はてなキーワード: 海監とは
この映画は日常アニメとしても評価されており、確かにそうと言える。
ほんわかした笑いの連続で劇場の空気は温かいし。戦時中を舞台にしているというのに、声を出して笑える映画だ。
その一方で暮らし様式や知恵、戦艦や飛行機、情勢、草、花、木、鳥、全てにおいてリアルに描かれている。
このアニメがアニメだと思えないほどリアルだと感じられるのは、このせいである。
そういえば、8月公開の「君の名は。」でもこの問題については言われていた。
そこで気付いたのだ。
まずタイトルが変なとこで終わっているね。そんなことはどうでもいいんだ。
君の名は。で話題になったのは音楽の使い方だった。これが凄く似ているんだ。
RADWIMPSとコトリンゴ。音楽で話を進める力を持つ。この世界の片隅にの挿入歌も数曲あるので音響よろしいとこで見るとよろしい。
また「その日」にどうやって進むのかという焦燥感なども同じポイントだ。
ここまではツイッターにでも書けることだ。
展開?
うん、違うよね。
そうだね、おっぱいだね。
君の名は。公開当日は「おっぱい」でツイッターの感想や反響スレが埋まっていたほどだった。
三葉のおっぱいのシーンCMで見るたび、諸君はドキドキしたであろう。
おっぱいで感動させ、おっぱいで笑わせる。すごいおっぱい映画だったんだ。
更に追い打ちをかけるのが口噛み酒。これは新海監督の確信犯だ。酷い男だ。
え、なんでおっぱいの話をしてるのかって?
決まってるじゃないか。
『この世界の片隅に』のおっぱいシーンはみんな見るべきだろ…………!!!!!!
超真面目なアニメの中に数秒入り込む全裸シーン。大画面で見る横乳に、「あれ、どうして、こんなシーンが入ってるの…!?」と混乱すること間違いなしだ。
そのおっぱいは主人公のすずさんのものでは無いんだけど(すずさん、あんなに乳なさそうだし)、これまた入浴しているすずさんに、おっぱいがかぶさっている絵というのが最高。
●RECがたくさんつきそうなシーンがあるのだ。
しかもアニメ界でも尊敬される監督と、有能アニメ会社「MAPPA」の作画でそれを見ることが出来る。
おっぱいはあんまり、という稀有なあなたにも薦めたいのだが、予告を見ていただいたら分かるとおりキスシーンがある。
しかしこれがまた、真面目に丁寧に品よく作られていて、子供が見ても「?」となる具合。しかし大人が見たら「うぉぉおおお」となる演出になっている。
さらにはNTR!?というシーンもアリ、しかも超作画で超セクシー。生々しくて、あの絵柄で(!)ドキドキするのだ。
主人公すずが「この子はもうまったく…」といったぼんやりした子なのだが、時々女の顔になる。その時の色気具合ったらありゃしない。
隙だらけの色気というのか…なんなのか。声も良いよね、リアルで…。
しかも主人公を取り合うのが、二人とも最高レベルでイケメンボイスを作っている細谷さんと小野Dなのだから、色気出しすぎてて男女ともにドキドキしてしまう。
さておっぱいの話に戻るけど、バスケシーンの三葉はノーブラである。流石にキャミソールくらいは着ているものと推測できる。
終戦前の庶民というと、ブラジャーはまだ無かった。乳バンドとかいうのはあったようだけど、それもパッドがついているようなものではなく、帯だったようだ(暮らしの手帖より)
つまり、「この世界の片隅に」で出てくる主人公すず(18歳~)、遊郭の女性や、気の強い義理のお姉さん、近所の奥さん、妹といった魅力あふれる女性たちは、みんなノーブラということにになる。ちなみにロリまで出てくる。
いかがだろうか。この世界の片隅にを見に行かなければならない理由は、以上にある。
こんなことあの真面目な映画で長々文章にできるアカウントやブログが存在する気配が無いのだが、正直みんな思っていることを代弁したまでだ。
後悔は無い。
ごめんなさい。
Twitterで「小説・君の名は。」発売前後のツイートを検索してみると(小説 "君の名は" until:2016-06-19)、
中高生っぽいアカウントで「『君の名は。』を買った/買いたい」って言ってるのがめちゃくちゃ多い。
「新海監督が映画を先に見てって言ってるから小説を読むか迷う」みたいな。
発売三日で10万部で即重版っていう売れ方からしても、宣伝や店頭で売れたって感じじゃないよね。
(参考:たちまち18万部! 映画公開の期待をふくらませる新海誠最新作ノベライズ『小説 君の名は。』 | マイナビニュース)
あとは神木隆之介ファンとRADWIMPSファンも関係してくるけど、
本日記は、新海誠監督による劇場アニメーション映画『君の名は。』および『秒速5センチメートル』の結末に関する内容を含みます。
今日、新海誠監督作品『君の名は。』を観て、私はふたつのことを思った。
ひとつは、新海氏の監督作品でまだ観ていない、『星を追う子ども』と『言の葉の庭』を観てみたい、ということ。
もうひとつは、「新海監督って、一貫してるなァ」ということだった。「観てない作品があるのに、一貫してるかどうかなんてわからないだろ」
とは自分でも思うのだが、「一貫してるなァ」と思ってしまったのだからしかたがない。
『秒速5センチメートル』の二人は、なぜ最後に、本作のような形で、出会えなかったのかなァ、ということを考えた。
あの二人を、本作のような形で、出会わせなかったものはなんだったのだろう、『秒速5センチメートル』にあって、
本作になかったものなんだったかな、と考えて、それは、罪悪感とか後ろめたさのようなものではなかったか、と私は思った。
なぜ罪悪感なんかを抱くかといえば、「大切な存在を小さくしたのは、時の流れるままにした、他ならぬ自分だ」と思うからで、
一方の本作で罪悪感なんかを抱かないのは、「大切な存在を小さくするのは時間のせいでも自分のせいでもなく、
人智を超えた力によってそれをスパッと忘れさせられてしまうから」である。
喪失感はあるが、「喪失させたのは他ならぬ自分だ」という後ろめたさはない。
一緒に観に行った友人が、『秒速5センチメートル』で劇中の時間を多く割かれた恋愛のディテールが本作ではほぼ描かれないことを、
「欲をいえばもっと胸キュンしたかった」とか言って少し不満がっていたのだが、私はなんとなく、それはこんな理由じゃないかと思っている。
私の憶測に過ぎないが、『秒速5センチメートル』では、長い「時間」を見せることで、大人になった主人公が罪悪感というか、
後ろめたさというか、申し訳なさというか、そんな感情を抱いているのだと、観客に理解して欲しかったのだろう。
第2部以降、主人公が送る日々を見る観客は、「彼の心の中では彼女との思い出の領域はもう増えないのに、
その他の領域は大きくなるばかりだ」ということがわかる。
彼女の存在の相対的大きさの縮小に慣れようとする彼が、その「慣れようとした」という自覚によって、
思い出や、かつて抱いた強い想いを粗末にしているような疑念や後悔を感じ始めることも。
恋愛のディテールが長く描かれたのは、そんな第2部以降の時間とのバランスをとったからだろう。
一方、本作では、「何か大事なことが色々あったはずなんだけど、思い出せない」という、喪失感だけを観客に共有して欲しかったのだろう。
そのために、観客を「二人に恋をさせたものが色々あったのだろうけど、断片しかわからない」という状態に置くことを選んだのだろう、と私は思う。
本作で、再会を果たす直前の主人公は『秒速5センチメートル』のモードに入りかけている。
それは時間が経つにつれて、「思い出せないままにしている」自分を責める気持ちが徐々に強まるからだろう。
きっと、時間とともに何事かを忘却したり喪失したりすることに対して、罪悪感のようなものを感じてしまう、というのは、
しかし、本作の二人は再会できる。それはおそらく、本作の世界観では「忘れる」だけでなく「思い出せない」もまた、
時間のせいでも自分のせいでもないからだろう。「時間という要素によって、出会えなかった」物語を描いた人が、
「時間という要素がないのなら、出会える」という物語を描いたのだ、と私は思った。
新海監督の2作品、『秒速5センチメートル』と『君の名は。』の対比は、生花と造花を思わせる。
・元気にあったときに今の仕事が終わる、2ヵ月後に企画書出しますよと言った
・企画書を作りだしたのは提出1週間前
・初期段階で男女が入れ替わり、彗星が落ちて、最後に再開するという筋書きは出来ていた
・川村元気は最初チャラくて新海誠の典型的なイメージどおりの(いわゆる)プロデューサーが来たなと思った
・会議では如何に感情の起伏を作り出すかや、終盤で序盤の台詞との重ねあわせ等をしたほうが良いと指摘された。
・そのほうが皆感動して涙を流す。その一粒が興行収入いくらになるとか茶化しながら言われた。
・ラピュタのように、三葉(シータ)を物語の軸にして、語り部を瀧(パズー)にしたほうが良いといわれた。※元気に
・とりかえばや物語などの日本の古典や夢で好きな人を見た和歌などを参考にした。
・額につけている飾りは龍である
・RADWIMPSの野田洋二郎は童貞じゃないと思うけど、童貞力がある。※新海誠談
・結局二人(瀧と三葉)は再開したけど、再会した後にやっぱいろいろあるらしい
・安藤さん的にはもうちょい芝居の方向性を提示してほしかったらしい。
・今時のキャラデザの田中将賀の絵を使えれば(リアルな絵を描くのが得意だったので)なんか(典型的なアニメ的手法みたいな)新発見あるかもとおもっていたらご飯をよそったり意外と日常芝居が多くて大変だったらしい。※アニメではただ椅子に座ったりするだけとかの日常芝居(絵を描くの)はかなり難易度が高いといわれている。
・幅広い観客に観てほしいと思ったので全体的にはマス向けに作っているがファン向けにいろいろ過去作の小ネタを仕込んでいる
②があるかはわからない
b:id:msdbkm 出典は後日追加します。
b:id:watermaze 紹介の話は川口さんと新海監督の間で食い違っているので真実はわかりません。推測はできますが。
「君の名は。」で口噛み酒のシーンが気持ち悪いと言う話になっている。
http://togetter.com/li/1029154
口噛み酒自体は新海監督のある種のフェティシズムの発露であるというのはインタビューでも言っていたのでまぁ気持ち悪く感じる人がいるのもわからなくはない。
本来性癖は人によって千差万別でかなり慎重に扱うべきものだからだ。
一方でエロは万人にほぼほぼ普遍的に存在するものなのである程度の公約数的な部分を確保してしまえば多くの人間にフックするという強みもある。
新海誠監督は今まで過去作においてエロティックな場面をほとんど描いてこなかった。
その理由は私にはわからないがある種の特徴の一つでもあったと思う。
そういった点がこじらせた「童貞」臭さと言われる一端でもあった。
※ちなみに新海監督は童貞臭いと言われることを一定程度評価している旨をラジオ番組で発言している。
おそらく童貞臭いという評価に内在する純粋さ・ピュアさが新海監督がターゲットにしている思春期の男女にまさにクリティカルにHITする部分だと思っているからだろう。
今回はそこから一歩踏み出し、フェティシズムや一定程度健全なエロさを作中に含ませようと考えたのは恐らく言の葉の庭の足フェチ描写が観客に評価されたからであると思う。
ということに気づいたのだと思われる。
東宝に出した最初の企画書の時点で三葉の胸を揉む描写が既にあったことが見て取れる。
一方で性欲を丸出しにしてしまうと下品すぎて観客が引いてしまうことは恐らく既に把握していて、言の葉の庭では足を触る描写をエロティックだが徹底的に崇高かつ審美的に描き下品さをかき消すと言う手法を使った。
それに対して今回使った手法はベタベタと言っているように定型的で既に出来上がった文脈の手法をそのまま持ってきた形だ。
つまり笑いを使うことでエロさに健全さをくっ付けることで観客が引くことを回避させようと言う手法である。
つまり観客にこのシーンを見て笑ってもいいんだぜ?
というわけだ。
最近エロの手法を取り入れたにしてはこの辺の技巧に非常にしびれたし、単純にうまいなと思わされた。
なんとなくこの辺で瀧君を「ちょっとエッチな東京から来たイケメン」という卑近さを生み出すの成功しているような気がする。
股間に手を出すのはアウトだが、胸ならギリギリという非常に危ういラインだ(瀧が三葉の状態でトイレに行く描写がないのはそういうことだろう。三葉in瀧ではあるのに)。
その他こまごました部分を含めてその辺の舵取りはかなりきっちり詰めたのだろう。
お見事でした。
しかし、この入れ替わりシーンは置いておくとして問題になっているのは口噛み酒のシーンである。
と言うシーンである。
ここにオタク男性的感性をどうしても感じてしまうと言う点である。
四葉が女性の性的価値を少女でありながら感じていることに違和感を感じると言うことだろう。
しかし、正直この点に男性性をいきなり感じてしまうというのは少々飛躍しすぎではないだろうか。
実は作中に少女向けのファッション雑誌が部屋に転がっていると言うカットが存在する。
つまり、四葉はそういう点にわりと自覚的であるのではないかというエクスキューズをわざわざ用意してあるのだ。
あるいは三葉の言うとおり「思春期前のお子様」であるのでそういった視線に知識はあるものの無頓着である。
という解釈もできるかもしれない。
いずれせよ、安易に一方的な男性性を見出すには少々待ったをかける必要はあるはずだ。
ネット上の論評をいくつか見て回って、少し思ったことがある。
思ったのは新海誠が男性であるからといった点が論評において強く作用しているのではないかという点だ。
もちろん秒速5センチメートルが強い男性目線からの作品であったのは事実だと思うし、実際作中のモノローグの量はタカキの物が大半だ。その様な作品で男性性を強く見出すのはわかる。
しかし、だからといって一足飛びに「君の名は。」をすぐに男性的であると決め付けすぎるのはすこし早すぎる気がする。
もちろん過去作の文脈をまるごと無視するというのはさすがに無理があると思うが、言の葉の庭における雪野の描写や彼女と彼女の猫が女性主人公であるという点を無視しすぎである。
一方で日本では従来の男性ファンがあまりにも多すぎた気来がある。
そのせいかどうも、評論すら男性的目線から見たものが多すぎる気がする(特に上白石萌音が秒速でどちらかというとコスモナウトに感情移入したというのは示唆的だ。ネット上であまりその視点から言及した記事を見たことがない。)
女性が自分の性的価値を認識していないというのは少々一方的過ぎるだろう。
女性受けを狙ってアイドルをやっている人もいるという説明もまぁそういう人もいるだろうが、皆男性からの目線を意識していないなどというのは少し純粋性を女性に求めすぎだ。
特に三葉が口噛み酒販売に対して斜め上の回答をしたのはまともに回答するのが恥ずかしいからであり、それは三葉に対するジェンダー的抑圧の強さを示している部分でもあると思うし、「イケメン男子にしてください」という台詞にもつながる。
わりと重要な部分だと思うので安易に監督の男性性に固執するのは危険だと思う。
勅使河原の口噛み酒の部分もあれは作品のメッセージではなく勅使河原の認識とみなすのが相応だろう。
同じ縁故に縛られた立場として土着にまつわる行為を否定されることにある種のシンパシーからの擁護であるとも取れる。
※つまり、必死こいて神事を行ってるのに友人まで否定するのは酷ではないかという同情的心理。縛られていることに息苦しさを覚えていながら糸守に愛着があるという描写を事前に行っているのはその辺の示唆なのではないか。三葉がどう思うかは別である。
さて今朝は君の名ははエロゲみたいだと主張する意見について語りたいと思います。
まずエロゲの定義として胸部をさわさわするものではなく、この場合はストーリーがあるものだとします。
エロゲ会社の社長のツイートがソースですが、エロゲ売上は5年以上連続で毎年20%前後下がり続けているというデータがあるのだそうです。
理由はいろいろあげられますが、とりあえず「売れなくなった」ことが客観的にある事実なのです。
最近の若い子はストーリーのあるエロゲを知らないとは言わないけれど、少なくともブームにはまったく触れてないのでしょう。
大人になってもエロゲをやめられない大きなお友達には、なにかの欠陥があるのかもしれません(それでこそオタクだと言えるでしょう。誇りを持ってください)。
若い子がメインのゲームで、若い子がプレイしない。産業としての終わりを感じますね。
それは「エロゲ」を比喩として使う層は、少なくとも10代では無いということです。
5年連続とも言ってますし、U25にはもう馴染みがないのかもしれません。
エロゲを知り尽くしているかのような発言を見てもアラサーがギリでしょうか。
と言ってエロゲをみんながしていた時代なんてありません。09年の感覚によればエロゲの売り上げは1万でヒットレベルです。
君の名は。は動員数700万人を超えました。
エロゲだ、エロゲだ。と騒いでいる人。それを広めたい人が居るようです。
しかしまったくもってその比喩は広く響かないし、自分がエロゲマニアのおっさんだと認めるようなものなのです。
エロゲプレイヤーとして自信を持っているのなら良いですが、どうも目にするのは「みんなエロゲしてるよね。エロゲみたいだよ。若い子は違和感抱かないのかな」みたいな論調が多く、怖いです。
KOWAI。KIMOI。似てますね。
それと同時にセカイ系を連呼している方もいらっしゃいますが、エヴァンゲリオンは今年で21周年を迎えます。
若い子は知らない、のではなくそこから受け継がれていたものがあり、何度も形を変えたと思う方が自然でしょうが、何故「セカイ系」という概念にこだわっているのか。
古い概念で論じている時点で、多分「君の名は。」を語ることはできないと思います。
(BUMPと一緒に語られることもありますが、BUMP世代よりもう少し下の世代の配信時代が始まってから出てきたバンドです)
(アラサ―世代はニコニコでMADに触れ、ハレ晴レユカイを文化祭や運動会で披露した世代です。新海監督の演出ががっつりハマる層だと言えます)
(テレビで何度もアニメ映画が放送されるというのは、子供だけではなく大人まで影響を及ぼしているはずです)
何故エロゲに結び付けるのだ。もっと色んなアニメや映画や本、漫画を読めばいいじゃないか。
これが今朝の気持ちです。
『君の名は。』に色んな意味で心鷲掴みにされて、もう何度も何度も劇場に足を運んでいるのだけど、
この作品の大ヒットに関して、ブコメも含め様々な場所で個人的にちょっと気になることを目にしてる。
しかもそこそこな頻度で。
新海監督が、『君の名は。』で、「アーティストとしての作品性や作家性を捨てて、万人受けを狙った、そして売れた」って感じの意見ね。
いやいや、『ほしのこえ』当時からハマって追っかけてきたオタとしては、ちょっと待ってって思うのよ。
「作品性」や「作家性」って、新海監督は別に捨ててなくね?って。
『君の名は。』では新海監督の強いこだわりで魅力でもある画面のライティングや構図であるとか、
大きな力で引き裂かれる思春期(とそれ以後)の2人と恋愛と喪失だとかは、
何にも変わってないよね。
ボーカル曲に合わせてMVか!って感じで見せていく手法もそのままだし、
ナルシシズム漂う独り語りも、ロマン主義も、センチメンタリズムも、そういう作品の特色なんかも昔と同じ。
なんか、個人制作の『ほしのこえ』と、感動とトラウマを多くの人に植え付けた『秒速5センチメートル』っていう過去作のインパクトがあまりにも大きくて、
ああいうものこそが新海作品だ、万人受けしなくても、一部の人に響く強烈な作品やこだわりを志向するのが新海監督なんだ、
ラストで結ばれないものを観客に容赦なく突きつけるのが新海作品の本質なんだっていう考えを持ってしまった人が結構いるような気がする。
新海監督は「わかる人だけが自分の作品をわかってくれればそれでいい」という立場より、
「万人に受け入れられたい」そして「メジャーな規模で売れたい」という立場の自己顕示欲や願望のほうが、
昔からずっとずっと強かった人のように思うんだよ。
大ヒットでインタビュー受けまくってる姿なんて、ほんと昔から目指していたことが叶って嬉しい、って気持が、なんかありありと伝わってくるし、
『秒速』は見た人を励ますつもりで作って、「鬱だ」って反応が予想外だったって新海監督自身も言ってたし。
過去作だって、『エヴァ』とか、『最終兵器彼女』とか、ジブリとか、村上春樹とか…、とにかくメジャーで大ヒットした有名作品とかにそこまで寄せなくても…って思うくらい寄せてくるし。
『ほしのこえ』『秒速』みたいな作品は、ニッチな層にだけ強烈に響くこと意図的に志向して制作していたわけでなくてさ、
たぶん、単に個人制作・小規模制作で視野が狭かったり、監督個人のスキルが低かったり、お話の引き出しがワンパで、
(そして今作でも周りの大人たちやDQN客みたいなのは、相変わらずびっくりするくらい定型的でチープで、そことのやりとりも上手く描けないから省かれてたり)
決して『秒速』みたいな作品や、あの作品への反応みたいなものこそが新海作品の本質だ、作品性だ、ってわけじゃないと思うのね。
『君の名は。』はわかりやすいエンタメを目標にしたわけだけど、
そもそもが新海監督は、わかりにくいものや非エンタメ的作品を志向してたわけじゃないんだから、
描きたいこだわりを省いた、作品性や作家性を捨てた、と言うより、
周りのスタッフとの共同作業を通じてスキルアップしたって言い方のほうが正しい気がする。
川村元気Pから「新海誠のベスト盤を作って」って言われて、描きたいものを描いて出来たのが『君の名は。』なわけだし。
ともかくも『君の名は。』で、メジャー映画監督の仲間入りした新海監督だけど、
個人的には次回作も楽観視してる(『君の名は。』を超える興収をあげるかどうかは別にして)。
優秀なスタッフと関わることで成長していく可能性もあるだろうし、
逆にそこまで成長しなくて、また底の浅い引き出しからワンパターンな思春期男女の話を作ったとしても、
その時それは「ああ、今度のも新海さんっぽいねー」って言われてると思うの。
「ジブリっぽい」って言葉と一緒でさ、オタだけじゃなくて一般に広くそう思われるようになったら、
思春期のこの手の話をああいう絵力を交えて魅力的に見せれる作家って、実写含めて今は新海監督が一番だと思うしさ、
次回作が仮にワンパターンなものになってたとしてさえも、たぶん、きっと大丈夫。
それに新海監督は興収やら評判やらがしょぼくて落ち込むことはあったけれども、
とりあえず興収で一定の結果を残せさえすれば、庵野監督のように大ヒットしたのに深く苦悩する、そういうことに陥るような人とは実は違うタイプだとも思うから。
遅れて鑑賞。若い子も多かったがカップル以外の客も増えていて、結構年齢層も公開初週よりは上がって来たのではないだろうか。以下、長い。
年間とかではなく今までの興行収入ランキングみたいなものを見たら分かると思う。
何故売れたのか?と疑問に思うものまでさまざまだ。
少なくとも「スカスカ」映画ではなかったし「何故売れたのか」という点でも完璧ではないが、ある程度説明つくのではないか。
ステマだけではなく本当に評判が良い映画が自分に響かないと、ただ普通につまらない映画を見たとき以上にガックリくる。
この映画を見る今日まで、映画通やら映画通という名のアニメファンやら映画通という名のやり○ん騒動男やらの、いろんな批判を見た。
映画が好きな自分からすると、「そうか。食いつける映画なんだな」ということで、自分にとっては逆宣伝になった。
(まぁ信頼する映画通たちは結構試写時点で絶賛してたんだけど)
映画が好きだと書いたが、アニメ映画に関してはもっぱら円盤待ちの人間なので、その自分を映画館に行かせたという効果は絶大だ。
まず自称新海ファン評の「新海らしくない映画」だが、しっくりこない。
むしろ新海監督のファンサービスがちりばめられていて、過去作好きこそ振り回される映画ではないだろうか。
キャラ、ストーリー構成から唐突感だったり、詩的な部分だったり、感覚的な部分。とても「新海らしい映画」だと感じた。
むしろ新海らしくないというのなら、何らしいのか。
思いつかないので、やっぱり新海らしい映画だった。
隣りで見てた50オーバーが号泣し、終わった後感想を熱弁していた。50オーバーを若い世代という世界には住んでいない。
しかし確かに今まで見てきたアニメ映画とは、一味もふた味も違うのかもしれない。
ニュージェネレーションに対するギャップが、ある人にとっては大きかったのかもしれない。
例えば主役が高校生だから高校生しか感動しない。というのは馬鹿な話である。
じいさんが主役でも、子供が主役でも、感動するものは感動するだろう。無理なら想像力が欠如している、と言っているようなもんである。
RADWIMPSは嗜む程度だが、あまりRADWIMPSらしくもなかったので、激烈RADファンからすると絶賛はしにくいんじゃないか。
自分のような嗜む程度のやつに、ちょうどよかった。
歌もしっかりはまっていたし、劇判にも仄かにRADらしさがあった。しかしやっぱりそんなにRADらしさは無かったかもね。
つまりファン以外も満足しているということだ。(ファンもある種の初期RAD感が出ていて嬉しいのかもしれないが)
ここはとても「邦画」感が溢れていた。秒速~以外に、自称映画通なら何作品か思い浮かべたいところだ。
昨今の邦画は設定を詰め込み、それを全て説明しようとしてくる。故に物語に勢いが無くなったりする。
しかしそこまで説明されずとも作りこまれている映画に傑作が多い。本家アカデミー賞受賞作などを見ると、設定をしっかりした上でとにかく勢いが凄くて、設定なんてどうでもよくなる。
その部分がエンタメ邦画には足りないなぁと常々思っている。(無いとは言わないし、説明カットし過ぎてダメなのも邦画あるある)
結局作りこみすぎると、ヲタクは解説したくなってしまうのだ。(ヲタク=脚本家・監督)
君の名は。はその絶妙なバランスにたどり着いた。日本人が受け入れられる塩梅での。勢いと説明の狭間だ。
例えば、見てない人には分からないだろうネタバレだが、三つ葉が父を説得するシーンが今作には無い。しかし説得した、と分かる。
でも後々…もしかしたら見終わった後で、もしかしたら2回見た後で「あ、そういえば説得してたな」と気付く仕組みになっている。
見ても無い自分が「フィクションだからさぁ…」と突っ込みたくなるような批判だったが、見た今なら「あれはこういう意味があったんじゃないかな?」と推測できる部分がしっかりある。むしろちりばめられている。突っ込んだ人はもっとストーリーをみるべきだった。
きっとリピーターは血眼で探しているだろうし、他のそういう手品のトリックみたいな演出も、多分2回見たいと思わせる構成だ。
男女入れ変わりと聞いたら、転校生を始めいろんな作品が頭をよぎるだろう。使い古された設定に見えるかもしれない。ボーイミーツガールは王道だし。
その設定を使ったこういう構成の脚本を、薄っぺらいと言うのか。本当にそう思ったのなら絶望的な感覚である。とまで言っちゃう。
「薄っぺらい」ではなく「説明なさすぎ」の言い間違いじゃないのかなあ。
これくらいで良いと思うけどね。商業映画は。(もう一度見て理解したいと思わせる技は必須)
おっぱい揉んだりパンツが見えたりしただけでヲタク向けになるのか。
パンチラは角度的にどうしても見えてるだけであって、逆に見えないのはあの画の中では大きすぎる嘘になってしまう。
パンツが見えないのはギャグだ。リアリティがない。むしろ日常萌えアニメはミニスカで絶対見えるパンツを描かないことで、フィクション感をだしている。
ていうかパンツ一瞬しか見えない。コンマ何秒とかしか見えない。騙された。
この理屈と同じで、実際あの状況なら胸は揉むだろ。
そんなわけであがっている批判を見ても、「え?なんでそんな批判があがるの?」というものばかり。
(例えば漫画原作のように<漫画という神>と違うからという批判は、心情的に良く分かる。調理した方と見た方の問題は根深い。)
是非まだ見てない人に、見てから判断してほしいと頼みたい。別に批判をする人がわるいわけではない。的外れな批判が溢れているだけだ。
どうも売れすぎて、色んな雑音が耳に飛び込んでくる状況になっている。
これを読んでる人は、君の名は。のことが気になっているはずだ。素直に、自分がどう感じどう思うか?と映画で考える良いチャンスなのだ。
そういう空気が付きまとう世界情勢で、映画界、とくに邦画界にもある時点から閉塞感があった。
いつだって現実が向かってきたし、夢物語は無い。そう示してくる話が多く、心の片隅が窮屈な想いをしていた。
若者たちは経済が少し上向いても無駄遣いをしない世代になった。夢を見るやつは、馬鹿だと思っていた。
でも「君の名は。」は希望のある夢を見せた。ここまでの大きな夢は、もしかしたらあの時の自粛ムードと共にタブーになっていたたのではないかと思う。
フィクションだから、アニメだから、一つの大きな嘘を内包することができた。
なにかの穴を埋めてくれたのかもしれない。
「君の名は。」を観た。映画としては面白かったが、監督の東京至上主義的発想がにじみ出ていて気分の悪い作品だった。以下ネタバレこみでどこが気持ち悪かったか書く。
まず、三葉が飛騨に住んでいるのに東京の話ばかりするところが気持ち悪い。飛騨は一応岐阜の一部であり東海地方である。テレビも名古屋のニュースが入るはず。ならば、まず三葉が向かうべき都会は東京ではなく名古屋のはずである。もちろん、東京と名古屋では都市の規模に明確な差があるけれど、「カッフェ」はたくさんあるし雇用も最低限はある。実家の様子を見に行くことを考えれば名古屋に就職するという選択肢も考えられるはずで、そこがすっぽり抜け落ちているのが不思議だ。小説版では三葉が名古屋のことを「大きな田舎」と表現する場面があるらしいが、当たり前だが飛騨よりは名古屋のほうが何倍も都会だ。三葉たちが困っていたのは「カッフェ」がないこと、雇用がないこと、訳のわからない因習があることだ。それらから逃れるためだけならば東京ではなく、岐阜市なり名古屋市なり富山市なり近くの地方都市に引っ越せばいい話である。(岐阜や富山は雇用が少ないかもしれないけれど)三葉が「田舎」を脱出したいという気持ちはわかるが、その向かう先が「東京」である必然性は感じられなかった。
次に、三葉たち糸森村の若者たちが最終的に三人とも上京するというのが気持ち悪い。繰り返し書くが、三葉たちが「田舎」から脱出するなら名古屋に引っ越すという手段もある。それなのに三人が三人とも東京に出てくるのはなぜなのか?また、百歩譲って名古屋が飛騨と同じレベルの「大きな田舎」だとして、「田舎」に彼らが残らなかったのはなぜか?糸森が消滅したとして、その地元に愛着があるなら欠点はあれど飛騨に残るという考え方も抱けたはずだ。特にテッシーは親父が土建屋でその跡を継ぐという選択肢も考えられたはずであり、岐阜で就職することもできたはず。東京に行った三葉と地方に残ったテッシーという対比もできたのに三人とも上京してしまうというのが腑に落ちなかった。
そして、彗星が墜落したあとの三葉とテッシー夫婦以外の糸森町民の姿が描かれないのも気持ち悪い。町は半分くらい吹っ飛んだが避難は完了したはずで、三葉の妹やおばあちゃん、親父さんは生き残ったはずである。それなのにせいぜい三葉の親父さんが週刊誌に載ったことがわかるくらいで妹やおばあちゃんの後日談はない。あたかも彗星によって三葉たち以外の糸森町民は抹殺されてしまったかのようだった。また三葉たちは生き残ったが、糸森という文化は彗星墜落によって消滅してしまった。これは瀧が過去を改変する前も後も実は変わっていないように思えた。田舎の文化や田舎に残った人たちを瀧は実は救えていないのではないか。
(そもそもおばあちゃんや妹は生き残ったのかという疑問もある。ラスト付近で瀧が彗星の被害について振り返ったとき、彼は「突然の避難訓練によって、奇跡的に『ほとんど』の町民が生き残った」といった。この言葉からわかるのはあの彗星墜落によって少なからず死者が出ていたということである。その死者の中にテッシーの親父や三葉パパや四葉が入っていた可能性も後日談が描かれなかったから十分ありうる。神社や土建屋といった「田舎の因習」の象徴である彼らを監督は観客にはわからない形で彗星で消し去ってしまっていたのかもしれない。)
①「君の名は。」の世界には「東京」と「ど田舎(=飛騨)」しか存在しないのが気持ち悪い。地方都市の存在を無視している。
②若者たちは必ず「東京」へ行かなければならず、彼らが抜けだしてしまった「ど田舎」は描く必要がないという思想が気持ち悪い。東京は必ずしも「地上の楽園」ではないし、若者たちが抜けだしても飛騨に残った人たちの生活は続いている。「田舎」は「東京」へ向かう若者たちの踏み台ではない。
この二つは監督の「東京至上主義」から出てきているのではないか。東京以外に日本に都会はなく、あとは全て「田舎」である。「都会(=東京)」は素晴らしく、「田舎(=東京以外)」はくそったれであり、若者は必ず上京しなければならない。自分は新海監督のファンではないので彼が今までどういう映画を撮ってきたかよくしらない。だけど、「君の名は。」を自分なりに解釈するとこういうメッセージがあるように思えて仕方ない。そしてこの発想は「東京以外」にすむ自分としては非常に気持ち悪い。セカイ系だなんたら言われてる人らしいがその手の批判もむべなるかな、と思ってしまうような映画だった。
・追記
一部ブコメに返信
「miruna 軽井沢の田舎のボンボンにはTOKYOがあんなキラキラに見えるんだよきっと。ファーストフードの豊かさを無視してブルジョア高校生がクソ高いカフェでお茶してトラットリアでバイトするんだから。」
これは全くその通りだと思います。自分がなんでこんな増田を書いたかというと恐らく新海監督は長野のご出身(それも関東圏にかなり近い)なので都会=東京なんですよ。彼の原体験にはど田舎(長野)と都会(東京)しかない。近くに札幌や福岡、名古屋のようなそこそこ都会な都市がない。だから地方都市をぶっ飛ばして若者がみな東京にすい寄せられていく話を書いたんだと思います。でもそれは福岡や名古屋、札幌のほうが東京より近いエリアでは微妙に事情が違ってくるはずなんですよね。だから本当はご自身の出身である長野東部を舞台にされたほうがしっくりくると思います。
「Phenomenon あんだけ飛騨を美しく描いてるのにその解釈②はないんじゃない」
この点については「星の降る夜に”『君の名は。』(ネタバレ) - 私設刑務所CHATEAU D'IF http://chateaudif.hatenadiary.com/entry/2016/09/09/232626」というエントリーが自分以上にわかりやすく解説しています。
“ 新海誠本人の田舎への郷愁は景色のみで、ヒロインの言う「都会に行きたい」、東京大好きが本音というところだろうか。彗星には世界が滅びる鬱映画『メランコリア』的な破壊衝動も感じる。人が死ぬ必要はさらさらないけれど、場としての田舎は滅び去れ! 災害描写は3.11メタファーなのだが、滅びるのが予言通り、みたいな乱暴さもあり、ババアの教えや伝統芸能が、街が救われることプラス自分の恋愛のために存在した、というのはすごいナルシシズムだ。 ”
“ ヒロインや友人ら主要登場人物はみんな東京へと去り、親以上の世代のその後は語られないあたり、まさに「親殺し」の物語であったとも言える。”
「メランコリア」は未見なのでよくわかりませんが、自分は「君の名は。」を観て「アクシズが墜落してしまった逆襲のシャア」みたいな映画だなあ、と感じました。人は死ななかったわけですが、彗星の落下自体を「奇跡」で回避できなかったということは、実はかなり絶望的な映画なのではないか、と。彗星の落下は自然現象ですが、その落下を設定したのは監督自身です。彼には田舎の人間(若者以外)を全て抹殺したいという願望があったのでは?少なくとも私は田舎に対する愛着は感じられませんでしたね。
とにかく自分は事実誤認(四葉や彗星の死者数)をたくさんしているということもわかったので、もう一度見返したいと思います。そしたらまた追記を書くかも
新海監督作品の特徴として「見ている間は感情が揺さぶられる」「見終わった後は虚無感のような何とも言えない感覚につつまれる」というのがあると思っています。ただ、それを感じとれるのは主人公に自分をシンクロできるか否かというのが重要な点で、それゆえ「人を選ぶ作品」と言われてしまいます。新海監督作品の楽しみ方は、第三者として物語を傍観するのではなくて、当事者になって物語を体感することだと思うし、それができる作品を作れるのが新海監督の一番スゴイところだと思います。これまでの作品はシンクロの間口が狭かったので一部の人の高評価にとどまっていましたが、君の名は。はシンクロの間口を広げる要因がいくつもあったので多くの人から高評価を受けたのだと思います。その要因を書いてみたいと思います。
先ず、瀧・三葉のダブル主人公で、現代の高校生→大学生→社会人と成長することが大きいですね。ロボットや化物も出てきません。男女ともにシンクロできるし年齢層がグンと広がります。
次に個別にみていくと、
男性が瀧にシンクロできる要因は、瀧のキャラクターが薄いことと三葉がカワイイという点でしょうか。「父子家庭でバイトをして友達がいる」ことは分かりますが細かい描写が省かれています。また「顔・体つきに特徴がなく性格も正義感が強い」ぐらいしか描写がないです。そんな自分を投影しやすいキャラクターなので「方言を話す田舎っ子の三葉」が出たシーンで「カワイイ!」と思えた人は、もうここでほぼシンクロが完了してしまうわけです。男性は見た目に弱いですから。「カワイイ!」と思えら細かいことを考えず感情だけ追っていれば良いわけす。逆にここでシンクロできないと、その後説明不足が続くので最後まで入り込めずに、また細かいことが気になったりして終わってしまいます。
一方で女性には、三葉にシンクロできるようなシチュエーションが用意されています。「田舎が退屈」「厳しい父親がきらい」「東京に行きたい」。女性ならばある程度同意できる環境ではないでしょうか。そこに「イケメンに生まれ変わりたい」という三葉の言葉。で、「正義感がちょっとあってオシャレなカフェで働いている瀧」を出せば「スキ!」となってほぼシンクロ完了です。女性はシチュエーションに弱いですから(たぶん)
「二人が恋愛関係になる描写がない」というコメントをよく見ますが、細い描写は最初にシンクロできた人にはとってはむしろ余計なものと言っても良いかもしれません。シンクロのフェーズが終わったら、あとは美しい背景と歌を使ったPV的な見せ方で一気に物語を流してしまえば良いわけです。
さらに今回の特徴として、
・「会いたい」だけじゃなくて「助けたい」という強い感情がある
・明確なハッピーエンド
という点が加わってよりシンクロが高まることになっています。また「入れ替わり」があるので性別関係なく瀧・三葉にシンクロの余地があることもポイントかと思います。
シンクロさせて体感させることで心の深くに何かを残す。あらためて新海監督ってスゴイなぁと思いました。残念ながシンクロ出来なかった方は次の作品を待ちましょう。
新海誠最新作「君の名は。」はざっくりネタバレしてしまえば「歴史改変して死んだはずの女をよみがえらせる話」だった
まあ死人を蘇らせることを肯定的に描くか否定的に描くかは作家の自由だ
しかし、新海誠は前々作「星を追う子ども」では最終的にそれを否定していなかったか?
「星を追う子ども」はおっさんが主人公の女の子を依代に自分の死んだ妻をよみがえらせようとするが失敗する話だ。
結局死人は蘇らないし、人は喪失を抱えて生きるべきだという作品だ。
作品としてはジブリとエヴァを強引に混ぜ込んでゲド戦記(アニメ)で割ったような出来だったが
ちょうど3・11のタイミングで公開され、震災に対して図らずも一つの回答になっていると感じた。
だのに「君の名は。」ではそれをひっくり返すように、村丸ごとの死をなかったことにしてしまう。
代償として記憶の喪失があるが、最終的に再び巡りあうのでほぼノーリスクである。
新海監督にとって「星を追う子ども」のテーマはどうでもよいものだったのだろうか。
そりゃ監督も人間だから心変わりがあったのかもしれないが、震災を経て死人が蘇るというのをなぜ肯定的に描けるのか。
そんなのは只の願望である。虚妄である。アニメは確かに嘘っぱちだが、
決して麻薬のように現実逃避のために消費されるものであってはならない。
新海誠作品はそりゃあ内向的で童貞臭くてそれが気に入らないという人もいただろうが、
辛いことにちゃんと向き合った上で生きていこうという決意が常に在り、それこそが作家性ではなかったか。
もしもそれを今回やらないことで、辛いことから目を背けてハッピーな映画を作ることで、
君の名は。控えめに言って最高だった。
あまりにも良すぎていてもたってもいられず、この気持ちをひとまず文章にしようと思って書きました。
見てない人はマジでこんな駄文読む価値ないからチケット取って映画行ってきてください。
そして、衝撃。
あれ?こいつらすごく真っ当なキャラ達だぞ?
すごく社交的で友達もいてそれなりに楽しそうな学校生活を過ごしている。
間違っても学校サボって御苑で金麦おばさんと密会なんてしそうにない。
なんかこの時点で、今回の新海監督は今までとは違ったものを作ったんだという実感がビシビシ伝わってきた。
そこからのコミカルな入れ替わりのやり取りはコメディタッチで楽しいんですよ。
TSモノ大好きおじさんとしては、とてもツボなやり取りにニヤニヤしっぱなし。
入れ替わってるのが声からスッと入ってくるから、どんどんのめり込む。
というか二人共めちゃくちゃかわいいし、なんて明るくて楽しい映画なんだ!!
なんて思ってましたよ。
新海監督だってこと忘れて楽しんでたので、中盤隕石落下の下りで
叩き落とされて、そこから這い上がっていく瀧の姿。
で、あのカタワレ時のシーンね。
感動的なのに、口噛み酒やおっぱいで笑かしてくる。
そんなところもすごく楽しかった。
で、マジックが落ちて記憶がなくなっていくシーンは号泣するしかない。
あの、一瞬で音がなくなるシーンは本当に鳥肌が立った。
そこからはずっと泣いてたと思う。
新海イズムみたいなものが全開で、それでもあのハッピーエンド。
で、まず思ったのは、背景。
新海監督の代名詞といえば、あの印象的な背景が上がること多いでしょう。
それが、今回はすごく薄い。
キャラクターの邪魔をしないように、すごく地に足がついた背景になっている。
ただ、一点だけ新海監督らしさを出した部分は彗星の描写でした。
それが効いて、瀧の言う夢のような景色という言葉にすごい臨場感が生まれていたと思います。
メリハリが付いたので、逆に印象的になっていた気がしました
で、でですよ。
あ、これって星を追う子どもと重なるなーと。
まぁその手前でユキちゃん先生が出てきた時点でもうって感じではあるんですが。
そして瀧と三葉の間の繋がりは携帯電話。あ、これってほしのこえかと。
なんか過去作とのオマージュがぐりぐり練りこまれてて、うれしい!うれしすぎる!!
その後も、三葉になった瀧がテッシーの自転車に乗ってるところは信濃新聞のCMを思い浮かべるし、
ラストの就活中の瀧の語る人々の記憶に残るような街づくりがしたいって台詞は大成建設の地図に残る仕事と重なるし、
今まで追ってきた新海監督の作品の思い入れもあって、もう胸が詰まりましたよ!
そしてラストね。
もうあのラスト。
みんな騒いでますけど、あれ秒速5センチメートルですよね。
バッドエンドなんて言われますが、自分はそうは思わないし、それも含めていい作品だと思います。
あのラストはあれでいいんですよ。
出会いないからこそ秒速5センチメートルはあの作品たりえたと思うんです。
でも、タカキには、幸せになって欲しかった、出会って欲しかった。そんな気持ちがあるのもまた事実です。
叶っちゃったよぉぉぉぉっぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!!!!!!
はぁ〜叶っちゃいましたよ。
出会いましたよ。
間を阻む電車にも負けず、ちゃんと振り向いて声をかけて、三葉も振り向いてくれた。
何回かニアミスしてるんですよ。
新宿で、タカキが仕事に押しつぶされて帰る帰路ですら違ってるんですよ。
でも、三葉は毎回きちんと振り向いてくれて、同じ気持ちを共有している。
もちろん君の名は。はそんなオタクの気持ちなんか抜きにしても良い作品です。
ど真ん中どストレートの直球のようなエンタメ作品だと思います。
映画館にカップルや中高生がいっぱいという話を聞いて、当然だと思いました。
それが嬉しくてしょうがありません。
そんな素敵な門出に、こんなオタクにご褒美をくれる。
なんてうれしいんだろう。
新海監督のファンをずっとしてきたからこそのカタルシスがありました。
小説で川村さんがおっしゃっていたように、まさに新海誠の集大成のような映画だったと思います。
そして、そんな君の名は。で初めて新海監督作品を見た人たちが、過去作でも好きな作品を見つけてくれるとうれしいなと思います。
新海誠監督の最新作『君の名は。』が公開から2日で59万人動員だ興行収入7億だ、最終的に60億円見込みだと話題になってて、はてダ時代から棲息しているボンクラな古参はてなーどもが「誰にそんなにウケてんだ」と驚愕してる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/eiga.com/news/20160828/8/
Hoodedcrow1 なんかブコメ見てると把握してない人多いけど、この映画のボリュームゾーンは中高生女子(オタに限らず)ですよ。新海誠だから見ている訳じゃないっす。小説は既に50万部売れてて、主題歌でさらにブーストかけてます。
raitu 新海誠の新作アニメ映画「2日間で観客動員約59万人、興行収入約7億7000万円(26日が約3億4800万円、27日が約4億2200万円)を記録」今回は「君の名は。」という中高女子向けの人気原作であることも寄与してるっぽい
まーこのあたりのブコメが正解だよね。タイムラインを追うとはっきりわかる。
2015.12.10 製作発表・公式サイト開設。2016年8月に東宝配給で全国公開、神木隆之介・上白石萌音の主演が明らかに
4.6 予告PV公開。主題歌と劇伴をRADWIMPSが担当することが明らかに。キャッチフレーズは「この夏、日本中が恋をする。」
6.18 新海監督書き下ろし原作小説刊行(角川文庫)。3日で売り上げ10万部を超える
どう見ても「勝ってから戦ってる」でしょ。最初から、神木隆之介だRADWIMPSだ、やれ「日本中が恋をする」だという要素に惹かれる層を相手どってる。
4月時点で、プリクラをtwitterアイコンにしてる地方の大学生が予告編を観てこんなツイートをしてた。
上映予定の君の名はっていうの
めっちゃ見に行きたい🙄
これ泣くやつや
https://twitter.com/youtyan731/status/725877277683159041
昔ボンクラどものカリスマ?だった新海誠が、こういう人々相手の商売に成功しようとしてるわけ。
しかし、言うほどボンクラどものカリスマだったか?という疑問があるのよね。
新海作品は初期から知ってるけど、ボンクラどもが『秒速五センチメートル』でひっかかりまくっていた「女々しさ」(敢えて言う)が、『ほしのこえ』『雲の向こう、約束の場所』あたりでは逆に若い女性にウケて話題になってた記憶がある。
14年前、『ほしのこえ』が初めて公開されたのが下北沢のトリウッドとゆーミニシアター。『雲の向こう~』も今は亡き渋谷シネマライズ。女性客多かったよ。
新海誠作品は元々そういう文脈でウケてて、扱う主題的にも、こういうふうに勝ってから戦える可能性はバリバリ秘めてた。『秒速~』がむしろ例外的に、当時のはてな村の非モテ文脈に乗せられてたことでヘンな誤読を招いてたんじゃないかと思うけどどうよ?