はてなキーワード: 気づきとは
何を考えているのか、よく分からない……。
TLにちらほら、登場人物がこんなことを語っているのが、スクショで沢山流れて来て。
「愛なんか後付け」
相当前の漫画みたいで、読んだことがなかったからマンガ喫茶で読んで2度ひっくり返った。
でも、なんで広末涼子や上原多香子みたいな女がいるかは、これで理解できた。
あと、「そんな子どこにいるんよ」って思ってた婚活女子の挙動のナゾも、一気に氷解した気がする。
気づきがあったようで何より。
元々の話題に遡って、「クライアントと提案者」という関係において説明してみる。
この関係において、クライアント側は提案者に何らかの提案、新しいプロジェクト、新しい知見を期待してるんだよ。そのために金を払ってる(あるいは将来的に払うことを検討している)。
つまりクライアントは、提案者の発言に対して自分の側が「なるほど」と言いたいんだよ。そういうやり取りや進捗を期待している。「なるほど」と気づきを得て、それが自社利益の糧になり、金を払いたい。そういう関係を築きたい。
にも関わらず、提案者側が「なるほどですね」っていっていたら(特に連発してたら)そりゃ、カチンとくる場面はあるよ。その種のやり取りが定番化すると、「提案する」「新しい知見をもたらす」という自分の業務を投げ捨てて受け身でいるように感じられるからだ。「こっちは金を払ってるクライアントであってあなたの指導教官ではない。あなたがそうやって納得してふむふむうなずいてて、わたしの側は何の得があるのだ?」と思う。それが積み重なれば、「こいつ仕事する気ないな」「小馬鹿にしてるんだな」と感じたりもするよ。
だからこの問題は、言葉遣い単独の問題じゃなくて、関係性とかその時の会話の流れが絡む問題なので難しいんだ。そういう問題なので「代替の言葉」とか「言い回しを変えれば」なんて対症療法はないし、あっても無意味だ。
この問題は、上司と部下なんかにも発生しうる。上司は部下の教育も業務の一部だから、何かを部下に説明するなり指示する過程で「なるほど、わかりました」「なるほどですね」と言われても、一般論では、それが即座に礼儀知らずとまではゆかない。しかし、そこに至るまでの経緯で何度も説明したことであったり、そもそもやり取りで今は部下の側にボールがある(たとえば指示された業務が部下側にある)にも関わらず「あー。なるほどですね」って言われたら「ああ、こいつ理解してるふうなこと言ってるけど理解してないし、理解する気もないし、自分で判断する気も行動する気もないんだな」ってなる。
そんなわけで、これは言葉遣いの問題じゃないんだ。でも別にそんな単語や言い回しなんて珍しいものじゃない。たとえば「部長は聡明ですね」なんてコメントひとつだって、言って良いシーンとそれを言ったら相手を激怒させるシーンってあるわけでしょう? そんな言い回し一般会話の中にありふれてる。
それを言葉遣いの問題だと考えて言い回しや言い換えを探している時点で、コミュニケーション相手の期待や失望を理解してないっていう自己紹介になってる。そういうひとは、読解能力やコミュニケーション理解力の低さが根深くてやばいよ。
事前情報なしで見たから俺も感想を自分で作り出して放流する。超ネタバレだけど許して。適当にたたき台にでもして。
ジブリで見たことのある◯◯を色々な場面で感じ取れたので良かった。それを書いてたら長くなったからそれ単体で放流。ネタバレ怖い人は今日の夕食でも残してってよ。
はじめに、絵が超ぬるぬる動くからびっくりした。最初、空襲で町が混沌とする様子は印象が強すぎて忘れられない。急いで外に出るために着替えるシーンは、ただ服を着てるだけなのに焦る気分になった。火事の燃えカスや灰が舞うシーンですらヌルヌル。火事に騒然としてて、街の人みんなが動いているようなシーンは、見るところが多すぎて目が足りない。主人公視点の走っているシーン(人混みを分けつつ進む、火が強すぎて目が開けられない、危ないから下がって!と叫ぶ大人の手が映る)はアニメーションなのにリアルだった。予約できた席がドルビーアトモスの高い席しか無かった(そこしか残ってなかった)が、ここのシーンだけで掌を返した。
はじめにあ〜〜ジブリ見に来たな……と実感が湧いたのも空襲警報のシーン。何かが起きている事に気づき、思わず廊下を走り出すシーン。廊下を裸足で全力で駆けるシーン(カメラは正面)はジブリ。(自分調べ)
お屋敷の婆さんたちの描き方は千と千尋の神隠しを思い出した。シワが多く腰は曲がっていて集まると話が止まらないという特徴も、監督が抱いているイメージなんだろうなと勝手に思った。サバ缶やコンビーフ、砂糖で盛り上がるのもめっちゃすき。
対照的に、塔の世界における姉御肌の人もジブリではおなじみだった。力強くヨットを引くシーンは迫力があった。キビキビ漕ぐ、魚もさばける、「あんたも手伝いな!」は正直聴きたかったやつ。
手作りした弓矢が勝手に加速するシーン。ちょっともののけ姫のシーンを思い出したからか、本気でアオサギに当たらないかドギマギしてしまった。加速して迫ってくる感じ、風切り音が恐ろしい。
ジブリ序盤における「今日からここが君の部屋だよ」概念、あるよね……長年使われてないけど、綺麗な状態なのがポイント高い。柄付のベッドが本当にすき。閉まりが悪い窓がだいたい悪さをしている。
ジブリにおける別世界で、大変な目にあいながらも運良く転がり込んだ先で、べらぼうに美味い飯を食う概念。これも好きすぎてたまらん。「あんた、どこから来たのさ」「かくかくしかじかで……」「ふーん……頑張りなよ」みたいなやつ。救われる。
飛行機のコックピット?の骨組みを父親が「綺麗だろ?」って言ったときに「美しいですね」が出てきた部分は風立ちぬを思い出した。飛行機の持つ、工業製品らしからぬ曲線美は見る人が見ると魅力があるのだろうと思ったり。
バスのエンジンをかけ直すシーン。バカうるさい振動と焦げ臭そうな匂いを強烈に感じた。正直今の世界では二度と見ないだろうけど、昔の人にとっては大事な原風景だろうなと思う。
禁忌の間における紙、紙垂の表現も畏れ多くてゾクゾクした。入り込むと露骨に態度を一変させ、まとわりついてくるのもどこかで見た景色でニヤついてしまった。シーン的には、それどころじゃないシーン。
インコ王が積み木をぞんざいにして謎の石が癇癪を起こすシーン(破裂したのかよく分からん)があるけど、あのシーンにはもののけ姫の祟神らしさを感じた。おどろおどろしい液体が顔にまとわりつく感じが堪らない。
最後に理想郷を壊して帰るのはラピュタぽくもあった。隣に居た女の子はお母さんだし、破壊の発端は手が出るのが早い傲慢な王だし色々条件は違うけども。なにげに一緒に行動した可愛い女の子が若い頃の母親なのやばくない?母性……というか性癖出ていないか?
最後のCGぽさが残る岩がめちゃくちゃ怖かった。全部の事象を筆致のあるアニメーションでやる中でのフルCG謎岩はまさにこの世のものではないような雰囲気があった。アニメの線画と比べて、明らかに解像度も高いんだけど、それもこの世の物とは粒度が違う(物質が違う)ような雰囲気を感じられた。CGと手書きの両立が一番引き立つシーンだと感じた。考えすぎかもしれん。
●強引に締める
何が言いたかったかとか意味を見出すとするとすごい偏った考えしか出なかったのでこれは別の機会に書きたい。一言で表すと「やっぱ神は下々の存在に興味ないよな」に尽きた。どう生きたいかって話なら、俺はアオサギみたいになりたいよ。
以下のエントリにぶら下がったはてな民によるブコメを読んでいて、「ああやっぱりいつのもはてな民達だ…」などとぼんやり考えていたらふと、芥川龍之介の蜘蛛の糸を思い出した。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-509289.html
血の池地獄で他の罪人と共に浮き沈みを繰り返していたカンダタは、生前にたった一度、蜘蛛を殺さなかった。たったそれだけの「良いこと」をその血の池地獄の様子をたまたま眺めていた天上界のお釈迦様が思い出し、天界から蜘蛛の糸を垂らしてカンダタを地獄から救ってあげようとしたが、その蜘蛛の糸を上っていたカンダタは、自分の後から続々と上ってきた他の罪人に気づき、「こらっ!落ちてまうやろ!上ってくんな!」と叫んだら、その瞬間、糸はプチッと切れて血の池地獄に真っ逆さま、というあの話だ。
ていうか、田野氏の2年前のツイート炎上の時もそう思ってた。芥川龍之介が始めた書いた童話だそうだが、芥川が伝えたかったことは曖昧で何か教訓めいたものがあるのかないのかよくわからない、と聞いたことがある。ただしかし、私は単純に、「ナチスは良いこともしていたのでは?」なるよくある言い分は、この蜘蛛の糸にそっくりな気がずっとしていたものだ。
蜘蛛の糸を喩えとみなせば、そのような一般的な言い分を認める人たちは、2派に分かれる。一派は、「ナチスは実は良いこともしていたじゃないか」として、絶対悪の淵から救い出そうとする勢力だ。これがおそらくそのような主張をする人たちの大半であろうと思われる。だから、それらの一派は蜘蛛の糸を絶対に切ったりはしない。たとえばそれらの良いことの実例の一つや二つ否定されたからと言って、それらの人たちは次から次へと蜘蛛の糸を垂らしてナチスを救い上げようとするのである。
もう一派は、蜘蛛の糸の話そのもの、みたいなものだ。良いことをしていたかもしれないことは認めるが、ホロコーストなどの悪行のせいで絶対悪の淵からは救い出せぬ、とするのである。まるでその人達は、天上界のお釈迦さまそのもののようでもある。
id:NOV1975 対戦相手を全否定するのって中々の悪手で、観客にその否定の一部でも「いやそれは正しくね?」と思わせてしまえば全否定という主張の根幹が崩れる、という最大級の弱点を無視する人多すぎ問題。
このブコメなどはまさにお釈迦さま視点である。このブコメの裏を取れば、全否定しなくとも、ナチスは否定できると言っているようなものであり、どんなにナチスに良いことがあろうとも、ブチっと蜘蛛の糸を切って血の池地獄に落としてしまえさえすればいいだけじゃないか、となるのである。
話は少し変わるけど、私自身がしょっちゅうはてな民は、お釈迦様みたいなものかもしれん、と思ってたりする。とにかく「偉そう」な物言いを常にするからだ(笑)。いや、ネット民なんてはてなに限らず、ほとんどそんなもんなのだけれど、はてな民は若干だか平均して知性が高いように思わせる「何か」があるので、その分だけお釈迦様度は高いように思われるのだ。
さて、話を戻すと、一つ言いたいのは、これらブコメを書いたはてな民たちの何人が一体、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読んだのか?って話だ。この本は共著であり、およそその半分を小野寺拓也氏が著述しているのである。小野寺氏はウルリッヒ・ヘルベルトの『第三帝国』の翻訳者でもある(それがどうしたとか言わないでね。知る人ぞ知る名著です)。流石に二人とも現役のドイツ現代史研究者であり、『「良いこと」もしたのか?』は、極めて実証的に著述されている。もちろん、現代の学術的見解にも精通しているお二人だ。その観点で、記述内容自体は必要十分には詳細であり且つ正確だと考えられる。ナチスの経済政策や、労働政策、環境政策や健康政策などなど、それらが具体的にどんなものであったかを知るための入門書として非常に良書であると思われる。実際、このようにナチスの具体的な政策について概括的に知ることのできる本はこれまであまりなかったからである。『ナチスの発明』?あんなもんただのクソ本だ。ハーケンクロイツをデカデカと表紙にするセンスがそもそも信じ難い。
したがって、まずはちゃんと読んでほしいと言いたいところではある(たかだか100ページ程度の本だ)のだが、実は、同著は別に全否定しているわけでもない。確かに、田野氏は「ひとっつも良いとこなんてないですよ」とツイートでしたからこそ炎上したのだけれど、同著の記述方法は、まずは一般に言われるような「良いこと」を具体的に一つずつ、項目としてあげて丁寧にそれを「良いこと」として詳述するところから始めている。つまり、そこだけ読んで、その後の説明さえ読まなければ、ナチスは良いことばかりしていたかのように読むことさえ可能な本なのである(笑)。その辺が、小野寺・田野氏両名の学者として誠実なところではないかとさえ言い得る。つまり最初からナチスの政策を腐しているわけではないのだ。
結果的には評価として、ナチスの政策は良いところなんて一つもなかったと、結果論として評せざるを得ないことは確かである。その象徴が、現在もバルト海沿岸に残されている『プローラの巨人』と呼ばれる、ナチスドイツの歓喜力公団(Kraft durch Freude)が建設していた巨大リゾート施設である。同著では詳しい記述はないが、同施設は労働者が無料で使用できるリゾート施設になるはずだった。が、戦争が始まると、建設は中途で中止されてしまい、使用されることはなかった。現在は歴史的建造物として、廃墟のまま放置されている(以下追記)。しかし、ナチは確かに労働者に喜びや活力を与えようと、余暇を十分楽しめるように政策を実行しようとしていた証拠ではあるのだ。詐欺集団が実際には存在しない投資物件への投資を求めるのとは訳が違う。ただしそれもこれも、戦争の波の前に全て頓挫してしまったので、「夢」としては良いことかもしれないが、「現実」には良いことがあったとは言えないことになる。しかしその全てを台無しにした戦争を始めたのもヒトラーなのである。
個人的には、お釈迦さま視点など要らないと思う。個々人が個々人自身によって、ナチスにも良いところがあったのでは?と思うのであるならば、批判的視点を忘れずに、それを可能な範囲で自ら学ぶべきだと思う。否定・肯定を抜きにして、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』は、知性高いはてな民にとってすらも良書だと思うのだが。1000円未満で買えるんだぞ(笑)。
追記:プローラの巨人については私自身の記憶が曖昧且つ古かったようで、再利用化が進んでいるようだ。以下、英語版ウィキペディアから機械翻訳そのまま(修正なし)でコピペする。
売却と再開発
2004年、10年以上にわたって敷地全体の売却が試みられたが失敗に終わった後、建物の各ブロックは様々な用途のために個別に売却され始めた[1]。 2004年9月23日、ブロック6は入札者不明で62万5,000ユーロで落札された[1]。 2005年2月23日、旧ミュージアム・マイルのブロック3はInselbogen GmbHに売却され、同社は建物をホテルとして使用すると発表した。2006年10月、ブロック1とブロック2はProra Projektentwicklungs GmbHに売却された。しかし、ブロック1は2012年3月31日に競売にかけられ、ベルリンの投資家が275万ユーロで購入した。
2006年11月、連邦不動産庁がブロック5を購入した。連邦政府とメクレンブルク=フォアポンメルン州からの財政支援を受けて、この建物にユースホステルを設立する計画だった。複合施設の最北端に位置するこの建物は、5つの連続した部分に分割された。
2008年末、プロラが本来の目的を果たし、近代的な観光リゾートに生まれ変わる計画が承認された。同協議会は、3,000人が住めるだけの居住スペースとユースホステル、観光客向けのアメニティを建設する計画を打ち出した。地元議員のケルスティン・カスナー氏は、プロラの海岸を「カリブ海のビーチ」に例えた。しかし、この決定は、すでにこの地域には観光客が多すぎると感じていたビンツの地元住民や、プロラの歴史家であるハイケ・タゴルド氏からは懐疑的な意見もあり、また、町の過去の歴史から観光客には不適切な場所だとも言われた。とはいえ、2011年には、かねてから計画されていた96室402ベッドの大型ユースホステルがオープンし、ドイツ最大のユースホステルとして人気を博している。低予算志向の観光客に向けた施設の拡張の可能性も提案されている[8]。
2010年9月、ドイツとオーストリアの投資家グループにより、1号棟と2号棟を高齢者向け住宅として改修し、テニスコートとスイミングプール、小規模なショッピングセンターを備えた300ベッドのホテルを建設する計画が発表された。投資額は1億ユーロと見積もられている。
2013年、ドイツのメトロポール・マーケティング社がプロラを改装し、サマーハウスとして販売する権利を購入した[9]。その年までに、いわゆるコロッサスの改装済みアパートメントが1戸70万ユーロ(90万米ドル)で販売された[4]。2016年、ブロック1に新しいアパートの第一号がオープンした[10] ブロック2のホテル「プロラ・ソリテア」は2016年夏に合わせてオープンし、2017年半ばには同ブロックで再建されたアパートの一部が売りに出された。当時、建物のうち4棟は再開発の過程にあり、5棟目はユースホステルとして使用され、残りの3棟は廃墟のままであった[4][11][12]。
2017年11月の更新によれば、ブロック1のユニット(フラット)のほとんどは、ハンブルクやベルリンに住む人々のための夏の家として販売され、売却されていた[7]。多くの所有者は、Airbnb[13]やHomeAway[14]などのサイトに短期賃貸として掲載していた。
七夕にまつわる「本当にあった怖い話」を吐き出します。(ちなみに私はとあるテレビ局で働いている者です。)
2021年の夏、日本中で外出自粛が求められていた頃。ある番組の盛り上げ策の一環で、ウェブ上で視聴者が参加できる企画を考えていました。ちょうど七夕前だったので「オンライン短冊」なんてどうかなと。
良いアイデアだと思ったんですが、検索してみたら似たようなサイトがたくさん出てきて「そりゃ誰でも思いつくよな~」と反省したものです。せっかくなのでどんな願い事が書いてあるのか覗いてみました。
などなど。その中に気になる短冊があったんです。どうやらカップルで書いて投稿している感じ。
2枚連続で短冊の投稿がありました。ネット上でイチャイチャするなよ!という気持ちも抱きつつ、さらに投稿を遡っていくと、えりとけんじのセットの短冊が何枚も出てくるんですよね。
「けんじくんと一緒に住みたい えり」
このあたりから少し気持ち悪さを感じました。えりとけんじの短冊に対する思い入れの強さが、なんだか異様に思えて。僕もここでやめておけばよかったのですが、気になる気持ちは止められず...もうしばらく遡ってみました。すると、突然けんじの短冊だけになるんです。
ゾッとしつつも少しして理解しました。これ、おそらくけんじって子がずっとえりちゃんに対して片想いしてたんだろうなと。えりと付き合う前の時期に自分で何度も投稿して、最終的に付き合ってから「実はこんな投稿してたんだ」とか言いながら、今は仲良くカップルで短冊を投稿してるってことかなと。
そう考えるとこれまで見てきた短冊も微笑ましい気がしてきました。付き合うきっかけとなったオンライン短冊にカップルの重要な出来事を残していたのかなと。怖さもなくなり、俄然興味が湧いてきて、もっと前のけんじの投稿はないのかなと、さらに過去の投稿を遡ってみたんです。そしたら...
「けんじくん許して えり」
古い投稿にはけんじの投稿はなく、えりの投稿ばかり。そこでようやく真実に気づきました。
「これ最初から最後まで全部えりが1人で投稿しているんだ」と。何かがあってけんじに嫌われてしまったえり。そしてどうやらけんじはカオリという女性と付き合った。当初えりは短冊に自分の想いを託すが、それに止まらず、勝手にけんじを名乗って、けんじ目線の短冊を書きはじめる...
そしてカップルのふりをして投稿していたのが最新のあの2枚並んだ投稿なのです。すべてはえりの一方的な願い。叶わぬ恋。七夕にふさわしい言霊の使い方なのかもしれないですが、なんとも言えない気持ちになってきました。
この話はこれで終わりです。まぁそんなに怖いってほどでもないですかね。あ、この話、後日談もあるんです。
ふと、2021年の冬、まだサイトが残っているのか気になって、探してみたんですよ。そしたらまだサイトは生きていて、そこの最新ページの短冊を見ると...
元教師と元教え子である。相手(以下Aとする)一線を引き続けられているが、おそらく不倫の片棒は担がされていない。
知り合ってから約10年、体の関係をもつようになってから約5年である。
Aは私が大学生になった頃くらいから事業をしているが、コロナ禍前後から経営が怪しくなってきたためちょこちょことお金を渡すことがあった。
それがしばらく続いていたが、昨年ついにかなり厳しくなり、一括で30万円ほど送金した。読んでる人からは愚かだと思われても仕方ないと思う。
今はひと月にだいたい5万円+αを渡す形である。
春先に貯金がゼロになったあたりから何となく精神の不調を感じるようになったが、元来メンヘラだったこともあり、寒暖差で情緒がバグったのだろうと思っていた。
初夏に入っても情緒はバグり続けたままで、ボーナスが入ることを考慮しても送金することに抵抗を感じるようになった。
Aと会うのはだいたい1ヶ月に1回から3ヶ月に1回の間である。基本的にはホテルであって、2〜3時間程度一緒に過ごせば終わりである。大学時代は私の部屋であっており、過ごす時間も長かったので不満はある。
また、Aはピロートークで小言というか説教というか悪意のある言い方になってしまうが、そういう話をすることがたびたびある。元教師と元教え子という関係上、あまり抵抗はなかったが、上記の不満や疲弊から「親子ほど年の離れた女の体に欲情して射精したくせに」と思うことが増えてきた。
先日、Aから「家電が壊れてしまったから少しお金をもらいたい」と言われて数万円送金した。その際に感謝の言葉がもらえなかったことを未だに根に持っている。
収入と支出がほぼトントンであることを差し引いても私が疲弊しているのにはある理由がある。
育ちが悪いので援助交際の経験はあるのだが、学生の間片手間にやっていたのと社会人として働きながらやるのは消耗の度合いが違いすぎる。
アプリは無法地帯の様相を呈していたため、交際クラブのみで活動している。⚒️では1回あたり5万円ほどいただいているが、色んな意味で消耗する。相手と会った帰り道に自分の体からホテルのボディソープの匂いがすると猛烈に死にたくなる。
まだ定期と言えるほどの頻度で会っている人はいないが、月に3回以上⚒️しようものなら情緒バグが悪化してうっかり自殺してしまう気がする。
Aにここまでしてしまうのは「少なくとも自分は味方だから」、「自分の視界の外で勝手に死のうとするな」等の言葉をもらったことが要因だと考えている。先ほども言ったが育ちが悪いので我が家には父親がおらず、中学生の頃などはAに対して父性のようなものを求めていた節がある。
父性を求めたり、異性として意識したりするまではまあ…と思わなくもないがもうこのザマなので何も分からない。
Aと関係をもっていることは誰も知らないし、母はもちろんAと面識があるが、私がお金を渡していることは知らない。
私は帰省するたびに「今までの恩返しでAの仕事を手伝う」という名目でAと会っているが母は私には何も言わない。私がAのことを好き程度は考えているかもしれないが正常性バイアスが強い人なので何も気づいていないと思う。
育ちは悪いが母が苦しみながら私たちを育ててくれたのは事実なので、LINEなどで連絡が来るたび罪悪感をおぼえている。
誰も何もこの状況を知らないため、誰にも相談することができないままここまできてしまった。
Aは私がパパ活をしていることを知ったら売女だとなじるだろうか。
(追記)
深夜に殴り書きしたこんなキモい文章を読んでくださってありがとうございます。
本当はもう全部が嫌になっているのは自分でも分かっていたのですが、付き合いが長かったり、渡したお金が3桁を超えていることから(コンコルド効果?)ずるずる続けてしまっていました。
全部嫌なのに自分のやってきたことが間違いだって認めたくない自己矛盾でぐるぐるしていたのですが、みなさんからのコメントを読んで「やっぱり異常なんだな、私が変なわけじゃないんだ」と少し安心することができました。
ありがとうございました。
(追記2)
金額を再確認したら変な笑いが出たので自戒を込めてインターネットに放流します。
2023年入ってからだけでこれで、2022年は20万弱、それ以前は記録が追えないのですが手渡しでちょこちょこ渡していたのでやっぱり3桁超えてました。
実際教師としての手腕が良かった、保護者からの評判もかなり良かったことを知ってるが故にどうしてこんなことになっちゃったんだろうと思います。グルーミングというワードも出ていますが、私が中学生の頃からAから「良い金ヅルになりそうだ」と思われていたのかな。
あと、妙齢の女と中年男性の間で体の関係が発生した場合ってはてなという場でもやっぱり金を渡すべきは中年男性→妙齢の女だと考えられてるんだなとなんか変な気づきというか学びがありました。私は特別容姿が良いわけでもない普通の成人女性なのですが、「穴として見てる」というのは本当にその通りなのだなと思います。
第三者から見ても上記の情報だけでかなり無様だと思うのですが、「好き」だとか「愛してる」といった類の言葉はもらったことがありません。私はこれを昭和の男だからだと解釈していましたが、愛してくれない・大事にしてくれない相手にここまで自分を開け渡してるのってよくよく考えなくても本当に馬鹿ですね。
私は大のアイドル好きで(どのタイプのアイドルかは伏せておきます)ファンになってからというもの地元に来てくれたイベントには必ず行っていたし、遠征も何度もしたしかなり全通とは行かないものの結構全通に近い感じでアイドルの現場に行っていた。
今回、私の大好きなアイドルが初めて単独でコンサートをするという……そのコンサートに行けなかった。
初めてな分、メンバーたちの気合いも入っていたのが事前のSNS更新から伝わってきていたし、私の推しも本当にワクワクしてたのが伝わってきた。
どうして行けなかったかというと、どうしても休みが取れなかった。何をどうしても取れなかった。(細かく言うと身バレするので伏せておく)お金はあった。モチベーションは最大限にあった。なのに行けなかった。本当に辛い。
辛すぎて、毎日泣いたし鬱である。コンサートの様子はTwitterを通してレポが毎日のように上がっているが辛すぎて最近はTwitterも開いていない。
ここまではいい。行けない現場はそりゃ辛い。ここまではいいのである。
私の知り合いたちがみんな行ってたのである。これが本当に辛い。羨ましくて仕方ない。嫉妬すらする。仲のいい知り合いが幸せそうなのを見て、ああ本当にいいなでとまっていれば良いのだけど、それで収まらず酷い感情すら浮かぶ。私の悪い癖で、羨ましい人を見た時にその人に素直に感心するのではなく下に見る癖がある。どうせ次は行けないんだ、私の方がトータルでは現場に行ってるじゃないか、など見下している自分がいる。自分最近、休みが取れないところからもわかるように忙しいので余裕がないのもある。常に何かに追われていて、仕事もうまくできている自信がない。コンサートに行けないくせに仕事もうまくできていない。どちらもうまくいっていない自分に腹が立つし、幸せそうな人たちのツイートや投稿を見ると心がずんと重くなる。そしてその人たちを遠ざけようとする。こんな自分が非常に嫌なのである。
わかっている。一回ぐらいどうしても行けない現場なんてあるし、別に行かなかったからオタク失格とかそういうことでもないし、行ったからえらいとかそういうことでもない。分かっているのだけど、行けなくて本当に辛くて毎日落ち込んでいる。推しが歌って踊ってるところを直接見れなかったことが本当に悲しい。見たかった。本当に見たかった。現場に行きたかった。楽しくて幸せな思い出を作りたかった。推しが楽しみにしていたように、推しにとってコンサートが幸せな思い出になったように、私もそのコンサートを幸せな思い出にしたかった。
こんな精神状態だから殴り書きでまとまりもない文章で申し訳ない。誰か私を救ってください。
※書いてて思ったんですけど、現場行った後、私もツイートとかするタイプで、その時に現場行ったよー!幸せー!っていう単純な気持ちだけじゃなくて私すごいでしょみたいな気持ちあったよな〜って。すごいオタク(?)として認められたいみたいな気持ちってあるよねって。承認欲求のために推しの現場使ってたんか……とちょっと落ち込みました。自分がどの現場にも行くオタクであって、他のオタクよりも優位に立ってたかった気持ちはあるんですよね正直。別に現場に行く=えらいではないんですよ。それを頭では理解してるんですけど本気で納得はしてないことに気づきました。他人と比べる癖とか強い承認欲求、劣等感から解放されたいですね。あとシンプルに行けなかった現場ほどよく見えるというか、ほんとにその日世界で一番カッコよく輝いてた推しを見れなかったのほんとに……推しに人生振り回されすぎですよね…とか思いつつ。次の機会があるまで耐えるしかないのは分かってはいます。分かっては。
小学校高学年からいわゆる少女コミックの性的に進んでいる作品を隠れて読んでいたが、「精子と卵子が出会って子供になる」前に何が起こるのか、まったくわかっていなかった。
いつか好きな人と服を脱いで抱き合う日が来るんだろうな、と、ドキドキワクワクしていた。キスと舌を入れるキスとベッドシーン(服を脱いで布団の中で抱き合う)。これが全部だと思っていた。
やっと意味がわかったのは、男性向けの18禁エロ漫画をうっかり読んでしまった中学生のときだ。
「射精ってそういう……! 精子がなんで卵子に出会えるってそういう……!」
という「気づき」をいっぱい得てしまった瞬間のことはいまでも忘れ難い。
みんな最終的にそういう仕組みって何で知るんだろうな。
今日は集中力が散漫で、動画を見たり、読書をしたり、ぼーっとしたりを繰り返していた。
この文章を書いている今も、遠くの空に走る稲妻に気を取られている。
だけれど、ふと感覚的に掴めたことがあるので備忘録として書き留めておきたい。
それは、小さなことでも「できたこと」を認識することで少し気持ちが前向きになるということである。
・散歩に行くことができた
・洗濯物を干せた
・読みかけの本の一節を読めた
振り返れば、これまでの自分はできなかったことばかりに目を向けていた。
けれど、それと同じくらいできたことに目を向けることも大事だと思った。
明日も「〇〇はできなかったけど、〇〇はできたな」の一日にしたい。
むろんむろん!
そこは自分に照らしてもそう思う
>昔の付き合いで2万弱使ったのは彼氏が普段から知り合い・友達に対してそんなにお金かけることがないから本人としてもお金かけた感じがしてそう言ってきてるんだろうね。
それもお察しの通りで、そもそもこの人以外にお金まで支出する友達はいないっぽい
>プレゼントの値段、気になるなら次から彼氏がくれるプレゼントの金額規模に合わせたものをプレゼントすればいいと思う。
クリスマス→相手の誕生日で金額規模にあわせるをやったつもりが…うう。高低差で耳が…。
大人のプレゼントとしてはあまりに少額すぎて今回の金額に合わせるのは抵抗があるのですが…と書いていて、私のこの感覚も今回もやもやしてしまった原因のひとつだと気づきました。
>金額よりも相手が好きなものをあげたいって気持ちが大きい彼氏みたいだし、あなたも彼氏の好きそうandハンカチと同じくらいの価格のプレゼントしてみては?
これ、好きだと思って…!ってコメントを添えて
>めちゃくちゃポジティブなご意見でありがたいです。さっき書いたような自分の謎の固定観念による抵抗感を捨て、これからはこのノリで行けるよう精神統一するところからはじめます。
トラバしてくださってありがとうございます
ある日、弱者男性の増田はマックに立ち寄り、唐揚げと水を注文しました。
その時、カウンターの隅でプリクラの自動撮影機を見つけ、ふと気になって操作してみました。
すると、近くにいた派遣のおっさんが気づき、「面白そうなものを見つけたな!」と大声で笑いました。
増田は恥ずかしさから言い返すこともできず、ただ水を一口飲みました。
しばらくして、増田はカヌレを食べたくなり、スタバに足を運びました。
しかし、入店するとスタバの店内は造花だらけで、増田は不思議な気持ちに包まれました。
その時、増田は地面に100円を拾いました。
少し嬉しくなりながらも、彼はお金では心の安らぎは得られないことを思い出しました。
増田は唐揚げのパックを開け、一つずつ食べながら、水だけで満足していることに気づきました。
「若い頃は子持ちの人の話はつまんないと思っていた」
「それは「話題が子供の事しかないから」じゃなくて、「今を心から楽しんでる若い子達の話に水を差す」から」
「そうすると、聞いてるこっちは“呑気に遊んでてすみません”という気持ちになる」
「どう話題を広げても、子供いない人には分からない、となってしまう」
「さらに”今のうちに楽しいことしておきな〜”等と続けてくる」
という内容のものだった。
(@komugi_baby77様 記事URL https://twitter.com/komugi_baby77/status/1673683552716865537?s=46)
……分かる。
めっっっっちゃ分かるし、
超超超超気をつけたいと思った。
子持ちの会話つまらない、と感じたことがある人、まじで結構多いんじゃなかろうか。
私もそうだった。
つい先々月まで子なしだった身として、心からハッとさせられる内容だった。
まじでこのツイートを読めてよかった。
子育てって大変そう……という概念を日々こういうところから蓄積させられて、子供いない方がいいとなってる人、じつは多いんじゃなかろうか。
聞いてもないのに、子育てがいかに大変で生活を制限されるものかを語られても、そりゃ会話が広がるわけないのよな。本当にそう。
この問題って、年々子供を持たない選択をする人が増えてることにもどこかで結びついてるんじゃないかと思った。
ちょっと前に、「経済的には満たされてるけど子供を産もうとは思えない」という赤裸々な匿名記事を読んだ。
自分の時間を取られるし、ママ(パパ)になった人たちは、なんかとにかく大変そうだし。自由がなくなるのがとにかく嫌。お金も時間も自分に使いたい。
この記事についても、分かる、と思った。
独身の頃。友達がママになると、あー、”そっち側”に行っちゃったのね〜となんか寂しくなった。
“そっち側”って遠い国のように表現したのは、
本当に体験しないと分からない世界だってことを、分かってるから。
自由じゃない世界に行っちゃってかわいそう〜〜まであったかもしれない。
いやそれは言い過ぎか。でも近い感情はあった。
しかし。
いざ結婚して30歳近くになると、私にも子供が欲しいと思う時期が突然やってきた。
自分の人生に20年後も30年後もそんなに興味持てる自信がないな、という理由で。
子供の人生に勝手ながら途中まで参加させてもらうことで、子に起きた出来事を、本当に自分のことのように悩んだり喜んだり悲しんだりしたいと思った。
自分にとって大切な映画に、主人公が『人生は他者だ』と気づくシーンがある。
夫とは親友みたいに仲良しだし、
多趣味でやりたいことは常にあった。
それでも“そっち側”(自由じゃなさそうな世界)に行ってみたいと思ったのは、『人生は他者だ』ということを噛み締めたかったから。
で、いざ親になってみて。
今まで聞いてきた「子育て大変よ〜」という話はまあ、本当だった。
自分を優先することがなくなるし、
1日の予定なんて立てたって思い通りにならない。
目を離したら死ぬかもしれないか弱い生き物と過ごすことは、仕事で感じる責任とは全く違うものだった。
そういった毎日の中で、若い人に「今だけできる経験を大事にして欲しい」っていうお節介心でなんか言いたくなってしまう。
そうすると、「わあ大変そうですね〜〜〜」って感じで、余計に子育ての世界は分断されてしまう。
まじで不毛すぎる。よくない。
あと多分ちょっと子育て側が話盛ってる。そこまで余裕なくない。わりと今まで通りにいける部分もある。(※個人の感想)
その2つが出産してすぐにわりとバズっていて、どちらも分かる〜〜となったけど、あの時とくに答えは出なかった。共感で終わった。
でも、「子持ちの人の話つまらない」という投稿を読んで、初めて全部が腑に落ちた。
日常の中で子育て側が、非子育て側に、軽い冗談でも“楽しい今”に水を刺してはいけないということ。
小さいことを意識するだけで、分断は少しずつ無くしていけるのではないかと思った。
そもそも、「子供いない人で人様の子供の話に興味ある人なんてほとんどいない」ってことを胸に刻み、
相手から聞かれるまでは子供の話題出さないっていう配慮、結構大事だと思う。相手との仲良し度によるけれど。
そうした上で、子を持つ持たないの自由が広がっていくといい。
私は、友人や後輩の思いつき弾丸旅行の話とか、朝まで飲んでやらかした話とか、推し活に全て捧げてる話とか、ダメンズと別れられない話とか、いつまでも聞きたいから、そういうことを気軽に話してもらえる子持ちババアになりたい。
そのために、
子持ちの会話つまらない、と思っていた過去の自分を、今後の人生も心のどっかに住まわせておきたいと思う。
終わり
最後に。
トラベリングセールスマンであるデイヴィッド・マン(デニス・ウィーバー)は商談のため車でカリフォルニアへ向かう途中、荒野のハイウェイで低速走行する1台の大型トレーラー型タンクローリーを追い越す。しかし追い越した直後より、今度はトレーラーがマンの車を追いかけ回してくるようになる。
幾度となく振り切ったように見せかけては突如姿を現し、トレーラーは列車が通過中の踏切にマンの車を押し込もうとしたり、警察に通報するマンを電話ボックスごと跳ね飛ばそうとするなど、次第に殺意をあらわにしながら執拗に後を追ってくる。マンは大型車の不利な峠道へと逃げ込むが、出がけに立ち寄ったガソリンスタンドでラジエーターホースの劣化を指摘されており、車は峠道の上り坂でオーバーヒートを起こしスピードダウンしてしまう。なんとか峠の上にたどり着いたマンだったが、運転を誤り車を岩場に衝突させてしまう。車はしばらく動かなくなってしまうが、上り坂で再びエンジンを掛けて走る。
逃げ切ることが難しいと悟ったマンはトレーラーとの決闘を決意し、峠の途中の崖へと続く丘にトレーラーを誘い込む。車をUターンさせてトレーラーに向かって走り、正面衝突する直前に飛び降りるが、衝突の炎と煙で視界を奪われたトレーラーの運転手はマンが車ごと突っ込んできたものと思い込み、そのまま崖に向かって走り続ける。崖に気づき、慌てて急ブレーキを掛けるものの、クラクションを鳴らしながら、マンの車もろとも崖下へと転落。辺りには2台の車が落下しながら捻じれ軋む音が咆哮のように響く。マンは崖から2台の残骸を見つめながら決闘から生還した事を1人喜ぶも、その表情はすぐに晴れやかさを失い呆然と佇む。