はてなキーワード: 不可能とは
「#駆け出しエンジニアと繋がりたい」というハッシュタグが詐欺に使われる日本に Hagex はいない。なぜなら、Hagex は殺されたからだ。
Hagex は天才だった。インターネット初期に技術を得て、しかも「ニヒルなやり方で、間違いを自覚させる」手法は天下一品だった。特に彼の「技術的なバックグラウンド」を持った上で、この手の「WordPressで一千万!」とかいう詐欺師の戯言を「テクニカルな背景と、類まれな文才」をもって否定できる人材は、令和の日本のインターネットにはいないようだ。
ひろゆきやホリエモン、山本一郎も才能はあるし、インターネットに詳しいという点では、ネットの評議者として認めてやってもよいかもしれないが、ただ「なんとなくテック業界で生きてきた」という感だけで物事を語るだけで、なんというか技術的な背景を持ってして「イケダハヤト」の理論的な矛盾点をつく、というネットの論客で Hagex を超えてきたやつはいない。
Hagex が生きていたら、きっとインフルエンサーの「WordPressでイッセンマンは堅いかなーと」という語調の裁判から逃げやすいポイントを見破って、「WordPressを編集できるエンジニアの年収は WebDesigning の統計から、だいたい400万ぐらいだけど?」とか返せたり、「SEOでイッセンマン」というマナブの主張も「2000年頃の過渡期の昔はともかく、SEOだけの専門会社があって、値段もこなれているのに頼む理由がない」現状を語れて、「Ruby の次は Scala だ」という勝又の嘘も「Scala ができるやつは SQLやTCP/IPにも精通しているから給料が高い」という合理的な説明もできちゃうだろうな、って思う。なぜ、Hagex は殺されないといけなかったのだ。
「罪を恨んで人を恨まない」と世界は言う。ただ、やっぱり代替不可能な人材はいて、Hagex という存在がいることで平成の末に「フリーランサーで年収一千万、それをプログラミングで」という【頭の弱い】ヤツが引っかかる嘘を「徹底的に茶化して」日本国に「騙されてエンジニアになる」というかわいそうなやつが消えてくれたのだ。たかだか、無料の Rails Tutorial モドキを一周して「年収一千万」になるなら、東大や東工大をでた連中が日夜 SIer で虐められて鬱になって自殺するわけ無いだろ。
頭の悪い KKO の俺だって、勝又が「ソシャゲバブルの果にグリーにいれなくなってきて、『ゆるふわエンジニア』なんて存在できないのに、Scala だ Go だ」と言って金をくすねているのは想像できる。マナブが「あの反社が多い界隈の広告業界の検索版がSEOで、タイにいないと命がヤバいくらいの主張をして、しかも間違っている」ということぐらいわかる。だけど、俺には「テクニカルに間違っていること」は理解できても、Hagex にできた「テクニカルな背景を持ってして、インフルエンサーをニヒルに否定して、バカ信者を改心する」なんていう高等スキルは持ち合わせなかった。残念なことに。
Hagex よ、令和にあなたがいないせいで、哀れな仔羊がインフルエンサーのカモにされています。人間だから、死という限界はある。だけれども、平成の末には「Hagex という抗生物質が存在」していて、しなくても良い犠牲が無かった、というのは Hagex さんの死があってはじめてわかったんだ。申し訳ない。
だから、私は匿名の「増田」でインフルエンサーを徹底的にこき下ろすと決めたのだ。この不退転の覚悟で、マナブや勝又といった、技術を間違って使う貴様らを Hagex の代わりに裁こうと私は思うのだ。金をとってカモを地獄に落とした貴様らの罪は大きい。覚悟しろよ。
90年代後半の、クリントン大統領が初期のインターネット整備を進めて、アメリカにケーブルテレビ網が発達して、CNNやニューヨークタイムズが台頭してきたころかな。
メディアの客観性ってものが改めて問い直されていた頃があった。
それまでの話では、「中立報道」というものが理想とされていたのを、辞めようかってなったわけ。
どんなに中立であろうとしても、角度がつくんだから、最初から「うちは角度がついてます」という前提を公表する。そして、アメリカのケーブルテレビみたいな多チャンネル化を前提に、好きなニュースを選んでください。
主体的にニュースを選ぶんんだから民衆にも良識が求められる。メディアリテラシーが大事ですよ、リテラシー教育に力を入れていこう。
そのほうが良いだろう、という話になった。
今のメディアはそれ前提にやってる。
だから角度のついてない中立報道なんてものはそもそも目指してない。
むしろいかにして望み通りの角度をつけるかみたいな話をしている。特にリベラルを自認メディアはそう。だってそういった話はリベラルが中心にやってたからね。
これは元増田の言う通り、俺も良くないと思うよ。
結局は中立報道をしないとさ、フェイクニュースとやってることが同じだし。
それにトランプ時代を踏まえてはっきりしたのは、メディアを住民が主体的に選択するってことは、住民の分断が進むってことだったんだよ。FOXとCNNがアメリカを分断したところは確実にあるわけ。
だから、これから、もう一回、原理原則に立ち戻って、中立報道をしろバカっていう理論をメディアにたたきつけないといけないんだと思うよ。前回が20年前だから、これから20年かけてやっていく話だけどね。
結論から言うと「人里離れた山か無人島で自給自足するしかない」という、よくある話になった。以下東日本基準で検討してみた詳細。
東京ガスがJOCオフィシャルパートナーにいるため、ガスが使えない。これは地味に痛く、ガスコンロ調理が出来ないだけでなく、タクシーが使えない、外食やスーパー銭湯の利用がほぼ不可能などのオプションもついてくる。
NTTがJOCゴールドパートナーにいるため固定電話はNG。携帯電話はドコモ以外なら問題ないと思われたが、KDDIは東京五輪で新規採用された「スポーツクライミング」の日本代表メインスポンサー(チーム名が「team au」)であるためNG。ソフトバンクも野球日本代表にソフトバンク所属選手(柳田など)がいるためNG。つまり携帯電話も全滅だ。
インターネットもNTT、KDDI、ソフトバンクがNGなため回線の選択肢がほとんどない。それ以前にCISCOがスポンサーにいるためネットに繋ぐという行為自体がNGである。
ちなみにインテルもスポンサーのためパソコンほぼ全滅、クラウドサービスほぼ全滅である。
車はまずトヨタがNG。五輪スポンサーからは降りてないからだ。また、日産とホンダもNG。日産は子会社に所属してる選手がサッカー日本代表に居り(前田大然選手)、ホンダも陸上などで選手を輩出しているからだ。日産がアウトなので自動的に三菱自動車もアウトになる。また、野球日本代表にもマツダ傘下(広島カープ)の選手がいるのでマツダもアウト。
電車はオフィシャルスポンサーのJRと東京メトロ、傘下のスカイツリーがスポンサーになっている東武鉄道が使用不可。また、選手村スポンサー(傘下のホテルを提供)である京急、東急、京王もアウト。従って首都圏では流山鉄道とか銚子電鉄くらいしか使えない。
バスは日野自動車がスポンサーにいることと三菱系が先述の理由でアウトなため、大半のバスが使えない。
まず醤油が使えないのが痛すぎる。醤油市場を寡占しているキッコーマンがオフィシャルスポンサーに居るからだ。また明治もスポンサーなので、菓子類の選択肢はかなり狭まる。味の素も使えないので、日々の食事は肉や魚を電子レンジで暖めて塩をかけて食べるという形になるだろう。またガスが使えないため米は炊けないので要注意。
冒頭の通りガスがNGなので通常の風呂には入れない。スーパー銭湯も行けない。どうしても風呂に入りたいなら、自前で薪と風呂釜を調達するしかない。
トイレはTOTOとリクシルがスポンサーにいるため、この二社を避けないといけない。自宅トイレは何とかなるだろうが、外出先ではトイレがほぼ使えない。外でもよおしたら立ちションか野糞するしかないのである。
不可能。ほとんどの会社のパソコンはintel入ってるだろうし、ほぼ全ての会社のLANはCISCOを使っている。つまり会社勤めは無理。インターネットが使えないので在宅勤務も不可である。
電気は使えるがガス利用不可、電車バス移動不可、勤務不可など多々制約があるので意味はなく、結局山か無人島で自給自足するしかない。
いまんとこ「新自由主義に対抗した全ての抵抗勢力は滅びた」という現実をもとに、「大きな政府・ケインジアン・人口増加」という『アンチ新自由主義』連呼くんが支持するロジックをクラッシュさせるがために努力してきた。今日も同じ方法で戦うのはしんどいので、こっち側から『アンチ新自由主義』連呼くんの琴線に触れそうなネタを提供して、議論していこうじゃないかと思う。
なんと言っても、今の政府は「大きな政府」をとると危険なの。1つはコストだ。アメリカのように「大きな政府」をやる連中ですら、トレード・オフで解雇規制を受け入れている。そのため、いちど採用すると解雇ができない日本にとっては、法律が基本となる労働の法律を改正する必要があるが、今はマスコミもうるさいので不可能だし、既得権益は拒否するだろう。もはや国土の開発が終えたこの国に、需要のない新規開発を公がする必要はないのです。そのため、「大きな政府」をやってもリターンを上げる領域が存在せず、人員を採用しても無駄になる。マルクスが「資本主義の果に」唯物論で解決できない問題があることに気がついたのは、正しいのです。ですが、問題は「唯物論」で実体経済は語れない、ということは当時の後進国のドイツ人同郷であったライプニッツが嘆いたように、先進国の人々は「後進国と同じことをしたら負ける」ということは既知の問題を『共産党宣言』で後進国民なら存続可能で教育可能な「エリート」という存在で勝てる、という妄信を先進国でも可能という認知誤認から起こりました。この欺瞞を暴いたのがハイエクであり、先進国においては「エリートは社会の負担を増やすだけ」という告発をする必要がありました。つまり、共産主義者なんて田舎のヤンキーのボスの「夜露死苦」というミームがクールだと思う馬鹿の集いだよ、って話だよ。
彼は資本主義社会においても「一定の規律をもったまま」に公共投資に投資するという方法を、世界恐慌のもとで実施可能だという主張を肯定することが可能だった瞬間があったから可能だったのよ。(若年層の犠牲を活用した)デフレは進むけど、(年齢階層がいびつなせいで票田にメリットがある)感覚としての経済が悪くなくて、下手に経済状況がインフレすると老人たちは生活が厳しくなるという現実を否定してまで、経済成長は必要かね?今の日本に投資されないのは、それなりにメリットがあるからだよ。それに GPIF という国家の投資機関は『現代ポートフォリオ理論』という金融工学の果てを知っていると、随分と日本へ投資してくれていると思うよ。もはや、我が国に「投資したら、こんだけ儲かるだろうなー」って場所が無い以上は、日本国には直接投資は不要です。海外に投資したほうが、本当にマシです。地方を切り捨てて、東京はシンガポール化したほうがもっと輝きますのに、大都市の資本はイオンは地方に投資してくれるので、地方民はイオンに感謝するし、地方が統一化するのを嘆くのは「東京人」の「理想の田舎」を押し付けているだけなので、差別の固定化を「アンチ新自由主義」でやることは、地方民からすると万死に値します。知っているかもだけど、地方自治体のモールは隣にイオンができると負けます。つまり、儲かる領域での役所の仕事なんて、令和の日本にはないんだよ。
という選択肢を、超賤民どもが単一人民として受け入れると権利団体になっちゃうという過去の嫌な例もあって、日本国民は「経団連の奥田」が発起したのを拒否したし、子どもの権利条約で批准された教育を受ける権利は否定できないし、金銭と労役の補助なんて都市部だとアホみたいにやっているのに増えないのだから、諦めるしかないんじゃないの?
昨日は「日本は人工肉がつくれなかった」という議論をして、一瞬「負けた」と思ったよ。だけど、「民間企業のキューピーが、模造卵を開発してコンビニが活用している」という事実を思い出したら、ますます公共投資が民間投資に負けている事例を見つけて、本当に嬉しかったよ。遊戯王世代なのはあたりだよ。今日も楽しくバトルしようね!俺のターンは終わり、つぎはアンチ新自由主義くんのターンだぞ。
東京ロックダウンとか戒厳令のように、強権的に行動制限するのが一番効果高いんだろうけど、憲法的/世論的に不可能でしょ?
それに、いまさら政府がめちゃくちゃ強いメッセージを発信したとして、すでにタガが外れた感のある国民たちに効果ある?
もしオリンピックを中止したとして、飲み歩いてる連中や、酒を出してるお店が自粛するとは思えないんだよね。
尾身さんが「行動制限に拠るのではなく科学技術で」とか言ってたけど、いま可能な科学的な対処ってワクチン以外にないでしょ?
ワクチンを輸入に頼ってる以上、日本政府がわーわー言ったところで供給が増えるわけではないし。
自分程度の脳味噌ではすでに詰みの状態だと思ってるんだけど、賢いはてなーなら現実的な対策を思いついていて、「あの方法があるのに……」とじれったい想いを抱えてるの?
感染対策を理由に五輪を中止しろという意見はとてもよくわかる。
しかしだからといって、感染状況を「戦争」に擬えて、戦時中のような緊急事態だから中止せよというのはよくないと思う。
これが感染症の拡大ではなく本当に戦争だとしたら、むしろ戦争側を中止して五輪を優先すべきである。五輪とは「そういう」ものなのだ。戦争中であっても戦争を中止してまで開く「平和の祭典」なのだ。
まるで戦争によって簡単になくなってしまうのが当然望ましいことのように五輪を表現するのは、五輪の精神の否定ではないか。
感染症というのは戦争のような「人為的」なものではなく、感染症側を中止することは不可能なのである。故に五輪を「感染対策」として中止すべきと導き出すべきだと思う。
もちろん平和の祭典という単語それ自体に嫌悪的な層とかもいるのだろうし、平和精神の否定を知らずにやってるのではない確信犯的な人も想像しないといけないのかもしれない。
しかし、だからこそせめて、平和と人権を重んじる人だけでも、戦争否定の精神を損なうような言い方をしないで欲しいと感じる。
感染症は感染症として問題とすれば良い。戦争に擬えるようばことをしなくても、十分感染症というだけで五輪を中止すべきという意見のためには十分ではないのだろうか。
日本人にグランドデザインとかコンセプトメイキングみたいなものは不可能なんだよ。そういう国ではない。大自然の理不尽な流れにただ身を任せたりうずくまって身を隠したりしながらやがて自然と行き着くところに行くだろうという世界観だから。人が作った構造たちを自らの手で調和させるのではなく、既にあるものに自分たちを調和させていくだけ。
考えていることを文字にするのは大切だとわかっているけど、自分で自分の思考が幼いとか、いわゆる中二病くさいとか、そういう恥ずかしさもあって、なかなか実行できないでいる。それでさらに心理的なストレスというか心理的な状況が悪化して、手がつけられないような状況になることを繰り返している。今も悪い。
外形的な環境は関係なく心理状態が悪いんだ、と自分で自分に言い聞かせているが、けっしてそんなことはないことは自分が一番良くわかっている。もし今とてもたくさんお金を稼いでいて、しかも人から尊敬されるようなことをしていたら、もし今文句のつけようのないような奥さんとか家族なんかがいて、幸せに暮らしていたら、自分の心は決してこのような文章を書くような状態には陥っていないと思う。
オリンピックを見ていても何をしていても、結局は現実逃避をしていて、その結果現実はさらに悪くなるということを何回も繰り返している。なんとかならないかなーと思いつつ、自分がアクションを起こさないことにはなんともならないことはよくわかっている。それができないでこの一年間、心は一時期に比べてストレスが少ない状態であったにもかかわらず、やはり一定のうつ状態からは抜け出せずにひたすら苦しんでいた。
人と会っていないし人の情報を得てもいないのに、嫉妬し、執着し、落ち込むことばかり繰り返していた。人と劣等感と優越感で勝負しても必ず負けて心がとんでもなく傷つく。そしてそれをわかっていながら何もできず、やはりうまく生きられない。
極度の人に対する気の遣いようというか、臆病さがあり、それによって配慮をすることで得をしてきた面ももちろんあるが、自分に余裕がない状況になるたびに人からの連絡を無視したり、不義理をしてすべき連絡をできなかったりという面で損のほうがよほど多い。もっとしぶとくならなければ生きていけないとわかっているが、自分の性質なのでなかなか治すことができない。
この世に対して深い恨み、無力感、絶望感を抱いているのに、死ぬこともしない。
死ぬことができないのには2つ理由があって、1つ目には家族が気の毒ということと、2つ目には一度自殺しようとしてできなかった経験から少し自分の自殺能力に疑問があること。自分が死んだあとには自分にとっての世界が存在しないから家族のことなんて考えても仕方ない、と頭ではわかっているが、やはり自分が死んだことを知らされる親、姉、祖父母、おばのことを考えると、さすがに申し訳ないと思ってしまい、極限のストレス状況ではない今の状況ではなかなか踏み切るところまでいかない。家族はみんな、自分が東京で出世することやお金持ちになることを望んでいるわけではなくて、単に元気で暮らしてくれたらいいと思っているだろう、ということもある。もし出世やお金持ちになることを希望しているのであれば、それは明らかに自分の能力では不可能なことなので自殺したほうがいいということになるが、そうではないのであれば、生きていたほうがいいということになる。自分としてはもちろん、生きていることそれ自体が本当につらく、耐え難い苦しみの連続でしかないので、死ぬほうが百倍楽なのだが。家族が、自分に対して元気に暮らしてくれればいいと期待すればするほど、自分は自殺に踏み切れず元気がなくなり、不幸が重なっていくという一種のパラドックスというか皮肉的状況にある。
常に強い劣等感に苛まれ、かつ何をしても絶対にうまくいくことはないという強力な固定観念があるので、生きることはただ辛い。どれだけ辛いかは本当に筆舌に尽くしがたい。生きているだけで、針の山を無理やり歩かされているような気持ちがする。自分としては、生きるのに向いていない遺伝子や個体というのもやはり一定割合のエラーの一つとして生物群の中に出てくることはまったく不自然ではないし、それが自然淘汰として自殺することも合理的と思う。それができないからつらいのだ。毎秒毎秒、塗炭の苦しみ。それも何にもつながらない苦しみだから余計に苦しいと感じる。何か成功に向けての苦痛とか終りが見えている苦痛ではなくて、ただ出口のない、無駄な、理解もされない苦痛。
高校のときに倫理の授業で「絶望は死に至る病」という本を習ったが、自分はそれを聞いて、机に落書きで「死に至らない病」と書いた。そうかんたんに死ねないから絶望というのは更に強いのだ。もし死ねるなら、絶望はそこまでひどくはない。元の本の趣旨は、絶望というのは人を死に追いやるほどの強力なもの、という意味が込められていると習った。しかし自分の感覚としては、死ねないからこそ絶望は更に深まり、もっと強力に襲ってくる。夜が明ける前が一番暗いし、日が沈む前が一番太陽が輝いているように、死を手前にしたところが一番しんどいのではないかと思う。勇気があって飛び込んでしまえる人はいい。その度胸もなく、かつ自分をうつ状態から引き戻す力もなく、絶望的なリンボーで永遠に苦しみ続ける感覚。それが16歳か17歳のときだっただろうから、少なくとも12,13年以上、自分は絶望にかこまれ、死ぬより苦しい思いを毎日、これでもかというほど味わって生きてきたことになる。もちろんそんなことは自分だけではないからそれを美化するつもりはない。また、幼い心で何か死ぬことを美化していたという面があったのか、と今振り返って反省してみるが、けっしてそんなことはなかった。死ぬことは当時から最悪の選択肢であり、人生における敗北であり、弱者の逃げでしかないことはよく理解していた。それでもなお、あまりに人生は辛く、とにかく敗北でも弱者でも逃げでもなんでもいいから死にたい。考えというよりも、感覚として死ぬことを求めている。のどが渇いたり、性欲がたかまったりするのと同じように、本当にもう無理でつらすぎるから死にたい、なんでもいいから死にたい、という強い希死念慮。それが間断なく、24時間365日襲ってくる。もしそれが抑うつ状態や軽度のうつ病の症状であったとするなら、12歳頃の子供の時から今まで、人生の大半、3分の2程度まではうつ状態であったということになる。自分としてはこれがうつ状態とは思っていない。それが平常。
主に外形的な要因で、時折、希死念慮が薄くなる躁状態のときがあったが、これがまともな人間の普通の状態にあたるのだと思う。自分にとってはそれは本当に数少ない異常状態で、絶対に長続きすることはなかった。神様が慌てて帳尻を合わせてきて、その小さな成功を取り消して、その後には2倍、3倍の失敗と苦しみを必ず与えてきた。
心の問題から離れて、外形的なほうで、なぜ人生は常にうまくいかないのかという点について。人生がうまくいきさえすれば、外形的になにもかもが思い通りに行けば、自分の心の問題はかんたんに解決すると思う。劣等感でひどく歪んだ性格や強い希死念慮、うつ状態が平常状態というおかしな心理的な特性を考えてもやはり、希死念慮に至るきっかけは常に外形的なことだったと思う。例えば部活でもっと活躍できれば、体育で体がもっと動けば、受験がもっとうまくいけば、就職が失敗しなければ、もっと女の子にモテていれば、もっと友人に恵まれていれば。外形的な、というのはそういうことを指している。
もともと自分は能力も低く、外面から見てもさほど恵まれていないし、それらを磨くという努力も怠ってきた。それが一つの原因としてなにもうまくいかない、という無力感や絶望感をコツコツと毎日休みなく蓄積してきた。そもそも自分は長期的な努力が苦手だ。かんたんに言えば怠惰だ。それにもともと持っている才能や外見やスキルもないから、当然うまくいくはずがない。世の中は持って生まれたもので勝負しないといけないという意味で公平で、結果においては公平公正ではないから、当然勝者は常に勝ち続け、敗者は常に負け続ける。有るところにはなんでもあるが、ないところには、本当に、徹頭徹尾、なにもない。本当に何もない。もちろんそれが世の中のあり方だし、みんなそれを前提に生きている。それに文句をつけるのは筋違いだ。
また、2つ目の理由として、何かしらの才能のかけらとか持って生まれたものがあって、そこの上にきちんと努力をして、成功確率を5割とか、ある程度のところまで高めても、運によってそれが左右されることももちろんわきまえている。運というのはなかなかくせもので、見た目上の確率が5割でも、実際には10割負け続ける、いわゆる持っていない人も世の中にはたくさんいる。そしてこれまでの人生から統計的に考えて、自分がその一人であることも疑いようがない。絶対に、何をしても、うまくいくことは有り得ない。少しでもうまくいきかけると、神様が慌ててやってきて失敗にする。それだけを繰り返してきた。でも、もちろんこれも同様に世のあり方だから、それに文句を言っても仕方ない。それはつまるところ天に唾するということであって、この世そのもの、というのは変えようがない。世の中すべて、というのはそれを感覚で捉え、見ている自分自身そのものだから、この世のあり方に文句をつけるのは自分の命に対して文句をつけるのと一緒。
そして自分は、何をしても、決してうまくいくことは絶対にない、ということを何度も味わった失敗からかんたんに学び取り、また世の中のあり方に文句をつけることは自分自身に対して文句をつけることと同じであることもまたかんたんに学び、その場合、死ぬことが唯一の正解だということも学んだ。死ぬことが一番の正解という考えに最終的に至ったのが16歳か17歳のときだったはず。その時の絶望は今でもよく覚えているし、また残念ながら今でも考えはなんら進歩しておらず、その後何回もの挫折や失敗を繰り返して、むしろ確信は深まっている。
死んだ人だけが良い人間で、生きている人間はみんなどこかおかしい。頭がとても悪いか、人のことをなんとも思っていないか、とにかく人の心を持っていない人間。本当に良い人間はみんな自殺してしまった。狂ったような響きだが本気でそう信じている。
自分のような人間は生きていても何も為すことはないのだから、さらっと死んでしまうのが一番なのだ。本生まれてきたのが不幸だったと割り切るしかない。なにかうまいことや響きのいい言葉を言おうという意図ではなく、本心から、生まれてきていいことは何一つなかった。
人生で得たもの。毎日のようにやってくる鈍くて絶対に消えない心理的苦痛と、死ぬことが唯一の解決なのに死ねない無力感、というか絶望感。
ベーカムは新自由主義の究極だぞ。ベーシックインカムは都市部にいたい人には地獄なんだよ。日本国民でいる以上は、同じ額が必要だろうが。例えば東京で生活したい生活保護の人なんかは、無理してでも東京に居座るだろ?そうしたら、ホームレスは溢れるに決まってるじゃん。それにバカだろ、デフレで若者が安くで働いてくれる状況が、インフレになったら不可能になって、ご老人共のプランが台無しだ。
日本の若者がデフレという方法で老人に搾取されているのであって、それは「選挙」という正しい手法で行われていて、しかも解決不可能ならば、下手に若者が苦労する必要はないでしょ?負けましょうよ。
せやから、茶器は土地といった個人のスキルが左右するという代替不可なものに依存しているという例えであって、現代の資本は「交換不可能なものに価値もある」という状況において、それを無理やり交換する「紙幣の介在」が必要になった以上は、貴方が否定したい【新自由主義】は社会のニーズに合致しているのであって、市場が消えると「今まで印税で生活できた層が労働階層に降りてきて競争が激化」するから、もはや新自由主義は否定できないよ、って何度も繰り返しているじゃん。
アハハ、認知の誤認があるよ。
それは事実だけど、金本位制を廃止してから、今の紙幣には「中央銀行の発行した紙幣」という価値しかないよ。だから、現金の価値は持っているだけで時間が経過すると価値が下がる(日本以外は)「何か」でしかないよ。下手に現金なんて持ってたら、時間の経過で劣化する。例えば、土地なんかの金持ちが西欧社会に多いのに、株式会社を持っている数世代続く金持ちなんて少ないですし、現金を持って数世代の金持ちなんて存在できない「今」にいるのですよ。
なりませんね。すべての価値を集約は不可能です。なぜなら、現代の日本紙幣は「信用創造」を日本国が構築するツールであって、富の化身ではありません。例えば「生活保護を受けている人が、富を生み出すわけじゃないから紙幣を使って買物をすることはいけない」と言うのが差別だけでなく、法律違反となる根拠はあります。それは日本銀行の発行する紙幣が【兌換紙幣】だからです。造幣局の硬貨は「21枚以上は受取拒否」も差別ではなく行えるのは、法律で根拠があるからです。早い話が差別は資本主義の敵であり、被差別階級にとっては資本主義は差別解消のツールとして活用されてきたので、差別主義者はインフレで貧乏になります。哀れなことに。
ごめん、スレッド外で話せば見つかんないと思った。
とはいえ、「新自由主義」を否定したくても、無理なんですよ。今の日本国で「1ドルイコール360円」なんて不可能です。そんなもんしてみろって、アメリカやユーロ、チャイナとアセアンと、台湾と韓国がブチギレするじゃん。21世紀の「パールハーバー」を経済でするのかいな。
フリードマンやハイエクの主張は「正しくない」かもしれないけど、大きな政府が有効なのは、民間資本が劣っているときだけです。今の日本やアメリカのような先進国の公的セクターの投資がうんこ以下のパフォーマンスなのはパクリ先がなくて海外に負けるからであって、やがてパクる相手のいなくなった中国でも「巨額の不良債権でにっちもさっちもいかなくなる」のは時間の問題で、実際に今の中国が巨額の不良債権を抱えているのは新自由主義を唱えた連中の懸念どうりです。諦め給えよ、もはや経済学は「負けないための」学問に成り下がったのだよ。いまや、世界は「否定することができない」モノたちが評価される時代にあって、テメーの理論の是非は誰も評価しません。
あまりにも弱いし原作再現出来てないので何がどうダメなのか列挙していく
これを新規や復帰勢が手に入れた時にまともに使うにはハードルが高すぎる上に、もっと楽に強いキャラが居るので入手する必要が無い
knoa氏が奇妙なことをやっているという意見には同意するが、自分はそもそも予測を立てること自体に疑問がある。
感染者数の増減が人間の判断と、それに基づく行動によって左右されているのは自明だが、これは時間的に非連続だし、そうじゃないとしてもパラメータの導関数が非連続なので、未来予測は基本的に不可能なはずだ。
直近の予測(短くとも発症間隔の5日間)は逆算して得られる再生産数から比較的正確な予測が得られるはずだが、これもあくまで現状維持した場合の結果を示すだけで、長期的には非連続なパラメータの影響が大きくなって無意味化する。
数理モデルに基づこうが基づくまいが、予測は「占い」に過ぎない。せいぜい「現状維持だとt日後には感染者数がx人に達する」という警告程度にしか意味がない。機械的に出せる予測は専門家筋から提出されているし、その都度報告されているのだろうと考えられるが、「減少傾向を維持し、完全に収束させなければならない」という根本的な指針を政府が理解していない、あるいは実行する気がない以上、短期的な予測すら無意味化している。
この3点はヤバさのハッピーセットなんやが、未だにknoa氏を有難がろうとしてる連中は、それが分からんのやろなーって思ったわ。
こんなもんをそこそこの理系大学で卒業研究として出そうとしても、担当教授に卒業可能な研究成果として認められない程ハチャメチャなんや。
これは何度も指摘されてる訳やが、予測モデルが存在しなければ誰にも再検証できないし、予測の尤もらしさが検証できない。例えばや、毎日我々が参考にする天気予報にも、当然やが予測に用いた数理モデルが存在する訳や。
それを元にスパコンで計算して過去の例と付き合わせ、予測精度や誤差まで検証したうえで、「こんな感じの精度のモデルをつこうてるから、参考にすべきところは参考にしてな」って予報を日々公開してるんやな。
可笑しいと思った誰かが、それに対して検証し、反論を加えられるだけの材料が揃っているからこそ、広く受け入れられている訳やね!
これは、ほんまにヤバいよ!
例えばやヤードで計測した時速と、メートルで計測した時速を、単位系の変換なしで、数値のみで比較してたらどう思うよ?ガイジやろ、そんなものは?
毎週のように計算方法を変えてるという事はや、本来は以前の計算結果と単純に比較する事は絶対に許されないレベルのアホのやる事な訳やね。仮にも数字を扱ったことがある人間なら、まずやらんことや。
もしも計算方法を変える場合は、変えた前と後でどの程度の違いが生まれるのか等、採用した手法の尤もらしさを計測しなければならん。それぞれの計算方法の間の変換式の妥当さも証明せねばならない。モデルの尤度を証明するのはメンドクサイのや。
例えばやで、毎日参考にしている天気予報が毎週のように予測モデルを変えているのに、昨年の今の時期の予想はこうでした比較すると・・・とか言われても、鼻で笑うやろ。
もっと簡単に例えるとや、先週までは華氏で温度だしていたのに、今週は摂氏で温度を出していて、共に何度ですと同じ単位であるかのように比較されるのとまったく同じことなんやね。意味なしやね。
これがトドメやね!w
円周率が3.1か、3.14かでは大きな違いがあるけど、それを勘で出しましたって言われたら、どうですかね?あかんやろ、そんなもんはwその計算結果を信頼しますか?無理やね。
普通は何らかの方法で計算をして出すのや。人力で目で見て適当に推定するって事はどういうことか?本来は客観的であるべき予測に、主観が入るという事や。
天気予報で例えればや、シミュレーションもしないで、雲を見て明日は雨って言ってるのと同じやね。漁師の勘みたいな再検証不可能な俗人的な経験測からくる天気予報は、占いと同じで
それはそれで本人やもの好きに珍重されていい物ではあるが、客観的に使える予測とは言わん訳やね。
以上を踏まえない限りは、何の価値もありません。あんたの来歴なんて、わいがどうでもいいが、予測の信頼性が全く客観的に示されてない以上は、予測した本人の信頼性の無さが問題になるのも避けられんわなあ。
結局はや、この程度のものに踊らされてる時点で、数字を扱う上での常識とか客観性が備わっていなくて主観で物事を見ているということなんやな。
これは一事が万事にあてはまる欠点で、あらゆる場面でおかしなブコメが目立つし後から振り返れば間違っていたという現状の温床でもある訳や。
完成してないワクチンを買うとかwwwって笑ってたブクマカも、いまやワクチン頼みやろ。感染症対策で決定打は集団免疫の獲得で感染しまくる訳にはいかん以上は、ワクチンしかあらへんで!ってのは常識や。
その場の空気や感情やなしに、何が正しいのか?と客観的な指標を持てない、はてな民の病気の現れなんかもしれへんね
なんやら、ブコメを見たら、増田でやってる遊びにごちゃごちゃ言うな。分かってるわ!的なコメントが散見されるけどや
関係各所の専門家にメールをすると言ってみたり、いっぱしの専門家を気取り始めた時点で、バカがやってる遊びでは済まされんものになったんやね。
専門家に専門的に意見をするのであれば同じクオリティで数字を扱えないとダメだし、おまけに無知な人間からお布施まで貰うようになっては、新興宗教と変わらん。
御上に批判的な(連中が集まってくる誘蛾灯な)新興宗教と言うと、どうしてもオウムを思い出すし、増田を遊び場としてるワイ君としては、もはや看過できんちゅうことやね。