はてなキーワード: ジェンダーフリーとは
ユーリオンアイスが、少なからずイデオロギー的色彩があるっつうか、つまり「BLなにが悪いねん、同性愛なにが悪いねん、みんな同じ愛だ!」というメッセージ性が高い作品だとしたうえで以下を書くんですけど。
一般論として、消費者にせよ作り手にせよ、BL萌えや百合萌えにイデオロギー的だかポリコレ的だか思想的だかな正当性を持たせようとすると、LGBT地位向上論に繋がりやすく、その論を更に磨いていくとジェンダーフリーやジェンダーレスにまで至ると思うんすよね。
腐女子や百合好きがその辺のリベラル思想を口にするのは見たこと多いと思う。
もしその思想に集うなら、自分もジェンダーフリーに賛同しているというスタンスになる。
しかしジェンダーフリー論陣で生きるには、己がバイセクシャル・アセクシャル・パンセクシャルあたりの、性的対象や萌え対象が相手の性別に関係ないですって人間じゃないと居心地が悪い。
だって、好む対象が男性か女性どっちかに限られていたら、「お前、ジェンダーフリーを掲げてるくせに、相手の性にこだわって扱い変えてるじゃん」というツッコミが、他人からも自分からも出てくるから。
でも、そんなこと言ったって両性愛者にはなれないんすけどって人が多かろう。
「男同士の恋愛にとりわけ萌えるから腐女子なんですよ、なのにNLや百合にも公平に萌えるのがイデオロギー的に正しいと言われても困りますよ」って人が多かろう。
自分の萌えを正当化して心を安定させたかったはずなのに、理屈を詰めていくうちに、かえって己の正しくなさが明確になってしまう。
BL萌えや百合萌えがイデオロギーを纏おうとすると、しばしばそういう問題にぶち当たる。
BL萌えだけでなく同性愛全般萌えに守備範囲を拡大しなければ、セクマイ全般萌えに守備範囲を拡大しなければ、マイノリティでもメジャーでもあらゆる姿への萌えまで守備範囲を拡大しなければ、理論武装に穴が生まれてしまう。
困ったもんですね。
んで、ユーリなんすけど。
というのはつまり上で書いたようなことで、ユーリのメッセージ性の強さは、BLへの肯定だけでなくジェンダーフリーの推進にまで至っているんじゃないでしょうか。
男同士で恋愛したっていいじゃん、にとどまらず、性別なんかにこだわる必要ないじゃん、というメッセージが発されている。(と、受け取る人もいる)
しかし、BLは好きだから「男同士の恋愛したっていいじゃん」て話には賛成するけど、他のどんな恋愛でも残さず食えと言われても困る、性別にこだわらずにはいられない、っつー腐はいて、それが
その他「腐狙い」アニメにおける「過剰な妄想の種まき」とは異なり、このアニメで2人の関係は肯定されるべき清らかなものとして直接的に言及された。2人の関係がなにかしらの愛でありながら、本人も周りも性別を気にかけることなく「人によってはこんな人生もある」と認められてしまったら、そして、それを「特になんの注意書きもする必要のないもの」とされてしまったら、そこに男女か男性同士か女性同士かという境目がないとするならば。
という抵抗感や居心地の悪さを生んでるんじゃないかなーと思う。
まあ自分は腐女子じゃなくて百合豚の男だから、全然ピントが合ってないこと書いちゃったかもしれん。
追伸
「ジェンダーフリーとジェンダーレスは違う。ジェンダーレスならすべての性別を愛することを強制してくるだろうが、ジェンダーフリーはどんな恋愛でも肯定するだけで異性愛や同性愛が偏っていると否定するわけじゃない。ユーリはジェンダーフリー的世界ではあってもジェンダーレスではない」
みたいな指摘もありそうだけど、たとえジェンダーフリーとジェンダーレスを区別するとしても、異性愛者は既存体制との対立要素が少ないことにより、イデオロギー闘争において自分がジェンダーフリー陣営への貢献度が低い気がして居心地が悪くなりやすいだろうから、あんまり話は変わりません。
http://gigazine.net/news/20161125-sparrow-with-four-sexes/
http://b.hatena.ne.jp/entry/gigazine.net/news/20161125-sparrow-with-four-sexes/
この鳥の研究では、遺伝子で規定される性・セックス(生物学でも性をジェンダーと言うが、社会的性との区別のために
器質的性をセックスとここでは呼ぶことにする)がつがいの行動として発現していることがわかった。
一方、人間のLGBTは、先天的な要因であれ後天的な理由であれ、主に社会生活上の立ち位置という意味での
性・ジェンダーの問題であり、本人そして受け入れる側の社会の問題である。
仮にLGBT固有の遺伝子が発見されたとして、遺伝だからしょうがない、おまえ遺伝子持ってないのにLGBT名乗るなよ、
「性の定義の曖昧さ」という言葉をは、ジェンダー人間の社会的性・性的嗜好とセックス遺伝子的な性の現れ方の多様さ
齊藤さん(id:netcraft3)のTwitterとブログ追ってます。
でも、1か月前の齊藤さんと友達とのやりとりで、これってどうよ? と思ったことが。
かんどーさんという人と最近までもめてたじゃないですか。
それを慰めるお友達とのTwitter上でのやりとりが残念だったんです。
確かショップ店員の派遣とか講習をしてるBBA社長との色恋沙汰でしょ。よほど統括したり関係してる部署の人間じゃないと興味引くかという問題があるが…。記事のキャシュでも参照しつつ酒のツマミにしてみるよ^^;— びやん (@manabien) 2016年9月17日
女性に対して、容姿や年齢をからかう男ってジェンダー的にどうなんでしょ。
バカはバカだから、この@manabienという普段から差別的な発言の多い人が、女性をババア呼ばわりしようと、どうでもいいんです。
でも、ジェンダーに関していつも意識の高い指摘をしている齊藤さんだから、もちろん、
と一言、注意すると思ってたんです。
ほら、沖縄の人を土人呼ばわりしたり、小池百合子を厚化粧だと批判するようなものじゃないですか。
嫌いな相手であっても、差別的な発言、相手を傷つける発言はしてはいけないですよ。
公開の場所で知人が発言したら周囲がすぐに注意しなくちゃいけないはず。
そのあとも@manabien はなんどもTwitterでかんどーさんをBBA呼ばわり。でも齊藤さん、注意しない。
なぜですか?
もしも齊藤さんがこの記事を読んでいたら、以下の選択肢から番号で選んで理由を教えてください。
遠くの出来事に人は美しく怒るが、近くの出来事に人は黙り込む。児童虐待がメディアで取り上げられると人々は怒りと同情の声を上げるが、自分の家庭や隣近所で現在進行形で起きている虐待には声を上げない場合が多い / “児童虐待問題について…” https://t.co/RceVMqkeuL— 齊藤貴義 (@miraihack) 2016年10月19日
を読んだり、大阪府警の土人発言を怒っているようなツイートを見て、もやっとしたからです。
仲間のヘイトを注意すらできない人間がいくら偉そうなことを言ったところで、社会を変えられる訳がない。もしかして、ポーズだけの人?
以前も書いたけど結局は今人権問題とかで取りざたされていることは
マイノリティが権益や表獲得のための道具にされてマジョリティを攻撃しているにすぎない
結局はそういうものを不快だと思う人間を排除して侵害することで得られる自由だろう
心は女性だから肉体が男性でも使わせろ、というのも不快に思う女性たちの人権を侵害しているにすぎない
問題はマイノリティがその3つ目のトイレを作るだけのコストを支払えるのか?ということだ
ふざけるんじゃないよ
いかにも主張に正当性があるように思い込んでいるけどそんなものはねーから
http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20151201/sum_E1448932351189.html
このポスターの是非について論じることはしない。ここでは、この一件にも見られる、萌え絵というだけで女性差別とみなしバッシングしているように見える人々の背景と、そのような態度の妥当性について検討する。
戦後なお女性蔑視的な風潮が続いた日本において、女性性*1をメディア上で描く=男性が自らの欲望を満たすための娯楽(あるいは男性による女性の支配を追認・再生産させる手段)という側面が非常に強かった時期があり、そのような表現がおおっぴらに流通していた*2経緯がある。最近でこそそのような空気は薄れてきてはいるが、その時代を生きてきた人々にとって、女性性を前面に打ち出した表現は、子細を精査するよりも前に「女性蔑視ではないか」と身構え疑ってしまうほどには、女性性の表現を巡る当時の状況は酷かったと言える。
このような、女性性の表現に対する条件反射じみた反感を植え付けられてしまっている人々が、いわゆる萌え絵を見た時、「これを描いた男性イラストレータ*3は、彼自身または受け手たる男性*4の、女性蔑視の感情=女性全般を支配下に置かんとする欲求を満たす意図で、このような表現をしたに違いない」という予断を持ってしまっても、無理からぬことだろう。件のポスターに対する反発に限らず、萌え絵に対してしばしば起こるバッシングは、こういった人々の心性 ― 萌え絵フォビアとでも呼ぶべき感情傾向がその土壌となっているのではないだろうか。
問題は、このような女性性の表現に対する感情的反発が、時代の移り変わりによって、表現に対する批判としては失当になりつつあり、場合によっては女性に対する抑圧として作用してしまうことにある。
今や、女性が自発的な意思によって自身の女性性をアピールしアイデンティティとしている時代である*5。女性性は、男性が一方的に支配下に置いて楽しむものではなく、数多ある美的尺度の1つとして、誰もが臆面なく表明できる選好という地位に納まりつつある*6。
このような状況に至るまでの過程において、80年代から90年代、若い女性が肌を露出したファッションをすることに、多くの年配者が「はしたない」「ふしだらだ」などといった反応をした。この現象は、フェミニズムの正道からすると「男性優位な社会において女性性の発露は男性がコントロールすべきとされていたところ、女性たち自らがその発露の自由を取り戻そうとしたため、男性優位な社会を是とする保守勢力の反感を買った」という理解になる*7。ブルカ着用の義務がしばしば批判されるのも、同様に、女性性の発露を男性がコントロールし続けようとする制度として理解されるからだ。
そういう過程を経て、現在では、女性性を強調したファッションや言動に対して苦言を呈することが、逆に差別や抑圧とみなされうる。このことは、女性解放*8の流れの中で達成された一定の成果だと考えるべきだろう。
これと同じような変化が、オタク文化やオタク個々人にも起きている*9はずで、実際、女性性を前面に押し出したイラストすなわち萌え絵を自分の意思で描いている(自身の娯楽として同人活動などを通じ発表している)女性イラストレータなどは枚挙に暇がない。送り手がそれだけいるなら受け手も同じで、萌え絵を肯定的に受容している若い女性オタクも多かろう。
放送当時はナデシコを評して「女を知らない連中が作ったアニメ」と面と向かって女性から言われたけれど、今はむしろ、女性から「ユリカ可愛い」と言われたりする。世の流れは不思議なもの。
以上のような事情を踏まえれば、ある表現が女性性を強調していることのみをもって即座に女性差別的と断ずるのは誤りだということがわかるだろう。送り手も受け手も、女性性を1つの美的尺度として称揚しているだけで、ことさらに特定の女性ないし女性全般の人権を軽く見る意図は(意識的にも無意識的にも)無しに当該表現を楽しんでいるという可能性は、今の時代においては非常に高い。そのような実態を踏まえずに「このような表現まかりならん」とするのは、露出の多いファッションを楽しむ女性にブルカを強制するのと何が違うのだろうか。
もちろん、日本の社会から女性差別が消え去ったなどと主張するつもりはない。公職・要職にある人物の差別的発言は今なお頻繁に報じられるし、女性差別的な広告がメディアを騒がせることすらまだまだある。
しかし、であるならば、個々の事例において女性差別に当たる箇所を具体的に挙げて糾弾すべきなのだ。それを怠り、女性性を強調する表現は即アウトという論に終始することは、その表現を支持しているかもしれない女性たちに対する抑圧として機能しかねないし、ようやく叶いつつある女性性の男性支配からの解放という成果を毀損し、さらには女性差別の観点からの表現批判という立場全体の信頼を失墜させてしまう。現に、はてなにおいてすらフェミニズムを軽蔑する風潮が生まれつつあるのは、この手の幼稚な言説が蔓延ったことの影響が大きいように思う。
なお余談だが、ミスコンを巡る議論についても類似の問題として考えることができる。女性性が数多ある美的尺度の1つに過ぎないのなら、その尺度の高さを称揚するかぎりにおいては(その尺度で低いものを侮蔑するのでなければ)、身体能力を称揚する各種スポーツ大会や知的能力を称揚する数学オリンピックなどと同様に、問題ないものとして受け入れられるべきだろう。要は、男性の視線が女性を一方的に値踏みしてはいまいか、という匂いが疑われているのである。例えば、審査員が男性ばかりで固められていたり、女性以外(MtoFや女装趣味の男性)の参加を拒んだり、入賞経歴がTV局アナウンサーとしての採用において最重要視されたりするようなことがあれば、このような匂いはよりいっそう強く感じられるだろう。
繰り返しになるが、ある表現が女性性を強調していることのみをもって女性差別的と断ずるのは、かえって女性に対する抑圧として機能しうる。かつて当たり前のように女性性が男性の支配下に置かれていた時代ならば妥当だったかもしれないその反応も、女性性が女性たち自身の手へと取り戻されつつある現状では、女性性の発露そのものをタブー化し、結果として女性性を男性の支配下へと送り返しかねない危険すらあることに常に注意しなければならない。ある表現に女性性が見受けられたなら、そのことだけで感情的反発を起こすのではなく、それが女性蔑視の価値観から生まれたものなのかどうかを丁寧に検証したうえで慎重に論じるべきだ。
端的に言うなら、萌え絵フォビアを動機としただけの主張は(女性たちにとってかえって有害なほどに)表現批判として雑すぎる、ということに尽きる。
*1 ここでは大まかに、少女的な可憐さや熟女的な色気といった要素を含む、女性ジェンダーに特有と見做される性質全体を指す概念としてひとまず定義する
*2 ポルノメディアのようにゾーニングされた表現ではなく、広告など公的なメディアにおいてさえそのような表現がしばしば見られたし、そもそも当時はポルノメディアのゾーニング自体が今よりもずっと緩かった
*4 その絵を楽しむ女性がいる可能性を想定できない
*5 ファッションなどはもちろん、女子力という価値観が肯定的に捉えられ浸透していることもその一環として考えられる
*6 LGBT・女装男性に対する若者たちの寛容さや、前述女子力が男性にも適用しうる肯定的評価と見做されていることも、選択可能な多様な価値観の1つとしてジェンダーを捉えるこのような大きな流れの一部だろう
*7 「女性が扇情的な格好をするのは、そのほうが男性優位な社会において有利に立ち回れるからor女性蔑視的な価値観を内面化してるからだ」などと主張する者もいるが、実際にそのようなファッションを楽しんでいる女性たちにとっては言いがかりでしかないだろう
*8 あるいはジェンダーフリー
*9 一般社会における女性解放の価値観が、オタク周辺に関してだけは反映されず今なお男性優位な価値観が支配的である、と無根拠に主張するなら、それこそオタクに対する差別に他ならない
女の肉食化と男の草食化
これは恐らくこうでしょう
・強い男性が弱い女性を襲う、アタックする、という関係があった
・しかし近年は男女平等、ジェンダーフリーが叫ばれ、男女雇用機会均等法を始め、女性の社会進出が強まっている
・たとえば離婚時における親権の母親有利、女性専用車両、痴漢被害では女の証言だけを根拠に裁判に発展する、自殺・過労死・ホームレスは圧倒的に男が多い、男の盗撮は御用で女の盗撮は御用にならない、DVは男->女の一方向のみ、声をかけただけで不審者扱い、手紙を数通かけばストーカー
・などなど、まだまだあるが、とにかく女が守られる・男が悪者ケダモノの社会環境
・このような社会環境の整備によって、男は女にアタックすることを委縮するようになった
・下手にアタックすれば、周りからどのように言われるか分からない、どのような裁きが下りるか分からない、そう、周囲の目が、社会が怖いのである
・逆に、女は社会に守られて、もじもじしている男に強引にアタックするようになった
・それは、基本的には男は「若くてかわいい」女が好きであり、変態であることが、ネットの圧倒的な情報量(たとえばwebサイトで最もアクセス数が多いのがエロサイト、性犯罪が最も多い職業は女子の身近にいる教師、なくならない盗撮犯罪・理由はパンツが見たかった、溢れるアニメの多くは男の本性を見透かしたような美少女ミニスカパンチラ・所謂萌え文化、など)からほとんど明らかと分かっているから、男の本性を、それやっぱり変態じゃないか、と面白がって記事にするマスコミ、戦後と違い、多くの人間が必要な時代でもない、そのような時代に、若くてかわいい女を見たら発情してしまい、子作りしようとしてしまう、時代に合わない男のプログラムの滑稽さ
以上が女の肉食化と男の草食化について
弱者男性の定義「キモくて金のないおっさん」だが「キモい」という概念を造り上げたのがそもそも女性であり常用しているのが女性である以上、キモくて金のないおっさんが叩くのは女性である。
当たり前のことじゃないか。
弱者男性をフェミニズムを叩く道具にするなと言うが、女性が勝手にキモいおっさんを造り上げておいて女性を叩くなとは一体どう言うことなのか?
どんな過激なジェンダーフリー論者であっても「キモい」が女性によって発明され女性によって常用されている事実は否定はできまい。
「生理的に無理」も「吐き気がする」も「無視」も「話しかけないで」も女性によって発明され女性によって明確に傷つける為に弱者男性や弱者女性に使用され大量の自殺者を排出していることは明らかである。「キモい」は現代フェミニズムが産出した一種の生物兵器と考えていいだろう。
男性本来が持つ暴力性による殺人数と女性本来が持つ排他性による「キモい」で間接的に殺害された人数を比べればいかに強者女性が大量殺戮に関わっているかがわかる。おそらくエイズ死亡者を遥かに上回る死亡者である。この場合の強者女性とは権力強者、性格強者の話である。私は経済的弱者には全く関心がない為金について語る気はない。
男性本来が持つ暴力性には愛がある。愛があるから人を殴る、拳で語り合う。拳で語り合えば友情が生まれる。あるいは上司に怒鳴られる。愛があるから怒鳴る。忠誠心が生まれる。愛があるからレイプをする。男性なら誰しも喧嘩に負けて裸にされオナニーをさせられたことが2度はある。オナニーには愛がある。弱者は男性によっていじめてもらえ、殴ってもらえ、怒鳴ってもらえ、オナニーする。
それに比べて女がやって来たことはなんだ?「キモい」と人を排除することに愛はあるか?ないね。「生理的に無理」と無視しあってなにかが生まれるか?なにも生まれはしないじゃないか!
女社会で無視されたいじめられっ子に愛は与えられない。居場所もない。オナニーもない。あるのはただ、孤独と絶望だけ。
なぜ世界中の若者男性はイスラム原理主義に走るのか?それが「女性特有の閉鎖性に対する解放戦線」だからだ。
世はまさに暗黒のフェミニズム時代、蔓延る閉鎖性、果てしない冷酷さ、誰も女性様に逆らうことなどできはしなかった。キモいと言われ、無視をされ、生理的に無理と言われ、圧政に苦しむ弱者男性と弱者女性、そこに敢然と立ち上がる一陣の男たち、イスラム過激派。
まさにそれはフェミニズム時代へ突き付ける一振りのロンギヌスの槍
シンデレラコンプレックス
男たちの聖戦が、今始まる。
女性解放運動の象徴であり窮屈な衣服しかなかった時代に画期的な運動着だった『ブルマー』が、後に「ブルセラ」として性消費の象徴になったことからも、「これはこれでアリ」順応力の高さを舐めちゃだめ
マジだ!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC
19世紀中頃、コルセットで腹を締めるような当時の下着に反発した女性解放運動家によって、自由度が高くゆとりのある下着として考案された。これは旧弊な拘束型衣服からの女性衣服の転換という革新的なものであった。
ショーツ型ブルマーをオリンピックで最初に採用した国は旧ソビエト連邦
大国化と近代化を目指していた戦前の日本で、ブルマーが普及するまでは教育現場や学校で体操時に女性が着用した運動着は従来からのもんぺぐらいであったため、新しいウェアは非常に斬新に映り、全国の学校の標準運動着として採用された。
ずり落ちたり引きつったりせず軽量で、動きに対しても体に密着したショーツ型のブルマーが、オリンピックや国際競技の場で公式に使用されたことで、女子体操服の代名詞としてブルマーの認識が広まり、小学校・中学校・高校・日本人学校などで、指定体操着として採用されるようになった。
化学繊維とニット素材の発達により、ブルマーは臀部にぴったりフィットしたショーツ型へと進化した。このタイプのブルマーが日本で普及していくのは、1964年東京オリンピック以降の1960年代後半からである。
ブルマーは下着のショーツに対し、概ね以下の相違点がみられる。素材はナイロンやポリエステル等の厚地で伸縮性がある。色が濃紺やえんじ色等の濃い色調の色が用いられる。腰のゴムが太く、裾にゴムが入っている。内側にショーツを穿いた上から重ねて穿く。クロッチが必要ないため、二枚布を股間で縫製する。股上が下着に比べて深い。
スポーティーで格好いいと好意的に受け止められる向きがあった反面、性的な羞恥心が強くなる思春期の女子にとっては潜在的な抵抗感もあったという。軽量で動きに対する追従性が良く、各種スポーツに好適であった。しかし、初経を挟む前後1年からヒップが大きくなり始めて、初経の1年後以降になるとヒップから殿溝にかけてボリュームが生じ、ブルマーの裾からヒップが露出したり、ヒップが露出しなくても臀部のラインが目立ったり、女子生徒・児童向けのジュニアショーツがフルバックタイプで、ブルマーの裾からショーツが露出するいわゆる「ハミパン」が生じやすいという問題もあった。そして、座るさらには座って開脚する際、下半身で股間周辺以外の部分が露出される問題もあった。
1993年、広島県立井口高校や東京都立F中学校の体育祭のビデオが市場に隆注していることが判明する。1990年代に入ると、それまでは一部のマニアのものであったブルセラ趣味が商業的に展開され、女子生徒から着用済みのブルマーやセーラー服などを買取り販売するブルセラショップが誕生した。ブルマーが性的好奇心の対象として一般に認知されるようになると、運動会などの学校行事においてブルマー姿の女子生徒を盗撮したり、校舎に侵入してブルマーの窃盗をはたらいて逮捕されるといった事件が、社会問題として取り上げられるようになっていった。
ジェンダーフリー教育論者の中からは、通常体育の授業時は男女別服装である合理的理由はなく、男女平等教育の観点に照らして男子・女子とも同じ運動着を着るべきであると主張する人々も現れた。
公立校は2004年、私立校でも2005年を最後に、女子の体操着としてブルマーを指定する学校は日本から消滅した。2000年代後半あたりまで9割以上が生産を打ち切っており、現在は店頭をはじめネット通販でさえ入手困難な状態となっている。しかしオーバーパンツ(見せパン)としての用途や保温性の高さにより、現在でも生産され、利用されている。
横からだけどさ
今回の「弱者男性」はフェミ叩きツールとして持ち出されたもので
だからhttp://anond.hatelabo.jp/20150528005014みたいに戸惑ってる人が多いわけだ。
実物の弱者男性たちが出てきて「放っておいてくれ」と言ったら
今度は唐突に「ジェンダーフリーに期待していた人」が出てきた。
今までジェンダーフリーなんてボコボコに叩かれてるところしか見たことなかったよ。どこに潜んでたの?
お返事どうも。
まあピアスしたキリンのひとから「フェミニズムは女性のための運動だ」という言葉を引き出せたという点で今回の件はそれなりに価値があったんじゃないでしょうか。
ごく個人的に言えば、弱者男性が苦しんでいるのはマチズモの規範であるけども、『フェミ的規範を内面化した男』が苦しんでいるのは、「ママ」的なものからによって植え付けられたものもあると思うんですよ。それは「そんなところ触っちゃいけません」(これは男女共通か?)だったり、エロ本が捨てられたりであったり(これも女性の自慰傾向を知らないのでアレですが)。ただ、俺が愛情と独立して勃起し、射精するということがいやらしく、気持ち悪いという認識は確かにあった。
もちろんこの「いやらしい」という認識は男性特有のものではなく、女性作者が思春期の少女を書いた漫画『惑い星と花』でも書かれいたりします。初潮を迎え、「女らしく」なる身体への違和感。ただ、彼女の「いやらしい」は自分が見られる対象とされている点で俺の「いやらしい」とは決定的に異なっている。そもそも、硬い棒ができるのと、血が出るのとでは対立しすぎている。
ただ、「いやらしい」という感覚において共通してはいる。だから例えばろくでなし子の「私の身体はいやらしくない」というワンフレーズにすがって共感する。フェミは「ジェンダーフリー」を主張する。だから俺は彼女たちに期待した。
でもそれは間違いなんですよ。「フェミ」を代表するかに見えるキリンのひとは「フェミニズムは女性のための運動だ」と言った。女性のための運動なら男性は対立する相手でしかなく、ジェンダーの対立しか残らない。
(実はとっくの昔に気づいてはいたんですが)今回の件ですっきりした気分もします。ただ大野さんあたりに期待する気持ちも残っていたりするんだよな。
じゃあ、コレ。
http://anond.hatelabo.jp/20150526175558
でも書いたけど、いまの上野千鶴子先生は、確かにそういうこと言ってないっぽい。昔は知らんけど。
俺は自分の興味に従って面白そうな本読んでるだけで、体系的にフェミニズム学んでるわけじゃないから、
どの論者がどれくらい有名なのか、どの主張がフェミニズムの主流なのかとか、界隈の中のことは知らない。
その辺は市井の人ってことで勘弁してくれ。
でも、べつにフェミニズムは運動家や学者先生たちだけのものじゃないし、
俺みたいな一般人が独学して学んだ知識や感覚で、フェミニズムやフェミニストに感じていることを語ったっていいだろう。
あと、俺の感覚では世間的にも一般論としてフェミニズムは「女性の地位向上」ではなく「ジェンダーフリー」の文脈で理解されてると思うぞ。
→の記事なんだけどかなり醜い状況になってる。 http://d.hatena.ne.jp/font-da/20150526/1432612495
当事者である弱者男性不在でフェミがいつもの手口で中傷的な人物像を作り問題を書き換えて、しかもフェミ仲間がケアとか処方とか言ってホルホルしとる。
あのなあ、お前らのやってることはカルト宗教が救済と言って信仰を押して付けるのと変わらんからな。
いや、カルト宗教を悪く言いすぎか。救済を目的とした宗教なら少なくともネット上で見えない相手を糾弾するようなことはしない。リアルに会って悩みを聞いたりする。
そもそも弱者男性がはてなにいる可能性は低いだろうに、そこで論じても被疑者不在で魔女裁判してるという状況にしかならない。
それから、間違ってほしくないんで言うけど、フェミは弱者男性を救えると思わない方が良い。
フェミは女性の救済のために男性社会と戦う教義とか理論武装を磨いてきたんだから、それに侵された頭で弱者男性の問題を扱えばどうなることか。
弱者像がフェミの教義によって陳腐化されたり別の物へすり替えられたり存在しないことにされる。フェミ脳では弱者男性を救えない。
そして今回のように無自覚に傲慢な正義を振り回して反感を買う。
差別問題界隈にも言えることなんだけど、自分たちの教義を振りかざして精神分析まがいのことまでして対象を裁いても意味ないどころか逆効果だと思うよ。
ファンには痛快だと喜ばれるだろうが、同時に醜いリンチを見せられた多くの人の信頼を失うことになる。
それとジェンダーフリーの理想に共感してフェミを応援してきた男は可哀想だけど残念ながら騙されたいうことで、他の方法を考えるしかないね。
反論の機会のためのコール→元記事著者id:font-da 、ケアの人id:c_shiika 、処方の人id:sofa220
この記事の存在を教えたものの、自分は文章書くのが苦手だし根比べをする気もないんで、反論書かれてもよほどのことじゃない限り放置すると思ってほしい。
http://anond.hatelabo.jp/20150525015701
フェミニズムは、「女性の地位向上」ではなく「ジェンダーの不平等を解消するための運動」(ジェンダーフリー)だと私は理解して
いるんだけど、その観点から考えれば、女性のジェンダー不平等だけではなく、男性のジェンダー不平等も解消する義務がフェミニズ
ムにはあると思う。少なくとも、理念上無視していい話ではない。
半世紀ほど前までの社会では、男性優位が圧倒的だったから、女性の地位向上だけを訴えていればよかったのだろうけれど、現代社会
では女性が男性よりも優位に立っている場面も多くあると思う。それが最も顕著に現れているのが「性愛」の場であり、それゆえ
本質的にフェミニストは、弱者男性とジェンダー的な部分で共闘できると思うし、理念的にも共闘する義務があると思う。少なくとも
建前上は、フェミニズムはそうして民意を獲得してきた歴史があるわけだし。(少し前に炎上したエマ・ワトソンのスピーチでもそう
した趣旨のことが言われている http://logmi.jp/23710)
フェミニストが弱者男性から敵視されるのは、建前上はジェンダーフリーを唱えつつ、その実、男性のジェンダー不平等を無視し、女
もし、フェミニズムが「ジェンダーフリーは動員のための聞こえがいい建前で、女性の地位向上しか頭にねぇよ。男のジェンダー不平
等など知ったことか」という思想なら、男性のジェンダー不平等なんて無視していればいいけれど、もしフェミニズムがそうした態
度をとるというのなら、ジェンダーフリーという建前を真に受け、フェミニズムにシンパシーを感じてきた1人として、私はフェミニ
ストに裏切られた/騙されたと感じるし、フェミニズムを支持/信頼することもできなくなる。
shufuo 日本のアニメも世界を意識するならジェンダーフリー化した方がいいね。アナ雪見てディズニーはさすがに敏感だなと関心したよ。
ラプンツェルは男児にも見て欲しいという事でタイトルをラプンツェルからtangledに変更&宣伝でアクションっぽさを前面に出したそうだけど、
でもどう見ても女児向けだよね。つかアクションならプリキュアもそうだし(あれは大きいお友達向け仕様っぽいけど)。
映画でないならちいさなプリンセスソフィアも、男児見ないでしょ。
ディズニーじゃないけど、Dora the Explorerが「きらきらおひめさま」や
いかにもテンプレな「女の子らしい」要素が無い教育アニメなのに主人公が女児ってのは日本と違うなーとは思ったけど
あれは元々マイノリティを主人公に、と言う意図があって、「主人公が女児」より「主人公がヒスパニック」の方がインパクト強いし
グッズはやっぱり女児向け扱いだしなー
アンパンマンという男女どちらにも同じくらい人気のあるコンテンツがある日本はいいなあと思ったよ。
まだ本人に性別という意識が無い年齢向けだから可能なんだろうけどさ。
(それでもドキンやメロンパンナだけが描いてある女児向けグッズもあるけど)
http://blogos.com/article/98135/
この質疑を読むに、この議員は決して女性に職業選択の自由を与えるなとは一言もいっていない。
質問はおおむね以下の4つ。
”当法案も「女性の職業生活における活躍」にのみスポットを当て、その対象を自らの意志によって職業生活を営む女性に限っています。「すべての女性が輝く」ために国がやるべきことは、女性らしく生活するための選択肢を増やし、その選択に自信と責任を持てる環境づくりです。
が、当法案は逆に女性の選択肢を狭めて、ライフスタイルを上から押し付けるものです。本法案で女性の職業生活における活躍のみを対象にしたのは何故か。有村女性活躍担当大臣にお聞きします。
現在、若い女性の間で専業主婦を希望する人が増えています。民間の調査で、未婚の女性の半分以上が、出産後は専業主婦になりたいと回答しています。20代の専業希望は58.5 %と特に多いという結果が出ています。また、「自らの意志によって職業生活を営む女性」と法案には書かれていますが、実際に地元を回って、お母さん方と話すと「本当は家で子育てに専念したい。でも収入が少ないので、働きにでなければいけない」と言った声が多く聞かれます。正に「自らの意志に反して職業生活を営んでいる女性」が多く存在します。 ”
”平成15年に制定された「次世代育成支援対策推進法」。この法律は、10年の時限立法として、それまでの少子化対策の取り組みに加え、男性を含めた働き方の見直しや社会保障における次世代支援といった柱を掲げています。本法案と同様に、国の指針を設け、それに基づいて行動計画の策定をすべての自治体などに義務付けたものです。対象を「次世代を担う子供たち」とするか「職業生活を営む女性」にするかの違いはありますが、自治体や企業が策定する具体的な計画まで下りてくると、多くの部分が重なると思われます。有村大臣、先の通常国会で平成37年度末まで延長する法改正が行われたこの法律と、本法案の違いを「次世代育成支援対策推進法」のこれまでの成果と実績をあわせてご説明ください。 ”
”我が国は、昭和60年に締結した「女子に関するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に基づき、国連委員会に対し、政治的、社会的、経済的および文化的活動に女性が男性と平等に参加することに対し、残っている障害を克服するための処置を報告しなければなりません。これは本法案で、自治体や企業に課している女性の採用比率や女性管理職比率などの定量的目標設定といった内容と一致しますが、国連に勧告されたから本法案を作ったのですか? ”
”この法案といわゆる女子差別撤廃条約、そしてそれを基に策定された男女共同参画基本法との関係をお訊ねします。本来日本は、男女の役割分担をきちんとした上で、女性が大切にされ、世界で一番女性が輝いていた国です。女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名の基、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。男女平等は、絶対に実現しえない反道徳の妄想です。女性にしか子供を産むことはできない。こんな当たり前のことに目を背けた政策を続けた結果、男性ばかりか当の女性までが、女性にしか子どもが産めないことをネガティブにとらえる社会になってしまいました。 ”
”いつから女性は弱者になったのか。国の施策において、やたら主語に「女性」を持ってくるようになって以来、どんどん女性が弱者として扱われるようになりました。「男女差別撤廃条約」の破棄、男女共同参画基本法の撤廃を行い、男女がお互いに尊重し合える社会を取り戻すことを日本国の皆さんにお誓いして、私の質問を終わります。 ”
”女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名の基、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。男女平等は、絶対に実現しえない反道徳の妄想です。”
”男女共同参画の考え方についてお尋ねがありました。男女共同参画社会とは、男性、女性、共に社会のあらゆる分野において活動、参画する機会が確保されて、均等に社会的利益を享受することが出来、共に責任を負うべき社会であり、男女の区別を否定したり、国の伝統文化を否定したりするものではありません。
いわゆるジェンダーフリーにつきましては、平成17年に閣議決定した「第二次男女共同参画基本計画(※PDF)」において、「ジェンダーフリーという用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして、人間の中性化を目指すこと。また、家族や雛祭り等の伝統文化を否定することは国民が求める壇上共同参画社会とは異なる」と明記をされており、この見解に変わりはございません。”
冷戦後の話なのに戦前が良かったのかとかいう見当違いのブコメや法案の中身の話なのに男女共同参画社会という言葉から、らいてうがどうとか言っているブコメに辟易したので増田に残す。
ちゃんと、人の話は聞きましょう。