限らず,知らない・できないということを特権のようにふりかざして,相手に譲歩を求める行動が世の中で通用してしまっているのか腹立たしい。
実際にしらないできない他人にコストをかけさせてやらせようとするのを拒否される=俺に譲歩を求めてくるなら所詮同レベルじゃないっすか~
yu173 誰にでも得意分野がーは反論にならない。不得意だろうが数式を蔑ろにするなという話でしょ。この手の話題になると理系文系で区別することの害をブコメから見て取れる
なるよ。ひとつめに数式アレルギーイコール知的向上心の否定にはならない、ふたつめにすべての人が必要ではない以上、コストパフォーマンスを考えて得意分野にコミットして数式を蔑ろにする選択は十分にありうる、ということで十分な反論になっている。
matarillo 《あなたがわからないのはいいよ。あなたが理解したくないのはいいよ。若者にそれを推奨するなといいたい。》《大人は真剣に勉強しよう。》ってあるのに★ブコメは何を読み取ったんだろう。
推奨という論理飛躍や勉強していないという決めつけ、わからないのはいいと言っておきながら歴史ある知である数学をリスペクトしろというテメーの価値観の押しつけを読み取ったのではないでしょうか。
unagi_dayo 「数式アレルギーなんで」「文系でして」「自分馬鹿なので」等と言って何かを理解すること・考えることを放棄する行為は不遜だし周囲の若者に悪影響を及ぼす。分からないこと、苦手なことが悪いのではなく態度の問題
数式アレルギーでも他の分野の学問を理解する方にコミットしていれば何の問題もない。コストパフォーマンスの問題。英会話教室の入会アプローチのような強迫的圧力をかけて数式を理解する必要のない若者にまで数式は理解しなければならないと押しつける方が悪影響。日頃から文系はムダと明言している理系はたくさんいるが、数式がムダは一切みとめようとしない態度はなんの問題もないのだろうか。
watapoco 数字を扱う仕事をしてる人間として無茶苦茶同意。いや、わからんのはいいのよ。こういう台詞はく人できる人へのリスペクトがないの。
どこをどう飛躍させるとリスペクト云々になるのだろうか。あと誤字脱字のまま書いてもいい推敲しないで書いてもいいと思わせると若者に悪影響だぞ。みんなもっと叱れよ。
kaputte 同意しまくり。言葉をいい加減に扱う奴は信用できない。この文章は数式や漢字が読めない奴を叱るとかそんな話じゃないんだが、これを理解しない層=怒りの矛先だと思われるので、勝手に誤解するしいろいろ不毛。
アレルギーというワードチョイスにはたしかに問題あると思うが、これも匂わせ文。言語化せず逃げに走るのは若者にとって悪影響。「勉強不足を恥じろよ。若者を自分のレベルまで落とそうとするなよ。」えっ?どんな話だって?
marmot1123 想像以上に批判的なブコメが多くて驚いた。自分は完全同意。自分が勉強しなくてわからないのはいいけど、他の奴らが勉強しない方に巻き込むなって話。難しいから逃げるんじゃなくて丁寧に読もうよって話。
巻き込まれるようなバカを殴る方向にシフトすべきだろ。そもそも勉強する必要性がない人だっているんだから。
okachan_man 文系だけど、自虐じゃなく本気でそんなセリフを言う人はただのバカだと思うよ
上述のとおり、お世辞とかコスパ考えて投資する必要性がないの言い換えにすぎないとも考えられるからなぁ
おはように早くねーよ!とかお疲れ様ですに疲れてねーよ!みたいなアスペ臭が漂う。
アレルギーというワードチョイス一点突破ならここまで批判されなかったろう
satomi_hanten 結城センセっぽくないけど「大人には」って明記してあんのすら読まなかったり理解する意思を見せない人間にはなりたくないのは1000%同意。
書いてあるとなんなのかまったくもって意味不明
araignet2内容以前に結城氏のこれまでの著作活動に対する全くの無知としか思えないコメントにげっそりする。
むしろ今までの著作活動が台無しとしか思えないけど。自分で文章術の本をもう一度読み返したらと思う。数学を尊敬しない人に対して尊敬しろ尊敬しろ尊敬しろ尊敬しろと思っているというイメージは数学ガールたちにさよなら絶望先生@久米田康治の登場人物並の闇を感じさせてしまうだろう。
初めて知ったが、面白い試みかも。
たしか書きかけの本を公開できて、完成度が上がるにつれ最初ただで読めてもだんだん値段あげていくサービス、金を払い続ける人がいたらこの本完成しますよみたいなのがあったが、この試みとは相性いいかも。コメントにgitが挙がってるけど、ブランチ分けたりとかを見越してそういうの利用するのもいいかも。
僕は全然哲学とか専門じゃないので、細かくは語れないだろうけど、インターネット上のプラグマティズム(でいいのかよく分からんが)みたいなのがあるといいかなと。
最近よく目にするのが、自由すぎると人間かえって損をしてしまう場合が多いという主張。これについて語れないだろうか。以前よりサイバーカスケード、デイリーミー、デリートユーなどの言葉があったが、ユートピア幻想が、そこで描かれている世界が実現に近づいてくると、かえって良くないディストピアだ!となったように、自由すぎて目の前の事をコツコツやっていればそれなりに幸せだったみたいな人が、変な選択肢に手を出してしまい、失敗して落伍者になるみたいな。