はてなキーワード: 離婚届とは
私が30歳の時に両親が離婚した。
その10年後、夫の後妻から連絡がきた。脳出血で倒れ、高次脳機能障害と静脈瘤を患い、あなたに会いたいと言っているから来てくれないか。
両親は長いこと仲が悪かった。あとから振り返れば「仲が悪かった」の一言で済むが、私が10歳の時から30歳になるまで、子供の前ではまともに口をきいていなかった。年金や借家の更新手続きなどはすべて娘を介してやりとりが行われた。娘の立場としては別れて当然だと思っていたが、よくある「妻が働くことをよしとしない夫」と「専業主婦を望まれて家庭に入り、まともに職歴のない妻」の組み合わせが崩壊すると、子供を養ってはいけなかったのだろう。
そして父には恋人がいた。愛人と称するべきなのだろうが、どうもなじまないので恋人とさせていただく。母によれば、口を利かなくなる前に、離婚歴があり一人で子供を養っていて立派だと、よく話していたそうだ。となると私が10歳の頃くらいには関係があったのだろう。私の前ではその人の話はしなかったから。
私が大学に入ると、恋人の子供の家庭教師というアルバイトの口があてがわれた。子供は親同士の関係を知ってか知らずか、どの教科を教えても手応えはなく、頭がいいのか悪いのかもわからなかった。家庭教師として恋人の自宅にお邪魔すると、その両親が出迎えてくれる。おやつと飲み物と軽い雑談、成立しない家庭教師役、私はうっすらと事情を察した。恋人の両親はよく父を褒めていた。頭が良くて、気が回って、本当に立派な人だ。どこの世界の人だろう、と思った。家では無口で、たまに自分を連れてファミリーレストランに行って。もっと小さい頃の思い出はたくさんあるが、10歳以降の思い出は数えるほどしかない。思えば自宅で風呂に入らないのが不思議だった。そうか、この家で風呂に入っているのか、と考えた。もちろんラブホテルの時もあっただろう。私は当時、まるで子供だった。母はアルバイトに対していい顔をしなかったし、その家で食事を勧められることをいやがっていた。今考えれば当然だと思うが、私は両親の中が悪いことは知ってはいても、両親の心境にはとんと疎かった。考えるのをシャットアウトしていたのではないかと今なら思えるが、何を考えているのかわからなかった、不可解だったというのが正直なところだ。
大人同士の機微を読むのが面倒になって、勉強が忙しいからという理由でアルバイトを辞めた。
就職し、家にお金を入れ始めるようになった頃、父親が月に1回手渡してくる生活費の額ががくんと減った。バブル期でも不景気な時でもあまり額の変動はないようだったが、バブル期にはかなり儲かっていたらしく、自分の親戚にみかんを送る箱の数を間違えて発注し、4箱のはずが14箱届いたという電話を受けたことがある。父は子供に話すわけにもいかず、ましてや母に話せるわけもなく、一人でぷりぷり怒っていた。かなり面白かった。そんな状態だったから、額が増えても減っても母と私にはどうすることもできなかった。生活費がない月もあった。その頃から、父は何を思ったか、子供がいない時に外から家によく電話をかけていたという。私は母の証言しか聞いていないが、母に働けと言ったり、お前が浮気をしているのは知っているんだと怒鳴ったり、大変そうではあった。母は事態をかいつまんで話してはくれたが、父は何も言わなかった。ますます、何を考えているかわからない両親だなとしか思えなかった。母が浮気をしていたかどうかは私にはわからないが、一度ぶっちゃけどうなの、と聞いた時には、本当に父親一人しか知らない、他の人に好意を抱いたことはあったが子供が生まれる前だった、と言っていた。真偽はどうでもよかった。なぜか父の恋人が家を訪ねてきて「あなたも働いたらどうですか」と母に説教してきたそうだ。私から見れば、母の化粧や外出、外で働くことの検討を嫌がっていたのは父の方だった。私にとってはすべてが藪の中だった。ただ、このままの両親が年を重ねていくのなら、私がずっと生活の面倒を見るんだろうという覚悟だけがあった。
私が30歳になる頃、父母の電話での言い争いは激しくなったそうだ。どこまでも伝聞だ。母は不毛な言い争いに疲れ、離婚届を準備していた。証人欄ふたつのうちひとつには私がサインした。特に感想はなかったが、これで父が恋人と再婚すれば、将来の面倒を見るのは母一人でいいのか、助かった、と思った。
父は離婚届にサインして、いくつかのアルバムだけ持って家を去った。私への連絡はなかった。携帯の電話版号も、メールアドレスも知っていたのに、特に娘に伝えたいことはなかったのかと、不思議だった。不思議ではあったが、謎の両親の電話――本当にそういうやりとりがあったのか、私は知らない――で二人で決めたのなら、私は意見も文句も言うまい、夫と妻の間の話だ、と思っていた。
それから10年間、父からの連絡はなかった。戸籍謄本から辿れば現住所が分かることは知っていたが、特に話したいことはなかったし、非常時にはいくらなんでも連絡くらい来るだろうとたかをくくっていた。結婚した時も報告しなかった。子供ができていたら連絡しただろうか?幸か不幸か、子供はできなかった。「仲の良い夫婦とその子供」というサンプルを知らない私には子供を持つのは厳しいだろうと思っていたが、ごく自然にできないままだった。
10年経って、父が脳出血で倒れたという連絡をよこしてきたのは、一度だけ親族の葬儀で顔を合わせた父方のいとこと、父の恋人の兄だった。Facebookで探し当て、メッセージを送ってきたそうだが、Facebookのメッセージを受け取る範囲を絞っていたので、気づいたのは倒れてから約半年後だった。死んでいればさすがに親族から母に連絡があってもよさそうなものだったが、そういう話は聞いていなかったので、母には何も言わずにメッセージに返信した。手間をかけてすまない、父の具合はどうか、非常時にはこの電話番号とメールアドレスに連絡をくれ、いざとなったら先方に伝えてもらっても構わない。それくらいの簡単なものだった。
ところが、携帯電話にかけてきたのは父の恋人だった。私は瞬時に、失敗を悟った。留守番電話に残されていた最初のメッセージは「連帯保証人になってくれ」だった。SMSには再婚したこと、病状、娘に会いたいと言っていることなどが断片的に送られてきていた。どう出ればいいか迷い、しばらく自分からコンタクトを取るのは控えておこうと思った。
次の日、会社の始業時間から終業時間まで、というのは単なる偶然だったのだが、1時間おきに着信があった。これを書くのは本当に恥ずかしいが、狼狽した私は電話と留守番電話の通知が恐ろしくなり、不安障害を発症して心療内科に通うようになった。簡単に連絡先を教える自分がばかだったし、想定できたはずだったのだ。1日考えて、父の後妻(結婚したことがわかったのでこう書く)の番号を着信拒否にした。着信拒否にすることで逆上されかねないとも考えたが、このままでは自分の生活が壊れると思った。夫には全部ひとりで決着をつけたいと言った。
次は父の携帯電話から着信と留守番電話があった。さすがに1時間おきではなかった。留守番電話を聞くのに心の準備が必要だった。何を言われるんだろう、何をふっかけられるんだろう、本当に怖かった。父よりも後妻の方が怖かった。留守番電話は2件あり、1件目は「ほら、◯◯ちゃんよ」という後妻の声の後に父が「◯◯◯◯(父のフルネーム)です、こんにちは、どなたですか」と言った後に電話が切れた。2件目は直接父が発言したようで、「◯◯、元気か。会いたいな。子供はいますか、元気ですか。連絡くれるとうれしいです」という、私の主観では「何かを読み上げた」ような内容だった。
2件目を聞いた時に、高次脳機能障害というのはこういうことなのかと腑に落ちた。私のことがわからない父も、私に会いたいという父も両方混じっている。人前でしか出さない、機嫌のよい時の父の声で「どなたですか」と言われたこと。この10年一度も親から子への連絡をしなかった父が、私の10年を何も知らずに「子供はいますか」と無邪気に尋ねること。一瞬気が遠くなった気がした。そして私のことをきちんと認識している父はもういない。いなくて当たり前だ、10年かけて私の中でゆっくり父の不在から父の死へ変化していったのだから。私の中で既に父は死んでいた。正確には「死んでいたということがわかった」。私はもう父の家族に、といっても後妻しかいないけれど、一切関わるまい。そういう決心をしながら、そういえば私が家庭教師をしたあの子供はどうしたんだろう、という思いがちらりとよぎった。
父の番号を着信拒否してから、1年に1回ほど、後妻からメールが届いた。「賢くて頼りになるお父さんのことを思い出します」。頼りになる? あなたにはそうだったんだろう、私にとっては違ったけれど。いとこからもメールがきた。「今度静脈瘤の手術をするので連絡してあげてください。私の母が死んだ時にお世話になったから、恩返しをしたい」。つまり私にとってのおばがこの10年の間に死んでいて、私に連絡がこなかったのだから、親族扱いされていなかったのは私の方では? 誰も彼も何を言っているんだろうと思った。怒りはなく、ただ不可解さだけがあった。両親がなぜか電話で意思疎通(といっても口げんかだったそうだけど、私は聞いていないからよくわからないままだ)していたこと。すべてにおいて排除されていたのは私ではなかったのか。そして父が死にそうな時にだけ連絡が来る。不可解だった。どのメールにも返事をしなかった。
最初のコンタクトがあってから4年後、おそらく戸籍の附票からたどったと思われる封書が後妻から届いた。ざっくり言えばもうそろそろ死にそうだから、面会に来てほしい。相談したいこともあるから連絡してほしい。会っていなかった10年を埋めることもなく、ただ死にそうだという連絡だけが来る、それがなんだかおかしかった。
そのさらに1ヶ月後、今度はいとこから、父が死んだこと、告別式の日時と場所の連絡があった。私は即座に相続放棄の手続きを開始した。お金について計画性があったとは思えないので、相続手続きをしたところでたかが知れている。相続手続きには相続人全員の承諾が要る――つまり後妻と私は何らかのコンタクトを取る必要性があるだろう。弁護士を挟むにしても。私は一切後妻と連絡を取りたくなかった。分かり合える何かがあるとも思えなかった。年を取ってからの再婚なんだからそういうこともあるだろうに、なぜ死んだからといって関係性が生まれるのか。丁寧に必要な書類を集めて回り、家庭裁判所の相談員の人と会話をして、「よくご存じですね」と言われた。そのことだけが、この一連の騒動の中で、本当に感情を動かされた。つまり、うれしかった。誰も彼もが私を都合良く(といってもきっと善意なんだろうけど。地獄への道は善意で舗装されているのだった)使おうとする中で、事務手続きを挟んだ人だけが、私のことを褒めてくれた。
父の名に大きく×がつけられた、後妻の名前も入っている住民票を見て考える。父にとって私はなんだったのか。かわいがってもらった記憶も、愛情をかけてもらった記憶もあるにはあるけど、空白の10年間、私が気を遣って父にコンタクトを取るべきだったのだろうか。いやそんなことはないはずだ。父は父の意思で私を家族から外したのだと思いたい。私が一連の話の中で一番ショックだったのは、面識があったはずのおばの葬式に呼ばれなかったことだったのだから。
父と母と私の欄に「除籍」と書かれ、後妻の名前が連なっている戸籍謄本を見て考える。一番コンタクトを取りたくない相手の名前が、同じ書類の中におさまっている。後妻の生まれた日も、両親の名前も、続柄も、再婚した日も書かれている。そういえば再婚したという報告すら父からはこなかった、それは当たり前だろうと思う。別の誰かとの再婚ならともかく、母との婚姻の継続中に家族の中に割って入った人。割って入ったことすら気づくのが遅れた人。
家庭裁判所から送られてきた「相続放棄申述受理通知書」と「相続放棄申述受理証明書」だけが、私にとっての宝物だ。家庭裁判所の人はやさしかった。見知らぬ私のために、書類についてあれこれ教えてくれて、印紙が売られている一番近いコンビニエンスストアまで紹介してくれた。人のやさしさってあるんだなと思えた。
長くなりました。読んでくださってありがとうございます。
ただのお気持ち長文。
まぁ当然の結果である。
……が、全然納得せず式を強行しようとするクソマンコ新婦 vs 非常に理性的で常識的で心優しい新郎と新婦家族連合軍による双方泣き叫び、ティッシュの備蓄が尽きる丸二日の大乱闘(非暴力)が発生したのであった……
普段遣いの語彙としてチンコもマンコも登録されていない生活をしているので、ここまでだけでも自分の文章だというのに嫌悪感が凄い。
まずなぜ「クソマンコ」という称号を用いるのかというと、先述の2日間が丁度月経の冒頭2日間と完全に噛み合ってしまっていたので肉体的にも精神的にもコンディションが最悪な状態で結婚式やるやらないの話に突入したことが言い訳の一つとして発生するためだ。
自分の月経は人より軽症だと自負しているが、それでも月経開始前の4日間くらいは明らかに些細なことでイライラして社会性が低くなる。
そして開始から2日は必ず熱を出し、判断力が著しく低下して、普段ならあり得ないようなミスを連発する。もう何してもダメになる。こういう時に何らかの決断を下すと失敗する。
この時点で「私はマンコに振り回されるダメな生命体です」とアピールしているようなもんである。
事態を重く見てついに要指導医薬品プレフェミンキメ始めました。効くといいね。
*「体調はただの言い訳ではないですか?」
Exactly
(その通りでございます)
どうせこのクソマンコは体調が良くても結婚式強行論者だった。一度は延期をした3月時点でもそうだった。延期しようと自分から言い出したことはただの一度もない。
非常識!不道徳!お前のせいでコロナにかかったら、クラスターが発生したらどうしてくれるんだ!
と言われるのは目に見えているのにも関わらず……実際言われた。妹に言われた。
ここで
「②こいつ社会情勢や他人の命よりも自分の欲求優先するバカマンコじゃん」
*「最低ですね」
Exactly
(その通りでございます)
早く死ねよ……ゾンビ映画でゾンビを解き放っちゃうタイプのやつじゃん。デッドライジングで犬のために扉開けちゃう(うろ覚え)大戦犯ババアと同じじゃん。
湧き上がる自己嫌悪!高まる希死念慮!オッケーグーグル、コイツ殺して。
Exactly
(その通りでございます)
健やかなる時も病める時も「話がある」と切り出されたらまずは離婚届に思いを馳せるし、もう今回の件はいい機会なのでは???って思っている。
にんげんおんななんて星の数ほどいるんだから、すぐにもっといいの見つかるよ。
「結婚式」に私は何を夢見ているのだろう。
コスプレイヤーじゃなくてもブリブリのドレスを公然と着られる、見せびらかして、幸せですアピールして、バカ高いご祝儀と言う名の入場料払わせて、使い古しの祝福定型句が浴びせられるだけのお遊戯会が私はやりたかったのか?
Exactly
(その通りでございます)
私が中止に際して喚き散らかしたと言うことは、そんなクソイベを親類や友人を殺してでもやりたかったという事なのだ。紛れもなく!
し、死んでくれ〜〜〜〜!!!!
みんなのために死んでくれ!
防疫!
とりあえずあらゆる人間と関わるべきでないなと思う。
終戦までに2日もかかったのは月経のせいもあるかもしれないが、それがなくてもどうせ戦争は回避できなかった。
結婚式は中止だ。
またn月後に再始動する気力はない。
延期は延期で体力かかる。
お知らせのハガキ作って送って、友人たちにラインして、また数カ月後から仕切り直し。
本来だったら式だったはずの日の、家に引きこもってゲームするしかないやるせなさ。
正直二度と味わいたくない。
幸いなことに世話になってる業者さんたちはみな優しくて、タダで延期させてくれたけど……
これからもずるずる延期を続けていくのか?
一体いつまで?
延期連絡を受け取る側だって「またかよしつこいな」ってなるでしょ。
またかよ。しつこいんだよ。こんなクソイベに拘泥している自分が果てしなくダサい。穴があったら入るので埋めてくれ。
同人活動経験を生かしてわざわざ印刷所に頼んだ紙小物以下諸々、何もかも無駄になるが、倫理観のないクソマンコが自分もまともな人間女だと勘違いして用意した自己顕示欲塗れのクソの山だ。とっとと下水に流して終われ。
写真だけは撮るらしいが、当日まともな顔ができるだろうか。自信はない。
というかさっさと死んでね。
私には18歳の頃、同い歳の女の子と付き合っていた。
Twitterで知り合った彼女は、あまり頻繁にツイートをする方ではなかったし、繋がった時に数回話した程度でさして親しいわけでもない"モブ"の様な立ち位置になっていて、私はあまり当初彼女を気にしていなかった。
ある日の深夜2時頃。翌日も朝からバイトを控えていた私は、それでも週末という事もあって賑わうタイムラインが楽しくて、フォロワーさん達と盛り上がっている時、久し振りに彼女が浮上しているのを見掛けて話し掛けてみた。後に思えば、これが全ての始まりだった。
その日以来、頻繁に顔を出す様になった彼女とは毎日の様に話していて、数週間後に告白を受けた時も私は快く受け入れた。レズビアンという訳でもなく、バイセクシャルであった私と彼女は、そうなる事が当たり前であるかのように自然と恋人としてそばに居るようになった。
彼女は、とても心が脆い人だった。
電話をしていても、笑っていたと思えば突然泣き出すし、夜中に泣きながら電話をかけてくる事もあった。私もその頃からアルバイトを辞めて正社員として働き始めていた為、時間が減って居たけれどもそれでも何とか捻出して、直接会えない分傍にいようと努めていた。
彼女の家庭環境はかなり複雑で、血の繋がった両親は離婚。血縁者である父は、出張と銘打って母が不在のタイミングを見計らい、兄と姉を連れて出て行ってしまったらしい。残されたのは血の繋がらない母親と、彼女、そして郵送されて来た離婚届だったそうだ。どうやら父は、他に女を作っていたと後から知ったという。
血の繋がらない娘と残された母は、3人の子持ちの父の再婚相手になる事を親族から反対され、駆け落ちのような形で地元から遠く離れた土地で父と再婚していた。だから、父が末の娘を一人置いて逃げたと電話で報告した際にあんな奴を選んだお前の自業自得だと、助けて貰えず、彼女は血の繋がらない母と2人で生きて行くことを余儀なくされてしまった。しかし、母はそれ以降身体を悪くしてしまって、入退院を繰り返し、家には彼女がひとり残されてしまう事が当たり前になっていたらしい。
彼女のお母さんが手術を繰り返し、その度に心を弱くしてしまっていた彼女は、成功率の低い手術をしなくてはならないと言う説明を受けた時に心を砕いてしまった。もしもそれで失敗してしまい、母を失ったらと思うと目の前が真っ暗になって、ならば死んでしまおうと思い至った。家にはいつもひとりぼっちだから、誰かの目を気にすることも無く身辺整理を進めて、いざ飛ぼうとした時にふとSNSの事が気になった彼女。自分が死してもアカウントが残っていては、全く浮上しなくなった自分に声を掛ける人も出てくるんじゃないか。余計な心配をかけてしまうのではないかと全てのSNSアカウントを消そうとしていた。最後に残ったTwitterでアカウントを削除しようとアプリを開いた際、目に飛び込んできたのは私のツイートだった。どうしようも無くくだらない私の発言に、彼女はほんの少し笑みを零したらしい。同時に、まだほんの少しでも笑える自分に驚いた。まだ笑う事が出来るなら、まだ大丈夫なのかもしれないと思えて、自殺を思い留まった。
彼女は私の発言の数々がたいそうお気に召したらしい。それから、私とよく話しに来るようになった。頻繁に笑えるようになって、笑う頻度が高くなるにつれて私に恋愛感情を抱くようになって。
母の手術も成功して、あの時飛ばなくて良かったと私へ電話越しに泣きながら伝えて来た。
病院へ行った際、通話可能スペースまで出て来て頂いて、お母さんともお話しをした。私の分まで傍に居てくれてありがとうと泣きながら感謝をされた。
でも、そんな平穏は長くは続かなかった。
手術は成功していたものの、何やら様子のおかしい母。どうにも、別の病気が発覚したらしくまた手術を受けなくてはならなくなった。彼女はまた、母が居なくなってしまったらの恐怖に怯える事になった。SNSでかつての姉を見かけた、新しい母とそれはそれは楽しそうに、年の離れた半分だけ血の繋がった新しい弟と共に家族5人で暮らしていた。SNS上で送ったメッセージは無視されて返って来なかった。彼女はみるみる弱っていって、私も使えるだけの全ての時間を彼女に費やした。
手術の予定日は8月9日。これまでの経験上、彼女は何か不安な事があるとその前日に最も心が弱くなるから、8日は有給を取りたかったけれど大切な会議が入っていた為にそれも叶わず、せめて絶対に19時には定時で帰って来るから、それまでは1人にしてしまうけれど耐えて欲しいと伝えて仕事に出た。
でも、タイミングが悪くてどうしても断れない理由での残業が発生してしまい、仕事を終えたのは23時だった。疲れた体をよそに休憩室へ向かい、ロッカーに入れたスマホを手に取ればそこには夥しい程の通知。殆どが彼女だった。
そこには、19時を過ぎても戻らない私への不安と、振り回した事への懺悔、感謝が痛いほどに綴られていた。
「今までありがとう、大好きだよ」との言葉を最後に、連絡はなかった。21時46分。
私は会社である事も気にせずに彼女へ電話をかけた。出ない。メッセージも沢山送った。既読すら、付かなかった。翌日私は、会社を当欠した。
「遺書にね、あなたの事が沢山書いてあった。恋人同士だったんやね。」
そんな、私の空に融けた恋人の話。
彼女のn回目の命日に、まだ君の事を忘れて居ないよって意思表示も込めてここにひっそりと置いておきます。
ただの自己満足です。とっても心が弱いけど、前向きな心も捨てないで頑張ろうって踏ん張れる、とっても素敵な女の子でした。
ありがとう、私も大好きだったよ。
よくTwitterで見かける、発達障害、または精神病を患った女性が、生きづらさやそれをどう乗り越えているかを、コミックエッセイ風に綴っているやつ
に、ほぼ必ず、理解がありその女性を支えてくれる男性が登場するやつ
というのを非常によく見かける。揶揄する人の言いたいことはとてもよくわかる。
とっても生きづらいけど、良いパートナーのおかげで生きていけている、というのは、パートナーに恵まれない障害や病気を抱える人々を改めて絶望の淵に突き落とすようなものだ。
非常に一般的な考え方として、例外は必ずあるにしろ、基本的に、女性のほうが男性に比べ、恋愛的なパートナーを得る機会が多いのはおそらく確かだろう。その理由はいくつか挙げられるが、ここでは割愛する。
ゆえに、パートナーに恵まれ日常を送ることができている障碍者/精神疾患持ち女性という存在を見せつけられると、同じような状況にある男性のなかに、『では誰にもかんがみられることなく、パートナーに恵まれない自分たちは、どう生きていけばいいのか』と暗澹たる気持ちが生まれてしまうのは仕方がないのではないだろうか。
私の話をしよう。
私は女性である。そして発達障害者であり、精神疾患を持っている。
具体的に言うと、ASD優位のADHD、かつ、うつ病と解離性同一性障害の診断が下りている。
理系の大学院を卒業後、財閥系企業に勤めていたが、病状の悪化に伴い退職した。
そして離婚歴がある。
私の持つ障害と疾患は、両親からの虐待に由来する可能性が高く、主治医の所見もそのようになっている。私の両親は裕福で社会的地位のある人たちではあったが、あまり子供を育てることは得意ではなかったらしい。成人し、うつを発症し、自殺未遂後、弁護士を通して虐待の事実を認める旨、慰謝料を支払う旨、それができないのであれば縁を切る(ことは非常に難しいのだが)協議書を送り、その段階に至り、はじめて自分たちがしてきたことが客観的に虐待に当たると気づいた、なかなか能天気な人たちでもある。
この虐待由来というところがネックなのか、私の抱える障害と精神疾患は非常に根深いところにあり、もう10年近く投薬を続けているが、治るというよりもただ生きているだけだ。
さて、表題の話をしよう。私の人生において、障害や精神疾患を支えてくれるパートナーはいたかという話である。
結論から言うと、いなかった。これからも現れない気がしている。
そもそも、私は強い気分障害を持っているが、精神が不調の際は自ら抗不安剤(軽いものならソラナックス、リボリトール、ひどければヒルナミン)を飲んで、迷惑をかける前に自分をコントロールしていた。これはたぶん、両親による『人に気を遣わせるな』という強い教育が行き届いた結果だと思う。もちろんこの人という言葉には、家族も含まれている。
解離性同一性人格障害というのは、簡単に言うと多重人格のことで、現在この病名が診断されている患者はかなり少ない。最近は発作もあまり怒らないが、解離時、私にはなんの記憶もない。どこで何をしていたのか、ポケットに入ったレシートや、体についた汚れや傷、SUICAの履歴など、いろいろなものからなんとなく推理するしかない。でもそれがとても怖いともあまり思わない。発作が起こるタイミング、シチュエーションは決まっている。そうならないよう、そういった状況に自らを送り込まないよう注意すれば、ある程度制御できる。
私は精神療養手帳も持っているし、飲んでいる薬の数も種類も途方もない数だが、それでいて、一人できちんと精神科に行き、診察を受け、薬を飲んで生活している。もちろん生活も一人だ。親元なんて考えられないし、世間体のためだけにした結婚は、結局相手が何を考えているのかわからないまま、かつ、相手も私がどういった人間なのかわからないまま終わった。
主治医はあまりこの状況をよしとはしていない。つまり、頼れるだれかが近くにいたほうがいいのではないかという話をされることもある。しかし私は、短い結婚生活のことを思い出す。いつも誰かがそばにいるのに、その人がひとつも自分のことをわかっていないという状態は、単純に一人でいるより何倍もつらい。元夫との生活の中で、私は何度も『大丈夫』と言った。ぐうぐう寝息を立てる元夫のとなりで、絶望が押し寄せてきて一晩中声を殺して泣いた。これではいけないと、元夫に私は何度か自分の話をしようとした。それはかなり勇気のいる行為だった。他人の精神がいびつになるに至る理由を、好んで聞きたがる人はいないし、そのあと慰めるのだって面倒だろう。もし、面倒がられたら、聞いてくれなかったら、と思うと、だれにも言えなくなってしまうのだ。
結果から言うと、元夫は私の話を聞いてはくれた。その間ずっとドラゴンボールかなにかのソーシャルゲームをスマホで遊んでいた。
最初から期待していない分、絶望も少なかったが、たとえ結婚していても、他人は他人であり、興味のない話を無理やり聞かせることはできず、自分のことは自分でけりをつけなければいけないのだとわかった。私は、元夫がしてくれる自分の話を聞くのが好きだった。それは元夫に興味があったということだろう。そしてその逆はなかったということだ。
ちなみに離婚の直接の理由となったのは、元夫の暴力的行為により、私が結婚前に拾いともに暮らしていたネコが、ストレス性の病気になってしまったことだ。ネコは家具が破壊される音を聞き、泣き叫ぶ私の声を聴き、壊れた箪笥を見、過度のストレスで過呼吸を起こし、自らのしっぽをかじり始めた。ネコの異状に気づき、獣医でそれがストレス性のもので、環境を変えるか、抗不安剤を投与するかしかないと聞くその瞬間まで、私は無気力のあまり離婚することすら考えていなかった。動物病院を出た私は、その日のうちに離婚届を手に入れ、元夫に書くように強制した。
元夫は渋っていたが、一連の暴力行為を私がICレコーダーに録音していることを知ると、あきらめたようにぐちゃぐちゃと署名をした。
おそらくこれを読んで私に好意的な気持ちを抱く人は少ないと思う。それは私が完全に自己完結しているからだと自分でも思う。私は折り紙付きの障碍者で、精神疾患を抱えているが、誰にも頼りたくないと思っているし、私が求めているものは、他人に求めるにはあまりにも重たいものだという自覚がある。
私はネコと暮らしている。ネコは私がいなくてもおそらく生きていけるだろうが、私はこのネコがいないと生きていけない。ネコは私の話を聞いて頭をなでてくれるわけでも、そっと抱きしめてくれるわけでもないし、「つらかったね」とかそういうことを言ってくれたりもしない。ただ生きていて、日向ぼっこをして、昼寝をして、ノートPCに向かう私の邪魔をチョコチョコとしてくるだけだ。
でもそんな存在を私は心から愛し、どの人間よりも深い信頼を抱いている。
誰にも愛されない、だれも愛すことができないと思い、絶望している、私と似たような境遇の人がいるとしたら、まずネコを拾うことを強くお勧めする。
驚くことに誕生日にひとりで過ごすのは3x年生きてきて初めてなわけで。
さすがに仕事終わって家でごはん食べるのも寂しいから、喫茶店でスパゲッティグラタン食べて食後にケーキセットを注文したよ。誰かが作ってくれたごはんは、とても美味しい。
ポストなんかあと数日見なきゃよかった。気が付かなければよかった。私が言い出したことだけど、なんてタイミングだよって。
一度会ってきちんと話したかった。何が不満なのか、どうしたいのか聞いてほしかった。
何も聞かずに、一緒に住めないなら仕方ないね。
夫はそう言った。納得できたのかな。
そんな言葉で片付けてしまえるはずはなかった私の想いは今もここにあって。
言いたかったたくさんの言葉も、たくさんの思い出も、最悪だと思った今日のことも、
きっといつか忘れてしまうんだろうな。
見苦しくてももっと伝えておけばよかった。今さら何をどう伝えればいいのかわからなくなる前に。怒りも悲しみも苦しみも恨みも全部、あんなに好きだった夫の顔さえも、少しずつ風化して少しずつ色褪せてく。
いつかどこかで偶然会う時が来たら、私は笑うんだろうか。それとも泣くのかな。
完全に主観で文を書くし専門家でもないけど親がモンスターで毒親だと思ってる。
あとそこそこ長い。
親は自分のことを愛してると言ってるしそうは思ってる。ただやばい人間だとも感じてる。
小さい頃から「ブス」「馬鹿」「嘘つき」「デブ」「ブタ」「弟と性別入れ替えたら?」と冗談で言われ続けてた。自分でも冗談だと思ってたしその言葉が真実だと思ってた。
気が付いたら自称するようになってた。
小学生の頃、私の後ろで弟が事故にあってもう足がなくなるかもしれないみたいな状況だった。
その頃の両親の仲は最悪で一緒に暮らしてる母方の祖母は入院、父は上司に怒られ退社その上に息子の事故。
両親は弟の前だけでは仲良いフリをするが私の前では話さないし、離婚届を私に見せに来たり父親は「お金がかかる」と本を読んでたのに私の部屋の電気を消しに来て一緒に住まなくなった。
父が仕事をし始めて単身赴任になった事により仲は悪くは無くなったが長く一緒には暮らせないと言っている。
高校受験の時には母親に「あなたは高校に関して早く決めないのはなんで?」と泣かれた。正直いまだに泣かれた理由がわからない。
高校入って父が昔言っていた「公立高校に入ったら大学費用だす」事を会話にだしたら覚えてなかったので口だけじゃんと言ったら叩かれてめちゃくちゃ怒られた。地雷を踏んだらしく後で叩いた事について謝られたが私の気持ちはそこじゃないと思ってた。
大学の5年でようやく就活をするとなった時に履歴書の自己アピール欄が書けなかった。頭にいろいろな言葉が浮かんで結局ずっと泣いてた。絞り出した言葉も「脅迫神経症みたいだ」と言われたり、面接の時も自己アピールが上手く言えず落ちた。
私はここで自分に自信がなくそれは普通じゃないという事に気が付いた。
普通だと思っていた親からの冗談が自分の中で本当だと思うように変わりいつのまにか自信というものをなくしていた。
同じ年に就活した弟は5月の時点で決まっておりそこも比べられ続けた。
弟にアドバイスを聞いてたら弟は自分の事が好きだということに気付いた。弟は自己肯定力が半端なくあった。
個人の性格の違いはあれど親の言動と小学生の頃に事故った時親からは心配されて甘やかされ褒められ周りからも可愛がられる。私と違いすぎると感じた。
結局私は卒業後も引きこもりニートをしている。そんな私に親は「弟と同じ育て方をして甘やかした。むしろ甘やかしすぎた」
私はこの人達のことが好きだったし好きになろうとした。高校の頃は親はすごい子供を育ててくれた感謝してると思ってた。
でも渡す側と渡された側で受け取った気持ちが違いすぎてた。親とは相互理解ができない。親は私の気持ちはわからないし私も親の気持ちがわからない。
ただただ肯定して欲しかったと気付いたのはニートになってからだ。
私は両親にご飯を食べさせてもらった。
たしかに怒られると裸足で外に出されたりはしたがちゃんと食べさせてもらった。
学校にも行かせてくれた。高校は結局奨学金だったし、行った学校をボロクソ言ってたけど行くことも許してくれた。
叩かれることはあってもふざけての事だし家庭内暴力のようなことはない。
ネグレクトされてたわけでもない。ただただ暴言に聞こえる冗談が多くて人と比べられて好きな物ややってきた事を否定されただけだ。ただそれだけ。
でもそれって毒親では?
あんな時間帯のあんな日に書いた記事でしたが反応があり、驚きと喜びでこの追記を書いております。
正直にこの記事に反応があっても「ただの甘え」「クズ」等々の厳しいご意見だけかと思いましたが、優しい言葉に笑顔になりました。ありがとうございます。
もともと友達は少ない方ですので、190cm以上の方の繋がりは難しいですが、笑わせていただきました。
顔に対する言葉は親に対する言葉ですかね?両親共々私によく似てるのでよく考えたら自分の事も言っていたかもしれませんね。
父親はただのわがままに育っただけだと思いますが、母親は毒親から生まれた人間だと思ってます。その点で言えば母も被害者ですね。
私が小さい頃、母の言った「あの人の子供で死にたくないなんて思わないわけがない」は心に残っております。
暖かい言葉以外にも厳しいご意見もあり、これに対する私の言い訳をしたいと思いこれを書いてます。
もちろん私の感じた事や主観ですし専門家でもないですし、コメントを書いた本人がこの記事をもう一度見るかはわかりませんが、もしこの記事をこの追記後に見た方にという事で。
あと長いです。
これに関しては公平にではないです。親は私のことを弟より甘やかしたと思っております。愛情は公平でしょうが、弟は私より手がかからない子でしたので親的には公平ではないでしょう。
私的にはそこをいちいち言われるのがとても傷付くしイライラポイントでもあります。私が欲しかったのは認める言葉ですので。
・努力不足で〜
どうも努力や頑張るなどやり方が曖昧だったり、一個人の価値観によるものが苦手です。履歴書なんかで躓いた私は努力不足ですね。
治していくべき箇所です。ありがとうございます。
・ニート〜
これは逆ギレ文章ですし、主観ですしそこは開き直ります。言い訳の追記ですしこれ。
・典型的な毒娘〜
否定の言葉もありません、私自身たちの悪いクズで毒娘だと思っております。
・記憶の歪み〜
と強く言える自信がありません。
たくさん毒親の記事ACの体験談たくさん読みましたので本当に記憶が混ざってるのかもしれません。
上記に書いた事は私の記憶には確かにありますが、それが本当に私の体験した記憶なのかは自信がありません。自分の記憶にすら自信がありません。
・厳しい言葉をくれた方へ
もうこの記事を見ないだろうとは思いますが、最後に感謝の言葉と少しだけ言いたい言葉を。
この拙い文章に反応をくださり、ありがとうございます。
私にはあなたがこの言葉を本当に心配して書いてくれたのか、「こんなの俺よりマシだぜ甘えんな」という気持ちで書いてくれたのか、ただただこういう言葉を書きたかったのかこの文章から読み取れません。すみません。
心配してくださったり、甘えんなという気持ちであれば私と同じような記事を書いた別の方にはぜひもう少し柔らかい言葉を使っていただければと思います。
このような記事や言葉を発信する人はどの様な立場であれ心が疲れている状況だと私は思います。
機械上で見える文字は少なからず無機質で冷たく見えてしまいます。
私は些細な言葉でも傷付く人間ですので、ただの文章でも最悪の選択をする1つの理由になりかねません。ぜひ柔らかい言葉でコメントをしていただけると嬉しいです。
最後になりましたが、こんな記事の長く拙い文章を読んでくださった方に感謝と私の気持ちを。
前述した通りこの追記以降反応しませんが、色々な感想ありがとうございます。
もしこれを読んで暖かい言葉を脳内でかけてくださった方、とても嬉しいです。
私自身泣き虫でハロワに行って「そんな自己アピールがない人間じゃないよ」と言われるたびに泣きそうになる人間です。多分泣いてます。
本当にありがとうございます。
私以上に辛い経験をされて暖かい言葉を思ってくださる方、とても尊敬します。
私には想像できませんが、とても辛い経験だったと思います。そんな方がこんな記事を読んでくださって私は嬉しさもありなんだか申し訳ないです。
ありがとうございます。お疲れ様です。
私の似たような立場の方へ
私のように「両親が毒親かもしれない」みたいな方がいると思っています。
私から言ったところで説得力は皆無ですが、人それぞれ辛さの容量が違うと思っています。
私は上記のような体験で容量がオーバーしてますが、私より少ない方も多い方もいます。他人の「私ならこの程度なんでもない」は参考にならない気がします。
私は自分の人生でも責任が持てないので、あなたの人生に責任は持てませんがあなたの心が少しでも楽になることを願っています。
この記事を読んでくださりありがとうございます。
きっとこの記事を読んで甘えてるとかまだマシとお思いでしょう。お疲れ様です。きっと体験から脱した方もまだ途中な方もご自身の力がなせる技と思います。自分の力を信じてください。
そう思える両親、育ててくれた方に感謝してください。
言われたわけじゃなく、自然とそう思えるように育ったのならそれは育ててくれた方や周りの方のお陰でもあります。
こんな記事に文句を書く力があるならとりあえず感謝しといてください。
人間いつ死ぬかわかりません。弟が事故ったように人間なにが起こるのかわかりません。
ましてはそう思えるように育ててくれる人間の元に産まれてくる事なんかわかりません。
とても長くなり申し訳ないです。
本当にここまで読んでくださりありがとうございます。
完全に主観で文を書くし専門家でもないけど親がモンスターで毒親だと思ってる。
あとそこそこ長い。
親は自分のことを愛してると言ってるしそうは思ってる。ただやばい人間だとも感じてる。
小さい頃から「ブス」「馬鹿」「嘘つき」「デブ」「ブタ」「弟と性別入れ替えたら?」と冗談で言われ続けてた。自分でも冗談だと思ってたしその言葉が真実だと思ってた。
気が付いたら自称するようになってた。
小学生の頃、私の後ろで弟が事故にあってもう足がなくなるかもしれないみたいな状況だった。
その頃の両親の仲は最悪で一緒に暮らしてる母方の祖母は入院、父は上司に怒られ退社その上に息子の事故。
両親は弟の前だけでは仲良いフリをするが私の前では話さないし、離婚届を私に見せに来たり父親は「お金がかかる」と本を読んでたのに私の部屋の電気を消しに来て一緒に住まなくなった。
父が仕事をし始めて単身赴任になった事により仲は悪くは無くなったが長く一緒には暮らせないと言っている。
高校受験の時には母親に「あなたは高校に関して早く決めないのはなんで?」と泣かれた。正直いまだに泣かれた理由がわからない。
高校入って父が昔言っていた「公立高校に入ったら大学費用だす」事を会話にだしたら覚えてなかったので口だけじゃんと言ったら叩かれてめちゃくちゃ怒られた。地雷を踏んだらしく後で叩いた事について謝られたが私の気持ちはそこじゃないと思ってた。
大学の5年でようやく就活をするとなった時に履歴書の自己アピール欄が書けなかった。頭にいろいろな言葉が浮かんで結局ずっと泣いてた。絞り出した言葉も「脅迫神経症みたいだ」と言われたり、面接の時も自己アピールが上手く言えず落ちた。
私はここで自分に自信がなくそれは普通じゃないという事に気が付いた。
普通だと思っていた親からの冗談が自分の中で本当だと思うように変わりいつのまにか自信というものをなくしていた。
同じ年に就活した弟は5月の時点で決まっておりそこも比べられ続けた。
弟にアドバイスを聞いてたら弟は自分の事が好きだということに気付いた。弟は自己肯定力が半端なくあった。
個人の性格の違いはあれど親の言動と小学生の頃に事故った時親からは心配されて甘やかされ褒められ周りからも可愛がられる。私と違いすぎると感じた。
結局私は卒業後も引きこもりニートをしている。そんな私に親は「弟と同じ育て方をして甘やかした。むしろ甘やかしすぎた」
私はこの人達のことが好きだったし好きになろうとした。高校の頃は親はすごい子供を育ててくれた感謝してると思ってた。
でも渡す側と渡された側で受け取った気持ちが違いすぎてた。親とは相互理解ができない。親は私の気持ちはわからないし私も親の気持ちがわからない。
ただただ肯定して欲しかったと気付いたのはニートになってからだ。
私は両親にご飯を食べさせてもらった。
たしかに怒られると裸足で外に出されたりはしたがちゃんと食べさせてもらった。
学校にも行かせてくれた。高校は結局奨学金だったし、行った学校をボロクソ言ってたけど行くことも許してくれた。
叩かれることはあってもふざけての事だし家庭内暴力のようなことはない。
ネグレクトされてたわけでもない。ただただ暴言に聞こえる冗談が多くて人と比べられて好きな物ややってきた事を否定されただけだ。ただそれだけ。
でもそれって毒親では?
あんな時間帯のあんな日に書いた記事でしたが反応があり、驚きと喜びでこの追記を書いております。
正直にこの記事に反応があっても「ただの甘え」「クズ」等々の厳しいご意見だけかと思いましたが、優しい言葉に笑顔になりました。ありがとうございます。
もともと友達は少ない方ですので、190cm以上の方の繋がりは難しいですが、笑わせていただきました。
顔に対する言葉は親に対する言葉ですかね?両親共々私によく似てるのでよく考えたら自分の事も言っていたかもしれませんね。
父親はただのわがままに育っただけだと思いますが、母親は毒親から生まれた人間だと思ってます。その点で言えば母も被害者ですね。
私が小さい頃、母の言った「あの人の子供で死にたくないなんて思わないわけがない」は心に残っております。
暖かい言葉以外にも厳しいご意見もあり、これに対する私の言い訳をしたいと思いこれを書いてます。
もちろん私の感じた事や主観ですし専門家でもないですし、コメントを書いた本人がこの記事をもう一度見るかはわかりませんが、もしこの記事をこの追記後に見た方にという事で。
あと長いです。
これに関しては公平にではないです。親は私のことを弟より甘やかしたと思っております。愛情は公平でしょうが、弟は私より手がかからない子でしたので親的には公平ではないでしょう。
私的にはそこをいちいち言われるのがとても傷付くしイライラポイントでもあります。私が欲しかったのは認める言葉ですので。
・努力不足で〜
どうも努力や頑張るなどやり方が曖昧だったり、一個人の価値観によるものが苦手です。履歴書なんかで躓いた私は努力不足ですね。
治していくべき箇所です。ありがとうございます。
・ニート〜
これは逆ギレ文章ですし、主観ですしそこは開き直ります。言い訳の追記ですしこれ。
・典型的な毒娘〜
否定の言葉もありません、私自身たちの悪いクズで毒娘だと思っております。
・記憶の歪み〜
と強く言える自信がありません。
たくさん毒親の記事ACの体験談たくさん読みましたので本当に記憶が混ざってるのかもしれません。
上記に書いた事は私の記憶には確かにありますが、それが本当に私の体験した記憶なのかは自信がありません。自分の記憶にすら自信がありません。
・厳しい言葉をくれた方へ
もうこの記事を見ないだろうとは思いますが、最後に感謝の言葉と少しだけ言いたい言葉を。
この拙い文章に反応をくださり、ありがとうございます。
私にはあなたがこの言葉を本当に心配して書いてくれたのか、「こんなの俺よりマシだぜ甘えんな」という気持ちで書いてくれたのか、ただただこういう言葉を書きたかったのかこの文章から読み取れません。すみません。
心配してくださったり、甘えんなという気持ちであれば私と同じような記事を書いた別の方にはぜひもう少し柔らかい言葉を使っていただければと思います。
このような記事や言葉を発信する人はどの様な立場であれ心が疲れている状況だと私は思います。
機械上で見える文字は少なからず無機質で冷たく見えてしまいます。
私は些細な言葉でも傷付く人間ですので、ただの文章でも最悪の選択をする1つの理由になりかねません。ぜひ柔らかい言葉でコメントをしていただけると嬉しいです。
最後になりましたが、こんな記事の長く拙い文章を読んでくださった方に感謝と私の気持ちを。
前述した通りこの追記以降反応しませんが、色々な感想ありがとうございます。
もしこれを読んで暖かい言葉を脳内でかけてくださった方、とても嬉しいです。
私自身泣き虫でハロワに行って「そんな自己アピールがない人間じゃないよ」と言われるたびに泣きそうになる人間です。多分泣いてます。
本当にありがとうございます。
私以上に辛い経験をされて暖かい言葉を思ってくださる方、とても尊敬します。
私には想像できませんが、とても辛い経験だったと思います。そんな方がこんな記事を読んでくださって私は嬉しさもありなんだか申し訳ないです。
ありがとうございます。お疲れ様です。
私の似たような立場の方へ
私のように「両親が毒親かもしれない」みたいな方がいると思っています。
私から言ったところで説得力は皆無ですが、人それぞれ辛さの容量が違うと思っています。
私は上記のような体験で容量がオーバーしてますが、私より少ない方も多い方もいます。他人の「私ならこの程度なんでもない」は参考にならない気がします。
私は自分の人生でも責任が持てないので、あなたの人生に責任は持てませんがあなたの心が少しでも楽になることを願っています。
この記事を読んでくださりありがとうございます。
きっとこの記事を読んで甘えてるとかまだマシとお思いでしょう。お疲れ様です。きっと体験から脱した方もまだ途中な方もご自身の力がなせる技と思います。自分の力を信じてください。
そう思える両親、育ててくれた方に感謝してください。
言われたわけじゃなく、自然とそう思えるように育ったのならそれは育ててくれた方や周りの方のお陰でもあります。
こんな記事に文句を書く力があるならとりあえず感謝しといてください。
人間いつ死ぬかわかりません。弟が事故ったように人間なにが起こるのかわかりません。
ましてはそう思えるように育ててくれる人間の元に産まれてくる事なんかわかりません。
とても長くなり申し訳ないです。
本当にここまで読んでくださりありがとうございます。
ずっと耐え続ける人生だった。小中高と一貫してイジメられる側で、別に自殺までは考えないけど
物を隠されたり、酷い言葉を浴びせられたり、少し殴られたり蹴られたり、土下座させられたり、パシられたりした。そんな学校生活の中でヒエラルキーの最下層に自分が存在するんだと嫌でも自覚した。人生においてやる気を削がれた、もう常にどうでも良くて勉強に身が入らなくて女子にも嘲笑されて教師も問題にはしなかった。
家庭に戻れば、両親がいつもお金のことで喧嘩していた。父は父親を投げ出したいらしい。母は父の愚痴を毎日私に言う。私はおどけて見せて二人の喧嘩の仲裁をした。いじめられているんだけどって恥ずかしくて、情けなくて言い出せなかった。短大を出て地元の工場に就職した。短大ではいじめられなかったけど勉強について行けず、周りが経験してるような体験が私にない事を必死に隠した。就職活動が一番苦労した。今まで耐えに耐えてただ生きてきた。あなたの夢は?やりたい仕事はと聞かれて何も浮かばなかった。私はただ生きているだけでした。心理相談の先生になぜ私は働いて生きなけれならないんでしょうか?と尋ねたら、何を言っているんだ。そんな事言ってるような人をどこも欲しがらないぞ。あぁそうか私はこの世に必要とされない人間で存在しない幽霊なんだと考えるようになった。
それでも、なんとか面接マニュアルを見て就職できた。仕事が始まってから、はじめて彼女ができた。だけど好きじゃなかった。告白されたから何となく付き合った。1年くらい付き合って、好きじゃないのが薄々バレて振られての繰り返し。
そうでもない。嫌いでもない。だから迷惑かけると思う。酷い無神経な事を言うと思う。
何で流されてばっかりなんだろう。嫌だったら嫌だって言えばいいのに。嫌われても生きていけるのに、その場その場で相手の調子に合わせて生きている自分に腹立たしい。自分の心の声を無視して本音を言わないからこういうことになる。
拒絶したい。 好きな人に好きって言いたい。
数日前に離婚した。
29歳の男。元妻は26。
付き合って2年。結婚して2年。
3時くらいにタクシーで帰ることも2ヶ月に1回くらいあった。
さすがにタクシーで帰ってきたときは強めに注意したが、それ以外は咎めなかった。
そしたらある日、ちょっとした怪しい行動があって、何もないことを確認するためにLINEをみたら、
すぐに写真を撮って、叩き起こして話を聞いてみると、真っ黒。
相手は職場の先輩。しかも子持ち。飲み会で出会って、酒飲みすぎてホテル。
そっから数ヶ月、仲良く二人で飲みに行ってたんだと。
帰ってくるのが遅いから、心配して夜遅くまで待ってた日も朝帰り。
妻のことを本気で愛していた。だから許した。
もう一回やり直そうと。辛いけど二人で乗り越えようと。
けど、1つ条件がある。もうお酒はやめてくれ。
答えはNo
会社の付き合いもあるし、飲めないのは無理だと。
つまり俺は、妻にとって、酒以下の価値しかなかったってことだった。
体重5キロ痩せて、夜通し泣いて、ようやく踏ん切りついて、離婚を決めた。
そして数日前にようやく離婚届出せた。
あと數十分で30歳を迎える。
私(夫)28歳、妻26歳で結婚して、すぐ妊娠し、今1歳半の子供がいる。現在私は30歳。
出来ればいい大学のポジションに着きたい。それが任期付きであっても。ただし妻は何でも良いから定職(彼女のいう定職は任期の無い普通の会社員)について欲しいという。
妻は、5年後に旦那が仕事が確実に無くなり、次の仕事があるかわからない。また見つけたとしても、継続してひとつの法人に在籍しない為に、昇給がない、というのが堪らなく精神的に不安らしい。いい加減に定職につけと言うことだ。
私は元々日本で修士課程を卒業して、誰でも知っているいわゆる大企業に就職していたが、2年でやめて、海外で博士課程を始めた。2020年3月に修了予定で、仕事をどうするか(そもそも見つけられるか)が問題。
こんな不安定な道に進む場合は、結婚するべきではなかった。妻も結婚した当時は不安定な道になる事は承知していたはずだが、実際に子供が生まれ、直面すると態度が変わった。妻は、私が受ける、ある大学の任期付き助教の採用面接が失敗すればいいと思っている様子で、もはや根本的に考えが私と違ってしまった。(私はこの大学よりいい大学で助教ができるとはあまり思えないくらい、いいポジションと考えていて、ぜひ採用されたい)
自分は元々結婚には向かないと思っていたが、した事も無いのに決めつけるのは浅はかだと思い、試して見た。今言えることは、きちんと見通しをつけず、結婚を決断をした自分が浅はかであった。
遅かれ早かれ離婚する事になりそうだが、子供が不幸になる事が申し訳ない。申し訳ないと言いつつ、自分の都合を優先させるために子供を不幸にする自分が悪魔そのもの。
結婚をするべきではなかった。もっというと、子供を欲しがる女性と結婚するべきでなかった。
定職を持ち、長く住む場所が定まり、精神的な余裕がある人間以外は子供を持ってはいけない。当たり前の先人のアドバイスを繰り返すだけになってしまった。
[以下追記]
このやり方でいいのかわからないんだけど、ブクマの人気コメントにお返事書かせて頂いた。
kpkpkpchang 離婚後、当然のように妻が子供を引き取る想定でいてモヤモヤする。
子供の親権を取ることに私は、そこまでこだわっていないが、事実上私が親権をとることはできないと考えられる。
離婚届には離婚後の親権を記入する欄があるが、そこで合意が得られなければ、裁判所の判断になる。
調停になった場合、やはり妻が有利。私はずっと海外にいて、妻が日本で子供の身の回りの面倒を見てきた。
そのため、私が親権または監督権を獲得するのは事実上無理だと考えられる。
養育費を払うことは(私に収入の範囲内であれば)なんの問題もなくて、できるだけ払いたいと思う。
”自由がない”、の意味がよくわからないが、可処分所得が減るという意味なら、理解しているつもりだし、納得もしている。
私が問題だと考えてるのは、子供の父親が一緒に生活していないこと。
おそらく離婚したら私は積極的に海外のポストも探すが、そうするとかなり長い期間顔をあわせる機会もない。
家事や子供の身の回りの面倒を見る大人が2人ではなく1人になるというのは、子供にとっては不幸では?
また、自分の父親の顔を覚えていない子というのは、たとえば学校生活で父親の話をするときに、気まずい思いをするものではないのか?
金(養育費)だけ払えば子供にはなんの影響もないと思えないので。
yuatast 妻子供よりも自分の将来が大切だってことでしょ。分かりやすいよね。
まさに仰るとおり。説得ができない。任期のあるポストでも私にとってはとてもいい仕事なのだが、
私の感覚では、いい大学の助教の経歴があれば、自分のキャリアが続く仕事は見つかると考えているのだけれど、
妻はそういう楽観的で不確定な未来を受け入れる態度に耐えれれないということらしい。それもわかる。
どう説得すればいいのか教えてほしい。
子供が自分自身のことを不幸だと思わなければ、他人にどう思われてようが、問題ないと思う。
私自身は片親の子をみても不幸だとかそういう考えは持たないが、一般的にはどうなのだろうか。
子供がどう考えているのかは、離婚した親をもつ子供のアンケートの統計等を見ないとわからない。
妻はその業界では安定した企業の職についている。会社はその分野で国内最大手で連結の売上が500億以上。
そのため、妻が育休中のその会社をやめなくて済むように、私は東京でのし仕事を探している。
妻に詳しく認識を聞いてはいないが、子供が小学生くらいになるまではあまりフルタイムで働く気はないのか?
(妻の企業は時短がけっこう一般的で、フルタイムと時短の切り替えがある程度容易)
妻は子供と過ごす時間に対する優先度が高いように見受けられる。
問題は、私と妻が共同生活を送ることが困難になるほど不仲になってしまうという点で、
それを解決できない場合は一緒に暮らす全員がかなり不幸になる(と考えられる)。
なんとか、任期のある仕事につくことから来る妻の不安を私が取り除かなければ、一緒に生活できない。
宝くじで数億円が当たるか、私が、妻が満足する任期なしの仕事につけば、問題は解決する。
もし私が私のやりたいように進めると、私が任期なしのポジションにつくのは5年後等になると思われる。
そこまで不仲の状態で共同生活はできないので、離婚しなくても別居はするのではないかと思われる。
生物の特性上、子供を妊娠出産することができるのが女性だけというのが、現代社会においてかなりハードルが高い。
子供が欲しい女性はある時期は必ずパートナーや自分以外の何かに頼らざるを得ない。女性のキャリアの形成があまりにも難しい。
(世田谷とか笑ってしまうぐらい認可保育園が空いてない。例えば、1歳の子供を入れたい場合、待機児童が345人いる:
参照https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/kodomo/003/009/d00031371.html)
認可外の保育園もあるが、個別に問い合わせてもまぁ空いていない。
保育園の申し込み書類の用意は私が主に担当している。保育園の見学は一時帰国したときに、私も3~4件は回ったが、
やはり認可保育園の方が環境がよく、そこに入れたいと思う親の気持ちは理解できる。
ただ、認可保育園を見学しても虚しいのは、入れる見込みがほぼないこと。(見込みがなくても見学していないと申し込みすらできない)
また、良い保育園がたくさんある地域は、結局他の地域から無現に子供を入れたい親が引っ越してくるので、
待機児童問題は永遠に解決しないと思われる。月14万くらい払えは、環境のいい認可外のインターナショナルスクールみたいな所に
入れられるが、私たちの家庭にその余裕がない。自民党はなんの関係もない。