はてなキーワード: テーブルとは
日経xTECHの元記事を読んでもCOBOLの特徴があんまり伝わってこない感じだし、かといってそれをディスってもしょうがないので、書いてみた。
https://anond.hatelabo.jp/20190205192741
COBOLは本質的にはDSLなんだけど、一見汎用プログラミング言語に見えてしまってRubyやPythonなんかと比較するのが誤解のもとではあると思う。今の人でも知ってそうなCOBOLに似ている言語はたぶんSQLで、データを処理するための専用言語。ただ、SQLは頑張ればすごく複雑なこともできるパワフルな言語で、だからこそ現代でも生き延びているわけだけど、COBOLはわりとシンプルなデータ処理を想定している感じ。
SQLだけでアプリケーションを作れないのは触ったことある人なら誰でもわかると思う。普通はJavaやRubyで全体の流れを記述してデータベース入出力をSQLで書く。COBOLもそんな感じで、全体の流れをJCLやShellスクリプト、あるいはJP1のような運用管理ソフトで書く。SQLの1個の処理に相当するのがCOBOLのコンパイル単位で、それごとにソースファイルが分割される。ひとつのソースファイルに2個以上の処理を書くこともできるけど普通はしない。ここまで理解すると古いCOBOLに1ファイル内のすべての処理に影響するグローバル変数しかないのや、今のCOBOLにコンパイル単位をまたぐ真のグローバル変数がないのも、それほどクリティカルではないことがわかると思う。もし、本当に複数の処理にまたがる値が必要なら、データベースに格納してしまえばいいんだし。
で、SQLでいうところのデータベースに相当するのがCOBOLではデータファイル。sedやawkでテキストファイルやCSVファイルを行ごとに処理するのとちょっと似てるけど、COBOLの場合は固定長ファイルという点が違う。改行文字は入ってなくて、たとえば150バイトごとに次のレコードみたいな形式。これの1レコードごとに何月何日何時に〇〇という商品を□□円で売ったとか書いてあるのが典型的なデータの内容。それを集計して今日は〇〇が何個売れて売上がどれだけあったとか、出金合計がいくらで入金合計がいくらで、みたいな財務諸表を作ったり。SQLと同じように税率なんかが書いてあるマスタデータと、日々の売り上げが書いてあるトランザクションデータがあって、突き合わせたりということもする。こういう集計処理だからUIはなくて、夜中に自動起動するようなバッチプログラムが主な使われ方。(混乱するから余談だけど、今のCOBOLはSQLを使って普通のRDBにもアクセスできる。ただ使い方としては、RDB→ファイル処理→ファイル処理→ファイル処理→ファイル処理→ファイル処理→RDBみたいに、最初と最後だけみたいなのが普通)
入出力がファイルだから今の感覚で考えるとアクセスは遅い。でもメリットもあって、1回に1行しかメモリに乗せないからどんな巨大なデータでも時間さえかければ処理できる。それこそ国民ひとりひとりの年金データとかね。あと、途中でバグや不正データで止まってもデータを失うのは最小限で済むので復旧が比較的楽だったり。
データベースの話に戻ると、テーブル定義はどこに書いてあるかというとデータファイル側ではなくてCOBOLプログラム側、というのがSQLと一番違うところかも。つまり、このデータファイルの構造はこれこれこうなっていると想定して読みます、とソースコードに自分で書く。当然実際のデータ構造がそれと違ってたらおかしくなる。
まあそんな感じで80年代くらいに会計処理をする目的だったら悪い言語ではなかったので、銀行や官公庁とか、電力水道ガスといったライフラインを扱う大企業がこぞって導入して今に至る感じ。普通の大企業は途中でSunとかに置き換えてその後Linuxやクラウドにさらに置き換えたりしたけど、最初に作ったシステムが大きければ大きいほど、重要であれば重要であるほど現代的な環境に置き換えられないというのが今の課題。
はてなーの皆さまこんにちは。今日も元気にウンコ漏らしてますか?初めて投稿します。
物心ついたころからずーっと気になっていたことがありまして。それはズバリ、「みんな作家の文体をどれくらい識別できてるんだろう?」という問題です。
気になった方は、まずは以下の問題に挑戦してみてください。
★以下の①~④と(ア)~(エ)の文章は、それぞれ同じ作家の書いた別の小説作品から、一部抜粋したものです。①と(イ)、②と(ア)...のように、同じ作者の作品どうしを組み合わせてください。
① そして彼が知ったのは、彼等の大部分が、原発というものの実態を把握していないらしいということだった。どこにどれだけの原発があるかも知らず、それが止まるということはどういうことかイメージできないようすだった。原発が止まっても大して困らないんじゃないかという意見もあれば、ろうそくを買うべきだろうかと異常に心配している声もあった。
② この人は母とは本当にお似合いだ。言葉に表現した瞬間、それが的を射ていても、本当のことを言っていても、なぜか必ず嘘っぽく聞こえ、薄っぺらい印象になる。この人のこの言葉と僕の事実とに挟まれて、僕のあの放火未遂っぽい事件は行き場を失ってしまったようだった。
③ 船長主催の晩餐会は、さんざんなていたらくであった。夕刻から、この時期には珍しい西風が吹き始め、それは次第に客船を上下に揺らした。乗客の中でもとりわけ過敏な者は、晩餐会のための服に着替える前に、すでに船酔いにかかって、各自のベッドに臥してしまった。
④ 札幌の街には今年最初の雪が降り始めていた。雨が雪に変わり、雪がまた雨に変わる。札幌の街にあっては雪はそれほどロマンティックなものではない。どちらかというと、それは評判の悪い親戚みたいに見える。
(ア): 夢の中の俺はまだ子供で野球のバットか何かを捜しに来たのだ。暗闇の中で金属バットが触れ合ってカランコロンと甲高い音を響かせる。俺は広いフロアを見渡す。たくさんの影はしんと静まり返って何も動かない。
(イ): バーは、二階に著名なフランス料理店があるビルの三階にあった。長い一枚板のぶあついカウンターと、四人掛けのテーブルが二つあるだけだったが、いかにも酒を飲むところといった風情で、助成の従業員はいなかった。
(ウ): 三人目の相手は大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生だったが、彼女は翌年の春休みにテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。彼女の死体は新学期が始まるまで誰にも気づかれず、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた。今では日が暮れると誰もその林には近づかない。
(エ): 十九年前にさらわれた赤ん坊がどこにいるかを、早く彼女に教えてやらねばばらない。白血病で苦しむ息子が助かる道があることを示してやらねばならない。言葉を発しようと息を吸い込んだ時、小さな疑問が彼の胸に宿った。それは瞬く間に大きくなり、やがては衝撃となって彼の心を揺さぶった。
・答えは↓
【答え】
①- (エ) 東野圭吾
②-(ア) 舞城王太郎
③-(イ) 宮本輝
④-(ウ) 村上春樹
①: 東野圭吾「天空の蜂」(講談社、2015年、p124、ハードカバー版)
②: 舞城王太郎「イキルキス」収録「パッキャラ魔道」(講談社、2010年、p193、ハードカバー版)
③: 宮本輝「海辺の扉(上)」(角川書店、1991年、p151、ハードカバー版)
④: 村上春樹「カンガルー日和」収録「彼女の町と、彼女の緬羊」(平凡社、1983年、p50、ハードカバー版)
(ア): 舞城王太郎「煙か土か食い物」(講談社、2004年、p117、文庫版)
(イ): 宮本輝「海岸列車(上)」(毎日新聞社、1989年、p162、ハードカバー版)
(ウ): 村上春樹「風の歌を聴け」(講談社文庫、1975年、p77、文庫版)
(エ): 東野圭吾「カッコウの卵は誰のもの」(光文社、2010年、p204、ハードカバー版)
いかがでしたでしょうか?
なぜこんな問題を作ったのかといいますと、自分はけっこう文体に敏感な方なのではないかと、密かに感じてきたからです。
同じドラッカーの作品でも、上田惇夫訳の「マネジメント」はすごく好きなのに、上賀裕子訳だとなぜか全然頭に入らなかったりします。趣味で読む本は、好きな著者のおすすめで買ってみたものの、文体が気に入らなくて読み進められないことも多いです。(村上春樹はすごい好きなのに、おすすめのサリンジャー「ナインストーリーズ」は受けつけない、など。翻訳版をよく読む方にはあるあるなのでは)
それぞれの作者ごとに、「この人は勢いがあって脳が活性化する感じ」とか「クールな感じで読んでいても全然感情を感じない」とか「頭の中に繊細で暖かいイメージがふわっと浮かぶ」とか、料理でいう味みたいなものがあります。
小説じゃなくても、エッセイでもビジネス書でも、どんなジャンルにも作者ごとの「味」がある。そして、これはその人の持つ「文体」が決めている部分が大きいと思っています。(本の装丁も全体の1~2割くらいは関係してる気がします。料理を載せる皿によってちょっと味の感じ方が変わる感じ?)
でもこの「味」って、大まかにはみんな感じるところがあるはずだけど、誰もが全く同じように感じていることはあり得ない。みんなで同じ料理を食べていて、「おいしい」「苦い」「熱い」などの大まかな感じも方向性は決まっていても、それをどこまで感じているかは人による。(同じ「辛い」カレーを食べても、人によってピリッとする辛さなのか、喘ぐくらいの辛さなのか、という辛さのニュアンスは異なるはず)
これって料理の味ならみんな共感できると思うんですけど、文章の「味」についてはほとんど議論されない。これって実際はどうなのか、という実験でした。
今回挙げた作家について、個人的に感じる「味」はこんな感じ。(あくまで個人の感想です。前者二人の文体は大好き、後者二人はうーむ。ストーリーはそれぞれ面白いと思います。)
・村上春樹: なんの抵抗もなくすっと頭に入って、胸にふわっと煙みたいに広がって染み渡る。イメージが幻想的ながら、ありありと脳裏に浮かぶ。もう村上春樹っぽいとしか言えない。
・舞城王太郎: 「文圧」のすごさ。リズムと勢いで、パンパン読ませる。胸が暖まって脳が活性化する感じ。文体で読ませる作家。天才。
・東野圭吾: 必要最低限の情報量。情報は伝わるが、感情はあまり伝わってこない。マックのハンバーガーみたいな感じ。
・宮本輝: いいところのお坊っちゃん。淀みなく流れる川のように流麗。美しい文章だが、あといま一歩感情が胸に迫ってこない。脳の活性化がいまいち。
最後までお付き合いいただいたはてなーの皆さん、ありがとうございます!皆さんのやってみた結果は、コメントで教えていただけるとありがたいです。あと余裕のある方、同じような問題作って自分にもやらせて...!!
結婚5年目。
潔癖症と知りながら好きだから結婚したのだし、配偶者を責めるつもりはないのだけれど、近頃ささいなことで私の精神状態が乱れるようになってきた。
家でのルールはだいたい以下のとおり。
・外から帰ったらシャワーを浴びるまでは汚染エリア(ソファーとテーブルの一部)以外の清潔エリアのものに触れない。
→シャワーを済ませないと休めないし、済ませるとその日は一歩も外に出られない。
・外から持ち帰ったもの(携帯など)はウェットティッシュで拭くまで清潔エリアに持ち込まない。
→携帯を使っていると毎日「それ拭いた?」と聞かれる。会社のPCを家で使うのも面倒。
・清潔エリア内でも汚染物質とみなされるものに極力手を触れず、触れたらすぐに手を洗う。
→何が汚染物質か決めるのは配偶者なので知らずに触ると(多くの場合ため息とともに)指摘される。
・外出先でトイレを使う場合はウェットティッシュで便座を拭き、手洗い後はドアに直接手を触れずに出る。
→行く前にウェットティッシュを持たされ、出たら毎回「ドアに触れた?」と聞かれる。
・旅行で使った靴は汚染されているのでしばらく履かない。買ったばかりの靴も他人の試着等で汚染されているのでしばらく履かない。
→忘れて履いてしまうと怒られる。
・粘膜に触れる前には手を洗い、その後携帯(菌が多いらしい)には触れない。
→セックスの前に毎回手洗いを要求されるので雰囲気も何もない。
最近までは夫婦仲は良く、喧嘩してもお互い引きずることはなかったし、ストレスを感じても趣味や運動で発散できていたのだけど、昨年の暮れに子供が生まれてからはそんな余裕もなくなり、自分の感情を上手くコントロールできなくなってしまった。
上に挙げたような日々のことが少しずつストレスとなり、ささいなきっかけで怒りのスイッチが入り、やがて倦怠感に襲われる。今のところ物を壊したり他人に暴力を振るうことはなく、自分の体を叩いたり、髪を引っ張ったり、息を止めたり、歯を噛み締めたりして抑えているが、傍からみれば十分に狂人かもしれない。
子供はとてもかわいく、愛情も責任も感じているけど、昨日腕に抱いてミルクを与えながら、それが遠い世界の出来事のような感覚を覚えた。いつか自分の精神が壊れてこの子に危害を加えるようになってしまったらと考えると怖い。
配偶者は神経質な親の影響で潔癖症になってしまったらしく、子供が将来同じように苦しむことは何としても避けたいのだけれど、どうすれば良いかわからない。
離婚は考えていない。
文化の枠を超えて、物語のパターン(類型)が存在する。神話や昔話として語り継がれているものの、パターンだけれども、これが語り継がれているのは、その物語に、各時代、文化をを超えて魅力があるからだと仮定する。
神話・昔話が最も古い物語とすると、それを下敷きにして書き直されたのがハイ・ファンタジーと言えるかもしれない。
物語がテキストとして読みつがれていく中で、読み手は、主人公になりきったり、膨らませた空想のなかで、ある種の体験を得るというのがテキストとして物語。
近年の異世界モノには、この物語性の他に、ゲームに対するフラストレーションを感じる。
物語のテキストを読んでいる間は、読み手は誰もが、主人公としての体験を得ることができた。
最初期のRPG(テーブルトークを含む)では、この物語性をより拡張して、能動的に物語の主人公になることができるものだった。
ファミコン世代のRPG(ドラクエ、FF)ではレベリングに時間をかければ、最強の存在になることが可能であり、努力が必ず報われる”優しい”世界とも言えた。
異世界ものが下敷きにしている、MMORPGになると少しづつ様相が変わる。
メインシナリオの中では主人公的な役割を得たとしても、ほかのプレイヤーとの比較では、廃人級に時間的コストを費やしたり、過大な課金を負わなければ、世界の主人公たる万能感を得ることができない。
そうすると、原点回帰的に、MMORPG的世界で、万能感・優越感を追体験できる、異世界もののライトノベルが意味を持ってくる。
ここで具体的に、異世界ものを、(半ば無理やりに)神話類型に当てはめてかんがえると、
俺TUEE→英雄譚
神のような存在に導かれた異世界人がその世界で莫大な富を得る->貴種流離譚(高貴な血筋の強い力を持った人物が、旅をしながら、最後は自分の国を得る)
ハーレム設定→異類婚姻譚(転生者はその世界では異類と考えることができる)
などなど神話類型で繰り返されてきた物語の骨格を持っているようにも見えてくる。
そうすると、ゲーマーのフラストレーションから生まれた異世界への転生という構造が、ある意味普遍的な物語性を宿していると思える。
このような背景と者が理性は、MMORPGをプレイしていないがゲーム的世界に違和感のない層に届くように思われる。ゲーム的世界に親和性を持つが、MMORPGには現在は親しんでいない層、それは、社会人として購買力を持った元ゲーマーの30代をピークとした男性層として合致する。
https://bookwalkerstaff.tumblr.com/post/128323701752/
この層はゲームは好きだが現実世界の仕事に追われてゲームをする時間は少なく、なろう小説を直接的にあさるほどの余裕がない。彼らにとって、異世界もののアニメや書籍化小説は、製作者・編集者が査読して質のある程度保証された物語であって、購買する価値を持ちうる。
まだしばらくは異世界ものは廃れないかもしれない。それは繰り返されるパターンが、どこかで見た安易な剽窃を超えた、古くから語り継がれてきた類型であるから。
駅構内のメトロ食堂街でハンバーグを食べようと決め、並び席に座った。8人座れる大きいテーブルはメニュー立てと観葉植物で仕切られているだけで、向かいの顔と会話もよくわかってしまう。向かいには中年カップルと思しき男女が並んで座っていた。
女の顔はちぐはぐしていた。
薄い唇に真っ赤な口紅が入念に塗られていた。食事で取れてしまわないように気合を入れているのだろうか。眉毛は細いアーチ型を描いていた。小さな目とバランスが悪くて、眉と唇だけ飛び出ているように見える。肌は白いけどずるずるしている。ショートカットでちぢれた黒髪に何となく貧相な印象を受けた。
彼らは無言で食事をしている。やがて、男が口を開いた。
「私のところもです。」
「早く休んでくれたらいいのに〜。 1、2日目は無理して来ても、3日目にぱたりとこなくなっちゃうんだから。」
「本当ですよね!調子悪いのに仕事するより、早めに休みを取って万全の状態で働いてくれた方が効率良いと思います。」
です・ます調で話をしている二人は婚活中なのだろうか。インフルエンザなんてそんな当たり障りない話長引かせてもつまらないのに。
二人はまだ世間話をしている。
「ずっと咳をしている人が居るんですよ。もう本当にずっとしててね、おれ、数えてみたら、1分間に36回もしてるんだよ。」
女はぎこちなく笑った。
「それでね、その人マスクしてないんだよ!でも、『休んで』とか『マスクして』とか、そんなこと言えないから、逆に周りが完全防備していて。(笑)」
気が弱くて、話もつまらない、取り立てて外見的魅力もないサラリーマンはきっと売れ残りなのだろう。ずっと寒いところに置かれて、かさかさ赤ら顔してて、人の良さそうな顔つきをしていた。中肉中背、どこにでもいる、特徴のない男だった。年季の入った髭の剃り跡は開ききった毛穴のように見えた。
食事も終わったようだ。
「次どうしますか? 僕、よみラン行ってみたいなって思っててー。」
おい。何でこの寒い中よみランなんだよ。彼女凍えるよ?まだ長く付き合ってる訳でもないでしょう?話が尽きるよ。悪いことは言わないからよみランはやめときな。せめてディズニーにしてくれ!
「土日出勤ですかー」
「いや、分からないんだけどね、多分いいんだけど。
日曜日はどうですか?」
おい。遊園地で遊ぶつもりかよ。再三になるけど寒いでしょう。イルミネーションまでもたないって。それにイルミ行くなら日曜はダメだって。
それまでの会話で、一度もお互いの名前を呼んでいなかったので、分からずじまいだった。
「じゃあ、そろそろ行く?」
男は伝票を手にしてレジへ向かった。
地下鉄の生温い風が首筋を掠めた。と思ったら温かなポタージュが運ばれてきていた。
『私じゃなくてもいいんだけど、私でもいいんでしょう? 』
そんな風にちっぽけな自尊心を満たしてるだけでほんとは疲れて明日もきっと悲しい。でもそんな足りない日々が心地良くなった今日このごろです。
優しい嘘なんてない、嘘は嘘だから。わたし、いい人のふりして、ちょっとだけ悪者なのかも(笑)
深い悲しみはいらない。そのかわり深い喜びもいらない。平穏がいちばん。でもその平穏はいつからか徒労に思えてきた。それにしても80年は長すぎる。衰える、崩れていく、ひび割れていく。ああ、乾いて仕方ありません。そうだ、子どもでもつくれば良かったのでしょうか? そうです、気づくのが遅すぎましたね。
結婚を目指して婚活ガチャを引き続ける。でも欲しいカプセルは出てこない、コンプリートできない。不細工ばっかなのは俺が悪いんだろうか。
「何のために生きているのか? 」こんなテンプレ発言笑える、って一人で自嘲する(笑)。朝起きて、会社行って、半額弁当買って帰って、週末毎に違う女と会って。また月曜が来て、生きる作業を繰り返す。きっと時期が遅すぎたんだろう。当たり前の幸せは当たり前じゃなかった。俺はあいつらとは違う、妥協したあいつらとは。生温い幸せで満足してるあいつらとは。いやまてよおれが妥協したのではなくおれが見合う人間になる努力を妥協してたんだろうか?
ああ最早生きることが徒労に思える。仕方ないからBB弾を拾って詰める。打ってみることはしない。いつまで続けるのか。
弾倉はもういっぱいだ、打ってしまわないと。さあ、どこへ?
実際には「議論に参加してるはずなのに、その場で議題に上がってない規範を押し付けられてる」のが現実。
民主主義という議論のテーブルの外での「議論」がなぜか民主的な規範のようにふるまってる可笑しさ。
おれはポリコレ議論へは参加してないし、それがいつ何の資格のもとでだれによって行われどう定義されどのような内容で誰の名のもとに法制化されたのか知らない。
子供部屋もあるが、狭いながらも念願の書斎が手に入った。書斎というが、要は父親専用の個室だ(我が家は夫婦同寝なのでベッドは無い)
ちなみに趣味が模型なので、備え付けの机に工具や塗装道具も置いて、これからはバリバリ作るぞ!と意気込んだ。もう、リビングの端で折りたたみテーブルでちまちまやれば良いんだ!と喜んだ
まぁ、これが作らないんだよ。そもそも書斎に行かない。確かに一人になれる。逆に家族をまったく感じない。リビングだったら周りの音聞いて、なんとなく夕飯の時間かな?とか、子供が見てきたり遊んで欲しいって言ってきたけど、書斎じゃ夕飯は呼ばれるまで分からないし、子供も寄り付かない。集中は出来るけど、寂しさは積もる。入ったこと無いけど独居房の気分
結局耐えられなくなってリビングでプラモ作ってる。なんだかんだ家族を感じてるくらいがちょうど良い。書斎はそのうち納戸か、プラモを積む部屋になるのだろう
もしかしたら、もう少し日差しが良かったり、もう少し広かったり、ベッドも置いて完全に自室にしたら変わったのかもしれないが、それを家庭内別居と思ってしまう自分には無理だったのかも
ちなみに「奥さんは引っ込んでくれた方が喜ぶ」とか「奥さんの部屋はないのか?」って言われそうだが、部屋よりデカイウォーキングクローゼットを希望したし、そこまで倦怠期でも無い
食券制を除く多くのチェーン店では、注文した料理の配膳と同時に伝票が置かれるだろう。伝票は、小さなバインダーで挟んで伏せられるか、透明な筒に丸めて入れられるか、いずれにしても客に見せないようにして置かれる。
私は料理を食べる前に伝票を確認するようにしているが、他の人が伝票を確認しているのを見たことがない。みんな伝票をいつ確認しているのだろうか?食べ終わってから?それとも確認せずにレジに持っていく?
伝票を確認するのはわずかな時間なので、その瞬間を見たり見られたりすることはまず無いだろう。私はほんの二、三秒確認するだけなので、多分見られてないと思う。出された料理を食べずに伝票を数十秒もじっと見ていたら、怪しい人認定されてしまう。
ちなみに、私が伝票を注意するきっかけになったあらましを述べる。(これ以降はただの実体験なので読まなくてよい)
食べ放題の店に行き「大人1人」と注文。その際「ドリンクバーはいかがですか」と勧められるが、結構と断る(ドリンクバーは別料金)。この店でドリンクバーを勧められるのは初めてだ、妙だな、と思いながら皿に好きな料理を盛り付ける。席に着き料理を食べようとした時、ちょうど隣の空席に別の客が来て、その客も店員にドリンクバーを勧められているのを見る。この店はドリンクバーを勧めるようになったのだなと思い店員をチラと見ると、自席の伝票がたまたま目に入ったので確認してみた。そこには注文していないドリンクバーが書かれていた。すぐ店員に声をかけ、頼んでいないことと水以外の飲み物を取っていないことを説明し、すぐに伝票を修正してもらえた。
もし、この誤りに気付かなかったらと想像したらぞっとした。私は頼んでもいないドリンクバー代の支払いを断ることができたであろうか?たぶん無理だ。食後のテーブルを片付けられたら証拠は無くなるし、レジ前で頼んでいないから無しにしろと言ったら、傍目に見てごねているやばい客だ。
https://courrier.jp/news/archives/150572/
何も言ってなくない?
何か奇抜なこと言ってる?面白いこと言ってる?
自分はそもそも演説で感動させる奴ってキング牧師であろうとヒゲ伍長であろうと全部嫌いなんだけど、
それでもこれはないw
正義は、母たち、父たち、すべての両親が子供たちと一緒にちゃんと時間を過ごせること。
こんな凡庸陳腐な文句を「キング牧師ばり」と言っちゃうのはさすがにキング牧師への冒涜では?
I Have a Dreamを読んでこいよ。
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2368/
全然違うだろ。
違うのはわかるよな?
わからない奴はもうここで閉じていいぞ。お前はそれでいいや。
演説で政局動かすマンが嫌いな自分でもI Have a Dream自体は認めざるを得ない。
このキング牧師のI Have a Dreamと、この女下院議員の子供の作文みたいなものを、並べますか?
はてなは国語的素養の低いポンチプログラマーしかいないから味噌と糞の区別もつかないのだろうか。
そして本当に不思議なんだけど、
感動的な演説できる政治家が有能な政治家だとか誠実な政治家だなんてどうして考えられるの?頭悪すぎじゃない?
(そして何度でも言うけどこの最年少女性下院議員の演説は感動的ですらないただのガーベッジですよ?)
更に不可解さを増すのが、あんたら自身にその方向の能力が全然ないってこと。
それどころか何がよい演説で何が出来の悪い演説なのかを自己判断する脳みそすらない。
クーリエジャポンが「キング牧師ばり」「最年少」「女性」って言いながら紹介しただけで
こんなどうしょもない、見るべきところが何もない、内容空疎なゴミを評価しちゃうんだもん。
自分達が全然不得意で良し悪しの判別すらつかないジャンルに大事なもの賭けすぎじゃない?
なんでそんなこと出来るのかというと
・そもそもその先がどうなるかよく考えてない
フラットに考えてみなよ。
もしくは、これまでの社会制度の改善には本当に感動が必要だった?
なんで感動の効果を計測もせずに信じてるのかわからない。バカなんじゃないの?
危険な作用についてもあわせて考えたことがないよね?やっぱりバカなんじゃないの?
君達は君達の嫌いな政党に演説上手な若手が出現して急激に台頭したらどんな反応になる?
「衆愚」「危険なポピュリズム」「中身のない巧言令色」って言うんじゃないの?
それと同じことをどうしてやる?
(そしてしつこいようだけど冒頭の女性下院議員は演説すら上手くありません
あれをいい演説とか言うのはひいきの引き倒しで、そういう身内だけで通じるオナニーばっかしてるから勝負に弱くなるんだよ。
キング牧師やヒットラーは元々の支持者じゃない人間の心まで掴んで扇動するパワーがあったから歴史に名を残したんじゃないのか)
2019年に「正義」という言葉を振り回せるのは傲慢かバカかその両方だと判じられて仕方ありません。
「自明の正義」とかバカなこと言い出すのってなんとなく保守のイメージがあったんだけど
最近はなんかリベラルサイドが正義正義って言って、突っ込まれると不満そうな顔してるのをよく見かける。
キング牧師がI Have a Dreamで正義に訴えたのは50年以上前よ。
あの頃はもっと社会は素朴で、アメリカは正義の国だと疑うアメリカ国民はいなかったし、正義という言葉は陳腐化していなかった。
(それ以外にもキング牧師の「正義」の使い方には工夫と言葉への鋭さがあるんだけどそれはここで国語の成績低い奴等に説明してもしょうがないから省略)
十分に分断されきった国でだらだらっと「正義」を言い出して誰の心が動きますか。どうユナイテッド出来ますか。
遠い日本の反応ですら分断的でしょう。
それにしたって、返す返すも、あの女性下院議員の演説はゴミだけどな。
私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。
この1文にすら負けてるでしょう。
彼女の演説全文聞いてもキング牧師のこの1文の100分の1も胸に迫らないでしょう。
内容自体もくだらないからだけど、そもそも国語的な能力が全然違うんだよ。
キング牧師の演説が喚起するようなイマジネーションがどこにある?
キング牧師の演説は雄大なイメージがありありと目に浮かぶだろうが(だからやべーんだけど)。
寝言は寝て言えよ。
5月15日当日は日曜日で、銃殺された犬養首相は終日官邸にいた。
第一組9人は、三上卓海軍中尉、黒岩勇海軍予備少尉、陸軍士官学校本科生の後藤映範、八木春雄、石関栄の5人を表門組、山岸宏海軍中尉、村山格之海軍少尉、陸軍士官学校本科生の篠原市之助、野村三郎の4人を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官邸に侵入。表門組の三上は官邸の日本館の洋式客間で、警備の田中五郎巡査を銃撃し重傷を負わせた(田中五郎巡査は5月26日に死亡する[1])。
表門組と裏門組は日本館内で合流。三上は日本館の食堂で犬養首相を発見すると、直ちに拳銃を首相に向け引き金を引いたが[注釈 1]たまたま弾丸が装填されていなかったため発射されなかった。三上は首相の誘導で15畳敷の和室の客間に移動する途中に大声で全員に首相発見を知らせた[2]。客間に入ると首相は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで首相の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。
しかし一同起立のまま客間で首相を取り囲み、三上が首相といくつかの問答をしている時、山岸宏が突然「問答無用、射て、射て」と大声で叫んだ。ちょうどその瞬間に遅れて客間に入って来た黒岩勇が山岸の声に応じて[3]犬養首相の頭部左側を銃撃、次いで三上も頭部右側を銃撃し、犬養首相に重傷を負わせた。すぐに山岸の引き揚げの指示で9人は日本館の玄関から外庭に出たが、そこに平山八十松巡査が木刀で立ち向かおうとしたため、黒岩と村山が一発ずつ平山巡査を銃撃して負傷させ、官邸裏門から立ち去った[4][注釈 2]。
それでも犬養首相はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。
俺が6割くらいは円満でいられる方法を教えるから、これからの夫婦生活を大事にしたい人は実践して欲しい。
③ありがとうで会話を終わらせる
これらが大事。なんとなくわかる人もそうでない人もいるだろうから解説していく。
買い物とかデートとか一緒にいる時間てのは相手の存在を認めた上で成り立つ時間だ。しかし、夫婦ともなると意識したくない瞬間に相手が割り込んでくることがままある。
例えば、食後のテーブルに残った食器や引きっぱなしのイス、お風呂に残った泡や上げっぱなしの便座。これらは、共有するはずのなかった時間を、無自覚に共有してしまう。
他にもある。糞デカ溜め息やいびき、笑い声やよっこいしょ暑い寒いみたいな小言なんかも割り込んで来る。
これらはふとした瞬間に感じるとストレスになる。この積み重ねが、足音すらウザイという関係に発展する。
趣味だろうが友達と遊んでようが、家庭においては相手に迷惑がかからない1人の時間てのはそうそうない。自分が他のことをしている間に、家のことをやってくれている人がいる。外に出てしまうと気付きにくいが、相手の時間も奪っているという無自覚な人は嫌われてしまう。この積み重ねが、好きにすれば?と見放される関係に発展する。
③ありがとうで会話を終わらせる
一緒にいる時間が長くなると、二人の間では高度な役割分担が行われる。あれはこっちがやって、これはあっちがやる、と当たり前のような関係は美しくもある。しかし、中には何で自分が?と思いながらやっていることがある。これに感謝できないと不満がたまり続ける。この積み重ねが、こちらばかり不自由だと憎まれる関係に発展する。
俺は結婚してないししたこともない。ここまで書いたことは想像以外の何物でもない。
私がどんな人だったとしても、なるほどと思ったあなたの心に素直でいて欲しい。
昨今ネットでラディカルすぎるフェミニストが目につくことが増えてきたので、もしかして日本ではフェミニズムって言う言葉は悪い意味で広がりすぎているのかもしれないと思ってるので、自分が把握している範囲で歴史を紐解きつつまとめてみようと思う。
まず、フェミニズムはあくまで「女性の地位向上」が目的として出てきた運動なのはまぁ言葉の通りだよね。男性の地位が高く、女性には発言の自由が認められていない状況をなんとかしようね、というのがフェミニズムの始まり。
だから、フェニミストが声を上げるたびに「じゃあ男性の権利は剥奪される一方で良いのか!」という反論を目にするんだけど、「語源としてフェミニズム」から見た時に、フェミニズムは女性の地位向上が目的なわけで、こういう反論はトンチンカンだとは思います。
ちなみに、男性の地位向上を目指す運動は「マスキュリズム」と呼ばれていたのですが、思ったよりはこの活動は流行らなかったです。
マスキュリズムの考え方はとても良いものだと私も考えます。離婚の際、子供の親権は女性に有利すぎるだとか、そういう女性優遇は確かに存在しますから。
ただ、マスキュリズムが流行らなかったのはマスキュリズムは実質的には「反フェミニズム運動」にしかなれなかった、というところが大きいんですよね。
「フェミニズムなんて活動が出てきたからそれまで保たれていた男女の均衡が崩れたんだ」なんていう言説が出てくるくらいで、はたから見ても「既得権益を守りたい男の言い訳やん」って部分が結構あったわけです。
「女性の地位向上」を目指す古いフェミニズムは、根本的に「そもそも性で地位を区切ろうとしている」ことからは思想的に抜け出せないので、定期的に「女性とは何か」という定義をして、フェミニズムの運動の対象とするかどうかを更新しています。
1960年代は、レズビアンのことを「自らを男性に同一化して女性を愛する女性」ということで、「レズビアンは女性ではない」と定義してレズビアンは排斥されてきた過去もあります。
その後、逆方向に振り切って、「レズビアン・フェミニスト(男性がいない社会を作りたい、ラディカルフェミニストの一派)」なんかが出てきたりもしています
いずれにせよ、フェミニズムは女性の地位向上、果ては男女平等を目指す活動であるはずが、同時に女性とは何かという定義を更新し続けてきたわけです。
ところが、「じゃあLGBTQADを全て男性/女性に切り分けて定義するのか?」となってくると旧来の「女性の地位向上」という枠では立ち行かなくなってきたんですよね。
そこで、現在は「ジェンダー平等」がもっぱら議論のテーブルに上がっているように感じています。
特にリベラルなフェミニストは既に女性の地位向上というよりはジェンダー平等の方を目指しているのでは?
ジェンダー平等という言葉は、「男性/女性/それ以外全て」の性差を撤廃しようという活動なので、男女平等とは異なる概念です。
SDGsのゴールの一つにも名言されてますしね、ジェンダー平等。
特に有名なのは国連も賛同しているHeForShe活動でしょうか。
元々、2014年のエマワトソンの演説では性差の撤廃を述べながら、HeForSheの活動そのものは「フェミニズムは女性だけの問題じゃないから男性も一緒に話し合おう」と言うにとどめていたのですが、2016年頃から「そもそもフェミニズムって女性の地位向上目指してるっぽく見えるし、ちゃんとジェンダー平等を目指そう」って活動に切り替えています。
ただ、ここで気になるのは、エマワトソンの演説と安倍総理の演説の違いです。
エマワトソン演説ではかなり丁寧に「ジェンダー平等」という言葉を選んでいて、「男性も女性も他の性も大変だよね、だからお互い性でくくらない方法を考えようね」と述べているのに対して、当時の総理の演説では、「女性の人権向上」だけがお題目になっていました。
日本にとってのHeForSheの運動は、「ジェンダー平等」ではなくて「女性の地位向上」から変わっていない、ということです。
まぁ、HeForSheも英語の語義的には「女性のために男性は立ち上がれよ」って感じの意味なので、ジェンダー平等を掲げるつもりなら活動の名前も変えたらよかったのでは、と思わなくもないですが。誤解している日本人もかなりの数いるのでは。
ジェンダー平等と日本の考えの差異はエマワトソンのYouTubeの話と安倍総理のレポートの内容を見比べると「マジか」って思うと思います。
http://japan.unwomen.org/ja/news-and-events/in-focus/heforshe
http://japan.unwomen.org/ja/partnerships/japan-commitment
いえ、もちろんSDGsのゴール5だって「ジェンダー平等を達成し、女性の権利向上を」って言っているし、政治的なアプローチとしては未だに「女性の地位向上」をしないとダメってのが現状なのは世界的に見ても間違いないんですけど。
ということで、日本ではまだ「ジェンダー平等」よりも「女性の地位向上」の方がフェミニズムに求められている、というのが現状だと思います。
特にネットを眺めていると、本当にジェンダー平等を目指そうとしているフェミニストっているのか疑問を感じてしまうくらいに、ミサンドリー(男性嫌悪)が蔓延っているように感じています。
確かに、先述したレズビアン・フェミニストに代表されるような急進派のフェミニストは国内外問わずミサンドリー(男性嫌悪)をあからさまにしている人もおり、エマワトソンとかが頑張ってるのに未だに「フェミニスト→ラディカルフェミニスト→ミサンドリー→男性の敵」という理解がされているようにも思います。
日本でも「ポリコレ棒」という表現がありますが、それも上述のようなラディカルなフェミニスト(あるいはマスキュリスト)によって生まれた極端な例の叩き合いでしょう。
こうなると、そろそろ「フェミニスト」って言葉自体、あまり良い意味を持たなくなってしまったなぁ、と悲しくなっています。
例えば「右翼」にとっての「ネトウヨ」や「左翼」にとっての「ネトサ」のように、「極端な人を切り離す言葉」があれば良かったのですが、フェミニストはそれ自体が極端な人を表すレッテルになってしまっていて、今の日本でジェンダー平等を目指そうとする動きに、フェミニストやフェミニズムっていう言葉がノイズになってしまっているように感じます。
今回のトランスジェンダー(MtF/男性から女性に性転換した人)への強烈な差別だって、フェミニストの中には「生まれが男性であればそれは女性と認めない」という人が一定数いて、しかもそういう人が自分こそがフェミニストだとふるまっているから地獄になっているように感じます。
「ラディカルフェミニスト」って言葉が長いのでレッテルとしてあんまり良くないんですよね。ミサンドリストって言うのもなんかうーん、という感じです。
ということで、「ジェンダー平等を目指す人」ってのは本当は沢山いますし、フェミニストの中にもそういう人はたくさんいます。
ただ、もう、そういう人たちは少なくとも日本では「フェミニスト」を名乗ってもあまり得はないと思うので、なんかもっとかっこいい肩書を考えてください。