はてなキーワード: 住宅地とは
1歳の娘をバギーに乗せ、3歳の娘の手をとりながら、私は横断歩道の前で待っていた。
住宅地にあるバス通り、それなりに交通量は多いが、信号機はない。
朝の通学時間帯には、地域の父母が旗を持って立ち、子どもたちの通学の安全を守っている。
結局、スピードを落とすことなく走り去る自家用車やタクシーを十数台ほど見送った後、やってきたバスが横断歩道の手前に停車してくれた。
3歳の娘は危なっかしく傘を肩に預けながらも笑顔でバスの運転手に手を振り、私は軽く会釈をしながら横断歩道をようやく渡り終えた。
自宅への道を急ぎながら、娘は「みんな、なかなか止まってくれないよね」と、ぽつりと呟いた。
つくづく、この国で子どもを産み育てていくのは大変なことだと思う。
出産費用にはじまり、医療費に教育費はもちろん重くのしかかる。
家族が増えれば住居の広さも必要になり、自炊するにも食材が増えた分だけ、食費の増加は避けられない。
年に一度くらいは遠方の祖父母に子どもと会う機会をつくろうと思えば、交通費もかなりのものだ。
子どもを育てるコストを負担しつつ、自分たちの老後に備える必要もある。
問題は、その原資となる収入だが、今や雇用の安定など私たち20代や30代には望むべくもない。
成熟し、縮小していく社会において、高度成長期のような右肩あがりの成長に伴う給与上昇は考えられない。
となれば、椅子取りゲームで競争に勝ち、立場と給与を力づくで手に入れるしかない。
勝利しなければ、生き残らなければ給与の上昇を見込めないどころか、今の仕事すら失うかもしれない。
そしてその競争に参加するには、子どもの存在は重たい足かせになる。
家に帰って子どもの世話をするために、そして週末には子どもに時間を使うために、働く親たちは必死の思いで自らの仕事を効率化する。
だがそれでも、突発的なトラブルがあり、夜遅い時間に設定される会議があり、そして就業時間後のコミュニケーションが命運を握る社内政治がある。
子どもを持つ親は、子どものいない同僚たちと対等に競争に参加することは難しい。
この国のビジネス社会は、仕事にすべてを捧げ、集中する覚悟と実践を要求する。
この競争は、ブラック企業だろうと、優良企業だろうと、実はさほどの違いはない。
では、夫婦の内の片方が仕事に全力を注ぎ、もう片方が子育てを一手に引き受ける分担をすればいいのだろうか。
私たちの親世代で一般的だったように、企業戦士と専業主婦という分業により、家庭を経営していけばいいだろうか。
答えはノーだ。
なぜなら、私たちの親世代と私たちでは直面しているリスクの大きさが違いすぎるからだ。
かつて、日本企業は滅私奉公を要求するかわりに、少なくとも正社員として働く男性たちの雇用を守ってきた。
そのしわ寄せは、結婚によって退職する若い女性社員や、パートタイム労働者が負っていたが、彼らは主たる生計者ではなかったから、それでも「雇用の安定」というお題目は守られていた。
今は違う。
主たる生計者が期間限定の雇用に甘んじている状況は珍しくない。
正社員ですら、いつ競争に敗れ、仕事を失うかわからない危機感に常にさらされている。
どちらかが仕事を失っても、次の仕事を見つけるまで、家計を支えるためだ。
競争に勝たなければ所得の上昇が望めない社会で、成長し、お金を必要とする子どもたちに応えるためだ。
そのためには、母親である私は急いで仕事復帰しなければならなかった。
数が足りない認可園に入れないリスクに対処するために、先着順の無認可園を徹底的にあたって予約金も支払った。
秋生まれになるように調整したのは、産休明けにシッターを利用して急いで仕事復帰し、認可保育所選考のポイントを加算するためだ。
11月生まれで1月後半からシッター利用で復職、生後半年を待たず0歳で認可保育所に入園できれば、私たち夫婦の収入でも対処できる。
本当は4月や5月頃生まれの方が、0歳入園でもほぼ1歳に近く、子どもとの時間を持つことができるが、それでは約一年も仕事を離れることになり、復職のハードルが高すぎる。夏から翌4月までをシッターで乗り切るのはあまりに経済的負担が大きかったので、断念せざるを得なかった。
結局私は2人の娘を産んだが、仕事を離れていた期間は通算で一年に満たない。
そこまでして復職しても、いわゆるマミートラックからは逃れられないが、それも甘受するしかない。
「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログが話題になったが、ネットで何を叫ぼうと誰も助けてはくれない。
同情の言葉くらいはもらえるかもしれない。数年先には状況が変わるかもしれない。
それでは目の前の子ども、不運にもレールに乗れなかった家庭には手遅れだ。
誰もが自分の生きる場所を守り、しがみつくことに精一杯の世の中で、他者に手を差し伸べる余裕がある者などほとんどいない。
保育園に入れないのも自己責任だと切って捨てられる、それが現実だ。
ちなみに、そこまでして入った保育園も、子どもが体調を崩せば利用できない。
行政が提供する病児保育のサービスはあまりに貧弱で、フルタイムで働く私たちには使いこなせる余地がなかったから、いざという時には高額な病児ベビーシッターサービスも活用している。
そこまでしてでも、母親が正社員という立場を守って働き続けなければ、子どものいる家庭を守ることはできない。
少なくとも私はそう考えている。
母親は一度仕事をやめ、子どもが手を離れる年にまで育ったら、再び仕事を探して働けばいいという識者がいる。
そういう人は、十分な学歴と意欲があり、健康な体を持ち、自分自身以外に面倒を見るべき存在がいない若者ですら、安定した仕事を得ることが難しい社会の現状を知っていて、そんなことを言っているのだろうか。
誰もがいつ仕事を失うかわからない、そして失業した際のセーフティネットがあまりに貧弱なこの国の仕組みを理解していて、言っているのだろうか。
ひとり、あるいは複数の人間を新生児から社会人まで育て上げる責任の重さを、親になったからには背負わなければならない。
それも親になるという選択をしたのは自分たちなのだから、自己責任の範疇である。
費用も、機会も、制度をいかに利用して乗り切るかも、すべて親の才覚にかかっている。
それでも、私は自分たち家族が驚くほど細い綱渡りをしていることを自覚している。
もし娘たちや私たち夫婦の誰か1人にでも何か不慮の事故や病気があれば、この綱渡りを続けられる保証はない。
ここまでは、物質的な話だ。
子どもを育てるには、物理的金銭的に大変な努力が必要なのはもはや否定できない。
次に、親になる者が直面するのは、精神的な困難だ。
公共交通機関に子どもを乗せるなという論争が、日々至る所で巻き起こっている。
冒頭、娘が呟いたように、横断歩道をゆっくりとしか渡れない幼い子どもを連れた親は、道を渡ることすら容易ではない。
必要なしつけはしているつもりだし、公共の場でのふるまい方を教育するのは当然親の務めだと考えている。
それでも、子ども連れでいることで向けられる世間のまなざしに、どうしようもなく辛い思いをすることはある。
一人だったらとくに気にすることもなく車の間をぬって渡ってしまえる道も、子どもが一緒だから、安全を確認するまで辛抱強く待つ。
走り去る車をじっと見つめる娘の澄んだ瞳と、だんだん冷たくなっていく小さな手のひらに、どうしようもない心の痛みを感じながら、私は待つ。
もちろん、指定席を子どもも含めて人数分取っているが、たまたま私たちの近くに乗り合わせたビジネスマン風の男性は、あからさまなため息をつき、はしゃぐ娘たちを見て舌打ちする。
大きな声はださせない、椅子にはきちんと座らせる、そして食べ散らかすような菓子類は与えない。
飲み物はこぼさないようにストローやマグを準備し、それでも万が一に備えてタオルや着替えは常備する。
万全の準備をしているつもりでも、子どもの機嫌が悪くなることがある。
だが、帰省シーズンともなれば、指定席車両のデッキも自由席券の乗客で溢れ返り、苛立つ彼らは泣きじゃくる子どもを抱えて現れた親を睨み付け、ため息をつく。
一体、子を持つ親はどうふるまえばいいのか。
子が公共の場所で泣かず、疲れたとわがままを言わないようになるまでは、外になど出るべきではないのか。
容赦なく投げつけられる批判のまなざしを、せめて子どもが直接こうむることがないよう、親は細心の注意を持って配慮し、矢面に立つ。
自分で選んだ生き方なのだから仕方がない、これも自己責任だと言い聞かせ、今日もぐっと奥歯をかみしめる。
仕事を持ち、愛するひとと結ばれ、子どもをもうけて家庭を築き、社会に参加する。
本当に幸せなことだ。
川の字に並んで眠る夫と娘たちの寝顔を見る時、私は自分の歩んできた道が間違ってはいなかったことを自覚し、そしてたとえようもないほどの幸福感に満たされるのを感じる。
だが同時に、ひどく不安にもなる。
私はこの先も、この幸せを守り続けていけるのだろうか?
家族の健康を守り、仕事を守り、娘たちの未来を保障し、自己責任をまっとうできるだろうか?
身の丈に合わない幸せを追い求め、手にしてしまったのではないかと悩むことがある。
本当は、私のようなごくありふれた個人がまっとうできる責任など、自分ひとりが生き抜くくらいのことなのかもしれない。
仕事に集中し、結婚も出産もしなければ、私がとるべき自己責任の対象は私1人分でよかったはずだ。
ただ、保育園に子どもをいれられなかった親が怒り、子どもの障害とともに生きる親が絶望してしまうこの世の中で、ありふれているはずの家庭を持つ親が何を考えているのかを伝えたかった。
今、この国で子どもを持つということは「自己責任」の範囲を子ども全員にまで広げるということだ。
それでも子どもが欲しいなら、産み育てる責任をまっとうしてほしい。
…ありふれた幸せに憧れているだけなら、残念ながらお勧めできない。
だが、各論では真逆であり、子どもを持つことはリスクであり、ペナルティでしかない。
私たちは誰もが自分の幸せを自由に追求する権利があるが、子どものいる幸せは非常に高価だ。
子どもを持っても、誰も褒めてはくれないし、助けてもくれない。まして見返りなどないし、批判にさらされることが増えると覚悟してほしい。
それでも子どもを持つのは、子どものいる幸せがそのリスクやペナルティを度外視させ、高価さに見合う以上の精神的な充足をもたらしてくれるからだ。
私は正直、覚悟が甘かったから、今でも時々こんな風に心を痛めたり、迷ってしまう。
まだまだだな、と思うばかりである。
そこでは、正義感に溢れた主人公が、自分の知り合いが人質にとられているからという理由でテロリストがビル群を倒壊させるのを容認していた(「やめろー」とか叫んではいた)。毎週敵の巨大ロボや怪獣が現れ、無警戒の一般市民が逃げ惑っていた。
正直、見るのが辛かった。敵の戦闘機が目の前で住宅地を絨毯爆撃しているにもかかわらず、唯一の戦力である特殊戦車の中で夫婦漫才をしている「正義の味方」は、本当に怖い。彼らが感情を持った人間であるとは思えない。こんなの子供に見せていいの?幼稚園児って、他者の理論を獲得して、周りにいる人間は自分と同じような存在なのだ、ということを理解するかしないか、みたいな発達段階だよ?
今なんか造ったって、そのうち使わなくなるのわかってんじゃん。
住宅需要の高まりを背景に、今から数十年前に造成された、どこにでもあるような郊外の住宅地だ。
今では他のニュータウンと同じく、高齢化に悩まされてるらしい。
あんな排他的な住民ばっかなとこ、誰も引っ越したくねえから当然なんだけどさ。
ご存知の通り、ニュータウンというのは、だいたい同じ世代が一度にやってきて、入れ替わることもあまりない。
すると必然的に、子供の数はある世代でワッと増えて、後は減る一方となる。
増田が丘小学校もその例に漏れず、ピークの時には児童が1200人もいたらしい。
でも俺らはその後の世代で、その頃には6学年合わせても4~500人程度だったから、
多目的教室やなんたら準備室と名前はついているが、もちろん普段は全く使わない。
ニュースで待機児童が多いって言われてるのも、最近またニュータウン造成しまくってるとこでさ、
今あるとこが活かせないのかなって思うよ。まあ無理なんだけどさ需要がないから。
でも、わざわざ激戦区に引っ越しといて競争が厳しいとか言われても、そりゃそうだろうって思うよ。
前提:地元(都内住宅地)の店で、店員から簡単に紹介された後の会話
要点:
・話を聞くときは自分の情報をセットで伝える。一方的に質問して、詰問調にならないように。
・基本的には、質問→肯定→深堀。7聴いたら3話すぐらいが目安。
・最初から深い個人情報は聞き出さない。名前と酒や食べ物の趣向がわかれば十分。
・男性には仕事の話を聞いても問題ないが、女性は自分から話し出すまで聞かないでおく。
・先に帰る際は、今日はありがとうございました、と告げてから帰る。老若男女問わず。
【相手】●●あたりです。
【自分】(スーパー名とか公園)が近くていいところですね。というと、通勤は●●駅?
【相手】そうですね。
【自分】私は××駅まで通勤しているので、○○駅(店からちょっと遠い)を使ってるんです。近くて羨ましい。どこら辺までいらしてるんですか?
【相手】△△駅です(だいたい新宿、渋谷、品川、赤坂、新橋などのオフィス/繁華街が多い)。
【自分】そりゃ良いところだ。結構飲むところも多いんじゃないですか。
【相手】そうですね。だいたい●●とか、●●が多いですね。
【相手】そうですね。月に●回ぐらいです(だいたい月1~4回が多い)。
【自分】私は月に2回ぐらいなんですが、通いたくなる良いお店ですよね。(店員の名前)さんも暖かい方ですし。
(店員を軽く話に絡ませる)
【相手】●年ぐらいです。
【自分】●年だったら色々と行ってるんじゃないですか。他によく行くお店とかありますか?(他店の話はNGな店あり。めったにないけど)。
【相手】●●とか●●ですかね。
今日の昼頃インターホンが一回だけ鳴った。郵便物を頼んだ記憶はないしパジャマ姿だしで面倒だったので居留守を使った。物音を立てぬよう、しずかにモニターをのぞくと50〜60代と思われる作業着姿の男性のようだ。不在票をポストに入れたら出よう、と思った瞬間男性はなにやらメモをとり、スクーターで走り去ってしまった。これ、空き巣の下見だったらどうしよう。考えすぎだろうか?
すっかりビビってしまったので対策方法を教えていただきたいです。とりあえず今通帳をまくらの下にしいて寝てる、、、居留守したこと後悔。
自分…女 初めてのひとりぐらし
家… 住宅地 長屋風のつくりでメゾネット。1階はキッチンとリビング、2階は寝室とベランダ。
侵入できそうな箇所
ドア→タイプとか詳しくわからないけどノーマル?な鍵がひとつ 家にいるときはチェーンを欠かさず着ける。
1階のサッシ→外からだと建物の裏側に入らないと無理で一戸建てのお隣さんと密接している。雨戸をしめてる。
ブコメもね、たくさん頂きましたんで、気になるブコメを紹介していきたいと思います。
id:gmochein 増田が渋い顔で、それでも飯を食い続ける絵がありありと浮かんでくる名エッセー(渋い顔したかは知らん
みてたんすか?
なんかああいう時って、周りのお客さんも渋い顔してて、一瞬その場の感情を共有してるような錯覚を感じる事ありません?
終わった後、なんか見ず知らずのひとに微笑みかけちゃったりしてね?
id:akihiko810 なぜか床が異常にぬめぬめ滑り、味はいまいちの日高屋か
あのぬめりは何なんすかね?
id:shinichikudoh 「日高屋では、現状の味に満足することなく、常に改良を行っています」と公式サイトに書かれてるから、冷奴にさました器を使うくらいのことは頼めばしてくれるんじゃないかな。味にこだわらない飲食店なんかないよ。
まあ正論ですけどもねー。
あ、でも店に寄ってはあの、アンケートはみてくれるみたいですね。
大分前に、天やのアンケートに「山椒がほしい」って書いたら、しばらくしてカウンターに瓶の山椒が置かれてました。
id:mizu2014 備え付けの葉書に書いてもらえばいいだけだろうw 笑
あ、そうそう、これです。
id:hz75hz 天国ではないが、かといって地獄でもない世界
いや、ほんとそんな感じですよ。
ブコメなかったんですけど、タグで、「加速するブルース」ってつけた方いて。
id:nakakzs とりあえずこの季節は日高屋ならモツ野菜ラーメン。福しんならニラソバラーメン。
id:banban 住宅地にあるこの手のお店の老人率は驚くほど高い。ほんとビックリする老人だらけのこともある。安くて早くてちょっと人とも(店員さん)話ができるよい店だと思っているそうだ。店員さんお疲れ様です。
いやホントそうですよ。
前、福しんで、注文した回鍋肉がなかなか来ねーなーって思ってたら、車椅子の高齢者の方が来て。
店もそこまで気の利いた構造になってないし、カウンターの中も最小限の人数で回してるんで、店員の方が気づかなくって、入口で出たり入ったりしてるんですよ。
普段、店員の方、いろいろ大変な事もあるんだろーなーって思いますよ、頭下がりますわ。
id:nonaka1007 こんな素晴らしいエッセイを書く増田が何故日高屋に?
id:tecepe アームロックしてやればよかったんじゃないかな。
id:utsuro 「俺が店を教育してやってんだ」みたいなやつにはカタヤキソバの餡だけぶっかけてやりたい。
id:Xenos 次からは、「液体窒素でもぶっかければ?」とオススメしたら良い
id:mckassyi 塩撒け、塩!!って感じ。
あの、これ、全部やったら凄いですけどね、クレームつけてたら、隣の客がアームロックかけてきて「いまだ!」つって、別の客が固焼きそばの餡をブッカけて、あっついあっついやってる所に店員が液体窒素かけてね、最後たたき出されて、塩まかれて「二度と来んな!」。
実際はさすがにね、せいぜい曖昧な笑顔浮かべるくらいなもんですけども。
id:kapiyvachang なにこの『孤独のグルメ』感。超好き。
id:M1A2 くっすん大黒
id:bigburn 池波正太郎の香りがするいいエッセイ
id:cj3029412 途中で口調が「坊っちゃん」のべらんめえぽくなるの素敵。すぐ後にしれっと戻るし。まるで寺田寅彦のような新しい増田エッセイの息吹を感じる。俺だけじゃなかった。
褒められちゃうとね、嬉しいですけど、どう応えるのがイヤミ無いんですかね?
あの、アイドルがバラエティーなんかで「カワイイですね!」って言われるじゃないですか。
あれも、どう応えるのが一番いいのか考えたりするんですよ。
最近の子は調子に乗ってるって言われるのが嫌だからか、「そんな事無いです」って言っちゃう事多いですけれども、謙遜も過ぎればイヤミというか。逆にそこを弄られて下向いちゃってかわいそうな感じになる事も多いじゃないですか。
かといって「ありがとうございます」ってのも、若い子がやるとしっくり来ないっていうか。
で思ったんですけど、ちょっと変な奴って、そういうおっさんの嫌らしい弄りとか、世間の嫉妬から免罪されたりするじゃないですか。
だから「恐縮です!」ってどうですかね?
「いやーカワイイですねー!」「恐縮です!」
あ、じゃあこれもそう応えるのがいいのか。
「恐縮です!」
id:yoiIT 夜に日高屋入ると、若い男女カップルやグループが飲んでたりして驚く。なんか、それで良いのか?って感じ。
なんか、日高屋でTwitter検索したら、うしじまいい肉さんも初めてのデートで日高屋だったら怒るみたなことつぶやかれてて、まあそらそうだと思うんですけど、これも初めての、とかじゃなくって気心知れた仲だったら、まああるんじゃないですか?若いカップルとか金無いですし。微笑ましくていいと思いますけどねー。
でも、検索結果で「日高屋で合コン」ってパンチラインが飛び込んできて、さすがに仰け反りましたけれどもね。
あの、ところでうしじまいい肉さん、バットケースとしてですけど、デートで日高屋つれてかれるのも想定されてるんですね。意外と庶民派で好感度上がりましたが。
あれ、大丈夫かな?
マフィアの話するとマフィアが来るみたいの、ありませんでしたっけ?
http://anond.hatelabo.jp/20160116085640
ここでも書かれているが、無職ニートを続けるのはある種の才能だと断言していい。
不幸なのは、現代社会(というか人間に限らず集団社会)ではむしろ害悪でしかないことだけど。
これにプラスアルファで、クリエイティブな才能とかを兼ね揃えていたら、なんとかやってける可能性がある。
でも普通なら1年も持たないし、3年5年と続くと絶対に自分もそろそろまともに・・・という気分になる。
だけどニートの暇すぎて死にそうになるような生活が、どういうわけか肌に合う俺のような人間もいる。
やることが多すぎて暇じゃない、ニート楽しすぎワロタwwwwなんてのは、ただのビギナーかまだまだ若さが溢れてるだけだ。
朝起きる、適当にサイトを見て回る(と言っても数は極端に少ない)、溜まったアニメのリストを眺める(視聴するまではなかなかいかない)、
Googleの真っ白なスタートページを眺めて、パソコンを離れて部屋の中を歩き回って、またGoogleを見て、また歩き回っての繰り返し。
これを日が暮れるまで続けて、腹が減ったと思ったらなんか食って、思っても面倒なら食わないで、気付いたら三日間ぐらいナチュラルに断食してたり、
たまになぜか気が向いたらアニメでも映画でも小説でも一気に消化して、気に入ったら同じものを1年でも2年でも毎日毎日見続けて、
春になったら散歩でもしてみようかと思って、10時間以上も膝が痛くなろうが構わずに毎日歩き続けて、かと言って色んなところに行くわけでもなく住宅地を徘徊、
欲しいものがあっても数日後には綺麗さっぱりその気持ちも消えて、それを知ってるから何も買わずに何もせずにいることに子供の頃から慣れていて、
ただ床に座って壁を眺めていて、瞑想するわけでもなく、壁のシミを数えるでもなく、それが自然とできてしまって暇とは思っても決してその退屈が苦痛には感じない。
これが異常なのかどうかは知らないけど、多くの人にはやろうと思ってできることではないということは知っている。
俺の親族にはなぜか無職ニート引きこもりが一時は6人もいたが、それでも10年プレイヤーは俺の他にあと1人だけだ。
連絡を取り合っていたが、社会復帰していった彼らは常に暇であることを嘆いていた。
まあ、金の問題もあったんだろうけど、それ以上に退屈が苦痛だったんだろうな。
自分で言うのもなんだが、俺はべつにコミュ障ってわけでもないし、対人恐怖症でも人見知り気味でもましてや鬱病でもない。
進んで誰かに関わっていくわけではないが、親とも親戚とも明るく普通に話せるし、人の目を見てありがとうと言えるぐらいの心の余裕はある。
これでも20代は就職していたこともあったけど、辞めて、ニートして、就職して、辞めて、ニートしてを4回繰り返した。
ブラックもホワイトも経験したが、仕事や人付き合い自体はべつに苦痛でもなく、辛くてもまあなんとかやれてた。
それでも、やっぱり1年もするとニートに戻りたくなる、というよりもあの退屈と非生産性が恋しくて堪らなくなる。
在宅ならいいのかと思って、アフィを3回試して、ラッキーなことに3回とも月20万以上をコンスタントに稼げるようになったけど、
やっぱり何もしないでただ日が暮れていくだけの日々が恋しくて仕方なくなって、ある日すべてを投げ出してしまう。
株とFXにも手を出してみて、株は失敗したけどこれまたFXでは運が良くて、それでも稼ぎ続ける気には到底なれなかった。
適度に刺激にある生活、これが俺にとっての退屈なんだと気づいてからは、もう10年もほぼ何もせずにいる。
たまにこうして気が向いたら、なんかアクション起こしてるけど、前回は去年の夏だかに2chに数行書き込んだぐらいだな。
やりたいことも、やることも、なーんにもない。
べつに無感情なわけでもないし、素直に感動もするし、だから心が麻痺してるってわけでもないだろう。
7,8年前だったと思う。友人に誘われ徳島へ阿波踊りを観に行った。
早めに出発したので、まだ始まっておらず時間潰しに駅周辺を散策することにした。
何も下調べをせずに徳島に来たので、特に目的もなくとりあえず名物の徳島ラーメンを食べたり、商店街を歩いたりしていた。
その特に気になる通りがあった。歓楽街を抜け、住宅地に入り、公園の少し先だったと思う。古い長屋が並んでおり、何軒かの軒先に中年の女性が座っており、こちらを見つけると手を振ってきた。
その時は阿波踊りが始まる時間が近づいていたため、気になりながらもその場を去った。
阿波踊りを1時間ほど観たが、有料の座席でないと本物の阿波踊りは見れなかったので(思い付きで来たので有料席があることも知らなった。)、飽きてしまい気になっていたあの通りもう一度行った。
中年女性の座る軒先が増えていた。誘われるがままに話を聞いてみるといわゆるちょんの間だった。おおよそ検討はついていたが。
同じ徳島市民が阿波踊りという県民の一大イベントであろう行事に熱狂しているそのほんの少し離れた場所ではくたびれた女性たちが体を売っている。他県からも人が押し寄せるので客が増えるそうだ。
ちなみに抱いた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160101-00000515-san-life
首都圏の母親サークルに募集をかけ、28~40歳の既婚女性21人が集まった。
長男(6)を連れて参加した主婦(40)=大田区=は「どこに勤めているかで周りの人の見方は変わってくる。夫が転職を言い出したら反対する」と言い切る。
夫(40)は大手メーカー勤務だが、社内で転職者が相次いでいるため、夫が「仕事を変えてみたい」などと言い出さないか、ハラハラする毎日だという。
反対の理由はママ友との交際関係だ。「大手企業勤務」という夫の肩書は一つのステータスになる。「直接、友人たちに夫の勤務先を聞いたりはしないが、会話の中で自然と伝わってくる。勤め先から生活水準が想像でき、相手によって一緒に食べるランチの値段は変わる」と本音をもらす。
まず、生活水準高そうなママの夫は普通のサラリーマンじゃない。
自営(経営者)が多くて、勤め人だとしても医者とか。あと実家が金持ちって場合も。
そこそこ地価が高い地域に住んだり、子供がそこそこ評判が良い学校に行ってりゃそんなもんだと思うけど。
別に「自慢出来る」ような高級住宅地在住とかお受験私立とかではないが、それでもそんなもん。
かと言って「夫が大手企業勤務」ってだけで珍しい・自慢出来るような地域に住んでたら
高いランチ出す店なんて周りに無さそう。
そもそもそんな人は「首都圏の母親サークル」に顔出す余裕も無さそう。
何かいかにもサラリーマン社会の序列しか意識しない男が作った記事だよなー。
あと女って現実的だよね。
「大手企業勤めの低収入」と「無名企業勤めで高収入」だったら後者が良いという人が大多数では。
収入より勤め先でドヤるって、いかにも男の発想っぽい。
あと生活水準って共働きかどうかでも変わるし、専業主婦同士で比べても実家の援助の有無なんかでも大分変わるのに
「夫の収入が第一なはず」ってのも、男の発想っぽい。
俺「もしもし?」
妻元彼「君の家の方角にハヤブサが飛ぶのを見た」
俺「見てないが、心当たりはある」
妻元彼「カラスか?」
俺「そうだ。普段うるさいカラスの声が聞こえなくなった」
妻元彼「ビンゴと見ていいだろう。君にはハヤブサを守ってほしい」
俺「俺はハヤブサの守りかたを知らない」
妻元彼「ハヤブサが存在する痕跡を消す事だ。例えば羽根とかフンとか食べ残した小動物だ」
俺「俺にはそんなもの見分けられそうにない」
妻元彼「食べ残しはわかりやすい。小鳥やネズミの頭が食べられずに捨てられる」
俺「そんなものを拾っていたら、あらぬ疑いを受けかねない」
妻元彼「そこは慎重にやらなければならない」
俺「俺は不器用だから無理だ。そもそも何から守ろうというんだ?」
俺「こんな住宅地にハヤブサハンターがいるとは思えない。余計な活動はかえって目立つんじゃないか」
そんな風にして断ったものの、ハヤブサに肩入れする理由がなかったというのが正直なところだ。
このやりとりを妻に報告したところ、元彼に電話して、旦那に変な事させるなと怒っていた。
補足すると、妻元彼は自然保護活動家でも何でもない。たまたま見かけたハヤブサの姿に魅せられて、四六時中そのことばかり考えるようになってしまったらしい。
ここさけとやらを全然知らないんだが
いわゆるリア充やスポーツマン、根っからのオタクなどその中でもカテゴリは存在していたものの、それぞれに学園ヒエラルキーが適用されるのではなく、お互いに棲み分けを行うような形で折り合いをつける。結果、異分子的な存在に対しても特に働きかけることもない一方でいじめのような状況は発生しない(しなかったと思っていると付け加える)。
おそらく「ここさけ」の舞台の学校も、近いような環境、学力的にステロタイプに表すなら、偏差値が高いほうではある一方で、エリート校と言うほどではない奇跡的な案配といったところなのだろうと想像した。
これが「奇跡的」なの?
と言うから小学生くらいなのか?と思ったけど、調べたら高校生だよね?
高校生にもなりゃ共働きで当たり前じゃね?例え母親が専業主婦だったとしても、子供を置いて出掛けたりする事もあるよね?
それでいちいち「びくりと身構える」とか「胸が張り裂ける」とか大げさすぎでは?
増田んちの母親はずーっと専業主婦で、高校生の子供を一人で留守番なんて絶対にさせないザマス!とかいう人だったの?そっちの方が異常では?つーかマザコン??
彼女の家はいわゆる分譲住宅だ。幼少期の描写ではぽつんと一軒成瀬の家だけが建っていたところから、現在では周囲に家が立ち並んでいるところをみると、成瀬の父親は転勤族であり、新しくできた分譲住宅に飛びつくような形でやってきた新参者だったのだと想像できる。
転勤族が子供幼いうちから一軒家なんて買うかよ。いつ転勤になる=引っ越すか分からんのに。
新興住宅地に住む=転勤族・新参者、という発想って事は、そうでなければ親の家に同居するはずとか思ってんの?どんだけ田舎?
母親は子供を養うために働きに出るしかなく、自動的にご近所づきあいは破滅的に。地域性というバックボーンがない新参者のために、塞ぎがちになった成瀬に対しても「近所のガチンチョ」だとか、「面倒見の良いおばちゃん」のようなケアは存在しなかった。
いやだから高校生にもなりゃ母親働いてて当然だっつーの。金持ちばかりの高級住宅地ってならともかく普通の住宅地だろ?
そもそもそんな濃い近所づきあいなんてのも新興住宅地では存在しねえっつの。どんだけ田舎?
えっいかにも「心に一物抱えてる子供です」的説明に見えるけど?
そんな子供は中二入ってる思春期ならごくありがちだから何だかんだで平凡だ、ってなら分かるけど、そういう意味で平凡つってる訳じゃなさそうだし。
彼の影響下の元、彼と同じ家庭環境に育まれ、坂上は父親の人格をしっかりと継承しているのである。いくら自覚がなくても、子供は親の影響を受けて育ち、それらを継承してしまう。
むしろ(「父親」側である)製作者&視聴者の「普段子供にあまり関われてないけど子供は自分の影響受けていて欲しいなあ」と言うドリームを反映した、
家族モノとしてはごくごくありがちで手垢の付いた設定だと思うけど。
それは成瀬の母親だ。彼女は頼れる両親がいなかったのかもしれないが、どちらにしろよそに頼ることなく、女手一つで子供を育てる選択をした。再婚もせず、もちろん育児を放棄することもなかった。
離婚した女は再婚して男に頼ったり育児放棄するのが当たり前でそうしないのが特別だと思ってるの?どんだけDQN?
全体的に、ホラーでもないしありがちにしか見えないなあ、と思ったんだが
私はこの映画を、友人たちと連れだって見に行ったのだけれど、そのうちの一人の境遇がまさに、「片親という家庭環境で育ち」「現在父親」というものだった。
感受性高い高校生とかならともかく、父親になるような年齢でその精神力って幼稚過ぎるんじゃない?
と思ったが父親なのに友人と連れだって映画行くって辺り、若くて父親の自覚なくて奥さんと子供放置で独身時代と同じように友人と遊んでるみたいな父親か?
やっぱり、どんだけDQN?
★「エクストリームユーザー」というのがいるらしい。「メーカー側の想定を超えた使い方を見出す、型破りユーザー」
★タイムズカーシェアは、本来「運転するためのクルマを貸し出す」サービス。
で、パーク24本社は、クルマの位置情報をビッグデータ解析している
その中で、「パーク24が全く想定していなかった、エクストリームユーザー」がいたらしい。
「クルマを借りたのはいいが、全くクルマを運転せず、移動せず、そのまま時間になったら返却」
どうやら「スペースとして、休憩所として、カーシェアのクルマを借りた」らしい
言われてみれば、ネットカフェで一晩過ごすのと、カーシェアで一晩過ごすのと、コスト的には大差ないよね。
或いは、自習室を1時間借りるのと、カーシェアを1時間借りるのも、あまり大差ない
★・・・という辺りまでは経済メディアに書いてあった話なんだが、
この「スペースとしての、カーシェアの利用」って、大声では言えないが、「妙齢の男女が、揃って数時間使う」というのが「本当のエクストリームユースの実態」なのでは?
よく考えたら、コスト的に「カーシェアの価格と、ネカフェ価格・自習室価格が釣り合ってる」と言われても、カーシェアって、やはり寝るには不便だし、飲み物もないし、勉強には不適。
だが、「お二人様ご休憩」よりは、はるかにカーシェアの方がコスパが良い
★多分、パーク24本社も、「エクストリームユースの、本当の実態」は知ってると思うよ。
でもそれを公に認めちゃうと、他の「マトモにクルマを運転して使いたい客」の客離れを興しちゃう、
なので、それとなく、「休憩スペース的に、使っておられる方もいらっしゃいます」とお茶を濁した受け答えしている
いくら長くても、シャワー浴びなきゃ、「本番に要する時間は、1時間程度」だろう。
タイムズカーシェアは1時間824円だから、「ご休憩」なホテル一時利用より、圧倒的にオトク。
住宅地で、通行人からの視線の死角になってるカーシェアのクルマだと、「隠れた穴場」だわなあ
★この件でツイッターで議論していたら 「カラオケボックス代わりにすればいい」、或いは「映画館」「テレビ会議システム」「ニコ動スタジオ」等、
大半が同年代の子もちでいつも大人数で遊んでいた、5才くらい年上の世帯の兄さん姉さん達は可愛がってくれていた。
老人夫婦の世帯は庭の柿を取らせてくれたり、お菓子をくれたりした。
いつも学校から帰ると友達の家の前で○ちゃんあそびましょーと大声で呼び、道路でドッジボールやゴムとびや花いちもんめやかごめかごめや缶けりやじゅんどろをこれまた大声でやっていた。
時には自転車で鬼ごっこやろうぜーとバカが言い出して、自転車で暴走したあげくに捕まえようとしたら2台ともこけるので中止したりもした。今から思うと事故にならなくて良かった。
いつも遊んでる十字路の前にいつも雨戸を閉めている家があった。
めったに顔を見ることもなく、たまに見かけると睨み付けてきた。
その人の家の裏は川があって、横に土手がありそこではつくしや野イチゴが取れるので子供達はよく収穫に行っていた。
そこで私がまだ園に通ってない頃に事件を起こした。
近所の小さい子達と一緒に野イチゴを摘みに行って、子なしの家の裏でイチゴを見つけたのだ。
凄い本物のイチゴがある!とたらふく食べて子供達はそれぞれ家族にイチゴを土産に持ち帰った。
母は特大雷を落として謝りにいったが子なしは非常に怒っていた。
母も凄い剣幕で怒り家の前で私の尻を叩いた。
近所の婆さんが出てきて取り成してくれて、やっと尻叩きがやんだ。
後から聞いた話によると子なしは愛想が悪く近所の付き合いもなく会うと嫌みを言う変人的な位置付けだったらしく、やっかいな事をしてくれたと思っていたらしい。
そしてイチゴ泥棒家庭の母への嫌みは私が中学に行っても続いていたらしい。
今から思うと外でみたら睨み付けてくる程度で子供に直接来なかったのは不思議な感じだ。
私は子供の遊び声好きだけどあの人は嫌いだったろうに、毎日夕御飯まで家の前で大音量で遊ばれるのも辛かったろう。
あの頃に匿名掲示板があれば近所の子供達を悪し様に書いたりして子なし仲間とつるんだりもできてたんだろうな。
久しぶりに昔の家の前を通るついでに見ると相変わらず雨戸を閉じて庭も荒れ果てて住んでるかどうか解らない家だったのを見て思い出したのでメモ。
今朝8:30ごろ、ゴミを出しに行ったら、民家の前に自動車教習所の教習車が停まっていた。
中には誰も乗っていなかった。
その時はそれほど気にしなかったんだけど、後から「なんで?」と気になりだした。
この条件(最後は記憶があいまいだけど)で、朝に民家の前に教習車がある合理的な理由って思いつく?
追記:
うんこ回答ばっかりで増田に書いたことを後悔しかけたものの、いくつかは納得できる説があり、書いてよかったなと思ってます。