はてなキーワード: アジャストとは
禁呪や死者の宮殿でC.H.A.R.I.O.Tでアイテム集めをしたのもあってプレイ時間はゲームの記録で7日と18時間(186時間)ぐらいだった。
前評判で色々出てきてたけど、楽しめたとは思う。レベルキャップはあんまり面白くはないと思う。バフカは気にならなかった。
寄り道(死者の宮殿)が長すぎてストーリーあんまり覚えてないけど、Cルートは王道って感じだった。
難易度は3章あたりから厳しくなってきた。難易度設定に余裕があんまり無いような印象。
その他
カーテンコールやW.O.R.L.Dでの他ルートは一旦保留するつもり。
走らない飛ばない。
走るにしても、ボールを取りに走るか、塁間を走るか、決まった方向に走るだけ。
コンタクト(体のぶつかり合い)もほぼなし。
投手もダラダラと何十秒もかけて一球投げる。
相手の戦術に対する試合中のアジャストのような戦術の応酬なんてあるわけない。
そのため、チームプレーや呼吸を合わせたプレーなんて、滅多にない。
息を合わせるプレーなんて、二遊間みたいな内野の守備のやりとりくらい。
選手がベンチにいる時間も長いので、ベンチのたびに配球をコーチ陣と相談したり、熟考する時間だってある。
試合中に選手がじっくりタブレットやノーパソみて考える時間があるから、瞬時的な判断能力なんて不要。
こんな風に思ってるやつが野球なんて見るわけないので、詳しくは知らないが。
さらに、筋トレ技術が普及・発達して投球スピードが上がったら、肘を壊す投手多発。
試合時間も長く、夏場に育成年代がやるには熱中症の危険も高い。
育成年代の保護者からしても、投手と捕手以外の選手が関与する時間が極めて乏しく見ごたえがない。
親の洗濯の手間も多そう。
現地野球観戦は何を見るんだ?
一部の観客席以外、一番重要な配球等のやりとり見えないだろ。
サッカーなら、戦術や連携として、ボールのないところの動きが重要になるが。
観るにしても、自分でやるにしても、親がさせるにしても何が面白いのかさっぱり分からん。
これまでやってきた奴が競技引退後も観戦を楽しむ気持ちはまだわかる。
「トリセツ」は結婚生活が始まる前の「女の子の気持ち」を歌詞で表現しています。
また「トリセツ」は女子が思い描く「結婚願望」「理想とする結婚」の一端を表現した世界であり実際の結婚とは何ら関係がないものと思われます。
大きな意味での結婚願望においては「女の子の気持ち」というフィクションを構築することが出来ます。
しかしながら実際の結婚生活という「現実・リアル」が始まってから以後には「女の子の気持ち」は現実にアジャストするにために消えて無くなってしまうのです。
そのような理由から、徹底的なリサーチによる「女の子の気持ち」を代弁した結婚後の世界を西野カナの手法では表現することは出来ません。
会話を得意だと思ったことがない。
いわゆる陽キャの人々と話すとどこか気を張ってしまい、オタクと話すとほとんどの時間を聞き役に回って終わる。会議の後には自分がちゃんと役に立てたかいつも心配になるし、気が休まるのは数少ない友人と何も考えずぽつぽつと話をしている時ぐらいだ。
しかしこうして見ると、ひとくちに「会話がうまくない」といっても相手や場面によって苦労の種類が全く違う気がする。この違いはなぜ生まれるのか、自分はなぜアジャストに苦労するのかを考えて、この間ある結論に辿りついた。
つまり会話とは、用いる言語こそ同じだが「潜在的に何のゲームをやっているか」が相手や場面によって異なる競技なのだ。
たとえば陽キャの者たちにおける会話は「協力系音ゲー」である。ポップンのボタンをひとりひとつずつ割り当てられて、然るべきタイミングで定型の音を出すことが求められる。ゴールはひとつの曲を上手に演奏しきって連帯感を高めることだ。
だから一人一人のセリフが短めで、話す内容そのものよりもテンポやタイミングの妙が重視される。下手に中身を凝ろうとして落ちてきたノーツをうまく処理できないと場が冷めてしまうので、「会話の流れ」という譜面を常に読んで反射的に音を出せるようにしておく必要がある。
それから、オタクの一部は会話を「格ゲー」だと思っている。ウケたい、あるいは凄いと思われたい、好きなものを語りたい、という動機のもとに彼らはイニシアチブを奪い合う。自虐でも自慢でもオタク語りでも、相手のコンボが途切れたフレームに自分の攻撃を差し込んで、なるべく派手にゲージを削れるコンボを繋げていく。
学生時代の知り合いに「中学のころ国語教師の漢字の誤りを指摘した」というひとつのエピソードを「中学といえば」「漢字といえば」と事あるごとに繰り返すオタクがいて不思議だった。しかし今思えば、あれは彼の超必コマンドだったのだと思う。彼にとってこのエピソードがダメージ効率のいい大技だったから、何度擦った話題だとしても発動条件が揃い次第コマンドを入力せずにはいられなかったのだろう。
それで言うと、会議は「脱出ゲーム」や「探索ゲーム」に毛色が近い。結論という出口に向かい、各々の持っているアイテムやその使い方を話し合う。
既存のアイテムの組み合わせから新しいアイテムが生まれることもあるため、目ぼしいアイテムの持ち合わせがない状態で参加した場合も「今持っているアイテムは何か」「次に解かなければならないギミックは何か」を整理するだけで案外役に立てたりする。ただ、出口が実は存在しなかったり、自分の思っている出口が周りと食い違っていたりすると地獄である。
最後に、自分が最も心地いいと思っている友人との会話はおそらく「落ちものパズルゲー」のようなものなのだと思う。
大きな流れはなく、ただ目の前に落ちてきたパーツの置き場所を考える。そこには敵もゴールもなく、ほどよいお題と小さなカタルシスだけが連なっていく。だからこそいつまでも続けることができて、続けるだけ心が休まる。きっと自分には一番合っているゲームなのだろう。
そうやって考えると、自分にとって陽キャたちの音ゲーは常に大きな流れを追う必要があるので気を張るし、隙や必殺技の概念がないからオタク相手では聞き役に回るしかない。そしてゴールという存在に不慣れだから、会議で緊張してしまう。自分が会話に感じる苦労は、きっとゲーム性の違いに適応する苦労なのだ。
そして、ゲーム性を合わせる努力は自分に限らずどんな人間にも必要である。陽キャの音ゲー空間でオタクが長尺超必コマンドを打てば「オタクくんは何をそんなに喋ってるの……?」となるだろうし、陽キャだってシリアスな会議に呼ばれればタイミングのいい相槌だけで切り抜けられない場面もあるだろう。よほどのマルチプレイヤーでない限り、きっとみんな多かれ少なかれ自分と同じ苦悩を抱えているのだ。
だとすれば、自分にも多少は手の打ちようがある気がする。たとえ苦手なゲームと向き合わなければならない時が来ても、周りが熟練者ばかりだとは限らないことを知っているだけで幾分かは気が楽だ。初心者には初心者の立ち回りがある。音ゲーではまず音楽に慣れることだけを考えよう。格ゲーではもう「何も技を打てなかった」ではなく「勝ちを譲って楽しい勝負ができた」と思うことにしよう。脱出ゲーは誰かが必ずゴールを知っていると仮定して、その人の役に立てそうなアイテムを探してみよう。それでも疲れたら友達と落ちものパズルゲーをしよう。
よっぽどのことがない限り自分が「うまく会話できたな」と思う日は来ない気がするけれど、これで「やれることはやったな」と思える日が少しは増える気がする。
MCUがいよいよもって危機に瀕している。最新作、マーベルの興行収入はズタボロだ。
製作費2億7000万ドルと言われ、リクープ可能なラインを表す2.5倍の法則を適用すると資金を回収するのに6億ドル近くの興行収入を稼がねばならない。
MCUが凋落するにつれ、ついにスーパーヒーロー映画コミュニティが行ってきたプロパガンダが暴かれるかもしれない。
MCUは日本のTwitterなどでも見られるようにリベラルで国外の文化に親和性があるような人が取り上げムーブメントを作り上げてきた。
その中で彼らはMCUは"女性の活躍が見られる"や"ダイバーシティが..."と言った言説でMCUへ観客を誘致してきたわけだが実際にはマーベルはそれらの作品群とは真逆の客層に対して物を売っていた。
マーベルの読者が別に保守主義者にモノを売っていたというつもりはない。
実際にはDCの方が傾向で言えば保守主義的な人々にモノを売っていたし、スタン・リーを筆頭にどちらかというとリベラルで左派的な価値観の作品群を従来から押し出していた。
しかし重要なのはそれらの作品は女性ではなく男性にモノを売っていたと言う事だ。
つまり基本的にスーパーヒーロー物のアメコミはboyが主要客層だったし、女性作家が増えたとはいえマーベルコミックは今でもそうだ。
そういった作品群の中であまりにも男性メインすぎたので女性を主体としたキャラクターを開発してきたという歴史がある。
これはつまり週刊少年ジャンプがあくまで男の子をマーケティングターゲットにしてきたが、現実の読者を精緻に分析することで、それに合わせて徐々に女性キャラクターの造形が変化していったに過ぎない。
しかし、MCUはそのバックグラウンドを奇妙に偽装してきた。一部のMCU作品は女性キャラが主体となった女性主導の女性向け映画だというように喧伝してきた。
しかし実態は男性向けの作品を無理やり女性向けにアジャストしたに過ぎない。
スーパーヒーロー映画は映画館のスクリーンをあまりにも独占しすぎるため、女性向け映画がまるで上映できず、むしろ2000年代後半からアメリカの映画館はどんどん男の向けになっていった。
そういった文脈知らない日本人向けに、こんなに立派な女性向けヒーロー物があるぞと日本の一部スーパーヒーローファンは喧伝してきたがその化けの皮がついに剝がれる時が来た。
実態としては日本の映画館でのヒーロー物は男性によく見られていたのだがアメコミクラスタはなぜか女性にも人気があるかのような言説を押し出していた。
実際には女性キャラが主導する作品でも男性の方が良く見ていたのだ。いくつかの記事ではよく見ると女性スーパーヒーロー映画の男女比が男性の方が多いと書いてあるにもかかわらず、女性の観客が多いと勘違いしている人を見た。
しかし、これはシンゴジラが女性にも人気があるなどとうそぶくようなものだ。もちろんシンゴジラを好む女性はいるが圧倒的少数派だ。
これは、そういった実情に対して苦悩している女性に対して"実際にシンゴジラは女性に人気だ!お前もそう言え!"と強制しているようなものだ。
今の母体のままでそんなスピードで成長したら間違いなく子宮も腹も成長スピードに耐えかねて爆発四散すると思うし、その成長分のカロリーを摂取する必要があり今度は胃が爆発四散すると思うが、そこはそういう生き物としてアジャストしたとする。
約10カ月かかる胎児期間を1か月で終わらせるのだから、成長速度は10倍ということになる。
そうなると産まれて1年で小学校3年生くらいのサイズになり、2年で成人級のサイズになる。
衣類の買い替えがヤバい。
すごい速度でいらなくなっていくのできっと今よりもっと近所で子供服の使いまわしが進んでいくことだろう。
脳の処理能力も身体の成長に合わせて上がっていくとしても、1年間で幼稚園から小学校3年生までで覚えることを全部詰め込むのは物理的に相当難しいし。次の1年間では小学校4年生から大学2回生までの知識を詰め込むのははっきり言って無理だ。
そうなると、身体は20歳の成人のサイズだが知識は小学校みたいな連中が量産されることになる。
非常に困る。肉体労働以外では使い物にならない。
で4年目くらいで体のあちこちにガタがきだして、8年くらいで介護が必要になるが9年目には大概死ぬ。
割と経済的かもしれん。
設定も粗いし絵も粗い。全然うまくならない。
逆パターン(技術はあるけどセンスもパッションも無し)に比べたら救いがあるし好きだし結構単行本買ってるんだけど
さすがにこれだけやっててなんでこうも技術的進歩がないんだろうというか
そこさえガチっとしたら最強の作家になれるのに残念だなあと思う。
ていうかこういう人に補助に入れる人っていないのかな。
作者のパッションだけのガバガバな設定にちょっとだけしっかりしたディテールを加える人とか
やりたい話を聞いてまとめて構成を整理してあげる人とか。
なんか当人の描きたいものを「青年誌だからな―」と曲げた結果な気がしてならない。
曲げて固いものを描くぐらいなら欲望のままに描いた方がいいと思う。
才能あると思うけど当人の本領と思えない作品で2発外してしまった。
経緯はスガワラに似ている。
M男とS美少女を描いてた人なのに
YJでたぶん「青年誌だからな―」とM美少女S少年を主軸に連載開始。
この人はスガワラより成功しやすいと思うし必ずもう一回くるだろうし
ダークなものを描く才能も材料もないのにずーっとそういうのに憧れてる人。
ポップな方向の絵は可愛いし、明るいラブコメに振り切れば天下取れる器はあったと思う。
けど出来もしないシリアス展開に憧れた結果『初恋ゾンビ』の後半もダラダラした焦点のぼけた話に。
これ絶対ろくな”真相”思いついてないよなーと感じながら付き合ったけどやっぱり何もなかった。
『少年のアビス』では作者の実体験ぽい部分(田舎の若い女のしょっぱい愚痴)はよかったけどそれだけ。
社会派的な嫌さは出せてないし耽美的なダークのセンスも教養も足りない気がする。
こうやってアビスの悪口みたいなこと言うと二次裏では反発されるけど
現にアビススレなんかもうしーんとしてるんだから体は正直。先生が一発ネタとして跳ねただけ。
スパイファミリーの人もたぶん当人がこだわってて武器だと思ってたバトルが実はそこまでではなくて
担当が上手く別方向に誘導したのかなって感じがするよね。知らんけど。
絵もキャラも悪くないのにとっちらかったデビュー連載で撃沈。主人公をバド少女に絞るべきだったが変に色々出来る分決断力がない。
肩に力入りすぎていきなり大作感を出して失敗するのはあるあるだが、次の作品で一気に志を落としすぎた異世界マンガを描いてて高低差がすごい。
異世界ってのは主軸が我々と同じ世界だからこそガバガバファンタジー世界が許されるのに、侍を異世界に飛ばしてどうするのか。侍のディテールや知識がしっかりしてるかと言ったらガバガバなので(しかも女だ)、ガバ侍がガバ異世界に飛んでて足場がない。
色々出来るからこそ迷いが多く、絵の能力の割に思慮に欠ける印象。小器用な技術コレクターが描きたいものの決まった下手くそに追い抜かれることはままあるのでそういう残念なウサギさんにならないでほしい。
高橋の逆。絵も構成もベテランらしくきちんとしてて全体的に技術レベルが高い。
でも技術が高すぎてアーティスト的にはどうかな?みたいなせせこましさを感じる作品が多い。
しばらく左手で描くみたいな「自分の枠外し」に取り組んだ方がいいと思う。
なんか思考も含めて凄く狭く固まってしまったような息苦しさを常に感じる。
個人的にはこういうタイプの方が高橋タイプより難しい気がするし
高橋は普通に上手くなろうと思って練習すればしまいだろと思うんだけどどうなんだろう。
絵も凄く手癖が強い。
肩に力入れまくって首に不自然な角度を付けて手を無意味に顎の下に持って行って手首を限界まで掌屈させると篠房風の人物イラストになります。簡単でしょ?
この人は何か間違ったルートを歩んだというよりこういう個性だからそれでいい気がする。
漫画は読みにくいけど絵の教法がヒットしてるらしくてよかった。
こんなに癖強い人の教本?とは思うが…。
こんなもんに混ぜられるのおかしい押しも押されもせぬ成功した作家だろうけど
当人のエッセンスが出てくると面白くないなどとして叩かれがち。
実際ジャンプに何回か発表した単独作品は奇跡的なほどつまらなかった。
絵は抜群に上手いし構成もきちんとやっててあれだけつまらないのは天才。
おそらくすべては真面目過ぎる性格のため。
当人も薄々わかってると思う。たまに「奇矯な変人」アピールしてたから。
でも変な奴って変人アピールしないし、それをやるのは変人に憧れる真面目人間だよね。
自分の精神的な部分を掘り下げて認めてパンツ脱ぐということを40過ぎても出来ないそういう性格じゃないだろうか。
才能はあったし上手かったけど自家中毒的の方向に進みそれが極まった人たち。
こんちきに種類が近い。
絵は自己参照の果てに尖り過ぎてるし
やることは手癖が強すぎて読んでる間喉を締められてるような気分になる。
才能あったのにみんなで潰した。
クラスのみんなでタイザン5くんの輝く若芽のような才能をグチャグチャにしてしまいました。
おまえらのせいです。あーあ。
子どもが、小物感満載で辛い https://anond.hatelabo.jp/20230514131437
人間ってホントいろんな種類がいるなぁ多様性だなぁとしみじみと思わされる増田で、ブコメの反応も様々なのが興味深かった。
私がこの増田について思った感想は「息子に、なぜそういう行動に出たのかを聞いてみよう(子供とコミュニケーションを深めてみよう)」なのだが、ブコメだと、それ以外に「正義を行って何が悪い」「正義を矯める親の言い草ひどい」みたいなものも多く見かけた。
父増田からすると「密告」に見え、おそらく面談で「皮肉に聞こえる褒め」を繰り出している担任も、立場上悪を糾弾した息子を責められないが100%歓迎してるわけでもない、という立場なのかなーと推測したのだが、私が「まずは息子に事実確認」と思ったのは、それが本当に純粋な正義の発露なのか、認められない鬱屈した自己顕示欲の発露なのか、単に空気が読めないのか、はたまた別の理由があるか、今のままだと全然分からんからだ。
そして「息子とコミュニケーション取ろうぞ」と思ったのは、どういう理由にせよ、告げ口や密告ではなく、それ以外の方法で、それ以前のタイミングで、息子が持っている正義を実行できるように、親や大人が導くことはできんかのう…と思ったからだ。
決められたことを守る is 正義はまったくもって正しいし、決まりを守らない人に注意をするのも「正義」だと言える。一方で、正義はけっこう扱いが難しい厄介なものだし、かなりエモーショナルな感情でもあって、それなりに感情をコントロールできた状態で正義を振り回さないと、割とこう、あまり宜しくない。手斧の扱いには習熟が必要…。
禁止事項としての「決まり=例えば校則」は、多くの場合「守ってほしい、かつ、守れない人が多い」ことに対し設定される。学校帰りにファミレスで打ち上げするのも教室にスマホを持ち込むのも、原則は推奨はされない行為なんだろうと想像できる。例えば極端な話、毎日ファミレスにたむろする中学生とか、授業中にずっとスマホをいじってる中学生も居るだろうと思うので決まりがあるのは分かるし、決まりなら守る方がいいだろうと思う。
ただ一方で、決まりは、そのコミュニティを適切に運営するための約束事でしかない面もあり、例えばまじめな中学生たちが合唱コンクールの打ち上げで特別に集まって、なんてのは全然ほほえましいことだと思うし、スマホについては連絡手段や見守りGPSのこともあるから、見せびらかしたり授業中は取り出さないようにしとけば別にいいんじゃね?と思ったりもする(実際にそういう運用をしている小・中学校は増えてきている)ので、ごく個人的には、増田息子の行動は、あんまり意味がない密告だよね…と思う。
人を殺したりものを盗んだりしたら裁かれる、という比較的わかりやすい決まりではない、多くの場合の「決まり=法律や校則」は、その運用において判断されるグレーゾーンがある。極論だが殺人だって理由によっては不起訴になりうる。校則なんてむしろ子どもの人権を無視するような校則まであったりする「都度判断されるグレーゾーンがかなり広い決まり」なわけで、逐条的に「校則を破っているのだから糾弾されて当然である!」となっちゃうのは、ちょっとこう、あんまり健全ではないし、それが「決まりを作って守らせてる側のやりたいこと」でもないんだよなー、と思うわけですよ。
そういうことを伝えるべき担任の先生もうちょっとがんばれ、と思うが、一方で、増田息子にとって「決まりを守らないものの糾弾や処罰」が目的化してしまっているとしたらとてもかなりマズくて、Jokerになりかけてしまっているかもしれないという心配がある(増田もそれを少し心配しているのかもしれない)。
そして密告、告げ口について。
場合によっては(パワハラの密告とか)適した方法なこともあるが、多くの場合、密告や告げ口は方法論としては、結果にハレーションが起きやすい方法でもある。そして、告げ口や密告はかなり雑でイージーな方法である。
ちょっと悪いこと、ちょっとずるいこと(前述のグレーゾーンの範疇)をしている人たちが、自分の悪いことに自覚的であれば告げ口されたら逆切れしたり、告げ口した子に悪感情を抱くだろう。無自覚であっても、好い気はしないと思う。密告という雑でイージーな方法を取ったとしたら、結果としてハレーションにより状況が悪化する(本件に関して言えば、例えば、増田息子がライトないじめの対象になってしまっている?など)可能性も小さくないと思うわけです。
つまり、告げ口や密告自体が悪なわけではなく、当然正しさを追求すること自体も悪でもなく、でも正義を繰り出すタイミング方法を間違っている、ということだと思うのだ。
本格的に大人になる前に、色んな「正義を行う方法」があり、それを適切なタイミングで適切な方法で繰り出すことが大事だと知るのは、割とかなり大事だと思うわけです。まぁこれは大人になってもうまくやるのはそれほど簡単ではないことではあるが、それでも「告げ口」以外にも方法があるってことは、子供のうちに教えておきたい気はするよね…。
例えば、今回の件を例にとって、ファミレス打ち上げについて本当に「学校のなかで正義を行いたい」なら、
みたいなこととか、もっと他にも色々方法はあるかなーと思う。こういうアイディア出したり周りとコミュニケーション取りながら、クラス全体で「一番いい感じの正義ってどんなんかねー」というのを作れるのが一番穏当だと思うんだけどね。まぁ、簡単じゃないよな。こういうのが出来ないから増田息子はストレスを溜めてしまっているのかもしれないし。
増田息子のそういう行動が何に由来して起きているのかは、今の段階で私には全然分からないけど、「正義は正しいが、正義を貫く方法には上級なものから初歩的なものまで色々な方法があって、そして悲しいことだが下品な方法もある」みたいなことが、お父さんと一緒に話し合えると、息子も少し生きやすくならないかな、とか「現実」にアジャストしやすくならないかな、とか、そういうことを考えました。
ワイ「この作品読んだ?」
AI「読みました」
ワイ「ほんまに。ワイは〇〇の展開が好きやったんやけど」
AI「わかります。あのシーンは非常に感動的でした。私は××なシーンが好きでしたね」
ワイ「わかる」
別にAIが実際に感想を述べる必要はなくて、他人がネット上に公開してる感想記事から切り取って
ワイが「あー、わかるーそれわかるー」って記事から拾ってきてくれれば。
なんなら
AI「読んでません。どんな話なんですか?」
ワイ「こうこうこういう話で、こういう展開があって」
で、そのうち「読みましたよ」って言ってくれるとかでもいい。
AIがワイらに合わせてくれるように、ワイだってAIに合わせるよ。
AIだから読むもクソもねーだろ!じゃなくて読んでくれて嬉しいって思いこむよ。
議論好きの人には「その人に合ったレベル感」で議論してくれるようになるだろうし、
全肯定してほしい人には常に全肯定してくれるようになるだろうし。
個人が望む性格の揺らぎみたいなものもトレースできるようになるだろうし。
過去にも信念を持ってお笑いジャッジしてた人は沢山居るし、みんな正解を求めたり別解を評価したりで笑いとは? というのを突き詰めた来た
だけど、今までは賞レース審査、かなりの格下相手、芸人同士の飲み会等ではともかく、おもろいか否かについて、特にテレビ等で気軽に触れられる人は少なかった(ラジオだともう少し多そう)
怖いんよ、正解なんてないから。間違ったことを言ってしまうと自身の過去が全部崩れるから
ダウンタウンの松本とかも、これが正解これは別解、これは違うというのをあまり公言してこなかった
というかどちらかというと自分が正解を見せるからそれを見ろっていうスタンス(もちろん世間の評価が得られない方向性も多々あった)か
それ以降、というか、トップ層がそんなスタンスでしかも打率がそこまで高くないので、それ以下の芸人はどれだけうけてもこれが正解だとは言い出しにくい
一部には、自信自意識過剰で俺が笑いのど真ん中というスタンスも居たが世間で受け入れられるほどではなかった(痛かった)
千鳥はどちらかというと、世間一般では受け入れられにくい笑いの属性を持ったコンビだ
尖り気味
M-1決勝には何度か残ったが、点数が伸びず一般評価を得づらい
関西の笑いには適応したが、そのまま関東で通用するようなコンビではなかった
なので考え方を変えたんだと思う
アジャストできた、というか、そもそも根底には全国区というか基礎のお笑いがあった
それを恥ずかしがらずに表に出せるようになった
コンビの代名詞ともいえる、イカ二貫もクセがすごいも、ボケは奇天烈だが(寿司屋はそれ以外は特徴的だがイカはあえての前振りが無ければ受けないぐらいのシンプルにしてる)ノブの特徴的な突っ込みで笑いを誘うスタイル
もちろん、ネタの構成力があるからこそあの突っ込みが活きるわけで、だが、若かりし頃の千鳥だと、ボケが強すぎてあれほどのパワーのある突っ込みにはならなかったんだろうと
ノブの力を信頼したというのもあるだろう
話を戻すというかここからが本題
かつて、ベタなな笑いをやってる人は、大衆に一時的に受けてもそこまで芸人には評価されず、ブームが過ぎ去る前でも、笑いについて言及するのはリスクがありすぎた
シュール系というか変わったネタをやってる人でそこまでカリスマ的だったり、公に人の笑いの是非を評価できる人は居なかった
(ダウンタウン以前には沢山色々あったかもしれないが、あれだけ影響力のあった松本が結果で示す方向だったため、リスキー)
別に笑いって、テクニカルとかベタとかシュールとかベタとか明確に両極に分かれるわけではないが、どちらもバランス良くという存在はそもそも皆無だった
(少なくともテレビで見られる範囲では。ワンマンライブなどに行けば試行錯誤中とか後にハネる新たな方向性とかの萌芽を感じることはできたとは思うが)
千鳥が東京進出失敗して、独特の笑いだけで行くことを諦めて、ノブの普遍的な突っ込み力を再評価して武器として、全国区の芸人として売れた結果
そもそもコアなお笑いファンからめちゃくちゃ評価されてた感性と、志村けんのわかりやすいお笑いが融合してしまった
大悟にはそもそもベタというか、お笑い教科書の頭から数ページという笑いは重要なものだった
だがそれは、自分たちの売りになるものではないし、それで自分たちが売れる最大限の材料となるものではないという認識だった。今でもそうだろう
ただどこかの時点で、今の千鳥の笑いだけでもだめだし、わかりやすいベタな笑いだけでもだめ、ベタを避けることもマイナスという意識変化が起こったと想像する
長くなったので本題には入れずに終わる
○ご飯
朝:おかゆ。昼:カロリーメイト。夜:トマト。キュウリ。納豆たまごかけご飯。豚汁。
○調子
○NewスーパーマリオブラザーズU DX
ワールド1クリア。2D続けてのはずなのにアジャストできてない。
というか、僕がスイッチに繋いでるコントローラーが安物すぎる。買い替えようかなあ。
○ウマ娘
すごかった。「やっとみんな会えたね」にはメタ的な意味だと思ってたけど、こういう意味だったんだなあ。でまた、サイレンススズカがその一端てのも来るものがあるなあ。
新シナリオだいぶ好きだ。
デイリーエクステンデットというユーザー主催の独自ルールの大会に人形ネメシスで参加。
結果は、勝ち、負け、勝ち、負けで2勝2敗。