はてなキーワード: 史跡とは
時期もあってか最近怖い話を青い鳥で見かけてうん年前に体験した少し怖い不思議な体験の話を思い出し、書きました。
私は幽霊なんて見たことも感じたことも無いような、そこらにいる漫画やゲームが大好きな人間、俗に言うオタクってやつです。
好きや漫画もアニメもゲームの作品を自分の作品に対する思いや熱を込めて絵描いたりする二次創作も好きで、長年やっています。
ここ数年は推しの作品やキャラクターを写真の中で再現する、コスプレというジャンルも手を出してます。
その時体験した話です。
数年前に管理者のご好意で許可を頂き、とある史跡でコスプレの撮影をする事になった。
史跡といっても大昔に大きめな戦いがあり、ほぼ何もなくなってしまい、緑が広がる田舎の景色によくあるような場所である。
そんな大自然溢れるような史跡に何回か遊びに行った事があり、まあ馴れ親しんではいました。
一時期は月2.3で通うくらいに。今思えばなんであんなに行ってたんだろ?憑いてた??(笑)
撮影日当日、小雨が降っていて撮影できるだろうかと思いながら、確か朝の8時くらいに家を出た。
田舎でも店が立ち並ぶ大きな通りから山の方へと田んぼや畑、民家が広がる田舎道へと入る。
何度か行っているとはいえ、道中は細い道や似たような代わり映えしない田園風景の中、車での運転。
あまり自信がなかったので迷わない為に、遅刻しないようにと念の為に車のナビをつけて。
目的地まで半分は過ぎた頃、突然ナビがルートを再検索して変更しました。
今時のナビでは混雑時なんかに新たなルートを勝手に検索みたいなのはよくある事ですが、当時の私の車のナビには道を間違えない限りそんな機能なんてなかったのでビックリした覚えがあります。
道を間違えたのか?と見たら、いつも曲がる所とは逆の道を曲がれ、との指示。
私が知らないだけで近道があるのか!と、当時は思ってナビが言うがままに従い、その道を曲がりました。
閑静な住宅地から段々と古い民家がポツ…ポツ…と少し立ち並ぶ、更に田園風景が広がる山の方へと。
小山に突き当たり、山の側面といえば良いでしょうか、を伝うように伸びる車二台が通れそうなコンクリート道を通る用にナビに指示されました。
本当にここを通ったら目的地につけるのか?目的地からどれだけ近い場所に今いるのだろうか?と、考えながらもあの時は素直にナビに従って。
その道を登っていくと少しずつ道が細くなっており、当時の私は車免許を取ってそう長い年月は経ってないので、反対車線から車が来ないかハラハラでした。
ふと、左横を見ると大きく伸びた竹林。
その足元にゴロゴロ転がるように緑の苔が生えたり、割れたりしている墓石がバタバタ倒れ、転がっててギョッとした。
素直に「えっ!怖っ!何これ!?手入れしろや!」と内心思ってビビった。今思うと普通に怖いです…。
数メートル先が車1台くらい通れる細い道となっており、その向こうに伸びきった沢山の竹が重さでしなったのか分からないが、曲線を描くように曲がって緑のトンネルを作っていました。
竹のトンネルダァ!キレイダナァ!なんて思ってナビを確認すると、道の先に書いてあるのは「○○史跡霊園」。
ナビはその霊園を突っ切って画面の右隅に少し見えた目的地の史跡に行けと言うんです。
大昔に戦いがあって人が亡くなってる土地な為、出るという噂もあるらしい場所。
(私は何度も訪れ、腐るほど写真を史跡で撮りましたが一回も写ったことはなかったです。写ったらモブ兵がタダで付いてくるな!と友達と言っていたからですかね(笑))
いかにもヤバそうな森林の先に進んで二度と帰れない、みたいな…。
ホラー番組の見過ぎやろ、って今は思いますが当時は「コスプレの撮影あるし、撮影楽しみだし帰れねえのは困る!!」これ1つでした。
ホラー番組を好奇心で見て毎回ビビる奴なんですが、その時はその思いが強かったからか不思議な事に恐怖もクソもなかったです。
そこからはナビの指示をガン無視で車をUターンさせ、山を降りました。
その間もポンポン鳴っては山に、霊園の道へと戻そうとするナビ。
ウザかったので音楽の音量を少し上げて歌を歌いながら元来た道をスピードギリギリで爆走して戻った。
ルートが突然変更された道へと戻るとまたポン!と軽快な音を出しながらナビはルート変更してきた。
いつも曲がる道、いつもと同じルート。
なら初めからそっち案内しろ!遅刻するやん!!と内心キレながら、ロケ地まで慌てて車をかっ飛ばしました。
その後は何事も無く、無事に目的地に着きました。
遅刻はすることなく、なんなら一番乗りについて友達らと撮影を楽しんで無事に帰宅。
ブヨに刺されて後日、足が二倍近く腫れ上がる以外は無事でした!(笑)
後日、ロケ地周辺に住んでいる知人や、この辺の道に詳しい父にこの事を話してそんな道はないか?と聞いてみたが、らしき道はなく、グーグルマップ先生とも長い事にらめっこしたけどそんな道は見当たりませんでした。
史跡の隣は山でそこを突っ切って行ける近道なんてない。
別名の霊園はあっても離れているし、突っ切って史跡まですぐ行ける道なんてなく…。
未だにあればなんだったのかなぁ…と思います。
それ以降は何回足を運んでもそのルートは出ませんし、他のナビもそんな道は検索に出しませんでした。
以上、霊感もクソもない人間が体験した不思議なちょっと怖い話でした。
もし見えてたりしたら、あの竹トンネルに何かいたのかもしれないし、墓石バッタンバッタン祭りのとこに何かいたのかも、と思うと心底見えなくて良かったと思います。
あのまま進んでいたら今頃こうやって、新たな推したちに会えず、ここに書いてすらいなかったのかなぁ…。
あれはなんだったんだ…??
ちなみにそのポンコツナビはマジでポンコツすぎて新品だったのに一年半くらいでぶっ壊れてペルソナチェンジしました。
政権のお気持ちと違うことをする奴は税金泥棒のプロパガンダだから全部ガソリン使って焼いていいらしいよ。
まずは慰安婦なんていなかったって主張する奴らは政府見解に反するから焼こう
古代史を焼こう
中世史を焼こう
近代史を焼こう
研究者を焼こう
史跡を焼こう
遺跡を焼こう
学校を焼こう
プロパガンダはダメだから、美麗にかかれている全ての肖像画を焼こう
プロパガンダはダメだから、意図的に醜くかかれた肖像画を焼こう
プロパガンダはダメだから、政党が広告を出し政治的な話をのせる新聞社や出版社を焼こう
プロパガンダはダメだから、社会にまつわる発言をする市民を焼こう
税金の全く関わらない人や場所なんてないから、私費でやってるものも全て焼こう
社会と関わらない人間なんていないから、何かを生み出す人間を全て焼こう
そしてこの場所には何も残らない
高校生の時にホームステイしたカナダで街中をただ歩いているだけでオープンカーに乗った同年代の白人のガキに生卵ぶつけられて「ギャハハハハッ」と笑われた。
このブコメでもポツポツ似た経験・伝聞が書かれているように、白人国家にアジア人がいれば特に珍しくもないことなんだろう。
はてなブックマーク - NZ銃乱射事件で差別的発言の豪議員 生卵投げつけられる | NHKニュース
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20190317/k10011851281000.html
俺はその時あのオーストラリアの議員みたいにとっさに反撃することはできなくて、そもそも人から卵を投げつけられた認識も最初は無かった。
だって日本じゃありえないでしょ、ただ歩道を歩いてただけで他人から卵投げつけられるなんて?
肩のあたりに軽い衝撃があってベチャッとした感触がするのは大きな鳥のフンでも落ちてきて、それが面白くて隣に止まった格好良い車に乗った白人の男女のグループに指さされて笑われてるのかと思った。
ポケットティッシュで汚れを拭くと卵のカラが混じっていて、やっと卵をぶつけられたことに気づいた時にはガキどもは飽きたのかオープンカーはいなくなっていた。
いやあ、殴ってやりたかったなあ。あの議員の容赦の無い反撃はあの日俺がやりたかったことをやってくれてて爽快だった。
過剰防衛との声もあるけど、あそこは安全な日本じゃないんだから金正男を殺したような劇薬を塗られた可能性もとっさには否定できないんだから、アメリカでモデルガンを向けてきた子供を警官が射殺する程度に容認すべき正当防衛でしょう。ガキ殴って取り押さえたのは。
俺の話に戻ると、日本と比べて乾燥しているせいかすぐに固まって服にこびりついた卵を少しでも取ろうと摘まんだり引っ掻いたりしつつホストファミリーの家に戻りながら考えていたのは、
「嫌われてるんだな」ってこと。
その街は本当に風光明媚で観光客に人気で昔から移民も多い、伝統的に外国人を歓迎する雰囲気があるということになっていた。だから高校のホームステイ先にも選ばれた。
それでこれだからね。
この件の数日前に、史跡見学を引率してくれた現地在住の日本人のガイドさんが「最近この街は中国人の移民や観光客が増えていてマナーが悪くて嫌われてるんだけど、カナダ人は日本人と中国人の区別がつかない人が多いから、とばっちりで日本人まで嫌がられることがあって困る」と軽い雑談っぽく話していた。
朗らかで優しそうなお姉さんがいきなり『差別的』なことを言い出して、俺はギョッとしたんだけど、卵ぶつけられた後は、ああこういうことね、と納得した。
俺は担任教師に卵をぶつけられた件を報告したし、その年は他にもトラブルに遭った生徒が多かったそうだ。
一番酷くて笑えたのは、ホストファミリーの両親がずっと出かけていて、その家の小さい子供の面倒を見させられたケース。ベビーシッター扱いって……でも、英会話学ぶには理想的な状況かも。
生徒の親もこのホームステイに何十万円か出していたので、さすがに問題になって、この年以来、母校のホームステイ先は俺の時のような「色んな人がいる」大きな都市は避けて、住民の所得水準も教育水準も高い大学街だったり、逆に町ぐるみでホームステイを受け入れる体制を整えている(そして住民のほぼ全員が綺麗な英語を話す白人の)田舎町だったりと「画一的で安全な」地域だけが選ばれるようになった。
これはこれで極端というか、そんな無菌室みたいな環境で白人の最良の面だけを見せられて欧米への夢と憧れを膨らませることが、本当に後輩のためになるのかは疑問。
俺は、自分の人格や進路が固まる前に、白人国家で暮らすと一定確率でああいう目に遭うんだなと知ることができたのは良い経験だったと今は思っているので。
俺はカナダで白人嫌いになったし、人に卵をぶつける行為も大嫌いになったんだ。やられた側だからね。
相手が誰であれ動機がなんであれ、人に卵をぶつける奴は、しかも録画して全世界の晒し者にしてやろうなんて根性の奴は、殴られてざまあみろとしか思わない。
自分もまったく同じような遊び方とか人数増加でやってるなあ。
おっさん同士で温泉地行ったり僻地のキャンプ場強襲して(泊まりはしないで)BBQと燻製だけやってみたり(40代ですまん)、渓流で石ころ品評会してみたり(なんか40代ですまん)、小岩井牧場で「うるせえソーセージだけあと二皿だ!」って注文したり(ほんと40代ですまん)。
史跡旅行に行っても本能寺で「匕デョシゎ走った…… ノッブがまってる…… でも……もぅつかれちゃった…でも…… あきらめるのょくなぃって…… 匕デョシゎ……ぉもって……がんばった……でも……ネイル…われて……イタイょ……ゴメン……まにあわなかった……」とか馬鹿言ってゲラゲラ笑ってたりしたし。
ボドゲのサークルで全国にサークルメンバーいるので(オンラインのサークルなので)、地方遠征して地方の過疎温泉旅館でその地方のメンバーと合流してバカゲームしてたりするし。
楽しければそれでいいじゃん……。確かに宿の人に異常に気を使われたりする(いいんですか、うちの宿はそんなに良い温泉もないですけれど、とか、近くに観光地少なくてごめんなさいとか)こともあるんだけど、旅行で楽しいってそういうことばっかじゃないと思うんだけどなあ。
名古屋に行ったときはモーニング食べ歩きだけで三日とかつかっちゃったし。むしろ逆に内容なんてくだらなければくだらないほどいいと思うようになったよ。
https://anond.hatelabo.jp/20180307150402
諦めるのが早すぎる。高い目標の下方修正はいつでもできるが、京大をまた目指しはじめても低い目標を上方修正するのはきついぞ。
年間1-2人だけ京大に行く公立高校に通い、高校1年の4-12月に個別指導の英語だけを週2時間/高校3年の9月-本番まで河合塾の京大数学と京大英語コースを受講、最後の冬休みは河合塾の京大演習コースも受けた。それ以外は独学。結果京大法学部に現役合格した。学校に特進コースはなかったし、クラスは文系と理系の二分のみ。部活には休まず通い(運動系だったが大会は存在していなかった)、高校3年の夏休みとか1日2時間くらいしか勉強してなかった(結果死んだので河合塾行き)。その際のノウハウを共有するから参考にしろ。
学校の定期試験は無視しろ。残り2年間で京大の学力に到達することだけを考えろ。定期試験で点数がとれようととれまいと京大の受験には関係ないし、学校はお前の受験結果に責任を持たない。また、センターはともかく二次試験は完璧を目指すな。京大に入りたいなら合格ラインに達してさえいればいい、たしかせいぜい6割くらいだ。
今の段階で京大受験に必要なセンター科目・二次試験科目を絞れ。そして今後2年間の勉強計画を立てろ。ただし総合的な勉強量は考えておこう。センターで日本史・二次試験で世界史を受験する方針を高校2年で立てた結果2年以降の世界史を完全独学でやり(2-3年は日本史の授業だった)、地獄を見た。普通なら世界史・地理か日本史・地理を選ぶ。このあたりは独学の悪い所で、適宜誰かに相談して方針が変じゃないかどうかを確かめるのは大事。
京大に受かるためには数学に限らずそれ以外の勉強が不可欠。京大を目指していたなら過去問くらいは開いたことがあるだろうが、京大の二次試験は異質だ。ほぼほぼ全ての回答が記述式。これで面食らう人間が多いが、実際のところあれはセンター試験を選択肢なしで解くだけな問題も多い。センター試験の数学がたまに突飛な回答をするのを思い出せ。センター試験レベルの知識が習得できれば、京大の問題は実のところ解けてしまう(勿論一定以上の応用力は必要だが)。とにかく基礎を固めろ。突飛な英単語やドマイナーな歴史知識は不要。
基礎的な勉強は学校で買わされた教科書・文法書・参考書を利用すればいいが、京大レベルだと不足する。今すぐ2ちゃんねる(今では5ちゃんねる)の大学受験板に飛び、各科目の総合スレを開け。そこには10年以上前から構築された知のノウハウがつめこまれている。具体的には各スレのテンプレにある参考書一覧のことだ。俺が受験生だった10年前と比べると今のインターネットはクソまとめアフィリエイトサイトで溢れてしまってるが、あそこに書かれている参考書一覧は今でも変わらず良書だけを選んでいる。各科目、高校3年の夏くらいまでにそこに書かれた京大レベルの参考書を数冊、2周~3周解いている状態を考えろ。それを目指して、どの参考書をいつまでに解いていればいいかを逆算してみてくれ。ギチギチに詰め込む必要はない、むしろゆったり考えろ。あくまで、手持ちの範囲・出来る範囲でスケジュールを組め。
勉強量だが、俺の場合は高校2年の段階から大体1日2-3時間を毎日やっていた。朝起きて1時間、部活が終わって帰宅し、風呂に入って寝る前に1-2時間。試験前はもう少し勉強量を増やした記憶がある。これを基本毎日やること。どこまでやるかじゃなく何分やるかを意識しろ。だが飽きたときはやらなくていい。俺は何度か小説にはまって(ラノベだと戯言とか禁書とかイリヤ、文学方面だと村上春樹や夏目漱石)、後で書いてる散歩だけしかやらない時期が何度もあった。毎日2時間くらいネットサーフィンしていた気もする。ただ高校3年の秋以降は4-5時間に跳ね上がったかもしれない。流石に焦った。
忘れずにやってほしいのが、毎日の各科目ごとの勉強量をメモしておくこと。今すぐ新しいノートを開き、1行目に京大の受験に必要な科目を全て列挙しろ。現代文、古文、数学1、数学A、数学2、数学C、日本史、世界史、生物、英語、英単語etc...そして2行目から、毎日どの科目を自主的に何分勉強したか書いていけ。これをやっておくだけでもモチベーション維持が随分違う。「あの科目しばらくやってないな」というのも一目でわかるから万遍なく勉強ができる。
個人的におすすめなのが、朝か夜に必ず1時間散歩して単語帳or一問一答を声に出して解くことだ。運動しながら勉強をすることで脳が活性化して記憶に定着するとかいう理屈があるらしいが真偽は不明。ただ、散歩することで運動にもなるし、つまらない暗記ものをやるときに家で寝てしまわないという利点がある。勉強の気分転換にもなる。ただ夜にやるときは安全と、女性の場合は治安等に気をつけてくれ、責任は持てない。俺は一度だけ国道沿いの深さ1.5mの側溝に落ちた。
勉強の基本は繰り返しだ。 ただし、漫然と繰り返すな。問題文の頭に○や×、△などで解けたかどうかをチェックしておけ。2周目以降、一度でも正解した問題は飛ばせ。でも解いてからしばらく時間(1ヶ月~半年)が経ったら念のためもう一度解け。たとえば1周目に間違えて2周目に正解したら「×○」、1周目に正解して2周目・3周目は解かなかったが4周目にケアレスミスで間違えたら「○ - - △」みたいな感じに書いていけ。
とにかく「その問題で何回間違えたのか」が視覚的にわかるようにしろ。そうやってチェックをつけていると、「参考書を開いたら、どの問題がミスりやすく、どの問題が得意なのか」、要は復習時の要チェックポイントが一発でわかる。こうしておくと、最終的には数学1A全ての復習が1時間で終わるようになる。
おそらく学校でチャート式を買わされてるだろう。買ってないなら買え。一年間でとにかくそれで勉強を繰り返せ。
勉強方法の基本は写経だ。例文に書いてるやり方でひたすら問題を解く。まずは例題の回答方法を一字一句写経しろ。そして同じ解法で一字一句同じ書き方で解け。数学が苦手なやつによくありがちだが、解答で途中の解法をすっ飛ばすのはNGだ。理由は以下の3つだ。①理屈を何度も書いて覚える必要があること②採点者にとって「すっ飛ばしている部分を回答者が理解しているかどうか」がわからないので×にせざるを得ないこと③京大数学の記述問題は「計算を間違えていても、理屈があっていれば部分点をくれる」ということがままあること。
京大数学を解いたことがあるなら2完とか3完とかいった言葉を聞いたことがあるだろう。あれは全5問のうち3問は全部解答できたという意味であり、つまりは多くの受験者が5問のうち2-3問しか完答できていない(完答できなくても点数は獲得している)ということだ。数学は論理でできている。故に京大数学が重要視しているのは解法の論理を理解しているかどうかという点だ。
だから、とりあえずわからない問題は悩む前に解答例を見てやはり写経しろ。お前の頭で考えるな、答え(=解法の論理)は先達が既に考えてくれる。言っちゃ悪いが高校数学レベルの問題なんてチャートに書いてることがすべてだ、俺は黄色チャートで乗り切った。
もしどうしてもわからない単元がある場合は、このサイトのpdfに載ってる当該単元に関わる章を全部読め。当該サイトは、「1+1がどうして2になるのか」という説明からはじまった高校数学に関する説明を全部やりきる『高校数学+α』というすごい本の全文をpdfとして配布している。最初から通読しようとするのはきついので無理しなくていいが、わからないことがあればこの本を読めば絶対にわかる。
英語は現段階であれば文法書を何周もしておくこと。細かいことは言わん。何周もしろ。あと、英単語帳は今から3ヶ月で一旦全部暗記しろ。高校3年にもなって英単語帳を一からやるのは馬鹿らしすぎるしリソースの無駄遣いだ。1日1時間やれば3ヶ月でどうにかなる。
英単語をはじめて覚えるときに絶対忘れちゃいけないのは「1日でも時間を空けるな」ってことだ。毎日やれ。英単語帳はどれでもいい、どうせ全部覚えるんだから変わらん。覚え方だが、とにかく音読しろ。「accept」という単語があるなら「アクセプト受け取るアクセプト受け取るアクセプト受け取るアクセプト受け取るアクセプト受け取る……」と5回〜10回音読して次の単語に行け。黙読は絶対にやるな、音読して単語の意味を音としてインプット・アウトプットすることに意味がある。ページ単位で考えずに時間で考えろ、10分で一度音読できる範囲まで音読しろ。次の10分で同じ範囲をもう一度最初からやりなおせ。次の20分では新しい範囲で同じことをやれ。最後の20分で全部おさらいしろ。1セット1時間を目処にするといいだろう。これで1日100単語はインプットできるはずだ。勿論翌日には半分以上忘れるしすぐに思い出せない。それが当たり前なので気にするな。大事なのは復習だ。翌日は一度読んだところを20分かけて再度音読しろ。絶対だ。1日後というのが重要で、詳細は忘却曲線でググれ。残りの40分は新しい範囲に時間を費やせ。これを毎日やれば3ヶ月で1冊丸暗記できる。忘れたら忘れたで構わん、再度読み直せ。1週間スパンくらいで全体を再度復習するといいとは思うが、その日に覚えたことを翌日復習するというのを徹底するなら復習頻度は気分でよしなにやれ。
京大英語の恐ろしいところは、主要な問題が英文和訳と日本語英訳だけというところだ。文法の基礎(センターで満点を狙える程度)をがっつり固めるのは当たり前として、それ以外に和訳英訳の練習が必要だ。和訳で絶対におさえておくべきなのが伊藤和夫『英文解釈教室』。今からでいいので買って少しずつ、それこそ3日に1問・1問解くのに1時間かけてもいいから触れておくのがいい。解けなくても、やるときは1時間やれ。解説は精読しろ。
それ以外では、学校での課題・夏休みでの宿題で長文演習問題が出てきたら、全文を和訳するといい。「受験に関係ない宿題をこなす」が「京大英語の演習をおこなう」に変化する。
英訳は逐語訳ではなく意訳の力が求められるのでかなり難しい。そこでサンプルとしておすすめしたいのが『英文対照 天声人語』。天声人語自体の良し悪しは知らん。俺も普段読んでるわけじゃない。ただ、日本語の意を汲み取って逐語訳ではない英訳を集めてるサンプルケース集としては有用だ。
しかしながら、英訳も和訳も独学には限界がある。なのでここは他人を利用しろ。赤本の過去問でもなんでもいいから、演習を解いたものを大人にチェックしてもらえ。一番いいのは京大英語講座に行くことだが地域的な問題で行けない場合もあろう。英語教師にチェック依頼するとかがベターだ。
現代文は知らん、息抜きに小説たくさん読むとかするといい気がする……とぶん投げるのもよくないのだが、いかんせんこの分野は扱いが難しい。なので俺が楽しかった参考書だけ紹介する。
石原千秋の『大学受験のための小説講義』『教養としての大学受験国語』はすごい。大学に入ってから知ったが、石原千秋は文学理論を日本文学に当てはめることほぼほぼ初めて行った研究者で(大学時代の知り合いに教えてもらった知識なので間違ってたらすまん)、現代における漱石研究の第一人者。この人のテクスト読解はすごく楽しい。趣味になるが『謎とき 村上春樹』も最高。
評論系だと『MD現代文・小論文』が主要なトピックスを抑えててよい。大澤真幸が「自由の牢獄」について言及していたので俺はミヒャエル・エンデを知った。ただ(内容ではなく出版年月が)少し古いので一度書店で立ち読みしてみるのがいいかも。
古文・漢文は、基本文法・基本単語をマスターするのが前提として、あとは慣れの部分が大きい。漢文には正直そんなに力入れなかったので割愛するが、古文は小学館の古典文学全集シリーズのうち、平安時代あたりのものを1冊でいいので(たとえば源氏物語の1巻だけとか、当該シリーズ26巻の『和泉式部日記/紫式部日記/更級日記/讃岐典侍日記』とか)読み切る。当該全集は各ページ三段組み=原文・訳文・注釈が同時にチェックできるので、原文を読む上で圧倒的に優れている。文法を暗記しようとか、知識をあまさず覚えようとかしなくていい。でも注釈は全部読め。どの原文がどの訳文と対応しているのかを常に確認しろ。そうすることで時代的な知識を知る事ができるし、何より「古典作品を読んだ」という自信がつく。
日本史・世界史だけは例外的で、高校の授業を一字一句もらさず板書すること。どの事件にどんな背景があって、それがどういった結果につながっていったのか、そういった歴史の流れを理解するのは、教科書・参考書で独学するよりも先生の話を聞いた方が圧倒的に楽。豆知識が記憶の定着に役立つ(先生によるかもしれないが)。複雑な範囲(日本史の近代とか)は自作フローチャートを作れ。骨子の流れを覚えたら参考書で補強。本気で独学すると山川出版『詳説 世界史研究』で死ぬ。575ページあった。
それでもなお世界史を独学すると言うなら、世界史は参考書として『タテから見る世界史』『ヨコから見る世界史』を押さえておくとベター。物事を俯瞰して押さえるのが大事。あと論述対策しておくこと。
生物は正直センターレベルだと独学することがない気がするので、やっぱりセンターで80-90を狙って勉強するのがいい。
政治経済は、申し訳ないが大学時代で知識がアップデートされすぎたのでどう勉強したのか覚えていない。すまん。
後半飽きてしまった部分があるので雑な投げ方していたところもあって申し訳ないが、最後に1つだけ。
俺が挫折を味わったのは京大に入ってからだった。六法の講義が何一つわからないのに周りの人間はすらすらと解いていく。60点で可をとるのが関の山だったのに、その横では「80点に届かないから問題解かなかった(ロースクールの受験には学部成績が影響するのでそういうことが往々にしてある)」という会話がなされている。俺は2回生のときに法曹を目指すのを諦めた。
でも、それと同時にもっと楽しい事・面白いことを沢山知る事ができた。政治学からは価値判断と切り離した広い視点を持つことを学んだし、小野教授の政治思想史からは人類史に通底する観念とその変遷の奥深さを知った。プログラミングにはできないことも多いがそれ以上にできることが多いという、応用力の幅広さに助けられた。京都では、自転車を走らせればすぐ史跡や寺社仏閣に行ける生活が待ってるし『四畳半神話大系』が最高に楽しめるようになる。そんな環境で、自分と同じ興味を持った人間と同じ話ができるというのが何よりすばらしかった。大学時代に比べたら、高校時代の記憶なんてほとんどないし、社会人になってから大学以上に楽しい環境にいたこともない(今の環境がだめという話ではないが)。
京大に限ったことではないと思うが、大学は、色んな学問を研究する色んな人間がひしめきあった結果、知的興奮の機会に満ち溢れている場になっている。もし京大に行けなかったとしても、早稲田や慶応等のある程度一流と言われている大学であれば、絶対にそんな魅力を味わうことができるはずだ。
そしてなにより、今度どうやっていくかに関わらず、勉強を楽しんでほしい。英語の長文演習問題はするする読めるようになるとめっちゃくちゃ面白いし、小説や海外ニュースも読めるようになる。源氏物語は第1帖「桐壺」を全部読むだけでもうるっとくる。高校数学を一種の論理パズルと考えたとき、京大数学の演習問題が異常に楽しいというのはやったことがあるならわかってもらえるはずだ。
健闘を祈る。世界は広い。
おめでとうおめでとう!
ところで増田神社が5箇所も実際にあるらしいよ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE
http://www.miyagi-jinjacho.or.jp/jinja-search/detail.php?code=310010290
・増田神社 (桑名市) - 三重県桑名市鎮座。国の重要無形民俗文化財・伊勢大神楽が奉納される
神楽が有名っぽい。
https://mainichi.jp/articles/20171225/k00/00m/040/030000c
・増田神社 (高松市) - 香川県高松市鎮座。讃岐国の史跡を調査して『三代物語』にまとめた増田家の鎮守神
https://wanikawa.com/jinnjya/takamatu/245_79masu/79masu.html
・増田神社 (唐津市) - 佐賀県唐津市鎮座。殉職した増田敬太郎巡査を祀る。殉職警察官を祀る唯一の神社
明治時代の警察官で、警察官なりたてほやほやでコレラ防疫の任務につき、デスマのあげく本人も感染して亡くなった模様…
佐賀県警察本部-増田神社例大祭 https://www.police.pref.saga.jp/annai/ongakutai/_1690/_2395.html
http://www.kagojinjacho.or.jp/search/kumage/nakatane/post-898.html
円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。
目次 [非表示]
2 遣唐使の渡海の困難
3 天台山を目指すが…
6 長安への求法
7 帰国の旅の苦難
8 関連文献
9 脚注
10 関連項目
794年(延暦13年)下野国都賀郡壬生町(現在の壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏の一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主からは儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。
※生誕地については
などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。
下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ
あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと
石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまらむ
下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん
この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。
安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇の延暦13年、廣智菩薩が大慈寺住職のとき、南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓(現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市の史跡に指定されている。
15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。
836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
※上陸日である唐の開成4年7月2日は日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。
最後の遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分は新羅僧だ」と主張しているが新羅の言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。
当時、中国の山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島の新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅人社会の助けを借りて唐残留に成功(不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝高設立の赤山法華院で聖林という新羅僧から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日~4月28日の58日間)。
840年、五台山を巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山で客死した霊仙三蔵)。法華経と密教の整合性に関する未解決の問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。
当時世界最大の都市にして最先端の文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から約1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅を長安の絵師・王恵に代価6千文で描かせる。
台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子の円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。
しばらくして、唐朝に帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日が最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。
当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安も悪化、不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁の長安暮らしを支えた長安在留の新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島の新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。
この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。
「円仁が無事生きている」という情報は日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。
この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワーの研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。
目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草の浅草寺もそのひとつ(岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。
住んでても俺の検索以下の知識しかない癖に、ジャズやレゲェが横浜の文化?www
文化がないんなら高崎城址も金山箕輪も単なる廃墟かなんかか? 二子に堀越、観音山古墳、竹久夢二歌碑なんてのも出てきたぞ?
高崎駅近くに群馬ダルマの工房、製造店は何か所ある? 重要指定文化財は幾つあるか知ってるんだろうな?
楽しくないんじゃない、オマエが楽しめなかっただけだ。その内に電化製品についていけなくなって音楽もゆっくりしたものを好み、油っぽいものも食えなくなれば分かる。
何もないんじゃなくて何も見えていないんだ。先進的ではないかもしれないが、文化はオマエを楽しませるものじゃなくオマエが参加して一緒に作るんだよ。
――って、熱くなって書いたけどたぶん俺も若かったら同じこと思うわ。
LEDで光るダルマとかVR、ARで史跡と組み合わせたり、なんかやってくれよ。んでネット配信。食い物うまいんだろ?
自分で何かを作るってのは難しいよな。がんばってくれ。
だって元増田は、自分で見つけたり考えたりしないでどうぞ歴史ごらんになってとなってるのしか、楽しめなさそうじゃん。
深大寺なんて、なんであの場所に古いお寺が残ったかなって考えるだけでワクワクするのに
元増田は、寺の見学ルートと観光用の門前町、ゲゲゲ通りあたりを見て人が多いなって感想っぽいじゃん。
それで「一応400年の歴史があるんだし、もっとどうにかならないものかなー」って言われてもさ、
どうにかならなきゃいかんのはどっちだよって話じゃん。
ちげーだろ。「俺がやってる史跡巡りは上等な趣味だがおまえがやってる歴史観光スポット巡りは浦安ネズミ観光と同レベルの下等な趣味」というのが元増田の主張だろ。