はてなキーワード: 披露とは
なぜなんだろうな
披露の仕方がマズかったんだろうか(上から目線に感じられた?)
付き合ってる人種の問題なのかな(普段から別の理由で劣等感を刺激されてる?)
1人がそういう反応した程度なら事故ですむけど
20代後半、大学時代の同期で構成された10人ほどのグルーブLINEがあり、今も稼働している。ちなみに大学時代は皆恋人不在。
うち数人は当時からちょくちょく風俗とかに行っている人で、いつからかマッチングアプリに手を出した。別にそれはいいんだが、明らかに身体目当て・遊びの口ぶりで、アプリ内の顔を品評したり、交際してもアプリを続けて浮気してそれがバレたりと色々しでかしている。その一方で女はクソとうそぶいているのでたちが悪い。まあそこまではいい(道理的には良くない)としても、グルーブLINEにそれらエピソードを流してくるので解せない。恋人(曰く結婚も考えてそうだったとか)がいるのに職場の人と逢瀬を重ね、顔がいいしいい感じになったから乗り換えたり、カーセックスもどきした報告なんぞ聞きたくない。アプリは遊びだといいながら、アプリで交際に発展した相手が転勤に着いてこなかったから振ったという報告も聞きたくない。
まあかくいう自分は交際経験は1回のみで今は相手不在だし、なんだかんだ相手がいるその人らに心底では嫉妬しているからこの記事を描いているかもしれないが。そう考えるとクズ行為を肯定しているようで自分もクズい。
できる人ぶったりまともぶったりしてるけど、その実だいぶ拗らせているしコミュニケーション能力が低いから、自分のゴミ袋を開いて、何がくせーのか改めて考えてみたくなった。
と思いたい気持ちが強い。なんでもかんでも「かわいそうな自分」になるための理由をこじつけて、かわいそうな被害者でありたいと行動しているきらいがある。
喧嘩になったら、自分をさりげなく被害者側に置いて話しがちだし。他責傾向が強いといってもいいかも。
ミソジニーか?と言われるとこの辺の判別が難しくて、多分妬みとかの方が近いんだと思う。実際ブスな女とかは全然なんとも思わないので、500%妬みだろうなと書いていて確信した。
ネタマシー。でもめっちゃ努力したいわけじゃないから、生まれつき造形いいひととか口では「素敵だね」なんてニコニコしながら「ずるい」って思うこと多い。
卑屈っぽい言動するけど、それって相手を責めるためであって(へこむ私の演出で罪悪感を刺激しようとする)本当に自分のことだめとは思っていないはず。
だってダメなら改善しようとするし、そんなの受け入れてわざわざ人様に披露することもない。
たぶんちょっとある。わりと他人見下しがち。人様のおかげで今があることを認めきれてない。
それなりに努力したという自負がある分、みんな自分ほど努力してないとかちょっと考えがち。
なんか書き出してみると、本当に自尊心低いんだなと思った。低いから威嚇するみたいな。
原因はaKBあたりからだと思うよ(上手い人もいるけど、ゆきりんとか)
韓国上手いっていってるけど、口パクが殆どだよ。btsは生歌っぽいけどBLACKPINKは被せじゃないかな。たまに生歌披露して酷くて叩かれてるよ〜個人的にはあんな激しいダンスしながら顔もキメてるから歌下手でもしょうがないかな〜って思ってるよ。
今現在歌が上手いアイドルを求めるならベビメタが1番じゃないかなぁ〜スゥメタルちゃんはマジで上手いよ。さすがaksの特待生ってだけあるよ。
あとハロプロとかスタダは、上手いかどうか別として生歌だよ(上手いメンバーもいるよ、)下手だと酷評されて毎回可哀想だよ〜
地上波で有名なアイドル(NiziUとか)が生歌で酷かったりすると、後々めんどいんじゃないかなこのご時世。アンチとか、それ以外にもネットで自由に感想書く人いるし。
アクティブヒアリングするプロのカウンセラー使ったら解決しそう (anond:20200721180526)
相談者が期待しているのは「解決」ではなくて
○ 「傾聴」の英語は「active hearing」
「傾聴」は英語で「active hearing」または「attentive hearing」です。「active hearing」は臨床心理学で「積極的傾聴」と呼ばれ、アメリカの心理学者カール・ロジャースが提唱した手法として知られています。
○ 傾聴:共感的理解
「共感的理解」とは「相手の視点、相手の立場に立ち、相手の気持ちや話の内容に共感しながら聴き入れることです。「共感する」という行いは相手にとって「話を聴いてくれている」「認めてくれている」という安心感を与えてくれます。
○ 傾聴:無条件の肯定的関心
「無条件の肯定的関心」とは、聴き手の私的な感情を取っ払い、無条件で肯定的に話を聴くことです。たとえ、話の内容に誤りや間違いがあっても、また社会的に反する内容であっても、否定をせず関心を持って聴く技法です。
○ 傾聴:自己一致
「自己一致」とは、聴き手自身の感情や意見も尊重し、相手の話で理解できない点がある時は内容を確認しながら、真摯な姿勢で話を聴いていくという技法です。分からない点をそのまま置き去りしてしまうと、相手に「私の話はそれほど重要ではない」と誤解を招いてしまうこともあるでしょう。質問と答えを確認する行程が加わりますが、相互理解はお互いに安心感を与えてくれます。
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会社の福利厚生でカウンセラー使えたので試したけど、素晴らしいプロフェッショナル意識だなぁと思ったよ
カウンセラーの人を誘導してカウンセラーの人が不利になるような言質を取ろうとしたけど
カウンセラーの人はキレなかったかつ不快感を全然表に出さなかったよ
すごく感心した
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そんなのクレーマーに耐える接客業と同じで、 彼らはみんなが嫌がる人間の相手をすることで対価をもらうんだから、 逆キレしないことは最低限の技能だよ
タモリさんが笑っていいともで披露していたんだけど、彼のスーツには「フェラチオ・ボッキーニ」というタグが付いているそうだ。
もちろんそんなブランド存在しないので、冗談がてらオーダーの時にタグまでオリジナルにしてしまってるんだろう。
「名前の刺繍入りのスーツがステータス」なんて言う人もいるけれど、こう言う「大人ならではの悪ふざけ」ならお金かけるのも面白そうだと思わないではない。
「カジマ」
しかし呼ばれたのは、その視線を突き抜けた先、俺の真後ろの席にいたクラスメートの名前だった。
「お前がやってみろ」
「えー、自分っすか?」
目が合ったというのに、明らかに俺を当てるのを避けた。
何らかの力が働いたってことだ。
再現の失敗に落胆こそしたが、結果として大きな成果を得られた。
ここに来て明確な謎が、ようやっと目の前に浮かび上がったんだ。
「はあ……カジマ、もう書かなくていい。前途ある若者の手を、無駄にチョークで汚したくない」
「えー、まだ書ききってないっすよ」
「そもそも2次方程式で、その問題は解けない。更に言うと計算も間違ってる」
前回と同じように行動したにも関わらず、全く異なる結果。
これは何らかの要素、或いは条件に過不足があるからだろう。
まずは不確定要素となりやすい外的要因の精査だ。
「ちょっと、よろしいですか。先ほどの授業について質問があるのですが」
「ほう、質問しなければ分からないような教え方をした覚えはないが、君の向上心を尊重して貴重なハーフタイムを割いてあげよう」
「ありがとうございます。では先ほどの問題をカジマに答えさせたのは何故ですか。直前で俺と目が合ったのに」
シマウマ先生は怪訝な表情をすると、これ見よがしに大きい溜め息を吐いてみせた。
「教師人生20余年、生徒が私にしてきた質問の中でも五指に入るナンセンスさだな。大した意図も目的もなく人にモノを尋ねるのは無知無学以前の問題だ」
よほど俺の質問が期待はずれだったらしく、彼は嫌味たっぷりの説教を披露する。
「ちなみに1位は『バナナはおやつに入りますか』だ。おやつに入らなかったら遠足で1房もってくるのか? それ全部、食べきれるのか?」
こんなことを喋ってるくらいなら、さっさと答えた方が手っ取り早いだろうに。
まあ、彼の反応も分からなくはない。
科目に関する補足説明を求めてくるかと思えば、直接的には関係のない質問をしてきたのだから。
俺が教師の仕事を邪魔する、大人をおちょくるしか能がない不健康優良児に見えたのだろう。
否が応でも答えてもらわねばならない。
「先生、どー、どー」
捲くし立てるシマウマ先生の顔前に、俺は勢いよく手を突き出し、彼の言葉を無理やり静止した。
「な、なんだそれは」
「落ち着いてください。あなたにとってクダらないことも、誰かにとっては意外と重要だったりするんです。俺の向上心を本気で尊重するつもりがあるのなら、皮肉じゃなく回答に言葉を尽くしてくれませんか」
俺がそう言うと、彼はバツが悪そうに「ふん」と鼻を鳴らし、渋々と理由を説明し始めた。
この回のMVPは船木さん,竹内さんの2人。ともに初披露曲も含めて高いレベルのパフォーマンスを披露していた。特に船木さんの『もらい泣き』には本当に驚いた。
次いで岸本さん,宮本さん。岸本さんは『大阪で生まれた女』の謎のイロモノ感がなければ船木さん竹内さんに匹敵。宮本さんはとにかく全ての楽曲を「宮本佳林色」に染める能力が半端なく高い。
初披露曲を含めた全般的なレベルの高さでは,安定感のある井上さんが一歩抜きんでていた印象。前田さんがそれに次ぐ感じ。
他方,新鮮な驚きを与えてくれたのは笠原さんの『おとなの掟』。これに挑戦して初披露であのレベルのアウトプットはすごい。この曲を知らなそうな会場を置き去りにしていく感が最高だった。MCで本人が希望して歌ったとわかったが,笠原さんにはハロプロの価値観にとらわれず今後も自由にアイドルを生きてほしい。
佐々木さんの 『ハナミズキ』,小野さんの『I LOVE YOU』,平井さんの『海の声』は,それぞれさすがという感じ。やはり披露している回数の多い曲はパフォーマンスが安定してるだけでなく進化してたりするので出来が良いし面白い。
イギリス人のブルマーの調査から、ずいぶん遠くまで来た。脱線に脱線を重ねてきた結果だ。しかし、昔から気になっていたので、バレエのチュチュ(ふわっとしたスカートみたいなあれ)についても調べておこうと思う。子どもの頃に、やっぱりこれがエッチだと思ったからだけではない。どんなことでも、疑問を持ったならば調べることは大切だからだ。それに、こういう素朴な疑問だけれども面と向かって聞きにくいことについて調査し、書き留めておくことは、誤った憶測に対抗する上での価値があると信じている。
これは、単純にお尻フェチだとかパンチラ萌えだとかだけの話ではない。僕たちの欲望がどのような仕組みになっているのか、そして欲望を喚起するシステムがどのように働いているのかを理解することは、逆説的に欲望の暴走をコントロールすることにつながるはずだ。言い換えるならば、社会が求めている女性像/男性像から自由になる手段であり、政治や広告から発せられる都合のいいメッセージから身を守るすべにもなる。
前置きが長く、堅苦しくなってしまった。どうか肩の力を抜いて読んでいただきたい。
https://tutusthatdance.com/blogs/faq/parts-of-a-tutu
これは、クラシック・バレエのチュチュの基本的な構造である。pantyと書かれている項目に、「ここにフリルが縫い付けられる」と書かれている。要するにお尻の曲線はそこまで丸見えにはならないのである。
しかし、このフリルにもいくつか種類がある。英語版wikipediaのtutuの項目には、現代のチュチュとして、次の4つが挙げられている。
短く硬い、釣り鐘状のスカートを持ったチュチュ。通例、パンケーキ・チュチュより長い。ドガの作品で多く見られる。
これだけを調べるのにも、意外と時間がかかった。当たり前だが、カタログの写真では普通、スカートの中まで写さない(というか、写すべきでもないだろう)。「inside pancake tutu」では、こういう資料は見つけたが。
https://www.pinterest.jp/pin/560487116124411506/
http://4.bp.blogspot.com/_Ozo7z2zkqWs/S-i2wVfcR1I/AAAAAAAACYQ/zDek9ewzWno/s1600/platter.jpg
世の中には私と同じような疑問を持つ御仁もいらっしゃるようである。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11205496201
さて、ウィキペディアのチュチュの項目を見ると、「ツン」というパンツ部分を指す言葉が出ている。引用すると「ツン(Tune)はスカートと一体になったチュチュのパンツ部分。……(中略)……構造的にロマンティック・チュチュには存在せず、ロマンティック・チュチュではバレリーナは下着としてステージ・ショーツを別途着用する(広義では、これもツンと称する場合もある)」となっており、幾分ややこしい。
また、その下着の項には「チュチュを身に付ける際は下着として薄手のキャミソールレオタード状をしたバレエ・ファウンデーションを着用する……(中略)……色はほとんどの場合ベージュ系である」との記載がある。
要するに、レオタードみたいになっている場合は普通に下着を身に着けるし、パンツ部分がチュチュと分かれているものでも、オーバーパンツをはいているわけである。当たり前ではあるが。
ロマンティック・チュチュは1832年、「ラ・シルフィード」で初めて案出されたらしいので、先ほどのツンについての記述と比べれば、現代につながるフリル付きの見せパンの起源はそこにある、と判断できそうである。ただし、英語版wikipediaには「ツン」の項目はなかった。
また、興味深いのは注釈の「ただし、アンダースコートとは異なり、ツンのフリルは横方向よりも縦方向に付けられる場合が多い」という個所だ。確かにさっきの画像でもそうなっていた。フリルの趣味の時代的変遷だろうか?
Wikipedia英語版のballetの記事でバレエの歴史を振り返ると、拾い読みだが、次のような流れになっている。
まず、バレエの起源はルネサンス期の宮廷でのダンスにさかのぼる(ルイ14世も踊ったほどだ)。それが徐々に劇場で公演されるようになった。
17世紀の頃は、女性の衣装は重たい生地と膝丈のスカートで構成されていて、動きやしぐさを出すのが難しかった。しかし、これでは動きやジェスチャーに制限ができてしまう。これが18世紀になると、スカートは地面から数インチの高さになる。色はパステルカラーが主流となり、さまざまな飾りが華やかでフェミニンなスタイルを強調するようになる。現在踊られているバレエでは一番古いものがこの時代で、「ラ・シルフィード」「ジゼル」が知られる。以下は18世紀の絵画だ。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/MarieSalle.jpg
19世紀初頭には、身体にぴったりとフィットした衣装が用いられるようになる。具体的にはコルセットが導入され、身体のラインが見えるようになった。また、花冠、コサージュ、宝石などの小道具も導入された。クラシック・バレエでは「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」がよく知られる。次の画像では、少しスカートが短くなっているのが確認できる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/72/Giselle_-Carlotta_Grisi_-1841_-2.jpg
そして20世紀、バレリーナのスカートは膝丈のチュチュとなった。正確なポワント(足の技)を披露するためである。舞台衣装の色も鮮やかに変わった。20世紀の作品としては、「牧神の午後」「春の祭典」が名高い。1910年の写真を貼る。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Agrippina_Vaganova_-Esmeralda_1910.jpg
https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Grace_in_winter,_contemporary_ballet.jpg
画像をご覧いただければ、スカート丈がどんどん短くなっていくのがよくわかる。
さて、結論を述べよう。Wikipediaによれば、衣装が重いと細やかな表現ができないのと、脚を使ったテクニックを見せるようになったため、スカートが短くなったようである。
ちなみに、海賊というバレエでは、へそ出しの衣装も存在しているらしい。確かにbunkamuraに食事に行ったとき、バレエの衣装を展示していたが、そこにへそ出しファッションの衣装があったことを思い出した。バレエにしては大胆だと思った覚えがある。
ブックマークのコメントはありがたく読ませていただいており、不快だというお叱りも真摯に受け止めたく思っている。確かにパンツじゃないのにパンチラに見えてしまって欲情する人がいるってのは幾分デリケートな話題であり、増田ではないとやりづらい。また、どの程度ユーモアを交えて描くか匙加減も難しい。それを受けて、少し考えておきたい。
僕は割と美術鑑賞が好きで、ドガの作品も好きなのだが、その背景を知っていると、手放しで褒めることはできない。再びウィキペディアから引用しよう。日本語版からだ。
エドガー・ドガがバレエダンサーを描いていた頃、バレエダンサーは現在と違い地位の低い人が身を立てるためにやっていたため、バレエダンサーは蔑まれていた。主役以外のダンサーは薄給で生活しており、パトロン無しでは生活するのが困難だったとされる。パトロン達は当然男性が多く、女性ダンサーを娼婦の如く扱っていたと言われる。かくして、フランスのバレエ界から男性ダンサーはいなくなり、フランスのバレエは低俗化することになる。
もちろん、どんな事情があったとしても、弱い存在を表現しようとしたドガの作品の価値は損なわれない。しかし、僕は問わねばなるまい。スカートが短くなったのは、果たして本当にダンサーの意志だったのか、と。そして、女性が身体を見せるようになった流れの誕生は、観客も共犯だったのではないか。こうして性的好奇心を持ってしまう僕も、同じではないか。
もちろん、過去のことだからわからないことが多いし、究極的には真相は明らかにならないかもしれない。女性が美しい肢体を見せたいと思ったとしても、それは男性が主流だった時代の文化の中で育ったからそう思っただけなのかもしれず、どこまで本当に主体的に判断したかの判断は難しい。とはいえ、過去の人間が何を考えていたのか、それはどの程度自分だけの決断によって決められたことか、証拠が不十分なままでこちらが断定するのは越権行為だろう。
しかしながら、現代に生きる僕らは、自分が主体的にしていると思っている行動の多くも、無意識のうちに同時代の文化に支配されていることには、自覚的であることが求められるだろう。欲望の仕組みを知るとは、そういうことだ。読者諸氏も、自分のフェチの起源を考えてみると、きっと得るものがあると思う。
身体を使った表現と性の問題は扱いが厄介だ。ただでさえスポーツは厳しい師弟関係でパワハラになる危険があるうえに、新体操などの身体表現のあるスポーツでは、性暴力にまつわる訴訟は絶えない。
スポーツではないが、芸術と性も深い関係にある。どちらも人間の根源に根差しており、安易に善悪を論じることが困難だ。バレエも例外ではない。師弟の間で身体が親密に触れあい過ぎて恋愛関係になってしまう例がある。美しさへの憧れが恋愛感情や欲望と混同されることだってある。現に、男女だけでなく、ディアギレフとニジンスキ―の同性愛関係もよく知られている。こうしたことが、後から振り返ってみれば不適切な関係だった、師弟の力関係を利用していた性暴力だった、と判断されることにもなるかもしれない。とはいえ、これらは個々の具体例によって判断すべきだ。正直なところ手に余るし、多くの人の人生について書くことになる。ここでは語りつくせない。
今までこうした社会的な側面から女性のファッションの歴史に触れてこなかったのは、元々は衣装そのものの歴史を書きたかったのであり、社会の反応まで行くと本題がその中に埋もれてしまうことを恐れてのことだった。しかしながら、ドガが好きな自分としては、いい機会なのでここで一言断っておく必要がある、と感じた次第である。
何を好きになっていいし、対象にはどんな感情を抱いてもいいと思うけれど、歴史や経緯は知っておきたい。それが、芸術やスポーツに励む女性に性的な魅力を感じてしまう僕なりの折り合いのつけ方だ。そして、盗撮などの犯罪には断固反対する。
今回の調査では、見せパンの起源と推測される年代までは確認できた。しかし、細部は依然として明らかではないため、何らかの形で補完したい。
そこから、メイド服、またはロリータ服における、見られても恥ずかしくない下着について調べるかもしれない(知識がほぼないのでとんでもない誤解かもしれない)。または、キャバレーでのラインダンスやバニーガールについて、になるかもしれない。あるいは、再びブルマーに回帰するかもしれない。それは明日の気分次第だ。
とはいえ、しばらくは休みたい。自分の欲望やその起源について考えることは有意義であったし、文章化することで過度のブルマーへの執着やフェティシズムは手放すことができたからだ。一段落した感じがある。この言語化は妖怪に名前を付けて対処法を見つけたようなものだろうか。どろどろ、もやもやした不可解なブルマーに対する欲望が、知的なものとして把握できるようになった。
つまり、増田に欲望を垂れ流すことで、落ち着くことができた。知識が増えて勉強になったという肯定的な意見、ねちっこく不快だという否定的な意見、どちらも自分の姿を客観的に見せてくれた。すべての意見に対して、ここに感謝の言葉を述べたい。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando#/media/File:Edgar_Degas,_Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando,_1879.jpg
正直今まではVTuberに対して負の感情は持っていなかったが「学生キャラなのに平日の昼間や深夜に配信とかしてる時点でリアリティ皆無だよね」などと割と冷めた目で見ていた。
しかし、とある動画がきっかけで見る目が一気に変わってしまった。
動画を見たきっかけは本当になんとなくだった。でびでび・でびる(以下でびちゃん)のことは一応以前から知っておりデザイン自体はかなり好みだので、3Dモデルの配信が行われたと知って興味本位で見てみただけだった。
結果どハマりした。
声も動きも喋り方も全てが可愛らしくて、動画を見終わる頃にはすっかりでびちゃんの虜になっていた。
でびるるやでびリオンにもハマり、気づけばるるちゃんとリオンちゃんのチャンネルも登録して、他のでびちゃんと多くコラボしているにじさんじメンバーについても勉強し始めた。
でびちゃんの動画を見れば見るほど、でびでび・でびるというキャラクターの完成度と中の人のRPの完璧さに驚愕した。
VTuberは作り物ではあるが、そのクオリティが高ければ本物になるんだなと思った。
今では空いた時間にでびちゃんの動画や配信を見るのが日々の楽しみとなっている。
やろうが被ってるっていうクソ薄弱な根拠でえらく威勢の良いことを抜かしますね 死にさらせ
もとのデマエピソード自体はまあ45点くらいやってもいいから見逃せるんだが、これをドヤ顔で披露してる層が本当に気色悪い
というか、愛の告白くらい自分の言葉でやれないのか?マジで漱石の引用なんだったらまだしも、デマっていうのが致命的
別に知名度が命っていうんじゃないけども有名人のイメージに乗っかった軽薄なデマを「素敵」で「気の利いた」「粋な」ものとして扱いつつ「文学を知ってるオレ……」と思ってるのがウンチの極み
お前が水草の種だったとして砂漠のど真ん中に置かれて咲けるのかよ?
いや違うじゃん その理屈だと「お前がさっき食べたリンゴはいまスーパーに並んでいるリンゴなんだ、だからお前は泥棒」みたいな話になってくる
ものによるだろ
つか自意識過剰すぎる 深淵さんも忙しいんだからお前のごときカスに覗かれても気に留めねえよ
そんなん道の意味ねえだろ
できた道の方振り返ったらどうなるんだ?ええ?
一度通った道は2度と通らない縛りか?つまんねえ生き方ですこと!
実際失敗したらそれなりにデカいペナルティがあるじゃねえか 「いい」じゃねえんだよ 実際悪いから困ってんだろ
ヘドが出るというのは嘘ですが、最悪
生へのやる気がある人間はどんな境遇になっても前向きになれていいよなあ 恵まれてると言わざるを得ない環境でも全然楽しくないしやる気も出なくてドンドン落ちていくやつの気持ちがわかるか?
死んだらどうするんだ?
つか死ってそんなに重いかよ 死ぬより嫌なことって無数にない?なんなら大概のことは死ぬより嫌だけどな 死そのものは別に嫌じゃなくてその前の苦しみが嫌、要求される努力がその苦しみに匹敵する そういうことだろ
先週金曜の夜、私は仕事を終えいつものように車に乗って帰宅しようとしていた
会社から自宅まで普通なら片道30分程度だが、朝夕のラッシュ時は1時間近くかかる
特に混むのが自宅少し手前にある右折専用レーンのある交差点である
片側2車線なのだが右折待ちの車が多いため、1キロくらい手前から右側車線の流れが非常に悪くなる
ぎりぎりまで左側車線を走って右側車線へ割り込めればいいのだが、「順番抜かしは許さない!」という鉄の結束のもと地元のドライバーたちは絶対に割り込みを許さないので
下手に左側車線にいくと右側車線に戻ることが出来ず、曲がりたいところを曲がれないまま交差点を通過しかなり先の交差点まで行ったところでUターンを余儀なくされる恐怖の交差点なのである
その日も私は右側車線をノロノロと進んでいた すると私の後ろにいた白い軽自動車が左側車線へ車線変更し私を追い抜いていった
軽自動車を運転するおっさんの横顔を見ながら私は「無茶するなあ 何をそんなに急いでるんだか…」と考えた
仕事で取引先との待ち合わせに遅れそう?風俗店を予約してて予約の時間に遅れそう?などと勝手に理由を色々と想像しながら私は車を走らせた
すると左側車線も道路沿いのドライブスルーに入ろうとする車などで混んでおり、私は先ほどのおっさんの車に追いつき並走する形となってしまった
右折レーンの交差点は近づいてきており焦るおっさん、私と私の前そして私の後ろの車は息のぴったりあったアクセルワークを披露しおっさんに割り込む隙を一切与えなかった
だが私はさきほど見たおっさんの車のナンバーが9-11だったことを思い出し、ひとつの可能性に気付いた
「今日は9月11日、車のナンバーは子供の誕生日?子供の誕生日を祝うために急いで帰宅しているのかも…」
右折レーンは目の前に迫ってきており、もう少し進むと車線変更禁止ゾーンというところでおっさんは私の前に割り込もうとウインカーを点滅させてきた
割り込めるだけの車間は無く私がそのまま走ればおっさんは割り込めない、だが私はブレーキを軽く踏み私の前におっさんを割り込ませてやることにした
割り込みに成功したおっさんはハザードを点滅させた 点滅回数は4回 それが私には「す・ま・ん・な」というおっさんのお礼に感じられた
「気にしなくていい それより子供誕生日を祝ってやってくれ」という気持ちを込めて私は「え・え・ん・や・で」と5回クラクションを鳴らした
最後の「で」にはおっさん頑張れというエールを込めてより長めに、「プップップップップーーーーーーーーーーーーーーッ」とクラクションを鳴らした
「うんち」、「バーカ」、「アホ」、「でもキモ」、「パンティー」、「?」 などなどなんでもありの増田だ
オリジナル分析を披露してはいけないと言うルールがないし、しないで🥺に従う義務がない
ただ本当に気になるのは、
って感じですわ
まぁ、ブクマカもいつもの面々が揃っているようなのでこれも カテゴリタグ [よくあるやつ]
あのさ、
「変な顔!!!」って言うのが100点だということを学びました。
どちらとも言えない煙に巻くグレーな感じだし
みんなもさ、
そういう時は「変な顔!」って言ってあげてね。
誰も傷つかないわ。
ところで、
ってテツアンドトモさんの
なんでだろうってメロディーに合わせて歌いながらピコピコハンマーで叩きたくなる気分だけど、
人がせっかく数えているときに声かけるの気が散ってしかたないから
ちょっと今数え中です!って
メールで送ってくれてもいいのよ!って隣の部署の人たちに言いたいところだけど、
エクセルを見て下さい!って言うと、
エクセルをうまく見ることが出来なくて、
プリントアウトしてって言うのなんでだろう~って
ピコピコハンマーで叩きたくなるんだけど、
そこは常識にとらわれないで、
一瞬ハッとしてグッと我慢よ。
せっかくピコピコハンマーで叩くんなら、
穴の空いた箱から頭出してもらって、
テツアンドトモさんのメロディーに合わせてモグラ叩きゲームが出来たら
ストレスも同時に発散と発汗!
ちょっと韻を踏んじゃってるけど
ラッパー並みに何かに感謝したい気持ちをぶつけることも肝心かなと思ったわ。
数を数えているときに、
呼び掛けられても
マジ感謝!
今日の学びね。
人は日々何か一つを学んでいけば、
一生までに65535個のいいことを学べるから
もうそんな小学館が発行してそうな学び大辞典なみの学びを学ばなければならないし、
まず学ぶ前にはお腹が空いては始まらない戦の火蓋が切って落とされるわけで
もう何十回と過ちを犯している、
蟹食べに行きたい歌を予約したつもりだったけど、
「アジアの純真」が掛かって、
一向にあのサビの蟹食べ行こう!って気持ちよく歌えないあの曲なんだったっけ?って現象はいわばパフィーとも言い過ぎても過言ではない、
昼でも夜でも、
とにかく私は蟹食べたい気分を収めるために、
いい加減その蟹食べに行きたい歌の題名を学ばなければと思う今日この頃でもあったわ。
蟹よりも香り箱食べたくなったわ。
やっぱり人は日々学びね。
うふふ。
それ以外の何か最強に美味しそうなその日のサンドイッチのスタメンのなかから先発を選ぶのが私の監督業としての仕事かしら。
ほどよくピンクの色の付いたレモンの香り豊でミントの爽やかさも併せ持つという、
二度と再現出来ないのが玉に瑕だけど、
そこはしょうがないわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
タイトルが全てなんだけど。
激務な代わりに収入も貯蓄もあって5-10年は引きこもれると言ってた友人が家庭環境の変化で仕事を辞め、その後家庭の問題も落ち着いて、「ずっと忙しなかったし少しのんびり趣味でもやって過ごすわ」となってから数年。
最初の1年ぐらいは楽しげに趣味に生きてて「いいなー、羨ましいなー」とか話してたけど、2年目の途中ぐらいから如何にもネットがどこかで拾ってきたような浅い知見を披露することや、著名人を含め他人を非難するような発言が増えてきた。
3-4年ぐらい経った今となっては話しててもすぐに何かの批判になったり、自分の経験だけから何かを決めつけるような発言が増えて、話すのもしんどくなってきた。
元々は大らかでやたらと自慢したり他人をすぐに批判したりするようなタイプではなく、また忙しいながらも色々な本を読み、「賢者は歴史に学ぶ」のように思い込みを排除して判断しようと努めるようなタイプだったのに。
また、彼の変化も残念なんだけど、仕事を辞めてどうしても他人との関わりが減ると、人間、ネット等のパッと見やすい意見に流されてこの様になってしまう者なのだろうかと、早期引退を考えそれなりに貯蓄等している自分も怖くなってきた。
また、彼に前のように戻ってもらう方法はないのだろうか。
誰か知っていたら教えて欲しい。