はてなキーワード: 悪女とは
なろう漫画の広告を見て女性向けは王道やかわいい系のヒロインしかいけなくなってきた自分に驚いた。
昔なろう本体で読んでた時はそうでもなかったのもあるのに、聖女な美人系と糞なかわいい系というキャラ付けが、かわいい系へのマウントに見えた。
腐女子のヒロイン・女キャラアンチは割と慣れた。サブヒロイン好きによるメインヒロインへのそれも知ってる。
昔の少女漫画のヒロインのような顔面偏差値がものすごいわけではないけどふわふわで一生懸命に頑張るタイプのかわいい系の顔立ちや出立ちが好き。中身が性格悪くても良しとは思えるけど、腐女子以外にも自分の感情移入・自己投影先(=美人系)ヒロインは誠実で、自分の敵(男に媚び売ることしかしないかわいい系)は糞女な広告を引くことが多くなってどんどんダメになったようだ。
美人系=悪女じゃなきゃいけないわけじゃないけど、本来悪とされていた設定や前提があるとするなら、本来の主人公を糞やこけにするのは安直過ぎないか?かわいい系主人公の敵がブスなのも嫌いだけどさ。
全員糞か、全員悪くないか、同じくらい悪いか、改心して全員仲良しになるかと色々だけど、かわいい系が善良だって前提からみた上で美人系も善良とかの方が良くないか?強制力とか言うんだろうけど顔面偏差値やスペックで優ってる相手を踏み台にして気持ちいいか?そう思ってしまうんだろうか。
男性作者がやる女ざまぁは性癖を感じるけど、女性作者がやるのはなんか悪意を感じる。腐女子作者でたまにある男は幸福、善良で女は不幸、性格悪いのと同じ系譜なのかもしれないけど、そんなに踏み台や出しにするくらいなら出さなきゃいいのに。
ルックバックがバズり散らかして、藤本タツキの名前の通りがよくなったことを勝手に喜ばしく思っているところである。
さて、この「ルックバック」であるが、タイトルに何重もの意味が込められていることは、バズり散らかし作品に真っ先にいっちょ噛みしたいパーソン、および俺が一番藤本タツキのことをわかってると思いたい後方腕組み彼氏面パーソンに任せるとしよう。
藤本タツキの前作であるチェンソーマン、このタイトルの連載であるが、チェンソーの悪魔でもなく、デンジくんでもなく、チェンソーマンがタイトルだ。今回の「チェンソーマンは何故『チェンソーマン』というタイトルだったか」という表題であるが、最初からこの表題でなんか書こうと思ったわけではなく、チェンソーマンの考察をしていたら、「チェンソーマン」というタイトル、なんも知らん人からみたらB級にもほどがあるこのタイトルに込められた想いに関しての妄想が膨らんでいた。そこにルックバックという弩級の、しかもタイトルが芸術的な読み切りが出てきてしまったので、書かずには居られなくなった。
以下、私の誤読発表会であること、誤読発表会に過ぎないことを甘んじて受け入れる。
なお、完結済みのチェンソーマンのネタバレは一切避けない。ネタバレを気にする人は絶対に読んではいけない。
まず、主人公のデンジはずっと「普通の生活」への憧れ、パンにジャム塗って食うことに憧れを抱いていたほど貧しく、その日その日を必死でサヴァイヴしてきた。第1話でその憧れを手に入れたデンジと同じような放心感と、第1話を読んだときの私の放心感はきっと近いものがあった。
その後、デンジは上がり続ける「普通」のレベルや、望むものが手に入った時の「こんなもんか……」という失望、望むものをぶち壊された、ぶち壊した絶望などを通し、考えなければならないことが増えすぎた結果、「なんにも考えずに生きてえ」「マキマさんの犬になりてえ」と思うほどの生活になることができた。なってしまった。そりゃそうだ、さんざん死ぬ思いして、せっかく手に入れた「普通の家族」も、あっというまに終わりを迎えてしまったのだ。それも自らの手によってだ。裏ではマキマさんが糸を引いていたが。
このあたりのテーマは、岸辺とクァンシの会話の中でも明示されている。幸せに生きるには無知で馬鹿のまま生きること。「自分」の考えなど持たないほうが幸せだということだ。
最終決戦、デンジはマキマさんに「あんたの理想の世界にクソ映画はあるのかい」と問う。「無い方が良い」と答えるマキマさんに、明確に敵対するデンジ。この成長っぷりだ。完全に「少年漫画の主人公」だ。
直前のコベニちゃんとの会話で、嫌なことがない人生なんてない、という「普通」に気づくのだ。
作中の悪魔には名前がない。○○の悪魔、という概念でしかない。マキマさんも、チェンソーマンと呼んではいるが、デンジくんでもなくチェンソーマンでもなく、「チェンソーの悪魔」にしか興味がないのだ。これは作中でほぼ明示的に示されている。マキマさんは徹底的に、チェンソーマンの中のチェンソーの悪魔という概念にしか興味がないのだ。デンジくんだからではなく、「チェンソーの悪魔の拠り所」としてしか興味がない。典型的な悪女である。えてして悪女は魅力的で、私もコロッと騙された質の人間はあるのだが、とんでもない奴だ。好き。
ここのズレなんだよ、ここのブレなんだよ。チェンソーマンというキャラクターのペルソナをかぶりたいデンジと、チェンソーの悪魔を支配したい(またはチェンソーの悪魔に支配されたい)マキマさん。他人が作った、他人が求めるキャラクターになりたいデンジと、他人を恐れて全てを支配したいマキマさん。クソ映画も映画なりと、ゴミみたいな感情も人生なりと受け入れたデンジと、ゴミみたいな感情になるなら無いほうが良いとしたマキマさん。
これは藤本タツキファン、ファイアパンチファンにとっては「また」なんだよ。また演技と、狂言と、ペルソナの話なんだ。デンジは目的=自らの欲望に関して嘘は付かないし、付けないのだ。自らの欲望に嘘を付くくらいならデンジという個、ゴミみたいな人間であるという個を捨て、民間のヒーローである「チェンソーマン」になる、なれる、なりたいヒーローなのだ。朝からステーキ食いたい、彼女がほしい、「悪いことだとわかってるけど」5人10人ほしい、たくさんセックスしたい、「だから」チェンソーマンになりたい。デンジくんは、チェンソーの悪魔でもなく、デンジでもなく、誰かの望んだチェンソーマンになりたいのだ。だからこの作品は「チェンソーマン」なのだ。
読んだことのある、観たことのある、漫画・小説・映画・アニメで百合だなあと思ったものの感想まとめてみた。
敬称略。
■漫画
・ポプテピピック/大川ぶくぶ →誰がなんといおうと百合なんだよ!!文句言うな!
・うさぎのふらふら/隈井 →とてもお気に入り。雰囲気最高。なぜ2巻しかないのか?
・CCさくら/CLAMP →知世ちゃんが神。わたしの永遠のアイドル。
・ハクメイとミコチ/樫木祐人 →うーん百合なのか?作者の今後の展開次第。別に百合方面に展開しなくても大好きだよ!
・はなにあらし/古鉢るか →他の百合漫画をすごく研究してるように見受けられる。技巧的な印象
・少女革命ウテナ(最近でた続きの巻)/さいとうちほ →川上とも子の不在が漫画にまで影響している…悲しい
・シャドーハウス/ソウマトウ →百合って括りの読者もいるらしいがピンとこない
・陽だまりに寄り道/嶋水えけ →短くまとまっている。まあまあ
・乙女ケーキ/タカハシマコ →超好き。本で持ってたの手放したけど買い直したやつ
・シメジシュミレーション/つくみず →うーん悩むけど少女終末旅行より好きかも?そもそも四コマって形式が好き
・コレクターズ/西UKO →百合はまあまあだが本好きという設定の人物、本屋で写真を撮るのはやめましょう
・新米姉妹のふたりごはん/柊ゆたか →わりと真剣に面白いし登場した料理を作ってみたくなる
・ゆりこん/久川はる →明るくて好き!時々読み返す
・ユリ熊嵐/森島明子 →ふつうに面白い。アニメ全部観てないです…
・NKJK/吉沢緑時 →お気に入り。お笑い×シリアス×百合。時々読み返す
・ムルシエラゴ/よしむらかな →ぶっとんでて良い。さわやかさすら感じる
・人でなしの恋(画集だけど)/沙村広明 →捉え方次第では百合
■映画
・アデル、ブルーは熱い色 →レア・セドゥ最高最高最高最高
・キャロル →途中盗聴されるあたりつらいけど好き
・オーシャンズ11 →まあまあ
・攻殻機動隊(実写) →ファンの作った同人映画って感じが半端ないけどあのシーンは悪くなかった
・アンモナイトの目覚め →エンディングの後、どうなるんだろう気になる。想像しちゃう
■アニメ
・少女革命ウテナ →アンシーが飛び降りようとするところ泣いてしまう本当に
・少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録 →人生で一番観た映画。台詞含めてもはや美しい音楽
・シムーン →「アーエール!!!」のシーンが好き。アングラス……
・THE IDOLM@STER →運動会の回とかいおまこ
・THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ! →最初から皆売れっ子で強めで素晴らしい
■小説
・茨の城/サラ・ウォーターズ →なかなかに面白い。読み返すかは不明
・わたしを離さないで/カズオ・イシグロ →ルースのキャシーへの粘着は百合みある
・キャロル/パトリシア・ハイスミス →映画とまた違う良さ
・白い薔薇の淵まで/中山可穂 →ちょいちょいある男サゲはどうかと思うけどなんだかんだ好き
・アステリズムに花束を(百合SFアンソロジー) →手放したけど色のない緑がまた読みたくて買い直した
・レズビアン短編小説集 →『マーサの愛しい女主人』、『しなやかな愛』が特に良い
・フラニーとゾーイー/サリンジャー の中の『フラニー』 →男女のカップルの会話中心だけど、なんだろう百合を感じる(フラニーの中に)
悪女 AKUJO:
アクションをめちゃくちゃ頑張っておりフィジカルなアクションとしては海外と戦えるレベルのものが見られる。狭い路地を上層階からおっこちながら戦うシーンが好き。冒頭の一人称視点のアクションが持ち上げられがちだけど、映像はちょっと面白いけどアクションとしては別に面白くない。
ただ、映画の作りとしてはマジでヘタクソで時系列がいったりきたりするしそれに何の意味もないしひたすら混乱させられる。作り直せ。
超能力者脱走モノ。
前半は普通の女の子パート、後半が超能力機関からの攻撃と反撃パートとお手本のような構成になっているが映画としての物語、演出の緩急が巧みで見ごたえがある。アクションに関しては悪女ほどのオリジナリティはないが及第点。見せ方は悪女よりも優れている。
韓国が大好きなジメジメして陰鬱なモラルどこにおいてきたん?という暗い映画。アクションは地味ながらリアルに「痛い」部類。ノーCG、ノースタントの総合格闘技をベースとしたリアル路線は前二作との違い。
とにかく物語に救いがなく96時間みたいに誘拐された知恵遅れの妹の手がかりを求めてあっちこっちに行くんだけど行く先々で妹がレ〇プされていたことがわかる胸糞展開。せめて知恵遅れの設定なんとかならんかったか。最後はシャブ死ぬほど喰わされるし。
とにかく陰鬱な映画が見たいなら聖女を見たらいいけど、正直、ダラダラしてるし構成もヘタクソ。
やりたくともできないでつまんない人生歩まされるようにデザインされた日本社会で
「そのつまんない生活さえ満足に営めない」癖に、何でもありなら何とかなるとか妄想強化してありもしない確信に変わっちゃってるのよ、弱者男性って
そのつまんない生活がどれだけ安全で尊いもので、先人の血と屍の上になりたっているのかも理解しようとせずにな
勉強も努力も自分のしたいこと見つけることも今の今まで何もせずに、ぽっとでの思い付きと悲痛な叫びだけで自分の言う乾いた叫びな願いがとやらが世間に受け入れられてもらえると思ってるのがマジで笑うわ
やれるかどうかは置いといても、そんなつまんない社会と吐き捨てるなら、それ以外の道を選ぶルートも自由も一応あるんだから、そこまでウジウジ言うならそれやれよと
税金で賄われた福祉と社会で賄ったインフラを享受して自堕落な生活してるくせに、いもしない美少女を独り占めする悪党や
何でもありなら金や女や権力簒奪できると思うなら今すぐ森へ行って丸木弓でも木槍でも作って一人で戦う覚悟決めろよ。普通だったらそうするんだよ
努力もせず周りに対しての感謝や謙譲もせずにありもしない空想と現実の区別つかなくなって他害的精神障害者になってるなんて思い上がりもいいところだわ
https://togetter.com/li/1685368
テラケイなんかとつるんでるからもっとヤバいやつかと思ったら割とまともで拍子抜けしたんだけど。
というか、これをまとめた人は
「ヤジぐらいで涙ぐむなんて政治家に向いていない」という意見があるが、塩村議員個人の資質の有無はこの際関係ないんだよな。議会という場におけるふさわしい振る舞いとは何かが問われているのであって、仮に相手が性悪女であろうと無能議員であろうと、それによって許されるわけではない。
をどういう意図で入れたのだろうか?
「いいこと言ってる部分もまとめないと不公平だよな」みたいな理由?
まさかとは思うんだけど、まさかこれを読んで「塩村議員を性悪女と言っている」と解釈したわけじゃないよね? だとしたら日本語能力ヤバすぎるでしょ。森元擁護に湧いてきた「全文読め」厨とかとはわけが違うじゃん。いや、「仮に」という言葉を揶揄に用いる人がいないとは言わないけど、さすがにこれを読んで揶揄と解釈するのは、存在しない悪意を透視する才能に恵まれ過ぎでしょ。普通に形式的な論理の話をしているとしか読めないと思うが。
個人的にはオペラよりも好きかもしれない。特に、愛した女性の墓を掘り起こして遺体に直面するシーンがあるところとか。不毛な愛情というか、すれ違いや失恋ばかり読んでいたことがあり、これを読んだのもそんな時期だ(「エフゲニー・オネーギン」とか「マノン・レスコー」とか)。というか、そもそもオペラって「乾杯の歌」とかすごい好きなんだけど、台詞が聞き取りにくいし、台詞を同時に歌う箇所もあるし、なんか難しい。
ちなみに主人公の独白に曰く、「ああ! 男というものは、その偏狭な感情の一つでも傷つけられると、実にちっぽけな、実に卑しい者になってしまうものです」。……バレましたか。
自分が日本SFを読むきっかけになった人で、ハヤカワのJA文庫の小川一水とか林譲治とかが特に好きだった。
この作品は、太陽の表面に異星からの物体によってメガストラクチャーが作られ、日光を奪われた人類が滅亡の危機に瀕するのだが、若干のネタバレを言うと、最初からエイリアンには悪意が全く存在していなかった。僕はそんなところが好きだ。基本的に自分の好きなシチュエーションは、他者との接触により悪意はないにもかかわらず傷つく、というのがあるのだ。
ちなみに日本のSF作家をより広く読むようになったのは大森望と日下三蔵の年刊日本SF傑作選のおかげ。感謝感謝。
三十歳で婚約者がいるのに、親戚の十八歳の女の子に手を出しちゃったダメな人が主人公。結婚の約束をした女性からは婚約を破棄されてしまい、彼は思い出の品を集めた博物館を作りだす。イヤリングはともかく、自分が家をのぞき見た瞬間を画家に描かせた作品や、下着までも集めているあたり、ただの変態である。帯には「愛に生きた」とあるけれど、愛情というか執着や妄念であったような気がする。けれども、不毛な愛のほうが読んでいて面白い。
ところでトルコという国は、女性がスカーフを被るかどうかだけで政治的な立場の表明になってしまう国であり(ハイヒールを履くかどうかも政治的立場の表明ではあるが、トルコはその傾向が顕著だ)、その点からも読んでいて面白い作家であった。
映画オタクのゲイと政治犯の獄中での対話劇。ゲイはどうやら看守から政治犯の様子を探るように頼まれているようなのだが、いつしか二人には友情が芽生えていく。緊張感のある対話劇であると同時に、ゲイがお気に入りの映画を語るときの調子は推しについて語る幸せなオタクそのものである。安易に神という表現は使いたくないが、語りが神懸っている。ゲイの口調が女言葉なので、少し古い訳なのかもしれないが。
大学時代、年齢不詳の友人がいて、今も何をして食べているのかよくわからないんだけれども、今でも時々強烈な下ネタのメールが来る。そんな彼が薦めてくれた小説。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の「世界の終わり」パートに影響を受けた作品を部誌に掲載したらものすごい勢いで薦めてくれた。
彼は物にこだわりがないというか、読み終えた本をよく譲ってくれた。同じブローティガンの絶版になった本やシュティフターの「晩夏」などもおかげで読めた。「晩夏」はくどいのでいただいてから十年後に読んだのだが、現代の小説では確実に切り捨てられる長さの風景描写を含む小説を、定期的に読みたくなる。
就職のために架空の宗教団体によるテロをでっちあげる侍の話。時代劇の形を借りているんだけど、時代考証は完全に無視している。そして、自意識過剰人間とクレーマーとおバカしか出てこない語りの芸だ。だが、大体町田康の作品は大体そんな感じだし、人間って元来そんなもんなのかもしれない。オチも基本的に完全に投げっぱなしだが、爆発落ちや死亡オチのギャグが結構好きだったりする自分がいる。文学っていうのは自由でいいんだよ。
ムーミンシリーズ以外のヤンソンの文学作品を選ぶべきかどうか迷ったのだがこっちにした。友人からなぜかヘムレンさんに似ていると言われていた時期があったことだし。
児童文学や短篇って長篇とは違った難しさがある。短い文章と簡潔な表現という制約の中で、キャラクターを端的に表現しないといけないから。そのお手本みたいな作品がここにあり、内向的な人間にやさしい世界がここにある。ちなみにとある哲学者の持っている本の名前が「すべてがむだであることについて」であり、すごく笑える。
全く関係ないが僕は萩尾望都の「11人いる!」のヴィドメニール・ヌームにも似ていると言われたことがある。緑の鱗に覆われた両性具有の僧侶で、とても善い人で行動力もあるのだが、説明するときにやや言葉が足りない。
嘘つきで利己的で、のし上がることにしか興味がない空っぽな存在に恋をしてしまった善良な青年。「悪い娘」の人生の航路は語り手の人生におおよそ十年ごとに交叉するが、一貫して彼女本位な関係に終始する。
これはどうしようもない女の子に恋してしまって、四十年間ものあいだそれを引きずった男の物語だ。地位も財産もなにもかもなげうって、何度裏切られてもひたすらに与え続けた。そんじょそこらの悪女ものとは格が違う。シェル・シルヴァスタインの「おおきな木」のように。
猥褻だということで昭和時代に裁判になったというので読んでみたが、どこが猥褻なのかちっともわからない。しかも、作者の思想がうるさいので文学的な美を損なっている。
性表現は露骨というよりも、おちんちんに花飾りを結ぶみたいなのどかなヒッピー文化的な感じで、エロティシズムについては性描写の無い仏文学のほうがずっとぐっと来るものがる。しかし、時代を先取りしていていたという意味では素直にすごいと思うし、この程度で猥褻だと騒いでいた時代はさぞ不自由で息苦しかったのだろうなあとも思う。
最強のファーストコンタクトもののひとつで、ネタバレするとオチは「意識やクオリアとはときとして生存に不利かつ無駄であり、この宇宙では淘汰される可能性がある」という絶望的な結論。人間の心も愛も宇宙の中では無だ! みたいなSFが大好き。
基本的な構造は「宇宙のランデブー」の変奏で、未知のエイリアンの遺物の中を探検するのだが、強烈な磁場の中で意識が攪乱され様々な精神疾患を一時的に患うという違いがある(実際に脳に強烈な磁場を近づけると活動する部位が変化する)。言及されるコタール症候群や半側空間無視といった症状もすべて実在するが、脳科学の知識がないと全部作者のほら話なんじゃないかって読者が誤解するんじゃないか若干心配。
それと、ハードSFとしてはすごい好きなんだけど、どういうわけか吸血鬼が味方に出てきて(人類を捕食していた類人猿の遺伝子を組み込んだ改造人間という設定)、味方のはずなのにこちらに危害を加えようとする不可解な設定があり、これは作者の吸血鬼やゾンビに対する偏愛のせいだろうが、プロットの上であまり関係がないし必然性もなく、そこが無駄に思われた。そもそもなんでそんな遺伝子組み込んだ危険なやつを作るんだ?
以上。
マジで何にもしなかった
辛うじて洗濯と洗い物だけはしたけどあとはほぼ外にも出てないし家にいても掃除もしてないし
平日はわりかし食器片付けて簡単に部屋をきれいにしてから寝るってルーチンがあるんだけど
まったく予定のない休日だとそれさえしないでシンクに洗い物溜まったりする
なにしたっけなーそういえば月一の検査なので近所の診療所は行ったな
なんか機械が壊れたとかで混んでいて、じいさんがイライラして声を荒げていた
広告で流れてくる漫画のセンセーショナルな場面だけの切り取りから飛んで
無料部分だけ読んでまあこんなかんじの話だねーと見当がついたら一応満足するんだけど
それが二回三回と繰り返し遭遇すると「あーこれ途中まで読んだなどんな話なんだっけ」って気になって
結局そんなに惹かれるあらすじでなくても記憶に引っ掛かるストレスから解放されるために課金して全部読んでしまうという
広告経由でもたとえば「ヒメゴト」なんかは無料分読んでなにこれむちゃくちゃ面白いぞ…!!ってなった幸せな出会いだったんだけど
なかったんだけどなんだろうな
「少女」の描き方がなんというのか言い方悪いけど男性作家的というのか……
でもそれは現実に生きて笑ったり苦しんだりしている10代の女の子の反映ではなく
他者の欲望をどのように映し返すか/映し返してほしいかというバリエーションがあるだけの存在に見えることがある
サロメとかさ、あれ「輝くばかりに美しく残酷で幼い」存在を表現したい、てやつじゃん
それはそれで美しいし好きなんだけどそれは書いた人の妄想を反射してるだけであって「人間」ではないよねーと思ってしまう
なんだろうな、人間からその人の欲望に叶う部分だけを抜き出して固めて、作者の欲望や妄想をよく反射するためだけに配置されてる感じ
ちょっといきがっていわゆる純文を読み始めた頃、作品のなかに描かれる「少女」の人間ではなさ、現実の人間との決定的な差異みたいなのをどう考えていいのかわからなかったよ
あれに比べればりぼんとかの主人公の方がまだしも「人間」なんだよな
だからこの作品の女の子達はやはりそういう「人間」ではないものに私には見えてしまったと言う話
それぞれにトラウマがあり満たされない思いがありそれが分かりやすく描かれるんだけど
たとえばこの間読んだ「裸足で逃げる」とどう差を感じているんだろう
そういえば途中で主人公が他の子に肘鉄を食らってがくっと崩れ落ちる場面があったんだけど
そのときスカートが上がっておしりのラインが見える描写がされててそれはちょっとびっくりしたんだよな
ねっちりした描写って訳でなく手癖みたいなものだったんだろうけど
なんだろなー有り体にいうとセーラー服の女の子が怒ったり苦しんだりしてるところがみたい!というフェティシズムめいた欲望をなんとなく感じ取ってしまったのかもしれない
いや作者の人がそんなことを一切思っていなかったら申し訳ないが
そして思ってたとしてもそんなの作品を作る上でものすごくありふれたことなので悪いというわけではない
ただ私にとっては「人間」でなくフェティシズムを反射するための素材に見えてしまって気になった
ネガティブめには書いたがたとえば10代の頃とかに読んだらすごく好きだったかもしれない
人間のどうしょうもないことあれこれを削ぎ落として何かの純粋な塊みたいに描かれたものは子供の時にはすごく刺さるかもしれない
半妖の夜叉姫について、製作者や視聴者のネット上でのふるまいに対する雑感
なぜこれを最初に書くかというと、夜叉姫は名作「犬夜叉」の二代目作品だからである。
リメイク作品というのは、よく言えば古くから創作をし公式からの供給が無い苦しい時期でも布教活動に励みジャンルを活気づけるファン、
悪く言えば自分やそのお友達のみで育まれた自己都合解釈・妄想に長年中毒になった信者、というのが必ずついて回るという、大きいリスクを抱えてしまうことになる。
ドラゴンボールやドラえもんみたいに定期的に続編が公開されるジャンルではなく、長年のインターバルを経て続編を製作するというのは製作側からしても長年のファンからしても大変だと思う。
公開前は異常に話題になったにも関わらず放送されてからは全く話題にならなかったり、前情報では全く話題にならなかったのに放送されてから人気が爆発したりなど、
アニメ製作自体が博打なのに、リメイク作品というのはそれ以上の博打を行うことだ。
超個人的な感想として、ここ最近のリメイクアニメで大成功したものは、GRIDMANくらいだと思う。元が特撮の物をアニメにしたのがリメイクといえるのか?という疑問は自分の中にもあるけど…
あとは、おそ松さんとゲゲゲの鬼太郎も成功だと思う。ここ5年くらいのリメイクアニメラッシュは、おそ松さんの功績だと勝手に思ってる。
現在放送中のリメイクアニメで成功してるなと思うのは、ひぐらしのなく頃に業。放送中なので今後の評価がどうなるかわからないけれど、今のところキャラクター目当てで見ていた人も考察好きの人も良い意味で盛り上がっているように見える。
逆に、期待以下でジャンル者が静かになるどころか毎週毎週異常と言っていいレベルで炎上していたのは寄生獣だと思う。
寄生獣アニメの凄いところは、別に寄生獣のファンとして創作活動をしている人が大量にいるわけでもないのに、アニメ化実写化が決定された時点で賛否の嵐、放送されてからは批判の嵐だったところ。
回り道をしてやっと本題に入る。
夜叉姫は犬夜叉の二世作品である。キャッチコピーは確か「殺生丸には娘がいる」だったか。
犬夜叉続編アニメという時点で、昔の傷が疼いて暴れている人が結構いた。
20年前のアニメ犬夜叉は、正直原作強火ファンにはあまり評価がよくない。
原作強火ファンというのは、主に漫画の犬夜叉×かごめのCPが好きな人のことです。
確かにかごめの性格が所々ヒステリックになったり、桔梗が悪女になったかと思いきやその後の物語と矛盾する程に犬夜叉と愛し合っていた描写がされたり、犬夜叉の成長が無かったことになったりなど、粗い部分もあるアニメではあった。
原作を知っている人からしたら憎しみを抱くレベルでの改変があったとしても、初めてアニメを見る人からすればそれまでどうしようもない話の矛盾が発生しているようには見えないのである。
実際、アニメの犬夜叉に対して、原作を読んだことのなかった放送当時の自分はそこまで大きな矛盾があるとは思わず、基本的には楽しく視聴していた。
むしろアニメを見てから漫画を読んだ時期の、本誌連載の展開の中だるみの方がしんどかった。
夜叉姫に対して批判的な意見を言う人に対して、一番ドン引きしたことは「高橋留美子先生が可哀想」という発言をしている人がそれなりの人数で見受けられることである。
原作者と何も接点が無い人間がただの憶測・というか自分の願望として
「自分はこんな続編を望んでいないので悲しい、ということは原作者である高橋先生も悲しんでいるだろう」という妄想を押し付けて、それに対して少しの疑問も抱かずにSNSで発信していることである。
これが、新人作家が初めてアニメ化した際にファンが言うというシチュエーションであれば理解できる。
しかし、高橋留美子は紛れもないレジェンド作家であり、犬夜叉は20年前にアニメ化しており、夜叉姫のスタッフは当時のスタッフが多いのである。
また、高橋先生はアニメスタッフとも親交があり旅行にも行く間柄である。
そんなアニメスタッフと交流のある大御所漫画家が、アニメスタッフに良いように利用されているだけだと思っているのか。
自分の他人の考え方の違いや立場の違い等の境界線が存在しない人間なのだろうか。
別に悪気があって言っているわけではないのだろうけど、本当に気持ちが悪かった。
話がつまらなかったで済むところを、完全な憶測で被害妄想爆発させてる。
製作者がインタビューでことあるごとに原作者のお墨付きであるアピールをしていることに、多少イラっとする人がいるらしくそれには完全同意だが、
ファンの人の「原作者さん可哀想」「これ原作者は納得したのかな」発言には同等かそれ以上にイラつく。
ブログで愚痴を長々と書く人もいる。それ自体は悪いこととは思わないし、内容はなるほどなと思えるものも多々ある。
しかし、私が不快になる部分が一点。大体の人に共通しているのが、冒頭に「夜叉姫を楽しんでる人は見ないでください。製作陣を誹謗中傷する目的はありません。」という警告文を冒頭につけていること。
いや…それ個人サイトまたはブログでしか感想を発信してる人がつけて初めて意味のある警告文じゃん…。
その長文愚痴リンクは、散々愚痴をまきちらしたTwitterのアカウントで宣伝してるんじゃん…。
そのリンク踏む人の内訳は、あなたが夜叉姫に不満たらたらなこと知ってる人が90%でしょうよ…。
ブログの冒頭で注意文つけるんだったら、Twitterのプロフィールか固定ツイートにも同じこと書いとけよ…。
あと愚痴ブログ夜叉姫楽しんでる人は見ないで!警告つけるんだったら、キャラ名・CP名を検索除けもせずそのままでつぶやかないでほしい。
ブログでそう注意書きしてる人のTwitterでのアンチ意見が普通にキャラ名で検索に引っかかるんだな。
だったら、このアカウントは基本的にはアニメ犬夜叉に対して否定的です。と書くか、専用の愚痴垢作るか、鍵垢にするか、いくらでも方法はあるのに何もやらないんだろうな。
夜叉姫や犬夜叉に興味をもった人がTwitterで検索して「犬夜叉界隈こわ…近寄らないでおこう」と思っていることも考えないで、お友達と公共の場で愚痴大会したいだけなのでしょう。
それは別に昔からだけどな。原作連載時は、原作に対しての愚痴大会もキャラアンチを隠しもせずやってる人大量にいたし。
あれから十何年以上経っててこれな人はまともな日常生活を送れるのかと思うけど、青春を捧げた作品で何かが発生したら、精神年齢も青春当時に戻ってしまうんでしょう。
結局のところ、犬夜叉界隈の人が散々愚痴ってるのに夜叉姫を毎週毎週視聴するということは、
彼氏に薦められて、今日初めて「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」を見た。
正直、ガンダムは00しか見ていないニワカだったので、YouTubeの一年戦争史のうち、宇宙世紀創世~第一次ネオ・ジオン抗争までのダイジェスト版を予習してから見た。
感想としてはシャアやべえって感じ。最後の台詞が「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ(以下略」ってやばくないか?自分が求めた母性(ララァ)がアムロによって壊されたから、アムロに復讐するために戦争...だと...?しかもララァが死んだのはシャアを庇ってのことだったのに...?シャア勝手すぎない?
そう思って感想サイトとか考察サイトとかを読み漁ったら、それが逆にかっこいいみたいな記事ばっかだった。彼氏も同じことを言う。なぜ...。
まぁでも私はそれよりも、シャアと同じ(?)ように父性を求めたクェスに対して、やれ悪女だのやれ頭おかしいだのと散々に言われている事の方が、意味不明だった。
シャアが母性を求めるのは良いとされているのに、クェスが父性を求めるのが否定されるのはなんで?
確かにクェスはアムロの恋人であるチェーンに会ってすぐに「船から降りろ」とか言ったり、公共の場でシャアに「自分はララァの身代わりなのか?」と聞いてしまったりしていて、「他人の気持ち」を考慮できない点はある。
でもシャア自身も、クェスが父性を求めていた「気持ち」を読み取れていなかったから、クェスとどっこいどっこいだよな...?
シャアが好きなら、シャアと同じように他人の気持ちを読めなくて、父性を求めたクェスも好きになるんじゃないの?
こんな感じのモヤモヤを彼氏にぶちまけたら、「クェスは逆襲のシャアのぽっと出だし、愛着がわきにくい。それに対して、シャアは今までずっと見てきたし、なんでそんな考えになるのか共感できるしで、ある意味愛着がわいてる。この違いが好き嫌いを分けたんじゃないかな」って言われた。彼氏、答えてくれてありがとう。
私はダイジェスト版でしか見てないし、ガンダム歴1日だしで、シャアに愛着がわいてないから、そう見えるのか......でも全編通して見ても、シャアカッコいいって感想になるのか正直分からない。
元増田に便乗
なろう / 83部分 / 351,719文字
テンプレ婚約破棄から死亡するまでを7回繰り返した悪役令嬢が主人公で、7回目に敵国の皇太子の興味を惹かせてしまい嫁ぎに行き、
敵国ではループ中に得た知識をもとに無双するお話、なんだけど皇太子とのいじらしい駆け引きが最高にエモいのでおすすめ
なろう / 全38部分 / 197,488文字
中国的なテイストの離宮が舞台。病弱ながらも薬学などに長ける次期皇后と名高い主人公が、嫉妬した皇后候補の罠に遭い精神が入れ替わってしまう。
このまま「君の名は」みたいに入れ替わったままどうなっちゃうのー?!
と思いきや主人公が入れ替わりによって「どうしても手に入れられなかったもの」を手に入れた一方、嫉妬した皇后候補も一時はいい思いをするけど……?