はてなキーワード: ナインストーリーズとは
はてなーの皆さまこんにちは。今日も元気にウンコ漏らしてますか?初めて投稿します。
物心ついたころからずーっと気になっていたことがありまして。それはズバリ、「みんな作家の文体をどれくらい識別できてるんだろう?」という問題です。
気になった方は、まずは以下の問題に挑戦してみてください。
★以下の①~④と(ア)~(エ)の文章は、それぞれ同じ作家の書いた別の小説作品から、一部抜粋したものです。①と(イ)、②と(ア)...のように、同じ作者の作品どうしを組み合わせてください。
① そして彼が知ったのは、彼等の大部分が、原発というものの実態を把握していないらしいということだった。どこにどれだけの原発があるかも知らず、それが止まるということはどういうことかイメージできないようすだった。原発が止まっても大して困らないんじゃないかという意見もあれば、ろうそくを買うべきだろうかと異常に心配している声もあった。
② この人は母とは本当にお似合いだ。言葉に表現した瞬間、それが的を射ていても、本当のことを言っていても、なぜか必ず嘘っぽく聞こえ、薄っぺらい印象になる。この人のこの言葉と僕の事実とに挟まれて、僕のあの放火未遂っぽい事件は行き場を失ってしまったようだった。
③ 船長主催の晩餐会は、さんざんなていたらくであった。夕刻から、この時期には珍しい西風が吹き始め、それは次第に客船を上下に揺らした。乗客の中でもとりわけ過敏な者は、晩餐会のための服に着替える前に、すでに船酔いにかかって、各自のベッドに臥してしまった。
④ 札幌の街には今年最初の雪が降り始めていた。雨が雪に変わり、雪がまた雨に変わる。札幌の街にあっては雪はそれほどロマンティックなものではない。どちらかというと、それは評判の悪い親戚みたいに見える。
(ア): 夢の中の俺はまだ子供で野球のバットか何かを捜しに来たのだ。暗闇の中で金属バットが触れ合ってカランコロンと甲高い音を響かせる。俺は広いフロアを見渡す。たくさんの影はしんと静まり返って何も動かない。
(イ): バーは、二階に著名なフランス料理店があるビルの三階にあった。長い一枚板のぶあついカウンターと、四人掛けのテーブルが二つあるだけだったが、いかにも酒を飲むところといった風情で、助成の従業員はいなかった。
(ウ): 三人目の相手は大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生だったが、彼女は翌年の春休みにテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。彼女の死体は新学期が始まるまで誰にも気づかれず、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた。今では日が暮れると誰もその林には近づかない。
(エ): 十九年前にさらわれた赤ん坊がどこにいるかを、早く彼女に教えてやらねばばらない。白血病で苦しむ息子が助かる道があることを示してやらねばならない。言葉を発しようと息を吸い込んだ時、小さな疑問が彼の胸に宿った。それは瞬く間に大きくなり、やがては衝撃となって彼の心を揺さぶった。
・答えは↓
【答え】
①- (エ) 東野圭吾
②-(ア) 舞城王太郎
③-(イ) 宮本輝
④-(ウ) 村上春樹
①: 東野圭吾「天空の蜂」(講談社、2015年、p124、ハードカバー版)
②: 舞城王太郎「イキルキス」収録「パッキャラ魔道」(講談社、2010年、p193、ハードカバー版)
③: 宮本輝「海辺の扉(上)」(角川書店、1991年、p151、ハードカバー版)
④: 村上春樹「カンガルー日和」収録「彼女の町と、彼女の緬羊」(平凡社、1983年、p50、ハードカバー版)
(ア): 舞城王太郎「煙か土か食い物」(講談社、2004年、p117、文庫版)
(イ): 宮本輝「海岸列車(上)」(毎日新聞社、1989年、p162、ハードカバー版)
(ウ): 村上春樹「風の歌を聴け」(講談社文庫、1975年、p77、文庫版)
(エ): 東野圭吾「カッコウの卵は誰のもの」(光文社、2010年、p204、ハードカバー版)
いかがでしたでしょうか?
なぜこんな問題を作ったのかといいますと、自分はけっこう文体に敏感な方なのではないかと、密かに感じてきたからです。
同じドラッカーの作品でも、上田惇夫訳の「マネジメント」はすごく好きなのに、上賀裕子訳だとなぜか全然頭に入らなかったりします。趣味で読む本は、好きな著者のおすすめで買ってみたものの、文体が気に入らなくて読み進められないことも多いです。(村上春樹はすごい好きなのに、おすすめのサリンジャー「ナインストーリーズ」は受けつけない、など。翻訳版をよく読む方にはあるあるなのでは)
それぞれの作者ごとに、「この人は勢いがあって脳が活性化する感じ」とか「クールな感じで読んでいても全然感情を感じない」とか「頭の中に繊細で暖かいイメージがふわっと浮かぶ」とか、料理でいう味みたいなものがあります。
小説じゃなくても、エッセイでもビジネス書でも、どんなジャンルにも作者ごとの「味」がある。そして、これはその人の持つ「文体」が決めている部分が大きいと思っています。(本の装丁も全体の1~2割くらいは関係してる気がします。料理を載せる皿によってちょっと味の感じ方が変わる感じ?)
でもこの「味」って、大まかにはみんな感じるところがあるはずだけど、誰もが全く同じように感じていることはあり得ない。みんなで同じ料理を食べていて、「おいしい」「苦い」「熱い」などの大まかな感じも方向性は決まっていても、それをどこまで感じているかは人による。(同じ「辛い」カレーを食べても、人によってピリッとする辛さなのか、喘ぐくらいの辛さなのか、という辛さのニュアンスは異なるはず)
これって料理の味ならみんな共感できると思うんですけど、文章の「味」についてはほとんど議論されない。これって実際はどうなのか、という実験でした。
今回挙げた作家について、個人的に感じる「味」はこんな感じ。(あくまで個人の感想です。前者二人の文体は大好き、後者二人はうーむ。ストーリーはそれぞれ面白いと思います。)
・村上春樹: なんの抵抗もなくすっと頭に入って、胸にふわっと煙みたいに広がって染み渡る。イメージが幻想的ながら、ありありと脳裏に浮かぶ。もう村上春樹っぽいとしか言えない。
・舞城王太郎: 「文圧」のすごさ。リズムと勢いで、パンパン読ませる。胸が暖まって脳が活性化する感じ。文体で読ませる作家。天才。
・東野圭吾: 必要最低限の情報量。情報は伝わるが、感情はあまり伝わってこない。マックのハンバーガーみたいな感じ。
・宮本輝: いいところのお坊っちゃん。淀みなく流れる川のように流麗。美しい文章だが、あといま一歩感情が胸に迫ってこない。脳の活性化がいまいち。
最後までお付き合いいただいたはてなーの皆さん、ありがとうございます!皆さんのやってみた結果は、コメントで教えていただけるとありがたいです。あと余裕のある方、同じような問題作って自分にもやらせて...!!
1年まえくらいに書いた本のことがまだ心に残っているので、そのことについて書こうと思う。
本の題名は「フラニーとズーイ」。村上春樹版の新訳という触れ込みで本屋に平積みにされていたので買ったのがきっかけだったと思う。
作者のサリンジャーのことはもちろんしっていてキャッチャーインザライとナインストーリーズは読んでいた。キャッチャーインザライの方は4回ほど読み返すぐらいには好きだったけど、ナインストーリーズの方はあまりはまらなかった。
で、「フラニーとズーイ」に戻る。未読の人もいるだろうからオチに関するネタばらしはなし。
この本は2個の中短編から構成されて、前半はフラニー、後半はズーイに関する話となる。ちなみにこの二人は兄妹。
「フラニー」篇はフラニーとその彼氏とのデート模様を記したもので、基本的に彼氏目線で進んで行く。
こじゃれたレストランでカエルのサラダ!を食べながら、エリート大学生の彼氏はいくつかの事柄についてご高説を垂れるんだけど、フラニーにはその薄っぺらさ・自意識の強さを瞬時に見抜く。だけどフラニーはそう思う自分自身の自意識を認識しすぎて自己嫌悪に陥ってしまう。
まあこのパートの事はどうでもいい。
「ズーイ」篇は「フラニー」での出来事の少しあと、舞台は家族の家で語られる。フラニーが「フラニー」篇での事件で精神的につらくなってしまい、何も食べずに実家のソファーに引きこもってしまっていて、そのことを母親がいかにも母親的な心配の仕方をしてズーイになんとか助けてやってくれないかとなぜか風呂場で延々と語るところからはじまる。
で、そのしつこすぎる要請をうけて(あるいは何もしなくても自分から動くつもりだったのかもしれないけど)ズーイは妹のところに赴きなんとかその状態から脱するよう説得する。だけどズーイの上から目線で辛辣でしかしあまりにも正確すぎる意見を言われ、フラニーはより深く傷ついてしまう。自分が今まで何度もやったように、また妹を傷つけてしまったことに気づいたズーイは自分の非を自覚しショックを受け一旦妹の元からはなれる。しかしその後、少しトリッキーな方法により兄妹間で再度対話がなされる。
はっきりいってこの導入はだらだらしていて話の筋をつかみにくい。その傾向は一度目のフラニーとの会話でも続いていくが、2人が議論を進めるうちにだんだんと誰しもが一度は感じたことがあるだろう繊細すぎる問題が2人の共通の核となる問題であることが明確になってくる。ここで「繊細すぎる問題」とは非常に言葉にしづらいが、あえて言うなら「『自意識が高く、そのためいつも人を見下してしまう』ことに自分で気づき、自己嫌悪に陥る」ということになるだろうか。
はっきりいってこの時点までは本を読んでいてあまりおもしろいとは思わなかった。
しかし、最後の対話部分を読んでいて、本当に奇跡的な読書体験ができた。それまでズーイは延々とフラニーに対して徹頭徹尾ロジカルなアドバイス(というよりは精神的なえぐりだし)を行ってきたんだけど、最後の5ページあたりから、まったく違うアプローチでの対話を試みる。
その部分は本当に奇跡じみていて、自分はなにか大きな予感を感じながらページをめくっていった。読み進めるうち自然と鳥肌が立った。そして、本当にその予感は的中し、ズーイの言葉によってフラニーも、そして読んでいる自分も圧倒的な力で救われた。自分は信者ではないけど、聖書の中で神が起こす奇跡を体験したら、まさにこのような感じ方になるんじゃないだろうか。その感覚はあまりに言語化しにくいし、自分がなぜこんなに感動したのかもよく分からなかったけど、ただただ昂揚感があった。
なんというか、本を読んでいてこんな体験をしたのは初めてかもしれない。