はてなキーワード: 塗炭の苦しみとは
だからこそ、大衆紙の売れっ子作家が先陣を切る意義があると思ってる。
体育の時間に揺れたり、ブラが透けたりしないように、特段の注意を払わなくちゃならなかった。
男が背負ってない社会的責任を余分に持たされているよね。
馬鹿にされたりコンプレックスにしてる人もいるけれど、周りの視線を気にして慎重に管理する重責を負わされてたりはしない。
ジェンダーレス水着が諸手を上げて受け入れられたのは、かつて女児だった女たちにとって、プールの授業は塗炭の苦しみだったから。身体のラインを隠してくれるジェンダーレス水着は、周囲の目線を気にする負担を大幅に軽減してくれるだろう。
真なる男女平等を目指すならば、女性から乳房の“重み”を取り除く必要がある。
バストサイズを男性の身長のように気軽に言及できる、唯のデータにするには。
センシティブなアイデンティティ要素としてカップ数を、重々しく、丁重に、腫れ物のように扱う、社会的な振る舞いを改めなければいけない。
そのためにまず、直接傷つく対象のいないフィクションで、未成年女子のカップ数をデータの1つとして軽いノリで書き連ねるのは、大きな一歩だ。
ワンチャン炎上するかも、なんて計算の内に入ってるんですよ。考えてもみて。プロ中のプロ、トッププロだよ?
炎上のリスクを冒してでも、勇気を出してイビツに凝り固まって動かないジェンダーの天秤に楔を打ち込んだ。
エンタメ作家として面白さを極めたいだけならば、まっっったく必要のない勇気だ。
だけど、未来の女性読者が本当の意味で心理的安全性確保してマンガを読める環境を作るためには、誰かが踏み出さなきゃならない一歩だった。本当に尊敬すべき大人は、誰あろう、先生ですよ。
自分は公共の場(公共施設・街路・交通機関・大規模商業施設など)に萌え絵を掲出することには絶対反対だ。
不快になる人への配慮と、萌え絵がゲートウェイになりオタク文化への没入を引き起こす点である。
オタク文化も脱社会化された状態で没入していると誤認することで、かえって文化圏の提示するイデオロギー(ラディカル右派と親和性が高い)を学習することが考えられる。
加えて萌え絵は尖った表現であり、人の感情に大きな影響を与える。それは塗炭の苦しみである人もいれば、とてつもない快感である人もいる。
自分の知り合い(男性)に「ゆるキャン△」で精神的苦痛を味わったと主張している人がいる。
だから萌え絵は公共の場に掲出するべきものではないし、萌え起こしも絶対にやめるべきである。
ただ「月曜日のたわわ」の日経広告への批判については引っ掛かりが残る。そもそも日経新聞(紙)は「公共の場」といえるのかということがある。
現在は紙の新聞を読む層自体限られているが、その中でも日経新聞は限定された属性の人しか読まない。
そういう特定属性しか読まない媒体が「公共の場」というのはさすがに拡大解釈し過ぎである。
表現の持つ問題点については確かにその通りなのだが、そういう作品は残念ながら山のように流通・消費されており、「月曜日のたわわ」は運悪くやり玉に挙げられたという印象に過ぎない。
というわけで萌え絵には反対だけど、今回の日経新聞の騒動には違和感しか覚えなかった人間の独り言。
萌え絵のようなオタク文化は問題ある思想を接触者にインストールしようとする点において問題があるけど、じゃあどうすればいいかと言われれば論説を読んで知識を蓄えるしかないよなと。
萌え絵好きな皆さんはラノベだけではなく、岩波・中公のような新書を読むなどして知識を蓄えるよう努めてほしい。高校生向け「現代社会」の資料集も使える(倫理・政経と比べ網羅性が高い)。
planというイラストレーター(?)が「要介護Tシャツ」というのを売り出しています。
https://twitter.com/plan039/status/1467026607395475456
自分は要介護状態と判定されています。それが自分が障害認定されるほどの出来損ないだからです。はっきり言って自分は植松聖に五体投地しながら滅されならないと思っています。
もちろん障害者は殺されるべきだとは思いませんし、生まれ持った属性により基本的人権をはく奪・蹂躙するのは絶対悪です。
ただ、自分の場合障害者判定されるほどの出来損ないでありながら、他者の権利や信条に無頓着で、自分の快感情のためだけに他者に塗炭の苦しみを与えたという点において絶対悪です。
今からその実例を見せます。身の程をわきまえないことは百も承知で言いますが、「要介護」状態がTシャツなどでネタ消費されるのはあんまり気分がよくないです。
他人より著しく劣っていることを日々痛感しながら生きていますが、一方普通の人がそういう劣った状態の人をネタにしてキャッキャされると「自分のような存在は生きているだけで指弾されるんだ」と思ってしまいます。
こうやって他人のおしゃれに「その服は不快だ」と思うのは、自分が権利意識が肥大化して他者のことを考えられない卑劣漢だからですよ。だから要介護Tシャツ売ったり着ることを批判はしませんししてもいけません。
ついでに自分は暑かろうが苦しかろうが白無地の長袖ワイシャツにネクタイをきちんと締めています。その状態で寝ることすらも結構あります。
それはいつどこでも正しい服装をすることは市民の義務だと考えているからです。ただ、そのような恰好をしても不快に思う人がいるので服というのは難しいです。
自分は障害者です。経歴とかはもう書く気力もないのでこっちみてください。
https://note.com/butter_sp/n/n2c135b5f41ae
https://note.com/butter_sp/n/nb5bd7b5d7d93
日本人であること、男性であること、障害者であること、これらはいずれも加害者の属性だ。
存在する時点で近隣諸国の人々や女性、健常者などに害を与えている。
だからこれ以上存在することで他者を傷つけないように、正しい人間に命を奪われなければならない。
北原みのりのようなアクティヴィストも考えたが、女性にそういう重労働を任せるのはアファーマティブ・アクションの面から問題が強い。
植松聖は健常者で力のある男性だし、帝京大学を出たアッパーミドルだし、障害者に対し殺してもいいという考えを抱いている。
ついでに死刑になろうとは思わない。自分の欲望で他人に塗炭の苦しみを与えることは絶対にしたくない。
京王線襲ったりしないのでそこはご安心を(10年ぐらい京王線沿線に住んでいたので、あの映像見てすごく怖かった)。
あと殺されなければならないと考えているのは自分だけで、ほかの男性や障害者は絶対にあんな不条理ないのちの奪われ方をしてはならない。自分は不条理以下だからいい。
考えていることを文字にするのは大切だとわかっているけど、自分で自分の思考が幼いとか、いわゆる中二病くさいとか、そういう恥ずかしさもあって、なかなか実行できないでいる。それでさらに心理的なストレスというか心理的な状況が悪化して、手がつけられないような状況になることを繰り返している。今も悪い。
外形的な環境は関係なく心理状態が悪いんだ、と自分で自分に言い聞かせているが、けっしてそんなことはないことは自分が一番良くわかっている。もし今とてもたくさんお金を稼いでいて、しかも人から尊敬されるようなことをしていたら、もし今文句のつけようのないような奥さんとか家族なんかがいて、幸せに暮らしていたら、自分の心は決してこのような文章を書くような状態には陥っていないと思う。
オリンピックを見ていても何をしていても、結局は現実逃避をしていて、その結果現実はさらに悪くなるということを何回も繰り返している。なんとかならないかなーと思いつつ、自分がアクションを起こさないことにはなんともならないことはよくわかっている。それができないでこの一年間、心は一時期に比べてストレスが少ない状態であったにもかかわらず、やはり一定のうつ状態からは抜け出せずにひたすら苦しんでいた。
人と会っていないし人の情報を得てもいないのに、嫉妬し、執着し、落ち込むことばかり繰り返していた。人と劣等感と優越感で勝負しても必ず負けて心がとんでもなく傷つく。そしてそれをわかっていながら何もできず、やはりうまく生きられない。
極度の人に対する気の遣いようというか、臆病さがあり、それによって配慮をすることで得をしてきた面ももちろんあるが、自分に余裕がない状況になるたびに人からの連絡を無視したり、不義理をしてすべき連絡をできなかったりという面で損のほうがよほど多い。もっとしぶとくならなければ生きていけないとわかっているが、自分の性質なのでなかなか治すことができない。
この世に対して深い恨み、無力感、絶望感を抱いているのに、死ぬこともしない。
死ぬことができないのには2つ理由があって、1つ目には家族が気の毒ということと、2つ目には一度自殺しようとしてできなかった経験から少し自分の自殺能力に疑問があること。自分が死んだあとには自分にとっての世界が存在しないから家族のことなんて考えても仕方ない、と頭ではわかっているが、やはり自分が死んだことを知らされる親、姉、祖父母、おばのことを考えると、さすがに申し訳ないと思ってしまい、極限のストレス状況ではない今の状況ではなかなか踏み切るところまでいかない。家族はみんな、自分が東京で出世することやお金持ちになることを望んでいるわけではなくて、単に元気で暮らしてくれたらいいと思っているだろう、ということもある。もし出世やお金持ちになることを希望しているのであれば、それは明らかに自分の能力では不可能なことなので自殺したほうがいいということになるが、そうではないのであれば、生きていたほうがいいということになる。自分としてはもちろん、生きていることそれ自体が本当につらく、耐え難い苦しみの連続でしかないので、死ぬほうが百倍楽なのだが。家族が、自分に対して元気に暮らしてくれればいいと期待すればするほど、自分は自殺に踏み切れず元気がなくなり、不幸が重なっていくという一種のパラドックスというか皮肉的状況にある。
常に強い劣等感に苛まれ、かつ何をしても絶対にうまくいくことはないという強力な固定観念があるので、生きることはただ辛い。どれだけ辛いかは本当に筆舌に尽くしがたい。生きているだけで、針の山を無理やり歩かされているような気持ちがする。自分としては、生きるのに向いていない遺伝子や個体というのもやはり一定割合のエラーの一つとして生物群の中に出てくることはまったく不自然ではないし、それが自然淘汰として自殺することも合理的と思う。それができないからつらいのだ。毎秒毎秒、塗炭の苦しみ。それも何にもつながらない苦しみだから余計に苦しいと感じる。何か成功に向けての苦痛とか終りが見えている苦痛ではなくて、ただ出口のない、無駄な、理解もされない苦痛。
高校のときに倫理の授業で「絶望は死に至る病」という本を習ったが、自分はそれを聞いて、机に落書きで「死に至らない病」と書いた。そうかんたんに死ねないから絶望というのは更に強いのだ。もし死ねるなら、絶望はそこまでひどくはない。元の本の趣旨は、絶望というのは人を死に追いやるほどの強力なもの、という意味が込められていると習った。しかし自分の感覚としては、死ねないからこそ絶望は更に深まり、もっと強力に襲ってくる。夜が明ける前が一番暗いし、日が沈む前が一番太陽が輝いているように、死を手前にしたところが一番しんどいのではないかと思う。勇気があって飛び込んでしまえる人はいい。その度胸もなく、かつ自分をうつ状態から引き戻す力もなく、絶望的なリンボーで永遠に苦しみ続ける感覚。それが16歳か17歳のときだっただろうから、少なくとも12,13年以上、自分は絶望にかこまれ、死ぬより苦しい思いを毎日、これでもかというほど味わって生きてきたことになる。もちろんそんなことは自分だけではないからそれを美化するつもりはない。また、幼い心で何か死ぬことを美化していたという面があったのか、と今振り返って反省してみるが、けっしてそんなことはなかった。死ぬことは当時から最悪の選択肢であり、人生における敗北であり、弱者の逃げでしかないことはよく理解していた。それでもなお、あまりに人生は辛く、とにかく敗北でも弱者でも逃げでもなんでもいいから死にたい。考えというよりも、感覚として死ぬことを求めている。のどが渇いたり、性欲がたかまったりするのと同じように、本当にもう無理でつらすぎるから死にたい、なんでもいいから死にたい、という強い希死念慮。それが間断なく、24時間365日襲ってくる。もしそれが抑うつ状態や軽度のうつ病の症状であったとするなら、12歳頃の子供の時から今まで、人生の大半、3分の2程度まではうつ状態であったということになる。自分としてはこれがうつ状態とは思っていない。それが平常。
主に外形的な要因で、時折、希死念慮が薄くなる躁状態のときがあったが、これがまともな人間の普通の状態にあたるのだと思う。自分にとってはそれは本当に数少ない異常状態で、絶対に長続きすることはなかった。神様が慌てて帳尻を合わせてきて、その小さな成功を取り消して、その後には2倍、3倍の失敗と苦しみを必ず与えてきた。
心の問題から離れて、外形的なほうで、なぜ人生は常にうまくいかないのかという点について。人生がうまくいきさえすれば、外形的になにもかもが思い通りに行けば、自分の心の問題はかんたんに解決すると思う。劣等感でひどく歪んだ性格や強い希死念慮、うつ状態が平常状態というおかしな心理的な特性を考えてもやはり、希死念慮に至るきっかけは常に外形的なことだったと思う。例えば部活でもっと活躍できれば、体育で体がもっと動けば、受験がもっとうまくいけば、就職が失敗しなければ、もっと女の子にモテていれば、もっと友人に恵まれていれば。外形的な、というのはそういうことを指している。
もともと自分は能力も低く、外面から見てもさほど恵まれていないし、それらを磨くという努力も怠ってきた。それが一つの原因としてなにもうまくいかない、という無力感や絶望感をコツコツと毎日休みなく蓄積してきた。そもそも自分は長期的な努力が苦手だ。かんたんに言えば怠惰だ。それにもともと持っている才能や外見やスキルもないから、当然うまくいくはずがない。世の中は持って生まれたもので勝負しないといけないという意味で公平で、結果においては公平公正ではないから、当然勝者は常に勝ち続け、敗者は常に負け続ける。有るところにはなんでもあるが、ないところには、本当に、徹頭徹尾、なにもない。本当に何もない。もちろんそれが世の中のあり方だし、みんなそれを前提に生きている。それに文句をつけるのは筋違いだ。
また、2つ目の理由として、何かしらの才能のかけらとか持って生まれたものがあって、そこの上にきちんと努力をして、成功確率を5割とか、ある程度のところまで高めても、運によってそれが左右されることももちろんわきまえている。運というのはなかなかくせもので、見た目上の確率が5割でも、実際には10割負け続ける、いわゆる持っていない人も世の中にはたくさんいる。そしてこれまでの人生から統計的に考えて、自分がその一人であることも疑いようがない。絶対に、何をしても、うまくいくことは有り得ない。少しでもうまくいきかけると、神様が慌ててやってきて失敗にする。それだけを繰り返してきた。でも、もちろんこれも同様に世のあり方だから、それに文句を言っても仕方ない。それはつまるところ天に唾するということであって、この世そのもの、というのは変えようがない。世の中すべて、というのはそれを感覚で捉え、見ている自分自身そのものだから、この世のあり方に文句をつけるのは自分の命に対して文句をつけるのと一緒。
そして自分は、何をしても、決してうまくいくことは絶対にない、ということを何度も味わった失敗からかんたんに学び取り、また世の中のあり方に文句をつけることは自分自身に対して文句をつけることと同じであることもまたかんたんに学び、その場合、死ぬことが唯一の正解だということも学んだ。死ぬことが一番の正解という考えに最終的に至ったのが16歳か17歳のときだったはず。その時の絶望は今でもよく覚えているし、また残念ながら今でも考えはなんら進歩しておらず、その後何回もの挫折や失敗を繰り返して、むしろ確信は深まっている。
死んだ人だけが良い人間で、生きている人間はみんなどこかおかしい。頭がとても悪いか、人のことをなんとも思っていないか、とにかく人の心を持っていない人間。本当に良い人間はみんな自殺してしまった。狂ったような響きだが本気でそう信じている。
自分のような人間は生きていても何も為すことはないのだから、さらっと死んでしまうのが一番なのだ。本生まれてきたのが不幸だったと割り切るしかない。なにかうまいことや響きのいい言葉を言おうという意図ではなく、本心から、生まれてきていいことは何一つなかった。
人生で得たもの。毎日のようにやってくる鈍くて絶対に消えない心理的苦痛と、死ぬことが唯一の解決なのに死ねない無力感、というか絶望感。
それはどうかなw
早い方がいいし助けがあった方がいいじゃんなあ?
「遅かれ早かれ」なんて暴論は
その”誤差”の数十年数百年の東南アジア人民の被支配下の塗炭の苦しみを全く無視しなければ出てこない考え方ですなあ
いや~~~~レイシストには困るわwwww
「同じ黄色人種だ」「我々も白人に負けないんだ」という幻想を与えたねえ
成長期は金だけばら撒いて、身内ではさんざん後進国と貶してきたくせに、
いちいち東南アジアにそういう変な蔑視向けるのは韓国人が大好きだねえ
「アジアの盟主」とかいうクッソキモい言葉も韓国人以外好まないねえ
(中国は?と思うかもしれないが彼等は「大中華」なので「アジアの盟主」なんて卑屈なタイトルは使わない)
「おまえらってワイの事好きなんやろ? ファックしたいほど濡れ濡れなんやろ?(ゲス顔)」
とかキモ金おっさんも真っ青のキチキモフレーズ言ってくる老衰国家!
そんな国に好意もてると思うか?
普通に中韓朝以外からは好感度高いのがばれるようになってくやちいくやちいwwww
「日本に好意を持つ外人の声」を紹介するときにソースのリンクぐらいは貼るねえwwwww
東南アジアの国々はこう思ってるの忘れんな
もし、政治的意味合いの意味が「作品で提示されるメッセージに重大な瑕疵がある」というものだったら身に覚えがある。
昔ハマった某アニメに関し、ネット上で「このアニメのせいで苦しんでいます」という書きこみが多数あった。
そして「アニメのメッセージに問題がある」という分析が、放映前後よりなされていた。
例のアニメにハマっていたころは視野狭窄に陥っていたため、アニメ放映により被害を受けているという声も目に入ることがなかった。
しかし、例のアニメのせいで塗炭の苦しみを味わっているという告発を見て、「社会的弱者のスティグマ化を誘発するメッセージ性を持つ」と認識した。
そのため、例のアニメに関して信者からアンチに転身した。「卑小な楽しみのせいで、与り知らぬ誰かが苦しんでいる」ことに耐えられなかったためだ。
感情面としては、「この作品のせいで苦しんでいる人を放ってはおけない」という憤怒(義憤?)がある。
あと、苦しんでいる人を無視して楽しんだことへの後悔もある。
これから社会を渡り歩く上で、是非とも知っておきたいこととして、世の中始末に負えない乱痴気野郎は数有れど、正論人間ほどタチの悪い、人生の詰んでいる人間は居ない。これは知っておいても損はないだろう。
これから社会へ羽ばたき偉業を成し遂げんとする君たちも、薄々感づいてはいるはずだ。学級委員長や生徒会長のような正論マンの不甲斐なさ、そして冬の碧空にも似た慟哭に。
世の中に蔓延る正論をなんとかして駆逐せねばならぬ、とまで考える人もいるだろう。また、正論をどや顔で言うような族(やから)にだけは俺様はならん!と固く誓っている人もいるだろう。
しかしちょっと待ってほしい。ここで大切なのは感情論の排除である。何事も感情的になっては琴をし損じる。感情的と言ってもヤキモキしたキモチを適切な形でストレートに吐き出すのはむしろ良いことである。
そうではなく本当の感情は棚にあげて都合のいい別の感情を正当化しようと論をひねりだすのが駄目なのだ。結局それは言い訳であり捏造にすぎない。自分にも他人にも嘘をつき、感情的になればなるほどその嘘の対立構造がエスカレーションする。
だから冷静に思考しなければならないよ。学生時代にロクに人と向き合うことなく2chなどをやり過ぎてきた人は特に注意。面接で俺は友達いるしサークル入ってたしバイトもしてた、なんて人がよくいるけど、
そんなのも名札(title)にすぎないのだよ。中身が肝心。素直な気持ち・意見をどれだけ適応的にやりとり出来たかどうか。その意味で正論を文字通り「正しい」と思えるような人は危ないと言ってよい。
結局のところ正論というのも名札にすぎない。正しいと名札がついたことを言えば、一応は一定の力をもつ。絶対無敵とまではいかないが、たいていの場面で有利な形勢に持っていくことが可能であるという意味において。
ところがね、第1にそもそもにおいて「勝つ」必要などないのだよ。狡黠な人間になんてなる必要ないとも言い換えられる。ずるい人間って世の中いるよね。それは一種の適応とも言えるが。
よく考えてほしいのは、適応というのは常に不適応の可能性をはらんでいるのだよ。ある方向に適応したということは、他の方向に適応できなかったからかもしれない。ズルいってのはそういうことなんだ。
あらゆるファクターがありうるので一面的に決めつけることはできないけどな。けれどもそれがもし不適応からきた果実だとしたらそんなに哀しい色の果実はない、そう思わないかいということなんだ。
第2に正論はあくまで論の正しさに過ぎない。論とは前提たる命題に推論規則を用いて演繹していくプロセスなのだがな。ともかく論の正しさはあくまで推論の正しさであり前提の正しさではないという中学校から教わってきた当たり前のことなんだ。
当たり前だがみんなすぐ忘れてしまうから常に確認しながら進んでいかないと行けないんだ論者たちは。でないと、、中学生が見てもバカじゃんこの大人たちはって言うようなことが頻発するのだ。
人間は多くの人間自身が考えているよりもスキが多い、不注意が多い、手抜かりが多い生き物なんだ。だから当たり前のことを当たり前にやれる大人になること、これが何よりも大切で、難しいことなんだ。
岡目八目と言ってハタからみて批判するのは簡単だけど実際にそういう立場になったとき自分自身しっかりやることが肝胆だよ。だから正論を畳みかけるように言われてもジト目で疑うことを怠たらない誠実さを忘れてはならない。
そういったことを抜かりなく積み重ねていく先に成長がある。正論を疑うにあたっては、繰り返すが感情的になってはいけない。感情を包み隠さず適切な形で表現するのは良いことではあるが、感情に論がくっつくと
途端に一気にタチの悪い一揆を巻き起こして塗炭の苦しみに見舞われてしまう、と述べたね。ここで1つ感情的にならないコツを教えよう。こと人間関係になると多くの負の感情は恐れからやって来る。
怒りも恐れ、恥ずかしさも恐れ、不安も恐れ、いろんなことが恐れから来ている。そしてそのことをみんな自認したがらない。だからビビり先輩ちーっすwな煽りが万国共通に通用すると。
だから恐れを常に認めないといけない。認めるためには心の余裕が必要なの。心に空きスペースがないと駄目なの。ワーキングメモリが一杯になると他の事考えられなくなるでしょう。
実は人間は生きる心構え次第で必要な余裕が雲泥の差なんです。一般には精子いや生死をかけた闘いを日々繰り広げる人ほど沢山の余裕が必要と考えられている。しかし実際は彼らの95%は忙しいの字は心を亡くすと
書くとの格言どおり忙しさのあまり心が狭くなっていますから、それでもなんとかやっていけてるということは実は大して彼らのような生き方のためには別に特段余裕が必要なわけではないんですよ。
ただしそれは「毎日をなんとかやり過ごす上では」不必要ということであり、「日々をよりよく生きるためには」あるいは「今後の人生のためには」もっと余裕が必要ですよ。狭い心のままではいつかSAN値がピンチになります。
そう、「よりよく生きるためには」もっともっと余裕が必要なんだよそこの君。倫理(ethics)とは本来は儒教的な処世術ではなく日々をよりよく生きる方法を追求する学問であった。
自分のことばっかり考えてガンガン心を狭めていては結局のところ苦しい境遇に追い込まれていくようにうまく世の中はできている。天網恢々疎にして漏らさずとは至言なり。
『オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情』の紹介文を見てごらんなさい。「感情はなぜ存在するのか。感情がその場限りの自己利益を越えてより合理的に行動を方向づける働きがあることに着目し、
今まで十分に理解されていなかった利他行動など、一見非合理的にも見える行動のメカニズムを鮮やかに解き明かす」。この問題意識と解決の試みに非常に高い知性を感じざるを得ません。
実は感情は我ら人間の誇る高級な機構であったという発見が続々と為されている。そういった感情を捨象してロボットのように正論を言ったり感情を捏造して論理で塗り固めたりするのはもう今年で卒業しよう。
来年からはきっぱりケジメをつけて全く新しい人間に生まれ変わるつもりでいこう。ただしだイチローの「変わらなきゃも変わらなきゃ」の精神は忘れちゃならんぞ。必死に変わろうとする人間がよく陥る罠。
変わろうと歯を食いしばることは現状を強く否定することになるが、実は否定すればするほど暗に弥が上にも強く肯定してしまう結果になるのだから、決して無理に変わろうとしてはいけない。
これも人間関係と同じで根底には恐怖がある。忙しさを好む精神の奥底にはしばしば恐怖があるのだ。一般に強くコミットしようとする性向の背後には恐怖があるということ。
だから強くコミットしようとするのではなく、ソフトなアプローチ。これが大原則なのだが、そのためには実はたくさんの余裕が必要なんです。だから言ったとおりでしょう心構え次第で雲泥の差。
余裕といってもロマンティック・アイロニーのやうな嘲笑や放蕩ではなく、きちんと自分の行い、思考を決める規律を自分で定めないといけない。
クラピカも制約を自ら誓約して力を手にしたのだからこの支配から卒業して賜杯を手にするには規律を自らに課すことが必要不可欠といっても過言ではなかろう。
ぱっと見なめし革のような硬質な立派さを漂わせてはいるもののそれはあくまで虚構で、その内に秘めたる醜さは計り知れない。だから俺はブランドもののバッグが大嫌いなんだ。
ともあれ人の心にハリボテエレジーのような哀愁があり、それを我々は他者や社会との関係の中で再現しているに過ぎない。しあわせに小石をなげて。
その修正を試みるのがサイコドラマの主旨である。ともあれ正論という古い規律を捨てて感性的であろうとすると俺たちはいとも簡単に自己否定のワナにかかってしまう。だから新しいマイルールが必要なのだ。
マイルーラ見かけなくなったなと思ってたら2001年3月製造中止。 テレビCMや大学の文化祭で宣伝しだしてから、若者の間で非常に人気が出て世論の批判を浴びたことが原因とな。