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2013-01-13

体罰容認論を完璧論破できる12のQ&Aへ完全に反論できる12のQ

http://anond.hatelabo.jp/20130113151019

俺は基本的に体罰撲滅派で、なぜなら自分が殴られて不快な思いをする可能性を一ミリでも排除したいからです。

だが、今はどうでもいい。予防線に使おうとは思わない。

ここは増田だ。野犬に噛まれるくらいは日常茶飯事!

議論の前提…体罰暴力です。暴力は違法です。相手が子供なら、なおさら

 体罰暴力です。暴力刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。

前提の時点で「体罰暴力=悪」の図式が完成してるので、別に後の設問論破せんでもよくなくなくなくなくないですか。まあでもしかし、体罰肯定派は「暴力ではない」か「暴力だとしても違法だとしても実質的機能してるんだよクソが」なみなさんなので、そもそも前提から相容れませんね。

多分体罰肯定派のヒトたちはここで去ってると思います。文化が違う。

それはさておき、前提を結論と直結させる論法特に刑法で禁じられてはいませんが、世人と申しますか俺はムカつきます。たとえば、上司が部下相手に「サビ残はうちのルールから(=You are belonging to our base over the night.)」と言い放ち、かつ部下の反論を拒否した場合激怒されます。それは羊と遊んで暮らす牧人でも理解できる感情のはずです。リアルに許されないことは、増田相手にはなおさら許されません。ネットで、誰も暴力指導論なんか肯定しない同士の喧嘩なら、より許されないと考えるべきです。

1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される

 愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動していますストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰子供の利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。

この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。

哀しいことに世の中には間違った「愛」と正しい「愛」がありますストーカーの「愛」は「真実の愛」ではありません。

おや? お笑いになる? 愛なんて相対的なものから、正しいも間違うもあるか、と? 

相対的だからこそ、互酬的だからこそ、客観的に判断を下せるのです。

この場合あなたは一方的な愛(の皮をかむった単なる言い訳であるがここでは無視する)を「正当化できない」と断じてます

では子供のほうから「いや、あれは愛だった。自分の為になった」と言い出した場合は? 感情は常に即時的に評価されるわけではありませんよ? そもそも利益でいうなら、その時にためになるかならないかは本人にわかりようがないじゃありませんか。

ごんぎつね」を思い出してください。あなたはかわいそうなごんを盗人と決めつけ、その場で射殺するのが正しい選択であったと思いますか?

それと、もうひとつ。教師は絶対者ではないかもしれませんが、経験者です。長年の実績がございます。何人もの「その後」を知っているという裏付けがございます当事者高校教師が、まさにそんな人間だったのでは?

2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される

 「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます子供相手なら、なおさら許されません。

この質問、前提に則ったら「体罰は悪だから『ある程度』だろうがダメ」でよくないですか? それはさておき。

さきほども申しました通り、体罰教師だってプロです。なんのプロかと申しますと、暴力プロです。プロなので、加減くらい楽勝でわかります

よく言うでしょ? 「喧嘩はプロより素人の方が危ない。なぜなら素人は加減がわからいから、うっかり殺してしまうこともあるって」。何の漫画でしたっけ? カノセ先生? 

もちろん、今回の事件は加減のわからないクソ教師がひきおこした哀しい事件だったわけですが、それは個別のケースの話。サイコパス一定割合でどこの階層にも発生しますし、サイコパスを扱った映画一定確率でクソ映画です。で、質問者は「だが(一般として、どうだろう)」と提起しています世間の教師が他の大多数の職業より子供と接している時間が長いのは確かでしょうし、だからこそ、彼らは子供の分野で(一般に)信頼性が高い、とされているのです。もちろん、幼児性愛者は一定割合でどの職業にも発生します。


3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される

 欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学スポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰スポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。

 欧米では体罰が厳しく禁止されていないうえに政治恫喝ドーピングまで行ってオリンピックメダル獲得数一位に幾度となく輝いた国がありました。ソ連です。あと欧米に限らなければ、体罰が奨励されている国でもそこそこスポーツの強い国もいくつかあります日本とかね。体罰を使って一定の成果がみこめる以上、その方法継続すべきです。早稲田大学と名乗る謎の所沢体育大学修士号をとった桑田元選手も「体罰スポーツが強くなることはない」と明言していますが、彼が論文執筆のためにプロ野球選手六大学野球選手を対象に行ったアンケートでは「『体罰必要』『ときとして必要』との回答が83%」を占めていた(ソース朝日)と明かされていますプロ野球六大学野球とそれぞれ最高峰の選手たちが体罰の効果を認めているのです。

 桑田投手はそこで「でも、肯定派の人に聞きたいのです。それでもいいのか、と」と反駁を試みているのですが、正直、それこそ個人の経験論で、全然科学的でも実証的でもないです。体罰肯定派の感情論の鏡写しみたい。よって桑田選手はアンサーの補強材料として採用しかます

 あと「違法だから」。その通りですね。日本法治国家です。自分で言った「前提」をなぜここでだけ繰りかえすのかわかりませんが、正しいです。でも前提のとこでも言いましたが体罰肯定派の人は「違法だろうが関係ない」か「暴行じゃないからお兄ちゃんじゃなくても触法じゃないよね」というスタンスなのです。哀しいですね。あなたとは文化が違うんです。

4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。

 教育心理学脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果的である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習記憶をつかさどる海馬の神経細胞破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞の接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もありますhttp://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html

 教育心理学脳科学臆面もなくセットでだしてくる度胸には賛嘆の念がたえないのですが、けしからんことに筋肉ゴリラ体罰教師どもはそんな小難しいことは理解しちゃくれません。彼らは古代ギリシャ人ばりの経験主義者なので、愚直に「実験」を繰り返して自分で得たデータしか信用しません。

ゴリラリンク先の記事を見てこう言うでしょう。「スポーツオタクキーボード遊びと違うんじゃイ」

一理あるとは思えませんか? 実験は「褒めると運動機能が向上する」ことは証明していますが、「体罰を加えると伸びない」ことは証明していません。

海馬がぶっこわれるですって? 愛あふれる体罰が生徒にストレスを与えるわけないじゃないじゃありませんか。そもそも厳しいプレッシャーなら、試合で感じてしかるべきです。

5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき

 「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります。常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)

いい落としの詐術ですね。別に爺どもは「昔もやってたから今も」を無条件に実行する思考回路が備え付けられたロボットではありません。

「昔はやっていた。」→「おかげで俺は立派に育ったし、成功したし、あの時の教師には感謝している」(New!)→「故にその行為は正当であ」り、現在でも行われるべきだ、としているのです。

おっしゃるように価値観およびその基準は時代によって変動します。昔は正しかったことが今も正しいとは限りませんし、今正しいことが未来永劫正しくあるとは限りません。それどころか明日にだって変わるかもしれません。たとえば、某居酒屋チェーン経営者フォロワー東京都知事選を見ればわかるように、今の日本奴隷制度を正しいと考える人間は大勢存在するのです。

というか、欧米の常識に照らし合わせて考えれば、日本人サラリーマン奴隷と形容してさしつかえありません。

その国において、奴隷の子供を奴隷として扱うのはむしろ当然では?

6.私は体罰によってまっとうになった。だから体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。

 あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですからあなたに効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。

一般化しているのは体罰否定派の方では? なぜ某バスケ部のケースを「特別」と考えないのです? 高校はひとつひとつ違うのですからひとつの高校にゆきすぎがあったからといって、他校で自殺者が出ているわけではありません。

あと前述の桑田さんのアンケートですが、サンプル約550人のうちの83%、つまり約456人が体罰の効果を肯定しています。彼らは「一般」ではないのですか? 彼らは個別の約456人であり、ひとりひとりがテロリストですか?

7.体罰がなくなったから、子供ゆとりになり、学力が低下したじゃないか

 第一に、子供の学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。

さすがにこの仮想敵サンドバッグすぎでしょ……。ゆとりは政策であって体罰とは関係ないだろ……。

でも、絶対値としても下がっていますし、勉強をしない子供パーセンテージも増加しています。ググッたらでました。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/itl/outline/kiyo/kiyo11/10_oki.pdf

つーか、そもそもそういうデータが出なけりゃ「俗論」も生まれないよねえ。

上記論文体罰を要因として組み込んでいないのはまこと遺憾です。


8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。

 桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要合意形成指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。

社会に出れば、理不尽かつ非論理的で説得力皆無の怒鳴り声に晒される場面はいっぱいいっぱいあります。いっぱいです。そして、それは「言って聞かせる」ことにおいてしばし効果を発揮するのです。ちなみに社会様で言うところの「言って聞かせる」は、「おれの意に有無を言わさず沿わせる」という意味です。予防と予行の両面において、「大声で怒鳴る」は正しいです。

野球部なんかで先輩がよく後輩に対して理不尽に怒鳴る光景が目撃されますが、あれはサル社会でいう「模倣」にあたります

9.体罰ダメにすると、教育現場が萎縮してしま

 それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます

たとえば、はてなダジャレを禁止にするとなんとかいうidのヒト(思い出せない)が、ひいてはネットダジャレ界が萎縮してしまうわけですが、いかがでしょう。

いかがでしょう、と問うたところで「そんなものは間違った萎縮じゃないか」とお答えになる向きもございましょう。しかし、ちょっと待って欲しい。風のささやきに耳をすませてもらいたい。「正しい萎縮」ってそもそもなんですか? あなたはそのものさしをどこで? おお、おお! なんということか! もしや……体罰の意義を曲解しておられる!? なんたること。

いいですか、別の体罰ゴリラたちは「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」と欲望しておるわけではないです。ゴリラをはじめとした類人猿たちは動物たちの中でも人間についで最も知性と情の深い動物として知られています

彼らはむしろ文明的な秩序を志向しているのです。群れを規律し、統制するための愛の鉄拳が振り下ろされるのです。

正しいこと、美しいことを禁止して発生する萎縮が「正しい萎縮」であるなら、ダジャレ禁止も世界を非文明化しクソどもの跋扈を許す蛮行であるという点で、また「正しい萎縮」であるはずです。

10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる

 そもそも教師の仕事は「未成熟子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。

それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。

根性論ですか。体罰教師っぽいですね。欧米では底辺は底辺であり、暴力の使用不使用にかかわらずみんなが天使みたいな良い子に育ってるわけじゃないと思いますが? 「言って聞かせる」なんてチンタラ効率の悪いことしてるから米国で銃乱射事件が耐えないのでは? 

「言って聞かせる」は万能ではありません。もちろん、一手段ではあるでしょう。ならば「言って聞かせ」てもダメな子を身体から矯正するのもまた一手段なのでは? 使える道具があるのになぜわざわざ禁止する必要が? あと今時「殴って解決」がハリウッド映画て、ハリウッドて。

11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰必要だ。

 精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつの勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。

 障碍者定義に「精神が未熟な状態」にあるもの、なんて差別的な文言はどこにもありません。偏見をぶつの勝手ですが、まともな民主国家では認められません。っていうか、たぶんゴリラゴリラ学名なので差別語ではない)は子供障碍者平等に扱うと思います。なぜ分ける必要があるのですか? 彼らをおなじカテゴリーとしてみなすなら、「正当化」は可能です。

12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?

 では、権力者による暴力正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。

あ、その論法、「原発が嫌なら日本を出て行け」で見たことある問題提起しただけでファンファンウィーヒッツザ国外追放処分にされるとはあなた権力者による暴力正当化されている国の愉快な仲間たちかなにかでしょうか? 

ところで、教師志願者たちのなかには生きている上で何かしらの法を犯してきた可能性、たとえば大学の新歓飲み会未成年ながら飲酒してしまうとか、動画サイトで違法なエロ動画を覗くとかしてきた可能性が常にあるわけですが、彼らは「最低限の規範すら守れない人間」として採用試験にはねられてしまうのでしょうか。もしそうであるのなら、彼ら彼女らがかわいそうでしかたありません。


終わりに 

「何を屁理屈のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。特に12のQでもないですし。あんな怠い映画が12もあってたまるか。でも、そんな「当たり前の増田風景」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識と脳みそがあれば、増田に入り浸るのはダメだ、ダメ人間だというのはわかると思いますしかし、「自分は常識として正しいか論理的にも正しい」という謎論理によって自分の足場で戦える対話方式というステージでの八百長論破を正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、元増田が掲げた数字が12ではなくて、30だったら、おれは疲れて果ててこんな真似しなかったと思います。次からは50個くらいQ&Aを用意してくると誰にも絡まれなくて具合がよろしいです。

あと、

なんだっけ、

そうそう。



汚物は消毒だー!

体罰容認論を完璧論破できる12のQ&A

高校のバスケットボール教師が生徒を30発、40発殴って、自殺に至らせた事件がありました。ただ、こういう乱暴な教師はいるのだろうな、とそれほど驚きはなかったのですが、それより驚いたのは、マスコミ世間一般にも体罰を容認する声があるということです。正直、「え?本当に同じ文明人なの?」と愕然とした気持ちになりました。しまいには、子供やその親を「軟弱だ」とか「ケアが足りない」と攻める論調すら出てきています

そこで、体罰容認論によくある擁護論にまとめて反論してみました。世間の人の言う「ある程度の体罰」でも「子供のためを思った体罰」でも、教育体罰は認められません。

そもそも、すべての体罰容認論は、次の一言論破できます

議論の前提…体罰暴力です。暴力違法です。相手が子供なら、なおさら

 体罰暴力です。暴力刑法で禁じられています。たとえば、上司が部下相手に「お前のためを思って」暴力をふるったら、起訴されます。それは誰もが理解できることのはずです。大人相手に許されないことは、子供相手にはなおさら許されません。教室で、体格にも立場にも差がある人間同士の体罰なら、より許されないと考えるべきです。

1.子供のためを思う愛の気持ちがあれば、ある程度の体罰は容認される

 愛があれば違法行為が許されるのであれば、ストーカーだって「愛のために」行動していますストーカーは「彼女には僕しかいない。僕と結ばれるのが彼女のためだ。フヒヒ」と考えて行動しているわけですから。また、子供虐待している親も、みな「子供のしつけのため」といいます。もちろん、違法行為は「愛」や「相手のためを思う」によって正当化できません。そもそもその体罰子供利益になるかどうかは、絶対者ではない教師にはわかりません。

2.今回の体罰はひどすぎた。だが、ある程度の体罰なら容認される

 「ある程度」の線引は個々の教師の恣意になってしまます。顔をグーで殴るのも、一部の教師にとっては「ある程度」でしょう。大人相手に「ある程度の平手」をしたら、起訴されます子供相手なら、なおさら許されません。

3.体罰がなければ、スポーツで強くなることはできない。したがって、部活動には体罰がある程度は容認される

 欧米では体罰が厳しく禁止されている国があるが、スポーツの強い国はいくつもあります体罰を使わなくても成果がでる以上、違う方法をとるべきです。元プロ野球選手で、早稲田大学スポーツ化学科で修士号をとっている桑田選手も「体罰スポーツが強くなることはない」と明言しています。もちろん、違法である以上、たとえ効果があってもやるべきではありません。

4.体罰のように厳しくプレッシャーをかけて伸ばすのは、子供の成長には必要だ。

 教育心理学脳科学などのあらゆる点から「褒めて伸ばす方が効果である」という結果が出ています。なぜなら、厳しいプレッシャーにかけられると、人間の脳の学習記憶をつかさどる海馬神経細胞破壊されるからです。一方で、褒められると、ドーパミンが分泌され、神経細胞接続の強化やモチベーションの強化がされ、技能が向上します。たとえば、運動技能についてのこんな実験もありますhttp://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2012/11/post-223.html

5.私が子供の頃は体罰なんて当たり前だった。したがって、体罰は容認するべき

 「昔はやっていた。故にその行為は正当である」という論理論理のように見えて、実際には何の意味もありません。昔はやっていたがゆえに正当化されるなら、奴隷制度だって正しいことになります常識的に考えれば「昔は間違っていた」と認める思考に至るはずです。(たとえ自分の『昔』を否定することになったとしても)

6.私は体罰によってまっとうになった。だから体罰は正しい。俺はその教師に感謝してすらいる。

 あなた個別の例を一般化するべきではありません。人間はひとりひとり違うのですからあなた効果があったからといって、他人に効果があるわけではありません。

7.体罰がなくなったから、子供ゆとりになり、学力が低下したじゃないか

 第一に、子供学力は低下していません。他の国のレベルがあがったので、相対的に位置が低くなっただけです。日本の中での絶対値としては下がっていません。むしろ、昔と今のセンター試験の問題を見る限り、今の子供の方が昔の子供よりも遥かに高度な内容に取り組んでいます。そもそも、子供教育レベルには様々な因子が絡むため、「体罰のある/ない」だけで論じることは不可能です。

8.体罰は言っても聞かない相手に言うことを聞かせるには有効だ。したがって、必要だ。

 桑田真澄選手は「怒鳴るコーチが多すぎる。大声で怒鳴るのは、『私には言って聞かせて子供を納得させる能力がない』と言っているようなもの」と述べています。大人になれば、相手に言うことを聞かせるのには、言って聞かせて合意形成をするしかありません。教育者ならば、容易な方法をとるのではなくて、たとえ厳しくても社会に出て必要合意形成指導方法の手本を自分が見せておくべきでしょう。

9.体罰ダメにすると、教育現場が萎縮してしま

 それは正しい萎縮です。文明社会は「ぶっ殺してぇ」「ヤリてぇ」「ブン殴りてぇ」という欲望を法律によって萎縮させることで成り立っているからです。体罰をやめることが萎縮であるなら、今までが違法状態であり、萎縮が正しい状態といえます

10.体罰を禁止にすると、生徒を管理するのが難しくなる

 そもそも教師の仕事は「未成熟子供を教え導く」という、半端じゃなく、難しく、大変な仕事です。難しいのがデフォルト、大変で困難なのがデフォルトです。たとえ難しくて厳しくて無駄に思えても「言って聞かせる」しかないのです。

それに、不良高校でも体罰に頼らずに教室を運営している教師はいるし、体罰が厳しく禁止されている欧米国でもきちんと生徒を指導できている教師はいくらでもいるでしょう。たとえ厳しくても、その道を選ぶべきです。もし、「そんなの無理だよ」というのなら、それはその教師が言葉による合意形成が出来ないということであり、「じゃあ、やめたら。」としか言えません。何かの問題解決に「殴って解決」が許されるのは、ハリウッド映画だけです。

11.未熟な子供には言って聞かせることなんて無理。したがって、体罰必要だ。

 精神が未熟な状態にあるから体罰が認められるなら、障害を持つ人への体罰だって正当化されることになります。持論をぶつの勝手ですが、まともな法治国家ではそれは認められません。

12.法律で禁止されているから、ダメというのは思考停止では?

 では、権力者による暴力正当化されている国にでもいってみてはいかがでしょうか。法律は、社会が決めた規範の中でも、ほぼ最低限のレベルに属する規範です。その程度の規範すら守れない人間が、人を教え導ける立場にあるとは思えません。

おわりに

 「何を当たり前のことをグダグダと」と思うかもしれません。私も書いていてそう思いました。でも、そんな「当たり前」が共有されていないのが怖いなぁ、と思っています。まともな常識脳みそがあれば、体罰ダメだというのはわかると思いますしかし、「自分はやられてきたから正しい」という謎論理によって体罰正当化する人が多いのは、正直こわいです。たとえば、今回の事件で、教師が殴ったのが30発ではなくて、3発だったら、子供の方を攻める論調が勝ちそうな気がします。

 仮に体罰正当化される場面があるとしたら、モヒカンの子供が火炎放射器を持って「汚物は消毒だぁぁ〜〜」と乗り込んで炎をまき散らしたときくらいで、火炎放射器を持ち込む子供がいない以上、普通の教師が体罰をふるうことは正当化されません。

2012-11-30

いじめられる方にも原因がある

タイトルは半分釣りなので、いじめ被害経験者も冷静に最後まで読んで欲しい。

いじめられる方にも原因がある」と言われることがある。これは正しい。

私は中学いじめを受け、そのトラウマを高校以降も引きずって、人間不信コミュ障に苦しんだ。

社会人になるまでに表向き目立たない程度には克服したものの、今でも人知れず鬱々とした精神的発作のようなものを抱えている者だ。

それでも、この言葉は正しいと思う。

なぜなら、この言葉と「誰でもいじめられる可能性がある」という言葉は背反する、つまり片方がウソで片方が本当だからだ。

自分は、後者ウソだと思うので、前者は本当ということになる。

人は性格によって、どんな集団に居てもいじめられない奴、条件が悪いと一時的にいじめにあうことがある奴、継続的ないじめの対象になりやすい奴に分かれる。(学生時代自分は一番最後カテゴリ

いじめられる可能」というやつは、誰にでも均等ではない。これが現実だ。

可能性0.0001%と95%を一緒くたにして、「誰でも可能性がある」なんてのは、極めて悪質な詭弁だ。

なのに、そんな詭弁を恥ずかしげもなく撒き散らし、現に苦しんでる被害者や周囲を惑わして、問題の解決を遠のかせておきながら、「自分は弱いものの味方です」のような顔でいる奴には、腹の底から反吐が出る。

お前が綺麗なセリフに陶酔するためだけに、現実を糊塗隠蔽するんじゃねえよ、どクズ

話が逸れたが、さて、人によっていじめられやすさが違うのなら、いじめられやすい奴は、いじめを引き起こす性格上の要因を何か他の奴より多く持っているということになる。

その何かこそが、「いじめられる方の原因」と呼ばれるものだ。

「何か」の中身は、ここでは趣旨が違うので踏み込まないが。

一方いじめる方の性格上の要因も、当然ある。偶然運悪くいじめ加害者になるなんてことはない。

いじめる方の原因と、いじめられる方の原因が、同時に成立したとき、言い換えると、いじめる側の性格の歪み(凸とする)と、いじめられる側性格の歪み(あえて歪みと表現する。凹とする)の凹凸が噛み合わさったときに、いじめという現象は発生する。

この理屈に従えば、性格に凹な歪みがない奴はいじめられない、凹な部分を直せば、いじめはなくなるとも言える。

それは自分経験上、確かに正しい。

自分はこれまで、そういう性格の歪みを矯正するために、何度も恥にまみれて死にたくなるような思いをして、なんとかギリギリ社会適応してきたのだ。

いじめられる側自分から何とか状況を改善し、自己防衛をしようとする場合には、それなりに拠り所となる考え方だ。

しかしだからと言って、加害者傍観者さらには教育者(救いがたいことに実際に存在した)が、ドヤ顔で振りかざしていい理屈ではない。

凹があるだけでは成立しない。凹があり、凸があり、凸が凹に、その突起を刺し込もうとし、なおかつそれを抑止する力が存在しないときに初めて、いじめが起こるのだ。

さらに、凸を放置すれば、もともとは凹ではない奴の心を抉り、凹な性格に仕立て上げることさえある。

から、凸の突起を折り、刺し込んだり抉ったりしないようにすることの方が、凹の歪みを直すより、よほど効率よくいじめ抑制できるに決まっている。

そもそも教育者の中に、凹の歪みの改善指導ができるプロ技術の持ち主なんて、ほとんど居ないだろうが。

凹を黙らせて、状況を放置する無能なら腐るほどいるが。

いじめの原因は、確かに双方にある。

それはつまり、一方の原因だけ潰せば、現象としてのいじめは潜在化するということだ。

ならば、潰すべき一方は、いじめる側であるべきだ。

それが社会の矜持というものだと思う。

2012-11-04

http://anond.hatelabo.jp/20121104214508

お前にはプログラムの才能ないからあきらめろ。

というのは煽りでもなんでもなく、ちゃんと「およそ60%の人間プログラムが分からない」という論文が書かれているらしい。

http://cpplover.blogspot.jp/2012/05/60.html

大学でのプログラミング教育の中で、経験的に、プログラミング学習者には三種類いることが知られている。

全然できない者と、かろうじてできる者と、すばらしくできる者だ。その中間はほとんど存在しない。

できない者とかろうじてできる学習者は、授業の進み方が速すぎると文句を言い、すばらしくできる者は授業の進み方が遅すぎると文句を言う。

こんなに学習にばらつきがあっては、すべての初学者向けのプログラミング教育ができない。

この傾向は、年齢、性別教育レベルの差にかかわらず、等しく起こるものであることも、経験的に知られている。

どうやら、世の中にはプログラミングを理解できる人間とそうでない人間がいるように思われる。

もちろん、教育者達は生徒の問題にして逃げたりはしなかった。彼らは教育方法がまずいのであろうと考えた。

なにしろ、生徒というのは大学生コンピューターサイエンス科に入学した学生である

彼らは基礎的な教育を受けていて、世界でも指折りの有名大学に入学できるほどの基礎的な学習能力環境に恵まれていて、しかプログラミング学習に対して意欲的な人間である

それが、毎年毎年、初年度のプログラミング入門講座で半数近くが脱落して学科を変更していくのだから、事態は深刻だ。

http://anond.hatelabo.jp/20121104141700

黒板ばかり見て、僕はこんな底辺大学の生徒を教えるはずじゃない。もっと能力が高いんだ!と念じてるような、旧帝国大学出身客員教授なんかをみると

社会常識は欲しいなって思うぞ。研究者としての才能≠教育者としての才能だ。

200人以上受講してるはずなのに、聴講してるのがヒトケタとかウケるぞ。

もちろん、極端な例なんだろうが・・・3年程度の社会経験もないとな、ちょっと突拍子もないのが混ざることがあるから、いいフィルタリングだと思うよ。

2012-10-07

体罰容認派や子供を厳しく育てる!という人間が好きになれない

俺は体罰をすることも子供を厳しく育てることにも反対ではない。

だけどそうやって厳しくされたり体罰をされたことにより

グレてしまったり潰れたりする子供もいるだろう。

しかしやさしく甘く育てても潰れたりグレる子はいる。

の子供の特性によって一番よい育て方を見つけないとダメだと思うのだ。

でも体罰容認派や厳しく育てる派の人間って

それによって潰れたりグレたりする子供に対して理解がないんだよなあ。

まるで自分教育法こそすべての人間にとって最高のように語るから困る。

自分がそこまで厳しくされたわけでもないのに極端に厳しい教育法を提言したりするし。

から俺はそういう教育者は信頼できない。

子供多様性という考えが欠落しているように思える。

2012-09-29

ペット家畜のちがい、あるいは教育の失敗

面白い2chまとめ記事を見つけた。いわゆる命の大切さを自覚させる教育についてのもの

「豚を殺して食べる授業ってあったじゃん?あれってやり方が悪いよな」

http://oryouri.2chblog.jp/archives/7471447.html

元記事では「ブタがいた教室

http://goo.gl/DV423)(Wikipedia

http://goo.gl/D07Pw)(amazon

という映像作品が焦点になっている。これは生徒たちに生きているものを食べるという意味を考えさせるという目的で、1年間「食べる約束」でPちゃんと名づけられた子ブタ飼育する児童の活動の記録だ。容易に予想される通り、殺すべきか殺すべきでないかを巡って児童らは激論を闘わすことになる。以下、この作品における子供たちと家畜(あるいはペット)としてのブタとの関係について少し考えてみようと思う。なお、児童の下した最終的な決断がどのようなものであったかはここでは重要ではない。

とくに考えてみなくとも、この教育方法愛玩動物家畜意図的に混同させてしまっている点で偏向していることはすぐ看て取れる。牧場屠殺場の労働者と異なって、児童たちにとって家畜を殺す選択とは生活上の要請や主体的な投企ではないし、それらに束縛された社会的な半義務から解放されている。かれらは「ブタとともにいる今のこの経験」をまったく外部から与えられた教育機会として甘受しているにとどまるため、必然的に(屠殺という)未来との緊張的な関係はほどかれてしまう。つまりブタは形式的には家畜として存在していても、児童たちにとっては犬や猫のようなペットとなんら変わらないし、その素朴な誤認が改められることもない。

農家で働く人々のなかには、家畜愛称で呼んで慈しみながら育てる者もおそらいるかもしれない。だが、衛生管理、給餌、畜舎環境整備、精神状態への配慮、成長の仕方への注視といった諸々の世話は、家畜を取り扱う職務というひとつ社会的役割の枠の中で分化した業務である。したがって、それが職務である限りにおいて動物との関係は尊重されるのであり、家畜への愛情とはひとつひとつ労働の只中から立ち現れるものだ。だからペットのように対象を没入的に愛玩することが先行しているわけではないし、そうした依存は成立しようがない。この意味で、公共的領域に属する家畜は私的領域人間を慰めることに専念するペットと同一視することはできない。

この教育が欠陥を抱えているのはまさにそこで、生物を食べるということの意味を考えさせるはずが、ペット家畜として扱う行為の是非がそれ以前に立ち現れてくる羽目になることだ。あるいは、「教育機会として与えられたブタを、教育目的として屠殺すること」という奇妙な倫理問題が登場してくることになるのだ。だからブタの形式的な存在よりもむしろブタとの実質的な関係を重んずる児童ならば、きっと殺すことに猛反対することになるだろう。それも、生命の尊さという観点からではなく、先ほどまでは愛玩していた動物教育用だからという理由で屠殺することの倫理的な疑問からである

生命を奪って食物をいただくことは非常にありがたいことなのだ屠殺はやむを得ないのだ)」という結論に子供たちが至ると教師が期待していたのならば、その教師は教育権力子供の阿りにあまり幻想を抱いていると言わねばならない。なぜならば、当座の問題として、子供たちにとって「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタである必要は一切ないのだから感情に束縛された反対者がこのことに気づくかどうかは別として、この葛藤は両者を厳密に区別さえすれば解決する話ではある。我々が生活的・社会的意味から屠殺要請されているのは家畜用のブタという一般的な対象であって、Pちゃんという特定的に指示された一匹のブタではないだろう。

こうなると初期の教育目的から大きく外れた論理子供たちを支配するようになっているのが理解できるだろう。屠殺がそれ自体として容認されるべきか否か、また、容認されるとして我々はそのことをいかに受け止めるべきなのかという課題は置き去りにされる。うってかわって幅をきかすのは、「それが屠殺から回避されるべきペットであるか否か」という二択問題でしかない。

つまるところ児童の躊躇と反発は、動物一般を屠殺することにではなく、愛情を受けるに値するペット屠殺することに向けられることになる。もし教師がこの洞察の対象を臆面もなく「命の尊さ」と名づけ、児童らがそれを真に受けるとしたら、それは教育的にも、児童感覚を支配する論理から言っても、致命的な取り違えを犯すことになる。なぜなら、そこで問われている生命価値とは、その動物が与えられている人間愛情という尺度によって一律に測られるものにすぎないからだ。この錯誤は一部の動物愛護団体も陥っている、言うまでもなく極めて未熟な人間原理である

屠殺に賛成する児童にしても、その意見後ろ盾となっているのはそのブタ屠殺されなければならない社会的制約にあるのではない。先にも述べたように、「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタである必然性に欠けているため、それを論拠とすることはできない。代わりにあるのは、教師やクラスの皆と「食べる約束」で育てたのだから言葉通り(あるいは教師や学校の期待通り)食べるべきだという自閉的な教条主義しかない。そうした子供たちを支えているのは、ブタは一時的にはペットであったかもしれないが、家畜という名目は残っているのだから今や再び家畜に戻るべきだという同一性への信念である。したがって、生活的・社会的要請という家畜の意義はやはりかれらの目には隠されたままだ。

こうした事態はなぜ起こるのだろうか。まだ児童ペット家畜の類別がつかないからでは決してない。生活上の要求や社会的責務と切り離された、教育という特殊な環境によって本来の弁別がゆがめられてしまったところに原因はある。一般的に家畜ペット存在は公共的・私的という形ではっきりとした線引きがなされており、特に家畜に関してはその取り扱いに恣意性がはたらく余地はない。ところが、社会的要請という文脈から切り離してこれを教育という場に持ち込んだ途端に、垣根は崩されて恣意性が生まれることになる。つまり、そのブタ家畜になることもできるし、ペットになることもできる。その不安定さがすでに本来の家畜とは別物である以上、当然「生きているものを食べる」という普遍的な行為考察する可能性から遠く離れることになる。

結論として、この教育が「命の価値」や「生きているものを食べる」ことについて考えることを目指しているとしたなら、それは完全な失敗だと思う。教育の目指すところが悪いのではない。学校の一クラスの中に一匹の家畜を持ち込んで、なお家畜意味が無条件に保たれると思いこんだ教育者の甘い認識こそが問題なのだ。それは単に牧場見学職場体験を学校の内側で再現することではない。家畜は数え切れないほどの社会的紐帯繋ぎとめられた動物である限りで家畜と呼び習わされるのであって、周りを取りまく環境との避けがたい関わりを黙殺したところで家畜の理解にたどり着けるわけがない。

2012-08-29

http://anond.hatelabo.jp/20120827200503

んなもんは教えてもらう物じゃなく、自分で答えを見つけるもの

自分で見つけた答えでないと意味がないし役立たない。

必要となれば考えるし、必要なければ考えない。

んなもん考えなくても十分生きていける。

考えないで生きてる人間の方が、よっぽど普通生活を送れてる。

人間とは、自分とは、を考えるのは20歳前後によくある傾向らしいが、

そんなもの知恵熱みたいなもんで一時期的なもの

そこに変に執着して、宗教や怪しい慈善団体にはまった一例がオウム信者

人の人生を狂わす存在になるのは本末転倒だろ。

学芸大卒元教育者曰く、「教育」本質は「育てる」だそうだ。

から植物を育てるが如く、色々な生え方をする種もあるんだが、

あくまで水をやり時には肥料をやる程度の助力をするだけ、

あとは自分たちで自分たちの人生を築き上げる。

それを見守るのが自分仕事、といった内容を言っていた。

それ程度の関わり方でも、卒業後の同窓会に呼ばれていたそうだ。

逆に、深入りしたら生徒から同窓会に呼ばれなさそう。

人間とは、なんて事より、「こんな道を選択すると、こんな人生待ってます

みたいな方が、全ての生徒に対して断然に有用だと思う。

人間とは、なんて所詮趣味。それを教えるなんて、尚更、趣味の押しつけ。

http://anond.hatelabo.jp/20120828220855

かばれるとか報われるとか、そういう結果が必要なわけじゃない。

努力すれば必ず報われるなんてことがないのは貴方も分かってるし、10の子だって知ってる。

結果を褒めるために、努力させるわけじゃないんだよ。

「向上しようとすること」「知ろうとすること」

子供だけではなく、大人であっても、人間として重要なことだ。

ましてや貴方が教育者になるのであれば、結果ではなく、頑張った過程こそを褒めるべきであるということを心に刻んでほしい。

2012-07-25

教師がロリコンであるかのような風潮

ロリコンであろうと手を出さないのが教育者であって

最近報道されてるような変態は元から前科があったりで学校の裏掲示板などで割と噂になってたりする。

けども、日本全国に何千人教師がいると思ってるんだ?

ニュースで取り上げられて頻繁にロリコン扱いされてる真面目な教師に不真面目に犯罪を行うような奴と同類にされることがどれだけ苦痛か。

教師は一生このしがらみから逃れられないというのはあまりにも酷。

犯罪者は出るべくして出るわけで普通般教育者に犯罪者はごく僅か。性犯罪に関しては、ね。

2012-07-23

いじめ論考に思うこと

数日前にホッテントリに入ってた増田記事にレスしようとしてたら消えてったっぽいので改めて記事を書く。ついでに今議論になっている幾つかの考え方についても、僕が思うことを言う。

よく言われること

誰が悪いのか

大きないじめ報道があるとこの話題が必ず大きくフィーチャーされる。今もTVをつければその話題で持ちきりで、くだらん話ばかりを延々と・・・TVにかぎらずSNS増田もだいたいそんなもんだ。で、いじめ問題で誰が悪いのか、だいたい4つくらいの類型で語られるように思う。(1)被害者、(2)加害者、(3)傍観者、(4)大人 とこんな感じ。

いじめられる方が悪い」

さすがにコレを主張する人は今日TVでは見かけられないし、ネットでも相手にされてないことが多いんだけど。

ただ1つ述べておきたいことがある。事実として、いじめられっ子が転校して別の学校に行って解決する場合もあるが、引き続きいじめられる例というのは実際にある。しかも、「いじめがない」と思われていた学校に転校して、いじめが起こらないように大人たちが配慮した上で生活していて、再びいじめられることがある。

このとき、確かに「いじめられる原因」はこの子にあるかもしれない。全部の原因がその子にあるとは言わないが、ちょっとくらい、その子に原因があることも考えられるかもしれない。

しかし、「原因」があると認めたからといって、果たしての子が「悪い」と言えるのか。

もしその原因があることで、いじめられることが正当化されるなら、同じ原因を持っていたら同じいじめを受けなければならなくなる。しかしながら、同じ原因、同じ人でも環境によっていじめられないこともある。

であるとするならば、「いじめられる原因」をその子が100%持っていたとしても、その子のせいとして「いじめ正当化」はできない。

ここら辺まで書いたら疲れたので省略されました。結論まで一気に飛ぶ。内容は気合で察してください。

自分の子どもにできること

これまで、いじめ自体が発生するのは自然であること、「いじめ過程」自体は悪ではないこと、しかいじめ自体は止めなければならないことを述べた。また、いじめ議論の主眼が、教育者から加害者側に、親や世論から被害者に置かれやすくなることを指摘した。

総合して、僕達は自分の子どもたちが加害者である視点をもつことが大切だと言いたい。多くの場合自分の子どもがいじめに関わるとすれば残念ながら加害者の側だ。当然被害者となった我が子を救ってあげることは大切なのだが、加害者となっているときに親に言い出せず陰湿いじめが悪化するケースも多い。

「愛しい我が子がいじめなどするわけない」という感情を我慢して、ひょっとしたら自分の子どもが加害者になっていないか、そういった視点子供を見てあげて欲しい。

「今回のいじめ犯罪(キリッ」について

「今回のいじめ犯罪(キリッ」という主張の反論について省略したが、言いたいので言いたいことだけ言っておこう。

  • いじめ」を犯罪と呼び直したとところで何がかわるのか。
  • 仮に呼び直したとして、では、犯罪でない「いじめ」は許されるのか。

「今回のような『いじめ』は犯罪」という主張は、より軽度ないじめは許されるという点が内在していることを指摘しておきたい。

2012-05-21

ドットインストールがひどい

ドットインストールというプログラミング学習サイトがあるというので、ちょっとやってみた。感想は「ひどい」。

基本的に動画垂れ流し。課題テストに相当するものがない。動画プロの話し方じゃない(「えーと、こっちが」とか「ここをですね」とか半端な指示代名詞がちょこちょこ出てくる)。内容も、単にテキストエディタ開いているだけ。

一番ひどいと思ったのは、メモが右の柱に小さく乗っているだけというもの学習するなら、メモを真ん中にどんと置いて欲しい。自習にならんじゃん。

確かに、プロ教育者がやっているサイトじゃないのだろうけど、思いついた動画を並べているだけで、ちょっとひどいと思った。

2012-05-01

コストが安いか過労死寸前で働かされてるんだからな…

481 ソーゾー君 [] 2012/05/01(火) 17:57:07 ID:hSDyZob6O Be:


こんなもん氷山の一角で起こるべくして起きた事故だ…

運転手も建設業製造業サービス業もみんな同じ状況だ…



コストが安いか過労死寸前で働かされてるんだからな…

その一方で孫正義のようなペテン師成功者と讃えられるんだから呆れるわな…

運送業建設業製造業過労死寸前でこき使って事故を起こすと人命に関わるから事が大きくなる。

サービス業飲食店は個人の過労死で終わる…

上記の業種は過労で居眠りしたら被害が個人では済まなくなる…



そうならない為に監督機関=糞役人天下り機関行政府が有るんだが…

資産家=株主癒着し目茶苦茶しやがる…

目茶苦茶出来る理由は「責任を取る必要が無いから…」



から俺は十二項目を纏めた「責任を取るべき奴が責任を取らなくて良い構造からこのザマになった…」

まり責任を取らない奴の権限は全て剥奪するべきなのです。」

十二項目はその構造を纏めただけ。



役人選挙権政治活動と政治参加は禁止。

カルト所属者もこれに含まれる。

キリストイスラムユダヤ・ヒンズー・仏・ブゥードゥ・チベットカルト等の

宗教団体所属者は選挙権等の権限を剥奪するし職の自由も剥奪する。

公務員弁護士教育者医療関係に従事する事を禁止する。

バチカンのように人を崇める宗教を装ったカルトは全て叩き潰す。



聖職者←こんな職業が有る時点で終わっている…

乞食以下のカスだ…ベネディクト乞食以下のカス

池田や文は目糞でベネディクトは鼻糞…え?ハメネイは?」

「糞は糞だよアホ…」









中央銀行・発行権】黒幕銀行家5【信用創造

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/business/9191/1333369457/

中央銀行・発行権】黒幕銀行家36【信用創造

http://uni.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1327244413/

2012-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20120325004547

違う。

投票権という参政権行使の議論と、思想の自由・表現の自由の問題が整理されずに議論されている。

投票したいなら投票すれば良いし、不起立は思想表現としてそうしたい人が不起立すれば良い。

教師にも生徒にもそれぞれに歌う自由があるように、歌わない自由もある。だから、その自由権権利として行使すれば良い。それで良い。

 

東京都がその国民の自由を制限する権限は憲法上無いし、教員教育者として国民に対して直接に責任を負っているのであって東京都知事に対して責任を負っているのではないから、教育者として必要なら起立する必要は無い。

 

君が代国歌で良いのかという点については、多様な意見存在することは、新聞論調に限らず、増田での議論でも明らかだろう。

から、「多様な見解存在する」という事実を教えていけばいい。「多様な見解存在する」という事実を教えていくためには、教員の不起立を懲戒の対象にすることは許されない。多様な見解の一つとして許容していかなければならない。

 

子どもたちは普段、教師から「歌の歌詞音楽表現には、多様な解釈がある」と教えられている。

君が代にかぎって「君が代歌詞音楽表現には、多様な解釈は絶対に許されない。君が世は天皇の統治が永遠に続くという解釈だけを国民の思想に植えつけなければならない」と教えられたら、子どもたちは混乱し、子どもたちの健全な発達が阻害される。

「歌には多様な解釈がある」と教えながら、君が代だけをその例外とすることは、子どもたちを【自分自身でものごとを考えない思考停止人間】に育ててしまう。実際にそういう子どもたちが大量に育っている。

 

教育者は、子どもたちの健全人格の発達を優先して考える行動するべきであって、東京都知事政治見解子どもたちの発達よりも優先させるべきではない。

教室現場では、「君が代平成になってから国歌法により国歌となったが、それまでは国歌ではなかったし、現在君が代国歌として認めない人たちは何千万人もいる。音楽や歌の表現に多様な解釈存在するように、君が代という歌にも多様な解釈存在する。大日本帝国は、君が世を永遠に続く天皇の統治である解釈した。そのような政治音楽解釈は、侵略戦争を実行するために必要な集権国家にとって都合が良い解釈であり、侵略戦争で利用された。そして大日本帝国戦争を起こし、戦争に負け、滅亡し、多くの人たちを不幸にした。戦後君が代は、国民を不幸にする軍国主義の道具として多くの国民から忌み嫌われたが、極右民族派極道ヤクザが稼いだ資金で法制度運動を展開し、保守政権のもとで法制度化された。だが国歌法が制定された当時の官房長官は“強制を伴うものではない”との政府解釈を示し、憲法が保障する国民権利と、表現への多様な解釈を容認した」という具合に事実を教えている。

そう事実を教えている教師が、学校行事で、国歌としての君が世を疑問も示さずに普通に歌っていたら、子どもたちは「この先生はぼくたちに本当のことを教えていない」と疑って教師を信用しなくなる。

知事から信用されている教師だとしても、子どもたちから信用されない教師は、教師としては失格者だ。

から政治利益が最優先ではなく、子どもたちの利益を最優先に考えている教師は、教師として、不起立をしている。

 

投票だけではなく、不起立の教員社会全体で許容していくことが、わたしたちの子どもたちの健全な成長のために必要だ。

 

最後に「軍国教育の手段として」君が代教育オワコンだという意見なら、まったく同意で賛成だということを付記しておく。

 

君が代を歌うのがおかしいと思うなら、選挙で一票を投じろ。

>それ以上はするな。

2012-03-06

http://anond.hatelabo.jp/20120305112303

ワタミが買収した郁文館夢学園のエントランス写真がなんだかすごいことになってますが、コラージュじゃないですよ。ここが写真元→e037.dgblog.dreamgate.gr.jp/e67276.html この人、ワタミみてえなのに心酔してアップしたんですわ。この手の『単細胞金持ちになりたいバカ』ってのは結構いるのです

http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/kanyu_drop/status/176223802991198208

 

ワタミ会長の肖像画を今も掲示している教育者がまだいるとしたら、それは人間としての堕落、それ以外のなにものでもないと思う。

で、これが「単細胞金持ちになりたいバカ」と言われた株式会社イノベーション代表取締役富田直人@inonaoの方の言い分。

 

http://e037.dgblog.dreamgate.gr.jp/e67276.html

2010年01月15日

郁文館学園 石田常務理事今年第1回目のMRK(元リクルート経営者会)

ワタミ経営する郁文館学園に訪問

常任理事石田さんの講演。

お会いするのは2回目

郁文館の改革の話、教育ポリシー世界観など

またまた、たくさんの刺激をいただいた。

今日気づき

・全ての判断は理念であること

・生徒に夢を持たせることはしない。自分で夢を持ってもらえる環境提供すること

教育ポイント先生の知識ではない。相手に希望を持たせて火をつける力

世界中教育機関を見たベスト学校とは、寄宿校、20人程度の少人数制であること

クレーマー対応する側にも大きな責任がある

などなど

グローバル化そして人間力も向上できる素晴らしい教育

入れるものなら入学したいほど魅力的な学校だ。

マネジメント組織論グローバル化など会社でも活かせる話が満載!

エントランスにある理事長です。

http://dgblog.dreamgate.gr.jp/usr/e037/%E9%83%81%E6%96%87%E9%A4%A8s.JPG

まさに渡邊イズム

石田さん本当にありがとうございました

 

2010年01月15日というと、ワタミで働いていた女の子自殺して、遺族が労働災害認定を求めて1年以上経っている頃だ。

ワタミ殺人的な労働環境になっていて、実際に過労自殺労働紛争事件が起きていた事実を知らないで、このエントリーは書かれたのかもしれない。

この富田直人という男は、ワタミがこれだけ批判されている今、どう思っているのだろう?

ブログを見ると、ワタミでまだ飲み会を続けているようだ…。

 

ベンチャー社長ブログ:直人塾最終回

http://e037.dgblog.dreamgate.gr.jp/e93956.html

2012年02月09日

今晩は広尾ワタミん家で打上げ!

http://dgblog.dreamgate.gr.jp/usr/e037/2012-02-08s21.25.23.jpg

素敵な時間だった。

 

理想教育システム

優等生のみなさん、こんばんは。

知的にはつまんない授業ばっかの退屈な学校生活を送られてきたことと思われます

「いやいや、知的に充実してたよ」って人、あなたはすっっっっっごく恵まれています。おめでとう!

でもね、そうじゃない人もたくさんいるんだよ。

分かりきったこと延々と聞かされるの、嫌じゃん。

未習事項は使うなって、理不尽じゃん。

今の学校教育って形骸化してるじゃん。学力向上を塾にどんだけ頼ってんだよ。もっと人間的になろうよ。

そこで、理想教育システムを考えてみたよ。

なんかどこかで見たことある感じだね。でもこれは本当に理想的だと思うよ。

20歳の博士がいても良いじゃん。20歳の小学生がいても良いじゃん。

自分に合った適切な教育を受ける権利が皆に平等に与えられるべきだよ。

こういうことを考えるといつも受ける反論は「落ちこぼれが可哀相」という感情論。知るかそんなもん。

落ちこぼれ落ちこぼれ、ただし勉強に関してのね。それで良いじゃん。

中学校の内容を教える大学がある方が問題じゃないかな?

勉強意味勘違いしてきたからこんな風になったんじゃないんですか?社会評価とか、もっと考え直したら良いのに。

学校なんていう形だけの存在を頑に守って来たからそう思うんじゃないんですか?

もっと、自由に考えるべきなんだよ。

そろそろ、無駄時間過ごさないように考えようよ。時代に乗ろうぜ。

2012-02-24

義務教育での留年

義務教育での留年、どうなんだろうね?

そもそも小学校教育ってただ「国・算・社・理」が出来る=勉強ができるって言う意味じゃないと思うんだよね。

集団行動が出来る、「社会人になる一歩手前の人間としての勉強」っていう意味合いも強いと思うんだよなぁ…。

ただ、基礎学力をあげたいならば教員じゃなくて塾の講師採用すればいい。

そうすりゃ効率上がるし、競争意識という意味ですごい良い結果出せるんじゃない?

それとかドイツ教育システムとかイギリス教育システムスウェーデン教育システムとか真似れば良いんじゃないのかな?

後、単位制とか。

それに発達心理学的にもよくないと思うんだよね…。

学童から思春期を迎えるあたりの子もの心理ってすごい難しいじゃないかな。

体の成長と心の成長、どちらも迎える意味でたった1年、されど1年でとても大きいものだと思うんだよ。

1年遅れることによって、“頭の悪い”とか“出来ない”のレッテルを貼られるのは子どもにとってあんまりよくない影響を与えると思うんだよね。

それに教育ってただ“子ども”と“教師”で成り立つわけじゃなくて、教員家族子ども三位一体で成り立つわけで。。

1年留年したら多分不登校いじめとかそういうのにも繋がるんじゃないかな。余計進学厳しくなると思う。

それこそもう1年頑張ろう!と前向きな家庭ならいいけど、実際教師に勉強押し付けている家庭も多いわけで。。。

だったら土曜日の登校を復活させたり、出来ない子に対しては補修にしたり、時間かけたりアフターケアした方が教育者としての立場としては良いと思うんだよなー。

教員負担も増えるけど。それはしょうがないと思う。

まあ結論的に言えば、興味はあるけど反対。

蛇足だけど公立小学校に通ってる訳じゃない、「皇族」であられる愛子様なんかは橋下さんの定義する「義務教育での留年」として考えるなら確実に留年じゃないかなー?とは思うw

2012-02-19

MBS大阪アメリカ教育改革を絡めた動画が非道い

ホッテントリに上がっていた以下の記事と記事内にあった動画を見ました。

大阪教育基本条例アメリカで破たんした落ちこぼれゼロ法とそっくりと指摘した報道番組VOICEに逆上する橋下氏

http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-776.html

動画

2.16VOICE米国教育改革の落とし穴」

http://www.youtube.com/watch?v=kR5V2fn4Lws

2.17VOICE競争の果て...NY教育改革の実情」

http://www.youtube.com/watch?v=nFVTF0rRyXs

このブログ自体は、記事一覧(http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/archives.html

を見るかぎり反橋下記事で埋め尽くされていますので、そういうスタンスブログであり、大した検証や理解もなく自分に都合のよい情報に飛びついただけであろう、という事は分かります

しかMBS動画の方は非道いですね。

アメリカのNo Child Left Behind Act落ちこぼれゼロ法)について失敗であったと断じ、ことさらネガティブイメージ報道していますが、一体何を根拠にこんなことを言っているのでしょうか。

動画内に登場するDiane Ravitch教授が著名な学者あり落ちこぼれゼロ法支持から不支持に変わった人物であることに間違いはありませんが、それはあくまで彼女個人の思想の問題です。

Why I Changed My Mind About School Reform - http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704869304575109443305343962.html

動画では彼女コメント以外に失敗と断じた根拠が一切示されていません。

グラフの一つすらも出てきません。実際見た方の中には違和感を覚えた方も少なくはないと思います

それはある意味当然でしょう。

現在アメリカでは落ちこぼれゼロ法で示された教育改革の方向性はむしろ加速しています

確かにオバマ大統領落ちこぼれゼロ法の撤回を決めましたが(http://tpmdc.talkingpointsmemo.com/2011/09/gop-pounces-on-obamas-education-changes.php

それは当初設定された、2014年までにアメリカ全土の学生全ての学力レベル一定以上に引き上げる、という目標値が高すぎたためにその目標を断念したというだけです。

学力テストがなくなるわけでも以前の教育制度に戻るわけでもありません。

更に、校長教員の評価システムについては今後も推し進めるとしています

Under Obama’s new plan, states can request flexibility from specific NCLB mandates, but only if they are transitioning students, teachers, and schools to a system with college- and career-ready standards for all students and developing built-in accountability that reports the lowest performing 5 percent of schools and the 10 percent with the largest achievement gaps, as well as teacher and principal evaluations that include student performance.

この教員評価システム現在、全米で強く進められている政策で(http://ameblo.jp/terada1963/entry-11039010391.html

全米の内45州で何らかの能力給が導入されています

例えば、フロリダ州マイアミでは、学力テストの結果を元に教員ボーナスを支給するとしています

更に複数の州で導入されている教員評価システムでは教員の長期雇用保障をなくし、毎年更新する形にするともしています

The law also eliminates long-term job protection for new teachers, instead putting them on one-year contracts.

http://www.passingnotes.net/index.php?showtopic=1409



このように、もしアメリカ教育改革を持ち出すのであれば、どちらかというと橋下さんに味方するものといっても良いくらいでしょう。

もちろん現段階でこの政策、教育改革が将来、成功であったと評価されるのか失敗であったと評価されるのかそれは分かりません。

しかし、それを

多くの教育者や生徒、親たちから「失敗だった」との声が上がるアメリカの「教育改革

と、自分たちの都合のよいように現実を歪め一部を抜き出し決め付けて報道する姿勢はどうかと思います

2012-01-30

橋下徹氏への期待と違和感

僕はとりたてて左でも右でもないと思うが、個人的に橋下徹氏のやり方には強い違和感を感じる。君が代を歌わない教員を罰する、などといったタカ派的な行動(http://goo.gl/fdA8f DailyMotion: これで彼自身恥ずかしそうにしてちゃんと歌っていないというのは置いておいて...)やテレビタレント時代核武装とか中国売春ツアーODA発言とか弁護士懲戒請求の扇動とか、そういう極端な言動への違和感が第一にある。ナイーブに考えて、下品で息苦しいのである

だが、僕が結構ファンである佐々木俊尚氏(http://twitter.com/sasakitoshinao)や夏野剛氏(http://twitter.com/tnatsu)など、わりとリベラルで先見的と思われる人たちが橋下徹氏に好意的な評価をTwitterでしているのを見て、どうしたものだろうか、としばし考えた。

たとえば佐々木氏は、橋下氏の実行力を評価し、橋下氏の批判者が感情的な批判しかできていない、ということを指摘していた。たしかに、行革財政再建を目指す政策は私も賛成である。また、部落問題や暴力団のような複雑な問題も、彼くらいの突破力がないと解決できないだろう(私が橋下氏に一番期待しているのは、そのような問題の解決においてである)。ただ一般に彼のやり方は、敵を作り、スケープゴートを作ることで住民の溜飲を下げさせていることで勢いを維持しているように見えてしまい、その手法に狡さ・醜さを感じるのである。さらに言えば、それに乗ってしまう人々の多さにも空恐ろしさを感じるのである(こういうと香山リカ氏みたいだが)。私は、橋下氏はルサンチマンに駆り立てられて動いている人間だということに気づいたが、彼がさらに住民の潜在的なルサンチマンを煽っている構図なのではないかと思うのである。そういう点で、現代のヒトラーという指摘はあながち見当違いではない。

私みたいに、緊縮財政行革による財政再建は大いに結構、だがイデオロギー的な押しつけの空気タカ派挙動、さらには彼を突き動かしている感情にはアレルギーがある、という層は多いのではないだろうか。

佐々木氏が今日になってついに「橋下氏について行けない人たち」などという(そこまで言ってしまうと戦時中非国民とかと同じメンタリティーにしかすぎないだろう)気持ち悪い全体主義的なポストまで挙げていたので、なんだかガッカリさえした(本当の知性や強さというものは、結論の出ない曖昧から目を背けず、それに耐えて批判的に考え続けることではないのか。)のと同時に、自分の中でどういう立場を持てばいいのか、折り合いをつけなくてはいけないのかな、とも感じたのである

私は科学者だが、周りを見ていてたしかに偉大な科学者が必ずしも人格に優れているわけではないし、科学者を見る際には業績と人格、さらに教育者としての資質は分けて考えるのが普通だ。政治家もそれと似たようなもので、イデオロギー実質的な政策を分けて考えるべきなのかもしれない。彼の財政再建のための活動は評価するが、彼の人柄や彼を突き動かしているイデオロギーものには疑問を感じる、という折衷的なスタンスをとれば、私自身感じている息苦しさにも折り合いをつけられる。

余談だが、橋下氏、昔はテレビではけっこうチャライ感じでいじられキャラだった記憶があるのだが、いつの間にあんなに強者のキャラになったのだろう。そういうパブリックイメージの変遷のメカニズムにも興味がある。

ひとりのAnonymous Cowardより

2011-12-27

http://anond.hatelabo.jp/20111227134447

先生たるもの子供の「直感」が正しい「直感」であるかどうかを見極めて指導するくらいのことはして下さい。

「深く考える」と「直感」は相反するものではありません。

それが出来ないからと言って矛盾無意味な複雑化のあるマニュアル盲目的に従うというのは教育者の態度ではないと思います

2011-11-13

http://anond.hatelabo.jp/20111112181142

ここに挙げられているいやなところというのは、日本人自我のあり方が

海外で一般的なそれと大きく違うことに起因していると思います

日本では個人の自我を発達させて自分意見を持つことよりも

もっと大きな集団、会社だとか、学校クラスだとか、地域の集まりだとか、そういう大きな集団単位での

自我(もはや自我と読んでいいのかわかりませんが一応自我します)を尊重するようになっているんだと思います

ですから、個人がどうしたいか、私はこうしたい、という思いを押し殺してでも集団の規律を優先することが多いのです

そうやって、その組織は大きくは崩壊せずに(はぐれ者はいるかもしれませんが)維持されます

その分、押し殺した個人の自我のわだかまりを出すはけ口が必要なんで、

他人の成功をねたむような、陰口をたたいたり、飲み屋愚痴ったりします。

愚痴は言いますが、組織全体としては本当に崩壊させるようなことには殆どなりません。

組織体制は本当に強固だと思います

とても保守的だとは思いますが、それによって皆ゆるやかになんとなく組織に守られている感覚があると思います

まあ、そうはいってもなんとかなるだろうとかい安心感

組織にいるならば、他人はなんだかんだで助けてくれる存在である、という感覚があります

個人を押し殺して不合理なことをしているようですが、見返りに集団から保護という安心感を得ているともいえます

みんな、だいたい、無意識的にそうしています

海外の人が、当然のように個人の自我を尊重している(と思う)ように、

私たちは個人の自我よりも、集団の自我を尊重するように、もう子供のころから無意識的に訓練されています

訓練させてきた人たちも、殆ど意識せずにやっていると思います

西洋的に教育をやっているはずが、無意識レベルでは全くの日本式でやっています

性別のことも、西洋の男女同権の流れを取り入れたものの表面だけで、

昔の男尊女卑の感覚も抜け切れずにごちゃごちゃになっているのだと思います

世界的にみたらとても特殊な個人のあり方だと思います

それが日本長所でもあるし、欠点でもあると思います

外国から来たら自分の国の特徴や信念や倫理に照らし合わせて良い悪いと思ってしまうかもしれませんが、

恐らく貴方の国でいたときにいいことと嫌なことがあった(であろう)ように、

この国にもちょっと別なあり方でいいことと嫌なことがあるっていうことだと思います


勿論、そうでもない育ち方をしてきた人も、どんどん増えていると思います

それはそれで大きな問題として存在しているのでしょう。

ただ、基本的には、日本人ってのは大体無意識的にそうなるように生活してきている、

と思って頂いて、日本人に接して頂けると、不合理に見える行動もひょっとすると

理解されるかもしれない…と、思います


あと、英語に関しては言語構造が全く違う他にも、

英語で会話をする機会も必要な機会もほぼ皆無であるためだと思います

教育者ネイティブの会話をできるわけではありませんし英会話出来なくとも基本的には問題なく生きて行けるという認識があります

私も全く会話できません。悲しい限りです

>>

外国人です日本に住んで4年になりました。

来たばかりのころは日本人は優しくて魅力的な国だと思いましたが、長くすんでいるといやな所にも気がつきました。

いい人もたくさんいるけれど、みなさんに知ってほしくて書きます

1.マナーに異常に厳しいが、融通が利かずユーモアがない(ジョークやいたずらをしないけど、靴を並べないと怒る)

2.自分の気持ちに素直じゃない。損得で行動する(いつも本当の気持ちで行動しない)

3.自分成功しないんじゃなくて、他人が成功するのが悔しい(成功している人の悪口をいう。でも悪いことや失敗している人の悪口はいわない)

4.ブランド物など他人と比べる、相対的な方法しか幸せを計れない(私の国では考えられないくらいみんなブランドものを持っている!)

5.差別はないけど、いい人でも仲間はずれにしたりいじめたりする(みんなだれかのことが嫌いなのかな。怒っている。)

6.おいしい食べ物でも文句を言う(なんで?おいしいのにといつも思っている。日本人はとにかく文句をいうが何もしない!)

7.感情表現が変(愛してるというと軽いといわれるがほんとなのに。私や私の外国人友達もよく軽いといわれる)

8.性別の特徴をみとめない(男は強くて、女は弱い。そういうことをいうと怒る。でも女は男より綺麗でしょ?)

9.英語が話せない(日本人小学校から勉強している?私は日本語が2年ではなせる)

10.みんな元気になるのは学校仕事が終わってから(みんないやなのになぜやる?)

2011-09-24

こんな酷いんだな、別の増田ツリーでも、大学教授の話が出てた

http://anond.hatelabo.jp/20110923004217


http://anond.hatelabo.jp/20110923211227

http://anond.hatelabo.jp/20110923194927

ま、ぶっちゃけると、教授研究室)の指導力の問題だよ、これは。

世界ランキング10位以内の大学教授で、日本大学でも滞在したことのある奴に聞いたんだが、日本教授は、Professorには相当しない。

日本では、教授10人いたとして

4人は、ニート

3人は、政治家

2人は、研究者

1人は、犯罪者

政治家研究者の中には、教育者もいるが、ニート犯罪者の中には、教育者はいない。

最後の1人は、女子学生レイプしたあげく、「指導が行き過ぎてしまったw」としゃあしゃあといえる人間。まれに、下界で(電車の中)犯罪を起こして逮捕されるバカ以外は告発もされない。

から教授という名前がよくない。 先生ではないのだから

教授 ー> ニート

准教授 ー> 准ニート

助手 ー> ニート見習い

改名すべきだ

2011-09-23

http://anond.hatelabo.jp/20110923194927

ま、ぶっちゃけると、教授研究室)の指導力の問題だよ、これは。

世界ランキング10位以内の大学教授で、日本大学でも滞在したことのある奴に聞いたんだが、日本教授は、Professorには相当しない。

日本では、教授10人いたとして

4人は、ニート

3人は、政治家

2人は、研究者

1人は、犯罪者

政治家研究者の中には、教育者もいるが、ニート犯罪者の中には、教育者はいない。

最後の1人は、女子学生レイプしたあげく、「指導が行き過ぎてしまったw」としゃあしゃあといえる人間。まれに、下界で(電車の中)犯罪を起こして逮捕されるバカ以外は告発もされない。

から教授という名前がよくない。 先生ではないのだから

2011-09-04

http://anond.hatelabo.jp/20110903235442

僕は教育者でも研究者でもないので一般的なことは言えないんですが、自分経験をふりかえれば、応用の部分が弱いように思います

ミクロ視点での文法は、まぁあれでもいいのかな、活用ウンヌンとかそういう細かいところはやっぱりアカデミズミ的に石頭で全然いいと思うんです

ただそれを、まとまった文章にする、文法をコミュニケーションに活かす段階がスポッとぬけているかんじがあったのではと。

自分がいいたいことを客観的に見て、それを言語を用いて空間にどう展開させていくかは、学校で十分訓練する必要がもっとあると思います

テストの点数のためでなくて、国語勉強することで自分のいいたいことを他者に伝えられるに十分な技術は得られるようにすべきだと、最低でも。

2011-03-17

http://anond.hatelabo.jp/20110317220659

ご本人が書いたのかどうかわからんけど、じっくりかみしめたい祝辞だなあと思った。

でも、これが卒業式の場でスピーチされただけだったら、その場で、一瞬で忘れちゃったかもしれない。

こういう教育者現場教員だったときにどんな指導されてたのか教わってみたいな。

一方で、卒業式というイベントがあることによって改めて節目を迎える実感というか覚悟がわくという式典なりの役割もあるだろうから

中止で残念に思ったり、直接被災したわけではなくても普通の修了が迎えられないショックになるであろう学生の気持ちも自分は否定できないな。

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