「不要論」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 不要論とは

2016-01-28

http://anond.hatelabo.jp/20160127032918

当の皇族マスコミに対して「様とは何事か、皇族皇族として扱いたくない、一般人扱いしたいなら皇室不要論でも書けばいい」と大激怒してるんだよなあ。

2015-12-31

親戚づきあい職場飲み会、近所付き合い

不要論を得意げに言うタイプは共通

2015-12-12

Webディレクター不要論

正直言ってエンジニアデザイナーと客が直接話した方が話速いよね。

いや、まとめる人がいた方がいいっていうのはわかるんだよ。

でも引っかかるのがWebディレクターってデザイナーエンジニアも経てきてない人多いよね?

デザインもできないしコーディングもできない人多いよね?

それらを経てきて、かつまとめる立場に立てる人がまとめるなら全然違和感も感じないと思うんだけど。

なんか客の指示を右から左に渡して、専門的知見もないのにまとめる立場っておかしくないか?

他の業界でもそんなもんかね?あまり見たことない気がするけど

その場合ディレクター存在価値ってなんだ?

ただのお手伝いさん的な意味しかなくないか?

http://techlife.cookpad.com/entry/2015/12/12/130000

この記事みたいにプロジェクトをまとめるための様々な知識やスキルがあれば別だろうけどそんなやつほとんどいねーよ。

これからチャットツールとかで制作側と客が直接繋がるようになったり、

客側にWebプロジェクトの進め方をわかるような人が増えたら

マジで名ばかりディレクター存在価値ほとんどなくなるだろうね。

そういう危機感ディレクターは持っているのかね〜

2015-11-17

意地でも紙の本なんか頼まれるまで出してやるもんか

はてなブログにはあんまりおしろい人がいないだってブログブログらしく面白くて何が悪いの?インターネットらしい面白さをキープしながら作り続けようと決めた時から僕は書籍化はてなオフィス訪問は諦めました。いつか力(人気)任せに実現できればいいや…


いや、この人の言うとおり、ブロガー書籍狙いするより電子書籍出し続けたり、アフィリエイトノウハウ学んだほうが化ける人多いと思うよ?出版不況の癖に未だに高飛車な奴らに頼る必要はない


いや、自動車業界でも出版業界でもテレビでもマスコミでもそうだけど、あの人らって「若者の○○離れ」とか「○○不況」とか言われても一貫して責任押し付けたり、自分達がエリートだと思いあがってるじゃない?なんなんだろうね

だいたい専門的な面白さを重視するんだったら、特殊体験職業の人をインタビューすればいいじゃない。ちょっと変わった時間キー局から離れるとアダルト仕事の人にインタビューするみたいな安直さでさ。出版業界側が考える「個性」の想像力がその程度なくせに不況だ題材不足と言ってるから謎だよ

言いたくないけど、この編集者の女に言いたいのは「え?北条かやって学歴ロンダリングをしただけで実際の所そんなに頭も良くないし、特異な体験もしてないし、書く力もブログ関係者からみればそんな高くないけど書籍化してる」人じゃない?(はてなブログ関係書籍化した人の一例)

いや、鶉まどかでも北条かやでもはてなブログ書籍化した人達って、ありふれた色恋ネタを(コンパニオンタレントができるレベルではないが)顔立ちがいいから書籍化してるだけ。広義に言えば岡田育もその部類。特殊体験とか個性が欲しいんじゃなくて、ただわかりやすさが欲しいだけだろ?

編集者が欲しい個性に気づいてから書籍的・ライター的(とりわけLIG的)な面白さを目指すのを辞めた。寄った勢いでonちゃんを蹴飛ばす大泉洋のような、黒魔術と恐れられてるけど、誰よりもシャイ椎名林檎のような面白さとは逆だもん

この話すると、心が荒むからやめよう。書籍云々の話はもういいです。ブログストイック面白いこと人はコンビニ店長やフミコフミオみたいに自分電子書籍出してなんぼです。出版者の人が面白がるほどキャッチーな奴はネット的なコンテクスト自分を組み込めてないよ…


いわゆる「著者適正」ってやつですね。ただ、出版社はそれを「すでにあるものから流用しすぎ」だと思うのよね…。だからできるものコアなファンから見て決まりすぎてつまらないというね…

ブログ書籍化することを構想し始めた時に同じこと考えたなぁ…。既存読者が面白くなるように作るためにどうしたらいいかさ…(この辺は本当に電子書籍作れたら詳しく語ってみたいけど、作る前に言うと説得力ないからやめとこう)

それは、この編集者キュレーション能力がないからです


いんや、案外そうでもないさ。むしろ内輪ウケよりも、外受けを狙ってるWordPressブロガーのほうが内容では刺さらない。編集とか題材とか世界観は刺さるけど。


僕もそう思うんですよね…。精力的なのは認めるけど、でっち上げたり、仕立てたり、相手に惚れるセンスや心がないなぁ…という編集者としての才能じみたものを感じないんですよ…だから腹が立つのかも知れないです

良くも悪くもサラリーマンですね…我がないから面白いらしきもの淡々と探せるのかと思う反面、こだわりが弱いからその人の話を聞いていてもわかりやす面白しか探してないし、自分がそれを盛り立てようという情熱もないんですよね…

しろ会社員としての編集者バカ嗅覚が弱い方が無難にヒットするものだけを嗅ぎ当てられるから、楽かもね。超一流を目指すなら、こだわりとそのこだわりを押し通すずるさを求めたいところだけど

あーこれ、ありとあらゆるはてな民に僕が言いたいこと。「テメーが作れ。テメーがもり立てろ。お前がつまらないのはお前のせいだ。お前が現状に満足して盛り立てることも前に出ることもしないからだ」とは思ってますはい

編集者って、作家の才能に寄生して生きてて、自分会社に守られて、なんか変なの。よくブログかけるな。喧嘩になってもいいぐらい嫌いな編集者を見かけたら言ってみたいなぁ…。ダメ編集者にはそう感じてるからなおさら

ごめん、「意地でも紙の本なんか頼まれるまで出してやるもんか」とあの記事を見て思いました。

問屋不要論じゃないんだけど、編集者芸能プロデューサーインターネット他人の褌を見つけてはノーリスクで売り出すだけ売りだして捨てる中間搾取者。だから、敏腕でこっちと中長期付きあおうと言う気がある人じゃないかぎりは相手にしない方がいい。ニコニコ歌い手ボカロ文化がすぼんだ理由

珍しくズィロの意見同意。本当にすごい人はちゃんとはてなの中からでも拾いますとも。はい

こんどこそやめよう。腹が立つだけだ

よくまあ一つの記事読んだだけでこんだけ悪口言えるなあと感心する。

manameやコンビニ店長やフミコフミオ自分電子書籍を出したことになっているらしい 。わかってないことをわかったことにしてしゃべると高確率滑る

2015-09-21

映画キングスマンについての疑問(内容への言及あり)

前評判通り楽しく見てきたのだけどいくつか疑問が残った。検索してみてもいまいちからない。

王室ネタはなぜスウェーデン中心だったのか?

紙のリストの中にイギリス王室が書かれているシーンが一瞬あったけれども、それきりだった。

スウェーデンでは王室不要論が強いから」という意見も見かけたけど、イギリス映画イギリス階級社会風刺するんだったら英国王室ネタにすればよかっただけでは?

だいたい威風堂々BGMVIPが爆発していくんならスウェーデン首相ホワイトハウスじゃなくて、真っ先にイギリス女王の首が弾けるべきでは?

アクション小ネタ面白かったぶんだけ、風刺としては自国ロイヤルファミリーネタにするのを日和って他の国を便利に使っただけに見えてしまう。

ヨーロッパ風刺ってこんな程度なんだろうか。

2015-08-19

http://anond.hatelabo.jp/20150819123048

踏まえてないと勝手に思われてもねえ

デカルト読むのは結構、でもじゃあ日本デカルト我思う、ゆえに我あり以外に何か知ってる人がどれだけいるか

いないでしょ

これこそ、どんなにデカルト読んだってそれが何も社会還元されてない象徴じゃない?

本人が社会の為になってると思っても実際そんなこと無いってことを、文系分野の人間自覚しなきゃ

今の文系不要論の流れは止めようがないよ

理系ですら基礎研究(それでも大抵の文系研究よりはるか社会還元されてる)がどんどん減らされているんだから

2015-08-12

核兵器不要論ってなんなの?

抑止力ってのはお互いがお互いを何度でもいくらでも全殺しに出来るという状態でこそ機能すると思うんだけど。

片方が半殺ししか出来なかったら一方は「よーし先制攻撃すれば半殺しよりもっと軽く済むだろうし先に全殺しだー」ってなってもおかしくないよね?

2015-06-17

http://anond.hatelabo.jp/20150617135918

文系学問不要論が出てきてるのはバカから出てきてるだけでしょ

理系文系の別なく一般人の大半はバカだし

二〇一五年現在大学卒業者の一般教養問題分析して議論できる段階に達してないことが多いわけで

文系学問不要論って、文系出身から出てる気がする

夏風邪だよコンチクショウ。

京大哲学屋、伊勢田さんの「人文学はなぜ必要なのか?」回答のブコメを読んでフト思ったんだが、

文系学問不要論って、文系出身から出てて、理系からは出て無いような気がするんだよね。

理屈になってない質問

まあ、理系文系って括りもアレだが、俺は抵抗のカラーコードは全員読める系の大学に行ってた。

この「人文学はなぜ必要なのか?」って質問工学屋も物理屋も物性屋もたぶんしないと思うんだよね。

だってさ、コレ「役に立たない学問を、大学でやる必要があるのか?」とホトンド同じ意味でしてるでしょ。

「国のお金を投入して学問をするんだから必要性アピールできて当然」という感覚も、同じような馬鹿っぽさがある。

こういう時、まあ理系のヒトはこう思うわけさ

「役に立つ/立たないの閾値は?」「必要性定義は?」「何で計測するの?計測器の校正はどうするの?」

少なくとも卒論を書いたことがある理系なら、どんな単位であっても定義なしで使うなってのは叩き込まれてる。

計測には誤差がつきものだし、偶然なのか有意なのかは説明しなけきゃいけないし、紙上の理想と卓上の現実は違う。

からさ、この質問を出されたら、理系普通に考えられるヒトなら、きっと哲学屋とほとんど同じ回答になるんだよね。

「豊かさ」を定義しようとする愚かさ

例えばだけどさ、工学的に頑強で安く効率が良いからつって東京駅ビルプレハブ集合体みたいにはしないだろ。

優雅さだとか雅さだとか、観光客を呼べるとか日本として誇れるとか、そういうの理系に求められても困るぜ。

いくら俺がゴリゴリ理系でも、日本国にカネが無くても、東京藝術大学潰したらマズイことぐらいは判る。

何でマズイかって言ったら、芸術技術やカネじゃどうにもならんから

でもさ、じゃあ京都大学大学院文学研究科哲学研究室って潰して良いのって聞かれて、それ判断できるの?

それ、ホントに取り返しつく?ホントに要らない?

「ゴチャゴチャ言ってねえで、何故必要か言えよ」「言えないならカネ出なくても文句言うな」

「ハッキリさせろ」というオッサンとかオバハンとか確かに居るんだよ。

まあ、居酒屋話題になってめんどくせーなーとか思うくらいだけど。

魔法呪文を教えとくから、次から使ってくれ。

ズバッと言えば

日本国運営に苦労されている国会議員先生方は東大法学部出身が多いようですが、まずそこから潰してはいかがか。結果出してないんだし。

法学部卒が文学部クサスとか、理系から見ると目くそ鼻くそって感じです。

国立大学で手一杯なんで私大補助金打ち切りますあとは寄付金でヨロシク、とかの方がまだ判りやすいよ。

2015-05-16

http://anond.hatelabo.jp/20150516103058

家庭環境だろうね。でもそれで完結させたら議論が終わるなww

子供を作る奴らは、特に何も考えず勢いで作っているものだと俺は思ってる。

子供の今後とか、家庭のあり方とかそういうのは考えたとしても

子供を作るという行為のものについては特に考えていない。

からできちゃった婚最近多いわけだし、

いわば本能に従っているようなもの

俺には子供が欲しくないと言っている人のほうがむしろ不思議でたまらない。

自分に嘘をついてるだけではないのか、って。

職業が何とか、育った環境がどうとか、

そういうのに因果関係こじつけて、

自分の子不要論正当化して

ますます本能から目を背けているように思える。

別に何を考えるかは自由だけど、子供を作らないで一生を終えることに本当に何も虚しさとかは感じないのかなーって思ってしまう。

2015-05-08

http://anond.hatelabo.jp/20150508074555

リベラル自称する人の多くは「天皇不要論かつ9条神聖視の人」ではないので,「自称リベラルの人たちに聞きたい」というタイトルはずれている。

そして,人に対して「自称○○」と呼ぶことは「お前は本当は○○でない」というニュアンスを含むので,失礼だ。

さらに,9条を改正すべきでない,と考えることを「9条神聖視」と呼ぶのも「それは宗教のような合理性とは関係ない信念だ」というメーセッジを含むので,これも失礼。

まり,お前の話し方は人に物を聞く態度じゃない。

http://anond.hatelabo.jp/20150508074555

今上陛下自身がかなりリベラルなお考えの方っぽいし、

陛下自身に対しては戦争責任議論は成立しないし、

今のリベラル的には天皇不要論は棚上げ状態なんじゃない?

http://anond.hatelabo.jp/20150508090336

天皇不要論(ややいる) ←→ 徴兵制支持(ほとんどいない)

9条神聖視(ほぼ必須) ←→ アジア侵略肯定(あまりいない)

天皇国民象徴」を憲法から省く必要がある(一理ある帰結) ←→ 中韓に攻め込む必要がある(意味不明

 

本当に右に挙げた思想を持つ奴がいたら過激派と呼んで差し支えないが、左に挙げた思想はさほど珍しくもない

おまえ絶望的に比較が下手だな

もう口出さない方がいいぞ

自称リベラルの人たちに聞いてみたい

天皇不要論かつ9条神聖視の人って多そうだけど、憲法改正国民投票法案どう思ってるの?「天皇国民象徴」を憲法から省く必要があるけど。

2015-05-05

魔女の宅急便

15年ぶりくらいに見た。

最後トンボ救出シーンは不要論もあるらしいが、やはりあったほうがいいでしょ。

このシーンにまつわる素敵なピースが数多くある。

事故を写す白黒の家具調テレビだったり、テレビにかじりつくバーサさんの静かでゆっくりとした興奮ぷりだったり、「夏にたまにこんな風がふく」という窓をゆらす風の描写だったり。デッキブラシのオヤジや、デッキブラシで飛行するキキを写すために画面に入ってくる街の描写

どれも愛おしい。

それから、キキ。パンチラしすぎだろ。

チラというよりパンモロシーンも結構あって、これはいかんでしょと思った。

中身が成熟しつつあることを考えると、13歳のパンツはやはりだめだよ、ぱやお。

宮崎作品で印象的な役割を与えられるのは少女か老女だな。

少女幼女はぱやおが世界で最も愛するものから、まあ仕方がないとして。

老女も結構キャラが立っている人多い。

ナウシカの婆様、ラピュタのドーラ、トトロの「めーいちゃーん」のババア魔女宅の奥様、紅の豚で働く老婆。

例外もある;もののけ烏帽子

とにかく少女か老婆なんだよ、女は。

ハウルでは主人公がその2つの属性をもつわけで、ぱやおの女に関するある種のこだわりがこの点にあると見て間違いないんじゃないのって思った。

フェミニストに嫌われるわけだ。

上野千鶴子が言うには、13歳は初潮の来る年齢であり、黒い魔女服がつつむキキの体は女性性を帯びてうんちゃら…

というのには、うなづくことはできなかったが。

今回は2度再生したわけだが、1回目は普通にまわし、2回目は人物や筋を見ずに背景の書き込みだけを見た。

圧倒的に美しいな、街も海も空も緑も。

これは夏の風景なんだな、ヨーロッパの夏だけど。

ウルスラが「夏の間は(山小屋に)いるつもりだから」と言ってたり、トンボが「夏休みの間に飛ばすんだ」みたいなことを言っていたので初めて認識した。

あと、トンボの家は金持ち

友達の感じはいかにも夏休みを謳歌する富裕層のクソガキドであるところは記憶にあったが、トンボの「家」そのものが写っていることに改めて気づいた。

あの家は金持ち

パン屋のオソノさんちや、何度か映る港湾労働者の家とは明らかに違う階層

同じ映画を何度も見るのって、おもしろいね

いやー映画っていいですね。

2015-01-22

http://anond.hatelabo.jp/20150122124444

そりゃ殆ど首都圏民だろうね

わざわざ他から旅行で車で来る人なんてそんなにいないだろうし

ぶっちゃけはてななんかで車不要論がやたら勃発するのって

車を持ちたくても持てる財力が無くて僻んでる奴が多いからでしょ

持ってなくても自分にとって必要ないから持ってないならそれだけで済む話なのに

持たないのが正しい!持ってる奴は馬鹿!!と必死過ぎるもの

2014-12-25

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰3

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記を始めとして分割投稿されたものである

ヒロイン

ほとんどの場合ラノベヒロイン必要不可欠である水島飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である

このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合ヒロイン傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。

一部の例外を除いて、ヒロイン主人公に惚れなければならない。榎本はヒロイン主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れ場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。

突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。

クーンツ登場人物個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為描写することの方が好ましい、という指摘である

中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。

従って主人公ヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。

さらに、この指摘は主人公ヒロインに惚れることについてもまったく同じである美少女であるツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。

登場人物オリジナリティ

水島登場人物オリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。

西谷は次のような指摘をしている。

ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクター名前だけを変えて自分小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです

五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島特に踏み込まないが、この点で大塚既存キャラクター抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。

確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚オリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。

一方、様々な属性ランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性オリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。

繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナル属性」に価値は無いと言っていいだろう。

プロット

プロットについての学術定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロット定義明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。

よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事配列」と定義することとした。

さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。

プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから

キングはこのようにプロットを練る必要などないとする。

このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツプロットに関して次のように述べている。

作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である

作家登場人物小説の方向や狙いをすべてまかせてしまえば、必ずみじめな結果におわる。

ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。

ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。

しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。

まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿キングは6週間寝かせるが、それは「プロットキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。

確かにキングプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。

宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。

このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。

プロットの手順

以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。

練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。

従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。

キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルプロット作成手順を提案しており、そのメリットスケールの大きい物語ができること、デメリット時間がかかることだとしている。

他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。

水島の提案はこの西谷後者の説に類似しているが、「ヒロイン出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである

榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的プロット作成できるとしている。

大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカードオリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロット作成できるとする。

割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為モデル主体、援助者、敵対者、送り手、対象受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。

これ以外ではさら物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。

プロットカードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家アイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のもの現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。


プロット構造

ラノベ作家陣によるプロット構造に対する言及曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。

いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及特にない。

水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。

あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーン最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。

確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。

さて、榎本は次のような構造プロットが持つことが望ましいとする。

クーンツもまた、古典的プロット成功パターンとして以下のようなプロット構造を推奨する。

念のため触れておくとクーンツミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルプロット必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンル必要十分条件最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。

大塚プロット構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロット本質的構造アラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさら抽象化したものだと言いうるだろう。

ところでクーンツの主張するプロット構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥風姿花伝における序破急概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。

フィールドプロット理想的構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。

フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。

PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。

映画脚本における理論であることからフィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。

クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。

なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画マトリックス」におけるMidPointはネオ救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しか物語をこれまで動かしてきた大前提崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 Permalink | 記事への反応(1) | 20:47

お疲れ様です」を強調する日本スーツ主義

showyouです。別に自分のとこに書いてもいいけど紛糾しそうなんでこっちに書きます

記事

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4575?page=1

社内チャットの「お疲れさまです」不要論から考えるマナーの欠落

1. 大本のyoshioriさんは「お疲れます、と売った後次の発言まで時間が空き、その間チャット見張る必要があり自分の手が止まるのでかんべんして欲しい」という話です。

別にお疲れ様ですというのをその後の要件を同時に記載するなら問題ないと言っています

2. これはyoshioriさんの意見と違うとこですが、個人的な印象として技術者は遠回しな挨拶よりも、問題解決の為のはっきりした質問内容の方を重視すると考えています

3. 結局twitterが140文字で流行ったのも、余計な挨拶書かずに本質だけかければ良く、結果として高速にやりとりできるためです。

3点書きましたが、以上まとめると情報の迅速性が必要ものバカ丁寧に書くことが必要なのは用途として違うってことです。

2014-12-21

とある地方公務員労働組合について書いた

以前増田では、地方国政選挙について書きましたが、その中で少しだけ触れた労働組合について書きますが、まず、前提条件として役所にも民間と同じように一定の制約があるもの労働組合というもの存在しており、庁舎内に組合事務局を持ち、組合活動をしていますしかし、この公務員労組というものがどのような存在か、ということは案外わからないかと思います

公務員だけど、公務員残業代問題に潜む高齢者問題

http://anond.hatelabo.jp/20120922164617

とある地方公務員が日々思ったことを10コラムに分けて書いてみた

http://anond.hatelabo.jp/20121012225331

とある地方公務員生活保護について書いた

http://anond.hatelabo.jp/20121013233222

とある地方公務員日本共産党について書いた

http://anond.hatelabo.jp/20121015233513

とある地方公務員防災について書いた

http://anond.hatelabo.jp/20121022220611

とある地方公務員地方国政選挙について書いた

http://anond.hatelabo.jp/20141218014038

労組強制加入ではない

労組というと、JR北海道労組のように怖い存在と思っている人もいます組合に加入しないとハブられるとか、いじめられるとか、そんなネガティブイメージを持っているかもしれませんが、絶対ありえません。

しろ、昨今は組合組織率の低下と同時に、組合組織内候補の落選やらで、確実に組合の力は低下しており、組合に加入しない人も徐々にですが、増えています

では、なぜ加入しているのか?というと、理由は簡単で新規採用時の歓迎会組合主催研修会の参加条件が組合加入だから、です。なので、右も左もわからないまま、書類を書いて加入したまま、なんとなく毎月給与から天引きされているだけのことです。それに、組合に加入するといろいろな特典があります(これは後述します)

それに組合というと、シュプレヒコール上げたり、賃上げ看板を掲げたりするイメージ?もありますが、あれも組合専従と執行部の一部役員です。普通組合員は基本組合費を払っているだけなので、組合活動ほとんど参加していません。

親睦団体化する組合

そもそも労働組合は、公務員という自治体労働者雇用条件改善を図っていくために、役所執行部と交渉等を通じて活動するわけですが、それも組合員全体の運動が広がらなければインパクトもなく対して雇用環境は変わらないわけです。

実際に組合交渉の現場ではかつて、70年代などは怒号がなどが飛び交い、大勢組合員執行部を追求していた非常に緊迫していたそうですが、現在はそんなことなく、組合員が仕方なく動員されて、役所執行部も眠たそうに対応する、そんな感じになってしまいました。

なので、組合交渉自体がそのような状況では、組合は要らない、という組合不要論が台頭します。組合費を月々数千円払って、給与は上がらない、人事院勧告はおろか執行部も動かせない、ましてや行革の流れで職員は減っていく、これは組合の怠慢ではないかと。。。

そんな状況で組合が自らの存在意義見出したのが、親睦団体としての組合です。組合は基本各部局ごとに分会を持ち、それぞれ分会長を中心に組織されていますが、その分会単位飲み会レクリエーション大会を定期的に行われています

そのようなイベント実施主体である分会に対して、分会を束ねる市労組本部より補助が出ます(補助といっても結局、毎月払っている分会費なのですが)わかりやすくいうと、組合員であれば無料で飲み食いができるわけですね。

でも、掛け金以上に分配があるわけないのですが、組合員が全員イベントに参加するわけではないので、成立するのですね。なので、分会費だけを払って、イベントに参加しないんだったら、組合費を払わければいいのですが、一度入ったら退会するとは言えないのが人情ですよね・・なので、親睦団体化している組合では、組合費の大半がレクリエーション事業という名目で、使われているということです。

組合内部における自治労自治労連の対立

では、そんな組合ですが、ここで組合について解説すると、公務員労組民主党系(旧社会党系)の自治労系と共産党系の自治労連系に分かれますが、だいたいの労組政党の違いはあっても統一労組組織しており、同じ組合員でも民主党支持者と共産党支持者が混ざっているわけです。それに労組といっても、現業職員(清掃工場の職員など)の労組水道局などさまざまな組合が一役所連合して一つの労組を作っているのです。

他の自治体の現状は知らないのですが、組合内部における自治労系の組合員の影響力は強く、組合トップである委員長No2である書記長、そして各分会の分会長というように組織されていますが、組合執行部はかつて委員長ポスト自治労書記長自治労連棲み分けをしていたのですが、現在はすべて自治労系に占められてしまいました。

結果何が起こったかという、組合政治闘争においては民主党を支持していくことが既定路線となりました。でも、別に組合民主党支持でも一人ひとりの組合員までは先述のように縛ることができなくなっているので、票には結びつかないかもしれませんが、組合の「総意」として民主党支持の路線で行くならば、組合費を選挙協力という形で上納することもできますし、選挙時には組合活動の一環で執行部はもちろん、将来の組合幹部候補生である青年部を動員することもできます

そして、面白くないのが共産党系の自治労連です。たとえ、実権を自治労に奪われても、やはり共産党という地方において組織力の点から言えば一定の影響力があるので、市議会議員選挙市長選挙などにおいては組合意向に背き、独自共産党候補を擁立して、組合組織内候補を落選に追い込むこということもあります。同じ組合の傘に入っていても、実態呉越同舟という、同じ革新はいえ、お互いが主導権争いをしているので、革新分裂によって保守に有利となってしまうのですね。。。

行革トレンドからこそ必要労組

ここまで、労組は親睦団体化して何とか延命を図っているものの、内部対立でなかなかリベラル結集もままならず保守層特に自民党にしてやられているというお粗末な状況を書きましたが、それでもなお、市役所には組合必要だと思います

実際、レクリエーション事業を通じて、横のつながりを広げていくというのは大切だと思いますしね。しかし、組合組織率の低下を止めない限り組合の弱体化は避けられません。これは日本全体におけるリベラル層全体の課題であり、本気で自由民主党に対抗しうる勢力を作ると考えるならば、公務員に限らず日本全体の組合強化が必要でしょう。

今後、行革トレンドの中で、直営事業は縮小され、アウトソーシング指定管理、コンセッションPFIと次々と公的事業民間に分割・民営化していく中で、本当に公的セクターがやるべき仕事を見極めなければなりません。そして、現場の声を市の執行部に届ける役割を持つ組合がその役割を果たさなければ、さらなる人員削減、職員の疲弊ということになるのは避けられません。

沖縄知事選ではありませんが、そろそろ党派の垣根を超えて、連帯するべき時期なのではないでしょうか。

2014-09-27

http://anond.hatelabo.jp/20140927101025

これ系の地方不要論って、一見市場原理の徹底に見えるけど、衰退を煽るのも保護とは別の意味の介入に過ぎないとは思わんかね

2014-09-22

地方不要論とか時々出るけど

東京の足を引っ張る地方なんて言い方あるよな。

でも、今死にかかっているのは地方ではなく日本で、やがては東京死ぬけど一足先に地方が死にかかってるだけだって

なんでこんなバカでも分かりそうなことを誰も指摘しないのかねぇ。

まあ、そんなに頭のいい奴らばかりなら、そもそもこんな状況になってないか。

若者支援しないでいたら年金崩壊と同じ理屈

中国共産党民族浄化政策は着々と進行中。

やっぱ中国人エリート層は日本人とはくらべもんにならんわ。

2014-09-05

反原発の終着駅がよりによって地方不要論だとか笑える

2014-09-03

過剰なアニメ規制議論が巻き起こる原因に関する一考察

なぜか”良識派”と呼ばれる人々はアニメ規制したがる。

犯罪助長うんぬんと。

表現の自由をどうこう言って反発するのもいいが、

私の意見としては子供が見てトラウマになるような映像教育に”良い”影響があると思うから規制には反対だ。

悪夢にうなされたり、エロすぎて目に焼き付いて取れなくなる経験は大人になるために絶対必要である

殴られもぜずに大人になった奴がどこにいるのか!

さて、なぜこのような暴論が幅を利かせているのか。

しかしたら、この問題を扱う新しい切り口を見つけたかもしれないので報告する。

アニメなどの表現にはある程度の規制必要だが、今のままで十分である

にも関わらず、なぜ暴力的とも言える過剰な表現規制を唱える人が出るのか。

それは、人間の心理の持つ”慣れ”という性質から来るのではないか。

人間は同じ刺激を受け続けると、徐々に慣れて何も感じなくなる。

これを心理学用語では馴化と言う。

より詳しくは以下の文献を参考にされたし。

Thompson, Richard; Spencer, William (1966). "Habituation: a model phenomenon for the study of neuronal substrates of behavior". Psychological Review. No.1 73: 16–43.

http://www.cns.nyu.edu/~david/courses/perceptionGrad/Readings/ThompsonSpencer-PsychRev1966.pdf

アニメ表現規制を唱える人々は、馴化によって現状でも十分表現規制されているという認識を持てないでいるのではないか?

おそらく、昨今のアニメ表現規制を推進したい人々は、過去にも同じように何らかの表現規制運動に参加していたはずである

そして規制強化という成果を勝ち取ってきたはずである

自分たち運動が実を結んで社会を動かしたというのは、言いようのない快感であっただろう。

おそらくは非情に強いエクスタシーを感じたはずである

さら活動を続け、さらなる規制を獲得したことだろう。

そうやって日本表現はつまらないものになり続けてきた。

だがそれも、2度、3度と繰り返す度に馴化によって何も感じなくなってしまったのではないか?

彼らは表現規制中毒となっている可能性がある。

一度オナニーを覚えたら、定期的にせずにはいられなくなるようなものだ。

努力問題を克服した時の快感は何にも代えがたい。

ダイエットという問題を克服した快感が忘れられず、ダイエット中毒になって骨と皮だけになる女子高生だっている。

同じことではないか?

彼らが理性的表現規制不要論に耳を貸さず、なんら科学的、統計的な根拠のないアニメ犯罪因果に固執する原因となってはいないだろうか?

私には彼らこそ、十分な休養を取りながら広い社会と交わり、自らの偏狭的な関心と生産性のない快楽主義を克服すべき存在に見える。

2014-08-29

ゲームディレクター不要論

タイトル釣り

ディレクター仕事ってなんだろうと考えると

プロジェクト成功のために駆けずり回ることだとおもう。

まり、あらゆる手段を講じ、

可能且つ必要であれば企画書き、司令官PGデザイナーなんにでもなるべきだと思うわけよ。

決して、ひとつ役割に徹するような立場じゃ無いわけ。

それを言ったら、エンジニアもデザイナもそうあるべきだけど、

能力には限りがあるから、手を広げすぎると、本分が疎かになるからバランス大事

ただ、仕様スカスカだったり、そもそも糞ゲーだったら、

職域飛び越えて口出したくなるよね。

おいおい、仕様の糞さを実装カバーするほど暇じゃねーぞと。


話が逸れた。

もの作りにおいて、何を削るかってのは、加えることより重要且つ難しいわけ。

ゲームってのは面白さを極限まで抽象化したものなんだよね。

例えば、マリオ

現実世界クリボーが居たとしたら、倒す手段はたくさんあると思うのよ。

殴ったり、包丁で刺したり、突き落としたり、銃で撃ったり。

それを踏み潰すという行動に絞ってる。

これが抽象化なんだよ。

ユーザの限られた時間能力で最大限の面白さを与えられると思えるものしか、盛り込むべきではないわけだよ。

確かに仕様バリエーションを考えるのは楽しい。楽。

だけど、根幹を蔑ろにするな。

このゲームにおいて、拳銃必要なのか?

その仕様面白いのか?本当に運用できるのか?

ユーザ面白さを与えるために、その機能を「使いこなせるのか?」

今一度考えてほしい。

やってみなきゃ分からない。とか、

このフェーズ面白いかどうか確認するフェーズ。とか

それらは、今、面白さを追及しない言い訳にはならない。

逃げるな。


アジャイル課題を先送りにする手法ではない。

課題を如何に早く浮き彫りにさせるために存在する。

逃げるな。立ち向かえ。

考えることから目をそらすな。

問題解決のためにあらゆる手段を講じろ。

プログラマデザイナーが腰をあげた時点で敗けだと思え。

2014-08-25

デザイナ不要論

http://ja.ishibashihideto.net/blog/web-designer-survival/

読んでないけど、

(見た目だけのデザインだったとしても)

エンジニアの作ったデザインは、どこかで見たことある

安っぽい奴にしかならないと思う。独創性は皆無。

それでいいなら話は別だし。

デザイナにも安っぽいデザインしか作れない人間いるしね…。

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