はてなキーワード: 教育者とは
子供を認可保育園に預けててよく園長をみかけるけど、付加価値の低い仕事ではなさそうだったよ。
(園長っていうと、私立幼稚園の園長みたいに園長室でふんぞりかえってるイメージがあったけど全然違った)
保育士達の上長でもあるみたいなので、現場レベルの調整をしつつ組織の長としての立ち回り、
安全面とかプライバシーとか一歩間違うと取り返しのつかない厄介な領域では常に正しい判断を求められ、
教育者として保育士、保護者を納得させるだけの「言葉」を持っていないと務まらない感じだったかな。
まあ、民間の感覚と比べるとちょっと高いよねー
ちなみに個人的には2000万貰ってもやりたくない。
科学信奉者への反感
http://news.livedoor.com/article/detail/5136929/
を読んで、雑感。
私自身は科学を盲信しているつもりもないし、信用していないつもりもない。
科学という方法で得られた結果に対して、ある程度の信頼をおけるという立場である。
盲信している科学者を見ると、科学者であっても科学のことは何も知らないんだなと感じる。
逆に反発している人もいる。
なぜ反発するかについて深く考えたことがなかったので、ちょっと考えてみることにする。
科学信奉者は「証明されたから正しい」「実証されたから正しい」と言う。しかしその実は学界の権威が言っていることを正しいとしているに過ぎない。
この意見は全く正しいが、その「科学信奉者」は科学をよく理解していないのであって、科学そのものに反発する理由にはまったくならない。
しかし残念ながらその「科学信奉者」はかなりの数、存在して、一流の科学者の中にも存在する。
「一流の科学者だからといって、科学について正しい知識があるわけではない。」
このことが良く理解されていないのは残念だと思う。
次に相手への無理解などコンプレックスを刺激することもある。
科学信奉者は「月面は真空であり、無風である」と言う。しかし「月面に行ったとされるアメリカの宇宙飛行士の写真では星条旗がはためいているのはなぜか」いう質問には答えようとしない。そこから生じる「あの写真は、本当は月面ではなく、地球上のどこかで撮影されたものではないか」という疑問に対しては、根拠のない妄想と頭から否定する。
一番のポイントは、「頭から否定する」というところだろう。
科学信奉者の視野の狭さを露呈する事実という見方もできるだろうが、ここではコンプレックスという切り口で理解を試みてみる。
何か理由があって科学的に完全に間違いと言うことができる場合もある。
その場合、「間違い」とだけ結論づけると、聞く人は自分の考えを否定されたように思う。
本来ならば、相手にも分かるように説明してあげなければならないだろう。
相手に分からせるというのが難しい場合もあるが、その場合でも、頭ごなしに否定するのは良くない。
「一流の科学者だからといって、一流の教育者であるわけではない。」
このような頭ごなしの否定は、このようは科学への反発を生む。
これは科学者の説明が下手だったからであり、科学者の責任なのではないだろうか。
例えば、
と断言しているが、なぜ断言できるのか?
かりにはためいていたとして、「地球上のどこか」という説明以外の説明はないのか?
「こうであって欲しい。」という思いが科学によって否定されることを好まない人がいるのも事実だろう。
「それは科学的に不可能です。」という言明が受け入れられない人が一定数いるのも分かる気がする。
対象が科学でなくても、自分が納得できないことを受け入れられないのは子供だろう。
「妻が死んだ」という事実が受け入れられない夫に似ている。
そう言う意味では、これは科学の問題と言うよりは教育の問題の気もする。
ただ、「科学の説明」という側面もあるだろう。
こういうところにも、「あこがれを否定された悔しさ」がにじみでいるような気がするのは僕だけだろうか。
また事実、多くの事件などの負の側面もある。
まず、失敗というものは絶対に避けることができないものだ。
減らさなければならないのは当然だが、失敗なしに発展はありえない。
発展と失敗を天秤にかけて判断する必要があろう。
だから「失敗したから良くない」とは言えない。
もしそのように言いたいなら、一切の科学技術による恩恵を捨ててからでなければならない。
ただ、科学に対する慢心という側面があることは否定できない。
自分で安全に扱える範囲で取り扱う必要がある。
しかし、得てして自惚れというものは恐ろしく、私なら安全に扱えると思ってしまうことがある。
しかもこれは科学だけのことではない。
お金にしても、権力にしても、人は何かを手に入れるとそれにおぼれる。
そうならないように厳しい監視の目が必要である。
この部分について、我々は整備が進んでいないように思う。
現在、研究で得られた成果は基本的に雑誌という形で一般に公開される。
この在り方は、もしかしたら見直す必要があるのかもしれない。
研究や発明から重大な副作用が生じても「私の仕事は発明とその実用化まで。発明品の使い方を誤る人がいても、それは私の責任じゃない」と責任転嫁する。
では、それを「買った人」に責任はないのか。
「欲しい」と言った人は、「本当に安全か」を確認したのか?
「必要は発明の母」と言われるように、要望がなければ科学は発達しない。
要望は、場合によっては単に「知りたい」という欲求であったりもする。
そして、その要望に対して、成果が常に求められ、競争している。
最終的な責任まで確認できるほどの余裕がない。
(もちろん、事柄によってはそのような重大な副作用が生じないかどうかきちんと確認しているものもある。)
そのような状況は一体誰が作っているのか?
「科学者」が信用できないから「科学」が信用されないのである。
科学に対して反発する人を見て、科学のことをよく分かっていないとバカにすることもできよう。
しかし一方でそのような態度がコンプレックスを刺激し、ますます反発を強めることになる。
そしてそのことは科学者の待遇を悪くすることにもつながってしまう。
科学者はいかにあるべきか。
モンスターチルドレンの項目をWikipediaで見たときに思ったものである。
近年では、校内暴力や校内でのいじめ問題等に悩まされた世代が、教師に対して、偏見や差別を持つ親が増加しており、地域社会に大きな影を落としている。
なるほどな。と思った。
つまり教師の因果応報の結果だったのだと。
私は教師から死ぬよう強制された過去がある。
昭和の教師は体罰上等で職権乱用は日常茶飯事であった。(と私は記憶している)
いじめられたものにも問題がある
確かに50%強はそうかもしれない。
しかしながら
こんな子供本人ではどうしようもない理由でも苛められ、時には教師先導で行われたのである。
しかもこのような立場の子供がもし「転校したい」と訴えても親は聞き入れちゃくれないのである。
場合によっては親すら教師の味方なのである。
そうなると子供は何を学ぶだろうか?
答えは簡単である
悲しいことだが教育者自身が起こした結果なのである。
モンスターペアレント本人と戦うのではなく、心の中で他の教職に就いた者の過ちを教職者が認め、そして繰り返さないと誓うこと。
教師不信の末路がモンスターペアレント・モンスターチルドレンならば教職免許を持つもの、もって教職に従事した過去があるもの達は反省しなければならないと思う。
教職者と言う肩書きを犯した罪を。
モンスターペアレントとの戦いは個人ではなく
モンスターペアレントの向こうにある「教職の罪」との戦いなのではないかって思う。
モンスターペアレント本人の悲しみや苛立ち、怒りを包み込めるそんな空気を教職者がまとえばきっと変わるのではないかと思う。
何故他の教職者の罪を認めなくちゃならないのだと思うかもしれない。
子供を死なせるために遊びに行くなどというような世間体から逸脱した行為をできたというのは、合理的に考えれば親が原因。
親が教育者らしいが、おそらく育児に関しては素人以下だったのだろう。
断言するが、こういうネグレクト親や小学生殺しの宅間、秋葉原トラックひき逃げの加藤、地下鉄サリンのオウム信者
もしこいつらが俺の家に生まれて俺の親に育てられたら、100%犯罪なんてやれてない。
「この親が悲しむことは絶対ない」という意識が自然に生まれるような育て方をされてきた。
俺が何をしてもしなくてもいつもどこかで生温かい気持ちで見張ってくれている。
だから俺は親に苦労かけないように、家から出ずに親と対話する毎日を過ごしている。
下村早苗容疑者、どうして実家に頼らんかったんかなーと疑問に思ってたところ、なんと親父さんは地元四日市の有名人、花園常連校である四日市農芸高校のラグビー部監督・大介氏(49)なんだってね。27年の勤務の間に、花園出場15回、東海大会で三重県勢として初めて優勝、何より、あまりレベルが高いと言えない、これといった目玉のない学校で、ラグビー初心者を一から鍛える熱血指導で、県下有数の強豪校を作り上げた手腕で、地元では教育者の鑑のようにみなされているらしい。
で、ここまではオープンな情報で、このあとは真偽怪しい情報。でも信ぴょう性はそれなり。
容疑者のお母さんはどうしたんかな、と思ったら、大介氏は二度離婚しているとか。一番目の奥さんは、長女の早苗容疑者含め三姉妹の母親で、二番目の奥さんとの間には子供はいないらしい。3回目の結婚をしているのかどうかは不明。容疑者の母親(=最初の奥さん)が出て行った原因はDVとも。
そして、これがちょっと不確定情報なんだが、一番目の奥さんも二番目の奥さんも、ラグビー部のマネージャーだったとか。一応卒業後に正式に交際始めての結婚だったとしても、1982年か83年に勤め始めて、87年生まれの早苗容疑者を産ませたとしても、年齢的には辻褄は合う。
しかしこの状況では、実家は頼れんわなあ。「レベルの高くない学校でラグビーの熱血指導」って、要するに暴力指導だからねえ。家でもその調子だったんかなあ。厳格な教育者の表看板を持つ有名人の娘が風俗嬢やってるなんて言った日にゃあ、カミナリが落ちるだけで何の助けにもなりそうにない。
もし、DVで出て行ったとされる早苗容疑者の母親がラグビー部のマネージャーってのが本当だとしたら、オレと同世代やわ(オレは85年に高校卒44歳)。出て行ったあとは、連絡とってなかったんかなあ。その時は早苗はまだ幼かったんかなあ。とはいえ母親の方も、高校出たてで世間も知らずに教師と結婚して、DVで離婚して出て行ったとしたら、今頼られても自分が生きていくのに精一杯で、孫の面倒まで見れんわなあ。あるいは再婚して別の家庭を築いているのか。
早苗は元夫と別れるとき、なんで自分で親権とったんかなあ。自分が母親と離れ離れになったのが辛かったんで、意地になって親権取ったんかなあ。元夫の母親は亡くなった孫たちの面倒をよく見てたみたいだし、離婚後も面倒みる覚悟があったっぽいから、早苗はそれなりに意思を示さないと親権は取れなかったはず。(まあ、示すだけでいいんだけどね、実際) 離婚後母子だけで暮らし始めて、自分ひとりでは育てられないとの自覚があれば、拘りを捨てて親権を元夫に返上するだけでよかったんだけどねえ。判断を鈍らせたのは、父親との確執か、あるいは、離婚時の言い争いの内容か。
一番頼りにすべき人(この場合は本人の父親、または元夫)との間にイザコザを残すと、人生のピンチのときに、ドツボにはまるっちゅうことやね。
追記
上を書き込んだあと、2ch のラグビー板見てたんだが、早苗の母親を直に知っていると称する人が数人、書き込みをしていた。ラグビー部マネージャーではなかったが、85年卒業の大介氏の教え子らしい。息子が欲しかった大介氏に、「女腹」と責められ殴る蹴るの暴行を受けたんだとか。家を出たのは早苗が小学校低学年のとき、今はおそらく再婚しているようで、早苗にとっては頼れんかったんだろうなあ。
で、大介氏は昨年3回目の結婚、お相手は卒業したてのラグビー部マネージャー! 自分の年下の後妻なんかがおりゃあ頼れんわなあ。
40代の高校教諭。英語を教えて25年になります。自分で言うのも何ですが、学校内で評価され。それなりの管理的立場にもつき、生徒にも人気があります。
でも、5年に1度くらい、自分でもコントロールできなくなるくらい没入してしまう女子生徒が出現するんです。
今がそうなんです。相手は17歳の高校2年生で、授業中に自然に振る舞おうとすればするほど、その子の顔をちらちら見てしまいます。
その子には下心を見透かされているようでもあり、私を見る表情が色っぽくてびっくりしたりもします。
自己嫌悪に陥っています。
もちろん、自制心はあるし、家庭も大事なので、自分が何か具体的な行動に出ることはないという自信はありますが、自宅でもその子のことばかり考え、落ち着きません。
数年前には、当時好きだった生徒が、卒業後に他県で水商売をしているとのうわさを聞き、ネットで店を探しました。
自分にあきれながら、実際にその街まで足を運びましたが、結局店は見つかりませんでした。見つけていたら、きっと会いに行っていたでしょう。
教育者としてダメだと思いますが、情動を抑えられません。どうしたらいいのでしょうか。
が、この会社は安月給だったので、どんなに切り詰めても、1日2食しか飯が喰えなかった。
北海道・東北への出張を命じられると、旅費の半分は親から送ってもらえと言われた。
仕方がないので、高利貸から金を借りて行っていた。生まれて初めて貧乏を経験した。2年半で辞めた。
次に勤めたのは総会屋の会社だった。金を大企業から脅し取るのである。高給だったが、2年半で辞めた。
30代の8年間は月給2万円で、料理場の下働きをしていた。
この間に人の嫁はんに次々に誘われ、姦通事件を3遍起こし、人生とは何か、金とは何か、ということがよくよく分かった。
人は普通、自分が人間に生まれたことを取り返しのつかない不幸だとは思うてません。
しかし私は不幸なことだと考えています。あなたの場合、まだ人生が始まっていないのです。
世の多くの人は、自分の生はこの世に誕生した時に始まった、と考えていますが、実はそうではありません。
従って破綻なく一生を終える人は、せっかく人間に生まれてきながら、人生の本当の味わいを知らずに終わってしまいます。気の毒なことです。
破綻して、職業も名誉も家庭も失ったとき、はじめて人間とは何かということが見えるのです。
あなたは高校の教師だそうですが、好きになった女生徒と出来てしまえば、それでよいのです。
そうすると、はじめて人間の生とは何かということが見え、この世の本当の姿が見えるのです。
せっかく人間に生まれてきながら、人間とは何かということを知らずに、生が終わってしまうのは実に味気ないことです。
そういう人間が世の9割です。
私はいま作家としてこの世を生きていますが、人間とは何か、ということが少し分かり掛けたのは、31歳で無一物になった時です。
世の人はみな私のことを阿呆だとあざ笑いました。
でも、阿呆ほど気の楽なことはなく、人間とは何か、ということもよく見えるようになりました。
阿呆になることが一番よいのです。あなたは小利口な人です。
うーーん、正直メンドイし答える義務も無いけど、レスしてみる。
……「逆効果」って、何がですか?
あなたは彼のあの血を吐くような文章が、
血を吐くような文章だから何?
誰かがロリをカミングアウトしたら、今まさにロリコンは異常だ規制しろって奴らが涙を流して改心してくれるとでも?
そんなわきゃないだろ。
あれ見て「ほらやっぱりオタクは、助けを求めて逃げ込んできた8歳女児にすら欲情するんだ、ロリコンは危険!」て印象持つ奴がいてもおかしくないし、一部の何が何でもロリコン規制したい層にとっては「それ見た事か」と規制推進の口実を与える事にもなりかねない。
だから俺は逆効果という言葉を使った訳で。腹立てるのは勝手だけどさ。
「安全性をアピールしろ?」
あなたは自分を「安全」だと思いこんで信じ込んで疑いもしないのですか。
G.A.W.さんのように、自らの闇にとことん向き合い、断罪した経験が一度もないのですか。
そうしようと思ったことすらないのですか。自分の中にも闇があることに気付こうともしないのですか。
なぜそんなにも自分だけは絶対に安全だと、穢れることない清潔な存在だと安易に信じていられるのですか。
ごめん、この辺全く意味が分らない。
自分を安全と思ってなんかいないし、自らの闇(ロリペド性癖のこと?闇どころか、そんなのそこらじゅうにいるけど?)とその断罪(自己嫌悪かな。断罪ってほど重く考えたことは無いや。たんなるチンコの問題かと)については、それこそ事あるごとにしてる。
つーか、子供が生まれたのに俺って・・・とか、チンコ握りつつオッサンが鬱になってる日常があるとして、そんなのをいちいち心の闇とか断罪なんて呼んで血反吐吐くような悩み方するほどの気力はは無い訳で。
別に、穢れたんならその右手をティッシュで拭けば終いじゃね?とも思う。
あなたの娘さんだっていつ何時、どうしようもない「危険」にさらされることもあり得るんですよ。
うん、それはそうだろうな。
G.A.W.さんを安易に切断したのと同じように
「穢れた」娘を切断したりしないと、
絶対にそんなことなどしないと云いきれますか?
「できるとも、当然じゃないか」と口先で云うことは簡単でしょう
まだ何も起きていない「安全」で「清潔」な状態ならば、仮定の話はいくらでも可能でしょう
できるとも、当然じゃないか。
だって、穢れなんて思ってもないし、そんなのは洗い流せば済む話で。
カジュアルにエロを穢れとか表現する奴の方がよっぽど信用できないけどね。
つーか、この穢れた娘を「切断」(意味不明。なにそれ。拒否するってこと?普通の言葉使おうよ)してしまう、って思ってるのはあなた自身じゃないの?
心のどこかで、そう思ってるから「穢れ」なんて使うんだよね?
あなたが本当に恐れて憤ってるのは、ポルノを許容できてない自分自身に対してなんじゃないの?
でも、もっと、本気で、真剣に、そういうことを考えてください。
もっともっと自分の中の闇に向き合ってください。お願いですから。
やなこった。メンドクセー。
穢れとか心の闇とか、そんなのに向き合って心の奥底からトラウマまみれの武器なんか引っ張りださなくてもいいんじゃね。
親がやるべきは、
ポルノを心の闇なんて風に思わず、誰にも普通にあるものとして受け止める事。
それを子供に隠さず伝える事。
あと、なんか汚れたら洗えばいいって事。気楽にね。
だから、武器なんかいらない。
・・・ところで、エロ表現が(適切に)規制されたせいで子供が受ける被害ってなんだよ。
仮に傷ついたとしても、ほかの事で心を豊かにしてやれば済むんじゃないの?
一緒に遊ぶとかご飯食べるとか映画見るとかさ。いくらでも補完できるでしょ。
そもそも俺は規制推進派じゃないよ。
ただでさえロリコンは黒に近いグレー域に生息するマイノリティなんだから、せめて自主規制してこれ以上世論を悪化させないようにしとけ。
前に出るなら自分たちが社会にとって有害ではない事を示せ。居場所は自分で作れ。
ってスタンス。
そこをあなたが脳内補完するのは勝手だけど、なんか方向性違ってね?
なんかイマイチだなぁ。
元の文章がアレだから、言いたい事がまとまらないや。
ところで、さっき思いついて自分でも良く分らない事があるんだけど、誰でもいいから答えてくれるとうれしい。
さて、
ある一人の権力者が、自分が嫌いだと言う感情論でポルノ表現を規制した・・・それは独裁者のエゴだ。許さないよね。
ある特定の組織が、自分たちが嫌いだと言う感情論でポルノ表現を規制した・・・それは検閲だ。これも許さないよね。
ここまではOK。
では、
その国の過半数が、自分たちが嫌いだと言う感情論でポルノ表現を規制したら・・・?
これは検閲ですか?許さないですか?
もしこれを許さないなら、民主主義って何ですか?
国の半分が嫌うような趣味を持つ人は、規制されたら差別と言いますか?
それでも表現の自由のために戦うんですか?
今の野放図な状況が続けば、世の中は「子供を守れ」という誰も否定しえないスローガンに基づいて
「2次ロリを嗜好するオタク=キモい、危険、怖い」→「だから、規制し排除しろ」
という方向に進むでしょう。
2次ロリは排除しろという、社会的コンセンサスが出来上がってからでは遅いんですよ。
そのへん、オタクらは理解してますか?
だから俺は聞いたんです。
なんでオタクは自分達の安全性をアピールしないの?馬鹿なの?死ぬの
と。
>大学卒業する子どもの居る親が、よりにもよって増田でこんな馬鹿丸出しな文章を書いていることがショックだ。
解る。ほんと解る。キミがいくつか知らないけど、きっとキミと同じような気持ちになった事が俺にもある。もう16年くらい前だと思う。
当時、自分は22歳。インターネットはまだ一般人には始まったばかりというかほとんど関心も持たれていなかった時代。bekkoameがサービス開始するちょっと前あたりだったかなあ??
ニフティでパソコン通信サービスでよく遊んでた。掲示板みたいな所でいろんな人と意見を交わしたり、オフ会なんかにも出て遊んでた。自分が最年少のことが多かった。こんなに大人がたくさんいるのにバカ丸出しな人間がとても多いと思った。なんだこのクソ共はと思った。オッサン同士で女の取り合いしたり、くだらない意見の食い違いで殴り合いしたりとか、おいおいお前ら、いったいいくつなんだよと思った。しかも、それなりに立派な会社勤務だったり、教育者だったりもした。ホント呆れてた。子供が何人もいる家族の父親であるはずなのに、考えている事や趣味嗜好は二十歳そこそこの俺とさして違いは無いと感じた。むしろ自分以下の連中が多いと感じた。
で、自分がそういう年齢に達して、それなりの社会的地位や収入、家族を持つようになってるんだけど、今思えば、当時バカにしてたおっさん連中とさして変わらんw いくらか程度はマシなんじゃないかと思うけど、ほとんど変わらない気がしている。なんかそういう自意識は20代前半あたりが一番膨らんでいた気がする。自分がそうだっただけで、キミがそういう下らない若者だとは思わないけどね。
成人式あたりに「なんだか俺って中学生の頃からそんなに進化してないんじゃね?それなりに大人になったが基本的にはさして変化してねえ」と思った。でも就職したり結婚したり子供が育っていっておっさんになっていけばいろいろ変わっていくと思っていた。
いざ38歳のおっさんになって振り返ってみる機会が、今回、出来たんだけど、基本的には変わってないというのが解った。それなりに成長しているし、やれることも増えたし、右往左往する事も無くなったけど、自分の中の半分は変化していないと思っている。
10年後20年後の自分がバカ丸出しでもショックを受けないであろう自分にちょっとショックを受けた。
何言ってんのか自分でもワガンネ
気がついたら、アフリカがあつい。一時、アフリカに滞在していた身としてはどうにもスルーできない言説が多いので、ここに少し考えを。
アフリカの問題はとても複雑でシビアです。特に日本人にはよくわからないことだらけ。国際協力関連で3年ぐらい彼の地で生活をしていましたが結局よくわからないまま、未だに理解できないことも多いです。知らないことに関しては口を出さない方が良いと思うのだけど、やはり生活していた土地に愛着もあり、この思いを伝えたいとも思ったので、長文になりますが興味のある方には読んで戴きたいです。
まず、ちきりんさんのこのエントリーは読んでいて悲しくなりました。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100207
よくわからないけどただこれだけはわかった、といって再植民地化が良いのじゃないかなあ、なんて暴力的すぎるんじゃないかな。アフリカの開発支援に関わった人がもしこのエントリーを読んだら、多くの人は悲しみや怒りを感じたりするのではないかと思いました。
そしてこのエントリ。
アフリカ大陸在住中 : http://anond.hatelabo.jp/20100209065146
この方は西アフリカ方面にいらっしゃるのかな?そう思ったのもヨーロッパという言葉がとても多く出てきたからだけなのですが、宗主国を限定されないようそういっただけなのかもしれません。自分がいた南部アフリカとは違う感じもありますが、通じるところもとてもあります。とても共感できました。
増田さんも仰ってますがアフリカと一言で言っても国や地域によって気候も言語も文化も種族も宗教も政治も経済も何もかもが異なります。この点については日本人感覚からは最も離れている、アフリカの現実の一つだと思います。アフリカ大陸の国や人々を一括りでアフリカと呼ぶことは、私たちが一括りでアジア扱いされるのと同じくらい乱暴なことかもしれません。私が関わっていた国には民族が2,3しかない国もあれば、100近くある国もありました。後者には公用語だけで10近い言語あり、同じ村にいるのに部族が違い、間に翻訳できる人が立たないと話し合いがスムーズに進まない場面に出会うこともあり、外部の人間としては国と呼ぶのも躊躇してしまうくらいでした。
そうした彼らですが、欧米先進国や日本、そして中国に対する考えや感情は一筋縄ではいかないとても複雑なものを持っていると思います。というのも、彼らの多くはこんな風に思っているように感じたからです。今現在生活できているのは多くがODAなどの開発援助や外国資本のサービスや製造品のおかげだ、だけどそのせいで国の一部の権力者や有力者が私腹を肥やしているのを知っている、でも彼らは独立の英雄だ彼らはすばらしい、だけど自分たちが貧しいまま生活しなければいけない、だから、おまえら外国人がもっとカネやモノを俺たちにくれればいいんじゃね。
そして、こちらのエントリーについてです。
「発展」と「アフリカ」 : http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20100208/p1
難しいこともいろいろいわれていて、よくわからない点もありますが、結論はおおむね賛同いたしました。
自分もそうですが、本当に私たち日本人はアフリカの問題についてよくわかっていないと思います。アフリカ大陸の歴史背景や今おかれている政治力学、そして国際開発・援助ビジネス。当然それらのことは今の私たちにとって無関心な事柄でしょう。しかしそれは同時に多くのアフリカの人々にとっても、理解しがたいものであるようにも思えます。
私は某セクターで日本などからODAで落ちてきたお金を有効に活用するため、現地組織に入り込んで様々なプログラムの支援を技術的に行っていました。多くの貧しい人たちとも関わってきましたが、現地のプログラムコーディネーターやその上司のマネージャーやディレクターなどとも関わってきました。彼らの中で政府組織に属しているぐらいの立場の人は多くが代々の権力者であったり、裕福でコネがあったりとった特権階級に近い人たちでした。ただ単に政治家的にその地位にいる人もいれば、本当に優秀で頭の回転も速く常識もあり、その地域と国の未来を考えて行動している人もいました。しかし彼らと話し一様に驚き残念に思ったのは、そうした人を動かす立場と責任にある人でさえ、まずお金が外国から貰えることが当然だと考えていることでした。そして、その支援国や団体のいうなりのままだということでした。しかしそのことについて、支援する側の人間が彼らを非難できないとも思いました。
例えば、その地域の人たちに有効にサービスを提供するためどうしたらよいか、現地スタッフは様々な議論や調整をして企画を立てます。しかし、支援者はその支援理由や報告責任やさまざまな政治性やビジネスなどが関わって、現地スタッフの企画をそのまま受け入れることができないケースが多々あります。そしてその支援団体がそのような活動にお金をだせないといったらそこで支援は打ち切りです。サービスを提供できないだけでありません。彼らの給料さえなくなってしまいます。なので現地スタッフは当然いわれるがままになります。そういうことが何十年と続くうちに、自発的に地域や住民のことを考えて意見を押し通すような気概のなるエリートは段々少なくなってゆくでしょう。どうしても「支援する・される」という一方的な力関係が開発支援には生まれてしまい、現地の人々の自助努力が生まれがたい土壌になっていることは否定できないと思います。
そういう反省を含め開発支援業界自体も、「持続性」というキーワードの下、非支援国の自発的な活動を助長するような支援ができるよう工夫し続けています。しかし、持続性が形成されるためには社会の様々なセクターが有機的に関係し合いよい影響を与えあう必要がありますが、実際そうした広い視野を持って支援することはとても難しいのが現状です。例えば、田舎に学校を建てるということは、その地位の子供に教育を施すだけではなく、同時に教育者を育成するということでもあり、教育教材を作るということでもあり、教育そのものの内容を作るということでもあります。しかし、そのような広い視野での支援体制を長い時間をかけてじっくり進めるプロジェクトが始まったとして、果たして成功するのでしょうか。教育という国の根幹に関わるようなことに対して、じっくりと腰を据えて政治的にも経済的にも向き合っていける支援者が存在するでしょうか。私の想像する限りでは、存在するようには思えません。
まず、ODAなどは税金ですし、NPOやNGO、企業であっても、支援する側はその活動内容をきちんと報告しなければなりませんし、成果と結果が必要になってきます。なのであまりに大規模な支援はその先行きが読めない分、そのようなプロジェクト自体成立しがたいでしょう。また、以前に比べればあからさまではなくなってきましたが、支援側も多かれ少なかれ見返りというか利益を計算して支援しているところがあります。ODAであっても、その国の開発支援団体にその予算の一部が当然ゆきますし、都市インフラであれば自国に関わる土建屋や製造関係へお金が落ちるようになっていたり、保健セクターであれば薬剤などを通して自国の製薬会社にお金が回るでしょう。また被支援国の資源に関わる利権を求めるケースもあるでしょう。また専門分野の人材開発や研究などもそうした特殊地域でなければできないことも多々あると思います。そうした開発支援にかかわる政治性やビジネスがあっての支援でもありますので、あまりに大規模な支援はマネージメントしづらいので、やはり成立しにくいでしょう。
結局、アフリカの人々はそうした先進国の支援に振り回され続けているというのが現状なのではないでしょうか。なぜ今、自分たちが支援を受けているかといえば、かつて植民地化され支配された代償だというでしょう。代償なのだから貰って当たり前、求めて当たり前です。今まで奪う立場だったものが、与える立場になっただけ。今まで奪われる立場だった者が与えられる立場になっただけ。なのに、貰うばかり、ほしがるばかりで働かない、自発的に国が機能しないと責められても、自分たちが作った国でもないのになぜそんなことをいわれればいけないのか、彼らにはよくわからないのではないでしょうか。そもそも独立したときに勝ち取った国は彼らにとって必要なものだったのでしょうか。そしていま、代償として先進国のカネやモノをうけとっていますが、実際彼らは何を失ったのでしょうか。そしてそれは私たちが代償として払わなければいけないモノなのでしょうか。正直わからないことだらけです。アフリカの様々な地域の人々のそれぞれがそれぞれに、様々なことを思っているというのが現状なのではないかと今は思っています。
先日、島田紳助さんが司会をする番組で外務省を辞めNGOをたちあげ、スーダンへ渡り、現地で医療を施している川原さんという方が紹介されました。島田紳助さんのボランティアや支援に対する熱い思いが放送され続ける中、川原さんが二つとても心に残ることを仰いました。一つは治療などを現地の人にしても必ずお金を取ること。二つ目は正直むかつくことも多いけど、ここには小さいけれど未来を照らす明るさのようなものがあるということ。曖昧ですが、そのようなことだったと記憶しています。
長く紛争の続いたスーダンは未だに危険な地域と聞いています。そのようなとても限界度の高い地域にいても、医療サービスに対してきちんとお金を取るという根本的なことをやり続けることはとても大変だと思います。しかし、支援という名の下にモノとカネを垂れ流すことの無意味さ空しさを理解しているからだと思いますし、現地の人ひとりひとりと対等に向き合っているからだと思いました。払う払うといって逃げ続ける人、借金を踏み倒す人、そんな人もたくさんいるかもしれません。それでも、川原さんがそんな人々に未来を見いだしてしまうのは、なぜでしょうか。アフリカに限らず、東南アジアや太平洋州、南米などの貧しく何もないけど、ただただ自然はある、というような土地で暮らしたことがあるような方なら、具体的に思うところは違うかもしれませんが、この川原さんの言葉のいわんとするところはどこかわかるのではないでしょうか。
わたしの場合は、どんどん閉塞してゆく日本での生活を突き破り得るモノをアフリカで感じました。素朴さやふてぶてしさや狡賢さ、モノやお金や歴史なんてなくても何とかなるさ、生きていけるさ、死んだら死んだで悲しいけど仕方ないさと本気で思わせてしまう力。そうしたものを彼らから学びました。日本というか、先進国のフレームの内部でそんな意見をきいても単に痛い発言にしか聞こえないでしょう。でも仕方ないです。そう思ってしまったのだから。
最後にここまで読んで戴いた方に感謝します。そして、ここに述べたこともまた一増田の偏った意見でしかないと思ってください。まだまだ考慮しなければならない事や、語られなければならない事はたくさんあると思います。私が見てきたものもアフリカの一面でしかありません。そして結局のところ、世界がアフリカをアフリカという大きなフレームで見ている限りこの問題はどうにもならないと思います。なので、すこしでも彼の地に対する理解を深めてほしいと思い、自分の経験をこうして書きました。しかしやはり、狭い業界、特定されるのを避けるため、時や場所を明示せずに増田で語ったことを許してください。
アフリカでは今急激にインターネットインフラが整いつつあります。といってもまだまだISDNレベルの速度でも速いほうだし、利用できる人はアフリカ全体ではまだ1割もいないかもしれませんが、それでも彼ら自身の言葉がブログやソーシャルメディアを通して、彼ら自身の手によってどんどん世界に発信されていってます。私たちがインターネットを介して意識や社会が様々に変化していったように、彼らのそうした言葉を通してまた私たちと彼らの関係や、彼ら自身が変わってゆけば良いなと思うのはあまりに楽観的でしょうか。
昨年行われたらしい、
BPO青少年委員会公開シンポジウム「"デジタルネイティブ"がテレビを変える!」
http://www.bpo.gr.jp/youth/research/y_sympo09.html
個人的にテレビに対していろいろ思うところがあったところだったので興味深く見せてもらった。
・アンケート結果を受けての識者によるテレビのこれからについてのディスカッション
超ざっくりなディスカッションの内容は、「TV視聴時間は携帯等に時間を奪われているけど、情報発信の第一ソース、コミュニティの中心としてのTVは失われていないみたいだから頑張ろうぜ。」的な流れ。
最後に「テレビは今後変わっていくか?」のアンケート結果が「変わる」「変わらない」「どちらとも言えない」がきれいに3等分されたところで、これはTVのあり方が曲がり角であることの現れなので放送側の生き残りを模索していかなくてはいけないという締めだった。
・ディスカッションの構成がテレビ側の人、教育者の人、客観的な評論家(荻上チキ氏) といううまいバランスが取れていて見ていて気持ちよかった。
・メディアクリエイター(TV番組コンテンツ制作者)としてのTVと、居間にドンと構えられているハードとしてのTVを別けて討論されていない。
・録画メディア(HDレコーダー等)についてまったく触れられていなかった。
以下、個人的なTVへの思いなど。
というわけで、HDRはすごい便利なので持ってない人は損してるかもしれないですよ!
でも逆に見る番組が偏ってる僕の方が損してるかもしれない。
必要な教育は変わった。
みんな賢くなった。
□いまの子どもたち。
最近の人間に対して、昔みたいに「とりあえず失敗してもいいからやってみ」なんて言っても、それはあんまり「ため」にならない。
みんな自分には「人としての尊厳」があることや、予備知識も無くいきなり挑戦しても「失敗するだろうこと」を知っているから、信頼していない人間に「とりあえず失敗してもいいから」なんて言われても抵抗を感じる。最悪やる前から「やらない」ことを選択する。
これは「指導の失敗」。
□いまの大人たち。
昔はそんなことは無かった。
子どもは大人のいう事を聞いていれば良かったし、部下は上司のいう事を聞いていれば良かった。
自分に「権利」や「選択肢」があるなんて知らなかったから、「失敗を恐れる意味」もあまりなかった。
そんなふうに目上に従いながら、「失敗の繰り返し」を経験して「知識」を得てきた彼らは、後輩にも同じ方法を強く勧める。
「とりあえずやってみ」なんて。
□時代錯誤。
しかしすでに、「知識」の価値は暴落しているし、それを得る手法としての「経験」も、情報網の整備によって相対化され、その価値を軽んじられている。
ネットで「検索」すれば一瞬で出てくるような情報を、だれも苦労して手に入れたいとは思わないし、頭のなかにストックしておきたいとも思わなくなった。
だから自称教育者がいきなり「経験から学べ」などと言っても、そもそも「経験の有用性を学ぶ経験」をしていない人間には通用しない。
頭ごなしに「とりあえずやれ」ではもうダメで、あたらしい指導方法が必要になっている。
出来合いの目標(受験・スポーツ)を与え、問題と解答を与え、「とりあえず経験してみ」と押し付け続けている。
問題を与えるばかりで、答えの導き方は教えない。教えられない。
やり方は教えずに「とりあえず」みんなに「経験」させてみて、そこから正解に辿り着けた子は賢いから次の問題を与え、辿り着けなかった子は落ちこぼれ扱い。
投げっぱなしだ。
こんなものは教育とは言わない。
ただの「フィルター」にすぎない。
□必要なのは経験から学ぶ力。
飽きた。
本文が長くなってきたのでトラバへのお返事はこちらに。
http://anond.hatelabo.jp/20091101145215
小学校の頃のエピソードについては、はっきり言って女子の頭が悪いだけなんだが、馬鹿の馬鹿な反応に対して傷つかなければならんというのもこれまた馬鹿であることだなあ。
まあ今となっては笑い話なんだろうけどね?
http://anond.hatelabo.jp/20091101145858
まだ世間からの認識について知らない子供にそんな大人な対応はいきなり求めてもしょうがないでしょうが。そういう時こそ、笑い飛ばしてあげられる大人がそばにいることが大切だと思う。
いやー小学生なんてそんなもんですよ。例のエピソードは自分にとって象徴的だったから書いたけど、単にもっとひどいだけのエピソードなら他にもたくさん。今となっては笑い話というか、まぁ話すとしたら笑い話としてなんだけど、自分から話すことはほとんどないですね。
「笑い飛ばしてあげられる大人」ですが、学校だとやっぱり先生ですかね。理解のある先生が担任だと「障害者」って言い方はやっぱしなくて、クラスに対して「どういう症状があって、どういう協力が必要か」って話し方をしてくれて、そういう担任のクラスの時は比較的やりやすかったですね。ただ担任の人柄にものすごく依存するので……。いまは状況が改善してるんでしょうか?
ちなみに嫌だった担任は、はさみを忘れて学校に行ったとき、周りの生徒3、4人に交渉しても貸してもらえず(他の忘れた生徒はすんなり貸してもらえてた)、泣きながら先生に「みんな貸してくれません…」と言ったら「みんなって何?全員に訊いたわけじゃないでしょ!」と怒った先生。
そりゃはさみ忘れた私が悪いんですけどね。泣いてたのははさみが手に入らないからじゃなくて、疎外感だったのに。なにもその疎外感を刺激する言い方しなくってもねえ。
http://anond.hatelabo.jp/20091101145525
この点だけを考えるなら、障害者教育者は健常者と一緒に行った方が(健常者にとっては)良い教育となるのかもしれないけど、障害者の視点からはそう簡単な問題じゃないのはわかってるつもり。悩ましい。
他はほぼ同意見ですので、一部だけ。
私は普通学級でしたが、よかった点は、自称健常者たちの間での立ち回りを覚えられたこと。やだったことは、疎外感。特別学級とくらべてどっちがよかったかは、私にもわかりません。また、症状の様態、程度によって変わってくるでしょうから、やはり簡単には答えが出ない問題でしょうね。
何らかの総称で呼ぼうとすること自体が、障害者/健常者という二分論を産み、
総称で呼ばれる瞬間に、個が失われてステレオタイプや先入観で語られるようになってしまいますね。国民性をめぐる話に似てるかも。「○○人はみな××」の類い。
これを防ぐには、相手を「障害者のAさん」と認識する前に、ただ「Aさん」*1 と独立した個人と認識することなのだけど、そのためにはAさんを深く知らなければならない。けど障害者というのは性質上、少数派なので、誰しもが深く知り合いになれるわけではないからイメージが先行してしまうんでしょうね。
この点だけを考えるなら、障害者教育者は健常者と一緒に行った方が(健常者にとっては)良い教育となるのかもしれないけど、障害者の視点からはそう簡単な問題じゃないのはわかってるつもり。悩ましい。
読書うんぬんっていうより、
Did you know? 的な感覚を教育者や為政者が持っているかというところじゃないの?
http://longtailworld.blogspot.com/2009/08/did-you-know-30-2008-latest-edition.html
★大阪芋騒動まとめ。『9条の会のブサヨが子供の涙を利用して橋元叩き。』
・保育園側は、ただでさえとっくに所有権を失っている土地を無断で利用。
・保育園側は、3月には既に通告されたのに、5月に『わざわざ』芋を植えた。
・保育園には、別の畑が既にあるのに『わざわざ』工事予定地に芋を植えた。
・保育園側は、代執行の予定日を聞かされても子供に芋を掘らせず、芋を温存。
・ちなみに、大阪の芋掘りシーズンは既に終わっており、芋は十分に成長していた。
・保育園側は、代執行前日も畑で遊ぶ映像を取材させストーリー作り。芋は温存。
・保育園側は「今日芋掘りするんで一旦帰れ」と嘘ついて70人もの作業員を帰らせた。
→この嘘で、作業員の無駄足、人件費損、工期延長による損害。芋は掘らずに温存。
・ちなみに工事が2週間遅れると6~7億円の損が出てしまう。
・保育園側は、代執行の場でカメラの前で「子供を泣かして」武器にしたつもり。
→本当に子供を愛する教育者なら、代執行の現場に子供を連れて来るのは異常。
・代執行の途中で子供に芋を掘らせる案を、保育園の理事が拒否。子供を泣かす。
・保育園の理事の政治活動がおかしい。→9条の会のド左翼だった。
そこに関して言えば、種火を起して炎上させるのは、すべからく単なる暇人じゃなかろか。
それは、利害関係やら正義感やらではなくて、祭りや炎上そのものが目的であり、
私刑と言うよりも、遊んでるだけだと思われ。
で、炎上の過程で参加してくる人間が、叩く側と擁護の側に分かれるわけだが。
ここで叩く側の人ってのは、利害関係やら正義感やらの人ではなかろか。
そうして露出してしまうと、権利者側の人間としては開き直るわけにも行かず、
活動自粛やらなんやらの演出をしなきゃならなくなる。
それで飯食ってるんだし。
警官や教育者の違法行為が発覚した時に、通常はお咎め無しのような軽犯罪でも
遡及して追及され、自粛や処罰を求める空気が漂うのと一緒。
それの是非については、また別の議論があるだろうけれどね。