はてなキーワード: 学級崩壊とは
中学生の頃さぁ、いろんなクラスが学級崩壊しとって、とある新人の若い女の先生がいじめられて休みがちになっとったんよ。
家庭の事情で不登校気味やったわいはその事情をあまり知らんで、たまたま先生と廊下ですれ違ったとき、オモムロに「先生の車かっこいいなぁ!」って言ってしまったんよ。
先生は当時セリカ(5代目やったかな)乗ってて実際かっこよかったんよ。
なんでか知らんけど、すれ違ったとき咄嗟にそのこと伝えてしまったんよ。
先生はよく知らない奴に話しかけられたことにビックリしたのか、今終えば、イヤなこと言われると思って身構えたのか一瞬ビクッとしてたけど、すぐに少しニコッと笑って「ほんとー?」と返してくれたんよ。
先生と交わした会話はそれだけなんよ。
その1ヶ月後くらいに、とうとう先生は学校にぜんぜん来られなくなって、やめてしまったんよ。
噂では鬱病だとかで、学校に来ると吐いたり倒れたりしてしまうらしい。
それから1年くらいたって、わいが高校に入学するとき、わい宛に手紙が届いたんよ。
差出人はあの先生だったんよ。
きれいな字で、便箋3枚くらいに、あのときわいに声をかけられてどれだけ嬉しかったか、どれだけ励みになったか書いてたんよ。
わいは正直、えっ?たったあの1言だけで?あんなどーでもいい内容で?と不思議やったし戸惑ったんよ。
だから返事の手紙も、お世話になりましたとか高校がんばりますとか、そんなぼんやりした内容しか書けなかったんよ。
そのあとも年賀状くらいはやりとりしてたけど、だんだんとぎれとぎれになって、今はなにもやり取りがなくなった。
あのとき、どんな返事を書けば良かったんかなぁ。
いまでもわからんわ。
街中でかっこいいクルマ見かけて思い出したんよ。
大学に入って、教師になるために子供と関わろうと思って塾でバイトを始めた。私が入った塾は、初めは個別担当で、半年から一年経ったら集団も持つという方針だった。
宿題やってきた?この問題といてみて、すべてのわたしの発言に全く反応せず、80分間ずっと座っていてどうしようもなかった。休憩中同じ学校の友達とははなしてたので喋れないというわけではなかったんだろうけど…
親友と席替えで離れてしまった腹いせに、担任の授業のことは意図して授業崩壊を起こしていることを楽しそうに毎回話してた。離れた親友と大声で話しているらしい。やんわりと注意すると、「なにが悪いの?席をはなしたあいつ(担任呼び捨て)が悪いんじゃん」と言い放つ。
英語だと英単語、国語は漢字の宿題があり、毎回授業始めに覚えているかテストがある。それにめっちゃキレられた。モンペいわく、単語は塾で覚えさせてこいだそうだ。80分の授業にそこそこのお金払ってるけど全部単語覚えるために消費してええんか?この時は初めてすごく怒鳴られて心が折れた。
(基本電話対応、保護者対応は社員がやって学生はやらないのだが、この日は生徒の授業に合わせて乗り込んできたのでどうしようもなかった)
勉強の仕方はいろいろある。私にも私なりのやり方があるし、生徒にもあって然るべきだ。ただ、自分のやり方を確立できてるのなんて、都立上位校を狙う生徒くらいで、そういう子に限って自分のやり方に拘らず貪欲に私にやり方を聞いて実践してきたりする。親御さんたちも穏やかで、連絡票も普通だった。
問題なのは勉強ができない子とその親。できないくせに文句だけはすごい。偏差値が上がらないことをすごく言ってくる。多分、親も勉強は反復練習ということを知らない。習った日はできるのは当たり前で、それをどれだけ持続させ定着させられるかはが重要なのだが、できない子の親は週に一回80分通うだけでできると思ってる。単元を定着させるまで扱えば他の単元が進まないし、基本定着という作業は自己作業なの理解してほしかった。
一対一の個別授業なのに、授業始まって5分で突っ伏して寝る。毎週。起こしても起きない。じゃあ10分だけ寝て後は集中しようと言っても起きない。
どうすればよかったんだ。
I am play tennis. みたいな。
これに関してはわたしの実力不足もあるが、「正解の文を書けなくてもいいから、be動詞と一般動詞を同じ文に入れるのだけはやめよう」ということを一年経っても定着させてあげることができなかった。
5分が限界だった。
勉強の面白さを教師と生徒で共有でき、生徒に授業崩壊やいじめを起こさないモラルがあり、学生として過ごしてた間モンペの噂は聞かない環境で6年を過ごしてきたわたしは、教師というものを誤解していた。
もちろん、お金を払って授業を受けている子に対し、教育をしていくのは私の仕事だった。でも、無理なものは無理だったのだ。
例えば、授業中全く反応しない生徒にはどうすればよかっただろうか?怒る?親に相談する?反応がなくても教え続ける?心に傷があるのかもと推測して反応がなくてもなにか話しかけ続ける?1週間80分の関係でなにができたのだろう。
この子がクラス40人の中にいたら、1週間に80分もその子に時間をとることはできないだろう。そしてそれが問題になった時に教師は責められる。
元担任の先生に教師を目指すのをやめたことを告白したとき、あなたたちの担任をしてた時は楽しかったけど、若い時はいじめ問題や学級崩壊に悩んで髪の毛がすごく抜けて休職したことがあると聞いた。あんなにパワフルで素敵な先生ですらこんなになるなんて絶対わたしには向いていない職業だったのだ。
教職の授業で、学校のテーマパーク化みたいな文章を読んだことがある。内容はそのまま、学校はテーマパークと化し、親たちは何でもかんでも要求するというものだった。
途中で気づいて諦めてよかった。
家が貧乏だったので私立に行く選択肢はありませんでした。公立の高校を卒業してそのまま就職しずっと働いています。
真面目が取り柄で勉強もまあまあ出来た方でした。喫煙も飲酒も万引きもいじめも器物損壊もやりませんでした。
私が知る限りでは、校内暴力や学級崩壊や生徒の妊娠や警察沙汰といった大きな問題は、少なくとも私の在学中には起きていない学校でした。
家の裕福さ成績を鼻にかけて人を中傷する傲慢で陰湿な男子はいました。人を揶揄って相手の反応を楽しむ頭の悪い男子もいました。人に醜悪なあだ名をつけて悪びれもせずそれを呼ぶろくでもない女子の集団もいました。
そうした人間を動物と呼ぶなら私の通う中学は動物園だったのでしょう。
しかし私はそうした人間が私立にいないとはどうしても思えないのです。
私は私立校に通った事がないので本当の事はわかりませんが。
幸い本人が私立に通いたいと言えば何とか行かせられる程度の家計に恵まれています。
もし子供が学問に適性があって、もし本人に通いたい学校があるなら私立も選択肢に入るかも知れない、程度の事しか言えません。
本人に意欲や適性がなければ受験をせず公立の中学へ通う事になると思います。
親御さんや先生方の日頃のご尽力のおかげか、幸い大きな問題も起こる事なく、子供は毎日楽しそうに過ごしています。
以前は何人か危うい素振りのお友達も見受けられましたが、成長につれ落ち着いてそうした事もほとんどなくなりました。
私の目から見てそう見えるだけかもしれませんが、少なくとも私から見て「この子さえいなければ」と思わせる子は誰もいません。
それがいつから、裕福で賢い人達が眉をひそめ、排除して見えなかった事にしたい鼻つまみ者に変わってしまうのでしょう。
確率的にこの子達の半分以上は公立の中学へ行くはずなのですが。
「あなたにもあなたのお子さんにもお子さんのお友達にも悪口は言ってない、私の通った学校は間違いなく動物園だったのだ」とあなたがたは言うでしょう。
「自分が経験した事実を述べただけで差別じゃない」と言うでしょう。
それでも私は傷つきました。
私の過ごした場所、これから子供が行くかも知れない場所を、犯罪と無法の蔓延る動物園だと決めつけられて大変不快でした。
差別でないと言うならそれでも構わないので私に謝ってください。
その動物園で真面目な中学校生活を過ごして来た私と私の同級生たちに謝ってください。
いずれ動物園に通うかも知れない私の子や子供のお友達に謝ってください。
私の子がいじめる側に回るにせよ、いじめられる側に回るにせよ、特に何も起こらず起こさず過ごすにせよ、あなた方はそれを自己責任と呼びました。金と教育を子供に与えなかった自己責任だと。
そういう人間の子供が、親からそうした考えを教えられて育った子供が、私立に行って本当にいじめを起こさずにいられるのですか。
12/13追加
投稿から一晩たって想像以上の反応があったので追記を書いた。ブコメやリプライを読んだ上での俺の追加見解である。
https://anond.hatelabo.jp/20201213092307
以前は単に学校の選択肢が豊富な都市民のナチュラル見下し vs 学校の選択肢がない地方民の怨恨と言った構図だったのが、ここにきて公立中学校を『動物園』と揶揄するのは差別だという視点が持ち込まれて収集がつかなくなってきている。
この流れに便乗して、3万人クラスの日本海側の田舎町に生まれて、『動物園』状態(校内暴力、喫煙、窓ガラス等の器物破損、ストーブや理科の実験でのいたずらによるボヤ騒ぎ、教師いじめで学級崩壊レベル)の公立中学校の実態を経験して、地元の公立高校進学コースを経て、地元エリアの政令指定都市の国立大学を卒業して、今は東京区部に住んで外資系で働いている俺の見解を投下したい。
こんな経歴なので地元の公立を出てそのまま田舎に留まった友人もいれば、銀の匙をくわえて生まれてきたような奴も友人にいたりするので、両方の環境を知っている立場ではある。
前置きが長くなったが、この問題に対する俺の見解は動物園問題はゾーニングの問題だと言うことなのだ。
今回の話題は差別感情に結び付けられて炎上しているけれども、はじめに前提として認識しておかなければならないのは世の中には出自に限らず暴力的な奴、反社会的な行動を好むやつが一定数いるということである。昨今の上級国民と揶揄される方々の傍若無人な振る舞いや、マナーの悪い走行をする高級車の存在などを見れば一目瞭然である。逆にいかにも田舎の不良ヤンキーと言った感じの輩が改造マフラーのバイクで暴走行為をしているのもよく見る風景ではある。
で、我々の周りにはガラの悪い人たちが一定数いるのが前提で、我々は意識的、無意識にそういう環境に近寄らないことで危険を避けながら暮らしている。スリルを味わいたい人以外、ヤンチャな上級国民御用達の六本木の怪しいバーには近づかないし、西成区のドヤ街を無意味に歩き回ったりもしない。学校選びでも、当然のように同じような判断基準を適用しているだけなのだ。
ここで、『動物園』と揶揄されるのがもっぱら中学校であることに注意していただきたい。近所の子供で構成される公立小学校でガラの悪いエリアを避けるためには家の立地を気にするし、公立高校は学力に応じた選択肢があって入試で足切りもするので、そもそも問題になりにくいのである。だが、公立中学校はそうではない。
私の地元の話になるが、3万人の町に公立小学校は10校程度で公立中学が3校、公立高校が1校であった。ちなみに私立進学校というものは一つも存在しない。なのである程度教育に関心のある家族は、住むエリアを選択するときに公立小学校の校区を意識して選んでいた。だが、公立中学校は3校どれを選んでも一定数のガラの悪い生徒が混ざることを避けられない状況だった。
そんな環境でも、公立小学校の校区を気にするような家庭は大抵教育熱心なので、公立中学校で酷い目にあったとしても、高校で挽回し都会の大学に入学することが一般的である。そこで初めて地方の『動物園』出身者は中高一貫の私立校出身者と出会い、その恵まれた環境に驚愕し、嫉妬する。公立中学校の『動物園』問題はこういう構図で生まれているのだ。
ではどうすればこの問題を解決できるのだろうか。答えは一つ、ゾーニングしかないのだ。中学校入学時点で問題行動を取るような生徒はせいぜい10人程度なので、その人たちだけ少人数制の特別クラスにぶち込んで隔離するしかないだろう。そんな事をすれば人権問題になるかもしれないが、そもそも彼らは国民の学ぶ権利の敵なのだ。ある程度強権的ではあるが、都市と地方の教育リソースの差は簡単には埋められないので、現状こうでもしなければ私立進学校の選択肢のない地方民は安定した中学校生活を過ごせないのではないかと思う。
なんか(都会の)公立中の話が「偽善リベラルの欺瞞を暴く」みたいな空中戦になってるけど意味不明すぎる。
そもそも公立中に対して批判的なこと言ってる人間=ポリコレ棒振り回すリベラル系人間って構図自体レッテル貼りも甚だしい。
なかにはその2つの属性が一致しているやつもいるかも知れないが、基本的にそれらは別々の人間の発言でありダブスタもクソもない。
あと、低学力・低学歴層に対する差別意識だとか、そういう類の話かこれ?
「公立中はクソ、動物園」って発言があったとして「クソ」な理由は、「勉強が出来ないやつが多いから」じゃないだろ。
ろくに法の及ばない学校のなかで酷い学級崩壊が起こったり、堂々と犯罪行為が行われているような状況の告発として、そういった表現が出ているわけだよね?
もっと言うならそれらの行為者である生徒に対する批判ですらなく、そういう状況を許している「場」「システム」を批判しているわけだ。
(あるいはその状況をコントロールできず放置や、ましてや隠蔽したりして、いっこうにシステムを改善しない教委や教師といった大人たちを批判しているわけ)
これのどこが学歴差別なのか理解に苦しむ。そもそも学歴とか全然関係ない。
やれ反差別の覚悟がない、だの、n=1だの、やれ「お前は差別者だ」だとか糾弾調でよく言えたもんだなと思う。
そもそも犯罪の告発であって、反差別とかリベラルとか1ミリも関係ないからね。叩き側が勝手に結びつけてるだけで。
「ムカつくポリコレリベラルの矛盾を叩いてスカッとしたろ」ポルノのネタとして消費してるだけ。
差別ってのはマジョリティや強者が、マイノリティや弱者に向けるものだと思うが、ここでいう弱者は一体誰なんでしょうかね…?
自分の場合は両親も自分も小学6年生の8月か9月ぐらいまではそんな世界があるとすら知らなくて
元はというと小学校の成績表がどんどん落ちてったんでヤバイと親があわてて適当な塾に放り込んだらそこが進学塾だったという
それで妙に試験結果が良くなっちゃって3カ月ぐらいで一番下のコースから進学コースに上がっちゃって
いつの間にか中学受験することになって気が付いたら合格してしまって
たまたま親が進学に金出せるぐらいは稼いでくれてたのが生まれた環境の違いといえば環境の違いなんだろうけど
なお大学受験で浪人するまで勉強したことなかったので勉強の方法身に付かなかった
親も勉強したことなくて一夜漬けだけでだいたいどうにかなったと言って勉強のやりかたなんて教えてくれなかった
そんなんでも偏差値60ぐらいの学校は受かったし勉強なんてそんなもんだと思った
今となっては後悔してます
さておき中学で私立に行った結果、地元のヤバイとこで有名な中学校には行かないで済んだことになった
もともと通ってた小学校の段階で学級崩壊で先生が管理放棄してたんでその進学先は推して知るべきなんだけども
その行くはずだった中学で教師が生徒に虐められて失踪したと新聞記事になったのを見たのが中学2年か3年のとき
結果的に親は中学受験は子の危機回避に使えると学習し、自分の下の二人は私立中学進学前提になった
進学先でイジメ行為がなかったかというと実はあったんだけども、自分の場合はマイルドな程度に収まったと思う
(殴る蹴るはなく、筆箱に弁当の中身を入れられるとかそういうぐらい。小学校だとイジリと直接暴力とカツアゲだった)
そんな感じなので中学受験イコール学歴というイメージが全然なくて済まん
(外国語は知らんが)人間を動物に喩える慣用句、言い回しが今の日本語にどれだけあると思ってるんだ。
過去に自分のクラスで学級崩壊が起きた状況、各々が好き勝手に声を上げて騒いでいるのを「まるで動物園のようだ」と表現しただけで槍玉に挙げられるようなことか?
別にネガティブ/ポジティブ問わず動物を例に挙げて人を表現する機会なんていくらでもあるだろう。
「公立(や公立にしか入れない連中は)はどこも動物園だよ」みたいに対象を広げて言ったならそれは問題にもなるだろうが、自分の経験した1サンプルについて「動物園だった」って表現したのを寄ってたかって袋叩きにする道理が正直分かんないわ。
俺は街中で集団が騒いでるのを見かけたら、多分それが貧困層だろうが富裕層だろうが頭が良かろうが悪かろうが「動物園みたいだな」って感想を抱くと思うし、それが差別的だとは思わない。
ああいうのって騒いでる人の方が対象に差別的な印象を潜在的に持ってて、それが今回の喩えに刺激されたから過剰に反応してるんじゃないか、って考えてしまうよ。
実家が太いので親はしっかり学業に投資をしてくれたが、馬鹿で勉強する気がサラサラ無く親の期待に答える気も皆無で反抗的というフルコンボで
当然結果がでないまま偏差値40ぐらいの滑り止めの中学校(大学までエスカレーター)に入った
そこは同じように、実家が太いどうしようもないクズ系ボンボンの集まりでそれはもう酷いものでした
当然のように学級崩壊していてまともに授業が行われるわけもなく
ごく一部のまっとうな人はやばいと気付いて高校で別の学校に抜け出したので、高校ではより純度が高まりとてもカオスだった
ちなみにそんな環境なので付属の大学には行ったのは20%ぐらいで、それ以外は高卒で就職したりひきこもりになっていた
自分は付属大学に行った人間なのだが、そこで外部の人間としっかり接して自分が馬鹿だと知った
(試験では上位10名とかに入るので頭がいいと勘違いしていた)
25% : 会社員
ぐらいな感じになっている
※追記
大事なの書き忘れた
起業したり、まっとうに昇進したりしてなってる
なんでなのかはよくわからん
小学4年生から不登校だった。中学で学校行こうかと思ったけど、いじめられてやっぱりだめだった。
学校へ行かなくなった理由は、色々なことが重なった結果だと、今になって思う。
進学させたい親。夜遅くまでの塾。学級崩壊。当時仲が良くなかった親。思春期でイライラしてた姉。どれも、これが決め手だというきっかけではない。なので当時は「何かあるわけではないのに休むなんて自分はなんてダメなんだ」と思っていた。
高校は通信制。専門学校も1年もしないうちにやめてしまった。その後はニート。
高校でも専門でも、今までの分を取り戻さなくてはとずっと勉強を頑張った。でも頑張りすぎて過労で倒れて、自信を無くしてまたひきこもった。メンタルクリニックにも行ったけど、完全に元気にはなれなかった。
ニートして2年がすぎ、このままじゃダメだと思った21歳の冬。何かが新しく始まる時期の4月には私もバイトを始めようと思った。結局バイトの電話をかけるのが怖くて6月になった。
選んだのは家から徒歩10分以内のファストフード店。バイトの面接では緊張しすぎて手や声が震えた。でも合格した。
接客に配置された。声が震えて、緊張して、おつりを渡すときの文言がわからなくて、「あ、おつり…」のポンコツから始まった。
始めた当初、バイトに行く前は鏡の前で笑顔を作った。「いらっしゃいませ」ってひとりで言ってみた。「いらっしゃいませ」から「ありがとうございました」まで言葉、思いつく限りを書き出して、家で声に出してみたりもした。頭の中でシミュレーションしてみた。
1年くらいはポンコツだったけど、みんな優しくて続けられた。接客なんて1番自分に向いてないと思ってたけど、対人で人一倍敏感になってしまうからこそ、ちょっとした気遣いができるのだと気付き、意外に強みになった。楽しかった。そのうちバイトとして教える立場になった。
4年目くらいでバイトとして1番上のランクに上がった。時間帯責任者とかをやる立場。認めてもらえて嬉しかった。
自分に自信もなかったし、人と話すのはもちろん、人とすれ違うのも怖かった時期もあったけど今は人と話す仕事してる。
10歳以上年上の上司と知り合えて、その人とはじめて付き合えた。相手はおじさんだけど、優しくてとても嬉しい。
バイトだし、昔の自分が理想としてた自分とは違うけど、割と毎日楽しい。昔の自分を考えたら、割と頑張った。
今は体調管理ができず体崩したのでちょっとだけお休み中。でも、体が回復したらまた頑張るよ。
オチはないよ。ごめんね。
読んでくれて嬉しいよ。ありがとう。
コロナで人生が変わってしまった人は多いと思う。私も仕事の雰囲気が変わり始めている。
私は運がいいことに、やりたいこと興味のあることを比較的できる研究者を某旧帝大でやれる機会に恵まれている。専門は化学。だが、それも音をたてて変わり始めている。
もともと将来の仕事を何にしようと明確に描いたことはなかった。幼少期に育った地域は比較的英才教育とは程遠い地域であり、貧困家庭も多かった。友人の家に行くと昼間からおじさんがゲームをしていたり、パチンコや酒に明け暮れている、そんな地域である。小学校でありながらも学級崩壊に近いことが起きており、義務教育の内容をきっちりと終えることができなかったと記憶している。そんな状況を深く考えることはなく、私は周りの事象に対して疑問を持ち、調べるのが好きだった。なぜ水は雨として降ってきて、山を流れて、コンクリートの隙間から流れていくか。そんなことが気づいたときには不思議だったと思う。幸いにして先生にも恵まれた。疑問をもち、それを自分のペースで解決するのが好きであり、校庭のはじっこで疑問点などを書き出していたときに理科の若い先生が理科室に誘ってくれた。そこには違う世界があり、好きなだけ実験していいと言われてのめり込んだ。ガスバーナーをつけてよくわからない化合物を熱して色が変わる、気体がでる。一つ一つが楽しくてしょうがなかった。だが先生がある日突然学校に来なくなってしまい、程なくして全校集会が開かれた。持病の喘息でなくなったらしい。どうしたらいいのかよくわからないくらい、悲しかった。狭い実験室の僅かな道具から世界の広さをあれ程教えてくれた先生がこの世からいなくなってしまったのが悲しかった。学問は世界を広げてくれるというのを肌で教えてもらえたと実感している。
当時はショックだったが、中学校から親の転職の関係で引っ越し、比較的普通の地域に引っ越してしまった。小学校のときにはサワガニを追ったり、カエルを捕まえて、ビーダマンからでてくるビー玉の平均距離などをひたすら数える子供であったが、引っ越した地域では勉強熱心な地域であり、誰も放課後には遊んでいる子供はいなかった。塾に行くとのはなしだったが、恥ずかしながら塾という単語を知らなかった。動物を捕まえた数よりも試験の点数を重視する地域であり、ひどく狼狽したのを覚えている。小学校での経験があってか理科と数学が楽しくて仕方がなかったが、何故か閉塞感があった。あくまで中学高校でのお勉強というのは与えられた範囲でやる学びであり、そこに自由度は少なかった。結果的に勉強はできたのでとにかく自由を求めていた。高校には入ったが、倫理の先生と哲学の議論ばかりしていた。こう考えると私は先生に恵まれているのだが、先生に学びの自由を求められる場所はと聞いたときに日本には殆どないと言われてしまった。あ、そういえばといって、それがきっかけとなり京都にある大学に行くことになった。
大学は自由であった。毎年謎に作られる像やコスプレ卒業式で有名な大学であるが、学生の多様性がまったくもって違っていた。そこでも縛られるのが苦手な私は大学で授業に行けなかった。ただ、大学の図書館にはホコリを被っていながらもたまらなく刺激的な書籍が非常に多くあり、図書館に毎日通った。楽しくて楽しくて仕方がなかった。たぶんそれは小学生の時に一人で課題を設定して、問題解決をする。そういうプロセスであっただろう。数式、活字が踊っているようにすら感じた。一般教養の授業でもムラ社会を議論する授業や、紙飛行機を飛ばす授業など色々あり、不思議な授業であったと思う。ただ相変わらず大学の専門の授業は指定の教科書から逸脱していなく、面白くなかった。ある意味授業に関しては圧倒的に劣等生であったが、たまたま行った授業のときに言われた印象的な言葉がある。「結婚は何回でもできるが、研究室選びは一度しかできない。」人生のパートナーは何度でも選べるが、人生の専門となる研究室は一度しか選べないとのことだった。へそ曲がりな私は研究室で変わったことがやりたいと思い、研究室を巡ったが、どれもこれも古臭いホコリを被った図書館で聞いたことがあるような内容だった。日本の最高学府が学問として理解できてしまうということが非常に悲しかった。ただ、たまたま非常に尖った研究室があり、そこで私を拾ってもらえた。やはり私は先生に恵まれていた。研究室は今思えば世界的に有名で先駆的な研究室であり、そこで自由に研究を行う機会に恵まれた。朝から晩まで先輩後輩教員とディスカッションしながら、自由自在に研究をすることができる。研究費も潤沢であり、装置も多くあるために闇実験で自分の考えるすべての実験ができてしまった。卒論のテーマも自分でかってにテーマ設定をして卒論発表までさせてもらえた。今思えばあんなことに、というテーマであったが、当時は楽しくて仕方がなかった。卒論が終わった当日、テーマの変更を推奨された。初めて方向性を提示されたが、一言であった。ここには恩師の力があったと思う。結果的に与えられたテーマとは関係なく、M1で勝手に実験をして修士で論文を3本書いた。楽しくて仕方がなく、博士課程に進学した。博士では論文を12本書いた。ちょっとした自慢である。
博士の資格は名刺の角に書くことができる運転免許のようなものであるというのはよく言ったもので、単なる認定試験である。友人が大学のポジションの公募に出す中、私は自分の学問を切り開くのだと思い、博士研究員をすることに決めた。なんとなく海外は日本より風通しが良いだろうと思い、日本の研究費から支援をうけて、海外に2年間いけることになり、それまでに一切したことがない分野に飛び込んだ。将来学問を切り開くためには甘んじて先達のいる学問をすすめるよりも、開拓者であるべきという精神である。ただ現実は厳しかった。言った先の研究室では私は初めての外国人であり、装置の使い方、実験の仕方、単語すらわかっていなかった。学部生に単語の意味から教えてもらいながら、教科書を端から端まで読んで、理解した。論文は2年間で3000報くらい読んだ。めちゃくちゃ勉強し、1日の睡眠時間は3時間程度だった。結果的に分野での最高峰の論文誌に数報報告することができて、ライフワークが見つかったと思った。ただこの辺りから研究に対する見え方が変わってきたと思う。日本人会でいつも飲んだくれている友人がいた。大学では見たことがないが日本人の友人を探しているようだった。何が楽しくて研究をしに海外に来ているのかというふうに聞くと彼は出身研究室に戻るので1年間遊びに来ていると話していた。悪い冗談かと思っていたが、実際に彼は日本の出身研究室で職を得て戻っていった。不思議なものである。
当時の海外での受け入れ研究室の教員にぜひともこの国で残って研究をすすめるべきだと言われた。日本は講座制の影響もあり若い研究者が活躍しにくいということを聞きつけていてくれていたらしい。ただそのときに今まで私を支えてくれた恩師たちの姿が頭をよぎり、日本に恩返しをするべきではないかと思った。施されたら施し返すという精神である。日本に戻るためには公募の書類を出さないと行けないのだが、不思議と通らない。面接にすら呼ばれない。それまでに分析していなかった私が悪かったのだが、どうやら日本ではコネというのが幅を効かせているらしく、面接にすら呼ばれない。それとずっと付き合っていた婚約者との結婚もあり、フットワークの軽い私はならば日本に帰ろうと、日本に帰り、講演ツアーを行った。幸いにしてその一つが目に止まり、研究プロジェクトの一環で雇ってもらえた。そこでも好きに研究をしていいと言われ、論文を好きに書いた。楽しかった。研究だけしてたまに論文を書けばいいというのは至極楽しかった。ただ、学生と研究ができないのがとてつもなく寂しく、コネはなかったが、海外の訳のわからない研究室で研究をしているよりも経験をつんで日本で研究している私は魅力的に見えたのか、公募に通った。めぐり合わせというのは不思議なものである。
こうしてやっとただの研究者から大学教員になることができた。恒久的に研究ができるというのは非常に幸せであり、研究以外も楽しんだ。毎週の授業というのはライブである。そのへんのストリートミュージシャンよりも自分の一つ一つの発言を学生に聞いてもらえることができ、研究に対するスタンスなど伝えることもできる。学問というのは積み重ねの学問である。積み重ねがあるから新しさがわかる。ひとつひとつ丁寧に教えていき、学問の楽しさを伝えたが、やたらと聞かれるのは単位がとれるかかどうかであった。研究室でも熱意をもって新しい実験の仕方や、研究分野の掘り下げのための論文読み込みを学生と一緒に行った。ただ、学生から文句が出てそんなに頑張りたくないとも言われてしまった。悲しい。私はそんなに魅力がないのだろうか。大学教員というのは研究以外の思った以上の雑用があり、それに追われていた。ただ、そのたびに今まで知的教育を享受してき立場からそれを授与できる立場にならねばと思い、一所懸命に振る舞った。その結果ここでの学問結果をなんとかして論文にすることができた。これからすべてが軌道に乗る、そう思っていた。
そんな先のコロナである。実験を専門としている私は当然大学に来なければ研究をすすめることができない。だが、緊急事態宣言のあおりをくらい、研究室での研究活動はオンライン中心になり、さらに愛妻は妊娠中であったために下手な行動はできない。研究が中心であった私の生活は転換を余儀なくされた。学生と最新の実験成果を共有できない、授業はオンラインとなりzoomの先では、全く授業を聞いていない学生がいるかも知れないという状況で苦しかった。価値観も変わらざるを得ない矢先に子供が生まれた。福音であった。
学問というのは先んじてその場で役に立つものではないが積み重ねだと思っている。子供も同じで、毎日毎日状況が日進月歩である。首を動かすことがしんどそうだった子供が、今では自分の力で首を動かし、光の導く先を必死に見ようとしている。大学で学びをしている学生で一時的にやる気を失っている子もかつては私の子供と同様日々ひとつひとつできていくということが楽しかったのだろう。相変わらず大学での研究活動は制限されている。以前ほどの自由は担保されておらず、どうしても何かしらを管理する必要がある。その一つ一つの行為が私には苦しい。ニュートンはスペイン風邪のタイミングで新たな学問をみつけた。私にはそれほど頑張ることはできるかわからないが、研究を行い、学生に希望や考え方を論理的に教えるというのが現在の職での義務であろう。間違いなく私の研究生産性は下がったが、価値を下げず上げることが義務であると思い、日々努力している。
私が小学生時代を過ごした土地は、所謂ニュータウン。街がつくられる時にそのまま居着いたブルーカラーの家と、ベッドタウンとしていついたホワイトカラーの家が、住んでいる地域でわかるような土地柄だった。
とてもではないが治安がいいとは言えない街。小学生が放火をし、中学生が喫煙し、高校生がバイクで走り抜ける街だ。某児童売春斡旋組織事件発覚の発端となった小学生もうちの地元出身だった。
私の家は紛うことなきホワイトカラー一家だ。元ボンボン・サラリーマンの父と江戸っ子の母の間で、歳をとってから出来た一人娘として、それなりに大切に育てられた。世帯収入は高くも低くもなく、他に兄弟姉妹がいれば私立に行くのは許されなかっただろうレベルだ。しかし女子校に入れたいという父親たっての希望で、私の中学受験は私が園児の時に既に決められていたことだった。
そうは言っても、その受験計画は実にのんびりしたものだった。目的はあくまで「公立中学校に行かないこと」。小学校一年生から塾に行くような子もいる中で、私の中学受験は小学校四年生から始まった。それもSAPIXや日能研といった進学塾ではなく、まったりとした中堅の塾。10人に満たない同級生たちと、地元の中堅私立を目指す予定だった。
しかし、それでも学校の教員からの敵意からは逃れられなかった。
彼らは常にブルーカラーの子供たちの味方だった。ブルーカラーの子供たちはまさにギャングエイジといった風体で、私の学年は4年生になる頃にはすっかり学級崩壊に陥っていた。
そんな状況の中で、私のような「恵まれた家庭」の子供は、彼らを「根性論で更生させる」ための必要悪にするのに適していた。ホロコーストと一緒。共通の敵をつくることで、教員たちは彼らと連携をとろうとしていた。
まずは保護者会で、担任の教師が「私は中学受験と塾が嫌いです」と言い放つところからスタート。この言葉はあっという間に子供たちにも伝わった。小学生にとって、それがどんな不良小学生だったとしても、「先生の言葉は絶対」だ。「先生が悪いと言った」子は、いじめたっていいのだ。
休み時間に円周率の計算暗記表を見ていたら、担任にそれを取り上げられ、クラスメイトの前で激昂された。帰りの会で黒板の前に立たされ、「私は学校で塾の勉強をしました。本当にごめんなさい」と謝らせられた。それを皮切りに、ブルーカラーの子供たちからのいじめが始まった。
帰り道で待ち伏せされる。容姿についての罵倒や、時には両親への悪口もあった。ある時はマフラーで首を絞めあげられた。子供の力なので大事には至らなかったが、笑い声のなか、酸欠で頭がぼうっとしてきたことは覚えている。
「先生の言うことは絶対」。これは私にも有効だった。だから私は、自分は悪い小学生なのだと思い込んだ。
おうちが貧乏で、ちょっと不良みたいで、勉強は嫌いで、でも、中休みになったら一番最初に校庭に出てドッジボールを始める。そんな生徒が、「良い小学生」なのだ。クラスメイトたちが音楽室に立てこもって授業をボイコットしていた時、私は大人しく教室で待っていた。でも先生が好きなのは「仲間意識の強い」彼らなのだ。
悪い小学生なのだから、虐められて当然なのだ。そう思った私は、繰り返されるいじめを誰にも相談出来なかった。
また、これは本当は幸運と言えるのだが、殊にこの場合にのみ不運と言える、両親の誤算があった。私の成績だ。
私はどうやら「出来る子」に分類される子供だったらしい。入った中堅塾ではあっという間にトップに立ち、テストも満点以外とれなくなった。ここまで来ると両親にも欲が出てきたようで、私はバスで通える範囲に出来たS某超進学塾に通うようになった。そこでも女子ではトップの成績で、あれよあれよという間に御三家を目指すことになっていた。小学生にとっての成功体験は、その子の人格形成において重要だ。私は勉強するのが楽しかった。そもそも運動は嫌いで、中休みも図書館にいるような子供だった。かけっこしか見てくれない小学校の教員たちとは違って、塾の先生は私の「勉強の」成績を褒めてくれた。後は好循環だ。持って生まれたメンタルの弱さで、模試の前に嘔吐するようなこともあったが、私の中学受験は大方順調だった。
一方小学校生活は、ぼろぼろのメタメタだった。私の通塾先が変わったことがどこからか漏れ出て、「エリート意識を持った嫌な奴」の烙印を押された。低学年までは仲良くしていた子達も、私のことを大腸菌呼ばわりするようになった。
担任が、わかりやすく私に嫌がらせをするようになったせいだった。授業中に指されて答えても、「どうせ塾でやったんでしょうね」。覚えもないいじめ事件の首謀者にも仕立て上げられた。
だんだんと体調にも影響が出るようになっていた。学校に行く前に必ず吐いた。食道は焼けただれ、小学校5年生の冬には胃薬が手放せない体になっていた。
真面目な気質のせいで、私はそれでも学校に行くのをやめられなかった。親も流石に勘付き、担任に嘆願書を出した。しかしそれも虚しく、担任は私にその嘆願書を叩きつけ、「どうしてあたしがいじめなんて言われなきゃいけないんだよ!!」と私を怒鳴りつけた。
別の小学校に越境入学しようと思ったこともあった。別の中学受験をする同級生が、そそくさと学校を変えてしまったからだ。実際両親はその準備もしていた。しかし、自分の学校に問題があることが外部に晒されることを恐れてか、校長はそれに難色を示し、「○○ちゃんだって仲良しと離れたくないでしょ」と、結局その小学校から離れることは叶わなかった。
私の小学校時代は闇だ。小学生5年生の学芸会の劇で、悪役の親分のオーディションに受かったら、自分の母親と隣のクラスの教員が寝ていると噂されたこともある。最高学年になる頃には、私は両親と塾の教師以外の大人を信じられなくなっていた。
話は飛んで、中学受験の結果から言うと、私は第一志望には落ち、第二志望の女子校に通うことになった。そこは天国だった。私が休み時間に勉強していても、誰も怒らないし、誰も馬鹿にしなかった。正直それだけで救われたし、良き友人にも多く恵まれた。そして高校生活を経て、今私は東京大学に通っている。
もし父親に先見の明がなかったか、私が過度のストレスで受験全滅していたことを考えると、今でも寒気がする。
数年前の東大の入学式の祝辞は、ノブレス・オブリージュについての話だった。私も上野先生の意見に大方は同意する。しかし私は、もし「恵まれた人間」として支えなければいけないのが「あいつら」なのだとしたら、それは吐き気を催す話だと思う。
エリートが冷たいなんていうのは嘘だ。いや、もしかしたら真実な場合もあるかもしれない。でも、そんな言説よりずっと、「学のない連中は残酷で野卑だ」という言説が本当だと言うことを、私は知っている。
子供の頃、あんまり倫理観の良くない街に住んでいた。胸糞悪いことがたくさん起こって、人生に決定的な影響を受けたので、成人して数年経つ今でも話題にしてしまう。付けられた生傷をいいかげん古傷にしたくて話す。あの街を忘れたくないけど、肉が見えたままでは動けないので。
でも、話せることと話せないことがある。
学級崩壊や軽いいじめは話せる。似たようなことは相手も経験してる場合が多いから。常識レベルの差とか、応援団に女子が入れなかったとかもギリ話せる。いじめに軽いとかないという気持ちもあるのだが、犯罪に対する軽い重いと同じ意味だと思って欲しい。なお私もいじめられたことがある。
障害者の子に対する酷すぎるいじめ、中学生の頃友達が同じ中学生の彼氏に別れたいと言ったら物理的暴力を受けたこと、性被害に遭って警察沙汰になり、逮捕された人が私の家から徒歩10秒のところに住んでいて、私の親友に小さい頃からよくしてくれた人であったこと。主にこの3つが、聞かせた人に負担になってしまうから話せない。インターネットも誰が見るか分からないからこれ以上詳しいことが書けない。
特に最後の性被害は、ここに書けないし皆さんも想像できないだろうことが理由で10年以上経つ今でも血を垂れ流している状態で、どうにかして傷を乾かしたいのだが、絶対顔見知りには話せない。話せる相手がいれば話せるくらいにはなったのだが。
どこか、友人や恋人関係ではない人間に、対面で、相手に同意を得て、こういうことを話せる場所はないですか。できれば口外しない人がいい。金は払う。精神科のカウンセリングとか行けばいいんでしょうか?