はてなキーワード: 中庸とは
今回の件でファンが離れるどころかより一層ファンとジャニーズの絆深まってたな❗️❗️❗️❗️ジャニオタ舐めんな❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️❗️
もっと悪辣な、告発者を中傷したりマスゴミ呼ばわりしたりネトウヨ陰謀論者とのハイブリッドみたいなやつもたくさんいるので、
ここに上げたのはほんとうに中庸の層と思われる。
タレントに対する性搾取構造がなあなあのまま温存されることへの危惧、
性加害者の「名誉」が公に守られ続けることによる性被害者への悪影響、
そんな諸々は彼女たちにとって全く眼中にない。
彼女たちを支配しているのは、タレントを推すという活動の快楽のみである。
彼女たちを浅はかと嘲笑うのは簡単だが、ただ、一般的な日本人より特別に愚かなわけでもない。
日本社会において、社会的な道義や自分なりの正義に基づいて行動できる人はほとんどいない。
逆に行動動機として、社会的道義や正義を掲げようものなら笑いものにされる。
アニメーターが搾取されているのを知りながらアニメを貪り見る人、
ユニクロがウイグルの奴隷労働による綿を使っていると知りながらユニクロの服を着る人、
外国人技能実習生が低賃金で重労働をさせられていると知りながら農作物を食べる人。
みんな、知っているけれど、自分たちの欲望を満たすために一度棚上げにしているだけだ。
こういった状況をどう打破するか。
セクハラはずっと昔から「やってはいけないこと」ではあったが、
ほんの十年前までは棚上げにされていた。
男性の側はそんなことで怒られちゃたまんないよ笑と言い、
女性の側もそのくらいうまくかわせないほうが悪い、コミュ力の問題、と軽くあしらっていた。
しかし、海の向こうで有名人が見せしめのようにセクハラで仕事を干されバッシングを受けると、
とたんに社会全体の「やってはいけないこと」ラインが大幅に下がった。
体型について口にしたり、なんてことをすれば多くの人に眉を顰められるだろう。
彼らを変えるには、結局は社会的に大規模なバッシングと見せしめに非難される人間、つまりは不利益と恐怖が必要となる。
「ジャニーズいつまでも推します!」という人たちも、その「推し」行為が自分たちに快楽でなく苦しみをもたらすと知ればすぐに身を翻すだろう。
彼女らはそういう「ふつう」の人たちなので、痛みを持ってしか学習しない。
だがこの方法には問題があり、一部のカルトめいた信者層は苦しめば苦しむほど強固に耽溺し、エコーチェンバーの沼に浸かっていく。
セクハラを糾弾する声が大きくなる中、ミソジニーたちが凝り固まって言ったのと同じである。
それはさらに十年も放置すれば社会との軋轢によって身を滅ぼしてはいくのだが
(数々の著名人たちが、差別的言動による身の破滅をもって証明してくれたとおり)。
「やり過ぎは毒だ」って。
「大は小を兼ねる」 「材大なれば用を為し難し」
これどっちも真実でしょ?
極端すぎるものは適用範囲を超えるけど、範囲内なら兼ねることができる。
お風呂の温度にしても10度だと冷えすぎだけど、熱くしようとして100度だったら茹でガエルだろ。
ちょうどいい40度前後が個人差でも選べることができるベストだろうが。
結局世の中の真理はいつも中庸にあってブッダが2000年以上前に結論出した答えにいつまでもたどり着けないのが人類に絶望した。
無味な人生を送れって言ってるんじゃなくて丁度いいお風呂の温度を探求すれば?って話。
でも「熱い風呂は健康に悪い!これからは水風呂だ!」もどうなんだよ。そのあと、どうせ「これからは熱い風呂だ!」の揺れ戻しだろ。
極端と極端は完全な中庸を探索するためのツールとして使われるものであるべきなのに、完全に流行を作り出すためのツールに成り下がってる。
人間の一生がたかだか80年程度でクソ雑魚のせいなのもあるけど、歴史からみて人類は同じことの繰り返しが多すぎだろ。
少しずつ前進してるにしてもいい加減、無意味な極端から極端といムーブメントは卒業してほしいんだわ。
個人か社会か?の話にしたってどっちか偏ったら結局全体の幸福度は下がるに決まってんだろ。
インフラが崩壊したら個人の自由が保たれても幸せなのか?財産持つことが許されないけど子供が沢山いりゃ幸せなのか?
違うだろーが。両方だろ目指すべきは。
そのために限られた時間金労力人をどう最高の配分するかが悩みどころなんじゃねーか。
なんでお前ら大半の思想家や政治家や凡人どもは極端なゴールしか設定できねーんだよ。
1日8時間+αで週5働いて、土日は友達と遊んだり夫婦や子供たちとサザエさん観ながらチャンコ鍋をつつく。
大半の凡人で才能のなく努力もできず環境も味方してくれないのが人間だろ。
大金持ちになりたいとかスターになりたいとか好きなことして生きていくなんて、9割の人間が無理なんだよ。
今の個人主義に偏りすぎた西洋社会では多くの人間が不幸になるし、
かといって東側のように個人の自由がなさすぎても文化的につまらない社会しか作れない。
結局のところ西側は拡大しすぎた個人主義にどこにボーダーを設けるのか、開きすぎた格差をどう解消するのかがゴールであって、
それを語らない思想家も政治家も全部まがい物にすぎない。一部の弱者だけを救済したところで解決にならない。
ポリコレやハラスメント問題にしても何でも極端から極端に走ろうとすんのはやめてほしい。
どうせそのあと30年や50年もすればまた元のファッションに戻っていくんだから。実につまらないよ。ダサい。なんの進化もない。
日本もどうせ人口ピラミッドが解消されはじめた前後でまた家長制度の復権に近いようなことが必ず起きる。
どれだけ否定したところで社会が揺れ戻しを起こすことで回復を狙うから「あり得ない」とか言っても現実として起きる。
あり得なくても隕石は地球に落ちてくるし、人間がどれだけ嘘を信じようとしたところで現実に発生するんだからどうしようもない。
極端から極端に映る過程もロスだし、毎回同じことを繰り返して大して進歩してない反省を得るのも本当につまらない。
高校入試が無いからラク出来ると騙されて一貫校の中学入試を受けた。
おもしろ/鬱屈受験録を期待する人は読まないほうがいいです。おれの内的な整理なんで。
元々進研ゼミか塾かの強制二択で前者を取ったのだけど、家にいてもテキストが視界に入るのが不快でたまらなかった。
いつだか、コレ説明不足だろって感じの算数の解説にイライラしてた。添えられたイラストのナントカ君のつっまんねーギャグが異常に癇に障った。きっかけは些細だけど、募る不快が爆発してテキストをクシャクシャにして投げた所を母に見られた。
で、なんか揉めてヤケになって塾に通うって言ったのを覚えてる。
渋々通ってる内に、なぜか入試を受ける運びになってたような気がする。
6年間のまとまったモラトリアムが手に入るなら、まぁ……って自分に言い聞かせた。PSPとモンハンの購入を禁止されたのも我慢した。というか当時は「ダメ」と言われて逆らうって発想が無かった。
そんな感じでマジメというか了見が狭かったんだけど、ある時学校で寺島君に誘われて掃除をサボるという体験をした。自分の人生にサボるという選択肢が現れた。
黙ってPSPを買うほどの勇気、というかその発想は未だ浮かばなかったけど、意を決して塾をサボってみた。
バレなかった。10km離れたイオンまでチャリこいでフードコートに居座ってエヴァ読んでた。実はバレてて初犯だから見逃されてたのかもしれない。
そんで調子こいてサボりまくっていたらバレて、嫌なら辞めろと言われた。
冗談じゃない。塾通いでドブに捨てた日々を今更無かった事にしろと?初めは強要されて、今更辞めて良いと言われたってアンタは私の時間を返してくれるのか?
なんてアンビバレンスな感情に苛まれて泣きながら「通わぜでぐだざい」って頭を下げた。
後日学校で○○塾サボったって本当?と複数人から訊かれた。金輪際母に大事な情報を伝えるのはやめとこって決めた。
まあそんな感じだったけど一応第一志望に受かって、晴れてまとまった6年間を手にした。
合格後になって実は土曜も授業があると知らされた。そんなとてつもない重大情報は真っ先に言えよカス。コイツらの味噌汁に農薬でも混ぜて殺してやろうかな、って本気で思った。
かなりマジで悩んだけど、まあ今更……という事で入学を決めた。
親の意向とは違って上昇志向なんて1ミリも無かったんで、勉強に励む気も毛頭なかった。
初めての定期テストでは当たり前に100点が取れる色刷りのやつに代わって、70とか40とか書かれたザラついたテスト用紙が返ってきた。
学校のテストで平均を割るなんて考えられない体験だった。まあ後の惨状に比べれば全然可愛いもんだったけど。
どこかにあったプライドがやや傷つきはしたけど、そこで悔しさをバネに、なんて気持ちはサラサラ湧かなかった。
目的を忘れちゃいけないからね。ダラけるために小学生時代の放課後を捨てたんだから。ってことでさほどは気にはしなかった。
こんな塾の続きをするために入学したんじゃないんだよおれはって事で、もう勉強は丸投げしようと決めた。授業中は寝るかゲームか買い与えられたばかりのスマホをいじるかだった。
唯一ちゃんと授業受けてた中一1学期に聞いたクリプトコッカスネオフォルマンスとか、バージェス動物群のピカイア、オパビニア、アノマロカリスみたいな単語だけ今でもよく覚えてる。
合格発表の時おれが「これでもう勉強しなくて済む!」って言ってた時にはヘラヘラしてた癖して、いざ入ってみれば成績にグチグチ言う両親を適当にいなしながら、モラトリアムに浸った。
考え事してる内に、自分なりに実存主義や相対主義に辿り着いたりもした。サルトルとかニーチェとかハイデガーを大学入って齧った時、コイツおれじゃんってマジでびっくりしたよね。
道徳の授業で教わるような規範はもうおれにとって意味を持たなかったし、晴れて購入を許可されたゲームが没収されても黙って新しいのをもう一機買うのに罪悪感は微塵もなかった。
歳相応に、というか同年代よりも遥かに時間をかけてアイデンティティとかにも悩んでみた。
こういうのは拗らせた10代の一過性の悩み、で片付けていいもんじゃないと今でも確信してる。厨二とかいわれるような心をすっかり忘れてしまったら人間お終いだと思う。
まあそんなんで順当に成績はカスだったけど、教室の空気を吸ってるだけでも無自覚に上昇志向というか、学歴厨じみた思考が植え付けられてくるんだよね。
高校にもなれば受験の話題が増えて、おれもそれに合わせていった。
こんなに勉強嫌いでも大学受験をする事だけは疑わないんだから恐ろしいもんだね。高卒は人生の落伍者ってかなり本気で思ってた。
最初は勉強もちゃんとやってれば楽しいはずだなんて自分に言い聞かせてみたけど、やっぱり苦痛だった。だから変に楽しもうと工夫なんかしようとしないで、入試の通過手段と割り切っていこうって決めた。
これはそのまま、賃金労働に自己実現だとかやりがいなんか求めず生活の糧と割り切って、軸足は趣味において生きようという人生方針へとスライドしていく。その「割り切り」は後の人生の後悔にも少し繋がってくるんだけど。
そんな感じでやっていって入試に臨んで、まあぼちぼちの結果といった所に落ち着いた。
終わってみれば後出しで後悔も湧いてくるものだけど、進路に関しする始まりは「ダラけたい」だったんだから、小学生の頃の自分への義理はそれなりに果たせたと思う。
大学入ってから、世界史とかロクに聞いてなかったからその辺文脈理解が必要な話にはやっぱり苦労したけど、一人で考え事してた時の内容は宗教学や哲学のレポートを書く時大変に活きてる。
教授から直々にメールで褒められた時はちょっと嬉しかった。大学の勉強は楽しい時もある。大抵ダルいけど。
放っとけばボーっとしてるかたまに好きな事に手を出すだけ、根が遊び人のボンクラだから、環境に下駄を履かされて助かってきた部分はあるんだろうなって思う。
でもアッパーミドルの王道を目指す生き方を非常に中途半端に内面化してしまって、好きにも「べき」にも振り切れないハンパなディレッタント崩れになってしまったよね。
思うままに生きた人生は暗澹たるものだったかもしれないし、もっと肩肘張らずに生きていられたかもしれない。考える意味のない可能性をつい思っちゃうね。
振り切れた生き方をする勇気なんて平凡な人間にはなかなかないし、そのバランスが課題なんだと思う。
たらればを言えばもっと「好き」に振り切れる期間が欲しかったかもしれない。
高校上がってから嫌々ながらも主体的に勉強を始めたと言ったけど、本当はもっと前からハンパな「べき」が心にあったんだよね。
6年のモラトリアム期間だって、何をするにも「こんな過ごし方でいいのか」って水を差してきた。
なんというか幼い白黒思考の潔癖状態の段階で、バランスなんか考えられない状態で相反する価値を抱えてしまって、それでどっちつかずになってしまった感じだな。
中庸って言葉にすればありきたりだけど、そこに実感や納得を乗せられたのはせめてもの学びか。
勉強から逃げて(そもそも最初から立ち向かおうする気なんかなかったんだけど)自意識を煮詰めた時間だけは無駄じゃなかったって、そこだけは確信を持って言える。
でも出口のないナイーブな悩みなんか適当な所で蓋をして、どこかで思考停止して目の前の生活をやってく生き方はある種の賢いものなんだろうなとも思う。
まあ人生なんて結果論でしか語れないだろうし。電源ボタンはあっても、セーブ機能やリセットボタンはないのだし。
君というフィルターは有り様について人がどうするのが良い、とつけるものだったんだね。
中庸の意味がどうであれ人にとは言ってないし良さも言及してないけど、源泉に触れ君から滲み出てくる結果は人について良し悪しのことだと言うわけだ。
加えてバランスについては取り方にベストを「バランスのための重量に任せることに置く」のが君流というわけだね。
広く多く持ちそれらを両端に置くことで、その重さが自分のバランスを取ってくれると。
重みのある者たちはそれぞれ意志があるだろうから君が間に入って両翼を担わせれば、それぞれが自分の重みを維持するために拮抗させてはくれるだろうけど。
その重みを両方から中央で支える君自身の強度については度外視してるんだね。
よほど強靭なのか、勝手にやってくれる人の間に挟まり便乗するだけを狙うのか、それはまだ定かではないんだね。
それはさておき、ハンマーで殴られた衝撃を表現に使って理解されるだろうと想像する君の日常は相当にヤバいものだと思うけど、名言よりまずその鈍器で殴打される人間が存在するであろう日常を口語表現に出してしまう環境って、バランス取ろうとすること自体がすごく危険な気がするので、気をつけてといいたい。
中庸とは:過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。中正。中道。
きっかけは、仕事で行き詰まったときに上司から「お前は極端すぎる」と指摘されたことにある。
先輩に何かを期待していたというわけでもないが、飲みの席で愚痴ってしまったことからこの話が始まった。
「特技を伸ばすことは悪いことではないのに、どうして出る杭は打たれるんですかね」
「中庸っていう教えがあって、何事もバランスがよいことが大事らしいよ」と。
最初は、そうやってこの人もこちらのアンバランスな部分を叩いて直してくるつもりなのだろうと思った。
「ところでバランスが取れてるってどういう状況だと思う?」
「たしかにそうかも知れない。例えば、目の前に高い場所に渡された綱があるとして、自分なら渡るときにどうやってバランスを取る?」
少し考えて、「こんな感じですか?」と両手を広げてバランスを取るふりをしてみた。
「だろ?そういうことだよ。」と先輩は言ったきり喋るのを止めてしまった。
すでに話し終えたかのような顔をしている先輩にさらに問いかける。
すると先輩はゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。要約すると下のようなことらしい。
「バランスを取るということは、その場にお行儀よく立ち止まることではない」
「両手をいっぱいに広げたほうが、当然バランスは取りやすくなる」
「足場が悪ければ悪いほど、綱渡りのように両側に長い棒を持ったほうがよりバランスは取りやすい」
つまり「中庸」とは、中心に収まろう収まろうとすることではなく、両側に大きく手を広げてバランスを取ろうとすることだと言うことらしい。
「バランスを良くしようと大人しくするほどアンバランスになるなんて皮肉だよな」
先輩は笑いながら言った。
それでもわかったようなわからないような顔をしていると、先輩は更に言葉を続けた。
「君がバランスが悪いのは、片手しか広げてないからじゃないかな?その片手を下ろすことも一つの手段だけど、反対の手を広げたほうがバランスがよくなるはずだよ。」
「たとえ受け入れがたい反対意見や手段だとしても、そうしたことに耳を傾けて受け入れてみて、はじめて今よりももっとバランスが良くなるようになるんじゃないかな。」
ハンマーで叩かれたような衝撃だった。
今で言えば、自分は片側だけ目一杯翼を広げている状態だという。
たとえ反対の翼の形が一緒でなくとも、だいたい同じように広げることができればバランスは随分と良くなるに違いない。
今までは自分という出る杭が叩かれることに対し負けてなるものかと意地を張り続けてきたが、こんなふうに考えてみたことは一度もなかった。
少し例えが違うかもしれないけど、「人に迷惑をかけるな」という教えがある。
でも、それは無理だと先輩は言う。
生きている以上は少なからず迷惑をかけるし、むしろその事実から目を背けて「誰にも迷惑をかけていません」と開き直る方が問題なのだと。
そうすれば迷惑をかけられた側だって悪い顔はしないし、それでも嫌がる相手からは距離を置けば良いということがわかる。
言うなれば「迷惑」と「感謝」の翼を両側に広げている状態だと言う。
それも一つ、バランスの良い状態だと言えるのだと思うと、先輩は言った。
付け加えるように、先輩はこの考え方には2つの気づきがあるという話をしてくれた。
「1つは、自分が進みたいという道に向かうことで偏ってしまうかもと恐れる必要は一切ないということ。」
その分、反対側の考え方も同時に身につけていけばバランスが悪くなるということはないし、むしろ良くなるはずだ。
「もう一つは、そのためには自分が進みたい方向に費やす学びの時間と、反対側の考え方に対する学びの時間の2つが必要になるということ。」
なぜなら、今以上に無駄なことに使ってる時間なんてないんだということに焦りすら感じられたからだ。
先輩がいつも何かに興味を持って話を聞いている姿も、難しい話をしているかと思うと突然緊張感のない例え話を切り出したりとする時の姿も、アンバランスのようでどこか安心感があるのはこの考えがもとにあるのかもしれない。
そんなふうに思えた。
もう10年以上前に教えてもらった話を思い出しながら書き起こしてみた。
あれから結局その会社はすぐに辞めてしまったが、それまでの自らの努力が否定されていると思っていた自分にしてみればこの言葉は心強い救いになったし、それからの自分にしてみればそれまでとは世界が全く違って感じられるほどに影響力のある言葉だった。
そんな先輩が亡くなったという知らせが入った。
病気で体調を崩したという話は聞いていたが、見舞いにでも行こうかと考えていた矢先のことだった。
自分には感謝こそ口にすれど迷惑をかけられた記憶は一つもなかったのに、先輩には迷惑をかけっぱなしで十分な感謝をする機会がないままになってしまった。
やっと先輩の話が理解できてきて、これから先輩の迷惑をいくらでも受け入れられるほどに成長できたようなそんな気がし始めていたばかりだというのに。
すでに葬儀は終わっていて今更線香を上げに行く間柄でもない。
シンエヴァを観ていて、ケンスケの優しさとは適度に距離を置くことで、トウジのそれは助けを求める声を待たずして大丈夫か、と気にかける事だ、と思った。それは「お前冷たすぎひん?」「いや今は放っといてやれよ」みたいな台詞で端的に表されていた。
二人共、そのそれぞれの優しさは14歳の頃から既に持ち合わせていたんだと思う。基本的なスタンスは変わらないけれど、昔はともすればドライ、ともすれば無神経に見える、バランスを欠いたものだったのではないかと感じる。
では大人になって何が変わったかと言えば、自分の信じる優しさとは別種の態度をも取り入れた事ではないかと、特にケンスケについてそう思った。
彼の成長は、適度な距離感を重んじる人間がともすれば押し付けがましさを嫌って躊躇してしまうような「頼ってくれよ」という言葉を言えるようになった事だと思う。
センシティブな状況で、それでも一歩踏み込んで友人を気に掛ける勇気を手に入れたという事だ。
私もケンスケと同じ類の、人間関係において誠実さとは適切な距離感を置くことに尽きると確信しているタイプだ。世間の人間からはドライと言うような態度も特段非難されるようなものだとは思わない。頼まれてもいない余計なお世話をする前に、まず他人の問題を無闇に決め打ちしない距離感を覚えてくれ、とでも言いたくなる人間を多く見てきたから。自己責任論をグイグイと他人に押し当てるのは如何なものかと思うが。
ただ、時には機を見極めて一歩踏み込むべき場面もあるんだろうと思った。
(語弊を恐れずに言えば)前時代的な密接な関わり合いと、無闇に他者に立ち入らない個人主義は、どちらが優れているというものでもない。それぞれに安心と独立、煩わしさと孤独がある。要はバランスの問題だ。
中庸は大事だ。これぐらいの立ち位置で良いだろう、という所に居座り続けて安心感を得るよりも、常にバランスを考え続けられる人間でありたい。
まあシンジくんが立ち直ったのは彼らの優しさや人との関わりもさる事ながら、決定打はキーパーソン周りの関係だった気がしなくもないが……
元増田を読んで、これまではてなやツイッターで見かけた光景について個人的なメモ。(何かの正しさや間違いを主張するものではなし)
最近、叩くことが出来る存在を叩いても問題がないというような風潮がある気がする。
が言えてしまい、ますます党派性が強化され仮想敵への憎しみを募らせることになる。自分は正当化の意見も内輪ネタもほとんどの人はふざけて発言しているだけだと信じているけど、同時にその発言に感化されてバイアスが強化されている人がほぼ間違いなく存在することも確信している。
叩く人は印象で叩くからデマを再生産していることに無自覚なのがたちが悪い。
はてなブックマーク内のこの異様な統一教会(=自民党)叩き、おかしいと思うんですが…。
はてブはもうちょっと中庸なコメントがあつまる場だとおもってたのに、これ関係の人気コメント 上位全部「そうだそうだ 統一教会が悪い」みたいにみえてしまって怖い。
私は一時期宗教に興味を持って、信仰宗教が割りを食っている社会に物申していきたいと思ってたくらいだけれど、
最近の統一教会(っていいかたあってるのかな。自民党界隈のこと)の皆さんはとても苦手。
「信者だけ」を大事にするのではなく、非信者も大事にしていこうよ…。
みんなが生きやすくなるために 多様性をみとめる社会を作っていこうよ、とおもうんだけどな…。
(私は二次元好きなオタクなこともあり 子供のために・平和な社会のために男女ともに公共の場の独身・LGBT表現は規制したら、
大人だけの場所でそれぞれの性志向・創作を楽しんだらいいじゃないか派。
BLは好きでも、日常生活に意図しない形で出てくるのはノーサンキューです。LGBTでもそういう人は多いのでは)
統一教会の活動は本当は国がすべき活動だと思うし 活動自体は応援したいと思ってる。
今のこの国では 未成年者が難しい家族から離れて生活することが困難だと思うので ああいった活動(合同結婚)はとても大事だと思ってる。
だけど 今回、応援したい側の統一教会に立って全面的に応援できないのがつらい…。
統一教会の会計も怪しい部分ある感じするし説明の仕方がなんか不安になる。バシッと説明してよ…。
反宗教に対して意固地になっているようにも見えるので 悪手をついている感じがする。
(まぁ、統一教会側も反宗教に対して思うことはあるし、私が見てるよりも大変なことになってるんだろうなとは思う…)
ただ、やっぱ反宗教側の異常な攻撃の仕方は怖いよ。それに賛同する人たちも。この空気も。
「攻撃していい敵」を作って攻撃することに労力をかけないで、なんかそのパワーを他に向けて社会をより良くして欲しい……。
(とはいえ、会計がおかしいなら それを指摘するのも大事ではあるんだけど… この作られていっている空気感がほんと怖いんだ…)
それだけ、自民党の行動が憎かったんだろうけど…。それにしても、じゃないか。
はてなブックマーク内のこの異様なcolabo(=仁籐)叩き、おかしいと思うんですが…。
はてブはもうちょっと中庸なコメントがあつまる場だとおもってたのに、これ関係の人気コメント 上位全部「そうだそうだ colaboが悪い」みたいにみえてしまって怖い。
(※はてブは中庸→追記3に書いたけど そんなことないね… 異常に一個人へのヘイトが集まってざわざわすることは昔からあったね…)
私は一時期フェミニズムに興味を持って、女性が割りを食っている社会に物申していきたいと思ってたくらいだけれど、最近のツイフェミ(っていいかたあってるのかな。仁籐さん・石川さん界隈のこと)の皆さんはとても苦手。
自分の非を認められないこと・not for meを排除させようとするなど 女性から見ても「やめてー」って思う。
室井さんとやりあった時のも見たけど、「女性だけ」を大事にするのではなく、男性も大事にしていこうよ…。
みんなが生きやすくなるために 多様性をみとめる社会を作っていこうよ、とおもうんだけどな…。
(私は二次元好きなオタクなこともあり 子供のために・平和な社会のために男女ともに公共の場のアダルト表現は規制したら、大人だけの場所でそれぞれの趣味・創作を楽しんだらいいじゃないか派。
エロは好きでも、日常生活に意図しない形で出てくるのはノーサンキューです。男性でもそういう人は多いのでは。
※ここで指すアダルト表現は 萌え絵ではない。平和な萌え絵は公共の場にあってもいいと思ってる)
colaboの活動は本当は国がすべき活動だと思うし 活動自体は応援したいと思ってる。
今のこの国では 未成年者が難しい家族から離れて生活することが困難だと思うので ああいった活動はとても大事だと思ってる。
だけど 今回、本来応援したい側のcolaboに立って全面的に応援できないのがつらい…。
colaboの会計も怪しい部分ある感じするし説明の仕方がなんか不安になる。バシッと説明してよ…。
反フェミに対して意固地になっているようにも見えるので 悪手をついている感じがする。
(まぁ、colabo側も反フェミに対して思うことはあるし、私が見てるよりも大変なことになってるんだろうなとは思う…)
ただ、やっぱ反フェミ側の異常な攻撃の仕方は怖いよ。それに賛同する人たちも。この空気も。
「攻撃していい敵」を作って攻撃することに労力をかけないで、なんかそのパワーを他に向けて社会をより良くして欲しい……。
(とはいえ、会計がおかしいなら それを指摘するのも大事ではあるんだけど… この作られていっている空気感がほんと怖いんだ…)
それだけ、仁藤さんの行動が憎かったんだろうけど…。それにしても、じゃないか。
当方女性なんだけど、最近はてブチェックするたび、つらい気持ちになってしまう。
ーーーーー
[追記1]
おお、短時間ですごい見られてる…。
中にも書いたけど、私は仁藤さん支援者じゃないです。
むしろ前からあまり応援できないし、ちゃんと自分への批判を正しく理解して 然るべき点は反省して欲しいと思ってます。
で、自分のものさしだけで人の趣味・大事なものにケチつけたんだなと。
not for meのものでも、いきなり批判ではなく尊重する心を持って欲しいと思います。
(あ、でもあの設定は嫌かな…。女の子たちに変な設定つけられてたのを忘れてたわ。
ついでに言うと ツイフェミvs表現の自由戦士のバトルに関しては、ゾーニングはまだできることあると思うので 男性向け・女性向けどちらも 男性女性どちらも関わって精査していってほしいと思ってます。
[追記2]
『"「攻撃していい敵」を作って攻撃することに労力をかけないで、なんかそのパワーを他に向けて社会をより良くして欲しい……。" これを仁藤に言え』との意見が多いけど、仁藤さんのツイートと 今回のこのムーブメントと うまく言葉に言えないけど違うものを感じるんだ…。
大きな界隈へ向けたヘイトvs個人へ向けたヘイト の違いの怖さなのかもしれない。
(何回も言うけど、仁藤さんがした提案・放火は雑だったと思うし それに反応してちゃんと反論しないととおもった方々の気持ちもわかるんだよ…。
お互いの意見を聞きあって、理解できるところは理解し、謝罪すべきところは謝罪して平和になってほしい…。しっかりした議論をしていこうよ…)
ついたブコメとか見てたら 私が今回の流れ怖いって思った理由がわかりました。
今回のが仁藤さんが火をつけて謝れなかったことがきっかけから、一個人へ異常な量の憎しみ執着が集まってこの空気感がでてきていることへの怖さでした。
(たしかにはてブ界隈は一気に一個人への記事が集まることなんかはあったな…。ごめん 思い出したわ)
colaboはちゃんと会計公開など説明をしっかりして はやくこの空気を終わらせてくれ…。
(もしなんか間違ったことをしてしまったりしてるんなら ちゃんと説明して謝罪したらいいんだよ…。やらかしてないならはやく説明して…)
[追記4]
思ってるより読んでもらえて 色々意見聞けてよかったです。
「会計に関しては税金が使われてるからしっかり説明しろ」と注視してる人からの意見わかる。そらそうだ。
でも、そういう人の周りに、今回ついたコメントみたいに「フェミつぶしたる」って意思を持った人達がむらがっててこの空気だったんだなって実感した。
トップブコメの「⑤トータルではてサすら擁護困難」っていうのが一言でまとめられてて、そういうことなんだなと。
たしかに冷静な人はコメント残したりしてなかったから 熱狂してる人だけ残って目につくわな。
もともと熱心に追ってたわけじゃないけど、アドバイス通りcolabo系の記事はあんま読まんようにするわ。
(さっさといずれかの場所に着地して ホッテントリから減ってくれ…)
同意してくれる人もいてよかった。
別増田についてたコメントだけど『個人的には「Colaboに対する叩きの具体的な怖さ」よりは「その空気感が全体的に(他のことも含めて)濁流のように加速していく怖さ」として捉えた』って書いてくれてる人いて「そうそう」ってなった。(文章苦手なのでこうやってまとめてくれてありがたい)
実名顔出しの人が ネットでタゲられてるのみるのって怖いじゃん…。
ほんと全然伝わってないコメも多かったけど説明してたらキリないのでスルーします。
(あ、でもこれだけ。私が怖いって言ってるのは「男性から反論されて怖い〜」って言ってんじゃないからな…)
○ご飯
朝:なし。昼:ケンタ。夜:くるくる。深夜食:ラーメン。チャーハン。
○調子
むきゅーはややー。おやすみ。
日本のサブカルチャー大好きなスペインの方が作られたノベルゲーム。
水中を進む電車で日本へ修学旅行に向かうお嬢様学校の面々、しかしそんなクローズドサークルの中で殺人事件が発生する。
作中に散りばめられたマニアックなオタクネタを掻い潜りながら、殺人事件の真相を探る。
とはいうものの、あまり所謂本格ミステリ的なノリではなく、人間関係の中の動機を探っていく類のノリになっている。
(アメリカのドラマだけど13の理由がちょっと近いかも? コメディ要素の多さは全然違うけどね)
聞き込みをしていく過程で見えてくる、キャラクタ同士の繋がりと、彼らが表では見せない裏の顔。
こういう事件の輪郭を人間関係に特化して掘り起こしていくのはいかにも古き良きADVの味がする良きところだった。
特に面白いのが名探偵役の乱子が、その時々でその人間関係を評するところが、中立性というか、中庸な意見をちゃんと書こうとしていて好印象。
個人的にはイジメっ子のエリカが、そのイジメの相手に向ける歪な感情が、好きだった。
ちゃんとその感情を主人公が客観的に断罪するところも込みで、バランス感覚の優れた作者だと感じた。
短くも丁寧にまとまっていて、日本文化が好きな気持ちと、日本にはないことをやろうとする気持ちとがうまくまとまっている。
特に後半、男性と女性の立場による幾つかの(あるいは一方的な)やりとりは、ポリティカルコネクトをインターネットの茶化し用語としてしか実感を持てていない自分を深く反省することしきりだった。
ただ、ゲームとしては正直なところ、丁寧にまとまってはいるものの、ある種丁寧すぎるというか、もう少しケレン味も欲しかった。
コマンド選択や単純な選択肢も無い、真っ直ぐな読むだけゲームだけに、ゲーム性を利用したトリックであるとか、叙述トリックであるとか、「メフィスト賞」的なというか「00年代美少女ゲーム」的なというか、そういう味わいが一才無いのは、僕の好みとは違ったかな。
(※この文章、全く意図したわけじゃないんだけど、日曜日、11月27日に書く感想のゲームの中で批判されてて、なんか申し訳なくなった)
とはいえ、500円の低価格ゲームなので真っ直ぐスマートにシンプルにまとまっていて、良いところがたくさんあるだけで、十分面白かった。